はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

臥龍的陣 花の章 その34 その死の向こう側に

2022年08月02日 09時36分48秒 | 英華伝 臥龍的陣 花の章
となりにいる趙雲が、斐仁を痛めつけようとしたのか、一歩前に進んできたが、斐仁はそれを先制するように、今度は趙雲に言った。
「大将、あんたも澄ました顔をしているが、あんたもおれと似たようなものさ」
「どういう意味だ」
「自分で考えろ。よーく考えろ」

くくっ、と暗い笑い声をあげる斐仁を、趙雲が薄気味悪いものを見る目で見降ろしてきた。
暗い喜びにひたりながら、斐仁は唄うようにつづける。
「おれは秘密を守るため、麋竺の親父をさんざん脅して、金を巻き上げていた。
『壺中』はそういうところは規律が緩くて、おれの好きなようにさせてくれたよ。
おかげで、七年間は、夢のように贅沢な暮らしができた。麋竺の親父には感謝しなくちゃならない。
いまごろ、どこかでくたばっているかもしれないがな」
「どこにいるのかは知らないというのだな。では、おまえの言う『秘密』とはなんだ?」
「さてね。知りたければ、新野の東の蔵へ行ってみな」

それだけ言うと、斐仁は沈黙を守ることにした。
あまりしゃべりすぎると、自分の命が縮まることを心得ていたから。

『まだだ。まだ『あいつ』のことや、『あの男』のことは言わないほうがいい』
そう決めて、孔明や趙雲が何度か質問をしてきても、無視を決め込んだ。




饐《す》えた臭いのたちこもる牢屋から、地上に出ると、一気に花の香りに包まれた。
あまりの落差に眩暈《めまい》をおぼえた。
ぐらついた身体を、趙雲が支えようと手を伸ばしてくる。
孔明は、反射的にその手を払いのけていた。

孔明は、人に身体に触れられるのが嫌いだ。
どんなに親しくなったとしても、身体に触れられると身がすくむ。
正確にいえば、自分に人間が寄ろうとしてくる、その瞬間がおそろしい。

豫章《よしょう》から逃げ、襄陽に落ち着いた諸葛玄は、孔明を伴って劉表のいる城へきた。
豫章の状況を説明するため、ということであったが、なぜか直前になり、諸葛玄は孔明が面会に同席することを許さなかった。

だいぶ叔父を待っていた記憶がある。
やっと叔父が帰ってきたときは、すでに夕暮れになっていた。
叔父の表情は硬くこわばり、興奮しているようでもあった。
その様子から、口論をしたのだということが察せられた。

おのれの主人たる劉表と、どうして口論などしたのか、知りたかったが、厳しい玄の表情が質問を拒んでいたのをはっきりおぼえている。
玄は、それから人に頼んで一室を借りると、なにか手紙をしたためていたようであった。
使いの者に手紙を託すと、らしくないことに孔明にぶっきらぼうに、帰ろう、と言った。
ひどく不機嫌で、イライラとした様子であった。

玄とふたり、黙然と、廊下を歩いていた。
すると、不意に柱の陰から男が現れて、豫章を失ったのは残念でした、とかなんとか言ってきた。
直後に、玄にもたれかかった。

一瞬だった。

孔明が、男の手にある刃に気づいたときには遅かった。
いまも鮮やかに思い出せる、夕陽を照り返す、茜色の刃。
夕陽よりもなお赤い、血潮。
玄は、腹を割かれていた。
おどろき怯《おび》える孔明に、血の滲む腹をおさえながら、それでも、大事無い、と安心させるように笑った。

すぐに人が集まって、刺した男は取り押さえられたが、警吏に渡される前に、刺客は舌を噛んで自害したという。
玄は手厚い看護を受けたが、その日のうちに、亡くなった。
刺客が何者であったかはわからなかった。
劉表は、新太守が差し向けてきたものだと言い、結局のところ、いまも正体がわからない。

孔明は、人に触れられようとすると、そのときの光景を、どうしても思い出してしまう。
相手を信頼している気持ちにはまちがいない。
しかし、かれらが近づくその瞬間に、孔明は身をすくませ、その手に白刃《はくじん》がないだろうかと素早く探る。

それは玄が死んでからずっと無意識につづけてきたことであり、呼吸をするのとおなじくらいに、身についた習慣になってしまってもいる。
信頼しているはずの相手を、その瞬間は心を裏切って、疑っているのを知覚せねばならないのは、苦痛このうえなかった。

しかし趙雲は、振り払う孔明の手をさらに振り払って、ぐらつく身体を、倒れないように支える。
そして、行きかう人のほとんどない廊下の片隅に孔明を座らせると、どこからか水を汲《く》んでくるといって立ち上がった。

つづく


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