※
「劉備の女房がいるぞ!」
だれかがそう叫んだことで、夏侯恩《かこうおん》の軍兵たちの目の色が変わった。
それというのも、夏侯蘭《かこうらん》があまり熱心に先導しなかったことと、戦に慣れていない夏侯恩の要領の悪さのせいで、かれらはほかの軽騎兵たちとはちがい、まったく功績らしい功績をあげられていなかったからだ。
劉備の妻を捕獲したとなれば、曹操から褒美がもらえる。
しかも、さいわいというべきか、女は背後に男の子をかばっていた。
「これが阿斗でしょう」
と、夏侯恩のかたわらにいる老兵が夏侯恩に耳打ちをしている。
かれらには、阿斗がいくつくらいかという正確な情報が届いていなかった。
「はて、さきほど馬で逃げた女は何者だろう?」
夏侯恩が首をひねるのを、老兵がまた答えた。
「侍女ではありませぬか」
「左様か。どちらにしろ、劉備の妻子を捕えたのだから、よいか。
おい女、劉備はどこにいる」
たずねられて、元気いっぱいの声が返って来た。
「知るもんですか、知っていても、教えるわけがないでしょう!」
兵たちのなかで目立たないよう、うずもれるようにして背後にいた夏侯蘭は、『劉備の妻』の声にはっとした。
胸をわしづかみされたかのような、なつかしさに襲われる。
この声は、まちがいない、藍玉《らんぎょく》……崔玉蘭《さいぎょくらん》のものだ。
恩人であるかのじょの声を、自分が忘れるなどということはありえない。
まさか、いつのまにか劉備の妻になっていた?
混乱したまま、首を伸ばしてみれば、玉蘭は片手に剣を持って夏侯恩を威嚇しつつ、背後に阿瑯《あろう》をかばって、軍兵に囲まれていた。
「わたしを麋子仲《びしちゅう》の妹と知っての狼藉ですか! 兵を引きなさいっ」
なんだって?
「阿斗、泣いてはいけません、殿のお子なのですから、しっかりなさい!」
玉蘭は、自分の背後で、えーん、えーんと、いささかわざとらしい泣き声をあげているサルに似た子供を叱咤する。
これまた、忘れるはずもない。
まちがいなく阿瑯だ。
瞬時に夏侯蘭は状況を呑み込んだ。
さきほど、馬に乗って逃げた女がいると、みなが言っていた。
それが劉備の夫人だ。
玉蘭は、それを逃がすため、あえて自分が劉備の妻だと名乗り、敵を引きつけているのだ。
なんという女だ、と夏侯蘭は、あいかわらずの玉蘭の度胸のよさに唖然とする。
この死地においてもなお、玉蘭は凛としていて、美しかった。
夏侯恩に、もうすこし世間知があったなら、彼女が劉備の夫人にしては、あまりに婀娜《あだ》めいていることを不審におもっただろう。
胡服《こふく》を着ていることも、おかしいと思ったはずだ。
だが、夏侯恩は、まったくおかしさに気づかない様子で、威嚇してくる玉蘭に、不快そうに眉をひそめるだけだった。
「生意気な女よ。このわたしに刃を向けるか」
「兵を退きなさい!」
「無駄なことだ。おい、この女をだれか縛ってしまえ」
待ってましたとばかりに何名かの兵が、縄を持って、玉蘭と阿瑯に近づいていく。
とたん、玉蘭は剣を振りかざして、自分たちを縄にかけようとする男たちを追っ払った。
その騒ぎのせいで、夏侯恩の馬がすこしたたらを踏む。
それが気に入らなかったらしく、夏侯恩は、
「何をしている、馬鹿者ども!」
と叫ぶや、自らの腰の剣を抜き、馬を降りる。
そして、玉蘭たちの前に進み出た。
「麋竺の妹だと言ったな。無駄な抵抗はよせ。
さあ、そのうしろにいる小僧をわれらに渡すのだ」
「できるわけないでしょう」
冷たく言い放ち、玉蘭は持っていた剣でもって、夏侯恩に切りかかる。
いけない、と夏侯蘭は身構えたが、すぐに玉蘭のほうが有利ということが見えた。
夏侯恩は、どうやら実戦をほとんど知らないまま戦場に来た青年らしく、熟練の玉蘭の剣を、ただ受け止め、いなすしかできないでいるのだ。
ぎん、がん、と火花を散らして玉蘭は夏侯恩に剣を打ち込んでいく。
それでもし、夏侯恩の剣がふつうの剣であったなら、状況は変わったかもしれなかった。
だが、夏侯蘭は気づいた。
たしかに、剣の腕も経験も玉蘭のほうが上。
しかし、夏侯恩の手に持つあの剣は、ただの剣ではなさそうだ。
腰に佩《お》びたままの鞘には、きわめて精巧な象嵌がなされており、朝日を受けて、きらきらと輝いている。
その刀身もまた、ひやりとした青白さをもち、玉蘭の剣を受けながらも、刃こぼれひとつしない。
どころか、優勢だったはずの玉蘭の剣を、たいした攻撃もしていないうちから、叩き割ってしまった。
わあっ、と夏侯恩の兵が興奮の声をあげる。
弾き飛ばされた反動で、玉蘭は地面に後ろ倒しになった。
それを見て、泣きまねをしていた阿瑯が、玉蘭に駆け寄った。
「奥様っ」
「奥様、だと? きさま、劉備の子ではないのか?」
唸るような夏侯恩の問いかけに、阿瑯は顔をゆがめる。
玉蘭は形勢が逆転したとすぐに判断し、背後の阿瑯をかばった。
「わたしはどうなってもいいわ、でも、この子は助けてあげて、関係のない子よ!」
「関係がないなら、余計に許せぬ。わたしを謀《たばか》ろうとしたな?」
夏侯恩はふたりをきつくにらみつけると、剣を持つ手を大きくふりかぶった。
「この青釭《せいこう》の剣の試し切りにしてやるっ! 仲良くあの世へ行くがよい!」
つづく
「劉備の女房がいるぞ!」
だれかがそう叫んだことで、夏侯恩《かこうおん》の軍兵たちの目の色が変わった。
それというのも、夏侯蘭《かこうらん》があまり熱心に先導しなかったことと、戦に慣れていない夏侯恩の要領の悪さのせいで、かれらはほかの軽騎兵たちとはちがい、まったく功績らしい功績をあげられていなかったからだ。
劉備の妻を捕獲したとなれば、曹操から褒美がもらえる。
しかも、さいわいというべきか、女は背後に男の子をかばっていた。
「これが阿斗でしょう」
と、夏侯恩のかたわらにいる老兵が夏侯恩に耳打ちをしている。
かれらには、阿斗がいくつくらいかという正確な情報が届いていなかった。
「はて、さきほど馬で逃げた女は何者だろう?」
夏侯恩が首をひねるのを、老兵がまた答えた。
「侍女ではありませぬか」
「左様か。どちらにしろ、劉備の妻子を捕えたのだから、よいか。
おい女、劉備はどこにいる」
たずねられて、元気いっぱいの声が返って来た。
「知るもんですか、知っていても、教えるわけがないでしょう!」
兵たちのなかで目立たないよう、うずもれるようにして背後にいた夏侯蘭は、『劉備の妻』の声にはっとした。
胸をわしづかみされたかのような、なつかしさに襲われる。
この声は、まちがいない、藍玉《らんぎょく》……崔玉蘭《さいぎょくらん》のものだ。
恩人であるかのじょの声を、自分が忘れるなどということはありえない。
まさか、いつのまにか劉備の妻になっていた?
混乱したまま、首を伸ばしてみれば、玉蘭は片手に剣を持って夏侯恩を威嚇しつつ、背後に阿瑯《あろう》をかばって、軍兵に囲まれていた。
「わたしを麋子仲《びしちゅう》の妹と知っての狼藉ですか! 兵を引きなさいっ」
なんだって?
「阿斗、泣いてはいけません、殿のお子なのですから、しっかりなさい!」
玉蘭は、自分の背後で、えーん、えーんと、いささかわざとらしい泣き声をあげているサルに似た子供を叱咤する。
これまた、忘れるはずもない。
まちがいなく阿瑯だ。
瞬時に夏侯蘭は状況を呑み込んだ。
さきほど、馬に乗って逃げた女がいると、みなが言っていた。
それが劉備の夫人だ。
玉蘭は、それを逃がすため、あえて自分が劉備の妻だと名乗り、敵を引きつけているのだ。
なんという女だ、と夏侯蘭は、あいかわらずの玉蘭の度胸のよさに唖然とする。
この死地においてもなお、玉蘭は凛としていて、美しかった。
夏侯恩に、もうすこし世間知があったなら、彼女が劉備の夫人にしては、あまりに婀娜《あだ》めいていることを不審におもっただろう。
胡服《こふく》を着ていることも、おかしいと思ったはずだ。
だが、夏侯恩は、まったくおかしさに気づかない様子で、威嚇してくる玉蘭に、不快そうに眉をひそめるだけだった。
「生意気な女よ。このわたしに刃を向けるか」
「兵を退きなさい!」
「無駄なことだ。おい、この女をだれか縛ってしまえ」
待ってましたとばかりに何名かの兵が、縄を持って、玉蘭と阿瑯に近づいていく。
とたん、玉蘭は剣を振りかざして、自分たちを縄にかけようとする男たちを追っ払った。
その騒ぎのせいで、夏侯恩の馬がすこしたたらを踏む。
それが気に入らなかったらしく、夏侯恩は、
「何をしている、馬鹿者ども!」
と叫ぶや、自らの腰の剣を抜き、馬を降りる。
そして、玉蘭たちの前に進み出た。
「麋竺の妹だと言ったな。無駄な抵抗はよせ。
さあ、そのうしろにいる小僧をわれらに渡すのだ」
「できるわけないでしょう」
冷たく言い放ち、玉蘭は持っていた剣でもって、夏侯恩に切りかかる。
いけない、と夏侯蘭は身構えたが、すぐに玉蘭のほうが有利ということが見えた。
夏侯恩は、どうやら実戦をほとんど知らないまま戦場に来た青年らしく、熟練の玉蘭の剣を、ただ受け止め、いなすしかできないでいるのだ。
ぎん、がん、と火花を散らして玉蘭は夏侯恩に剣を打ち込んでいく。
それでもし、夏侯恩の剣がふつうの剣であったなら、状況は変わったかもしれなかった。
だが、夏侯蘭は気づいた。
たしかに、剣の腕も経験も玉蘭のほうが上。
しかし、夏侯恩の手に持つあの剣は、ただの剣ではなさそうだ。
腰に佩《お》びたままの鞘には、きわめて精巧な象嵌がなされており、朝日を受けて、きらきらと輝いている。
その刀身もまた、ひやりとした青白さをもち、玉蘭の剣を受けながらも、刃こぼれひとつしない。
どころか、優勢だったはずの玉蘭の剣を、たいした攻撃もしていないうちから、叩き割ってしまった。
わあっ、と夏侯恩の兵が興奮の声をあげる。
弾き飛ばされた反動で、玉蘭は地面に後ろ倒しになった。
それを見て、泣きまねをしていた阿瑯が、玉蘭に駆け寄った。
「奥様っ」
「奥様、だと? きさま、劉備の子ではないのか?」
唸るような夏侯恩の問いかけに、阿瑯は顔をゆがめる。
玉蘭は形勢が逆転したとすぐに判断し、背後の阿瑯をかばった。
「わたしはどうなってもいいわ、でも、この子は助けてあげて、関係のない子よ!」
「関係がないなら、余計に許せぬ。わたしを謀《たばか》ろうとしたな?」
夏侯恩はふたりをきつくにらみつけると、剣を持つ手を大きくふりかぶった。
「この青釭《せいこう》の剣の試し切りにしてやるっ! 仲良くあの世へ行くがよい!」
つづく
※ いつも閲覧してくださっているみなさま、ありがとうございます!(^^)!
ブログ村およびブログランキングに投票してくださったみなさまも、ほんとうにどうもありがとうございました!
状況は、昨日更新した近況報告どおりですが、なんとか挽回すべくがんばってまいります!
引き続き応援していただけるとさいわいです♪
それでは、次回をどうぞおたのしみにー(*^▽^*)