いつの間にか、襄陽城の城壁の天辺《てっぺん》にでもいたのではないか。
不安とともにそんな思いが過ったころ、眼下に、藁葺《わらぶ》きの屋根が見えた。
趙雲は、飛び込む形でそこに落ちた。
屋根に落ちると、趙雲と花安英の重量に耐えられず、藁葺きの屋根はすぐに落ち窪み、そのまま傾《かし》いだ。
とたん、屋根のしたで、まどろんでいた無数の鳥たちが、不気味な鳴き声をあげていっせいに暴れだす。
闇の中、姿のはっきり見えない鳥たち…どうやら家鴨《あひる》の小屋であったらしい…の羽根に顔を打たれつつ、羽毛と藁の飛び散るなか、趙雲は、立ち止まることなく、駆け出した。
藁葺き屋根が物置部屋の真下であったのは、幸運だった。
落ちた衝撃で足にしびれはあるものの、藁が衝撃をおさえてくれた。
痛みはない。
それまで、趙雲に抱えられるかたちで傍らにいた花安英は、地上につくなり、藁の上に放り投げだされた。
駆け出した趙雲の背後から、あわてて追いかけてくる。
鳥たちの声に、寝静まっていた奴婢たちが騒ぎ出したのがわかった。
かれらが、賊だ、と言っている声が聞こえた。
見つかるわけにはいかない。
趙雲はめちゃくちゃに駆けた。
花安英もまた、あとから必死に追いかけてきた。
※
どれくらい走ったかわからない。
花の香りを手掛かりにして、趙雲はひたすら駆けた。
うまい具合に、追っ手はかからなかったようだ。
気づけば、この城に来てはじめに劉琦が自分や孔明を案内した花園にきていた。
深呼吸すると、あちこちに咲き乱れる花々の、むせかえるような香りが肺を満たす。
花は、肥料がよければよいほど、これほど美しい姿を見せる。
美しくあるために、必要不可欠な肥料そのものは、たいがいが汚物や残飯である。
この世は、美ですら、その出発点は汚濁によって支えられている。
生まれつき無垢で、美しいものなど、存在はしない。
息を整えていると、
「逃げられましたね」
花安英が言う。
趙雲は興味がなさげに振り返った。
「念のため、おまえは自室に戻って、鍵をかけて布団をかぶって寝たふりをしていろ。今宵はもう部屋を出てはならぬ」
すると、花安英は、険をあらわして言った。
「わたしに命令をするんですか」
「死にたくないだろう。あいつらに覗きをしていたことが露見したら、夜更けだろうと踏み込まれて殺されるぞ」
「だからといって命令されたくありませんね。わたしは、あなた方を助けるために、蔡一族の秘密を明かした人間ですよ」
「だから何だ。おれはおまえの命の恩人だぞ」
花安英は、闇の中、しばらく沈黙していた。
趙雲としては、花安英はどうでもよい。
ともかく孔明の元へ戻る。
そして、孔明が無事であるかを確かめなければならない。
ふと、小さいうめき声が聞こえた。
小僧、どこぞに怪我でもしたのかな、と花安英のほうを見ると、花安英は、肩を震わせて、笑っている。
大笑いしたくなるのを、ぐっとこらえているのであった。
趙雲としては、花安英に、それほど喜ばれるような、面白いことを言った記憶がない。
眉をしかめていると、花安英は、笑いの発作をようやくおさめて、顔をあげた。
「一つお伺《うかが》いしたいのですが、あの部屋に、わたしを置いてこようとか、一人だけ逃げようとか、そういうことは考えなかったのですか」
「いや」
「なぜです?」
「なぜ、とは面妖な。考えるまでもなく、おまえをあそこに捨て置いたら斬られていたぞ」
「それだけですか? わたしが蔡瑁に捕まったら、逃げたのがあなただと、すぐに喋ってしまうからではないのですか」
「ああ、そうか。そういう可能性もあったな」
そう合点をする趙雲であったが、花安英は、しばし沈黙したまま趙雲を見て、それから今度は笑わずに、くるりと背を向ける。
その華奢な背中に、
「言うとおりにしろよ」
と声をかけると、花安英は、無言で振り返る。
その表情に、趙雲はどきりとした。
さきほどとは、打って変わって、何者をも寄せ付けないような、冷たい顔だった。
「わたしは、やっぱりあなたが大嫌いになりました。さようなら。もうこんなふうに、お会いすることはないでしょう」
あまり好いていない相手にでも、やはり嫌い、と面と向かって言われるのは気分のよいものではない。
なんなのだ、と思わずつぶやく趙雲であるが、花安英は、なにもいわず、闇のなか、足下に可憐に咲き乱れる花々を、蹴散らすようにして、去っていった。
つづく
※ うちの親がワクチン4回目を打ちました。
副反応は、腕の痛みていどですんでいます。
BA.5、後遺症がつらい様子。
罹らないように気を付けています。皆様もご自愛ください。
不安とともにそんな思いが過ったころ、眼下に、藁葺《わらぶ》きの屋根が見えた。
趙雲は、飛び込む形でそこに落ちた。
屋根に落ちると、趙雲と花安英の重量に耐えられず、藁葺きの屋根はすぐに落ち窪み、そのまま傾《かし》いだ。
とたん、屋根のしたで、まどろんでいた無数の鳥たちが、不気味な鳴き声をあげていっせいに暴れだす。
闇の中、姿のはっきり見えない鳥たち…どうやら家鴨《あひる》の小屋であったらしい…の羽根に顔を打たれつつ、羽毛と藁の飛び散るなか、趙雲は、立ち止まることなく、駆け出した。
藁葺き屋根が物置部屋の真下であったのは、幸運だった。
落ちた衝撃で足にしびれはあるものの、藁が衝撃をおさえてくれた。
痛みはない。
それまで、趙雲に抱えられるかたちで傍らにいた花安英は、地上につくなり、藁の上に放り投げだされた。
駆け出した趙雲の背後から、あわてて追いかけてくる。
鳥たちの声に、寝静まっていた奴婢たちが騒ぎ出したのがわかった。
かれらが、賊だ、と言っている声が聞こえた。
見つかるわけにはいかない。
趙雲はめちゃくちゃに駆けた。
花安英もまた、あとから必死に追いかけてきた。
※
どれくらい走ったかわからない。
花の香りを手掛かりにして、趙雲はひたすら駆けた。
うまい具合に、追っ手はかからなかったようだ。
気づけば、この城に来てはじめに劉琦が自分や孔明を案内した花園にきていた。
深呼吸すると、あちこちに咲き乱れる花々の、むせかえるような香りが肺を満たす。
花は、肥料がよければよいほど、これほど美しい姿を見せる。
美しくあるために、必要不可欠な肥料そのものは、たいがいが汚物や残飯である。
この世は、美ですら、その出発点は汚濁によって支えられている。
生まれつき無垢で、美しいものなど、存在はしない。
息を整えていると、
「逃げられましたね」
花安英が言う。
趙雲は興味がなさげに振り返った。
「念のため、おまえは自室に戻って、鍵をかけて布団をかぶって寝たふりをしていろ。今宵はもう部屋を出てはならぬ」
すると、花安英は、険をあらわして言った。
「わたしに命令をするんですか」
「死にたくないだろう。あいつらに覗きをしていたことが露見したら、夜更けだろうと踏み込まれて殺されるぞ」
「だからといって命令されたくありませんね。わたしは、あなた方を助けるために、蔡一族の秘密を明かした人間ですよ」
「だから何だ。おれはおまえの命の恩人だぞ」
花安英は、闇の中、しばらく沈黙していた。
趙雲としては、花安英はどうでもよい。
ともかく孔明の元へ戻る。
そして、孔明が無事であるかを確かめなければならない。
ふと、小さいうめき声が聞こえた。
小僧、どこぞに怪我でもしたのかな、と花安英のほうを見ると、花安英は、肩を震わせて、笑っている。
大笑いしたくなるのを、ぐっとこらえているのであった。
趙雲としては、花安英に、それほど喜ばれるような、面白いことを言った記憶がない。
眉をしかめていると、花安英は、笑いの発作をようやくおさめて、顔をあげた。
「一つお伺《うかが》いしたいのですが、あの部屋に、わたしを置いてこようとか、一人だけ逃げようとか、そういうことは考えなかったのですか」
「いや」
「なぜです?」
「なぜ、とは面妖な。考えるまでもなく、おまえをあそこに捨て置いたら斬られていたぞ」
「それだけですか? わたしが蔡瑁に捕まったら、逃げたのがあなただと、すぐに喋ってしまうからではないのですか」
「ああ、そうか。そういう可能性もあったな」
そう合点をする趙雲であったが、花安英は、しばし沈黙したまま趙雲を見て、それから今度は笑わずに、くるりと背を向ける。
その華奢な背中に、
「言うとおりにしろよ」
と声をかけると、花安英は、無言で振り返る。
その表情に、趙雲はどきりとした。
さきほどとは、打って変わって、何者をも寄せ付けないような、冷たい顔だった。
「わたしは、やっぱりあなたが大嫌いになりました。さようなら。もうこんなふうに、お会いすることはないでしょう」
あまり好いていない相手にでも、やはり嫌い、と面と向かって言われるのは気分のよいものではない。
なんなのだ、と思わずつぶやく趙雲であるが、花安英は、なにもいわず、闇のなか、足下に可憐に咲き乱れる花々を、蹴散らすようにして、去っていった。
つづく
※ うちの親がワクチン4回目を打ちました。
副反応は、腕の痛みていどですんでいます。
BA.5、後遺症がつらい様子。
罹らないように気を付けています。皆様もご自愛ください。