「だが、文偉、ここからわたしが話すことは、おまえにだけに話すことだ。外の誰にも漏らしてはならぬ。おまえにだけの遺言として聞け。蒋琬は優秀だ。だが、残念ながら、天下の大器とまではいかぬ。
それは、おまえも同じだ。おまえたちは、お互いに相手のないものを持っている。蒋琬の慎重さと思慮深さはおまえにはないし、おまえの大胆さと明るさ、そして名族としての肩書きを、蒋琬は持っておらぬ。
おまえたちは協力することで、はじめて天下の大器となれる。けして争ってくれるな。これまで、ともに過ごしてきた二十年を思え。たとえ考えが違うことがあっても、策謀をはりめぐらせて、相手を貶めるような真似だけは、してはならぬ」
孔明は、そこまで言うと、息を荒く吐き、呼吸を整えた。
「そして、文偉、おまえにもし余力があるならば、伯約が孤立しないように、あれの力となってやってくれ。あれにすべてを伝えることなく、ひとり置いていくのが、わたしにとって、なによりの心残りなのだ。
あれの器を完成させてやることができるのは、おそらくわたしだけであったろうに、時間があまりに足らぬ。わたしは去らねばならない」
残念だ。そう言って、孔明は息を吐くのであるが、文偉は、孔明がそこまで姜維を心にかけていたのかと、おどろいていた。
「伯約は、いまのままでは、だれにも心を開くことなく、孤立していくことだろう。あの胸の中にある毒を、わたしがすべて引き受けてやりたかったが」
「毒とは、丞相、姜維が魏将軍のような野心を持っていると?」
文偉が尋ねると、薄暗がりの中、孔明は首を振った。
「外にではなく、内に、あれは毒を隠し持っているのだよ。幼少より、母によってのみ育てられ、苦労を重ねて生きてきた。卑屈さ、孤独、恨み、そういったものを、あれは胸に押し込めて、笑顔で誤魔化してしまう。
善人を演じることで、人の中で優位に立とうとする。こう説明して、おまえにわかるだろうか?」
文偉には、朝の姜維の様子が思い浮かんだ
姜維が、むつかしい環境の中で生きてきたことは知っていたが、それゆえの暗さなど、想像したこともなかった。
だが、孔明の言葉で、姜維のちぐはぐな印象に、筋が通る。
「おっしゃりたいことは、わかります」
「そうか、よかった。姜維は、おまえには、不思議とわたしと同じように振る舞えるらしい。あれの中にある毒を引き受けることは、おまえには辛いことかもしれぬ。しかし、あえてそれを頼むわたしを許してくれ。
わたしは、おまえも可愛いが、それにもまして、姜維が哀れでならぬのだ。おまえは、たくさんの人に愛される男になるだろう。しかし、姜維は、いまのままでは、名があがれば上がるほどに、敵を増やし、孤立をしていく。
人に心を開けない者は、どんなに才覚があろうと、その最期は冷たく悲惨なものだ。才能というものは、すべて、人のために発揮しようとして、はじめて真の力を見せることができる。自分のためだけにあるのではない。わたしは、それを伝えてやることができぬ」
「いまは伝わらなくても、いずれ姜維がそれに気づき、感謝することがあるかもしれませぬ」
「だとよいが。愚かな考えなのかもしれないが、人というものは、救い上げることのできる人間は、たった一人と定められているものなのだろうか」
言いながら、孔明は激しくせきこむ。
最後の言葉の意味がよくつかめずに、文偉は、孔明が苦しみのあまり、錯乱しているのではないかと恐れた。
「お休みくださいませ、丞相。伯約のことも、わたくしが引き受けます。必ずや」
文偉が言うと、孔明は、安堵したようである。
浮かぶ影の肩から、わずかに力が抜けたのがわかった。
「力強い言葉だ。感謝する。もしも、おまえが、伯約はこれでよいと判断できたなら、あれを大将として遇してやってくれ。それまでは、駄目だ。大軍を預けてはならぬ」
酷なことをおっしゃると思ったが、文偉は頷いた。
「判り申した。それも必ず」
「時間が足りぬ。せめてもの償いだ。あれをわたしの最後の策謀に巻き込みたくない。わたしの最後のわがままだと思って、聞いてはくれまいか」
なぜにそこまで、と言葉が出かけたが、薄闇の向こうから、こちらを見ている孔明の目線が、一切の質問を拒むものであることを感じ取り、文偉は沈黙した。
「判り申した」
「ああ、すべて話してしまったので、すこし身体が楽になった。すまぬが休みたい」
「では、表におります侍医たちを入れましょう。わたしは、おもてに参ります。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
「うむ。楊儀には、いまのことを悟られぬようにせよ。あれにも悪いことをした。主公の時代を知る数少ない男であったから、わたしも甘くしたところがある。出来ることならば、長く生きてほしい。
姜維は出かけているのであったな。もし戻ったならば、楊儀と、おまえと、姜維の三人で、わたしのところへ来てくれ。手筈はほとんど整えてある。あとは、おまえたちは手順どおりに動けばよい」
ふと、幕舎の入り口に手をかけたとき、袖に引っかかったものであろうか、帯飾りが、薄暗い幕舎のなかに、心地よい音を響かせた。
卓に突っ伏すようにして身を崩していた孔明は、その音に答えるように、顔を上げると、つぶやくように言った。
「楽しかったな」
「は」
「いや、おまえたちと過ごしたこの年月は、楽しかった。おまえたちを見ていると、まるで自分が、なつかしい襄陽に戻れたような気がしていたよ。二度と同じ日が来ないのが惜しい」
文偉は、もう声も出せず、ただ頷くことしかできなかった。
「ありがとうと、成都の二人にも伝えてくれ。孔明がそう言っていたと」
もはや言葉でなにを返すこともできず、ただひたすら、深くこうべを垂れて、文偉は拱手すると、走り去るように幕舎を出た。
だれにも涙を見られないようにするのが、精一杯であった。