※
曹操軍に占拠された南陽《なんよう》の宛《えん》は、表面上では落ち着いていた。
曹操軍の規律は厳しく、民に乱暴狼藉をはたらこうとするもの、略奪をしようとするものはすぐさま処罰された。
そのため、民はいまのところ安心して過ごすことが出来ている。
反乱の兆しもなく、きびしい監視下にあるとはいえ、民はふだんどおりの暮らしを取り戻しつつあった。
とはいえ、民たちは知り合いと道ですれちがうと、意味ありげに目配せして、互いにかかえている恐怖や不安を無言のまま交わすのが常になっている。
たしかに、民の生活だけをみていると、そこには変わらぬ日常がある。
だが、曹操軍の兵があちこちを闊歩《かっぽ》している状況にあることに、変わりはない。
市場や城市のはずれなどに目を向けると、曹操軍に抵抗したあわれな荊州の土豪たちの首が、異臭をはなちながらさらし者にされているのが目に入る。
だれもが、その首に目を向けまいとしながら、普段通りの生活をしようと気を張っていた。
そんなぴりぴりした緊張感のある南陽の宛に、張郃《ちょうこう》らは、ほうほうのていで帰ってくる羽目になったのだ。
張郃ら敗軍の将たちは、みな曹操の前にひざまずき、こうべを垂れていた。
きついお咎《とが》めがあるだろうと、それぞれが覚悟をしている。
短期決戦のうちに劉備軍を壊滅させるはずだった。
ところが、油断とおごりがあったがために、劉備軍の策にまんまとはまってしまった。
悔しい。
悔しいどころの話ではない。
張郃のからだは、ちいさなやけどと切り傷だらけ。
そのうえ、切り傷はほかの将軍らより多かった。
趙雲につけられたものだ。
『おれはおまえを忘れぬぞ、趙子龍っ』
赤くまがまがしい明かりに照らされて浮かぶ趙雲の顔。
対決中であるにもかかわらず、笑みを浮かべた悪鬼のような男。
もし、趙雲の部下が、退却の合図をしなければ、一騎打ちはつづき、そして、自分は討たれたのではないか。
そう思うと、悔しくて悔しくて、張郃はあれから一睡もできていない。
白皙の顔にはクマが浮かび、食欲もないので、一気にげっそりやつれていた。
おのれの拙《つたな》さを恥じるこころと、いらだちとがないまぜになって、爆発しそうになっている。
曹操の前にあっても、叫びだしそうになる自分を押さえるのが精いっぱいだった。
歯をぎりぎりとかみしめ、ぐっと手の拳を握る。
玉座にある曹操の目線が、そんな張郃らをじっと見つめているのがわかった。
斜め前に進み出た曹仁は、ことの顛末《てんまつ》をつまびらかに曹操に報告している。
曹仁もまた、声を震わせて報告をしていた。
曹操の罰がおそろしいのではない。
やはり、かれも悔しいのだろう。
もちろん、張郃の悔しさとは異質の悔しさであろう。
五万の部下たちが、一気に半分以下になったことの責任をかんじているのにちがいない。
ちらりと見上げると、曹操はおどろいたことに、曹仁の報告をおもしろおかしい冒険譚を聞くような態度で、唇に笑みさえ浮かべて聞いていた。
やがて報告が終わると、曹操は、身を縮めている諸将を大きな声で笑い飛ばした。
その笑い声は、宛城の広間にわんわんとよく響いた。
やがて、笑いをおさめると、曹操は低いよく通る声で、まだ笑い足りないといった顔で言った。
「子孝《しこう》、当たりが悪かったな。玄徳のやつ、なかなかやりよる。
戦はこうでなければ面白くない」
『面白い、か』
張郃としては、この負け戦で命を落としていった部下たちのことを思うと、とても『面白い』などとは思えなかった。
曹操には、兵は盤上の駒と同然なのかもしれない。
その冷徹さが、曹操を天下人に押し上げたのだろうということはわかっている。
このひとは、いまは余裕があるから笑っていられる。
しかし、負けた軍勢の数がいまの十倍だったとしても、笑っていられるだろうか。
上目遣いに曹操の表情を盗み見ると、やはり、その笑顔は負け惜しみの顔ではない。
心底、この負け戦を面白がっているのがわかった。
「みな、ご苦労であったな。さんざんな目に遭って、疲れたであろう。
玄徳がこれほど見事に策を弄《ろう》するとは思ってもいなかったはずだ。
策の有無を見抜くのも将の仕事ではあるが、緒戦ゆえ仕方ない、いまは体をやすめ、次に備えると言い」
ありがたきお言葉、と曹仁が言うより早く、前に進み出た者がある。
「丞相、それでは寛大にすぎませぬか」
曹操の軍師のひとり、程昱《ていいく》であった。
程昱が口をはさんできたのを、曹操は目でちらりと見て、つまならなさそうにする。
この、のっぽの無情な策士・程昱は、曹仁や張郃らが処罰されたほうが、軍の規律が守られると思っているらしい。
いやなやつだなと腹の内で舌打ちをしつつ、張郃は曹操が心変わりしないよう祈りつつ、次の言葉を待つ。
命は惜しい。
趙雲を、そして劉備を討てなくなるからだ。
つづく
曹操軍に占拠された南陽《なんよう》の宛《えん》は、表面上では落ち着いていた。
曹操軍の規律は厳しく、民に乱暴狼藉をはたらこうとするもの、略奪をしようとするものはすぐさま処罰された。
そのため、民はいまのところ安心して過ごすことが出来ている。
反乱の兆しもなく、きびしい監視下にあるとはいえ、民はふだんどおりの暮らしを取り戻しつつあった。
とはいえ、民たちは知り合いと道ですれちがうと、意味ありげに目配せして、互いにかかえている恐怖や不安を無言のまま交わすのが常になっている。
たしかに、民の生活だけをみていると、そこには変わらぬ日常がある。
だが、曹操軍の兵があちこちを闊歩《かっぽ》している状況にあることに、変わりはない。
市場や城市のはずれなどに目を向けると、曹操軍に抵抗したあわれな荊州の土豪たちの首が、異臭をはなちながらさらし者にされているのが目に入る。
だれもが、その首に目を向けまいとしながら、普段通りの生活をしようと気を張っていた。
そんなぴりぴりした緊張感のある南陽の宛に、張郃《ちょうこう》らは、ほうほうのていで帰ってくる羽目になったのだ。
張郃ら敗軍の将たちは、みな曹操の前にひざまずき、こうべを垂れていた。
きついお咎《とが》めがあるだろうと、それぞれが覚悟をしている。
短期決戦のうちに劉備軍を壊滅させるはずだった。
ところが、油断とおごりがあったがために、劉備軍の策にまんまとはまってしまった。
悔しい。
悔しいどころの話ではない。
張郃のからだは、ちいさなやけどと切り傷だらけ。
そのうえ、切り傷はほかの将軍らより多かった。
趙雲につけられたものだ。
『おれはおまえを忘れぬぞ、趙子龍っ』
赤くまがまがしい明かりに照らされて浮かぶ趙雲の顔。
対決中であるにもかかわらず、笑みを浮かべた悪鬼のような男。
もし、趙雲の部下が、退却の合図をしなければ、一騎打ちはつづき、そして、自分は討たれたのではないか。
そう思うと、悔しくて悔しくて、張郃はあれから一睡もできていない。
白皙の顔にはクマが浮かび、食欲もないので、一気にげっそりやつれていた。
おのれの拙《つたな》さを恥じるこころと、いらだちとがないまぜになって、爆発しそうになっている。
曹操の前にあっても、叫びだしそうになる自分を押さえるのが精いっぱいだった。
歯をぎりぎりとかみしめ、ぐっと手の拳を握る。
玉座にある曹操の目線が、そんな張郃らをじっと見つめているのがわかった。
斜め前に進み出た曹仁は、ことの顛末《てんまつ》をつまびらかに曹操に報告している。
曹仁もまた、声を震わせて報告をしていた。
曹操の罰がおそろしいのではない。
やはり、かれも悔しいのだろう。
もちろん、張郃の悔しさとは異質の悔しさであろう。
五万の部下たちが、一気に半分以下になったことの責任をかんじているのにちがいない。
ちらりと見上げると、曹操はおどろいたことに、曹仁の報告をおもしろおかしい冒険譚を聞くような態度で、唇に笑みさえ浮かべて聞いていた。
やがて報告が終わると、曹操は、身を縮めている諸将を大きな声で笑い飛ばした。
その笑い声は、宛城の広間にわんわんとよく響いた。
やがて、笑いをおさめると、曹操は低いよく通る声で、まだ笑い足りないといった顔で言った。
「子孝《しこう》、当たりが悪かったな。玄徳のやつ、なかなかやりよる。
戦はこうでなければ面白くない」
『面白い、か』
張郃としては、この負け戦で命を落としていった部下たちのことを思うと、とても『面白い』などとは思えなかった。
曹操には、兵は盤上の駒と同然なのかもしれない。
その冷徹さが、曹操を天下人に押し上げたのだろうということはわかっている。
このひとは、いまは余裕があるから笑っていられる。
しかし、負けた軍勢の数がいまの十倍だったとしても、笑っていられるだろうか。
上目遣いに曹操の表情を盗み見ると、やはり、その笑顔は負け惜しみの顔ではない。
心底、この負け戦を面白がっているのがわかった。
「みな、ご苦労であったな。さんざんな目に遭って、疲れたであろう。
玄徳がこれほど見事に策を弄《ろう》するとは思ってもいなかったはずだ。
策の有無を見抜くのも将の仕事ではあるが、緒戦ゆえ仕方ない、いまは体をやすめ、次に備えると言い」
ありがたきお言葉、と曹仁が言うより早く、前に進み出た者がある。
「丞相、それでは寛大にすぎませぬか」
曹操の軍師のひとり、程昱《ていいく》であった。
程昱が口をはさんできたのを、曹操は目でちらりと見て、つまならなさそうにする。
この、のっぽの無情な策士・程昱は、曹仁や張郃らが処罰されたほうが、軍の規律が守られると思っているらしい。
いやなやつだなと腹の内で舌打ちをしつつ、張郃は曹操が心変わりしないよう祈りつつ、次の言葉を待つ。
命は惜しい。
趙雲を、そして劉備を討てなくなるからだ。
つづく
※ 最後までよんでくださったみなさま、感謝です!
今回より、曹操、本格登場でございます。
そして、連日の大事故・大災害……
なんとお見舞いを申し上げればよいのやら……みなさまが早く日常を取り戻せるよう、自分のできる範囲で尽力したいです;
それと、ブログ村に投票してくださったみなさま、ありがとうございました!
とっても励みになります!
今年もばっちり精進してまいりますので、引き続き応援していただけるとさいわいです。
ではでは、次回をおたのしみにー(*^-^*)