「わが君は、みなをどうされるおつもりかな」
思わず趙雲がつぶやくと、孔明は樹に背を預けつつ、答えた。
「迷わず、民をともに連れて行くとおっしゃるだろう」
そんなことをしたら、みんな死ぬぞ、と言いかけて、口をつぐんだ。
あまりに突き放した言葉を言いかけたと、すぐに反省する。
だいたい、それを口にすることは、劉備に反抗することになりかねない。
そこで、あえて民のことを後回しにした表現で孔明に問う。
「仮に南へ逃げる……あるいは、要衝(ようしょう)の江陵(こうりょう)を目指すとして、おまえに曹操軍をしのぐ策はあるのか」
だが、孔明はすぐには答えなかった。
その気持ちは、趙雲には、痛いほどよくわかった。
民のことを思えば、どうしても気が重くなる。
仮に民を樊城(はんじょう)まで届け、そしてかれらを置いていったとしても、曹操がかれらを虐殺しないという保証はないのだ。
孔明の頭には、どうしても徐州での曹操による虐殺が頭にあるに違いない。
しかし、だからといって、民を道連れに南下をした場合に、水や食料の問題はもちろん、行軍の速度の問題も出てくる。
策が容易に出てくるはずもなかった。
「すまぬ、答えなくていい」
趙雲がしょぼんとしていうと、孔明は小さく笑った。
「あなたは相変わらず優しいな」
「そうか?」
「そうだよ。ところで子龍、新野城(しんやじょう)でなにかあったか?」
「なぜ?」
「いや、なんとなく、帰って来た時に疲れた顔をしていたから。
敵がそれほど手ごわかったのかと思ったのだ」
勘のいいやつ、と感心しつつ、趙雲は新野で対峙した敵のことを孔明に教えた。
「平狄将軍(へいてきしょうぐん)の張郃(ちょうこう)か」
「知っているか」
「もとは袁紹の部下であった張儁乂(ちょうしゅんがい)という男だろう」
「ああ、そういえば、おれのことを知っているようだった。
官渡の戦のとき、どこかで会っていたのかもしれないな」
「へえ、知り合いか。あなたもなかなか顔が広いな」
「おまえほどじゃない。よく曹操軍の将のことまで知っているな」
「中原の親戚や、わたしの名を聞いて文通を求めてきている人からの情報だよ。
張郃は、年はわたしと同じくらいだ。かなり豪胆で、そのうえ切れ者だという評判だよ。
討ち漏らしたのはもったいなかったな」
「すまぬ、手こずった」
「いや、責めてはいないよ。人は死ぬときは死ぬし、死なないときは、何があっても、なかなか死なない」
「そういうものか?」
「そうさ。いつ死ぬかを決めるのは冥府の王だ。わたしたちではない」
「まあ、そうか」
孔明は慰めてくれているのかもしれない。
変なやつだよな、こいつも。
趙雲の視界のすみで、民衆のあいだから、小さな影がふたつ、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。
二人の子供が、手を振りながら、競うように懸命に駆けてくる。
張著(ちょうちょと)軟児(なんじ)であった。
「子龍さまっ、ご無事でなによりです!」
「お怪我はなさっていませんか? わたし、お手当をしにまいりました」
口々に言う愛らしい子供たちを横に、孔明は笑みを浮かべて言う。
「おやおや、頼りになる看護人がやってきた。
子龍、さっきの塗り薬は、しばらく朝と夜にそれぞれ塗るように。
というより、張著か軟児に塗ってもらえ」
「自分でできるが」
思わず言うと、かたわらにいた二人が、あきらかに目を輝かせた。
「塗り薬ってなんですか?」
「わたしが塗って差し上げます!」
すると、ふだんはおとなしい張著が、鼻息を荒くして妹分の軟児を叱る。
「だめだ、わたしが塗るんだ!」
「なによ、張著さんのケチ! わたしだってやりたい!」
「軟児は下心が丸見えなんだよ!」
「下心なんてないもの!」
「こらこら、喧嘩をするのではないよ。交代でやりなさい」
孔明が言うと、子供たちは素直に、声をそろえて、はあい、と返事をした。
しかし、それぞれ手で互いの袖を引っ張り合って、牽制(けんせい)をしている。
すでに塗り薬はたっぷり塗ったあとだったので、趙雲が、ふたりの当番を決めると、張著も軟児も餌をもらえるとわかった子犬のように喜んだ。
そんな三人の様子を、傍らにいる孔明は、いつくしむように見守っていた。
つづく
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次回もお楽しみにー('ω')ノ