「子龍の幼馴染《おさななじみ》の夏侯蘭というやつを斐仁が襲ったのは、なぜなのだ」
「これは推測ですが、『狗屠《くと》』と『壺中』はつながっているのではないでしょうか。子龍と夏侯蘭が、『狗屠』を追うと、同時に『壺中』も危うくなる。わが君のことを『壺中』が探っていたことも露見してしまう。
そこで、斐仁は夏侯蘭を襲った。成功すれば、つぎに子龍を襲うつもりだったのでしょう。
しかし、夏侯蘭を殺せず失敗してしまった。そこで、見せしめのために『壺中』に家族を殺されてしまったのです」
「軍師、なにゆえ『狗屠』は娼妓を殺して回っているのだろう」
うめくように尋ねてくる関羽に、孔明は明快に答えた。
「これも推測ですが、かく乱のためでしょう。許都と新野とでそれぞれ犯行におよんだことがわかっています。曹操のお膝元と、われらの目と鼻の先とで、町を混乱させるためではなかったかと」
答えたものの、孔明は、もうひとつの可能性を口にのぼらせることははばかった。
もうひとつの可能性。
それは、趙雲が娼妓の死体を見て言った『激情が感じられた』という言葉にかかわりがある。
もしかしたら、『狗屠』という殺人鬼は、間諜などではなく、純粋に人を殺してまわるのが好きな狂人ではないのか。
そして、それを一員に加えている『壺中』は、かなり危険な相手ではないのか。
だがそれも、推測のひとつにすぎない。
余計なことばで、みなの不安を煽るのは、この場合、得策ではない。
ただでさえ、斐仁のことがきっかけで、劉表と戦になってしまうかもしれないという局面なのだ。
「だが、わからないことがひとつあるな。なんだって、斐仁は足が悪いフリをしていたのだい。ふつうにしていたほうが、動き回りやすかっただろうに」
張飛がするどいところを突いてくる。
孔明も、そこはわからないところであった。
素直に、わからないと答える。
「どうして斐仁が足が悪いフリをしていたのかはわかりませぬ。襄陽の斐仁に直接問いただせば、なにかわかるかもしれない」
「なるほど、それで急いで襄陽城へ行ったほうがいいということか。しかし軍師。軍師と子龍と伊機伯どのだけで乗り込むので大丈夫なのかい。程子文という男が殺されたことで、劉公子(劉琦)は謀反の疑いがあると父君の劉表どのににらまれているわけだろう。軍師や子龍も巻き添えを食わないだろうか」
「そうかといって、大勢で乗り込んでは、かえって相手を刺激します。わたしと子龍のふたりなら、かえって身軽でよい」
「しかし、いまこうしているあいだにも状況が動いて、劉公子が囚われてしまっているということはないか」
言いつつ、劉備がちらりと、青くなっている伊籍《いせき》のほうを見る。
伊籍は水を向けられたとわかったようで、顔をあげて答えた。
「わたしの仲間たちが残って劉公子をお守りしております。いまのところ早馬も届いておりませぬし、大丈夫でしょう。しかし、なるべく急いで戻らねばなりませぬ」
伊籍はもともと朗《ほが》らかな男なのだが、さすがに主君と定めた劉琦が危ないためか、青ざめて、なぜかきょろきょろと周囲をうかがっている。
ひとりだけ襄陽の人間だから居心地が悪いというだけではあるまい。
孔明は、すこし怯えすぎなのでは、とすら思った。
「待たれよ、これが罠ではないと言い切れないのでは?」
張りのある若者の声に、その場の全員が、はっとして声の主のほうに目を集めた。
憤怒の表情を浮かべた劉封であった。
劉封は、孔明が隆中《りゅうちゅう》から出仕する前に、劉備に見込まれて養子となった人物である。
劉表の一族につながる血筋の若者で、それゆえに、はっきりとは口に出さないが、いずれ劉備が天下に名乗りを上げる日が来た時には、劉表やその息子たちを差し置いて、自分が荊州を守っていくのだという大望《たいもう》を抱いているようであった。
つづく
「これは推測ですが、『狗屠《くと》』と『壺中』はつながっているのではないでしょうか。子龍と夏侯蘭が、『狗屠』を追うと、同時に『壺中』も危うくなる。わが君のことを『壺中』が探っていたことも露見してしまう。
そこで、斐仁は夏侯蘭を襲った。成功すれば、つぎに子龍を襲うつもりだったのでしょう。
しかし、夏侯蘭を殺せず失敗してしまった。そこで、見せしめのために『壺中』に家族を殺されてしまったのです」
「軍師、なにゆえ『狗屠』は娼妓を殺して回っているのだろう」
うめくように尋ねてくる関羽に、孔明は明快に答えた。
「これも推測ですが、かく乱のためでしょう。許都と新野とでそれぞれ犯行におよんだことがわかっています。曹操のお膝元と、われらの目と鼻の先とで、町を混乱させるためではなかったかと」
答えたものの、孔明は、もうひとつの可能性を口にのぼらせることははばかった。
もうひとつの可能性。
それは、趙雲が娼妓の死体を見て言った『激情が感じられた』という言葉にかかわりがある。
もしかしたら、『狗屠』という殺人鬼は、間諜などではなく、純粋に人を殺してまわるのが好きな狂人ではないのか。
そして、それを一員に加えている『壺中』は、かなり危険な相手ではないのか。
だがそれも、推測のひとつにすぎない。
余計なことばで、みなの不安を煽るのは、この場合、得策ではない。
ただでさえ、斐仁のことがきっかけで、劉表と戦になってしまうかもしれないという局面なのだ。
「だが、わからないことがひとつあるな。なんだって、斐仁は足が悪いフリをしていたのだい。ふつうにしていたほうが、動き回りやすかっただろうに」
張飛がするどいところを突いてくる。
孔明も、そこはわからないところであった。
素直に、わからないと答える。
「どうして斐仁が足が悪いフリをしていたのかはわかりませぬ。襄陽の斐仁に直接問いただせば、なにかわかるかもしれない」
「なるほど、それで急いで襄陽城へ行ったほうがいいということか。しかし軍師。軍師と子龍と伊機伯どのだけで乗り込むので大丈夫なのかい。程子文という男が殺されたことで、劉公子(劉琦)は謀反の疑いがあると父君の劉表どのににらまれているわけだろう。軍師や子龍も巻き添えを食わないだろうか」
「そうかといって、大勢で乗り込んでは、かえって相手を刺激します。わたしと子龍のふたりなら、かえって身軽でよい」
「しかし、いまこうしているあいだにも状況が動いて、劉公子が囚われてしまっているということはないか」
言いつつ、劉備がちらりと、青くなっている伊籍《いせき》のほうを見る。
伊籍は水を向けられたとわかったようで、顔をあげて答えた。
「わたしの仲間たちが残って劉公子をお守りしております。いまのところ早馬も届いておりませぬし、大丈夫でしょう。しかし、なるべく急いで戻らねばなりませぬ」
伊籍はもともと朗《ほが》らかな男なのだが、さすがに主君と定めた劉琦が危ないためか、青ざめて、なぜかきょろきょろと周囲をうかがっている。
ひとりだけ襄陽の人間だから居心地が悪いというだけではあるまい。
孔明は、すこし怯えすぎなのでは、とすら思った。
「待たれよ、これが罠ではないと言い切れないのでは?」
張りのある若者の声に、その場の全員が、はっとして声の主のほうに目を集めた。
憤怒の表情を浮かべた劉封であった。
劉封は、孔明が隆中《りゅうちゅう》から出仕する前に、劉備に見込まれて養子となった人物である。
劉表の一族につながる血筋の若者で、それゆえに、はっきりとは口に出さないが、いずれ劉備が天下に名乗りを上げる日が来た時には、劉表やその息子たちを差し置いて、自分が荊州を守っていくのだという大望《たいもう》を抱いているようであった。
つづく