ほのほのと穏やかな日差しが、襄陽城市の屋根と屋根のあいだをこぼれていた。
秋の、風のない日であったから、午後に家の手伝いから解放された子供たちは、みんなであつまって合戦ごっこをやっている。
子供たちは二手にわかれ、剣や槍の代わりに棒きれを持って、互いの陣地をはげしく奪い合って遊んでいた。
それを見守っているのは軒先の下にちいさな竹でこさえた腰掛け椅子に座っている老爺だ。
日に灼けてしわくちゃで、まるでたくさん日に干した果物のような顔をして、にこにこと孫をふくめた子供たちの遊ぶ姿を見つめている。
丸く曲がった腰のとなりには杖が置かれているが、かつてこの穏やかそうな老爺が、官軍側の兵卒として黄巾党と戦ったことは、ほとんどの商店街の者たちがおぼえていない。
ほんの十余年前の話だというのに。
老爺はそのときに支給された恩給を元手にちいさな商売をはじめ、その後、息子夫婦に跡を継がせた。
その息子夫婦に商才があったので、いまでは襄陽の市のなかでも大きな店を構えられるようになった。
だが、そのあれやこれやは、これから語られる話には関係ないので割愛する。
路地のなかでも、土塀の影になっているところに陣地をかまえた子供たちは、『劉表・張繍軍』、一方、秋の日差しをいっぱいにうけて、猛々しく棒きれを振るっている子供たちは『曹操軍』だ。
老爺のみたところ、曹操軍に扮している子供たちのほうが優勢。
劉表・張繍軍のほうが分が悪い。
それでも、劉表・張繍側は負ける気はないらしく、
「曹賊め、おとなしく許昌へ帰れ!」
などと悪態をついて、曹操軍に扮している子供たちを挑発する。
ときどき、素にかえった子供が、
「おいら、荊州に住んでいるのだから、やっぱり劉表軍がいいなあ」
などとぼやく。
すると、すかさずガキ大将が。
「雰囲気をこわすな、ばか! おれたちは曹操軍でいいんだ」
と頭をぽかりとするのだ。
べそをかき出した子供を、気の優しい子供がなぐさめたり、ガキ大将の手下がからかって、ますますいじめたり。
そこへ、機は熟したとばかり、劣勢だった劉表・張繍軍が一気に攻めてきて、おおさわぎ。
路地は今日もにぎやかである。
老爺は子供たちを黙ってじっと見つめていた。
かれは誰かが怪我でもしないかぎり、口を出さない。
子供たちも心得ていて、どんなに乱暴なことをしていても、けして弱い者いじめをしすぎないでいた。
怪我をしそうな手前で、遊びをやめるのである。
それがわかっているので、老爺もよほどでないかぎりは介入しないのだ。
夏のそれとはちがって、刺すようなきつい日差しとはちがう、眠気を誘うような穏やかな日差しが老爺を照らしている。
子供たちのたてる足音と、ほこりのにおい。
ときどき聞こえる、どこかの番犬の吼え声。
子供たちをよけて通る襄陽の人々の顔もおだやかで、だれも遊ぶ子供たちをうるさいだの、じゃまだのといって叱ったりしない。
いつもと同じおだやかな風景だった。
うす緑色を基調とした衣裳をまとった少年があらわれるまでは。
老爺は子供たちをうまく避けてこちらにまっすぐやってくる少年に気づき、おや、と思った。
詩的に表現することを得意としていない老爺でも、その少年を見て、
「春が向こうから歩いてやってきた」
そんな風に思ったものである。
さわやかな色合いの衣のその少年は、年頃は十七くらいだろうか。
このあたりでは、なかなか見かけない顔である。
仮にかれに一度会っていたなら、老爺はけして忘れなかっただろう。
その少年の、そのあまりの美貌ゆえに。
すらりとした肢体で、颯爽と歩くその少年は、夢中になって遊ぶ子供たちをよけ、老爺の前に立った。
少年が何も言わないうちに、おもわず老爺はたずねていた。
「女の子かい? 男の子かい?」
少年は気を悪くしたふうでもなく、困ったように笑った。
そう問われることに慣れているようである。
色白で、真っ黒で癖のない髪をして、好奇心に満ちた顔。
衣裳の趣味や質を見るまでもなく、いかにも育ちがよさそうで、曲がった老爺の背もいくらか伸びてしまうほどに、凛とした空気をまとっていた。
『愚問だったわい、こりゃ男だ』
老爺はこころのなかで、ちっ、ちっ、と自分に舌打ちをした。
深窓の美少女のように見えた少年だったが、近づいて見上げてみると、のどぼとけの存在はもちろん、その双眸にたくましさと知性の輝きがあるのがはっきりわかったのだ。
「おじいさん、お尋ねしたいことがあるのですが」
風貌から想像させる声より、さらに涼しげでよく通る声で少年は問うてきた。
「ここを深緑色の衣を着た四十くらいの男の人がとおりませんでしたか。
怪我をしているので、片足をすこし引きずっています。
それに、おじいさんくらい日に灼けていて、目じりに笑い皺があるのです」
「ああ、そのひとなら、だいぶ前にここを通っていったな。名前は知らんがね」
「どこへ行きましたか」
「探してどうなさる」
「叔父なのです。そろそろ門限になりますので、迎えにまいりました」
「そうかい、それなら、あの酒店に入っていったよ」
老爺は市場からすこし離れたところにある酒店を少年に教えた。
酒店の前では、あまり身ぎれいではない男たちが、それぞれ囲碁の勝負に熱中していた。
「ありがとうございます、これで叔父と宿に帰れます」
少年は丁寧にお辞儀をして、そのまま去ろうとした。
その背中に、老爺はつい声をかける。
「あんたさんは、徐州から来なさったかね」
少年はきれいに描いたような眉をなぜか悲しそうに曇らせ、答えた。
「ついこのあいだまでいたのは揚州ですが、もとは徐州の出です。どうしてわかったのですか」
「徐州の訛りがあるからね。そうかい、徐州かい、苦労なすったね」
曹操が徐州で大虐殺をおこなったことは、襄陽のひとびとのあいだにも生々しい記憶として残っていた。
曹操側は父親を殺されたその報復だと喧伝していたが、だからといって、罪のない民を理不尽に殺していいという理由にはならない。
殺された民の遺体で、河がせき止められたほどの凄惨な虐殺だったとも聞く。
この目の前の美麗な少年は気の毒に、その悲劇を目の当たりにしたにちがいないのだ。
「襄陽はまだ平和だよ、いつまでここにいるのか知らないが、ゆっくりしておいき」
「ありがとうございます」
少年は微笑むと、今度こそ老爺の前から去った。
ほんのすこしだけ言葉をかわしただけだというのに、少年が去った後は、老爺はなつかしい者が去っていった時のような、ひどく寂しい気持ちになったほどであった。
つづく
(2023/01/29 冒頭部分の原稿を、物語の雰囲気に沿ったものに差し替えました)