ピエロは刑務所内の暴動首謀者を気まぐれに指摘した。管理者側の隊長らはピエロを管理者側に抱き込むことで差し当たり首謀者たちを処刑して事態を収めることができる。ピエロは堂々と振る舞った。その指摘する仕ぐさは「天の声」として作用した。他の囚人たち、とりわけ大人の囚人たちから嫌悪と軽蔑とを一身に浴びてなお堂々とピエロは振る舞った。しかしピエロが指摘した囚人たちには明確な共通性があった。「彼自身未丁年だったので、若者の分隊のなかから、若者だけを指摘した」という点である。
「即席で彼は自分の気にくわない顔ぶれを指摘したのだ。それに、彼自身未丁年だったので、若者の分隊のなかから、若者だけを指摘した。みんなの軽蔑はーーーとりわけ青春と美貌の装いのもとに密告が通り過ぎるのを見る成人(おとな)たちの軽蔑はーーーますますあけすけになった」(ジュネ「葬儀・P.306」河出文庫)
目の前を「密告が通り過ぎるのを見る」とき、特に大人の囚人たちの軽蔑はあらわになる。経験上そうなる。それは大人の囚人たちが子どもだった頃からよく見慣れた光景の反復でもあったからだ。若年者が密告するとき、ほとんどの場合、同年代の若年者を密告する、という見慣れた光景。日本でも明治維新前後に多発した。帝国主義列強に包囲された日本は先進諸国によって完膚なきまでに去勢されたにも似た状態だった。しかし去勢されたと意識しているわけではない。これから闘うのだとおもっている。だから、去勢の否認が起こる。否認された去勢感情の反動は、実現されるべくどこか出口を求めて殺到する。明治維新の様々な研究ではもはや一致した見解になっていることだが、否認された去勢感情の反動の特徴として、その主目標は帝国主義列強ではなく日本の上層階級でもなく、紛れもない自分の所属する同一階級へと向けられる。そしてその闘争は熾烈を極めるという点である。帝国主義列強や日本の上層階級は、否認された去勢感情にとって乗り越えられない防壁に見える。そのためさらに膨張した去勢感情は行き場を失って向き換えられ、反動化し内攻し逆流し、自分の所属する自己階級へと向かう。列強諸国や上層階級は超えられない防波堤として作用する。ゆえに逆流した本能の力は自己階級の堤防を決壊させる。置き換えられた本能の力はすべて同一階級同士の自己破壊となり、同一階級同士でとことん殺し合うという方法を出口として発見するのである。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)
ピエロはなるほど犯罪者としては同じであっても、大人の囚人たちから向けられる軽蔑の重圧を、ますます過酷になるばかりの軽蔑の重圧を、どこまでも無視し抜き跳ね除けるために過剰な身ぶりで振る舞ってしまう。虚勢を張る。
「平気に見せるために、自分の役割にたいして、生贄を指摘しに赴くことで引き起す蔑みにたいして無頓着であるふりを装うために、ポケットに両手をつっこんだまま彼は荒くれ男の群の中へ分け入るのだった。視線から逃れるために」(ジュネ「葬儀・P.306」河出文庫)
ピエロがかたくなに虚勢を張れば張るほど逆に、刑務所の隊長の目にはピエロの言葉が疑わしくおもわれだす。もはやピエロの声は「天の声」ではなくなる。ただ単なる若年のちんぴらが自分の気にくわない他の若年のちんぴらを処刑場へ送り込むために過剰な身ぶりを見せつけているに過ぎなくなる。隊長の目はただ単なるふしあなではない。
「彼が尊大なきびしさを失うにつれて、若者にたいして隊長は盲目的な信頼を寄せなくなるのだった。躊いがちな態度、軽蔑をはぐらかすためのますます不良じみた物腰、ますますふてぶてしい振舞いなどは、おそらく、若者が嘘をついていることを仕官に告げる兆候にほかならなかった」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)
隊長は隊長なりに人間である。自分の嘘は棚上げするが少年の嘘をいつまでもそう簡単に放置しておくわけにもいかない。だが隊長は大人であり大人としてこう考える。
「いっとき隊長はそれを確かめたい気持を抱いた、がなにより物ぐさが、他人の生命にたいする無頓着がその気持を翻させた。『なんて汚ない野郎だ、このちんぴらは!』こうつぶやくのだった。そして彼はこの少年を愛さずには、心ひそかに彼と同盟を結ばずにはおれなかった」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)
なぜピエロとの「同盟」なのか。フランスの対独協力軍の立場と監獄内でのピエロの立場の同一性が生じているからである。
「フランスの暮らしのなかで<対独協力軍>は、いま現にこの若者が監獄の暮らしのなかで果しつつあるのと同じ役割を果たしていることを、自分に思い出させてくれたことで、若者にたいして彼は感謝の念さえ抱くのだった」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)
隊長はさらにこう考える。ピエロは大事だ。しかしもはや「天の声」でなくなったピエロなど、そこらへんに幾らでもごろごろ転がっているただ単なる不良少年の一人に過ぎない。若造に過ぎない。隊長は考えることで今後の見通しについて極力無駄を省こうとする。
「<対独協力軍>は裏切るために生まれてきたことを彼は誰よりもよく承知していた。恥辱がその上に重たくのしかかっていた。対独協力兵は各自勇気も、名誉も、さらに正義をも軽蔑するだけの鉄面皮ぶりを持ち合わさねばならない。それはときにはつらい仕事だ、だがものぐさが聖者に手をかすようにわれわれにも手をかしてくれる。この若造には対独協力兵が立派につとまるだろう」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)
隊長は考えながら突然言葉づかいの中に、これまで聞かれなかった響きを加える。
「(無実の連中を銃殺したところで、それがどうだというんだ?)このことに彼が考え及んだのは、若造が二十八人目の生贄の前に進み出て、『こいつもそうです』という二十七回繰返された簡単な言葉を口にして摘発し終えた寸前だった。その独房から若造は外に出かかっていた。看守が扉をしめにかかった、ところが隊長はピエロのほうを振りむくと、こう問いかけたのだ。『よく見たろうな?この部屋はたしかにこれで全部だな?』その声の中の思いがけない優しい調子を作り物と受け取って若造は動揺した」(ジュネ「葬儀・P.308」河出文庫)
ピエロを地上へ引きずり降ろし元のただ単なる不良少年に戻すことなど隊長にすればいともたやすい。言語としては同じでも言語ゆえに言語は常に両義的である。言語はパルマコン(医薬/毒薬)として作用する。隊長からピエロへ与えられる或る贈与あるいは時間的猶予。それは言語という形式で与えられる。言語を用いて与えられるパルマコン(医薬/毒薬)。それはピエロを「エコノミー的円環のうちへ引きずり込」む。どういうことか。
「人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.111』法政大学出版局)
「隊長の声は芝居がかっており、そのなかには一種残忍な皮肉が読み取れるように思われた。自分のいんちきが見破られるのではないかという恐れに若者は捕われた。顔から血の気が失せた」(ジュネ「葬儀・P.308」河出文庫)
それでもなお、というよりもちろん、隊長はピエロを優遇する。しかしその前にピエロは隊長によって用意された踏み絵を踏まねばならない。もしそれを踏まないとすればピエロの命はおそらくない、というような踏み絵を。
さて、アルトー。絢爛豪華を極める祝祭空間を開くヘリオガバルス。様々な出し物が次々と出現する。黄金の大盤振る舞いが行われる。観衆はローマの一般市民だ。市民の目にはそれら種々の姿形を取って宙を舞い地を踏み鳴らす無数の宝物が自分たちの手にも入るのではないかとおもう。実際、帝国の主要ポストは男性器の大小によって決定されたではないか。女性がどんどん送り込まれたではないか。ローマ市民はもしかしたら自分にもチャンスが到来したと錯覚する。錯覚させて見せるのはヘリオガバルスでありヘリオガバルス自身による身振り手振りである。ヘリオガバルスは市民の目の前で豪華な演劇を演じる。その演劇の腕前はたいへん巧みだ。
「ヘリオガバルスには踊り子らしいところはまったくないが、彼の登場には、ダンスの、すばらしいダンスの足さばきの価値がある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.181」河出文庫)
なぜアルトーは「ダンス」というのか。現代のダンスでもそうなのだがーーーとりわけクラッシック・バレエの振り付けにおいてその最も洗練された形式を見ることができるわけだがーーーその身振りはどれも象徴化されており、したがってとてもエコノミー(経済的/節約)だ。
「沈黙、つづいて炎が上がり、狂宴、乾いた狂宴が再び始まる。ヘリオガバルスは叫び声を寄せ集め、黒焦げになった生殖の激烈さを、死の激烈さ、むだな儀式を導く」(アルトー「ヘリオガバルス・P.181~182」河出文庫)
ヘリオガバルスは非常に計算高い。十代半ばにしては危険すぎるほどに。
「これらの道具と、これらの宝石と、それらの履物と、これらの衣服と、これらの織物、クロタル、シンバル、エジプトのタンブーラ、ギリシアの竪琴、シストラム、フルートなどといった弦と打楽器音楽のこれらの度外れなリスト、フルート、十弦琴(アソル)、ハープ、ネベル琴からなるこれらのオーケストラ、そしてまたこれらの幟(のぼり)、これらの動物、これらの獣の皮、これらの鳥の羽根は、当時の歴史に満ち満ちているのだが、太陽を運んでいるのだと想像している騎馬軍団の五万人の男たちに守られたこの怪物的豪華さ、この宗教的豪華さにはひとつの意味がある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.182」河出文庫)
古代の祝祭がどれほど派手で豪華で多額の費用を要したか。わかりそうなものだが、問題はその「騎馬軍団の五万人の男たちに守られたこの怪物的豪華さ」で戦争の記憶を消し去ってしまうだけではない。歴代ローマ皇帝の場合ならただそれだけで事足れりとしてしまうところだったかもしれない。ところがヘリオガバルスはそれにさらに「意味」があることを自らの《身体において》告げる。アルトーはこう予告する。演劇のシナリオとしては掟破りの書き込み過剰なのだが。
「歴史が語るところとは反対に、皇帝ヘリオガバルスのすべての行為に意味があるように、強力なひとつの儀式的な意味がある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.182」河出文庫)
盛大に催された「サトゥルヌナリア祭=ディオニュソス祭」。兵士みずからの手によって葬り去られる戦争の記憶。ヘリオガバルスの身体にこびりついている血の痕跡はたちまち消え去り跡形もない。ところがこの祝祭はヘリオガバルスのローマ入城をもって始めて完了したと見なされるべきものだ。そのときにヘリオガバルスが見せる身振りの一つ一つにもなお意味がある。むしろもはや特権と化した超越論的意味の炸裂が。だからその身振りは驚くべき意味あるいは価値、さらに価値の転倒さえも含んでいる。価値は変化する。のちにスピノザが述べたように人間は変化するだけでなく常に器用に変化していくものだからだ。
「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫)
スピノザが知っていたようにヘリオガバルスもまた、そしてスピノザより遥か昔に知っていた。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「即席で彼は自分の気にくわない顔ぶれを指摘したのだ。それに、彼自身未丁年だったので、若者の分隊のなかから、若者だけを指摘した。みんなの軽蔑はーーーとりわけ青春と美貌の装いのもとに密告が通り過ぎるのを見る成人(おとな)たちの軽蔑はーーーますますあけすけになった」(ジュネ「葬儀・P.306」河出文庫)
目の前を「密告が通り過ぎるのを見る」とき、特に大人の囚人たちの軽蔑はあらわになる。経験上そうなる。それは大人の囚人たちが子どもだった頃からよく見慣れた光景の反復でもあったからだ。若年者が密告するとき、ほとんどの場合、同年代の若年者を密告する、という見慣れた光景。日本でも明治維新前後に多発した。帝国主義列強に包囲された日本は先進諸国によって完膚なきまでに去勢されたにも似た状態だった。しかし去勢されたと意識しているわけではない。これから闘うのだとおもっている。だから、去勢の否認が起こる。否認された去勢感情の反動は、実現されるべくどこか出口を求めて殺到する。明治維新の様々な研究ではもはや一致した見解になっていることだが、否認された去勢感情の反動の特徴として、その主目標は帝国主義列強ではなく日本の上層階級でもなく、紛れもない自分の所属する同一階級へと向けられる。そしてその闘争は熾烈を極めるという点である。帝国主義列強や日本の上層階級は、否認された去勢感情にとって乗り越えられない防壁に見える。そのためさらに膨張した去勢感情は行き場を失って向き換えられ、反動化し内攻し逆流し、自分の所属する自己階級へと向かう。列強諸国や上層階級は超えられない防波堤として作用する。ゆえに逆流した本能の力は自己階級の堤防を決壊させる。置き換えられた本能の力はすべて同一階級同士の自己破壊となり、同一階級同士でとことん殺し合うという方法を出口として発見するのである。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)
ピエロはなるほど犯罪者としては同じであっても、大人の囚人たちから向けられる軽蔑の重圧を、ますます過酷になるばかりの軽蔑の重圧を、どこまでも無視し抜き跳ね除けるために過剰な身ぶりで振る舞ってしまう。虚勢を張る。
「平気に見せるために、自分の役割にたいして、生贄を指摘しに赴くことで引き起す蔑みにたいして無頓着であるふりを装うために、ポケットに両手をつっこんだまま彼は荒くれ男の群の中へ分け入るのだった。視線から逃れるために」(ジュネ「葬儀・P.306」河出文庫)
ピエロがかたくなに虚勢を張れば張るほど逆に、刑務所の隊長の目にはピエロの言葉が疑わしくおもわれだす。もはやピエロの声は「天の声」ではなくなる。ただ単なる若年のちんぴらが自分の気にくわない他の若年のちんぴらを処刑場へ送り込むために過剰な身ぶりを見せつけているに過ぎなくなる。隊長の目はただ単なるふしあなではない。
「彼が尊大なきびしさを失うにつれて、若者にたいして隊長は盲目的な信頼を寄せなくなるのだった。躊いがちな態度、軽蔑をはぐらかすためのますます不良じみた物腰、ますますふてぶてしい振舞いなどは、おそらく、若者が嘘をついていることを仕官に告げる兆候にほかならなかった」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)
隊長は隊長なりに人間である。自分の嘘は棚上げするが少年の嘘をいつまでもそう簡単に放置しておくわけにもいかない。だが隊長は大人であり大人としてこう考える。
「いっとき隊長はそれを確かめたい気持を抱いた、がなにより物ぐさが、他人の生命にたいする無頓着がその気持を翻させた。『なんて汚ない野郎だ、このちんぴらは!』こうつぶやくのだった。そして彼はこの少年を愛さずには、心ひそかに彼と同盟を結ばずにはおれなかった」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)
なぜピエロとの「同盟」なのか。フランスの対独協力軍の立場と監獄内でのピエロの立場の同一性が生じているからである。
「フランスの暮らしのなかで<対独協力軍>は、いま現にこの若者が監獄の暮らしのなかで果しつつあるのと同じ役割を果たしていることを、自分に思い出させてくれたことで、若者にたいして彼は感謝の念さえ抱くのだった」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)
隊長はさらにこう考える。ピエロは大事だ。しかしもはや「天の声」でなくなったピエロなど、そこらへんに幾らでもごろごろ転がっているただ単なる不良少年の一人に過ぎない。若造に過ぎない。隊長は考えることで今後の見通しについて極力無駄を省こうとする。
「<対独協力軍>は裏切るために生まれてきたことを彼は誰よりもよく承知していた。恥辱がその上に重たくのしかかっていた。対独協力兵は各自勇気も、名誉も、さらに正義をも軽蔑するだけの鉄面皮ぶりを持ち合わさねばならない。それはときにはつらい仕事だ、だがものぐさが聖者に手をかすようにわれわれにも手をかしてくれる。この若造には対独協力兵が立派につとまるだろう」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)
隊長は考えながら突然言葉づかいの中に、これまで聞かれなかった響きを加える。
「(無実の連中を銃殺したところで、それがどうだというんだ?)このことに彼が考え及んだのは、若造が二十八人目の生贄の前に進み出て、『こいつもそうです』という二十七回繰返された簡単な言葉を口にして摘発し終えた寸前だった。その独房から若造は外に出かかっていた。看守が扉をしめにかかった、ところが隊長はピエロのほうを振りむくと、こう問いかけたのだ。『よく見たろうな?この部屋はたしかにこれで全部だな?』その声の中の思いがけない優しい調子を作り物と受け取って若造は動揺した」(ジュネ「葬儀・P.308」河出文庫)
ピエロを地上へ引きずり降ろし元のただ単なる不良少年に戻すことなど隊長にすればいともたやすい。言語としては同じでも言語ゆえに言語は常に両義的である。言語はパルマコン(医薬/毒薬)として作用する。隊長からピエロへ与えられる或る贈与あるいは時間的猶予。それは言語という形式で与えられる。言語を用いて与えられるパルマコン(医薬/毒薬)。それはピエロを「エコノミー的円環のうちへ引きずり込」む。どういうことか。
「人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.111』法政大学出版局)
「隊長の声は芝居がかっており、そのなかには一種残忍な皮肉が読み取れるように思われた。自分のいんちきが見破られるのではないかという恐れに若者は捕われた。顔から血の気が失せた」(ジュネ「葬儀・P.308」河出文庫)
それでもなお、というよりもちろん、隊長はピエロを優遇する。しかしその前にピエロは隊長によって用意された踏み絵を踏まねばならない。もしそれを踏まないとすればピエロの命はおそらくない、というような踏み絵を。
さて、アルトー。絢爛豪華を極める祝祭空間を開くヘリオガバルス。様々な出し物が次々と出現する。黄金の大盤振る舞いが行われる。観衆はローマの一般市民だ。市民の目にはそれら種々の姿形を取って宙を舞い地を踏み鳴らす無数の宝物が自分たちの手にも入るのではないかとおもう。実際、帝国の主要ポストは男性器の大小によって決定されたではないか。女性がどんどん送り込まれたではないか。ローマ市民はもしかしたら自分にもチャンスが到来したと錯覚する。錯覚させて見せるのはヘリオガバルスでありヘリオガバルス自身による身振り手振りである。ヘリオガバルスは市民の目の前で豪華な演劇を演じる。その演劇の腕前はたいへん巧みだ。
「ヘリオガバルスには踊り子らしいところはまったくないが、彼の登場には、ダンスの、すばらしいダンスの足さばきの価値がある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.181」河出文庫)
なぜアルトーは「ダンス」というのか。現代のダンスでもそうなのだがーーーとりわけクラッシック・バレエの振り付けにおいてその最も洗練された形式を見ることができるわけだがーーーその身振りはどれも象徴化されており、したがってとてもエコノミー(経済的/節約)だ。
「沈黙、つづいて炎が上がり、狂宴、乾いた狂宴が再び始まる。ヘリオガバルスは叫び声を寄せ集め、黒焦げになった生殖の激烈さを、死の激烈さ、むだな儀式を導く」(アルトー「ヘリオガバルス・P.181~182」河出文庫)
ヘリオガバルスは非常に計算高い。十代半ばにしては危険すぎるほどに。
「これらの道具と、これらの宝石と、それらの履物と、これらの衣服と、これらの織物、クロタル、シンバル、エジプトのタンブーラ、ギリシアの竪琴、シストラム、フルートなどといった弦と打楽器音楽のこれらの度外れなリスト、フルート、十弦琴(アソル)、ハープ、ネベル琴からなるこれらのオーケストラ、そしてまたこれらの幟(のぼり)、これらの動物、これらの獣の皮、これらの鳥の羽根は、当時の歴史に満ち満ちているのだが、太陽を運んでいるのだと想像している騎馬軍団の五万人の男たちに守られたこの怪物的豪華さ、この宗教的豪華さにはひとつの意味がある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.182」河出文庫)
古代の祝祭がどれほど派手で豪華で多額の費用を要したか。わかりそうなものだが、問題はその「騎馬軍団の五万人の男たちに守られたこの怪物的豪華さ」で戦争の記憶を消し去ってしまうだけではない。歴代ローマ皇帝の場合ならただそれだけで事足れりとしてしまうところだったかもしれない。ところがヘリオガバルスはそれにさらに「意味」があることを自らの《身体において》告げる。アルトーはこう予告する。演劇のシナリオとしては掟破りの書き込み過剰なのだが。
「歴史が語るところとは反対に、皇帝ヘリオガバルスのすべての行為に意味があるように、強力なひとつの儀式的な意味がある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.182」河出文庫)
盛大に催された「サトゥルヌナリア祭=ディオニュソス祭」。兵士みずからの手によって葬り去られる戦争の記憶。ヘリオガバルスの身体にこびりついている血の痕跡はたちまち消え去り跡形もない。ところがこの祝祭はヘリオガバルスのローマ入城をもって始めて完了したと見なされるべきものだ。そのときにヘリオガバルスが見せる身振りの一つ一つにもなお意味がある。むしろもはや特権と化した超越論的意味の炸裂が。だからその身振りは驚くべき意味あるいは価値、さらに価値の転倒さえも含んでいる。価値は変化する。のちにスピノザが述べたように人間は変化するだけでなく常に器用に変化していくものだからだ。
「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫)
スピノザが知っていたようにヘリオガバルスもまた、そしてスピノザより遥か昔に知っていた。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM