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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー74

2019年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
ピエロは刑務所内の暴動首謀者を気まぐれに指摘した。管理者側の隊長らはピエロを管理者側に抱き込むことで差し当たり首謀者たちを処刑して事態を収めることができる。ピエロは堂々と振る舞った。その指摘する仕ぐさは「天の声」として作用した。他の囚人たち、とりわけ大人の囚人たちから嫌悪と軽蔑とを一身に浴びてなお堂々とピエロは振る舞った。しかしピエロが指摘した囚人たちには明確な共通性があった。「彼自身未丁年だったので、若者の分隊のなかから、若者だけを指摘した」という点である。

「即席で彼は自分の気にくわない顔ぶれを指摘したのだ。それに、彼自身未丁年だったので、若者の分隊のなかから、若者だけを指摘した。みんなの軽蔑はーーーとりわけ青春と美貌の装いのもとに密告が通り過ぎるのを見る成人(おとな)たちの軽蔑はーーーますますあけすけになった」(ジュネ「葬儀・P.306」河出文庫)

目の前を「密告が通り過ぎるのを見る」とき、特に大人の囚人たちの軽蔑はあらわになる。経験上そうなる。それは大人の囚人たちが子どもだった頃からよく見慣れた光景の反復でもあったからだ。若年者が密告するとき、ほとんどの場合、同年代の若年者を密告する、という見慣れた光景。日本でも明治維新前後に多発した。帝国主義列強に包囲された日本は先進諸国によって完膚なきまでに去勢されたにも似た状態だった。しかし去勢されたと意識しているわけではない。これから闘うのだとおもっている。だから、去勢の否認が起こる。否認された去勢感情の反動は、実現されるべくどこか出口を求めて殺到する。明治維新の様々な研究ではもはや一致した見解になっていることだが、否認された去勢感情の反動の特徴として、その主目標は帝国主義列強ではなく日本の上層階級でもなく、紛れもない自分の所属する同一階級へと向けられる。そしてその闘争は熾烈を極めるという点である。帝国主義列強や日本の上層階級は、否認された去勢感情にとって乗り越えられない防壁に見える。そのためさらに膨張した去勢感情は行き場を失って向き換えられ、反動化し内攻し逆流し、自分の所属する自己階級へと向かう。列強諸国や上層階級は超えられない防波堤として作用する。ゆえに逆流した本能の力は自己階級の堤防を決壊させる。置き換えられた本能の力はすべて同一階級同士の自己破壊となり、同一階級同士でとことん殺し合うという方法を出口として発見するのである。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

ピエロはなるほど犯罪者としては同じであっても、大人の囚人たちから向けられる軽蔑の重圧を、ますます過酷になるばかりの軽蔑の重圧を、どこまでも無視し抜き跳ね除けるために過剰な身ぶりで振る舞ってしまう。虚勢を張る。

「平気に見せるために、自分の役割にたいして、生贄を指摘しに赴くことで引き起す蔑みにたいして無頓着であるふりを装うために、ポケットに両手をつっこんだまま彼は荒くれ男の群の中へ分け入るのだった。視線から逃れるために」(ジュネ「葬儀・P.306」河出文庫)

ピエロがかたくなに虚勢を張れば張るほど逆に、刑務所の隊長の目にはピエロの言葉が疑わしくおもわれだす。もはやピエロの声は「天の声」ではなくなる。ただ単なる若年のちんぴらが自分の気にくわない他の若年のちんぴらを処刑場へ送り込むために過剰な身ぶりを見せつけているに過ぎなくなる。隊長の目はただ単なるふしあなではない。

「彼が尊大なきびしさを失うにつれて、若者にたいして隊長は盲目的な信頼を寄せなくなるのだった。躊いがちな態度、軽蔑をはぐらかすためのますます不良じみた物腰、ますますふてぶてしい振舞いなどは、おそらく、若者が嘘をついていることを仕官に告げる兆候にほかならなかった」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)

隊長は隊長なりに人間である。自分の嘘は棚上げするが少年の嘘をいつまでもそう簡単に放置しておくわけにもいかない。だが隊長は大人であり大人としてこう考える。

「いっとき隊長はそれを確かめたい気持を抱いた、がなにより物ぐさが、他人の生命にたいする無頓着がその気持を翻させた。『なんて汚ない野郎だ、このちんぴらは!』こうつぶやくのだった。そして彼はこの少年を愛さずには、心ひそかに彼と同盟を結ばずにはおれなかった」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)

なぜピエロとの「同盟」なのか。フランスの対独協力軍の立場と監獄内でのピエロの立場の同一性が生じているからである。

「フランスの暮らしのなかで<対独協力軍>は、いま現にこの若者が監獄の暮らしのなかで果しつつあるのと同じ役割を果たしていることを、自分に思い出させてくれたことで、若者にたいして彼は感謝の念さえ抱くのだった」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)

隊長はさらにこう考える。ピエロは大事だ。しかしもはや「天の声」でなくなったピエロなど、そこらへんに幾らでもごろごろ転がっているただ単なる不良少年の一人に過ぎない。若造に過ぎない。隊長は考えることで今後の見通しについて極力無駄を省こうとする。

「<対独協力軍>は裏切るために生まれてきたことを彼は誰よりもよく承知していた。恥辱がその上に重たくのしかかっていた。対独協力兵は各自勇気も、名誉も、さらに正義をも軽蔑するだけの鉄面皮ぶりを持ち合わさねばならない。それはときにはつらい仕事だ、だがものぐさが聖者に手をかすようにわれわれにも手をかしてくれる。この若造には対独協力兵が立派につとまるだろう」(ジュネ「葬儀・P.307」河出文庫)

隊長は考えながら突然言葉づかいの中に、これまで聞かれなかった響きを加える。

「(無実の連中を銃殺したところで、それがどうだというんだ?)このことに彼が考え及んだのは、若造が二十八人目の生贄の前に進み出て、『こいつもそうです』という二十七回繰返された簡単な言葉を口にして摘発し終えた寸前だった。その独房から若造は外に出かかっていた。看守が扉をしめにかかった、ところが隊長はピエロのほうを振りむくと、こう問いかけたのだ。『よく見たろうな?この部屋はたしかにこれで全部だな?』その声の中の思いがけない優しい調子を作り物と受け取って若造は動揺した」(ジュネ「葬儀・P.308」河出文庫)

ピエロを地上へ引きずり降ろし元のただ単なる不良少年に戻すことなど隊長にすればいともたやすい。言語としては同じでも言語ゆえに言語は常に両義的である。言語はパルマコン(医薬/毒薬)として作用する。隊長からピエロへ与えられる或る贈与あるいは時間的猶予。それは言語という形式で与えられる。言語を用いて与えられるパルマコン(医薬/毒薬)。それはピエロを「エコノミー的円環のうちへ引きずり込」む。どういうことか。

「人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.111』法政大学出版局)

「隊長の声は芝居がかっており、そのなかには一種残忍な皮肉が読み取れるように思われた。自分のいんちきが見破られるのではないかという恐れに若者は捕われた。顔から血の気が失せた」(ジュネ「葬儀・P.308」河出文庫)

それでもなお、というよりもちろん、隊長はピエロを優遇する。しかしその前にピエロは隊長によって用意された踏み絵を踏まねばならない。もしそれを踏まないとすればピエロの命はおそらくない、というような踏み絵を。

さて、アルトー。絢爛豪華を極める祝祭空間を開くヘリオガバルス。様々な出し物が次々と出現する。黄金の大盤振る舞いが行われる。観衆はローマの一般市民だ。市民の目にはそれら種々の姿形を取って宙を舞い地を踏み鳴らす無数の宝物が自分たちの手にも入るのではないかとおもう。実際、帝国の主要ポストは男性器の大小によって決定されたではないか。女性がどんどん送り込まれたではないか。ローマ市民はもしかしたら自分にもチャンスが到来したと錯覚する。錯覚させて見せるのはヘリオガバルスでありヘリオガバルス自身による身振り手振りである。ヘリオガバルスは市民の目の前で豪華な演劇を演じる。その演劇の腕前はたいへん巧みだ。

「ヘリオガバルスには踊り子らしいところはまったくないが、彼の登場には、ダンスの、すばらしいダンスの足さばきの価値がある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.181」河出文庫)

なぜアルトーは「ダンス」というのか。現代のダンスでもそうなのだがーーーとりわけクラッシック・バレエの振り付けにおいてその最も洗練された形式を見ることができるわけだがーーーその身振りはどれも象徴化されており、したがってとてもエコノミー(経済的/節約)だ。

「沈黙、つづいて炎が上がり、狂宴、乾いた狂宴が再び始まる。ヘリオガバルスは叫び声を寄せ集め、黒焦げになった生殖の激烈さを、死の激烈さ、むだな儀式を導く」(アルトー「ヘリオガバルス・P.181~182」河出文庫)

ヘリオガバルスは非常に計算高い。十代半ばにしては危険すぎるほどに。

「これらの道具と、これらの宝石と、それらの履物と、これらの衣服と、これらの織物、クロタル、シンバル、エジプトのタンブーラ、ギリシアの竪琴、シストラム、フルートなどといった弦と打楽器音楽のこれらの度外れなリスト、フルート、十弦琴(アソル)、ハープ、ネベル琴からなるこれらのオーケストラ、そしてまたこれらの幟(のぼり)、これらの動物、これらの獣の皮、これらの鳥の羽根は、当時の歴史に満ち満ちているのだが、太陽を運んでいるのだと想像している騎馬軍団の五万人の男たちに守られたこの怪物的豪華さ、この宗教的豪華さにはひとつの意味がある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.182」河出文庫)

古代の祝祭がどれほど派手で豪華で多額の費用を要したか。わかりそうなものだが、問題はその「騎馬軍団の五万人の男たちに守られたこの怪物的豪華さ」で戦争の記憶を消し去ってしまうだけではない。歴代ローマ皇帝の場合ならただそれだけで事足れりとしてしまうところだったかもしれない。ところがヘリオガバルスはそれにさらに「意味」があることを自らの《身体において》告げる。アルトーはこう予告する。演劇のシナリオとしては掟破りの書き込み過剰なのだが。

「歴史が語るところとは反対に、皇帝ヘリオガバルスのすべての行為に意味があるように、強力なひとつの儀式的な意味がある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.182」河出文庫)

盛大に催された「サトゥルヌナリア祭=ディオニュソス祭」。兵士みずからの手によって葬り去られる戦争の記憶。ヘリオガバルスの身体にこびりついている血の痕跡はたちまち消え去り跡形もない。ところがこの祝祭はヘリオガバルスのローマ入城をもって始めて完了したと見なされるべきものだ。そのときにヘリオガバルスが見せる身振りの一つ一つにもなお意味がある。むしろもはや特権と化した超越論的意味の炸裂が。だからその身振りは驚くべき意味あるいは価値、さらに価値の転倒さえも含んでいる。価値は変化する。のちにスピノザが述べたように人間は変化するだけでなく常に器用に変化していくものだからだ。

「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫)

スピノザが知っていたようにヘリオガバルスもまた、そしてスピノザより遥か昔に知っていた。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー73

2019年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
リトンの背後に密着することに成功したエリック。しかし不安である。リトンは本当にエリックを受け入れてくれているのかどうか。ただ単にエリックが年長のドイツ軍人でありリトンにすれば逆らいようがないため仕方なく受け入れる仕ぐさで応じているに過ぎないのではなかろうか。それは愛する相手の心情の揺れを測りかねている恋人の苦悩に似ている。ところがリトンの様子をそっとうかがうエリックの目に、リトンの興奮が、リトンの身体の変化を通して、可視化される。エリックは自信を得る。

「ほとんど目立たぬいくつかの徴候、ますます身内にみなぎる一種のちからと、確信と、いっそうの奮闘と、額にひじむ汗と、さらに陰茎(さお)への手ごたえのおとろえなどから、自分が勝利をおさめつつあるのをエリックは感じ取るのだった。少年はものにされたのだ」(ジュネ「葬儀・P.303」河出文庫)

地下鉄は真っ暗なのだが駅で停車するごとに電灯に照らされる。

「明かりがついた。車内はほとんどからっぽだった、そして恐れから罵倒するのをひかえてはいたが、ゆきずりの情事にふけり、背と腹とでくっつき合っている、広場で平気でつるむ犬にもひとしい、淫らな、恥知らずな二人の兵士にみんなの目が注がれていた」(ジュネ「葬儀・P.304」河出文庫)

二人は恥を知っている。しかし「ゆきずりの情事にふけ」る「二人の兵士」は、なぜそれが恥とされるのか知らない。二人を蔑視している「みんなの目」の側もまた、自分たち個々別々の「目」がいつどうやって「みんなの目」に変化し、二人の行為に向けて「注がれて」離れないのかを知らない。すでにファシズム化した「みんなの目」は、なぜ自分たちがエリックとリトンとが織りなす行為に注ぎ込まれて離れないまでに凝固してしまっているのか、知らないにもかかわらず「みんなの目」は軽蔑のかぎりを込めて言う。「恥を知りなさい」と。なぜそうなのかを知りもしない分際で。なるほど二人の行為は醜いかもしれない。しかし醜いのならさっさと自分の目だけをその光景から立ち去らせればよい。なのになぜ逆に凝視したまま固まってしまっているのか。

「しかしゾラは?しかしゴンクール兄弟は?ーーー彼らが示す事物は、醜い。しかし、彼らがこれらのものを示すという《事実》は、彼らが《こうした醜いものに快感をおぼえた》ということにもとづいているーーー諸君がこれとは別の主張をするなら、自己欺瞞(ぎまん)にかかっている」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二一・P.337」ちくま学芸文庫)

「エリックとリトンはすぐさま同時に、まるで犬の毛の間から飛び出している、血のように赤い、小さなむき出しのちんぼうによって表わされでもしたかのような自分たちの破廉恥ぶりに気がついた。申し合わせたように、二人は車から降りた」(ジュネ「葬儀・P.304」河出文庫)

本当の理由などさっぱりわからないのだが、周囲のファシズム化した「みんなの目」は二人をただちに電車の外へ追放した。二人もまたただ単なる慣習に従う。嫌なものを見せつけられるのは見る側にとってたいへん嫌で迷惑な経験だ。しかしそれが嫌なものに見えて仕方がないのはそこに自分自身の「恥部」を、普段は覆い隠すことにしている「恥部」を見るからにほかならない。だから頭ごなしに全否定するのではなく、「やるなら外でやってくれ」、という形式的非難が発生する。あるいは「道徳」という形を取った《刑罰》が発生する。その意味で歴史が刑罰を作ったのではなく、逆に刑罰の歴史が世界史を加工=変造し「でっち上げ」、刑罰を与える側が「増大する力の感情」で一杯になるとともに最大限の快感を得られるよう常に修正され続けてきたといえる。しかし道徳というものは歴史が証明しているように様々に変化してきた。変化するその都度、変化に取り残された人間らは嘲笑され社会から拒否され追放されてきた。道徳は変化する。変化してきた。ファシズムを組織し、ファシズム自体を道徳としてまかり通らせてきた。ナチスのドイツ、スターリンのロシア、さらに今では自由貿易を放棄したアメリカ、一党独裁の中国、等々、どれも神あるいは道徳の名において実行された暴力共同体の別名である。道徳は無責任極まりない特徴を持つ。

「己れの美貌にたいする自覚は大いに自信を授けるものだ、さらに筋骨のたくましさも、そのうえ自分の背後に、頼もしい防壁のように、<国防軍>の黒い不気味な集団が控えているとあっては、それでもエリックは車内からホームへ降りるやいなや、かすかな気おくれをおぼえた。最初に口をきいて先導したのはリトンのほうだった」(ジュネ「葬儀・P.304」河出文庫)

ところが、たまたま通りがかった自動販売機のガラス面に映った、自分の姿を見てエリックは自信を取り戻す。自動販売機のガラス面はたいへん狭いものだがその役割は途方もなく大きい。それは思いがけず《鏡》の役割を果たした。しかし《鏡》はどのようにしてそれをしでかすものなのか。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)

要するに主導権は《鏡》の側にあってエリックの側にない。そもそもエリックは自分が人間であることを知らない。人間エリックをエリックの目の前に映し出し証明してエリックの側に与えるのはあくまでも《鏡》の側である。だが鏡は沈黙を貫く。主導権が問われることはない。エリックはどんな人間なのか。どんな姿形をしているのか。そんなことは周囲の街路ですれ違う人間は誰も知らない。だがドイツ軍の戦車を操縦する兵士としてのエリックのことは誰もが知っている。

「『エリック・ザイラーは俺のほかにはいないのだ』その確信が彼を奮い立たせるのだった。道行く連中は誰ひとり彼の顔を知らないことは確実だった、が民衆はエリック・ザイラーの存在を知っており、そして自分だけがそれになりうることを彼は心得ていた」(ジュネ「葬儀・P.305」河出文庫)

戦車兵はたくさんいる。その意味ではエリックの代わりは幾らでもいる。けれども、ほかでもない《この》エリックになれるのはほかに誰もいない。そのわけは以前触れたようにエリックと死刑執行人との同性愛関係によって保障されたものだ。ただ単なるナチスドイツ兵士では《ない》というエリックの自負はそこに一つの強靭な根拠を持つ。悪への階段をのぼるためにエリックが費やした罪悪の質量は他のナチス党員とは違っている。とりわけ少年殺害という奇妙な遠回りを演じている。窒息しそうになるほどの苦痛と苦悶とに満ちてのしかかってくる罪悪感に圧倒されんばかりになりながらも克服されるに至った奇妙な味わいの遠回り。戦時とはまったく異なり、平時において悪への階段を一人でのぼるには、途方もない力が、或る種の論理的知性が、必要とされる。その困難を乗り越えるにあたって大きく背中を押してくれたのはベルリンの死刑執行人との倒錯的情交である。それは官能への意志であり、すなわち、姿形を取り換えた残忍さである。ところが戦争は一度始まってしまえば倒錯でも何でもなくなってしまう。倒錯的行為から引き出すことができる様々な味わいのスイーツは一挙に溶けてなくなる。合法化されたからだ。さらにエリックは性格上、目立ちたいと思うタイプでない。ふつうに街路をぶらぶらしていてもそれがエリック・ザイラーだと周囲に気づかれてしまうのはかえって気まずく、どこか居心地が悪く間も悪い嫌な思いをするだけだ。本人がどのような人間かなどどうでもいい。ただ<有名>でありさえすればよいのだ。次にまとめて列挙されている。

「よしんば不名誉なものであるにせよ、すなわちかりに<名声>が栄光であるとして栄光と対立する性格のものであるにせよ、有名であるというだけで充分である」(ジュネ「葬儀・P.305」河出文庫)

この「有名である」ということは世間一般でいう「有名人」とは一切関係がない。エリックが所有しているような「有名さ」は人気投票で決まるものではない。スポーツで必要とされるような体力も実力もいらない。ただ必要なのは一人殺すのも三十人殺すのも同じことだという感覚を自分の身体に刻み込む技術である。この刻印は「殺人鬼」には見当たらず、どこにでもいるごく平均的な人間が輪郭明瞭な「殺人機械」に《なる》ことによって可視化される。人間はなんでも器用にこなす機械だ。器用にこなすようになるために必要な条件。それは「慣れ」であり「反復」がそうさせる、ということを知ることにある。しかし人間は、特定の作業に慣れて無関心で無感動な機械的処理をこなせるようになって始めて「慣れた」と認識するのであって、認識したときにはもうそれまでに経過してきた無限に多様な苦痛や苦労から《多様性》が消し去られて《単一》の学習過程へ還元されている。現代社会の言葉でいえば、あらかじめステレオタイプ化された、不意打ちなき、したがって何らの驚きもない一つの「思い出づくり」へと変化している。ましてや国家の要請に合わせて自分で自分自身を殺人機械の一部分化させたとは思いも寄らない。そもそもいつどこで量から質への転化があったのかという痕跡など跡形もなく忘れ去られてしまっている。一つの自分の身体は一つの自分の身体のままだからとも言えるだろう。人格としては多種多様に分裂し、もはやあらわに別人化していてもなお一つの身体としてまとまっている以上人格的にも同一だと信じて疑わない。周囲もまた、他人の変化にもかかわらずその同一性にはほとんど何らの疑問も抱かない。周囲も同時に変化しているかぎり、事態には何らの変化も起こっていないと映って見える。ジュネが考える一般的平均的社会人(おとな)とはその種のカメレオン的技術、戦時中のフランス人が身につけたような自己瞞着の技術に長けた人々のことだ。バルトは正当にもこのカメレオン的技術について、より一層繊細かつ示唆的な使用例に言及している。

「《告白》された多少の悪は、かくされた多くの悪を認めることを免除する」(バルト「神話作用・P.43」現代思潮社)

続いてジュネのフェチの系列が並ぶ。

「死刑執行人の情人(いろ)だったというだけで、彼の栄光にとって充分である。彼は有名で、若く、美貌で、金持ちで、頭がきれ、愛し、愛されていた」(ジュネ「葬儀・P.305」河出文庫)

小説家になるずっと前からのジュネの理想そのままと言えそうだ。もっとも、押しも押されもせぬフランスの、誰もが知る小説家になったのは中年を過ぎていたが。若年の頃のジュネは単なる犯罪者として有名だったに過ぎないが、それでも有名だったのは犯罪者仲間の中でも「変わり者」だったからだ。小説の中でもたびたび描かれているが、ジュネらしき登場人物はなぜかどれも仲間に対して保護者的態度を取ちがちだという特異点がある。とりわけ犯罪者であり同時に肉体美を兼ね備えた若年者に顕著な美的身振りに対して。と思っている暇もなく裏切るわけだが。孤児として生まれ育ったため、その代償行為として保護者的になったのだとサルトルはいう。けれどもすべての孤児がそうなるわけではない。むしろ実際は様々であってわざわざ分類分けしようとしても逆に混乱するばかりだ。それを考えるとサルトルの見解は説得力を欠くのではとおもわれる。現代社会では急速にわからなくなりつつあるが、むしろジュネは、当時の犯罪者の中でも「異質的なもの/差異的なもの」として行動している。ところが今やネット社会の実現によって世界のジュネ化は推進され明確に根拠づけられたように見えるのはなぜだろう。「泥棒、裏切り、種々の倒錯」。もはや誰も驚かなくなった。

「要するに、《やつは幸せの条件をすべてそなえている》と言うときに、民衆が思い浮かべ、数え立てるすべてを彼は所有していた。この並みはずれた存在の不幸も苦悩も従って高尚な源から発しているとより考えられなかった」(ジュネ「葬儀・P.305」河出文庫)

「高尚」とあるが、ジュネのいう「高尚さ」とは「近寄りがたさ」のことだ。エリックの場合、それを手に入れるためにわざわざ殺人を犯すことで、殺害行為を通して、殺害行為から、殺された少年が持っていた侮辱的なまでに美しい微笑の力を吸い込んだ。侮辱的なまでに美しい微笑の力は少年からエリックへと移動した。吸い込まれ移動した力はそれ自身の力によってエリックに固有の「近寄りがたさ」を与えた。無数の諸商品が貨幣と交換可能な状態に置かれるやいなや帯びる力のように。フェティシズム(物神崇拝)。他人にはとてもではないが実行困難な美貌の少年殺害という行為を、何度も襲いかかってくる躊躇に抵抗し、自分で自分を励まし、やり遂げ完了させた経験がエリックを社会的秩序の最も端に置き孤立化させた。エリックは自分でそれを実現した。この、「社会的秩序の最も端に置き孤立化させる」、というわざわざやらなくてもよいような作業。犯罪者として裁かれる場合、この「端」は瞬間的横移動であるにもかかわらず、なぜか急降下という形を取る。逆にたとえばノーベル賞受賞者に顕著なように、これ以上ないというほど尊敬の的となるとき、この「端」もまた瞬間的横移動に変わりはないものの、なぜか急上昇に映って見える。いずれにしても、それ以後、社会的移動を果たした人間はもはや別人への変化を余儀なくされており「近寄りがたさ」への加工=変造は済んでいる。問題は「力の移動/移動の力」である。そしてこの変動は価値観の相違によって「高尚」にも見え「汚辱」にも見える。ただ、犯罪者の場合、或る特権的郷愁(ノスタルジー)をも知ることになる。

「《犯罪者の悲哀》。ーーー犯罪者であることが発覚したとき、彼が苦しむのは犯罪ではなくて恥辱であり、馬鹿げたことをしたことに対する嫌悪であり、通例の生活必需品に不自由することである。この点を区別するためには、めったにないような敏感さを必要とする。刑務所や強制労働場にしばしば出入りした人ならだれでも、そこでは明確な『良心の呵責』に出会うことがどんなに珍しいかに驚く。しかもそれだけ一層多く、古くから馴染んでいる悪い犯罪への郷愁に出会う」(ニーチェ「曙光・三六六・P.333」ちくま学芸文庫)

さて、アルトー。ヘリオガバルスのアナーキー性はそのアナーキーぶりにもかかわらず「不条理で突飛な人間の法をでっち上げるという間違いをけっして犯さない」という特徴を上げる。

「にもかかわらずヘリオガバルスのアナーキーのなかにはもうひとつ別の観念がある。自分を神と信じ、自分の神と自分を同一視することで、彼は人間の法を、それを通して神が語っていたような、不条理で突飛な人間の法をでっち上げるという間違いをけっして犯さない」(アルトー「ヘリオガバルス・P.178」河出文庫)

なるほどそうだ。というのはローマ人がしょっちゅう口にする神が本当にいるとすれば、ヘリオガバルスはローマ人のいう「神の法」に従ってそれを忠実に実行に移したに過ぎないからである。

「彼は神の法に従うが、彼はその奥義を授けられたのであり、しかもあちこちでの行き過ぎや、幾つかのつまらぬ冗談を除けば、ヘリオガバルスは受肉した神の神秘的視点をけっして捨てなかったのだし、神の千年来の儀式に従っていることを認めねばならない」(アルトー「ヘリオガバルス・P.178~179」河出文庫)

ヘリオガバルスにとっての秩序はローマ人にとって無秩序あるいは無政府状態であるとしか見えない。しかしヘリオガバルスは根本的次元における周期性、回帰性、儀式性の修復者として出現している。

「ローマに到着したヘリオガバルスは元老院の男たちを追い出し、代わりに女たちを据える。ローマ人たちにとって、それは無政府状態なのであるが、テュロスの王位の基礎を築いた月経の宗教にとっては、そしてそれを適用するヘリオガバルスにとっては、そこにあるのは単なる均衡の回復、法への考え抜かれた回帰にすぎない、法をつくる権限は、最初に生まれ、宇宙秩序のなかに最初に到来した者である女性にあるからだ」(アルトー「ヘリオガバルス・P.179」河出文庫)

ヘリオガバルスは今でいう「フェミニスト」では何らない。そもそもそのような考え方がなかったから、とも言える。ヘリオガバルスの行為は近代フェミニズム的では《ない》。ましてや女性贔屓ではまったくない。月経の宗教を自身の出自に持つからというわけでもない。そうではなく遥かにずっと現実的である。人間は女性の身体から生まれてくる。ヘリオガバルス自身も女性の体内から生まれ出てきた。そうであるほかない。男性の精液が先でありなおかつ必要ではないかと問うことはできる。しかし地球がすっぽり沈むほど大量の精液をどれほど貯蓄したとしてもなお、女性の月経なしに、その周期性、回帰性なしに、人間の誕生はあり得ない。だからそれこそが法なのだ。そうヘリオガバルスは自分の思考を徹底する。徹底化し徹底的に適用する。ローマ帝国首脳陣から多数の男性を追い出しはするものの、代わりに「女たちを据え」ただけでない。男であろうが女であろうが帝国首脳陣はいついかなるときでも代理可能であるということを証明した。

なお、月経の宗教がもたらした周期性、回帰性、儀式性、とりわけそこから発生してくる利子という名の子ども。にもかかわらず近代の資本主義が男尊女卑的なものでしかなかったのは不可解におもえる。ところがしかし現代の資本主義は明らかに変化した。資本の果実を確実なものにする労働力商品であれば、年齢性別国籍の区別なく、人間でありさえすれば構わないという領域に到達した。ただ、人間でなくてはならないという条件は変更できない。どれほど高度な機械商品であってもそれはただそれだけでは何らの剰余価値も生まないからである。高度化した機械は世界を速度化し強度化し数値化する。けれども、労働力商品なしに剰余価値は発生しないし発生することはできない。アルトーに戻るとさらにもっと面白いことがある。

主要ポストの選任にあたって男性の中からより一層巨大な男性器を持つ男たちを選ぶ。男性器の大小が帝国の役職を選ぶ基準になる。それが巨大かつ荘厳であればあるほど主要ポストへの過程は急速に近づく。当時の歴史家たちはそうした点で口を揃えてヘリオガバルスを罵っているが、その記述はただ単に言語化された嫉妬の爆発的激情としか思われない。ちなみに度はずれな嫉妬の爆発的激情という情動は、言語化するとなぜか詩になるという特性がある。上手いか下手かは別として。巧緻精妙を極める生きいきとした詩ができ上がる。大顰蹙(ひんしゅく)に満ち溢れたそれらの記述は一見、誹謗中傷という形を取ってはいるものの、わざわざ添削しなくてもそのままで逆にヘリオガバルスの業績を褒め称えて余すところのない大賛辞にも見える。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー72

2019年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
地下鉄の車内はとても混雑している。押し合いへし合いしなくてはならないほど。そしてエリックはリトンの「真後ろにいた」。この種の出会いは偶然でなくてはならない。十七歳のリトンはその若年さゆえに人格の賭かっている或る確実性を得るか得ないかの天秤に掛けられている。差し当たりエリックのことよりもリトン自身の輪郭を鮮明に映し出してくれる他者の「眼差し」が最低条件として必要となる。車内の人々の「眼差しのなかに」を読み取らねばならないものがある。

「エリックはちょうどその真後ろにいた。車内は混んでいた。人々は無言のうちに押しあっていた、そしてその無言にもかかわらず、車内が真暗になるまえに、リトンはすべての眼差しのなかに、全国民の軽蔑を読みとった」(ジュネ「葬儀・P.300」河出文庫)

リトンが、したがってジュネが欲して止まない至上の孤独。「泥棒、裏切り、性倒錯」の過酷な実践によってのみ到来しなければならない孤独。だがこれら諸行為はすべてリトンの、したがってジュネ自ら進んで欲望することはできるが、欲望するだけでなく実際の行動へ移すのはあくまで自分自身の身体の力に賭かっている。ところでリトンはそのために必要な力を持っているだろうか。持っている。持ち帰ってきたばかりである。他の囚人仲間の中からを気まぐれに指差した二十八人を裏切り処刑場送りにすることで。車内の他の乗客はそのことを知らない。知らないがいずれ知れ渡るのはわかりきっている。すでに既成事実といってよい。ところが既成事実はいつどのようにして明確化されるのか。リトンの個人的意識の中だけで「自分は裏切り者だ。危険な人間だ」とおもい、湧き起こる悲壮感に酔っているだけではまったく不十分である。ジュネに言わせれば、裁判所が下す死刑判決とはまた違い、合法的に言い渡される死刑執行命令と同じで、要するに命令者の「オナニー」に過ぎない。オナニーをオナニーでなくするために必要なのは何か。「鏡」としての「他者」の《眼差し》である。商品交換でいえば、それぞれ異種のすべての諸商品がただ一つの商品を除外して、除外された一つの商品を用いて自分の価値を実証するためだけの「鏡」として利用する限りにおいてである。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)

この過程ではどの商品もただ比較可能な形態に置かれているということだけが言われている。リトンにとって妥当することは他の乗客にも妥当する。リトンの特権化は済んでいない。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫)

こうして始めてリトンは他の諸商品とは異なる、排除された孤独あるいは特権的地位を獲得することができる。そしてまたこの排除によってのみ、周囲の乗客らはただ単にリトンと「同じ人間」ではなく、もはやリトンとは社会的位置を置き換え切断されたただ単に無数の商品系列でしかないものへと変わる。リトンはその感情を「全国民」《からの》「軽蔑」という形式で受け取った。刑務所内での暴動はしばしば起こるとしても、そのときに出現した決定的裏切り者の名はありとあらゆる報道機関を、人間の口を、世間話を通して、要するに言語を通して、またたく間にフランス全土に広がるだろう。尊敬であれ軽蔑であれ畏怖であれおごそかさであれ、何らかの社会的価値を獲得する。そのとき始めてリトンという名は特権的商品すなわち貨幣として光り輝く孤独を得ることになる。すでにリトンはこみ上げてくる悲劇的感情を快感している。リトンは十七歳という若年で、取り返しのつかない裏切り行為の実行によって、得がたい孤独を獲得し、「己れの孤独とちからを自覚し、誇りを抱いている」。ところで「すし詰め」の満員電車の車内で二十一、二歳のエリックは何をしているのだろうか。

「彼は若く、孤独で、そしてすでに己れの孤独とちからを自覚し、誇りを抱いていた。地下鉄が発車するやいなや、車輌の震動のために<ちぢれ毛>(ドイツ人はそんなふうに呼ばれていた)の下腹がリトンの尻にぴったりくっついた」(ジュネ「葬儀・P.300」河出文庫)

リトンはうろたえない。うろたえる必要性もなければそのつもりもない。むしろ「くつろぎをおぼえる」。ドイツ軍の正規の軍人が自分のからだの背後からからだを密着させて離れないから、というだけではない。満員電車の中で、ただそれだけのことでは容易に痴漢行為になり得る。ところがリトンは刑務所内で早朝から続行されていた処刑行為からくる緊張のあまり、緊張によって高められた意識はプライドを保っており身体もまた周囲から見てひと際目立つほど美少年然と凛々しく立ってはいるものの、体力的な限界にきていたことは隠せない。体力的限界が隠せないのは他者の眼差しにおける象徴的な社会的問題ではなく自分自信の身体における個別的課題に過ぎないものとして、ばらばらの無限の商品系列の一部分へと解消されているからである。貨幣的特権性は、いつも流通し絶えず媒介を繰り返し疲れを知らず反復されているかぎりで有効性を与えられることを条件としている。断ち切られてはならない。しかしリトンはすでに貨幣であるにもかかわらず個別的人間でもある。だからリトンは、ただ単なる乗客の一人としては、「くつろぎ」あるいは安心して休養できる場所を必要としていた。筋肉隆々のドイツ軍人エリックがリトンの背後にぴったり密着していることはかえってリトンに「憩い」を与える。

「リトンは身じろぎもしなかった。朝からはじめて彼はいささかのくつろぎをおぼえるのだった。ドイツ兵が彼に恵みつつあるものはたぶんまだ愛情とまではいかなかった、それでもリトンはその熱気と肉体のちからの中で憩い、自分の犯した厭うべき大罪を忘れ去るのだった」(ジュネ「葬儀・P.302」河出文庫)

裏切り行為の穢(けが)らわしさ。「自分の犯した厭うべき大罪」は、その犯罪性が嘔吐を催すものであればあるほど、より一層「厭うべき大罪」によって交換され実際に相殺されなくてはならない。また相殺できる。世間から見て「厭うべき」、もう一つの《異種の》「大罪」によって贖(あがな)うことができる。だからそれは同一商品同士の交換では不可能である。同一商品同士の交換は交換でない以上、《異種の》商品交換の実行によって実際に実現され決済され続けなければならない。リトンという或る身体はエリックという別の身体へと接続され、商品交換におけるように、絶え間ない流通交換過程に入らなければならない。それができなければ「厭うべき」ものの相殺は不可能におちいる。リトンとエリックの場合はどうだろうか。

「接触が絶たれるたびに、リトンは自分の孤独を思い知るのだった。つなぎ直されたときは、世界との和解、落着き、安泰だった」(ジュネ「葬儀・P.302」河出文庫)

果たされた「世界との和解」。ただし混雑した電車内ゆえ、二人とも衣服を身にまとったままだ。しかし象徴的行為としてはこれで済んでいる。

さて、アルトー。ヘリオガバルスの行動はあたかも資本主義的諸力の運動として描かれている。

「ヘリオガバルスは精神と古代ローマ的意識に対する徹底的にして愉快な風俗潰乱を企てたのである。そしてもし彼が古代ローマ世界の転覆を最後までやり通せるほど長生きできたとすれば、彼はとことんまでそれを推し進めたことだろう」(アルトー「ヘリオガバルス・P.176~177」河出文庫)

皇帝としてのヘリオガバルスは自分自身を推し進めることしか知らない。古代ローマ世界に蔓延している世俗的価値観を「転覆」させることになろうがなるまいが、そんなことはヘリオガバルスにとって何の関係があるだろうか。ヘリオガバルスは皇帝として「超越論的探究者」でもある。

「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)

ここでいう「超越論的探求」はヘーゲルのいう「絶対精神」でありマルクスのいう「物質的生産力」である。そしてその特性は「好きなときにやめることができない」ということにある。自己目的としての資本とその回転のように。さらに自己目的と化したヘリオガバルスは、したがって、ローマ人がすでにローマ自身の創造神話を信じていないということを告発し刑罰を与える。ローマ帝国に対する軽蔑そのものをあらわにする。資本に従わない国家指導部に対する資本主義からの軽蔑そのもののように。

「彼は、己れの神話も、どの神話ももはや信じてはいない廉(かど)で古代ローマ世界を罰する、それに、顔を大地のほうに向け、しかもそこから生えてくるものをこっそり見張ることしかできなかった、生まれつきの百姓であるこの民族に抱いている軽蔑を示さずにはいられない」(アルトー「ヘリオガバルス・P.177」河出文庫)

ジュネ的感性でいえば、古代ローマ帝国は、ヘリオガバルスという或る種の資本に向けて最も屈辱的な姿勢で尻の穴を突き出し捧げ、背後から何度も繰り返し資本の要求を受け入れ、思うがままに操られねばならぬという基本的態度ができていない。国家運営はあくまで官僚に任されており、資本から任された主要な官僚はただ官僚として主要なものでしかなくてよく、主要な官僚の集合たる国家装置として資本のもとで、すべての国民のあいだで絶え間なく発生する不備を怠ることなく管理調整しておればそれでよい。しかしそれすらできていない場合、ジュネたちはいつものように気まぐれに祖国を去る。去るにあたって決め台詞は決まっている。「おかま」のジュネは期待外れの相手に面と向かって言い放つ。「帰っていいよ、この《おかま》!」と。

アルトーの言葉でいうと「顔を大地のほうに向け、しかもそこから生えてくるものをこっそり見張ることしかできなかった」ローマ人はいつも下を向いている。太陽信仰に耐えうる資格を欠いている。太陽信仰に耐えられない人間がそこらじゅうにうようよしている。だからといってヘリオガバルスは逆上して憤怒をぶちまけたりはしない。むしろ「超越論的探究者」の態度を崩さない。いつものアナーキーを推し進めるだけのことだ。

「アナーキストは言う。

神も支配者もなく、我のみがある。

ヘリオガバルスは、ひとたび玉座につくやいかなる法も受け入れない。しかも彼が支配者である。個人的な彼自身の法がそれ故に万人の法となるだろう。彼は専制政治を押しつける。どんな専制君主も結局は王冠を手にしたひとりのアナーキストでしかなく、しかも彼は世界を自分の命令に従わせるのだ」(アルトー「ヘリオガバルス・P.178」河出文庫)

アルトーはいう。「どんな専制君主も結局は王冠を手にしたひとりのアナーキストでしかなく、しかも彼は世界を自分の命令に従わせる」と。もっともな見解だ。貨幣としてのヘリオガバルスとして見れば。ところがヘリオガバルスはより一層加速的にアナーキーを増殖させる。だからヘリオガバルスについてただ単に唯一の特権的貨幣として見るだけでは十分でない。むしろ資本というべきが妥当だろう。そして資本の言語はつねに分裂するし分裂しないわけにはいかない。次々と利潤を付け加えて回帰してくる。だからといってヘリオガバルスを、資本の人格化としての資本家として取り扱うことはではけっしてできない。古代ローマに高利貸しはいても資本主義はまだなかったから、というのではなく、単純に言ってヘリオガバルスは資本家ではなく資本家的気質の持主でもないからである。資本主義の有無を差し引いたとしてもなお、ヘリオガバルスは資本の人格化としての資本家ではけっしてない。そうではなく、人格化された資本の《諸力の運動》として、分裂と増殖を繰り返し反復するアナーキーの《生産》としてしか存在しない。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー71

2019年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ピエロが著しくジュネ化するシーン。それは「七つ目の独房で」の仕ぐさを通して描かれる。ジュネは「七つ目の独房で」、とわざわざピエロにおもむろな一呼吸を与えた上でこう書く。「犠牲者を指し示すのに、彼はあごで合図した」。

「七つ目の独房では、犠牲者を指し示すのに、彼はあごで合図しただけだったが、その身振りはいかにも横柄で、二千年来の道徳に挑戦し、それをたたき伏せたような思いを味わうのだった」(ジュネ「葬儀・P.299」河出文庫)

ユダヤ=キリスト教の系譜で「七」は特別な数字だ。創世記にあるように神は七日間で世界を創造したことになっている。安息日は七日目に反復される。さらに中世になると主としてカトリックで「七つの大罪」が加わる。「七つの大罪」は人間の欲望の中で悪質とされるものを「七つ」に分類してそれぞれの意味を定義したものとして有名。ところが「七つの大罪」のすべてを人間が捨て去ったとしよう。たちまち人間は死んでしまう。死んでしまわない場合であっても少なくとも何らかの病気にはなる。しかし着目したいのは、人間の欲望を「七つ」に《分割した》という点にある。「七つ」に《分割できる》ということが信じて疑われていない点にある。この分割はあえて「七つ」に分割され「七つ」の項目で統一されている。分割しようとおもえばもっと大量に分割することもできるがそれ以上大量に分割されてはいない。さらに「六つ」にまとめようとすればできないわけではない。ところが数字の「六」は「獣」を現わす数字として定義づけられている。こららの定義の特徴からいえるのは、実際の欲望の意味内容が重視されているのではなく、あらかじめ「七」という数字そのものが特権化され象徴化され取り扱われているがゆえに、列挙された「罪」はその意味の重複にもかかわらず重複は事実上無視されるという転倒が生じているという点である。人間の欲望を分割しようとすれば無数に分割可能だ。しかし数字の「七」によって、「七つの大罪」だけが、象徴化されている。罪の大小についての定義も極めて曖昧である。罪があるとされる場合、しかし罪はいつどこからどのような基準で過剰になり刑罰の対象となるのか。その都度その都度で変わる。基準などないに等しい。そもそも「罪」という観念にしてからが、過剰あるいは不足から発生した観念なのではなかったかとおもわれる。しかし一体何が過剰なのか。何が不足なのか。

「異質的なもの/差異的なもの」に直面してそれほどまでに恐怖した人々がいたことは確かだ。そして恐怖の余り来る日も来る日も絶え間ない不安に苛まれ、遂に「異質的なもの/差異的なもの」の大量殺戮を実行して自分と「同一的なもの」だけを保存しようと試みたこともまた確かかもしれない。ところがその瞬間、逆説が出現する。「同一的なもの」はただ「異質的なもの/差異的なもの」の側の実在によってのみ支えられ存在することができる極めて心細い存在でしかなく、また「異質的なもの/差異的なもの」の反復を根拠としてのみ「同一的なもの」の反復もあり得るという現実に気づいたのは、いつものように後になってから、事後的にでしかなかったという根本的次元から考え直すことを余儀なくされたことである。

処刑される囚人の人選に当たってピエロが「あごで合図した」とあるのは、ジュネが、象徴化されたキリスト教道徳とヒットラーを演じるヒットラーの「横柄」な仕ぐさとを掛け合わせて揶揄したのだろう。ところで、この種の揶揄が可能になるのはなぜか。象徴化されたキリスト教徒の仕ぐさにおいてもヒットラーを演じるヒットラーの仕ぐさにおいても、どちらにしても或る種の厳粛な「深さ」を蔵している《かのように》演じられる極めて両義的なものだ。両義的という意味でそれはまた《浅薄に》解釈されもする。

「深いものはすべて仮面を愛する。何よりも最も深い事物は、象徴や譬喩(ひゆ)に対して憎悪さえもつ。《反対》ということこそ、神の羞恥が着てしずしずと歩くにぴったりした仮装ではあるまいか。これは一つの問うに値する問いである。誰か或る神秘家がすでにそのような真似を敢えてしたことがないとすれば、それこそ不思議であろう。優(ゆう)にやさしい事件でも、それを粗暴で覆(おお)って分からなくする方がよいこともある。愛や極端に寛大な行為でも、その後で棍棒を取って目撃者をさんざんに殴(なぐ)るに越したことがないこともある。そうすることでもってその記憶を曇らせるわけである。大概の人々は、自分の記憶を曇らせ虐(しいた)げて、少なくともこの唯一の関知者を復讐するすべを心得ているものだ。ーーー羞恥は工夫の才に富んでいる。最もひどく恥じる事柄が最も悪い事柄なのではない。仮面の背後にあるものは、単に奸智ばかりとは限らない。ーーー狡智のうちには多くの善意がある。高価で毀(こわ)れ易いものを蔵している人間が、青く古い、箍(たが)を嵌(は)めた酒樽のように荒々しく丸々と肥えて人生を転(ころ)げ廻(まわ)るということも考えられよう。彼の繊細な羞恥心がそうさせるのだ。羞恥のうちに深みをもつ人間は、かつて達しえた者も殆んどいない道で自分の運命や優(やさ)しい決断にも逢着する。そして、彼に近しい者や親しい者たちも、そのようなことがあったことを知るよしがない。彼の生命の危険も、彼の生命の安泰が再び得られたことも、同様にそれらの人々の眼には隠されている。このように隠された者、本能から沈黙し秘黙して打ち明けることから遁(のが)れることを必要とし、しかもそうしてやまない者は、自分の仮面が自分の代わりに友人の心と頭のうちを徘徊することを《欲し》、またそれを求める。そこで、彼が欲しないにしても、いつの日にかやはりそこに彼について一つの仮面があることについて、ーーーまたそれがよいのだということについて、彼の眼が開かれるであろう。あらゆる深い精神はそれぞれ仮面を必要とする。まして、あらゆる深い精神の周(まわ)りには絶えず仮面が生じる。彼の示す一語一語、彼の一歩一歩、彼の生の印(しる)しの一つ一つが絶えず誤って、すなわち《浅薄に》解釈されるからである」(ニーチェ「善悪の彼岸・四〇・P.67~68」岩波文庫)

ニーチェが「仮面」といっているのは、簡略に述べるとすれば、人間の「身振り」あるいは「言語」のことだ。したがってどのような仮面も、その前に立たされる人々が受け取り、受け取らざるを得ない意味の両義性から逃れることはできない。キリスト教徒による「身振り」あるいは「言語」。そしてヒットラーを演じるヒットラーによる「身振り」あるいは「言語」。どちらにしても極端なほど記号化され象徴化され解釈されている。ピエロの仕ぐさに当てはまることはキリスト教徒の仕ぐさにも当てはまり、なおかつヒットラーを演じるヒットラーの仕ぐさについても当てはまる。スターリンを演じるスターリンを加えても何ら問題ない。少なくともそう解釈することは十分に可能である。仮面の宿命といえるが、仮面を宿命化したのはほかの誰でもないただの人間たちによる権力意志である。さらに、重要な箇所として引用しておきたい部分がある。「自分の仮面が自分の代わりに友人の心と頭のうちを徘徊する」とある箇所。どのような「身振り」あるいは「言語」であるにせよ、そしてそれがどれほど工夫をこらされたものであってもなお、人間の「身振り」あるいは「言語」は常に《過剰に》か《浅薄に》かどちらにも解釈されることから逃れることはできないという事情である。これまで何度も問われてきたし今後も問われていくに違いない問いだろう。ピエロは自分で創作し自分自身を唯一無二の地位に高めた裏切りの実行者としてさらに「他の監房を調べる」。ここでも重要な役割を果たすのは「詰め込まれた連中」というより、「詰め込まれた連中」の《身体における》「身振り、眼差し、吐息の一つ一つ」である。それらはジュネが用いる「蔑み」や「嫌悪感」といった語彙を越えてもはや「畏怖」あるいは「おごそかさ」へ変わっている。

「他の監房を調べるときも、詰め込まれた連中の、身振り、眼差し、吐息の一つ一つに、蔑みが込められているように思われた。温(ぬく)い、じとじとした彼らのかたまりの中へ彼が分け入って行くとき、連中は嫌悪感からわきによけ通り道をあけるように思えた」(ジュネ「葬儀・P.299」河出文庫)

獄中は窒息しそうなほど混雑している。「すし詰め」の混雑ぶりと周囲から集中する蒸せ返るような「嫌悪」の「空気」は、ジュネに、リトンとエリックとが出会った「混雑どきの地下鉄の車内」を思い起こさせないわけにはいかない。しばらくピエロは小説から消える。しかし獄中のピエロと「混雑どきの地下鉄の車内」で始めて出会ったリトンとエリックとは共通の「空気」で強く結ばれ合っている。

「独房は混雑どきの地下鉄の車内にもおとらずすし詰めで、ピエロは嫌悪に追い立てられながらもぐり込み、無理矢理自分の居場所をつくり出すのだった。このような監房内の空気はリトンがエリックと出会った夜の、地下鉄内の空気にあまりにも似すぎているために私はここで二人のことにふれずにはすまされない」(ジュネ「葬儀・P.299」河出文庫)

リトンとエリックの初対面のシーン。刑務所内の暴動首謀者とされた何人かの「処刑をすませてきた」その帰り、夜の地下鉄内でのこと。

「リトンは十七だった。それは彼がピエロによって売られた叛徒たちの処刑をすませてきた、ちょうどその晩のことだった」(ジュネ「葬儀・P.299」河出文庫)

反復されるジュネ的フェチの系列。

「二十一、二歳の顔、鋭い眼つき、眉毛の上までかぶさり、耳でささえられている黒い略帽から、傍若無人にはみだしたブロンドの巻き毛。首筋は前にも言ったように太く逞しく、カラーなしの、長靴まで黒ずくめの軍服から、真直ぐ突き出ていた。エリックは褐色の手袋を片手につかんでいた」(ジュネ「葬儀・P.299」河出文庫)

列挙してみる。「二十一、二歳(の男性)」、「鋭い眼つき」、「黒い略帽」、「傍若無人にはみだしたブロンドの巻き毛」、「太く逞しい首筋」、「長靴まで黒ずくめの軍服」、「真直ぐ突き出」、「褐色の手袋を片手に」、といったところか。「黒い略帽」に関して、いったん象徴化されたものはだらだらとした長大さを必要とせず、逆に洗練され略式化されたものの側がより一層効果的に見えるということ。強度の集中がそこにはある。「褐色の手袋を片手に」に関して、もちろん軍人であることを意味するが、ただ単なる軍人ならどこにでもうろうろしている。ところがこの時のエリックの場合、他の軍人とは違って「片手に」という仕ぐさを取っている。その「何気なさ」において、軍人としてというより、いついかなる時にでも殺人鬼と化す生きた人間として、なおのこと効果的だ。この種の「何気なさ」。それは気まぐれに殺すことも十分ありうるということをたった一つの仕ぐさで「何気なく」洩らして見せる。瀟洒な身振りの一つとしてたいへん有効だといえる。戦前戦中の日本でもかちこちに凝固し固定しステレオタイプ化して職業軍人然とした態度よりも、エリックのように、たまに見せる「瀟洒な」、あるいは「洒落た」《仕ぐさ》は子どもたちの憧れの的だった。

さて、アルトー。幾多の歴史家が何を言っていようがアルトーは気にしない、ということはない。むしろ気にしている。アルトーの図書館通いは有名だったようだが、古代ローマの幾多の歴史家以上に当時の文献を読み込んだ自信がアルトーにはある。だからアルトーから見て否定的に感じられる歴史家の記述であっても全否定するわけではく、拾うべき部分は拾い上げてくる。単なる「揚げ足取り」ではなく、まず何より記述を記述そのまま受け止め、その上で批判の俎上に乗せる。極めて正当な手続きというべきだろう。ただしそれをどう料理するかはアルトー次第だが。というのは、古代の記録者の記述というものは近代の歴史家の記述に負けず劣らず、硬直しきった善悪の判断がすでに含まれているからである。むしろ先に善悪の判断基準を設定した後で書かれた痕跡がありありしているからだ。そんな記録では記録として取り扱うにしてもあからさまに妥当性を欠く。だからあえて図書館に通い詰めねばならなかったという事情がある。

「実のところヘリオガバルスは何をしたのか。彼はおそらくローマの玉座を演台に変えたが、そこことによって彼は、ローマ皇帝の宮殿のなかで、ローマの玉座の上に演劇を、演劇を通して詩を招き入れたのであり、詩は、それが現実のものであるとき、血に値し、人が血を流すことを正当化する」(アルトー「ヘリオガバルス・P.174」河出文庫)

詩は物語(ストーリー)ではない。瞬発であり暴発的だ。さらに重層的で多様性に富んだアナーキーとしてしか存在しない。だから各瞬間ごとに常に違ったものである。アルトーがいうには、ヘリオガバルスは詩を「現実のもの」へ変えたというふうに読める。現実化されるとき、詩は「血に値し、人が血を流すことを正当化する」と。なるほどその通りかもしれない。だがしかし、古代には流れたはずの血は今どこで何をしているかということが問題とされなくてはならない。今なお、というより、いま目の前で進んでいる世界はあちこちで流血していて、むしろ流血し放題だからだ。詩があり、その詩は今なお世界のどこかで常に現実化されている。古代ローマで流された血の総量と単純比較することはもはやできない。人口増大が比較にならないように。したがって、現代社会で流されている血の総量の側が古代ローマ時代よりも圧倒的に膨大だということは論じるまでもない。ところが流血とはいっても、なるほど血は人間の血であり人間の血以外の何ものでもないのだが、あえて言えば、血の価値が絶望的に下落したことは確かだ。なぜだろう。なぜ「今では」違っているのか。

「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫)

ローマ入城にあたってヘリオガバルスは自分の詩を実践する。「フェニキアの緋色の衣をはおり」とある。ヘリオガバルスはもともとフェニキアから出現したフェニキアを出自として持つ。フェニキア人は女性の崇拝者であり、ヘリオガバルス出現より遥か以前にばらばらに離散したあと、「海のほとりで色褪せることのない真紅の布を織る」ことを独自の産業としていた。帝国化したローマ人から見れば異教徒以外の何ものでもない。キリスト教の聖地の真ん中にディオニュソスの神殿を打ち建てようとするに等しい。そしてディオニュソスではないものの、マエサで盛んに行われていた太陽信仰のための神殿を実際に作ることになる。次の箇所はその論理的まとめの時期だ。

「ヘリオガバルスはローマの風習と風俗に望みどおりのあらゆる歪曲を加えることができるし、古代ローマの寛衣(トーガ)を蕁麻(いらくさ)の上に投げ捨て、フェニキアの緋色の衣をはおり、ローマ皇帝でありながら他国の衣装を身につけ、男でありながら女の衣装を纏うというアナーキーの範を示し、宝石と真珠と羽飾りと珊瑚と護符で身を覆うことができるが、ローマ人の目からしてアナーキーであるものは、ヘリオガバルスにとってはひとつの秩序への忠誠であり、しかもそれは天から落ちてきたこの典礼はあらゆる手段を通じて再びそこに昇る、ということを意味する」(アルトー「ヘリオガバルス・P.175~176」河出文庫)

というふうに、ヘリオガバルスに対して罵倒の限りを尽くす歴史家の記述にもかかわらず、ヘリオガバルスの思考は極めて論理的な過程を踏んでいくのである。

「ヘリオガバルスの壮麗さのなかには、また無秩序へのこの驚くべき熱狂のなかには、無償のものはなにもないが、この無秩序は、秩序、すなわち統一性についての形而上学的で高度な観念の適用にほかならない」(アルトー「ヘリオガバルス・P.176」河出文庫)

流動する力はいつも無秩序的な多様性としてしか考えることはできない。そしてそう考えている以上、ヘリオガバルスはローマから見て無秩序としてしか見えない「力の流動/流動の力」ならびにその《生産》を丸ごと「統一性」として思考し抜いていく。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー70

2019年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ピエロは加速的に両義化していく。裏切り者はいつも両義的だ。そして両義的なものは二つの局面を同時発生させるが、そのうち一つの局面を二つに分裂させる。もう一方の局面もまた二つに分裂させる。以下無限に分裂していく。したがってピエロの系列というものの出現を想定することができる。次に「正義の殻を彼は身にまとう」とあるけれども、正義とは何か。それもまた無限になおかつ一挙に分裂する諸局面において全然別々の意味を指し示すことになる。

「死神を手なずけるつもりで、それともおそらくはぐらかすつもりで、死が身近にせまりすぎたときには、もっとも派手な美徳、とりわけ非の打ちどころのない正義の殻を彼は身にまとうのだった」(ジュネ「葬儀・P.297~298」河出文庫)

ピエロはそのうちのどれにでもなることができる。「正義の殻」は仮面に過ぎない。だからわざわざ「殻」と述べているのであって「殻」は「殻」以上でもなければ以下でもない。仮面に過ぎない。そして仮面は仮面であるかぎり仮面に与えられた働きを実現する。だから仮面を「身にまとう」以前にピエロは存在しない。仮面を取り外してみてもその下に何かピエロの正体というものが実際にあるわけではない。ピエロはあくまで仮面を「身にまとう」限りで始めて存在し立ち働くことができる。また仮面の出現は人間の出現と同時である。その意味で問題は「俳優」とは何かという形を取るほかない。

「《俳優の問題について》。ーーー俳優の問題は、きわめて永いこと私の心にかかっていたものだ。これを手がかりにしてこそ、『芸術家』という際どい概念ーーーこれまで赦せないほどの親切気をもって取り扱われてきた概念ーーーに近づけるのではないかどうかについて、私としては確信がもてなかった(いまだ時折は確信がなくなる)。良心の咎めもない虚偽とか、権力として奔出し、いわゆる『性格』を押しのけ、これを覆うて氾濫し、時としてはこれを払拭してしまうような、偽装への悦びとか、ある役割や仮面や《まやかし》といったものを切望する内的な要求とか、手近の目先だけの利益に仕えることにはもはや満足できないあらゆる種類の適応能力の過剰とか、こうしたことのすべては恐らく《ひとり》俳優《だけ》に限られたものではあるまい?ーーーそういった本能は、下層民衆の家庭のなかで、一番やすやすと造りあげられるものだろう。彼らは、つぎつぎに蒙る圧迫や強制の下にあって、どん底の隷属生活を送らなければならず、その境遇に従って臨機応変に身を処し、新しい事態にはつねに新しく順応し、くりかえし違った身振り素振りを見せなければならない。そこから次第に彼らは、風の《まにまに》マントを着流し、そのためマントそのものに化けてしまうほどにもなり、動物にあっては擬態と呼ばれるあの不断の隠れん坊遊びの化身そのものみたいな技術の名人とまでなれるようになる。こうしてついには、累代にわたって蓄積されたこの全能力が専横になり、やみくもなものになり、始末に負えないものにすらなって、それが本能と化して他の諸本能に命令を下すようになってしまう、かくして俳優を、『芸術家』というものを、生み出す次第だ(おどけ者、茶番役、おとぼけ野郎、阿呆者、道化役者を手はじめに、典型的な従僕、ジル・ブラースを生みだす。結局、こういうタイプの者のなかに、芸術家の前身が、のみならず実にしばしば『天才』の前身が、うかがわれるのだ)。もっと程度の高い社会的諸条件の下にあっても、以上のと似通った圧迫があるところには似通った種類の人間があらわれる。ただそういう場合には、たとえば『外交官』におけるように、大抵のところ俳優的本能が他の本能によってまだまだ抑制されている、ーーーさもあれ、有能な外交官ならば、もし事情がこれを『許す』となら、いつなんどきなりと意のままに立派な舞台俳優にもなれるだろう、と私には思われる。だがしかし、あの卓越した適応の技倆を身につけた民族である《ユダヤ人》に関して言えば、これまで述べた考え方に従うかぎりわれわれは、彼らのうちに前々から俳優訓育のための世界史的準備、本来の俳優孵化(ふか)場といったものを、見てとることができよう。のみならず次の問いこそはまことに時宜に適したものだーーー今日すぐれた俳優でユダヤ人ーーー《でない》ものなぞいるだろうか?さらにユダヤ人は生まれながらの文筆家として、ヨーロッパ新聞界の事実上の支配者として、この面での彼らの力を、その俳優的能力に基づいて発揮している」(ニーチェ「悦ばしき知識・三六一・P.415~417」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように近代市民社会の中で「ユダヤ人でない」人間はもはやどこにもいない。マルクスもいっていることだが。

「市民社会はそれ自身の内蔵から、たえずユダヤ人を生みだす」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.62』岩波文庫)

だから、ユダヤ人排斥運動というのはそもそも馬鹿げた発想である。今ある道徳だけでも数値化するとすればそれこそ膨大な数にのぼるというのに、さらにナショナリズムという新しい道徳を創設してより一層自分で自分自身を束縛してしまうことにしかならない。ニーチェはこう述べる。

「私は更に理想主義のうちのあの最近の投機者どもを、あのユダヤ人排斥者どもを好かない。奴らは今日キリスト教的・アーリア的・堅気者風な白眼をぎょろつかせており、そして最も安価な扇動手段、すわなち道徳的態度を全く我慢の出来ないくらい濫用することによって、民衆中の鈍間(のろま)どもを攪き立てようと努めている」(ニーチェ「道徳の系譜・P.202~203」岩波文庫)

自分で自分自身を縛り上げ吊し上げ身動き不可能なまでに拘束し、遂には自分で自分自身を窒息死させてしまう「道徳」というカルト的《信仰》。ニーチェは唖然とするほかない。

ピエロは裏切りゆえの孤独を打ち固めていく。それは時間の経過とともに進行する。時間は猶予であるともいえるが、時間は特定の行為を反復させることで反復する人間から主導権を奪い、逆に時間の側から人間の作業の質を変えるだけでなく人間をその作業に従属する「自動人形」へと加工=変造してしまう。

「己れの行為の重大さと、まるで自動人形に近い動作は、仲間たちの憤りに真剣にかかずらわっているゆとりを与えなかった」(ジュネ「葬儀・P.298」河出文庫)

ピエロは裏切ることでひとときの快感を得た。「増大する力の感情」を満喫している。だが、まだ監獄の中の囚人の一人であることに違いはない。ところでしかし、時間の経過はピエロが反復する行為を自動人形化することによってピエロに何を与えただろうか。

「隊長も所長も彼の決定を無検討に受け入れるのだった。彼らは天の声を認めたのだ。幼児の指。ひょっとすると彼らはその汚れに染まぬ新鮮な威厳にけおされたのか?これら荒くれ男たちにとって若者は振子の役目を果した」(ジュネ「葬儀・P.298」河出文庫)

ピエロ自身はどう考えているか知らないが、少なくともピエロの指は人間の指以上のものを与えられた何ものかに変化している。「荒くれ男たちにとって若者は振子の役目を果した」というように立ち働く何ものかである。言い換えればジュネの記述通り「天の声」であり「天の声」はピエロの、幼児のようにか細い指の動き、ほんのちょっとした身振り一つでたちまち現実化する象徴へと凝固した権力意志である。無条件に振り降ろされる激烈な強度とその気まぐれな濫用。ピエロは「増大する力の感情」をこのように用いて快感する。だがこの快感は快感そのものを増大させる条件を、ピエロ自身が選択した裏切り行為によって必然的に立たされた極限的かつ悲劇的孤独において持つ。その悲劇性に快感増大の根拠がある。どういうことか。

「悲劇の悲痛な悦楽をなすものは残忍である。いわゆる悲劇的同情において、根本的にはついに形而上学の最も高く最も繊細な戦慄に至るまでのすべての崇高なものにおいてすら、快適の感じを惹(ひ)き起こすものは、その甘美さをひとりそのうちに混入された残忍の要素から得ているのである。ーーー残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.212」岩波文庫)

だからピエロはどこまでも残忍に徹することで自分自らを悲劇的苦痛の極限へ追い込み、そこからもなお快感を得ることができる。とりわけ認識欲望が突出して高い人間、他人に勧められなくても自分からどんどん何かを追求してぐりぐりとえぐり出してくることに快感をおぼえる人間というのはしばしば見かける。そのような人間はもちろん「有名大学」という狭い世界の中に収まっているはずもない。大学の中に収容可能な人間ならどこにでも豊富にいるわけであって、ピエロのようにわざわざ自分自ら他の囚人たちの殺意を一身に引き受けてまで残忍から到来する快感を得よう、快感そのものになろうと《欲する》人間はそう多くはない。もし事情が許すなら比較してみると、案外、有名大学より刑務所に多いかもしれない。けれども、刑務所に収容されている人間の多くは一般的な学問を知らない。途中で放棄したか放棄せざるを得なかった人間たちである。だから有名大学の現役大学生と刑務所に服役中の囚人とを共通テストで単純比較することはできない。もし仮に比較可能な方法が発見されて実施されることにでもなれば、おそらく、たいへん興味深い結果が出ることだろう。そして結果というものは打ち出されるやいなや結果の効果を暴発させずにはおかない。目に見える結果は深刻であればあるほど魅力的に見えるものだからだ。結果をめぐってとことん研究に打ち込み残酷な快感の反復に身を任せて止まらない人間があたかもごきぶりのようにぞろぞろ出現するだろう。悲劇への意志は人間の根本にまで喰い込んでいる。

とはいえ、結果から考えて後になって発見された原因の側が、明らかに事後的な結果であるにもかかわらず、時間的に先行する或る場所に無理やり押し込まれて原因とされるという転倒が起こる。「原因と結果の取り違え」はもはや根絶しがたい錯覚なのかもしれない。しかし錯覚であることがわかっていながらなおも錯覚を前提として受け止め引き受け生きていくことは人間として妥当な行為なのだろうか。それとも錯覚を前提として生きていかなければ人間として認められることはもはや《ない》のだろうか。そうであるなら根本的次元からしてすでに人間は取り返しのつかない誤ちを犯し続けてきたといえる。今なお犯している。おそらく今後も。しかし犯されているのは、誰が、なのか。あるいは何が。

ピエロは刑務所管理者による「拳銃の脅迫のもとで最初に抱いたかすかな物怖じ」の乗り越えを達成している。

「自分の生命と引きかえに大勢のいのちを売り渡すことになるのだと考えると、拳銃の脅迫のもとでピエロが最初に抱いたかすかな物怖じは、完全に消え失せてしまった」(ジュネ「葬儀・P.298」河出文庫)

慣習化は儀式性を帯びるかぎりで「かすかな物怖じ」などたちまち消し去ってしまう。今やピエロは「天の声」だ。その指先によるほんのちょっとした仕ぐさ一つで他の囚人たちを処刑場へ送り込める万能性を付与されている。「泥棒日記」にもあるように、要するにジュネはピエロを通してナチス支配下にあった頃のドイツを思い出しているわけだ。とりわけヒットラーを演じるヒットラーの「身振り」を。

「(これほどたくさんの人間をばらせる奴はいないだろう)こう考えるのだった。(だけどどんな罰をくわされるだろう!)」(ジュネ「葬儀・P.298」河出文庫)

ヒットラーを演じるヒットラーという仮面とその演劇。仮面の下には何もないという空っぽ性。むしろ空っぽでなくては仮面の効果は十分に発揮されないという疑いようのない全ヨーロッパによる認識ならびに承認。だがピエロの場合はそれほど単純でもない。また少し違っている。「だけどどんな罰をくわされるだろう!」という思考の中には、暴動の首謀者だとしてピエロが気まぐれに指定した他の囚人たちの増幅された憎悪が、利子を生んで増殖している憎悪の総量が、刑罰の質量を嫌が上にも高めるという悪循環への快感が含まれている。ところが刑罰は極刑に近ければ近いほど囚人たちの犯罪の質量を高める。犯罪者の犯罪が、ではなく、与えられる刑罰の種類の側が、犯罪者の犯罪の質量を決定するという転倒が発生する。そしてこの転倒についてもまた人々は信じて疑っていない。人間が生きていくための必要最低条件として、或るものを見て考えるとき、常に転倒して見て考えることが生きていくための諸条件の基本にあるのかもしれない。少なくとも偏差値の許す範囲内に収容されて生きていくための。

ところが偏差値は平均値からの偏差あるいは差異を現わすが、偏差値五〇という数値はただ単なる平均値を現わすに過ぎない。あくまで社会的平均値であって、なぜそれを人間の中心に置き換えることができるかは未だ誰も証明したことがない。証明できるはずもない。平均値がなぜ中心と見なされているのか。誰にもわからないからである。ただ、社会的平均値として出現するばかりであって、出現したときすでにそれは中心として見えるだけでなく、中心《としてしか》見え《ない》。偏差値はそれが数値である以上、すでに言語化されている。言語化の過程を経てきている。そして言語化は意識化である。ところが言語は、したがって意識にのぼってくるすべてのものは、「なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末」に過ぎない。その間に起こったことはすべて覆い隠されてしまい跡形もない。

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫)

ゆえに偏差値五〇という数値は偏差値五〇という名称にもかかわらず中心を持たない。平均値であって中心ではまったく《ない》。むしろ偏差あるいは差異の側から逆に中心が決定される。ところが決定されるやいなや偏差あるいは差異によって始めて出現することができた中心でしかないにもかかわらず、それ以降はあたかも偏差値五〇という数値の側から偏差あるいは差異を従属させる中心へと転倒し君臨する。中心は成立されるやいなや中心成立に至ったすべての過程ならびに諸条件を一挙に覆い隠す。その意味で中心の創設はただちに高過ぎる偏差あるいは差異、または低過ぎる偏差あるいは差異の抹殺へとおもむく顕著で容赦のないまったくの無慈悲を示す。しかしなぜ抹殺なのか。なぜなら、高過ぎるまたは低過ぎる偏差あるいは差異が実際に《ある》という現実は、中心という虚構の虚構性を常に脅かして止まない脅威だからである。それは中心の許容範囲を脅かし社会的規範あるいは判例としての中心を秤にかけようとする脅威としていつも中心を不安にさせるからである。そして中心の許容範囲はさらに社会的許容範囲として承認されるが、このことはただちにその時その時の国家的権力者とその取り巻きによる許容範囲、通俗的な言葉でいうと「度量」を決定づける。ところが偏差あるいは差異《という》現実問題、「異質的なもの/差異的なもの」の実在に対して社会的レベルで許容し承認する力を、あえて「度量」という通俗的な言葉へ還元してみたところで問題は何ら変わらない。びくともしない。「平均的同一性」を強調しようとして繰り返される反復行為は、繰り返されれば繰り返されるほど、逆に「多様性/差異性」をも同時に反復してしまうほかない。同一性の根拠は同一性自身には《ない》。逆に同一性は「多様性/差異性」の側から根拠を与えられる受動的なものだ。「多様性/差異性」が《ある》という疑えない事実から見て始めて確認でき得る事後的なものでしかないのである。

「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫)

「その瞬間をさかいに、彼は一種の恥辱をおぼえだした。何人かの人間を死刑台へ送り込まないことで自分の偉大さが減少するように思われた」(ジュネ「葬儀・P.298」河出文庫)

ピエロは全員を「死刑台へ送り込まないことで自分の偉大さが減少するように思」う。全員を死刑台へ送り込まないことを「恥辱」と感じる。しかし全員を死刑台に送り込むとどうなるか。なるほど「偉大さ」は増大するかもしれない。ところが周囲が感じ取る「畏怖」とか、ましてや「おごそかさ」などの感情は減少する。全員を死刑にしてしまうとただ単に合法的な死刑を実行に移したというだけのことに過ぎなくなる。「畏怖」や「おごそかさ」など微塵もない。そうではなく、周囲が感じ取る「畏怖」とか、ましてや「おごそかさ」などの感情はどこに発生の余地を持っているか。それはピエロが合法とも非合法ともつかない「気まぐれ」に自分を任せている限りで他の囚人たちの心情のうちに生じてくる恐怖心に発生の根拠を持つ。古代世界の数々の皇帝が時折り気まぐれに側近の者を処刑することで「畏怖」され皇帝自身の「おごそかさ」を増したように。

したがって言えることがある。合法的死刑は死刑を命令しまたは実行した人間の権威を高めも低めもしない。ただ単に官僚としての義務を果たしたに過ぎない。与えられた職務をこなしていくばかりの虚しい地位を保存したに過ぎない。したがって、虚しいばかりの官僚という地位を乗り越えるためにはまったく別の方法を選択するほかない。官僚という地位を捨てるという方法が一つ。だがそれを実行できる人間はごく稀だ。そこで大抵の場合、第二の方法に訴える。

たとえばナチスのドイツやスターリンのロシアのように、まず自分みずからを法律に対する犯罪者あるいは反社会的地位に置いて見せなければならないという方法がある。その有効性は歴史的に保障されている。そしてその後ただちにではあるが、あくまでも事後的に、目的に向かって始めて行動することができる。裏切り者として君臨しているその同じ手で、最も近い同志あるいは側近を死刑に処すること。この手続きを経ないどんな死刑も合法的なものの内部へ回収されてしまう。合法的な行為はたとえそれが死刑執行であってもなお合法的である以上、死刑の価値には何らの増減も見られない。ジュネのいう「夜陰的」なものの影がかけらもない。まったく爽やかな実務的職務の遂行でしかない。むしろロシア革命を裏切ったスターリンはなぜあれほどまで恐れられたか。裏切り者であるにもかかわらず、なぜ、どこからどう見てもロシアの中心の位置を取り続けることができたか。一度は必ず裏切ったからである。裏切り者であるにもかかわらず、ではなく、裏切り者ゆえに手に入れることができた「畏怖」であり「おごそかさ」であるものを生涯にわたってけっして手放さなかったからだ。平然と、微笑とともに裏切ることで非合法的な行為を合法化してしまう、象徴化された仕ぐさ。ピエロが自分の指先の動き一つで他の囚人たちを戦慄させ恐怖の極地に叩き込むことができるのは、どこからどう見ても疑いようのない裏切り者として、囚人の身分において逆に刑務所管理者の意識をいともたやすく操作する希有な力として、君臨している限りにおいてである。そしてそのようにピエロが刑務所内で中心として君臨できるのは万華鏡のようにめまぐるしく回転する予想もつかない「気まぐれ」と化していることによる。ピエロは気まぐれだ。ピエロから気まぐれを奪い去ったら何も残らない。不憫な盗人に戻ってしまうほかない。それはピエロにとって良いことだろうか。それとも良くないことだろうか。その点では神ですら何も知らない。むしろ神が本当にいると仮定すれば、ピエロの無慈悲な気まぐれの側に立ってぼうっと様子を眺めているばかりだ。

さて、アルトー。マクリヌス皇帝の敗走シーン。小説や演劇あるいは映画でいえばスペクタクルな場面。ちなみに英語でいう“spectacle”は「価値変動」という意味を持つ。作品の消費者(読者、視聴者、観衆)はこの「価値変動」にたまらない感動をおぼえる。作品中の見せ場であると同時に作り手にとっても腕の見せどころだ。

「マクリヌスは、自分の右手、互いにからだを密着させ、塊ごとになったように戦っている部隊のまんなかに、一種の薄いくぼみを見つける」(アルトー「ヘリオガバルス・P.170」河出文庫)

マクリヌスは皇帝なのでその親衛隊の強固さは半端でない。マクリヌスを守り抜こうとする親衛隊が一致結束して「塊」と化している。そして「塊」と化せば化すほどマクリヌス自身は逆に逃げ場を失う。逆説といえばいえるが、戦闘とはそういうものだといえばそれだけのことだ。ゆえに皇帝が取るべき態度として、戦場では腰を据える、という言葉が重みを持ってくる。ここでもし、今でいう「ちゃら男」が出てくれば事態の成り行きは全然違ったものになっていたろう。「ちゃら男」。ギリシア神話以来の厳粛な用語に翻訳し直せば「ヘルメス」(マーキュリー)。泥棒の神、音楽の神、速度の神、変化そのもの、を名指していう。だがしかし今の「ちゃら男」はただ単なる道化の仮面を付けているに過ぎない。戦場での風向きを変えて見せる技術をとうに失い人間社会の中へ編入されステレオタイプ化された或る種の人間でしかない。変化を起こすのは凝固し固定しステレオタイプ化された重みではなく、逆にステレオタイプからの逃走を常に試みる軽みなのだ。たとえばカフカ作品で重要な役割を果たす女性や子どもはとても軽い。軽率とか軽薄とかでなく、身のこなし、身振り、言葉づかい、等々、どれもたいへん自由で特定の形式に縛り付けられていない。見ようによっては支離滅裂で無責任に見えもする。要するに制度化されていない。制度化されていないという点でヘルメスとの共通項を見出すことができる。ところがこの種の軽みは制度の側から見れば犯罪に見える。犯罪としてしか見えないという様相を呈することもしばしばだ。犯罪者を罰する側は犯罪者が犯す犯罪によって支えられているにもかかわらず犯罪者に対する敬意がない。司法は犯罪者が犯す犯罪から恩恵を受けているにもかかわらずなぜ犯罪を裁くのではなく犯罪《者》を裁くのか。不可解で仕方がなくなるのはその点である。

「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・P.95」岩波文庫)

マクリヌスは皇帝としてやってはならない行動に出る。主人を指し示す真っ赤な衣装に身を包んでいるマクリヌス。なのにその真っ赤な衣装、「自分の緋色の衣を破る」。破ってどうするかというと、自分を守護している将校の肩に向けて真っ赤な「緋色の衣」を押し付ける。それでは自分が逃げるためだけに、ただ単なる将校を自分の分身として量産することにしかならない。敵の目を撹乱するつもりなのはよくわかる。けれどもそれは一時的な戦略的撤退でない限りけっして用いてはならないタブーなのだ。「自分の王冠を将軍の頭の上に」載せもする。マクリヌスは自分の分身をあちこちに生産する。そして逃げ去っていく。

「彼は自分の緋色の衣を破ると、行きあたりばったりに見つけた将校の肩にそれを投げつけ、自分の王冠を将軍の頭の上にほうり投げて、拍車を入れ、馬を進ませ、大急ぎで逃げる」(アルトー「ヘリオガバルス・P.170」河出文庫)

皇帝の態度としては認められない。マクリヌスの親衛隊は皇帝の態度を見てすぐさま自分の態度を決定する。

「それを見て、彼の親衛隊は武器を捨て、到着したヘリオガバルスのほうをふり向くと、彼に向かって熱狂的な万歳三唱の歓呼をあげる」(アルトー「ヘリオガバルス・P.170」河出文庫)

しかし大事なのはマクリヌスが自分で自分の分身を量産したこと、実際に量産できるという点にある。マクリヌスの身体は処刑されていない。八つ裂きにされていない。なのにただ、自分が身に付けている「緋色の衣」と「王冠」をあちこちに分散させるだけで自分の分身の量産に成功している。マクリヌスの親衛隊を崩壊させたのは、この唯一のもの、皇帝という存在、それを分散し量産するという行為である。この時点で皇帝の唯一性はマクリヌス自身の手でもみくちゃに葬り去られ失われている。敵味方の区別が本当になくなるのはその瞬間をおいてほかにない。敵前逃亡という態度はその後に付け加えられた敗北宣言でしかない。しかしマクリヌスが先に示した変身可能性はヘリオガバルスにとっても妥当する。流動するアナーキーを生産する統一性という奇妙な味わいを添えつつではあるが。

「戦いは終わり、玉座は勝ちとられた、いまやローマへと戻り、華々しくそこに入城することが問題である」(アルトー「ヘリオガバルス・P.170」河出文庫)

戦闘に勝利したヘリオガバルス。しかしローマは、ローマ市民は、世界最大を誇る帝国の構成員として鼻高々のローマ市民は、ヘリオガバルスを受け入れるだろうか。受け入れるとすればどのようにしてか。

「戦争で武装した兵士たちとともにいるセプティミウス・セウェルスのようにではなく、真の太陽王、つかのまの主導権を高みからつかんでいる君主然としてであるが、それを戦争によって勝ちとりはしたが、君主は戦争を忘れさせなければならない」(アルトー「ヘリオガバルス・P.171」河出文庫)

戦争を忘れさせること。それには多額の費用がかかる。要するにヘリオガバルスは途方もなく盛大な祝祭を催して戦争の痕跡を抹殺しなければならない。戦費よりも多額の散財を実行に移さなければならない。祝祭は貨幣のように利用される。貨幣で市民から戦争の記憶を消すことはできない。どれほど貨幣を積み上げても戦争の記憶を完全に除去することはできない。そうではなく、これまで誰も見たことがないような盛大強烈な祝祭を立て続けに催すことで祝祭のうちに、祝祭において、戦争の記憶を覆い隠すのである。貨幣を上から与えたとしてもなおのことローマ市民は次々と要求額を吊り上げてくるだろう。それを阻止するためには貨幣を与える側が一度は必ず市民よりも遥かに下に、最下層に、置かれることが要請される。最上層に位置する人間であろうとなかろうと普段はどん底を這い回っている奴隷階級に属する人間の命令に従わなくてはならない。どんな性的乱行にも自ら進んで悦んで身を捧げなければならない。それを可能にするためには「サトゥルヌナリア祭」=「ディオニュソス祭」を挙行する以外に手はない。このとき始めて祝祭は貨幣のように機能するし機能しなければならない。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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