白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・Kが見たレーニとブロックの日常的性倒錯とその利得

2022年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
フルト弁護士は今日一日ブロックが何をしていたか、もう一度レーニに問いただす。レーニはいう。「いつも彼がとまる女中部屋に閉じこめておきました」。<監禁>のテーマが浮上する。また「隙間(すきま)からときおり彼が何をしているか見ました」と言い、<監視>と<覗き>のテーマも浮上する。さらにその場所は「ほとんど光がささない」という点で裁判所事務局の「長い廊下」を思い起こさせ、にもかかわらずブロックは書籍類を読んでいたため「従順な人だとわかりました」と答える。

「『わたしはこの人が仕事の邪魔にならないように』、とレーニは言った、『いつも彼がとまる女中部屋に閉じこめておきました。隙間(すきま)からときおり彼が何をしているか見ました。彼はいつもベッドの上に跪いて、あなたが貸してあげた書類を窓枠(まどわく)にのせて読んでいました。それにはいい印章をうけました。というのはあの窓は通風孔に通じているだけで、ほとんど光がささないんですから。そんなところなのに読んでいたので、ブロックは従順な人だとわかりました』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.275」新潮文庫 一九九二年)

しかしKがブロックの家を訪れた時、レーニはまるで無防備な下着姿だった。午後十一時頃だったからかブロックと二人で盛大な性行為に熱中しており最初のベルが聞こえなかったほどだった。にもかかわらずレーニは伝達機械として弁護士に、間違いなく<監視>していたしブロックはずっと従順に書籍類を読んでいたと、やすやすと言ってのける。フルト弁護士と商人ブロックという二人の大人から「派遣」される立場にありながら、むしろそれゆえに両者の<あいだ>を取り次ぐ翻訳装置としては申し分ない優位な次元に位置している。二人の大人の<あいだ>を媒介する<貨幣=言語>としてレーニは弁護士よりもブロックよりも遥かに高度上級機能を果たす。だからといってレーニはフルト弁護士の事務所から職場を変えてもっと割の良い職業を探すつもりなどまるでない。次々とやって来る依頼人を汲めども尽きぬ愛で包み込むことで満足している。レーニは依頼人に自分の肉体を与える。依頼人は全力を上げてレーニに没頭する。依頼人は何度も繰り返しレーニに欲望を吸い上げられ急速に老け込んでしまう。しかしそれゆえレーニはいつまでも若い。またフルト弁護士は年老いた病人であり、弁護士にとってレーニは生活全般の面倒を見るのになくてはならない介護者を兼ねてもいる。

さらにブロックは弁護士から見た自分の印象を少しでも良くしておこうと「ひっきりなしに唇を動かして」レーニに適切妥当な作文を創作して弁護士に伝達するようしきりに頼み込む。もっとも、レーニの愛はダンテを天上界へ導くベアトリーチェのような愛ではない。そうではなく<身体>という次元でより一層具体的なものだ。その条件を満たしていて始めてKに向けて逃走の線を出現させてやることが可能になる。

「このやりとりのあいだブロックはひっきりなしに唇を動かしていた。明らかにそうやって彼にレーニに言ってもらいたい返事を作文していたのだ。『そんなことはもちろん』、とレーニは言った、『わたしにははっきりと答えられません。ともかくわたしは彼が徹底的に読んでいるのを見ました。一日中同じページを読んでました、読みながら一行一行指で辿(たど)って。わたしが覗(のぞ)いたときはいつでもため息をついてました、読むのがひどくつらいというみたいに。貸してあげた書類はきっとひどくむずかしいんでしょうね』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.275~276」新潮文庫 一九九二年)

レーニは書籍類について「きっとひどくむずかしいんでしょうね」と作文する。弁護士は「もちろんそうだ」、「あの男にいくらでもわかるとは思っていない」という。レーニはさらにブロックの行動について「一度だけ水を飲ませてくれと言いました。それで覗き穴からコップを渡してやりました」といい、<監禁・監視>は徹底されていたと反復する。

「『ああ、あれはもちろんそうだ』、と弁護士は言った、『あの男にいくらでもわかるとは思っていない。あれはただ、わたしがやつの弁護のためにやっている戦いがどんなに困難なものかをあの男に悟らせればよいのだ。まったくだれのためにわたしがこの困難な戦いをやっていると思う?ひとえのあのーーー口にするのさえばからしいがーーーブロックのためさ。それが何を意味するかもやつに教えてやらねばならん。やつは休まずに勉強しておったかね?』。『ほとんど休まずに』、とレーニが答えた、『一度だけ水を飲ませてくれと言いました。それで覗き穴からコップを渡してやりました。それから八時にこの人を出してやって、いくらか食事を与えました』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.276」新潮文庫 一九九二年)

ところでフルト弁護士がブロックに勉強のために読ませている書籍類だが、弁護士がいうにはブロックがそれを理解することは絶望的だろうと述べている。なぜだろうか。前に述べたが、廷吏の妻は洗濯女でもあり大学生の性奴隷を務めてもいる身であり、裁判所事務局の内部について大変よく知っている。Kに頼まれて予審判事が日頃から読んでいる書籍類を見せてやる場面があった。

「『なんて汚いんだここじゃ何も彼(か)も』、とKは頭をふりふり言った、女はKが本に手を出すまえに、前掛けで、少くとも上っつらの埃(ほこり)だけははらいのけた。Kが一番上の本を開くと一枚のいかがわしい絵があらわれた。男と女が裸で寝椅子(ねいす)に腰をおろしている絵で、絵描(えか)きの卑(いや)しい意図ははっきりと見てとれたが、絵があまりにも拙劣なので、結局は要するに一人の男と一人の女がーーーあまりにもからだばかり画面からとび出していて、極度にしゃっちょこばって坐(すわ)っていて、誤った遠近法のためにやっとのことで並んで向きあっている男と女が、見てとれるというだけのものであった。Kはそれ以上めくるのをやめて、二冊目の本は扉(とびら)だけ開けてみた、それは『グレーテが夫ハンスより受けし苦しみ』という題名の小説だった。『これがここで学ばれる法律書というわけだ』、とKは言った、『そんな人間どもにぼくは裁かれるってわけだ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.84」新潮文庫 一九九二年)

予審判事が熱心に愛読しているのはばらばらにモザイクされた「三文ポルノ雑誌」の類である。廷吏の妻はKによく学べるようにそれを見せてやったわけだがKは逆に馬鹿にされたと思う。しかし「<法>のあるところに<欲望>がある」ということを言葉で説明するのは途轍もない困難がともなう。言葉で長々と説明するより一目見たほうが断然速いと考えて廷吏の妻はそうしてやった。だがKは廷吏の妻が見せた親切を理解できない。Kには詩が理解できない。ニーチェの言葉でいう「歌うことができない」とはそういう意味だ。詩は困難な事情を説明しはしないがその困難さを洞察させるにはもってこいの経済的方法だというのに。また芸術部門全般でいえば、文学はもうとっくの昔に、少なくとも第一次世界大戦以降、絵画や音楽、オブジェなどに猛追され、第二次世界大戦後は追い越されて久しい。

さて廷吏の妻はそのすぐ後でまたしても大学生の言いなりになるが、廷吏の妻にしてみれば将来は夫の上司になるかもしれない法学生なので当り前のように性奴隷としての役割を果たそうとする。裁判所のホールで叫び声を上げて騒動を起こしたのも廷吏の妻とこの学生が超満員のホールの隅で抱き合い床を転がり始めたからだが、とにかく学生の性的要求は執拗である。だからといってカフカは誇張して描いているわけではまるでない。ただ民衆の日常生活というのはその種の出来事がしょっちゅう起こる、ありふれた場面をあちこちで齟齬を起こしている奇妙な文体をわざと用いて描くことで「<法>のあるところに<欲望>がある」というリアルを可視化して見せることに成功した。またカフカのような小説家は日本に誰一人いなかったかというとそうでもない。カフカの同時代かそれと前後して現れた内田百閒や夢野久作の作品は、それぞれカフカとは違っているものの、彼らが見出した新しい方法は世界がアナーキー化を起こしつつ急変している時期に出現するべくして出現したと言える。

一連のやりとりを見守っていたKはもう確実に解約すると決めた。レーニの翻訳を聞いた後、フルト弁護士は裁判官がブロックについてどう述べていたかをおもむろに語り出した。その言葉はブロックの希望を打ち砕く。

「『ブロックの話をし始めたら彼は不愉快そうな顔にさえなったよ。<ブロックの話はしないでくれ>、と言うので、<彼はわたしの依頼人です>、と言うと、<きみは体(てい)よく使われてるだけなんだ>、と言うのだ。<わたしは彼の事件はだめになったとは思いませんが>、と言うと、またしても<きみは体よく使われてるだけなんだ>、と言う。<そうは思いませんが>、とわたしは言った、<ブロックは訴訟に熱心でいつも事件を追っています。わたしの家に住みこみ同然になって、訴訟に遅れまいとしています。あれほどの熱心さにはめったにお目にかかれません。たしかに、個人的にはあまり快くはない、礼儀作法もなっていないし、汚ならしい、それはそうですが訴訟の観点からは非の打ちどころがありません>。いいかね、わたしは非の打ちどころがないと言ったのだよ、むろんわざと誇張してだが。すると彼は答えた、<ブロックは狡(ずる)いだけだ。彼はたくさん情報をかき集めて、訴訟を引き延ばすことを心得ている。しかし彼の無知のほうが彼の狡猾さよりはるかに大きい。もしあいつが、訴訟なぞまだ始まってもいないと知らされたら、それどころか訴訟開始を知らせる鐘さえまだ鳴っていないと教えられたら、一体やつはなんて言うだろう>。おとなしくしていろ、ブロック』、と弁護士は言った」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.277~278」新潮文庫 一九九二年)

そしてフルト弁護士はこうもいう。「裁判官がそう言ったからと言って、おまえには何の意味もない」と。さらに「訴訟手続のまわりにはさまざまな見解が重なりあって、見通しもつかんほどになっている」ともいう。いつどうなるのかさっぱりはっきりしない。どこまでも<可動的>であり何らかの情報はいつも「任意の人の口を通じて、任意の時」に「思いがけずやってくる」。ブロックはしゅんとしてしまいベッドの下の敷物の毛皮をいじっているばかり。そこでレーニはいう。今度はフルト弁護士から「派遣」される形へ移動している。

「『ブロック』、レーニがたしなめる口調で言い、上着の襟(えり)をつまんで彼を少し上へひきあげた、『さあ、毛皮をはなして、弁護士さんの話を聞きなさい』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.279」新潮文庫 一九九二年)

毛皮からすっかり裸になって私の鞭に打たれなさいとレーニは言っているわけだ。しかしサディズムが問題なのではない。逆に問題はマゾヒズムである。ブロックの態度が極めて両義的であり、極端から極端へ行ったり来たりしているのもようやく説明がつきそうだ。マゾヒスト特有の逆説について。

「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫 二〇一八年)

ドゥルーズがいうように「鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする」。この作用が確実であればあるほどブロックはますます訴訟から離れられなくなる。よりいっそう過酷な訴訟過程の延長を<欲望する>よう邁進する。レーニはブロックの<欲望>に沿うよう「鞭打ち」のご馳走を振る舞う<援助者>でもある。フルト弁護士はその様子をその上から眺めて快楽する、老いてなお盛んな<欲望>の人格化に過ぎない。立ち上がるのも一苦労の老弁護士にとって<眺める>という快楽はひたすらレーニの献身的な愛のおかげだ。レーニの愛の形態が諸商品の無限の系列のように次々変わっていくとともにそのキャパシティは底知れないと述べたのはそういう意味である。

ヨーロッパでは今なおマゾッホよりも圧倒的にサドの側が有名でなおかつサディズムの側に傾斜する傾向があるようだが、ロシアや東欧、さらにアジアでは必ずしもサド礼賛とばかりは限らない。その意味で東欧はむしろアジアに属するように思える。現代日本でもその傾向はもはやありふれている。空気のようにあまりにも当り前に蔓延しているので気づかないというに過ぎない。日米同盟の桎梏(しっこく)のもとでアメリカが日本を鞭打てば鞭打つほど日本は鞭打ちによって逆にますます挑発され「勃起を誘発し確実なものとする」。三島由紀夫「仮面の告白」冒頭がいきなりマゾヒストの信仰告白で始まっているのは一つも不思議でない。またドストエフスキーの長編群をみると「罪と罰」の「スヴィドリガイロフ」、「カラマーゾフの兄弟」の「スメルジャコフ、ドミートリイ」など、彼らはどう見てもマゾヒストの逆説を快楽=嘲弄しているとしか思えないに違いない。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・男性たちの<あいだ>を取り継ぐ<貨幣=言語>としてのレーニ

2022年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
フルト弁護士はKに誤解されがちなレーニの態度について説明する。

「『実はそれがレーニの変ったところで。わたしは前に大目に見てやることにしているし、だからいまあなたがドアに鍵をかけなかったら話す気もならなかったが。その変ったところというのはーーーあなたにはわざわざ説明するにも及ばんでしょうが、そんなびっくりした目でわたしを見るから、それで言うんだがーーーその変ったところというのは、レーニが大抵の被告を美しいと思うことです。彼女はだれにでも惚(ほ)れこみ、だれでも愛してしまう、だからまただれにでも愛されるようですがね』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.259」新潮文庫 一九九二年)

奇妙なことだ。「被告を美しいと思う」と。どういう意味だろうか。

「『経験を積んだ者なら、大勢の群衆の中からでも被告を一人ひとり見分けることができるのです。どこで、とあなたは聞くでしょうね。わたしの答はあなたを満足させないかもしれない。それはまさに被告が一番美しい人間だからですよ。かれらを美しくするのが罪であるはずはない、なぜといってーーーと、少なくとも弁護士としてわたしは言わなければならないでしょうーーーすべての被告に罪があるとは限らないからです。いまたかれらをいまの段階ですでに美しくしているのが、正しい罰であるわけもない、なぜといってみながみな罰を受けるとは限らないのですから。従ってそれはかれらにたいしてなされた訴訟手続のためというしかないのです。かれらのなんらかの形でつきまとっている訴訟手続ですな。言うまでもなく美しい者の中にも特に美しい者もいます。美しいといえばしかし全員が、あのみじめな虫けらブロックでさえ美しいのです』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.260」新潮文庫 一九九二年)

被告にもかかわらずではなく被告ゆえにますます「美」であり得る。有罪か無罪かは問題外であり、訴訟の中へ放り込まれ危険極まりない過程をあくなき信念の<力>を奮い立たせつつなお幼児のようにさまよっている、<逮捕された人間>という立場のまま宙吊りにされている<被告という名の身体>。それがなぜ「崇拝対象」になるのか。ニーチェはいう。

「崇拝は崇拝される対象のもつオリジナルな、しばしばはなはだしく奇異な特徴や特異体質を消去するものであるーーー《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」(ニーチェ「反キリスト者・三一」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.209』ちくま学芸文庫 一九九四年) 

それにしてもなぜ「解約」なのか。訴訟について現状のままでは「危険」が差し迫っていることに気づいたからである。そこで次のKの言葉はこう続く。二箇所ばかり立て続けにこういう。

(1)「『ぼくの考えではこれまでなされたよりもっと強力に訴訟に取組むことが必要になってきたのです』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.263」新潮文庫 一九九二年)

(2)「『なるほどあなたから裁判所についての情報はいろいろもらいました、あれはほかのだれからでも得られなかったでしょう。しかしいまとなってはそれでは足りないのです、いまや訴訟が文字どおり忍び足で、ますます身近に迫りつつあるんですから』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.263」新潮文庫 一九九二年)

欲望する機械と化したK。それこそ資本主義を生きる人間の本来的な姿だ。ところが事実上の本来性にまで行き着くことは決してできない。資本主義独特の<公理系>が絶対的決済をどんどん延長させ、いつまでも<未決状態>に置くからである。しかしなぜ<欲望>にほかならないと言えるのか。言葉を置き換えてみよう。「<もっと金を貸してほしい>、そうでなければ、<解約>して新しい融資機関を探すつもりだ」。というKの焦りが言語化されているとしか見えない光景が出現する。少なくとも読者の目には。

一方、レーニは何をしているのか。弁護士とブロックとのパイプ役を果たしている。弁護士から「派遣」される<娼婦・女中・姉妹>の系列の人格化として。レーニはブロックに声をかけて厳しく呼びつけただけですぐKに接近し、Kの背後から全身で「覆(おお)いかぶさったり、両手を、むろん非常に優しくかつ用心してだが、彼の髪にさしこんだり、頬(ほお)をなぜたりして、さんざんにKを悩ませた。ついにKがそれをやめさせるために彼女の手をつかむと、しばらく逆らったのちに彼女は手をかれにまかせきった」。

「『ブロックを連れといで』、と弁護士は言った。が、彼女は呼びにいくかわりにドアの外に出て、『ブロック!弁護士さんのとこへ!』、と叫んだだけで、それから、ふだん弁護士が壁に向いたきりで何も気にかけていないようだったからだろう、こっそりKの椅子のうしろに忍びよった。そうして、椅子の背に覆(おお)いかぶさったり、両手を、むろん非常に優しくかつ用心してだが、彼の髪にさしこんだり、頬(ほお)をなぜたりして、さんざんにKを悩ませた。ついにKがそれをやめさせるために彼女の手をつかむと、しばらく逆らったのちに彼女は手をかれにまかせきった」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.268」新潮文庫 一九九二年)

レーニは<愛することしか知らないを-生きている>。そして少し後で描かれるがレーニの愛の形は諸商品の無限の系列のように延々と形態変化しつつ展開されなおかつ底知れぬキャパシティを持つ。第一に「弁護士の上に覆いかぶさり、そうやってからだを伸ばすと、彼女の肉体の美しい線がくっきりと現れた。彼女は弁護士の顔の上に深くかがみこんで、その長い白い髪の毛をなぜていた」。第二にレーニの肉体言語の動きが「彼に答を余儀なくさせた」。

「するとレーニが弁護士の上に覆いかぶさり、そうやってからだを伸ばすと、彼女の肉体の美しい線がくっきりと現れた。彼女は弁護士の顔の上に深くかがみこんで、その長い白い髪の毛をなぜていた。それが彼に答を余儀なくさせた。『どうもこの男に教えてやる気にはなれん』、と弁護士は言って、頭を少し振るのが見えたが、これはもしかするとレーニの感触をもっと味わいたかったからかもしれない。ブロックは、まるでこんなふうに聞くのが命令を犯すことででもあるように、首をうなだれて聞き耳を立てていた。『なぜその気になれないの?』、とレーニが訊(たず)ねた。Kはすでに何度も繰返されるのだろうが、それでもブロックにとってだけはいつまでも新鮮味を失わないのかもしれなかった。『やつは今日はどうしていたかね?』、と弁護士は答えるかわりに訊ねた。レーニはその話を始める前にブロックを見おろして、彼が自分にむかって両手をさしあげ、懇願するように手をすり合わせているのをしばらく眺(なが)めていた。それからまじめくさってうなずくと、弁護士のほうに向き直って言った。『落着いてよく勉強してました』。一人の老商人、長いひげを生やした男が、年端(としは)もゆかぬ小娘に有利な証言をと懇願したのだ」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.273~274」新潮文庫 一九九二年)

重要な箇所だ。レーニの手に「水掻き」がついていることはすでに述べた。ゆえに<動物>でもある。「城」に出てきたオルガの場合、しばしば村にやって来る役人の性奴隷として取り扱われるとき、「馬小屋」へ入る。オルガはバルナバスの姉だが「馬小屋」では<動物>になる。レーニと似ている。似てはいるがレーニはさらに<子供>の系列へ編入可能である。後で述べよう。ここで見ておくべきはレーニは弁護士とブロックとの<あいだ>を往復する<貨幣=言語>になるという点。

レーニはレーニ自身の身体のままで<貨幣=言語>にのみ許された特権的<第三項>として機能する。弁護士の問いをレーニはブロックへ伝達し、ブロックの返答はレーニを通して伝達し返される。「『やつは今日はどうしていたかね?』、と弁護士は答えるかわりに訊ねた。レーニはその話を始める前にブロックを見おろして、彼が自分にむかって両手をさしあげ、懇願するように手をすり合わせているのをしばらく眺(なが)めていた。それからまじめくさってうなずくと、弁護士のほうに向き直って言った。『落着いてよく勉強してました』」と。この種の言語変換はなぜ可能なのか。(1)ニーチェから。(2)マルクスから。

(1)「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)

(2)「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第四節・P.138」国民文庫 一九七二年)

三十歳にもなり実務に長けたエリート銀行員のKから見れば、なるほどレーニは「年端(としは)もゆかぬ小娘」に過ぎない。だが今の日本でいえば高卒程度の女性である。例えば日本各地には商業高校が何個もあるわけだが、通例、卒業した女子生徒は就職するやすぐどこかの勤め先で事務員として労働に従事する。正社員でなくてもアルバイト・パート労働者としてどんな仕事でも引き受けなくてはならない。非正規雇用の場合、昼間はどこかの事務所で働かせてもらい、夜間は専門学校で法律・医療事務、等々を学んでいるという女性はごまんといる。しかしそのような個別的事情より重要なのは、レーニの場合、<娼婦・女中・姉妹>、<動物>、そして<貨幣=言語>と、それぞれの系列を思うがまま変化するく<しなやかさ>を持っていることだ。ただ単なる金属よりも遥かに<貨幣>に近い。その<価値>という点でいついかなる時も<加工=変造>され得るし自分で自分自身を<加工=変造>し得る状態にある。<引き延ばし>「自由」だ。レーニは<子供>にも見え<大人>にも見える。二人の大人から「派遣」され両者の<あいだ>を取り継ぐ<非定住民>として<位置決定不可能性>を生きている。「変身」の場合、グレーゴルの妹グレーテがこの立場にあるけれども、グレーゴルとグレーテとの<あいだ>には近親相姦のテーマ系が見られたのに対し「審判」のKとレーニとの<あいだ>に近親相姦のテーマ系はひとかけらの匂いすらまるでない。レーニはオルガがそうであるように遥かに<動物>に近い。最初に登場した際、「胡椒(こしょう)の匂い」をさせていた。グレーテとは異種なのだ。

なお、さらにロシアについて。ウクライナ侵攻でロシアはアメリカに恩を売る形になった。日本のマスコミ発表では「日米同盟のさらなる強化を確認した」と発表された。視聴者は覚えているだろう。数年前、世界はロシアを含め「グローバリゼーション」構想を発表したがなかなか上手くいかない膠着状態が続いていた。政治学者の中にはこう思っている人々がいた。最終的にロシアからの一撃が必要になるだろうと。本当にそうなった。「日本防衛」を名目に米軍はさらなる自由を得た。ウクライナに供給されている高性能な武器はどれも基本的にアメリカの同盟諸国から供給されたもの。アメリカはよりいっそう日本各地を自由に動き回る権利を手に入れた。少なくともロシアはその「時間をーーー与えた」。デリダはいう。「この<贈与>」と。

「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟を必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。

こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。

与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局 一九八九年)

あからさまな、破廉恥この上ない「贈与」。軍事に置き換えられた「三文ポルノ・ショー」を見るために、経済的にも政治的にも権利上も、このような犠牲が本当に必要なのだろうか。そうでなければ実現不可能な「グローバリゼーション」なのだろうか。一方で「チェルノブイリ《原発》」の危険性をアピールし、もう一方で本当にできるかどうかまだわからない《新型原発》開発のための「時間を<贈与>として与える」。いつまで演じれば気が済むのか。大国同士でいちゃつきたい気持ちは山々なのだろうが、それに付き合わされるばかりか「永世敗戦国」の末路をまざまざと見せつけられる側(日本国民)としてはなぜそれに「税金」が充当されるのかますますわからなくなる。

ロシアは以前クリミア半島を実行支配するため軍事行動を展開した。それは局地戦の様相を呈していた。また一九九〇年代末、NATOによるバルカン空爆があった。名目は「民族自立」支援。これもまた局地戦。しかしその後バルカンはどうなったか。諸大国の多国籍企業の主に自動車メーカー部門が寄ってたかって入り込み事務所を構えた。市場が飽和状態になり自動車も一渡り売れきってしまった頃、EU内の地域内経済格差が先鋭化し、イギリスが離脱するという事態にまで発展した。多国籍自動車メーカーのほとんどはどんどん事務所を撤収して本国へ帰った。空爆で出来た廃墟は新しい建物と置き換えられて多国籍建築メーカーも随分儲けたはず。しかし肝心の「民族自立」はどうなっているか。それぞれの主張する地域で小規模の国家を手に入れはしたものの、地域住民たちはまるで明治時代の近代日本でぞろぞろ出てきた「捨て子」のようにナショナリズムで凝り固まった小さなグループに分かれて覇権闘争を戦い合っている。民族紛争は終わってなどいない。誹謗中傷の嵐は止んでいない。むしろ闘争に疲れ切って今や不穏で虚無的な空気が漂っているばかり。旧西側か旧東側かという選択などもうこりごりだと言わねばならない。

また、まさかとは思うけれども「原発問題・日米地位協定・議員汚職問題・五輪誘致問題・差別問題・労働問題・移民問題、ーーーなど」。上げていけばきりがないほどだが、これら諸問題がきれいさっぱり覆い隠され消え失せてしまう危険への配慮を忘れるわけにはいかない。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・Kを嗤うブロックの生活様式と二十一世紀的生活スタイルの類似性および<狂気>

2022年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム
Kとブロックが話し合っている様子を見たレーニは挑発的な嘲りを込めた調子でいう。同性愛的態度を嫉妬深げに皮肉っているわけだが実際二人は「ちょっと向きをかえても頭がぶつかるくらいぴったりくっついて坐(すわ)っていた」。

「『まあ二人して仲良くくっついていること!』、と盆を持って戻ってきたレーニがドアのところに立止って叫んだ。事実ふたりは、ちょっと向きをかえても頭がぶつかるくらいぴったりくっついて坐(すわ)っていたのだ。商人のほうはもともと背が低い上にさらに背中を曲げていたので、Kのほうも、何も聞きもらすまいとすれば身を低くかがめないわけにはいかなかった」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.252」新潮文庫)

Kは画家ティトレリの部屋でもそうだったが男性同士二人きりで訴訟関連の話題に及ぶや、極めて同性愛的態度に引きずり込まれてしまう傾向が強いようだ。この時はブロックの話に耳を傾けているうちに興味深いエピソードが語られる。Kはそれに熱中するあまり接近し過ぎてしまっていた。レーニがいうにはフルト弁護士がKを呼んでいるから「いらっしゃい」ということらしい。またそれほどブロックの話が聞きたいのならいつでも聞けるという。なぜならブロックは毎日のようにここへやって来るしそもそもブロックは「しょっちゅうここに泊るのよ」という。

「『もうブロックは放してやりなさい、ブロックとならあとでだって話せるじゃないの、ずっとここにいるんだもの』。『ずっとここにいるんですって?』、と彼は商人にきいた。彼は商人自身の答がほしかった、彼はレーニが商人についてまるでこの場にいない者のような話し方をするのが気に入らなかった、彼は今日はレーニにたいする腹立ちで胸がにえくりかえっていた。だのに答えたのはまたしてもレーニであった。『彼はしょっちゅうここに泊るのよ』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.253~254」新潮文庫)

ブロックがKと二人だけの時にはおそらく口に出さなかっただろうし、ようやく口に出したとしてもずいぶん後になったに違いないブロックの秘密をレーニはあっけなく暴き立てる。そしてブロックの嘆きは「見せかけ」に過ぎないともいう。

「『この人が嘆くのは見せかけだけなのよ』、とレーニが言った、『ここで寝るのはとても好きだって、もう何度もわたしに白状したもの』。彼女は小さなドアのところにいってそれを押しあけ、Kにきいた。『彼の寝室を見てみる?』。Kはそっちへ行って、敷居からその天井の低い窓のない部屋を見た。幅の狭いベッド一つで部屋いっぱいだった。ベッドに入るにはベッドの枠柱(わくばしら)をのりこえていかねばならなかった。ベッドの枕許(まくらもと)の壁に凹(くぼ)みがあって、そこにロウソク、インク瓶、ペン、それにどうやら訴訟書類らしい一束の書類がきちんと並べて置かれていた。『あなたは女中部屋で寝るんですか?』、とKは聞いて商人のほうにふり返った。『レーニがあけてくれたんですよ』、と商人は答えた、『たいへん好都合です』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.256」新潮文庫)

ブロックは自分の訴訟の件で大変苦労している。だが延々と続く自分の悲惨な苦労話に他人が真剣に耳を傾けてくれる時、ブロックの悲惨な境遇はブロック自身にとって快楽を催す重要な素材へ変換されなおかつ一種の<権力意志>を実現させる道具へ変換されている。ニーチェはいう。

「《同情をそそりたがる》。ーーー病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

ブロックの長々しい説明とはまた別に、特に注目しておきたい先駆的描写がある。

「幅の狭いベッド一つで部屋いっぱい」であり「ベッドの枕許(まくらもと)の壁に凹(くぼ)みがあって、そこにロウソク、インク瓶、ペン、それにどうやら訴訟書類らしい一束の書類がきちんと並べて置かれてい」るばかり。なのだがブロックは「たいへん好都合です」と十分満足している。

極めて今日的な生活スタイルの予告になっている。実際、現代社会の日常生活で最低限必要なのはスマートフォン一つであり、ベッドの枕許にほとんどすべての必要書類を置いておくスペースさえあればそれで事足りる。むしろ昨今の若年層の多くはそうした傾向へ急傾斜している。

ところでKがフルト弁護士と解約したいのだがと切り出すやブロックが調子っぱずれの大騒ぎを始めた。

「『弁護士をくびにするって!』、と商人は叫んで椅子(いす)からとび上り、腕をあげたまま台所の中を走りまわった。走りながら何度も何度も叫んだ、『彼は弁護士をくびにするんだとさ!』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.257」新潮文庫)

ブロックの言動はまるで息を吹き返したかのように生き生きしていないだろうか。それも「調子が狂えば狂うほど」。ドゥルーズ=ガタリはいう。

「いまだかつて、軋轢も機能障害も、社会機械の死を告知するものであったことは決してない。それどころか、逆に、社会機械は、みずからが巻き起こす矛盾、みずからが招く危機、みずからが《発生させる》不安、この社会機械自身を再生させる地獄の試練、こうしたものをもって身を養うことを常としているのである。資本主義はこのことを学び知って、自分自身の将来を疑うことをやめてしまったのだ。同時に、社会主義者たちでさえ、摩滅によって資本主義が自然死する可能性を信ずることをやめてしまっている。いまだかつて、なんぴとも矛盾が原因で死んだことはない。資本主義は、調子が狂えば狂うほど、それはますます分裂症化して、アメリカ風にいよいよ調子がよくなるのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.185~186」河出書房新社 一九八六年)

なお、ウクライナ情勢について。情報過多のため、よくわからないというしかない。しかし人間誰しも多少なりとも夢に見た記憶のある光景には違いない。ニーチェはいう。

「われわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十二・P.36」ちくま学芸文庫 一九九四年)

また「ウクライナ情勢」とはよく言われるが、一方、「ロシア情勢」と言われることがほとんどないのはなぜだろう。ロシアの南下意志についてニーチェはロマノフ王朝時代からすでにこういっている。

「《最も危険な国外移住》。ーーーロシアには知識階級の国外移住というものがある。つまり彼らは、良書を読むため、また書くために国境を越える。けれども彼らはこうすることによってますます、精神によって見捨てられたその祖国を、小さなヨーロッパを呑みこまんとするアジアが前方にあんぐりと突き出す大きな口にかえてしまうよう働くことになるのだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二三一・P.440」ちくま学芸文庫 一九九四年)

ロシアによる今度の「ウクライナ急襲」は、次のような意味でなら、<国家の起源>を思わせないでもない。

「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十七・P.101~102」岩波文庫 一九四〇年)

しかしそれが可能だったのは帝国主義時代のエピソードである。「皇帝」が実在した専制君主時代のエピソードであり、当時は途方もない過酷な帝国が君臨できたわけだが、その条件についてカフカは次のように短編小説の中に溶かし込んで描いている。

「ひとつ伝説(たとえばなし)があって、この間の事情を実に見事にもの語っている。それによれば皇帝があなたにーーー一介の平民、名もない臣民、輝かしい太陽を逃れて世のはてに息を殺してひそんでいるあなたにーーー死の床から使者を送った。寝台のそばにひざまずかせて、その耳に用件をささやき、念のため自分の耳もとで復誦させてから皇帝は大きくうなずいた。まわりにはこれを見守っている無数の目があった。壁という壁はとり払われ、階段をもうめて高官たちが十重二十重(とえはたえ)に居並んでいた。その只中で皇帝は出立を命じた。使者は走り出た。強壮そのもの、疲れを知らぬ男だった。たくましく腕を打ち振り、群衆をかき分けていく。立ちふさがる者がいると太陽を描きとめた胸もとを指さした。使者はひたすら群衆を分けてすすんだ。だが人波は尽きない。家並みがとだえることはない。ともかくも野に出れば彼はとぶがごとくに走り、やがてあなたの戸口に剛毅な拳の音をひびかせるかもしれない。だが、それは先の話である。使者はいま苦闘をつづけている。宮殿の部屋を抜け出してさえもいないのだ。決してそこを抜け出せまいし、たとえ抜け出したとしてもどれほど前進したわけでもない。階段を降りるのに難儀しなくてはならず、たとえようよう階段を降りきったからといって何ほどのことがあろう。無数の内庭に分け入らねばならず、内庭を抜けても第二の宮殿が立ちはだかっており、ふたたび階段を上下して内庭に駆け出ても第三の宮殿がひかえている。悪戦苦闘のあげく決してありえないことながら、ようやく大門を出たとしよう。だが前には途方もない帝都が待ち受けている。世界の中心はまた、ありとあらゆるものどもがひしめいている坩堝(るつぼ)であり、死者の伝言をたずさえなどして、どうしてここをこえたりできるだろうーーー一方、あなたは窓辺にすわって、夕べともなると使者の到来を夢みている。つまりがこのように民衆は絶望と希望のいりまじったまなざしでもって皇帝を見つめている。今がどの皇帝の御世か知らず、名前すら怪しい。歴代の皇帝の名前は学校で習ったが、制度そのものがいたって曖昧であるからには優等生でもあやふやにならずにはいないのである。村ではいまだ、とっくの昔に死んだはずの皇帝が健在であり、歌に伝わっているだけの皇帝が、つい先だって詔勅を発して神官が祭壇の前で朗読したばかりである」(カフカ「万里の長城」『カフカ短編集・P.247~249』岩波文庫 一九八七年)

帝国は起源のわからない古い時代にあった無数の土着の共同体を統一することで誕生した、比較的最近の政治的軍事的建造物である。幾つもの小さな「塔」がまとめて<超コード化>された形態にあたる。ところがどんどん脱コード化を推し進める資本主義の<流れ>はそのような国家のあり方をもう二度と許さないようにしてしまった。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・商人ブロックがKに語る<ひとりでに増殖する>諸問題

2022年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
Kはフルト弁護士への弁護依頼を解約するため、通い始めてもう半年ほどになる裁判所事務局のある貧民街の建物へ向かった。叔父に紹介された弁護士だ。玄関ドアのベルを鳴らしたが反応がない。普段ならレーニが出てくるはずなのだが。Kは二度目のベルを押しながら別のドアを見たが閉じたままのようだ。しばらくするとドアの外にKが来ているのを確認する目が「覗(のぞ)き穴」に現れた。レーニの目ではない。すぐにドアは開かず、Kが来たので誰かに逃げるのを促す大声が警告音のように響いた。そしてようやくドアが開いた。Kはもうドアに体当たりしていた。Kは「まっすぐ控えの間にとびこみ、部屋と部屋のあいだの廊下をレーニが下着姿で逃げてゆくのを見た」。ドアは開けたのは商人をやっているブロックという名の小柄な男だった。

「Kはからだごとドアにぶつかっていった。というのは、もう彼のうしろで別の家のドアに急いで鍵(かぎ)をまわす音がきこえたからだ。そこで、目の前のドアがやっと開いたとき彼はまっすぐ控えの間にとびこみ、部屋と部屋のあいだの廊下をレーニが下着姿で逃げてゆくのを見た。ドアを開けた男の警告の叫びは彼女にむけて発せられたものだった、彼はしばらく彼女を見送り、それからドアを開けた男のほうに向き直った。総(そう)ひげをはやした、小柄(こがら)な痩(や)せた男で、手にロウソクを持っていた」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.232」新潮文庫)

なぜレーニは「下着姿」なのか。弁護士事務所である。法に深く関係する。前に廷吏の妻である洗濯女がKに教えてくれたように<法のあるところにはいつも欲望がある>のだ。Kはその場の状況を察し、実のところはまだ思案していたた弁護士解約についての迷いなど一度に吹っ飛んでしまい、解約にまとわりついていたいろいろな迷いをかなぐり捨てて決心へと変えた。次にレーニの姿が見えた時、彼女はもういつものエプロン姿に戻っていて台所で病気を患っている弁護士のためにスープを作っていた。レーニはいう。商人ブロックを「少し面倒見たのはね、彼が弁護士の大顧客(おおとくい)だからなのよ、それ以外に理由なんてないわ」。

「『わたしが彼のこと少し面倒見たのはね、彼が弁護士の大顧客(おおとくい)だからなのよ、それ以外に理由なんてないわ。で、あんたは?今日どうしても弁護士と話さなくちゃならないの?今日は非常に具合が悪いのよ、でも、どうしてもっていうんならともかく取りつぐわ。しかし今夜はずうっとわたしとしいてね、きっとよ。ずいぶん長いことここに来なかったじゃない、弁護士まであんたのこときいていたわ。訴訟をいいかげんにしちゃだめよ!わたしもあれからいろんなことを聞いたから、いろいろ話すことがあるの。でもそれよりまず外套を脱ぎなさいよ』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.237」新潮文庫)

弁護士の部屋へスープを持っていくので待っていてほしいとレーニは言ってその場をすっと立ち去った。そこでKは商人ブロックから訴訟に関する個人的な事情を聞かされる。Kは被告になる以前からずっと顧客を大切にする銀行員であるため聞き上手でもある。少なくとも聞き手の側が取るべき態度は十分心得ている。ブロックはKにこれまで続けてきた裁判について話す。また、ブロックが依頼している弁護士はフルト一人だけでないという。しかし重要な裁判であれば同時に複数の弁護士を雇っても別に構わないのではとKは尋ねる。ブロックはいう。

「『それがここでは』、と商人は言った。彼は告白し始めて以来重い吐息をついていたが、Kの言質(げんち)を得てからは前より信頼しているようだった、『許されないことなんですよ。いわゆる弁護士のなかにさらにほかにもぐりの弁護士を頼むのは、なかでも一番禁物とされているんです。ところがわたしがしたのはまさにそれで、彼のほかに五人ももぐりの弁護士を傭(やと)っているんですからね』。『五人も!』、とKは叫んだ。なによりも彼を驚かしたのはその数だった、『この弁護士のほかに五人もですか?』。商人はうなずいてみせた。『しかも目下さらに六人目と交渉中です』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.242」新潮文庫)

この箇所で重要なのは弁護士が「もぐり」であろうとなかろうと複数雇うのが良いか良くないかという問いではまるでない。依頼する弁護士の数はだんだん<増殖していく>傾向を持ち、この傾向は避けられないと言っていることである。<欲望>は<増殖する>。ブロックにはそれが自明の<掟>になっていてもはや疑われてさえいない。さらにブロックの打ち明け話を聞くと、訴訟に勝利するためにつぎ込んだ代償に驚かされる。商人であることは確かなのだが訴訟以前は建物の一階部分丸ごと所有していたけれども今や「裏側の小部屋一つ」しか残されていないさびれようだという。Kは自分で訴訟に打ち込み懸命に取り組んできたからこそ大変な代償を払うことになったのだろうと考えて訊ねてみる。ところがブロックのいうことは違っている。なるほど最初は自分で取り組んだわけだがとにかく一方的に疲労が蓄積していくばかりで肝心の有効性は一つも感じられない。むしろ「裁判所ではただ坐(すわ)って待ってるだけでもおそろしくくたぶれますからね」。また裁判所事務局の「あの重苦しい空気」についてKもすでに知っている通りだと。Kはブロックのことを知らない。だがブロックはKを知っている。というのも初めて裁判所事務局の「長い廊下」を訪れた時、ブロックはKが廷吏とともに廊下を歩く姿を目撃していたからである。

「『そのことではあまり話すことはありませんよ』、と商人は言った、『初めはわたしもなるほどやってみましたが、すぐやめてしまったんです。疲ればかりひどくてあまり効果がないんでね。自分で取組んで交渉するなんて、少なくともわたしには不可能だとわかりましたよ。裁判所ではただ坐(すわ)って待ってるだけでもおそろしくくたぶれますからね。もっともあなたは事務局のあの重苦しい空気はご存じなわけだが』。『どうしてぼくがあそこに行ったなんて知ってるんです?』、とKは訊ねた。『あなたが通っていったときちょうど待合室にいましたからね』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.243」新潮文庫)

Kは関心を掻き立てられてもっといろいろと聞かせてほしいと思う。だがほんの僅か何か問うただけでそんなことはまるで「つまらない」と一蹴されてしまう。ブロックにすればKがあまりにも無知に見えたため逆に訴訟とは何たるかをこんこんと説明し出す。いつまで経っても抜けない疲労の蓄積に責め苛まれ、あれこれ「いろんなことに気がとられてるものだから、その埋合わせに迷信に耽(ふけ)りだす」被告が続出するという。とはいえ、「まったくばかげた迷信で、多くの場合事実によって完全にくつがえされてしまいます」。しかし「ああいう連中の中にいると、そんな考え方からなかなか抜(ぬ)けだせな」くなる。わからない話ではない。苦労続きで精神的にまいっている人々を狙ってカルト団体の人間が声をかけてくることはどこの社会でもしばしばある。日本でも一九八〇年代の大学キャンパスは幾つかのカルト教団の「草刈り場」と化していた。二〇〇〇年代初頭にはもう二世問題、三世問題が発生しており、その問題解消の取り組みは今なお続けられている。しかし例えば、一人の学生がカルト教団に入信したあとは次に他人を入信させることになるわけだが、彼らすべてをひとまとめにして一方的に加害者だと決めつけるわけにはいかない。加害者になる前には被害者だったのであり、マインド・コントロールが解けて脱会してからも被害者かつ加害者だったという過去を消すことはできない。彼らは脱会した後、かつてカルト信者の一人だったという<とりかえしのつかない過去を-もっている>という複合過去を生きていかなければならない。すでに二重化された苦悩を背負っている。そしてその重さに耐えきれず再びカルトに再入会するといった事例も稀ではない。さらに今やネットを通して勧誘する側に引き込まれているといった事例が続出してきた。当事者は誰もが「立派に社会貢献している」と本気で信じ込んでいる。良いか悪いかどちらかしかないという信じ難い二者択一の世界の中で生きている。しかしなぜそうも簡単に入信してしまうのか。人間存在の根底には宗教的信仰心をよりどころにしなくては不安でいっぱいになり、いてもたってもいられないという極めてリアルな事情が根を張っている。どのような形態を取るにせよ、ひとかけらも信仰的色合いのない思想・宗教なしに生きていくことはできないようにできている。

「『こういう訴訟手続のあいだは、それはもう常識では間に合わないようなことが次から次へ話題になるものなんですよ。みんなただもう疲れはて、いろんなことに気がとられてるものだから、その埋合わせに迷信に耽(ふけ)りだすんです。なんて他人事(ひとごと)みたいな言い方をしてますが、その点はわたしだってちっとも変らないんでして。そういう迷信の一例として、たとえばかなり多くの者が、被告の顔、とくにその唇(くちびる)の格好(かっこう)から訴訟の成行きを読みとろうとしています。で、この連中に言わせると、あなたの唇から推しはかるに、あなたは必ず近いうちに有罪判決されるだろうっていうんですね。繰返し言っときますが、これはまったくばかげた迷信で、多くの場合事実によって完全にくつがえされてしまいますよ、でもああいう連中の中にいると、そんな考え方からなかなか抜(ぬ)けだせないものなんですね』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.244~245」新潮文庫)

ニーチェに言わせれば「ニヒリズム」でさえも一つの<道徳>か<道徳の解釈>である。信じる価値のあるものは何一つないという或る種の「絶望」にも似た「ニヒリズム」的な態度は熱烈には見えないけれどもそれはそれでまた一つの<道徳>か<道徳の解釈>にほかならないというわけだ。なるほどニヒリストはそれと意識することなく「世の中で信じるに値するものは何一つない」という<信仰>に取り憑かれている。ニーチェはいう。差し当たり二点。(1)は一般的なニヒリストについて。(2)は<道徳の解釈>が<道徳>とすり換えられてしまう場合。

(1)「《完全なニヒリスト》。ーーーニヒリストの眼は、《醜いものへと理想化し》、おのれの追憶に背信をおこなうーーー。すなわち、追憶が転落し凋落するにまかせ、遠いもの過ぎ去ったもののうえへと弱さのそそぐ屍色(かばねいろ)に追憶が色あせてゆくのをふせごうとはしない。そしてニヒリストは、おのれに対してなさぬこと、そのことを人間の全過去に対してもなすことはない、ーーー彼はそれを転落するにまかせる」(ニーチェ「権力への意志・上・二一・P.37」ちくま学芸文庫 一九九三年)

(2)「現今の道徳的判断は、頽落の、《生》への不信の徴候であり、ペシミズムを用意するものである。私の主要命題。すなわち、《道徳的現象なるものはなく、あるのはただこの現象の道徳的解釈にすぎない。この解釈自身は道徳とはかかわりあいのない起源のものである》」(ニーチェ「権力への意志・上・二五八・P.261」ちくま学芸文庫 一九九三年)

<法の解釈>の側が<法>として優位に立つケースについてはカフカも短編の中で述べている。<掟>というものの逆説性について。

「掟自体がとてつもなく古く、何世紀にもわたっていろいろ解釈されてきたので、すでに解釈自体が掟になっている」(カフカ「掟の問題」『カフカ寓話集・P.70』岩波文庫 一九九八年)

続けてKはブロックに聞く。裁判所事務局の「長い廊下」で疲弊しきって何かの到来を待ち続けている人々は互いに情報交換し合ったり共通の利害関係で結びつき合ったりしているのかと。ブロックの返事はまたしてもKの論理とはすれ違いを起こす。

「『一般にかれらはおたがいどうし行き来はしません』、と商人は言った、『そんなことできっこありませんしね、なにしろ大変な数だから。それに共通の利害もないし。ときおりあるグループの中に共通する利害があるという信念が頭をもたげることがあっても、すぐ間違いだとわかってしまうんです。裁判所にたいしては協同ではなに一つできやしません。どんな事件でも独自に調査する、あれはまさに慎重この上ない裁判所なんです。だから協同でも何一つ仕遂げられないんですが、個々人がこっそりと何かをやりとげることはよくあるんです。ただし、やりとげたあとで初めて他人の耳に入るんですから、それがどうやって成功したのかだれにもわからない。そんなわけで協同ということはありえませんし、待合室のそこここに寄り集ることはあっても、そこで相談するわけじゃありません。迷信がかった考えはすでに古い昔からあって、まさにひとりでに増えてゆくわけです』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.246」新潮文庫)

個々人が身を置いている社会的立場が異なる場合、このような論理的すれ違いはいつも発生してくる。だがこの場合、Kとブロックの間には埋めても埋めても埋めきれない深淵がぱっくり口を開けたまま横たわっている。世界に対する認識がまるで異なる。同一社会の内部でいつも生じている固定的な社会的立場の違いではなく、互いが生きている社会の中にまるで違う価値体系が幾つもあり、互いに違う価値体系に属する者同士が言葉を交わし合うような場合に忽然と可視化される違いである。その場合、両者は衝突するわけではなく、両者が共に協力し合ったとしてもなお、どこまで行っても話が噛み合わないという永遠回帰的すれ違いが生じる。衝突した場合のほうが両者とも互いの違いに気づき合えるケースは多い。けれどもKが陥っている罠は正面衝突できない形態を取っている。ヘーゲル「精神現象学」に描かれた自己意識の運動としての<主と僕>の関係では解決不可能な関係であり、つかみどころのない状況が延々と続いていくばかりだ。

そしてブロックの説明の中に何気なく混じり込んでいるのが「まさにひとりでに増えてゆく」というただならぬフレーズである。「ひとりでに」<増殖>する。諸機械の各部分(戦争機械、国家装置、技術機械など)が自動的に<増殖>を<欲望する>加速的傾向。資本主義独特の特徴の本格的到来を物語っていると言わねばならない。

なお、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻について。差し当たり引用しておこう。

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・捕獲装置・P.234」河出文庫 二〇一〇年)

だがしかしこれは大きな事件であって、貨幣がその排除過程を覆い隠すように他の無数の諸問題を覆い隠してしまう効果を持つ。「原発問題・日米地位協定・議員汚職問題・五輪誘致問題・差別問題・労働問題・移民問題、DV・消費税・格差拡大問題ーーーなど」。上げていけばきりがないほどだが、これら諸問題がきれいさっぱり覆い隠され消え失せてしまう危険もまた同等に存在する。またアメリカのバイデン大統領は「責任はロシアにのみある」という声明を出したが余りにも馬鹿げていて呆れるほかない。諸大国の首脳陣がああでもないこうでもないと既得権益をめぐって争っているうちに寄ってたかって「作り上げてしまった」必然的産物であって「責任はロシアを含むすべての諸大国にある」と訂正されるべきが妥当だろう。ゆえに注意深く、それこそ「測量師の方法で」観察していく必要性がある。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・Kの訴訟<引き延ばし>と資本主義的永遠回帰のパラレル性

2022年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
もう一つの手法「引延し」について語るティトレリ。ティトレリはKが逮捕された以上、完全な無罪判決を得る見込みは絶対的になく、<ない>ことこそもはや自明だと確信して語っている。一方Kは、その中にもしかしたらまだ無罪判決を手に入れる要素が見出せるかもしれないという限りなく絶望に近い希望を捨てずに耳を傾けている。

「『引延しというのはですね』、と画家は言って、ぴったりした言葉を捜すように一瞬宙に目を浮かせた、『引延しとは、訴訟がいつまでも一番低い段階に引きとめられていることによって成立つのです。これをやりとげるためには、被告と援助者、とくに援助者が絶えず裁判所と個人的な接触を保つことが必要です。もう一度言うと、この場合は見せかけの無罪判決を獲得するときのような苦労はいりませんが、そのかわりはるかに大きな注意が必要です。訴訟から目を離してはならないし、担当の裁判官のもとに、特別な機会に行くのはむろんとして、たえず定期的に出かけていかねばならず、いろんな方法で彼の好意をつなぎとめておかねばならない。もしその裁判官を個人的に知らないんだったら、知人の裁判官を通して働きかけねばならないが、その場合でも直接の話し合いを断念してしまってはいけない。これらの点で努力を怠りさえしなければ、かなりの確かさで、訴訟は最初の段階から先へ進まないと信じていいのです。むろん訴訟が中止されたわけではない、しかし被告は自由の身と言ってもいいくらいに、有罪判決されるおそれがありません。見せかけの無罪にたいしこの引延しには、被告の将来が前者の場合ほど不安定でないという利点があります。突然に逮捕される驚きからは守られているし、たとえそのほかの情勢がきわめて思わしくない時期でも、あの見せかけの無罪獲得につきものの努力や緊張感を引き受けなくてはならぬのか、などと怖(おそ)れることもありません。もちろん引延しにも被告にとって決して過小評価できないある種の弱点があります。といってわたしはなにも、この場合は被告が自由になることは決してない、ということを考えているのではありません。本来の意味ではそれは見せかけの無罪の場合だって同じことですからね。それとは違う弱点です。というのは、少くとも見せかけでもその理由がなければ、訴訟は停止するわけにはいかないということです。従って、外にたいしては訴訟の中でいつも何かが起っていなければならない。つまりときおりさまざまな命令が出されなければならず、被告が訊問(じんもん)されたり、審理が行われたり、等々がなされていなければならぬわけです。そこで訴訟は絶えず、わざと人為的に局限された小さな範囲のなかで回転させられていくことになります。これはむろん被告にとってある種の不快感をともなうことですが、しかしあなたはそれではひどすぎると想像してはならんでしょう。すべては外面的なことにすぎないんですから。たとえば訊問はごく短いものですし、出かけてゆく時間や気持がなければ、断ってもかまわない。ある種の裁判官の場合には、長期にわたっての命令をあらかじめ一緒に決めておくことさえできるんです。本質的にはつまり、とにかく被告は被告なんだから、ときおり裁判官のもとに出頭するというにすぎません』」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.223~225」新潮文庫 一九九二年)

ティトレリの言葉、「というにすぎません」。あまりにも軽い取り扱い方。まるで何一つ大したことではないではないかという調子。Kの身にすればからかわれているとしか思われない。Kはどこをどう探してみても逮捕される理由一つ見あたらないというのに被告にされたばかりか、裁判所の指示通り従っている限り、むしろ死刑判決ではないのだからもう十分ではないかと完全に諦めることをいとも軽々しく、また善処ででもあるかのように遥か上空から恩を着せられた気分である。死にかけの猿を見捨てず逆に拾ってやったのだから芸の一つでも覚えれば一種の社会貢献になるのでは?と大真面目な顔で教訓を与えられたかのような感覚だろう。頭に血がのぼったKはただちに画家のアトリエを立ち去ろうと決めた。無駄な時間に付き合わされてしまっただけでなく無駄以外の何ものでもない時間をわざわざ作ってしまった自分自身にも怒りを覚えている身振りを取る。なおティトレリは「引延し」について訴訟の中の一つ手段として語っているわけだが、それが「城」の機構でのバルナバスの行動とまるで同じことだとカフカは読者に教えている形になる。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫 一九七一年)

<可動的>な柵。一つの柵を越えたとしてもそれはただそれだけのことに過ぎずKの立場が次の段階に入ったことにはならない柵。どこまで行っても最終的<決済>のやって来ない<未決状態>という宙吊りにされたままのK。

またティトレリは「外面的なことにすぎない」とも言っている。ヘーゲルは言語について音声言語(声)の側が上位にあることを証明しようとして書記言語(書かれた文字)は「外面的」なものに過ぎないと証明しようとするが、証明しようとすればするほど言語の真ん中に横たわっているのはほかでもない「外面的」な書記言語だという事実を逆に証明してしまう。マルクスがヘーゲルを転倒させて観念があるところに実は物質があると述べたように。しかしなぜ延々と引き延ばすことが可能なのか。ヘーゲルはいう。

「これが《対内》主権である。主権にはなお他の側面、すなわち《対外》主権がある。ーーー過去の《封建的君主政体》には主権をもっていたが、しかし、対内的には君主だけではなく、国家も主権をもっていなかった。国家および市民社会の特殊的な職務と権力が独立の団体〔ギルド〕や共同体に専有され、したがって、全体は有機的組織であるよりはむしろ凝集体であったこともあるし、また、特殊的な職務と権力が諸個人の私的所有物であり、そのために彼らが全体を顧慮しておこなうべきことがらが彼らの臆見や好みにまかされていたということもあった」(ヘーゲル「法の哲学・下・第三部・第三章・二七八・P.257~258」岩波文庫 二〇二一年)

或る事物の価値について「《対内》主権」と「《対外》主権」との二つがある。そして内部と外部とでは価値体系がまるで異なっている。それが根本的契機としていつも存在するため、どこまで行っても未決状態が延々と引き延びていく事態が生じる。経済的な決済が決して訪れない理由もそこに求めることができる。そしてこの事情についてマルクスもエンゲルスも気づいていなかった。世界を一国として考えている限り決して見えてこない事情である。しかし世界は生産・流通・金融とどのブロックにおいても資本主義的生産様式のそれぞれとして繋がっている以上、一国として考えることができる。そしてそう考えるのは間違っていない。さらにそのように一国として考えると資本主義的生産様式について精緻この上なく説明することができる。ところがそうすると最後に資本主義は別の生産様式へ自動的に転化することが決定されたかのように錯覚してしまう。まさに最後の最後で躓(つまず)くのだ。ゆえにヘーゲルは最後にはキリスト教によるユートピア世界が地上を支配して丸く収まるという話を持ってきて無理やり弁証法を「止揚・揚棄」してしまった。マルクスとエンゲルスはキリスト教ではなく共産主義世界の到来によって世界は「止揚・揚棄」されると宣言した。どちらが正しいかという問いはもはや無効である。どちらも弁証法を取っている限りでは間違っていない。そして今なお弁証法はますます有効でさえある。ただ「《対内》主権」と「《対外》主権」という形で常に価値体系が異なっていくばかりの<内部>と<外部>とが世界の中から、世界として出現してくる限り、どこまで行っても最終的<決済>は決してないということがわからなくなるのだ。コード化している地域があり、脱コード化している地域があり、再コード化している地域があり、そのどこへ行っても弁証法を前提に議論が行われている。<コード化・脱コード化・再コード化>は時間的に順を追って続いていくわけではまるでなく、空間的に世界のあちこちで何度も繰り返し打ち広がっていく作用なのだ。この事情は同一的な<内部>の側から先に考えていてはいつまで経っても見えてこない。逆に<外部>という差異の側から考える立場に立って始めて見えてくる。すると同一的なもの(アイデンティティ)の確立ではなく逆に差異の増殖によって世界は永遠に回帰するという思想にたどりつく。

そのことに最初に気づいたのはまたしてもニーチェである。ただニーチェの場合は論理的方法の瞞着性について暴露せざるを得ない地点へたどりついたことでそれに気づきもし気づかせもした。世界にはまるで異なる別々の価値体型があり、そうであって始めて世界は決して停止しないことの根拠になっている、という点について二箇所引いておこう。(1)は生活様式の差異の複数性について。(2)は言語体系の差異の複数性について。

(1)「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)

(2)「個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁を持ち合って伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史のうちに出現するように見えても、やはり或る大きな大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように、一つの系統に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に《可能な》諸哲学の根本図式を繰り返し充(み)たすか、という事実のうちにも窺(うかが)われる。彼らは或る眼に見えない呪縛(じゅばく)のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻(めぐ)るのである。彼らはその批判的または体系的な意志をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。ーーーそのかぎりにおいて、哲学することは一種の高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげでーーー思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげでーーー始めから一切が哲学大系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞(ふさ)がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に『世界を』眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二〇・P.38~39」岩波文庫 一九七〇年)

そこで改めて差異から始めることでようやく論理的にも永遠回帰が生じてくると証明して見せたのはドゥルーズである。アナーキズム的な匂いがするとして右からも左からもうさん臭がられたドゥルーズだったが、そのドゥルーズともう一人フーコーが注目したのは偶然にもアメリカ型資本主義であり、従ってドゥルーズやフーコーの著作が漂わせていたアナーキズム的な匂いはアメリカという国家形態が発するうさん臭さから立ちのぼっていた臭気だった。

それはそれとしてKは気が進まないながらもお礼のつもりでティトレリの絵を三点購入する。そして一刻も早く外へ出て新鮮な空気を吸い込みたいと思ったKにティトレリは部屋からの出口を教えてやった。部屋のドアが開けられた瞬間、Kの目に唖然とする光景が飛び込んでくる。そこには裁判所事務局があった。

「『全部つつんでください!』、と彼は叫んで画家のおしゃべりを遮(さえぎ)った、『あした小使にとりに来させます』。『その必要はありません』、と画家は言った、『いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう』。そしてようやく彼はベッドの上にかがみこみ、ドアの鍵を開けた。『遠慮なくベッドに上ってください』と画家は言った、『ここに来る人はみんなそうするんですから』。そうすすめてくれなくてもKは遠慮なぞしなかっただろう。それどころか彼はすでに片足を羽根ぶとんにのせてさえいたのだが、開いたドアから外を見て、またその足をひっこめてしまった。『あれはなんです?』、と彼は画家にきいた。『何を驚いてるんです?』、と画家のほうでも驚いてきき返した、『裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか?ほとんどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう?わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ』。Kはこんなところにまで裁判所事務局を見出(みいだ)したことにそれほど驚いたのではなかった。それより彼は自分にたいし、自分の裁判所に関する無知にぞっとしたのだった」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.228~229」新潮文庫 一九九二年)

あのおぞましい「長い廊下がひろが」っており、さらにアトリエの側に向かって「そこから空気が動いて来た」。Kが通うことになっている裁判所事務局とはまた別の事務局のようだがその光景はほとんど違わない。「長い廊下」、「ベンチ」に座ってうなだれている訴訟当事者、「廊下のはしの薄暗がり」。Kはめまいに襲われたかのように「よろめいて」歩くことしかできない。

「つねに用心していること、決して不意を襲われぬこと、裁判官が自分の左に立っているのにうっかり右を見つめたりしないことこそ、被告のとるべき態度の根本原則だと彼は思っていたのにーーーなんどでもまた彼が破るのは、まさにその根本原則だったのだ。彼の前には長い廊下がひろがり、そこから空気が動いて来たが、それにくらべればアトリエの空気のほうがまださわやかだった。廊下の両側にベンチがおかれている点も、Kの関(かかわ)っている事務局の待合室と正確に同じだった。事務局の設備は詳細な規定で定められているようだった。見たところここでは訴訟当事者の行き来はそれほどではなかった。一人の男がそこになかば横になって坐(すわ)っていたが、これはベンチの上の腕の中に顔をうずめ、眠っているらしかった。廊下のはしの薄暗がりにも男が一人立っていた。Kはベッドを越え、絵を持った画家がそれにつづいた。まもなく一人の廷吏に出会うとーーー私服のふつうのボタンにまじっている金ボタンで、Kはいまやすべての廷吏の見分けがついたーーー画家はその男に絵を持ってKのお供をしてくれと頼んだ。ハンケチを口にあて、Kは歩くというよりむしろよろめいていった」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.229~230」新潮文庫)

この箇所ではそれまで見分けのつかなかった一人の廷吏の姿がKの目に入ってくる。ほとんど一般人と違わない「私服」なのだが「私服のふつうのボタンにまじっている金ボタン」というほんのちょっとした「徴(しるし)」によってもはやKにははっきりと区別できるようになっている。Kは学習する。もはや絶望的だと。にもかかわらず訴訟は続いていくしK自身がますます訴訟化していく。

なお、ロシアの軍事行動が異常であるとマスコミ(主にテレビ)はやかましくがなり立てている。特にテレビは無意味な騒音に等しい。実際のところ、再開発を名目としたアフリカの自己領土化を巡って中国とアメリカとで妥協し分け合う形になり、ロシアは思いのほか領土化できない立場へ押し下げられたことが我慢ならないようだ。アメリカは中国のことをすでに「仮想敵国」と考えていないように見える。むしろ北朝鮮・ロシアをいったん<仮の>「仮想敵国」に位置付け排除しておき、アフリカを中国と分け合った上でおもむろに北朝鮮を市場に引きずり込み、圧倒的かつ驚異的軍事力で打ち固めると同時に強引に分配するつもりなのだろう。アフリカ利権で先手を打った中国がやや大きいぶん、北朝鮮は部分的にアメリカに譲ってやっても構わないという算段なのかもしれない。米中の間に政治対立はあるものの経済的には久しい以前からもはやパートナーだからである。

民族紛争は一時的にナショナリズムを高揚させて資本主義的<雑種性>をヘイトさせるが、そういう時にはトランプ政権を樹立させて加速主義を出現させ、たちまち民族紛争を疲弊へ追い込み「ヘイト禁止法」を成立させた。ヘイトには「憎悪」があるが憎悪する相手に自分の日頃から毛嫌いしている「汚点」が透けて見えることでむしろ「自己嫌悪」に近いものがある。人間にそれを学ばせることも資本主義にとっては大切な機能だ。資本主義自身が生き延びていくために。ロシア革命を「消化」するのに当たって「労働階級のための公理」を承認し「労働組合のための公理」を承認し「社会福祉のための公理」を承認し、というふうに資本主義が二度と再び転倒されないよう様々な「公理」を設け、さらに古くなった公理を新しい公理へ次々と置き換えていく。「ヘイト禁止」もまたその一つ。ナショナリズム的<アイデンティティ>は資本主義を減速させ資本主義に死をもたらす。しかし「ヘイト禁止」させることで資本主義は物流を速やかに回復させ民族主義的アイデンティティを緩和させ<雑種性>を高める方向へ置き換える。

また「持続可能なSDGs」の中に「脱炭素」が入っているけれども「脱原発」が入っていないのはなぜだろう。そもそも「持続可能」という言葉自身、人間社会の共生を目指しているわけではほとんどなく資本主義の引き延ばしのおおっぴらな宣言でしかないというのに。「人間の社会的共生を目指しているわけではほとんどない」というわけは、機械ばかりの全自動世界が実現されてしまえばもう資本主義が利子を出現させることはできなくなるからである。機械だけでは剰余価値は生まれないし消費者も生まれない。消費者が消滅すると剰余価値の実現はまったく不可能に陥る。生産も流通も金融もまるで無価値になる。しかしそれぞれの人間は各自の方法で生き延びたいと欲望する。資本主義はその欲望をもっと激しく欲望させることで<決済>を延々と引き延ばさせて<未決状態>で世界を覆い尽くす。核兵器は人類滅亡を招きかねないため、大国が所有する高性能の核兵器が実際に使用されることはない。デモンストレーション用に見せびらかされているばかりだ。今や情報戦の時代に入っているというのにどこの誰が本気で自爆の連鎖に繋がるような高性能核兵器を用いるというのだろうか。

BGM1

BGM2

BGM3