フルト弁護士は今日一日ブロックが何をしていたか、もう一度レーニに問いただす。レーニはいう。「いつも彼がとまる女中部屋に閉じこめておきました」。<監禁>のテーマが浮上する。また「隙間(すきま)からときおり彼が何をしているか見ました」と言い、<監視>と<覗き>のテーマも浮上する。さらにその場所は「ほとんど光がささない」という点で裁判所事務局の「長い廊下」を思い起こさせ、にもかかわらずブロックは書籍類を読んでいたため「従順な人だとわかりました」と答える。
「『わたしはこの人が仕事の邪魔にならないように』、とレーニは言った、『いつも彼がとまる女中部屋に閉じこめておきました。隙間(すきま)からときおり彼が何をしているか見ました。彼はいつもベッドの上に跪いて、あなたが貸してあげた書類を窓枠(まどわく)にのせて読んでいました。それにはいい印章をうけました。というのはあの窓は通風孔に通じているだけで、ほとんど光がささないんですから。そんなところなのに読んでいたので、ブロックは従順な人だとわかりました』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.275」新潮文庫 一九九二年)
しかしKがブロックの家を訪れた時、レーニはまるで無防備な下着姿だった。午後十一時頃だったからかブロックと二人で盛大な性行為に熱中しており最初のベルが聞こえなかったほどだった。にもかかわらずレーニは伝達機械として弁護士に、間違いなく<監視>していたしブロックはずっと従順に書籍類を読んでいたと、やすやすと言ってのける。フルト弁護士と商人ブロックという二人の大人から「派遣」される立場にありながら、むしろそれゆえに両者の<あいだ>を取り次ぐ翻訳装置としては申し分ない優位な次元に位置している。二人の大人の<あいだ>を媒介する<貨幣=言語>としてレーニは弁護士よりもブロックよりも遥かに高度上級機能を果たす。だからといってレーニはフルト弁護士の事務所から職場を変えてもっと割の良い職業を探すつもりなどまるでない。次々とやって来る依頼人を汲めども尽きぬ愛で包み込むことで満足している。レーニは依頼人に自分の肉体を与える。依頼人は全力を上げてレーニに没頭する。依頼人は何度も繰り返しレーニに欲望を吸い上げられ急速に老け込んでしまう。しかしそれゆえレーニはいつまでも若い。またフルト弁護士は年老いた病人であり、弁護士にとってレーニは生活全般の面倒を見るのになくてはならない介護者を兼ねてもいる。
さらにブロックは弁護士から見た自分の印象を少しでも良くしておこうと「ひっきりなしに唇を動かして」レーニに適切妥当な作文を創作して弁護士に伝達するようしきりに頼み込む。もっとも、レーニの愛はダンテを天上界へ導くベアトリーチェのような愛ではない。そうではなく<身体>という次元でより一層具体的なものだ。その条件を満たしていて始めてKに向けて逃走の線を出現させてやることが可能になる。
「このやりとりのあいだブロックはひっきりなしに唇を動かしていた。明らかにそうやって彼にレーニに言ってもらいたい返事を作文していたのだ。『そんなことはもちろん』、とレーニは言った、『わたしにははっきりと答えられません。ともかくわたしは彼が徹底的に読んでいるのを見ました。一日中同じページを読んでました、読みながら一行一行指で辿(たど)って。わたしが覗(のぞ)いたときはいつでもため息をついてました、読むのがひどくつらいというみたいに。貸してあげた書類はきっとひどくむずかしいんでしょうね』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.275~276」新潮文庫 一九九二年)
レーニは書籍類について「きっとひどくむずかしいんでしょうね」と作文する。弁護士は「もちろんそうだ」、「あの男にいくらでもわかるとは思っていない」という。レーニはさらにブロックの行動について「一度だけ水を飲ませてくれと言いました。それで覗き穴からコップを渡してやりました」といい、<監禁・監視>は徹底されていたと反復する。
「『ああ、あれはもちろんそうだ』、と弁護士は言った、『あの男にいくらでもわかるとは思っていない。あれはただ、わたしがやつの弁護のためにやっている戦いがどんなに困難なものかをあの男に悟らせればよいのだ。まったくだれのためにわたしがこの困難な戦いをやっていると思う?ひとえのあのーーー口にするのさえばからしいがーーーブロックのためさ。それが何を意味するかもやつに教えてやらねばならん。やつは休まずに勉強しておったかね?』。『ほとんど休まずに』、とレーニが答えた、『一度だけ水を飲ませてくれと言いました。それで覗き穴からコップを渡してやりました。それから八時にこの人を出してやって、いくらか食事を与えました』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.276」新潮文庫 一九九二年)
ところでフルト弁護士がブロックに勉強のために読ませている書籍類だが、弁護士がいうにはブロックがそれを理解することは絶望的だろうと述べている。なぜだろうか。前に述べたが、廷吏の妻は洗濯女でもあり大学生の性奴隷を務めてもいる身であり、裁判所事務局の内部について大変よく知っている。Kに頼まれて予審判事が日頃から読んでいる書籍類を見せてやる場面があった。
「『なんて汚いんだここじゃ何も彼(か)も』、とKは頭をふりふり言った、女はKが本に手を出すまえに、前掛けで、少くとも上っつらの埃(ほこり)だけははらいのけた。Kが一番上の本を開くと一枚のいかがわしい絵があらわれた。男と女が裸で寝椅子(ねいす)に腰をおろしている絵で、絵描(えか)きの卑(いや)しい意図ははっきりと見てとれたが、絵があまりにも拙劣なので、結局は要するに一人の男と一人の女がーーーあまりにもからだばかり画面からとび出していて、極度にしゃっちょこばって坐(すわ)っていて、誤った遠近法のためにやっとのことで並んで向きあっている男と女が、見てとれるというだけのものであった。Kはそれ以上めくるのをやめて、二冊目の本は扉(とびら)だけ開けてみた、それは『グレーテが夫ハンスより受けし苦しみ』という題名の小説だった。『これがここで学ばれる法律書というわけだ』、とKは言った、『そんな人間どもにぼくは裁かれるってわけだ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.84」新潮文庫 一九九二年)
予審判事が熱心に愛読しているのはばらばらにモザイクされた「三文ポルノ雑誌」の類である。廷吏の妻はKによく学べるようにそれを見せてやったわけだがKは逆に馬鹿にされたと思う。しかし「<法>のあるところに<欲望>がある」ということを言葉で説明するのは途轍もない困難がともなう。言葉で長々と説明するより一目見たほうが断然速いと考えて廷吏の妻はそうしてやった。だがKは廷吏の妻が見せた親切を理解できない。Kには詩が理解できない。ニーチェの言葉でいう「歌うことができない」とはそういう意味だ。詩は困難な事情を説明しはしないがその困難さを洞察させるにはもってこいの経済的方法だというのに。また芸術部門全般でいえば、文学はもうとっくの昔に、少なくとも第一次世界大戦以降、絵画や音楽、オブジェなどに猛追され、第二次世界大戦後は追い越されて久しい。
さて廷吏の妻はそのすぐ後でまたしても大学生の言いなりになるが、廷吏の妻にしてみれば将来は夫の上司になるかもしれない法学生なので当り前のように性奴隷としての役割を果たそうとする。裁判所のホールで叫び声を上げて騒動を起こしたのも廷吏の妻とこの学生が超満員のホールの隅で抱き合い床を転がり始めたからだが、とにかく学生の性的要求は執拗である。だからといってカフカは誇張して描いているわけではまるでない。ただ民衆の日常生活というのはその種の出来事がしょっちゅう起こる、ありふれた場面をあちこちで齟齬を起こしている奇妙な文体をわざと用いて描くことで「<法>のあるところに<欲望>がある」というリアルを可視化して見せることに成功した。またカフカのような小説家は日本に誰一人いなかったかというとそうでもない。カフカの同時代かそれと前後して現れた内田百閒や夢野久作の作品は、それぞれカフカとは違っているものの、彼らが見出した新しい方法は世界がアナーキー化を起こしつつ急変している時期に出現するべくして出現したと言える。
一連のやりとりを見守っていたKはもう確実に解約すると決めた。レーニの翻訳を聞いた後、フルト弁護士は裁判官がブロックについてどう述べていたかをおもむろに語り出した。その言葉はブロックの希望を打ち砕く。
「『ブロックの話をし始めたら彼は不愉快そうな顔にさえなったよ。<ブロックの話はしないでくれ>、と言うので、<彼はわたしの依頼人です>、と言うと、<きみは体(てい)よく使われてるだけなんだ>、と言うのだ。<わたしは彼の事件はだめになったとは思いませんが>、と言うと、またしても<きみは体よく使われてるだけなんだ>、と言う。<そうは思いませんが>、とわたしは言った、<ブロックは訴訟に熱心でいつも事件を追っています。わたしの家に住みこみ同然になって、訴訟に遅れまいとしています。あれほどの熱心さにはめったにお目にかかれません。たしかに、個人的にはあまり快くはない、礼儀作法もなっていないし、汚ならしい、それはそうですが訴訟の観点からは非の打ちどころがありません>。いいかね、わたしは非の打ちどころがないと言ったのだよ、むろんわざと誇張してだが。すると彼は答えた、<ブロックは狡(ずる)いだけだ。彼はたくさん情報をかき集めて、訴訟を引き延ばすことを心得ている。しかし彼の無知のほうが彼の狡猾さよりはるかに大きい。もしあいつが、訴訟なぞまだ始まってもいないと知らされたら、それどころか訴訟開始を知らせる鐘さえまだ鳴っていないと教えられたら、一体やつはなんて言うだろう>。おとなしくしていろ、ブロック』、と弁護士は言った」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.277~278」新潮文庫 一九九二年)
そしてフルト弁護士はこうもいう。「裁判官がそう言ったからと言って、おまえには何の意味もない」と。さらに「訴訟手続のまわりにはさまざまな見解が重なりあって、見通しもつかんほどになっている」ともいう。いつどうなるのかさっぱりはっきりしない。どこまでも<可動的>であり何らかの情報はいつも「任意の人の口を通じて、任意の時」に「思いがけずやってくる」。ブロックはしゅんとしてしまいベッドの下の敷物の毛皮をいじっているばかり。そこでレーニはいう。今度はフルト弁護士から「派遣」される形へ移動している。
「『ブロック』、レーニがたしなめる口調で言い、上着の襟(えり)をつまんで彼を少し上へひきあげた、『さあ、毛皮をはなして、弁護士さんの話を聞きなさい』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.279」新潮文庫 一九九二年)
毛皮からすっかり裸になって私の鞭に打たれなさいとレーニは言っているわけだ。しかしサディズムが問題なのではない。逆に問題はマゾヒズムである。ブロックの態度が極めて両義的であり、極端から極端へ行ったり来たりしているのもようやく説明がつきそうだ。マゾヒスト特有の逆説について。
「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫 二〇一八年)
ドゥルーズがいうように「鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする」。この作用が確実であればあるほどブロックはますます訴訟から離れられなくなる。よりいっそう過酷な訴訟過程の延長を<欲望する>よう邁進する。レーニはブロックの<欲望>に沿うよう「鞭打ち」のご馳走を振る舞う<援助者>でもある。フルト弁護士はその様子をその上から眺めて快楽する、老いてなお盛んな<欲望>の人格化に過ぎない。立ち上がるのも一苦労の老弁護士にとって<眺める>という快楽はひたすらレーニの献身的な愛のおかげだ。レーニの愛の形態が諸商品の無限の系列のように次々変わっていくとともにそのキャパシティは底知れないと述べたのはそういう意味である。
ヨーロッパでは今なおマゾッホよりも圧倒的にサドの側が有名でなおかつサディズムの側に傾斜する傾向があるようだが、ロシアや東欧、さらにアジアでは必ずしもサド礼賛とばかりは限らない。その意味で東欧はむしろアジアに属するように思える。現代日本でもその傾向はもはやありふれている。空気のようにあまりにも当り前に蔓延しているので気づかないというに過ぎない。日米同盟の桎梏(しっこく)のもとでアメリカが日本を鞭打てば鞭打つほど日本は鞭打ちによって逆にますます挑発され「勃起を誘発し確実なものとする」。三島由紀夫「仮面の告白」冒頭がいきなりマゾヒストの信仰告白で始まっているのは一つも不思議でない。またドストエフスキーの長編群をみると「罪と罰」の「スヴィドリガイロフ」、「カラマーゾフの兄弟」の「スメルジャコフ、ドミートリイ」など、彼らはどう見てもマゾヒストの逆説を快楽=嘲弄しているとしか思えないに違いない。
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「『わたしはこの人が仕事の邪魔にならないように』、とレーニは言った、『いつも彼がとまる女中部屋に閉じこめておきました。隙間(すきま)からときおり彼が何をしているか見ました。彼はいつもベッドの上に跪いて、あなたが貸してあげた書類を窓枠(まどわく)にのせて読んでいました。それにはいい印章をうけました。というのはあの窓は通風孔に通じているだけで、ほとんど光がささないんですから。そんなところなのに読んでいたので、ブロックは従順な人だとわかりました』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.275」新潮文庫 一九九二年)
しかしKがブロックの家を訪れた時、レーニはまるで無防備な下着姿だった。午後十一時頃だったからかブロックと二人で盛大な性行為に熱中しており最初のベルが聞こえなかったほどだった。にもかかわらずレーニは伝達機械として弁護士に、間違いなく<監視>していたしブロックはずっと従順に書籍類を読んでいたと、やすやすと言ってのける。フルト弁護士と商人ブロックという二人の大人から「派遣」される立場にありながら、むしろそれゆえに両者の<あいだ>を取り次ぐ翻訳装置としては申し分ない優位な次元に位置している。二人の大人の<あいだ>を媒介する<貨幣=言語>としてレーニは弁護士よりもブロックよりも遥かに高度上級機能を果たす。だからといってレーニはフルト弁護士の事務所から職場を変えてもっと割の良い職業を探すつもりなどまるでない。次々とやって来る依頼人を汲めども尽きぬ愛で包み込むことで満足している。レーニは依頼人に自分の肉体を与える。依頼人は全力を上げてレーニに没頭する。依頼人は何度も繰り返しレーニに欲望を吸い上げられ急速に老け込んでしまう。しかしそれゆえレーニはいつまでも若い。またフルト弁護士は年老いた病人であり、弁護士にとってレーニは生活全般の面倒を見るのになくてはならない介護者を兼ねてもいる。
さらにブロックは弁護士から見た自分の印象を少しでも良くしておこうと「ひっきりなしに唇を動かして」レーニに適切妥当な作文を創作して弁護士に伝達するようしきりに頼み込む。もっとも、レーニの愛はダンテを天上界へ導くベアトリーチェのような愛ではない。そうではなく<身体>という次元でより一層具体的なものだ。その条件を満たしていて始めてKに向けて逃走の線を出現させてやることが可能になる。
「このやりとりのあいだブロックはひっきりなしに唇を動かしていた。明らかにそうやって彼にレーニに言ってもらいたい返事を作文していたのだ。『そんなことはもちろん』、とレーニは言った、『わたしにははっきりと答えられません。ともかくわたしは彼が徹底的に読んでいるのを見ました。一日中同じページを読んでました、読みながら一行一行指で辿(たど)って。わたしが覗(のぞ)いたときはいつでもため息をついてました、読むのがひどくつらいというみたいに。貸してあげた書類はきっとひどくむずかしいんでしょうね』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.275~276」新潮文庫 一九九二年)
レーニは書籍類について「きっとひどくむずかしいんでしょうね」と作文する。弁護士は「もちろんそうだ」、「あの男にいくらでもわかるとは思っていない」という。レーニはさらにブロックの行動について「一度だけ水を飲ませてくれと言いました。それで覗き穴からコップを渡してやりました」といい、<監禁・監視>は徹底されていたと反復する。
「『ああ、あれはもちろんそうだ』、と弁護士は言った、『あの男にいくらでもわかるとは思っていない。あれはただ、わたしがやつの弁護のためにやっている戦いがどんなに困難なものかをあの男に悟らせればよいのだ。まったくだれのためにわたしがこの困難な戦いをやっていると思う?ひとえのあのーーー口にするのさえばからしいがーーーブロックのためさ。それが何を意味するかもやつに教えてやらねばならん。やつは休まずに勉強しておったかね?』。『ほとんど休まずに』、とレーニが答えた、『一度だけ水を飲ませてくれと言いました。それで覗き穴からコップを渡してやりました。それから八時にこの人を出してやって、いくらか食事を与えました』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.276」新潮文庫 一九九二年)
ところでフルト弁護士がブロックに勉強のために読ませている書籍類だが、弁護士がいうにはブロックがそれを理解することは絶望的だろうと述べている。なぜだろうか。前に述べたが、廷吏の妻は洗濯女でもあり大学生の性奴隷を務めてもいる身であり、裁判所事務局の内部について大変よく知っている。Kに頼まれて予審判事が日頃から読んでいる書籍類を見せてやる場面があった。
「『なんて汚いんだここじゃ何も彼(か)も』、とKは頭をふりふり言った、女はKが本に手を出すまえに、前掛けで、少くとも上っつらの埃(ほこり)だけははらいのけた。Kが一番上の本を開くと一枚のいかがわしい絵があらわれた。男と女が裸で寝椅子(ねいす)に腰をおろしている絵で、絵描(えか)きの卑(いや)しい意図ははっきりと見てとれたが、絵があまりにも拙劣なので、結局は要するに一人の男と一人の女がーーーあまりにもからだばかり画面からとび出していて、極度にしゃっちょこばって坐(すわ)っていて、誤った遠近法のためにやっとのことで並んで向きあっている男と女が、見てとれるというだけのものであった。Kはそれ以上めくるのをやめて、二冊目の本は扉(とびら)だけ開けてみた、それは『グレーテが夫ハンスより受けし苦しみ』という題名の小説だった。『これがここで学ばれる法律書というわけだ』、とKは言った、『そんな人間どもにぼくは裁かれるってわけだ』」(カフカ「審判・人気のない法廷で・大学生・裁判所事務室・P.84」新潮文庫 一九九二年)
予審判事が熱心に愛読しているのはばらばらにモザイクされた「三文ポルノ雑誌」の類である。廷吏の妻はKによく学べるようにそれを見せてやったわけだがKは逆に馬鹿にされたと思う。しかし「<法>のあるところに<欲望>がある」ということを言葉で説明するのは途轍もない困難がともなう。言葉で長々と説明するより一目見たほうが断然速いと考えて廷吏の妻はそうしてやった。だがKは廷吏の妻が見せた親切を理解できない。Kには詩が理解できない。ニーチェの言葉でいう「歌うことができない」とはそういう意味だ。詩は困難な事情を説明しはしないがその困難さを洞察させるにはもってこいの経済的方法だというのに。また芸術部門全般でいえば、文学はもうとっくの昔に、少なくとも第一次世界大戦以降、絵画や音楽、オブジェなどに猛追され、第二次世界大戦後は追い越されて久しい。
さて廷吏の妻はそのすぐ後でまたしても大学生の言いなりになるが、廷吏の妻にしてみれば将来は夫の上司になるかもしれない法学生なので当り前のように性奴隷としての役割を果たそうとする。裁判所のホールで叫び声を上げて騒動を起こしたのも廷吏の妻とこの学生が超満員のホールの隅で抱き合い床を転がり始めたからだが、とにかく学生の性的要求は執拗である。だからといってカフカは誇張して描いているわけではまるでない。ただ民衆の日常生活というのはその種の出来事がしょっちゅう起こる、ありふれた場面をあちこちで齟齬を起こしている奇妙な文体をわざと用いて描くことで「<法>のあるところに<欲望>がある」というリアルを可視化して見せることに成功した。またカフカのような小説家は日本に誰一人いなかったかというとそうでもない。カフカの同時代かそれと前後して現れた内田百閒や夢野久作の作品は、それぞれカフカとは違っているものの、彼らが見出した新しい方法は世界がアナーキー化を起こしつつ急変している時期に出現するべくして出現したと言える。
一連のやりとりを見守っていたKはもう確実に解約すると決めた。レーニの翻訳を聞いた後、フルト弁護士は裁判官がブロックについてどう述べていたかをおもむろに語り出した。その言葉はブロックの希望を打ち砕く。
「『ブロックの話をし始めたら彼は不愉快そうな顔にさえなったよ。<ブロックの話はしないでくれ>、と言うので、<彼はわたしの依頼人です>、と言うと、<きみは体(てい)よく使われてるだけなんだ>、と言うのだ。<わたしは彼の事件はだめになったとは思いませんが>、と言うと、またしても<きみは体よく使われてるだけなんだ>、と言う。<そうは思いませんが>、とわたしは言った、<ブロックは訴訟に熱心でいつも事件を追っています。わたしの家に住みこみ同然になって、訴訟に遅れまいとしています。あれほどの熱心さにはめったにお目にかかれません。たしかに、個人的にはあまり快くはない、礼儀作法もなっていないし、汚ならしい、それはそうですが訴訟の観点からは非の打ちどころがありません>。いいかね、わたしは非の打ちどころがないと言ったのだよ、むろんわざと誇張してだが。すると彼は答えた、<ブロックは狡(ずる)いだけだ。彼はたくさん情報をかき集めて、訴訟を引き延ばすことを心得ている。しかし彼の無知のほうが彼の狡猾さよりはるかに大きい。もしあいつが、訴訟なぞまだ始まってもいないと知らされたら、それどころか訴訟開始を知らせる鐘さえまだ鳴っていないと教えられたら、一体やつはなんて言うだろう>。おとなしくしていろ、ブロック』、と弁護士は言った」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.277~278」新潮文庫 一九九二年)
そしてフルト弁護士はこうもいう。「裁判官がそう言ったからと言って、おまえには何の意味もない」と。さらに「訴訟手続のまわりにはさまざまな見解が重なりあって、見通しもつかんほどになっている」ともいう。いつどうなるのかさっぱりはっきりしない。どこまでも<可動的>であり何らかの情報はいつも「任意の人の口を通じて、任意の時」に「思いがけずやってくる」。ブロックはしゅんとしてしまいベッドの下の敷物の毛皮をいじっているばかり。そこでレーニはいう。今度はフルト弁護士から「派遣」される形へ移動している。
「『ブロック』、レーニがたしなめる口調で言い、上着の襟(えり)をつまんで彼を少し上へひきあげた、『さあ、毛皮をはなして、弁護士さんの話を聞きなさい』」(カフカ「審判・商人ブロック・弁護士解約・P.279」新潮文庫 一九九二年)
毛皮からすっかり裸になって私の鞭に打たれなさいとレーニは言っているわけだ。しかしサディズムが問題なのではない。逆に問題はマゾヒズムである。ブロックの態度が極めて両義的であり、極端から極端へ行ったり来たりしているのもようやく説明がつきそうだ。マゾヒスト特有の逆説について。
「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫 二〇一八年)
ドゥルーズがいうように「鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする」。この作用が確実であればあるほどブロックはますます訴訟から離れられなくなる。よりいっそう過酷な訴訟過程の延長を<欲望する>よう邁進する。レーニはブロックの<欲望>に沿うよう「鞭打ち」のご馳走を振る舞う<援助者>でもある。フルト弁護士はその様子をその上から眺めて快楽する、老いてなお盛んな<欲望>の人格化に過ぎない。立ち上がるのも一苦労の老弁護士にとって<眺める>という快楽はひたすらレーニの献身的な愛のおかげだ。レーニの愛の形態が諸商品の無限の系列のように次々変わっていくとともにそのキャパシティは底知れないと述べたのはそういう意味である。
ヨーロッパでは今なおマゾッホよりも圧倒的にサドの側が有名でなおかつサディズムの側に傾斜する傾向があるようだが、ロシアや東欧、さらにアジアでは必ずしもサド礼賛とばかりは限らない。その意味で東欧はむしろアジアに属するように思える。現代日本でもその傾向はもはやありふれている。空気のようにあまりにも当り前に蔓延しているので気づかないというに過ぎない。日米同盟の桎梏(しっこく)のもとでアメリカが日本を鞭打てば鞭打つほど日本は鞭打ちによって逆にますます挑発され「勃起を誘発し確実なものとする」。三島由紀夫「仮面の告白」冒頭がいきなりマゾヒストの信仰告白で始まっているのは一つも不思議でない。またドストエフスキーの長編群をみると「罪と罰」の「スヴィドリガイロフ」、「カラマーゾフの兄弟」の「スメルジャコフ、ドミートリイ」など、彼らはどう見てもマゾヒストの逆説を快楽=嘲弄しているとしか思えないに違いない。
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