足利尊氏と新田義貞との間が急速に悪化する。建武二年(一三三五年)の秋、尊氏は義貞討伐の奏状を上奏。一方、義貞も尊氏討伐の奏状を上奏した。まず尊氏が上奏した奏状。「早く義貞朝臣(よしさだあそん)が一類を誅罰(ちゅうばつ)して、天下の泰平(たいへい)を致さんと請(こ)ふ状」にこうある。
「嚢沙(のうしゃ)背水(はいすい)の謀(はかりごと)」(「太平記2・第十四巻・二・P.349」岩波文庫 二〇一四年)
「嚢沙(のうしゃ)」は「史記・淮陰候列伝」から引かれたもの。
「かくて戦闘が行なわれ、韓信と濰水(いすい)をはさんで対陣した。韓信はそこで夜、部下に作らせた一万余りの袋の中に砂をいっぱいにつめさせ、川上で流れをせきとめ、軍をひきつれ半分ほど川を渡って竜且を攻撃したが、負けたふりをして退却した。竜且ははたして喜び、『韓信が臆病なことは知れ切っていたわい』といい、そのまま韓信を追撃して川を渡り出した。韓信は部下に命じ、せきとめた土嚢(どのう)を切り開かせるや、川水は一度にどうと流れてきた。竜且の軍の大半は川を渡りきれなかった。すかさずすぐに攻撃を加えて竜且を殺した。竜且の部下で川の東に残っていた軍兵は、ちりぢりになって逃走し、斉王の田広も逃げ去った。かくて韓信は逃げる敵を城陽(じょうよう)まで追いかけ、楚の兵卒を全員捕虜とした」(「淮陰候列伝・第三十二」『史記列伝3・P.23』岩波文庫 一九七五年)
「背水(はいすい)」も同様。「背水の陣」でお馴染み。
「韓信はそこで一万人の兵を先行させ、〔井陘の口を〕出ると、河を背にして陣がまえさせた。趙軍は遥かにそれを眺めて、大笑いした。あけがた、韓信は大将の旗じるしと陣太鼓をうちたて、進軍の太鼓を鳴らしながら、井陘の出口を出た。趙はとりでを開いて出撃し、しばらくの間、大激戦が展開された。このとき韓信と張耳は負けたふりをして、太鼓や旗さしものを投げ捨て、河岸の陣へと逃走した。河岸の軍は、陣を開いて受けいれた。ふたたび激しい戦闘となった。趙の軍ははたしてとりでをがらあきにして、漢の太鼓や旗さしものを奪いとろうと競争し、韓信と張耳の軍を追って来た。韓信と張耳が河岸の軍に入ったあと、その軍兵はみな必死になって戦ったので、うち破ることができなかった。〔そのあいだに〕韓信が出しておいた別働隊二千騎は、趙がとりでをがらあきにして戦利品を追い求めるのをうかがっていたから、いまこそと趙のとりでの中へかけ入り、趙の旗さしものを全部ぬきとり、漢の赤旗二千本をうち立てた。趙軍は勝とうとして勝てず、韓信らをとらえることもできず、とりでにひき返そうとしたとき、とりでの上すべて漢の赤旗がひらめいて、それを見るや仰天して漢はもはや趙の王や将軍たちを全部とらえたものと思いこんだ。兵はかくて混乱し逃走しだした。趙の将軍がかれらを斬ったが、くいとめることはできなかった。この機をすかさず、漢軍は前後からはさみうちし、趙の軍をさんざんにうち破って、捕虜とし、成安君(陳余)を泜水(ちすい)の側で斬り殺し、趙王歇(けつ)を捕虜とした」(「淮陰候列伝・第三十二」『史記列伝3・P.16~17』岩波文庫 一九七五年)
尊氏はさらに畳み掛ける。義貞側の中は侫臣(ねいしん)・讒臣(ざんしん)ばかりで放置していていいものかと。かつて驕り高ぶった趙高(ちょうこう)のもとを去って項羽の軍に加わった章邯(しょうかん)が続出するに違いないと主張する。
「豈(あ)に、趙高(ちょうこう)内に謀(はか)りしかば、章邯(しょうかん)楚(そ)に降(くだ)つしの謂(い)ひに非(あら)ずや」(「太平記2・第十四巻・二・P.350」岩波文庫 二〇一四年)
「史記・始皇本紀」から引かれたもの。
「欣は邯に会って、『趙高が朝廷にあって政権をとっていますので、将軍が功を立てられても殺され、功をたてられなっくても殺されましょう』と言った。この時、項羽が秦軍を急襲し、王離(おうり)を虜(とりこ)にしたので、邯らはついに兵を率いて諸侯に降った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.174』ちくま学芸文庫 一九九五年)
一方、義貞が上奏した奏状。「早く逆臣(ぎゃくしん)尊氏直義等(ただよしら)を誅(ちゅう)して、天下を徇(しず)めんと請(こ)ふ状」に、護良親王の奢侈を諫めるだけでよかったものを殺す必要などまったっくなかった、にもかかわらず殺した点を挙げて帝太甲の事例に比している。文面に「武丁(ぶてい)」とあるのは「太甲」の誤り。
「親王刑を贖(あがな)ふ事は、侈(おご)りを押(おさ)へ正(せい)に帰せしめんと為(な)すのみ。古(いにし)へは、武丁(ぶてい)を桐宮(とうきゅう)に放つ。豈(あ)に此(こ)の謂(い)ひに非(あら)ずや」(「太平記2・第十四巻・二・P.354」岩波文庫 二〇一四年)
「史記・殷本紀」に載る事例。
「太甲は成湯(湯王)の嫡長孫で、これが帝太甲である。帝太甲の元年に伊尹は伊訓(伊尹の教え)と肆命(しめい=おこなわれなければならない政教を述べたもの)と徂后(そこう=湯王の法度を記したもの)を作ったが、帝太甲が暴虐不明で、湯の法に遵(したが)わず徳を乱したので、伊尹は帝を桐宮(どうきゅう=離宮があった地名とも、また離宮の名ともいう)に三年間放逐した。この間、伊尹が政を摂行して国事に当たり、諸侯を入朝させた。帝太甲は三年間、桐宮におると過ちを悔い、後悔して善人になったので、伊尹は帝太甲を迎えて政治を譲った。この後、帝太甲は徳を修め、諸侯は、みな帰服し百姓は安んじた」(「殷本紀・第三」『史記1・本紀・P.50~51』ちくま学芸文庫 一九九五年)
こうもいう。
「忽(たちま)ち浮雲(ふうん)の雍蔽(ようへい)を払ひ」(「太平記2・第十四巻・二・P.356」岩波文庫 二〇一四年)
李白の詩の一節。「浮雲蔽日」は侫臣・讒臣の類はただちに切り捨てなくてはならないとする主張を述べる場合、しばしば用いられる。
「總爲浮雲能蔽日
(書き下し)総(すべ)て浮雲(ふうん)の能(よ)く日(ひ)を蔽(おお)うが為(ため)に
(現代語訳)結局は、浮雲が太陽の光を蔽いかくしてしまうそのせいで」(「登金陵鳳凰臺」『李白詩選・第五章・P.155~156』岩波文庫 一九九七年)
尊氏・義貞両者の上奏文はすぐさま詮議にかけられた。が、朝廷ではこんな調子。
「大臣(たいしん)は禄(ろく)を重んじて口を閉じ、小臣(しょうしん)は聞きを憚つて言(げん)を出ださざる」(「太平記2・第十四巻・二・P.356」岩波文庫 二〇一四年)
重臣らはだんまり。他の臣下らは勃発した事態に関わることを恐れて何一つ言わない。この箇所は「本朝文粋」に載る慶滋保胤の文章からの引用。
「大臣重禄不諫、小臣畏罪不言」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第二・四五・令上封事詔・慶滋保胤・P.139」岩波書店 一九九二年)
足利方と新田方との合戦は矢矧(やはぎ)・鷺坂(さぎさか)・手越(てごし)と進んでいくが、一度は出家しようとした尊氏が軍(いくさ)に戻ったため、竹ノ下軍(たけのしたのいくさ)辺りから新田方に不利な戦況へ傾き始めた。足利直義(ただよし)が村上信貞(むらかみのぶさだ)に恩賞の下文(くだしぶみ)を与える場面。
「かの成王(せいおう)、桐の葉に書いて士に与へ給ひし」(「太平記2・第十四巻・八・P.382」岩波文庫 二〇一四年)
「史記・晋世家」から引かれている。
「成王が叔虞と戯れていたとき、桐の葉を珪(たま)の形(上が尖<とが>り下が四角)にきって叔虞に与え、『これをもっておまえを封じよう』と言った。このことから、太史の佚(いつ)が、吉日をえらんで叔虞を封ずるように請うた。成王が、『わしはあれと戯れていただけのことだ』と言うと、佚は、『天子に戯言(たわごと)ということはございません。天子が一言をいえば、史官はそれを書きしるし、礼によってその事をおこない、楽によってその事をうたうのでございます』と答え、ついに叔虞を唐に封じた」(「晋世家・第九」『史記3・世家・上・P.167』ちくま学芸文庫 一九九五年)
箱根・竹ノ下は激戦地となる。新田義貞は出会う軍勢について敵か味方かいちいち確認していかねばならないような状態に陥ってしまった。
BGM1
BGM2
BGM3
「嚢沙(のうしゃ)背水(はいすい)の謀(はかりごと)」(「太平記2・第十四巻・二・P.349」岩波文庫 二〇一四年)
「嚢沙(のうしゃ)」は「史記・淮陰候列伝」から引かれたもの。
「かくて戦闘が行なわれ、韓信と濰水(いすい)をはさんで対陣した。韓信はそこで夜、部下に作らせた一万余りの袋の中に砂をいっぱいにつめさせ、川上で流れをせきとめ、軍をひきつれ半分ほど川を渡って竜且を攻撃したが、負けたふりをして退却した。竜且ははたして喜び、『韓信が臆病なことは知れ切っていたわい』といい、そのまま韓信を追撃して川を渡り出した。韓信は部下に命じ、せきとめた土嚢(どのう)を切り開かせるや、川水は一度にどうと流れてきた。竜且の軍の大半は川を渡りきれなかった。すかさずすぐに攻撃を加えて竜且を殺した。竜且の部下で川の東に残っていた軍兵は、ちりぢりになって逃走し、斉王の田広も逃げ去った。かくて韓信は逃げる敵を城陽(じょうよう)まで追いかけ、楚の兵卒を全員捕虜とした」(「淮陰候列伝・第三十二」『史記列伝3・P.23』岩波文庫 一九七五年)
「背水(はいすい)」も同様。「背水の陣」でお馴染み。
「韓信はそこで一万人の兵を先行させ、〔井陘の口を〕出ると、河を背にして陣がまえさせた。趙軍は遥かにそれを眺めて、大笑いした。あけがた、韓信は大将の旗じるしと陣太鼓をうちたて、進軍の太鼓を鳴らしながら、井陘の出口を出た。趙はとりでを開いて出撃し、しばらくの間、大激戦が展開された。このとき韓信と張耳は負けたふりをして、太鼓や旗さしものを投げ捨て、河岸の陣へと逃走した。河岸の軍は、陣を開いて受けいれた。ふたたび激しい戦闘となった。趙の軍ははたしてとりでをがらあきにして、漢の太鼓や旗さしものを奪いとろうと競争し、韓信と張耳の軍を追って来た。韓信と張耳が河岸の軍に入ったあと、その軍兵はみな必死になって戦ったので、うち破ることができなかった。〔そのあいだに〕韓信が出しておいた別働隊二千騎は、趙がとりでをがらあきにして戦利品を追い求めるのをうかがっていたから、いまこそと趙のとりでの中へかけ入り、趙の旗さしものを全部ぬきとり、漢の赤旗二千本をうち立てた。趙軍は勝とうとして勝てず、韓信らをとらえることもできず、とりでにひき返そうとしたとき、とりでの上すべて漢の赤旗がひらめいて、それを見るや仰天して漢はもはや趙の王や将軍たちを全部とらえたものと思いこんだ。兵はかくて混乱し逃走しだした。趙の将軍がかれらを斬ったが、くいとめることはできなかった。この機をすかさず、漢軍は前後からはさみうちし、趙の軍をさんざんにうち破って、捕虜とし、成安君(陳余)を泜水(ちすい)の側で斬り殺し、趙王歇(けつ)を捕虜とした」(「淮陰候列伝・第三十二」『史記列伝3・P.16~17』岩波文庫 一九七五年)
尊氏はさらに畳み掛ける。義貞側の中は侫臣(ねいしん)・讒臣(ざんしん)ばかりで放置していていいものかと。かつて驕り高ぶった趙高(ちょうこう)のもとを去って項羽の軍に加わった章邯(しょうかん)が続出するに違いないと主張する。
「豈(あ)に、趙高(ちょうこう)内に謀(はか)りしかば、章邯(しょうかん)楚(そ)に降(くだ)つしの謂(い)ひに非(あら)ずや」(「太平記2・第十四巻・二・P.350」岩波文庫 二〇一四年)
「史記・始皇本紀」から引かれたもの。
「欣は邯に会って、『趙高が朝廷にあって政権をとっていますので、将軍が功を立てられても殺され、功をたてられなっくても殺されましょう』と言った。この時、項羽が秦軍を急襲し、王離(おうり)を虜(とりこ)にしたので、邯らはついに兵を率いて諸侯に降った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.174』ちくま学芸文庫 一九九五年)
一方、義貞が上奏した奏状。「早く逆臣(ぎゃくしん)尊氏直義等(ただよしら)を誅(ちゅう)して、天下を徇(しず)めんと請(こ)ふ状」に、護良親王の奢侈を諫めるだけでよかったものを殺す必要などまったっくなかった、にもかかわらず殺した点を挙げて帝太甲の事例に比している。文面に「武丁(ぶてい)」とあるのは「太甲」の誤り。
「親王刑を贖(あがな)ふ事は、侈(おご)りを押(おさ)へ正(せい)に帰せしめんと為(な)すのみ。古(いにし)へは、武丁(ぶてい)を桐宮(とうきゅう)に放つ。豈(あ)に此(こ)の謂(い)ひに非(あら)ずや」(「太平記2・第十四巻・二・P.354」岩波文庫 二〇一四年)
「史記・殷本紀」に載る事例。
「太甲は成湯(湯王)の嫡長孫で、これが帝太甲である。帝太甲の元年に伊尹は伊訓(伊尹の教え)と肆命(しめい=おこなわれなければならない政教を述べたもの)と徂后(そこう=湯王の法度を記したもの)を作ったが、帝太甲が暴虐不明で、湯の法に遵(したが)わず徳を乱したので、伊尹は帝を桐宮(どうきゅう=離宮があった地名とも、また離宮の名ともいう)に三年間放逐した。この間、伊尹が政を摂行して国事に当たり、諸侯を入朝させた。帝太甲は三年間、桐宮におると過ちを悔い、後悔して善人になったので、伊尹は帝太甲を迎えて政治を譲った。この後、帝太甲は徳を修め、諸侯は、みな帰服し百姓は安んじた」(「殷本紀・第三」『史記1・本紀・P.50~51』ちくま学芸文庫 一九九五年)
こうもいう。
「忽(たちま)ち浮雲(ふうん)の雍蔽(ようへい)を払ひ」(「太平記2・第十四巻・二・P.356」岩波文庫 二〇一四年)
李白の詩の一節。「浮雲蔽日」は侫臣・讒臣の類はただちに切り捨てなくてはならないとする主張を述べる場合、しばしば用いられる。
「總爲浮雲能蔽日
(書き下し)総(すべ)て浮雲(ふうん)の能(よ)く日(ひ)を蔽(おお)うが為(ため)に
(現代語訳)結局は、浮雲が太陽の光を蔽いかくしてしまうそのせいで」(「登金陵鳳凰臺」『李白詩選・第五章・P.155~156』岩波文庫 一九九七年)
尊氏・義貞両者の上奏文はすぐさま詮議にかけられた。が、朝廷ではこんな調子。
「大臣(たいしん)は禄(ろく)を重んじて口を閉じ、小臣(しょうしん)は聞きを憚つて言(げん)を出ださざる」(「太平記2・第十四巻・二・P.356」岩波文庫 二〇一四年)
重臣らはだんまり。他の臣下らは勃発した事態に関わることを恐れて何一つ言わない。この箇所は「本朝文粋」に載る慶滋保胤の文章からの引用。
「大臣重禄不諫、小臣畏罪不言」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第二・四五・令上封事詔・慶滋保胤・P.139」岩波書店 一九九二年)
足利方と新田方との合戦は矢矧(やはぎ)・鷺坂(さぎさか)・手越(てごし)と進んでいくが、一度は出家しようとした尊氏が軍(いくさ)に戻ったため、竹ノ下軍(たけのしたのいくさ)辺りから新田方に不利な戦況へ傾き始めた。足利直義(ただよし)が村上信貞(むらかみのぶさだ)に恩賞の下文(くだしぶみ)を与える場面。
「かの成王(せいおう)、桐の葉に書いて士に与へ給ひし」(「太平記2・第十四巻・八・P.382」岩波文庫 二〇一四年)
「史記・晋世家」から引かれている。
「成王が叔虞と戯れていたとき、桐の葉を珪(たま)の形(上が尖<とが>り下が四角)にきって叔虞に与え、『これをもっておまえを封じよう』と言った。このことから、太史の佚(いつ)が、吉日をえらんで叔虞を封ずるように請うた。成王が、『わしはあれと戯れていただけのことだ』と言うと、佚は、『天子に戯言(たわごと)ということはございません。天子が一言をいえば、史官はそれを書きしるし、礼によってその事をおこない、楽によってその事をうたうのでございます』と答え、ついに叔虞を唐に封じた」(「晋世家・第九」『史記3・世家・上・P.167』ちくま学芸文庫 一九九五年)
箱根・竹ノ下は激戦地となる。新田義貞は出会う軍勢について敵か味方かいちいち確認していかねばならないような状態に陥ってしまった。
BGM1
BGM2
BGM3
