白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・乖離し総合するヘーゲル

2025年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

ヘーゲルはいう。

 

「宗教においては精神の本来の意識の定義は、自由な《他在》という形式をもってはいないから、その《定在》はその《自己意識》とは区別されており、その本来の現実は宗教の外に出ることになる。もちろんその意識は、現実と自己意識の両方を一つにする精神ではあるが、その両方を同時に包んでいるわけではない。そこで宗教は、生活〔定在〕一切の営為の一部分として現われるが、そのとき別の部分は意識の現実的世界における〔日常〕生活であることになる。そこでわれわれは、自らの世界における精神と、自ら精神だと意識している精神ないしは宗教における精神とは、同じものであることを知る。が、それと同じように、精神の現実が宗教によってつかまれているというだけではなく、逆に、精神が、自己自身を意識した精神として自ら現実となり、《自ら意識の対象》となるという二つのことが、互いに等しくなるところで、宗教が完成されることになるわけである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.273~274」平凡社ライブラリー 一九九七年)

 

と、そこでコジェーヴによる読解、コジェーヴによるヘーゲルのパロディで骨休みしてみたい。

 

「《宗教》は、二元論から生まれる。理想と現実との食い違い、人間が形成する自己自身についての《観念》ーーーつまり《自己》と、経験的《世界》におけるその意識的な生、ーーーつまりその経験的《現存在》との食い違いから生まれる」

 

という有名なフレーズはパロディどころかむしろおそろしい現実要因だとみなすべきだろう。ところが「宗教者」はいわば浮世離れしたとんだ「ドンキホーテ」として出現してしまうという事情について。

 

「《宗教》は、二元論から生まれる。理想と現実との食い違い、人間が形成する自己自身についての《観念》ーーーつまり《自己》と、経験的《世界》におけるその意識的な生、ーーーつまりその経験的《現存在》との食い違いから生まれる。この食い違いが存続する限り、理想を《世界》の《外に》投影する傾向はつねに存在するであろう。すなわち、《宗教》や《有神論》や《神学》はつねに存在するであろう。逆に言うならば、どのような《宗教》にもこの二元論の反映が存在するわけである。この反映は一方では宗教的《思惟》や《神学》の中に見られ、それは《神的なるもの》を世俗のもの、人間的なものにーーーつねにーーー《対立させる》。他方では、宗教的《現実》の在りかたそのものの中に二重性がある。《宗教》は決して人間的現存在の《総体》を包み込まない。すなわち、真正の《神》-政は決して存在しない。宗教的現存在は経験的《現存在》の《かたわらに》、具体的な《世界》の中での生活の《かたわらに》繰り広げられるものであり、《宗教者》は《つね》に程度の差はあれ『世界』と『時代』とから切り離された修道士なのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.113~114」国文社 一九八七年)

 

ヘーゲルに戻ろう。先に引いた。

 

「宗教は、生活〔定在〕一切の営為の一部分として現われるが、そのとき別の部分は意識の現実的世界における〔日常〕生活であることになる」

 

この「区別」について。ヘーゲルはいう。

 

「《現実的》精神と自らを精神だと知っている精神との間の区別、または意識としての自己自身と、自己意識としての自己自身との間に、設けられた区別は、自らを自らの真実態によって知っている精神のなかでは、廃棄されている。その意識と自己意識は調停されている。だが、ここでは宗教はまだやっと《直接態》〔無媒介〕であるにすぎないから、その区別はまだ精神に帰ってきてはいない。まだ宗教の《概念》が立てられただけで、ここで本質〔実在〕となっているのは、自ら全真理であり、この真理のうちには全現実が含まれているとする《自己意識》である。この自己意識は意識として自分を対象としている。まだやっと自分を《直接的に》知っているだけの精神は、だから、自分にとっては、《直接態》という《形式》にある精神であり、精神が現われる形態の規定態は《存在》という規定態である。たしかに、この存在は、感覚ないしは多様な素材によっても、またその他の一面的な契機、目的、規定によっても《充される》ものではなく、精神によって充たされ、己れが全真理であり現実であることを知っている。そういうわけでこの《充たす》ということは、その《形態》と等しくないし、本質としての精神はその意識と等しくない。精神は《自己自身を確信》している通りに、精神の形態をとって、互いに関係し合っているときになって初めて、絶対精神として現実的である。精神がその意識の対象として受けいれてつくる形態は、実体としての精神の確信によって充たされたままである。この内容によって、対象が全くの対象態に、自己意識を否定する形式に沈んで行くことはなくなる。精神が自己自身とそのまま一つになることが、基礎なのである、つまり純粋意識なのである。この《なかで》意識は別れて出てくることになる。こうして、自らの純粋自己意識に包みこまれることによって、精神が宗教のうちに現存するにしても、それは《自然》一般の創造者としてのことではない。むしろ精神がこの運動においてつくり出すものは、諸々の精神としての自らの形態であり、これが集まって精神の現象を完成するのである。そこでこの運動自身は、その個々の側面を通じて、精神の完全な現実が生成することである。言いかえれば、その運動は精神の不完全な現実である」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.279~280」平凡社ライブラリー 一九九七年)

 

コジェーヴは次のように述べる。注釈というに近い。二箇所。

 

(1)「周知のように、《完全な》《自己意識》は無宗教的、無神論的である。すなわち、その場合、《人間》は自己が意識するものが《神》ではなく《自己自身》であるということを知っている。もっとも、《部分的な》意識化ということで言えば、それは神学的であると言える。すなわち《人間》は或る個別的な形態の神性を構想することで自己の人間的現実を部分的に意識するわけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.114~115」国文社 一九八七年)

 

一七八九年フランス革命を成し遂げたロベスピエールの恐怖政治。絶対王政という神秘の王国を打倒し革命しているあいだはなるほど「無宗教的、無神論的」である。革命家は無神論者として「行動」する。ところがこの「行動」が実現したのは<キリスト教>の理想だった。

 

(2)「《否定》により媒介されて《いない》『《学》』、これはヘーゲル以前の《非》弁証法的哲学である。この学は《精神》を《存在》として、所与《存在》として、実際は《自然的で》人間にあらざる《存在》にもかかわらず《神的》かつ全能、永遠かつ自己同一的な《存在》として把握することにより《精神》を実体化するという意味では『《肯定的》』である。このような《存在》として捉えられた《精神》、ーーーこれが《神》である。したがって、『無媒介的』な哲学はまったく《神》学であり、《人間》学ではない。したがって、《神》は《存在》であるが、《精神的存在》である。すなわち、これは物質化された《精神》である。そして、《この》《精神》は《自然》や《感覚的》《世界》ではなくもろもろの《精神》としての、すなわち《神々》としての具体的形態を創造する、とヘーゲルは述べる。換言すれば、宗教的な存在者としての《人間》或いは(人間)《精神》は自然の形態や自然の法則ではなく、さりとて現実の経験的な《世界》でもなく、《神学》を、《内容は》人間学的でありながら《形式》が神学的な《神話》を創るのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.127」国文社 一九八七年)

 

それでもなお一体なんのことを言っているのかといぶかしむ眩しい眼差しを遠ざけることはなかなかできないかも知れない。なので重要な部分を強調しておこう。

 

「宗教的な存在者としての《人間》或いは(人間)《精神》は自然の形態や自然の法則ではなく、さりとて現実の経験的な《世界》でもなく、《神学》を、《内容は》人間学的でありながら《形式》が神学的な《神話》を創る」

 

もっといえば、「神々」はこの種の「精神」の単なる生成に過ぎない。《内容は》人間学的でありながら《形式》が神学的な《神話》がどんどん創られると、ヘーゲルは言いたいのだ。

 

さらに平凡社ライブラリー版から引こう。

 

「精神の最初の現実は、宗教そのものの概念である、言いかえれば、《直接的な》したがって《自然的な宗教》である。この宗教においては、精神は、自然的ないし直接的な形態をとった自らの対象を、自分だと思っている。だが《第二の》現実は、当然ながら、《廃棄された自然》つまり《自己》という形で自分を知ることである。だからそれは《芸術》宗教である。というのは、形態は意識を生み出すことによって、《自己》という形式に高まっているからであり、これによって意識は自らの対象のうちに、自らの行為ないし自己を直観するからである。最後に《第三の》現実は、初めの二つが一面的〔画一的〕であるのを廃棄する、つまり、自己は《直接的》自己であると同時に、《直接態》が《自己》である。精神は、第一の場合には要するに意識の形式において、第二の場合にはーーー自己意識の〔形式において〕、あるとすれば、第三の場合には両者を統一する形式においてある。つまり《即且対自存在》の形態をとる。精神は、精神が即且対自的にある通りに表象されているとき、《啓示宗教》である。だが、この宗教に達したとき、精神は自らの真の《形態》に達してはいるものの、ほかならぬ《形態》そのものや《表象》であるという点で、なお超えられていない面が残っている。精神は《概念》に移って行って、対象態の形式を、概念のうちで全く解体しなければならないが、この概念とは、自らのこの反対を自らのうちに含んでいるものである。そうなったときには、概念は自己自身の概念を把握したことになるが、これは、われわれだけが、やっと理解していたことである。そこで精神の形態ないしその定在の場〔境位〕は、概念であるから、精神それ自身であることになる」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.280~281」平凡社ライブラリー 一九九七年)

 

より一層厳密を期して国文社版も併記しよう。

 

「[《宗教》における]《精神》の最初の客観的現実態となるものは、《宗教》の抽象概念〔単なる概念の意味での概念〕そのものである。すなわち〔一つの〕《無媒介的》したがってまた《自然的な宗教》として、〔捉えられた〕《宗教》である。この〔《自然的宗教》〕にいいて《精神》は自己自身を自然的つまりは無媒介的な具体的形態の中で自己の対象として知る。〔《宗教》における《精神》の〕《第二の》〔客観的現実態となる〕ものについて述べるならば、これは、必然的に、《弁証法的に揚棄された》自然性という具体的形態において、すなわち《自己》〔という具体的形態において〕自己自身を知る〔に至る〕現実態〔あるいは《精神》〕である。したがって、この〔第二の客観的現実態〕は《技芸的》或いは《芸術的な宗教》である。なぜならば、具体的形態は〔対象〕《意識》の《創り出すこと》により、《自己》という形態に高まるからであり、その結果、〔対象〕意識は自己の対象の中で自己の《行動》を、つまりは〔まさしく〕《自己》を直観することになるからである。最後に、〔《宗教》における《精神》の客観的現実態となるものの〕《三番目》は先行する二つのものの一面性を弁証法的に揚棄するすなわち《自己》が〔ここでは〕《無媒介的〔な《自己》〕であり、かつまた《無媒介態》が〔ここでは〕《自己》となる。《精神》そのものが第一〔の宗教的な客観的な現実態〕においては〔対象〕《意識》の形式のうちにあり、〔そして〕二番目のものにおいては《自己意識》〔の形式のうちにあるならば〕精神は三番目〔の客観的現実態〕においては、前二者〔すなわち《対象意識》と《自己意識》〕を統一した形式のうちにあるわけである。精神は〔ここで〕《即自かつ対自的存在》という具体的形態をもっている。そして《精神》が〔ここで〕即自かつ対自的に存在するがままに表象され外化される限りでーーーこれは《啓示宗教》となる。しかしながら、この〔《啓示宗教》〕において《精神》が、実際、その真なる《具体的形態》に達したとはいえ、この《具体的形態》〔それ〕自体と表象・外化とは、〔まさしく形態や表象に留まるがゆえに〕いまだ乗り超えられていない側面である。《精神》はこの側面から発して《概念》へ移行し、すなわち己れ自身の中に〔対象という〕それに対立するものをも含んで存立している《概念》へ移行し、その中で対象性の形式を完全に解消しなければならない。このようになったとき〔ーーーそしてこれは精神が第八章に見られる《絶対知》となったときであるがーーー〕《精神》は〔みずから〕自己自身の《概念》を、我々〔すなわちヘーゲルとその読者と〕がした〔ように〕、摑んだことになる。このような《精神》の具体的形態、すなわちその経験的現存在の境地は、それ〔具体的形態〕が《概念》である限りで、この《精神》それ自身なのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.128~129」国文社 一九八七年)

 

ここでは込み入ってはいても国文社版にもぜひ目をとおしてほしい。するとコジェーヴのいう次のフレーズで、なぜパロディなのかがあからさまなほど明瞭に理解できるとおもわれる。「絶対知」に至る「賢者」とは誰か。

 

「ところで、この《精神》の最期の〔具体的形態〕ーーーこれもまた《精神》《である》がーーーこれが経験的現存在の中にある《賢者》であり、《ヘーゲル》なのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.129」国文社 一九八七年)

 

ヘーゲルをからかっているわけではいささかもない。むしろヘーゲル「精神現象学」をテキストとして忠実に読解していたら思いがけずこういう結論に立ち至った。「賢者=ヘーゲル」。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1084

2025年03月03日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「Simmm」

チェンバロのようでもあり台所で暴れてはしゃぐ猫たちの踊りとでも言いたい出だし。1:30から2:40まえ猫の好むグルルル音がかなり盛大に挿入される。しばらくしてベースがキープするリズムが途切れた後に音響はがらりと変わる。東南アジア、とりわけタイ辺りの民族音楽が披露されている会場のそばで熱帯雨林に暮らす鳥や爬虫類や両棲類が繰り広げる音頭の微粒子が手前勝手に体内を通り抜けていくかのように聴こえる。歓迎されているのかそれとも背を向けられているのか全然わからないところが面白い。


Blog21・タマの熱烈なリクエストに応えてChatGPTに聞いてみました

2025年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム
そんなわけでリクエストに答えて二代目タマの今年の金銭運をChatGPTにたずねてみました。
 
(1)は試しに任意の人間の場合のやりとりです。(2)が二代目タマの金銭運についてのやりとりになります。
 
(1)星占いで今年の蟹座の金銭運を教えてください。
ChatGPT:

2025年の蟹座の金銭運は、安定性と着実な成長がキーワードになる年です。今年は金銭的に慎重なアプローチを取ることで、無理なく安定を築くことができるでしょう。特に、無駄遣いを避け、必要な投資にお金を使うことが重要です。

また、思いがけないチャンスが訪れることもありますが、それが即座に大きなリターンに繋がるわけではないので、慎重に判断することが必要です。パートナーシップや家族との共同作業で金銭面が助けられることもあり、協力を得ることが大きな支えになります。

今年は一攫千金を狙うよりも、コツコツと確実に資産を増やすことを意識した方が良い結果を生むでしょう。

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あなた:
ありがとうございました。
ChatGPT:

どういたしまして!また何か気になることがあれば、いつでも聞いてくださいね。

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4o
 
 
あなた:
(2)星占いで2025年3月生まれの保護猫(黒猫)の金銭運を教えてください。
ChatGPT:

面白い質問ですね!2025年3月生まれの黒猫ちゃんの星座は「魚座」になりますね。星占い的に見ると、魚座の金銭運は「直感的なチャンスをつかむ」運勢が強いですが、計画性が少し弱いところもあります。

猫の金銭運(?)を占うなら…
🔮 収入(ごはんやおやつ)
今年は飼い主さんの気前の良さに恵まれる年!かわいい仕草や甘え上手な性格を活かして、おやつや新しいおもちゃをゲットできる可能性大。特に3月〜5月はボーナス期(?)になるかも。

💸 支出(いたずらによる損害)
魚座猫は気まぐれでアートセンスがあるので、カーテン登りや紙の上での爪とぎなど、ちょっとした芸術活動(=破壊活動)が増える可能性あり。飼い主さんのお財布にダメージを与えないように注意。

貯蓄(隠しおやつやお気に入りの場所)
大切なおもちゃやおやつを隠す習性が強くなる時期。お気に入りの隠し場所を作ると、安心して暮らせる運勢に。

結論として、2025年の黒猫ちゃんの金銭運(?)は「直感と甘え上手さで収入増、しかしやんちゃな支出に注意」といった感じでしょう!飼い主さんにとっては、お財布のひもを少し締めつつ、愛情はたっぷり注ぐのが吉ですね🐾✨

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あなた:
ありがとうございました。
ChatGPT:

どういたしまして!黒猫ちゃんとの楽しい毎日をお過ごしくださいね🐾✨また何かあれば気軽に聞いてください!

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Blog21・二代目タマ’s ライフ489

2025年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年三月二日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

飼い主さ、昨日ようやくChatGPTって導入したんでしょ?世間じゃ何でも知ってる機械だってふれ込みらしいけど。

 

ひとまず絵も音声も使えない文字だけの無料版を使ってみた。

 

さすがに貧乏人は手堅いところから探りを入れるんだね。それはそれとしてさ、昨日導入していきなり腕かかえて考え込んでたじゃん。なんで?

 

世間一般の下馬評を越えるもんではないなあってね。質問して対話に入ってもジャンルによって偏りはまだまだ大きい。特に文芸とか精神医療の臨床ってことになると絵に書いたような「優等生」コメントでね、もう二つ三つ微妙に混み行っているはずのこちらの質問に対する理解がなかなか追いついてこない。参考資料の列挙とその一般的理解にとどまってしまってるっていうか、今はそこらへんで精一杯な感じかな。昨日も今日もいちおう試してみたんだけど話が堂々巡りしてしまうんで前々から考えてたことをちゃちゃっとブログに書き込んで済ませたのさ。そのほうがまだ速い。もっとも問題対応能力はなかなかのもんだよ確かに。こちらの文章を少し変えてみるだけですぐに反応してくれる。でも目の前に空気みたいに広がってる平凡な日常風景の中からただならぬ問題を「見出す」問題発見能力になると混乱しちゃうみたいで、こりゃもっと「詩人」になってもらう訓練がいるなあとおもった。

 

タマもChatGPTさんに聞いていい?

 

どうぞお好きに。あっ、と。多少なりともデータを教えてあげないと答えようにも答えようがなさそうだからちょっと待ってくれ。こうしてこうしてこうしてう~んあれも打ち込んで、えーと、こうかな。よし準備できたよ、何を聞こう。

 

タマの今後の金銭運。

 

は?

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。コトコタナカ。インディ・ロックがオルタナティヴたり得たのは好きこのんで地下化したわけではなく、ただ単にやっている音楽がメジャーデビュー・メインストリームへの順番待ちという大きな枠組みの暗黙の掟に馴染めず馴染むつもりもなく自然に無視していたら勝手に人気が出てしまいいわゆる「音楽業界」の怪しげな「道徳基準」にずる向けの裂け目を刻み込みちょっとばかり乱れを生じさせたに過ぎないにもかかわらず大変なことになったからだと思っている立場なのだが、聴いてみると去年デビュー作を発表したばかりだというコトコタナカの楽曲はそんな時代もありました?的に新しい生まれたてほやほやのアーティストに思えもするし危ういほどノスタルジーをかき立てるものでもある。だからかつてのインディ・ロックの世界がどうだったかなんてことに意識的かどうかはわからないしさほど詳しくなくてもいいのかもしれない。そんなことよりはっきりジャズだロックだフォークだフュージョンだと類別可能な音楽理論を越境しているところがポイントだろうとおもえる。


Blog21・幻想を剥いでいく

2025年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム

上野千鶴子は孤独を人間存在の「芯のようなもの」としてこう述べる。

 

「他人に理解されないつらさ、ひとりで生きて行かなければならない覚悟。そんなものはおとななら誰でも持つほかない、ひとの芯のようなものだ。他人にわかってもらおうと思うたびに、それがムダだと知って口をつぐむ」(上野千鶴子「ひとりの時間」『群像・3・P.66』講談社 二〇二五年)

 

「おとななら誰でももつほかない、ひとの芯のようなものだ」

 

超常現象を信じるカルト信者ででもない限り「おとななら誰でも」持つほかない「ひとの芯のようなもの」。さらにもう少しばかり書かれる。

 

「老いた女の孤独は、家族がいようがいまいが癒されない。いや、やっぱりそんなことが言いたいのではない。癒される必要がない。その人間の核のような孤独は、ひとりで抱えてもちこたえるしかないものだ」(上野千鶴子「ひとりの時間」『群像・3・P.66』講談社 二〇二五年)

 

荒涼たる砂漠がどこまでも打ち広がっている。そんな風景が見えるようになって始めて「人間の核のような」もの、それを日本語でいうとすれば「孤独」というほか見あたらなくなる。さらにそれは「もちこたえるしかないものだ」

 

ヘーゲルを思わせなくもない。

 

「普通行われてきたところによれば、ある一つの表象を《分析する》ということは、その表象によって知られたものとされる形式を、止揚〔廃棄〕することにほかならなかった。一つの表象をそのもとの要素に分解するということは、少なくとも当該表象の形式をもっていない契機へと、すなわち自己の無媒介の所有物となっているような契機へと帰って行くことである。なるほどこの分析は、それ自身よく知られた、固定した、静止的な規定であるような《思想》〔考えられたもの〕に、行きつきはする。だが、このようにして《分けられたもの》、この非現実的なものこそは、本質的契機なのである。分けるというはたらきは《悟性》、最も不思議で偉大で、あるいはむしろ絶対的な威力である《悟性》の力であり仕事である。自分のなかに完結して安らい、実体としてその契機を支えている円は、直接的〔無媒介〕な、それゆえ少しも不思議でない関係である。しかし、その円の領域から分離された偶然なものそのもの、結びつけられたもの、他のものと関連してのみ現実的なものが自己の定在をえ、また分離されて自由になるということは、否定的なものの巨大な威力であるのだからである。つまりそれは思惟の、純粋自我の活力である。前に言った非現実性を死と呼ぶとすれば、この死こそは最も恐ろしいものである。そこで、死んだものにしっかり目をすえるには、最大の力が必要である。力のない美は悟性をきらう〔ノヴァリス、耽美派〕。それは、悟性が美の果たしえないことを求めるからである。だが、死を避け、荒廃からきれいに身を守る生ではなく、死に耐えて死のなかに自己を支える生こそは、精神の生である。精神は、甘んじて、自ら絶対的分裂のなかにいるときにだけ自らの真理をえている。精神がこの威力であるのは、否定的なものから目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものに目をすえて、それに足を止めるからこそ、そういう威力なのである」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.48~49」平凡社ライブラリー 一九九七年)

 

後半部分。

 

「精神がこの威力であるのは、否定的なものから目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものに目をすえて、それに足を止めるからこそ、そういう威力なのである」

 

たまたま今月号の別の場所で見かけた「往復書簡」から次の箇所を引き寄せないわけにはいかない。

 

「そうだ、『夏物語』でも提示されていたけれど、私たちはどこまでも他人で、くじこが大好きな夫氏も、そして私が憎しみながら愛している母も他人だ。この間、母と電話で話しているとき、どこまでもこの人は分かち合えないと苛立って、つい『あなたはまあ、他人だし』と言ってしまったんだ。母はびっくりして『え、私って他人なの?血が繋がっていたら他人ではないでしょ?どうしてそう思うの?』と質問攻めを開始したから、ヘトヘトになったんだった。ああ、これもまた、生みたいと思えなくなった一つの理由を思い出した気がした」(向坂くじら×紗倉まな「ふたりのための往復書簡」『群像・3・P.220』講談社 二〇二五年)

 

川上未映子「夏物語」から印象的な発言を三箇所引きたい。登場人物・善百合子の発言はともすれば誤解を招きそうだがその種の単純なものではなく、胎児の了承を得ることが不可能なままこの世へ子どもを生み落とすという行為自体がすでに「暴力」ではないか、よくそんな「暴力」行為を祝福することがどうしてできてしまえるのか、という問いかけである。

 

(1)「善百合子は鼻で小さく息をついた。

『でも、わたしはすごく単純なことを考えているだけなの。どうしてみんな、こんなことができるんだろうって。どうしてみんな、子どもを生むことができるんだろうって考えているだけなの。どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないだけなんだよ』」(川上未映子「夏物語・P.522」文春文庫 二〇二一年)

 

(2)「『みんな、おんなじことを言う』善百合子は言った。『AIDの親だけじゃなくて、親はみんなおなじことを言うの。赤ちゃんは可愛いから。育ててみたかったから。自分の子どもに会ってみたかったから。女としての体を使いきりたかったから。好きな相手の遺伝子を残したかったから。あとは、淋しいからだとか、老後をみてほしいからとかなんていうのもあるね。ぜんぶ根っこはおなじだもの。

 

ねえ、子どもを生む人はさ、みんなほんとに自分のことしか考えてないの。生まれてくる子どものことを考えないの。子どものことを考えて、子どもを生んだ親なんて、この世界にひとりもいないんだよ。ねえ、すごいことだと思わない?それで、たいていの親は、自分の子どもにだけは苦しい思いをさせないように、どんな不幸からも逃れられるように願うわけでしょう。でも、自分の子どもがぜったいに苦しまずにすむ唯一の方法っていうのは、その子を存在させないことなんじゃないの。生まれないでいさせてあげることだったんじゃないの』

 

『でも』わたしは考えて言った。『それはーーー生まれてみないと、わからないことも』

 

『それは、いったい誰のためのことなの?』善百合子は言った。『その、<生まれてみなければわからない>っていう《賭け》は、いったい誰のための賭けなの?』」(川上未映子「夏物語・P.524~525」文春文庫 二〇二一年)

 

(3)「『愛とか、意味とか、人は自分が信じたいことを信じるためなら、他人の痛みや苦しみなんて、いくらでもないことにできる』」(川上未映子「夏物語・P.529」文春文庫 二〇二一年)

 

理想と現実との食い違いを語っているとすればそこから生まれるのは「宗教」的信念とか「宗教」的観念といったものであって、ややもすればそこへ回収され曖昧化され一般化され記号化される危険性さえ帯びるだろう。そうなることを回避しつつ「小説」というぐねぐねした形式を活用し、安易な天上世界/ユートピアへ昇華させてしまうことを拒否しつつ人間は<根本的>に他人(非=連続性)でありながら同時に重層的な連続性でもあるという逆説へ何度も繰り返し問いかけ問い直す過程が描かれる。

 

ただ(3)は「子どもを生むこと」に必ずつきまとう「宗教的無作法あるいは信心」と、生むという「暴力」あるいは意図せず「暴力」になってしまうこの社会のありかたのすぐそばまで接近したもので、ここで短絡的にまとめて語ってしまうことには慎重でなければならないだろう。

 

戻ってみる。

 

「人間の核のような孤独は、ひとりで抱えてもちこたえるしかない」

 

ずいぶん古い小説だが古井由吉「杳子」を終わりから読んでいるような気分になるのはどうしてだろうか。