ヘーゲルはいう。
「宗教においては精神の本来の意識の定義は、自由な《他在》という形式をもってはいないから、その《定在》はその《自己意識》とは区別されており、その本来の現実は宗教の外に出ることになる。もちろんその意識は、現実と自己意識の両方を一つにする精神ではあるが、その両方を同時に包んでいるわけではない。そこで宗教は、生活〔定在〕一切の営為の一部分として現われるが、そのとき別の部分は意識の現実的世界における〔日常〕生活であることになる。そこでわれわれは、自らの世界における精神と、自ら精神だと意識している精神ないしは宗教における精神とは、同じものであることを知る。が、それと同じように、精神の現実が宗教によってつかまれているというだけではなく、逆に、精神が、自己自身を意識した精神として自ら現実となり、《自ら意識の対象》となるという二つのことが、互いに等しくなるところで、宗教が完成されることになるわけである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.273~274」平凡社ライブラリー 一九九七年)
と、そこでコジェーヴによる読解、コジェーヴによるヘーゲルのパロディで骨休みしてみたい。
「《宗教》は、二元論から生まれる。理想と現実との食い違い、人間が形成する自己自身についての《観念》ーーーつまり《自己》と、経験的《世界》におけるその意識的な生、ーーーつまりその経験的《現存在》との食い違いから生まれる」
という有名なフレーズはパロディどころかむしろおそろしい現実要因だとみなすべきだろう。ところが「宗教者」はいわば浮世離れしたとんだ「ドンキホーテ」として出現してしまうという事情について。
「《宗教》は、二元論から生まれる。理想と現実との食い違い、人間が形成する自己自身についての《観念》ーーーつまり《自己》と、経験的《世界》におけるその意識的な生、ーーーつまりその経験的《現存在》との食い違いから生まれる。この食い違いが存続する限り、理想を《世界》の《外に》投影する傾向はつねに存在するであろう。すなわち、《宗教》や《有神論》や《神学》はつねに存在するであろう。逆に言うならば、どのような《宗教》にもこの二元論の反映が存在するわけである。この反映は一方では宗教的《思惟》や《神学》の中に見られ、それは《神的なるもの》を世俗のもの、人間的なものにーーーつねにーーー《対立させる》。他方では、宗教的《現実》の在りかたそのものの中に二重性がある。《宗教》は決して人間的現存在の《総体》を包み込まない。すなわち、真正の《神》-政は決して存在しない。宗教的現存在は経験的《現存在》の《かたわらに》、具体的な《世界》の中での生活の《かたわらに》繰り広げられるものであり、《宗教者》は《つね》に程度の差はあれ『世界』と『時代』とから切り離された修道士なのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.113~114」国文社 一九八七年)
ヘーゲルに戻ろう。先に引いた。
「宗教は、生活〔定在〕一切の営為の一部分として現われるが、そのとき別の部分は意識の現実的世界における〔日常〕生活であることになる」
この「区別」について。ヘーゲルはいう。
「《現実的》精神と自らを精神だと知っている精神との間の区別、または意識としての自己自身と、自己意識としての自己自身との間に、設けられた区別は、自らを自らの真実態によって知っている精神のなかでは、廃棄されている。その意識と自己意識は調停されている。だが、ここでは宗教はまだやっと《直接態》〔無媒介〕であるにすぎないから、その区別はまだ精神に帰ってきてはいない。まだ宗教の《概念》が立てられただけで、ここで本質〔実在〕となっているのは、自ら全真理であり、この真理のうちには全現実が含まれているとする《自己意識》である。この自己意識は意識として自分を対象としている。まだやっと自分を《直接的に》知っているだけの精神は、だから、自分にとっては、《直接態》という《形式》にある精神であり、精神が現われる形態の規定態は《存在》という規定態である。たしかに、この存在は、感覚ないしは多様な素材によっても、またその他の一面的な契機、目的、規定によっても《充される》ものではなく、精神によって充たされ、己れが全真理であり現実であることを知っている。そういうわけでこの《充たす》ということは、その《形態》と等しくないし、本質としての精神はその意識と等しくない。精神は《自己自身を確信》している通りに、精神の形態をとって、互いに関係し合っているときになって初めて、絶対精神として現実的である。精神がその意識の対象として受けいれてつくる形態は、実体としての精神の確信によって充たされたままである。この内容によって、対象が全くの対象態に、自己意識を否定する形式に沈んで行くことはなくなる。精神が自己自身とそのまま一つになることが、基礎なのである、つまり純粋意識なのである。この《なかで》意識は別れて出てくることになる。こうして、自らの純粋自己意識に包みこまれることによって、精神が宗教のうちに現存するにしても、それは《自然》一般の創造者としてのことではない。むしろ精神がこの運動においてつくり出すものは、諸々の精神としての自らの形態であり、これが集まって精神の現象を完成するのである。そこでこの運動自身は、その個々の側面を通じて、精神の完全な現実が生成することである。言いかえれば、その運動は精神の不完全な現実である」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.279~280」平凡社ライブラリー 一九九七年)
コジェーヴは次のように述べる。注釈というに近い。二箇所。
(1)「周知のように、《完全な》《自己意識》は無宗教的、無神論的である。すなわち、その場合、《人間》は自己が意識するものが《神》ではなく《自己自身》であるということを知っている。もっとも、《部分的な》意識化ということで言えば、それは神学的であると言える。すなわち《人間》は或る個別的な形態の神性を構想することで自己の人間的現実を部分的に意識するわけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.114~115」国文社 一九八七年)
一七八九年フランス革命を成し遂げたロベスピエールの恐怖政治。絶対王政という神秘の王国を打倒し革命しているあいだはなるほど「無宗教的、無神論的」である。革命家は無神論者として「行動」する。ところがこの「行動」が実現したのは<キリスト教>の理想だった。
(2)「《否定》により媒介されて《いない》『《学》』、これはヘーゲル以前の《非》弁証法的哲学である。この学は《精神》を《存在》として、所与《存在》として、実際は《自然的で》人間にあらざる《存在》にもかかわらず《神的》かつ全能、永遠かつ自己同一的な《存在》として把握することにより《精神》を実体化するという意味では『《肯定的》』である。このような《存在》として捉えられた《精神》、ーーーこれが《神》である。したがって、『無媒介的』な哲学はまったく《神》学であり、《人間》学ではない。したがって、《神》は《存在》であるが、《精神的存在》である。すなわち、これは物質化された《精神》である。そして、《この》《精神》は《自然》や《感覚的》《世界》ではなくもろもろの《精神》としての、すなわち《神々》としての具体的形態を創造する、とヘーゲルは述べる。換言すれば、宗教的な存在者としての《人間》或いは(人間)《精神》は自然の形態や自然の法則ではなく、さりとて現実の経験的な《世界》でもなく、《神学》を、《内容は》人間学的でありながら《形式》が神学的な《神話》を創るのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.127」国文社 一九八七年)
それでもなお一体なんのことを言っているのかといぶかしむ眩しい眼差しを遠ざけることはなかなかできないかも知れない。なので重要な部分を強調しておこう。
「宗教的な存在者としての《人間》或いは(人間)《精神》は自然の形態や自然の法則ではなく、さりとて現実の経験的な《世界》でもなく、《神学》を、《内容は》人間学的でありながら《形式》が神学的な《神話》を創る」
もっといえば、「神々」はこの種の「精神」の単なる生成に過ぎない。《内容は》人間学的でありながら《形式》が神学的な《神話》がどんどん創られると、ヘーゲルは言いたいのだ。
さらに平凡社ライブラリー版から引こう。
「精神の最初の現実は、宗教そのものの概念である、言いかえれば、《直接的な》したがって《自然的な宗教》である。この宗教においては、精神は、自然的ないし直接的な形態をとった自らの対象を、自分だと思っている。だが《第二の》現実は、当然ながら、《廃棄された自然》つまり《自己》という形で自分を知ることである。だからそれは《芸術》宗教である。というのは、形態は意識を生み出すことによって、《自己》という形式に高まっているからであり、これによって意識は自らの対象のうちに、自らの行為ないし自己を直観するからである。最後に《第三の》現実は、初めの二つが一面的〔画一的〕であるのを廃棄する、つまり、自己は《直接的》自己であると同時に、《直接態》が《自己》である。精神は、第一の場合には要するに意識の形式において、第二の場合にはーーー自己意識の〔形式において〕、あるとすれば、第三の場合には両者を統一する形式においてある。つまり《即且対自存在》の形態をとる。精神は、精神が即且対自的にある通りに表象されているとき、《啓示宗教》である。だが、この宗教に達したとき、精神は自らの真の《形態》に達してはいるものの、ほかならぬ《形態》そのものや《表象》であるという点で、なお超えられていない面が残っている。精神は《概念》に移って行って、対象態の形式を、概念のうちで全く解体しなければならないが、この概念とは、自らのこの反対を自らのうちに含んでいるものである。そうなったときには、概念は自己自身の概念を把握したことになるが、これは、われわれだけが、やっと理解していたことである。そこで精神の形態ないしその定在の場〔境位〕は、概念であるから、精神それ自身であることになる」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.280~281」平凡社ライブラリー 一九九七年)
より一層厳密を期して国文社版も併記しよう。
「[《宗教》における]《精神》の最初の客観的現実態となるものは、《宗教》の抽象概念〔単なる概念の意味での概念〕そのものである。すなわち〔一つの〕《無媒介的》したがってまた《自然的な宗教》として、〔捉えられた〕《宗教》である。この〔《自然的宗教》〕にいいて《精神》は自己自身を自然的つまりは無媒介的な具体的形態の中で自己の対象として知る。〔《宗教》における《精神》の〕《第二の》〔客観的現実態となる〕ものについて述べるならば、これは、必然的に、《弁証法的に揚棄された》自然性という具体的形態において、すなわち《自己》〔という具体的形態において〕自己自身を知る〔に至る〕現実態〔あるいは《精神》〕である。したがって、この〔第二の客観的現実態〕は《技芸的》或いは《芸術的な宗教》である。なぜならば、具体的形態は〔対象〕《意識》の《創り出すこと》により、《自己》という形態に高まるからであり、その結果、〔対象〕意識は自己の対象の中で自己の《行動》を、つまりは〔まさしく〕《自己》を直観することになるからである。最後に、〔《宗教》における《精神》の客観的現実態となるものの〕《三番目》は先行する二つのものの一面性を弁証法的に揚棄するすなわち《自己》が〔ここでは〕《無媒介的〔な《自己》〕であり、かつまた《無媒介態》が〔ここでは〕《自己》となる。《精神》そのものが第一〔の宗教的な客観的な現実態〕においては〔対象〕《意識》の形式のうちにあり、〔そして〕二番目のものにおいては《自己意識》〔の形式のうちにあるならば〕精神は三番目〔の客観的現実態〕においては、前二者〔すなわち《対象意識》と《自己意識》〕を統一した形式のうちにあるわけである。精神は〔ここで〕《即自かつ対自的存在》という具体的形態をもっている。そして《精神》が〔ここで〕即自かつ対自的に存在するがままに表象され外化される限りでーーーこれは《啓示宗教》となる。しかしながら、この〔《啓示宗教》〕において《精神》が、実際、その真なる《具体的形態》に達したとはいえ、この《具体的形態》〔それ〕自体と表象・外化とは、〔まさしく形態や表象に留まるがゆえに〕いまだ乗り超えられていない側面である。《精神》はこの側面から発して《概念》へ移行し、すなわち己れ自身の中に〔対象という〕それに対立するものをも含んで存立している《概念》へ移行し、その中で対象性の形式を完全に解消しなければならない。このようになったとき〔ーーーそしてこれは精神が第八章に見られる《絶対知》となったときであるがーーー〕《精神》は〔みずから〕自己自身の《概念》を、我々〔すなわちヘーゲルとその読者と〕がした〔ように〕、摑んだことになる。このような《精神》の具体的形態、すなわちその経験的現存在の境地は、それ〔具体的形態〕が《概念》である限りで、この《精神》それ自身なのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.128~129」国文社 一九八七年)
ここでは込み入ってはいても国文社版にもぜひ目をとおしてほしい。するとコジェーヴのいう次のフレーズで、なぜパロディなのかがあからさまなほど明瞭に理解できるとおもわれる。「絶対知」に至る「賢者」とは誰か。
「ところで、この《精神》の最期の〔具体的形態〕ーーーこれもまた《精神》《である》がーーーこれが経験的現存在の中にある《賢者》であり、《ヘーゲル》なのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.129」国文社 一九八七年)
ヘーゲルをからかっているわけではいささかもない。むしろヘーゲル「精神現象学」をテキストとして忠実に読解していたら思いがけずこういう結論に立ち至った。「賢者=ヘーゲル」。