白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・欲望する諸機械

2021年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
その後どうなっていくのか。わからないことばかりで後味のよくない年末。自分も何かやろうとするも半永久的病身では限界があり思うようにいかないのが現状。とはいえ群を抜いて気になった報道は「特にない」というしかない。凡庸性に支配されている気配があまりにも濃厚。そしてそれらほとんどすべてに関わっているのが「司法」である。まるでカフカの世界だ。作品「城」から。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫 一九七一年)

ドゥルーズ=ガタリはこの種の「柵」の「可動性」について注目するよう促している。

「司法は、むしろたえず伝わって来る音(言表)のようなものである。《法の超越性は、抽象的な機械だった。しかし法は、司法の機械状鎖列の内在性のなかにのみ存在する》。『訴訟』とは、あらゆる先験的な正当化をこなごなにすることである。欲求のなかには裁くべきものは何もない。裁判官自身が欲求で充満している。司法も単に欲求に内在するプロセスにすぎない。プロセスはそれ自体がひとつの連続体であるが、それは隣接性からできている連続体である。隣接したものは、連続したものに対立するのではない。むしろその逆で、前者は後者の部分となる構築物、しかも無限定に延長できる構築物であり、したがってまた分解でもある。ーーーつまりそれはいつでも、隣りにある事務室、隣りの部屋である。バルナバスは《事務局に入って行きます。でもそこはやはり全事務局の一部分でしかなく、さらに柵がいくつもあるし、その先にはまだ別の事務局がいくつもあります。彼はかならずしもさらに先へ行くことを禁じられているというわけではありませんーーーこうした柵をあなたもある決まった境界のように思ってはいけませんーーーだから彼が通りすぎる柵もありますし、そうした柵は彼のまだ通り抜けていない柵と違っているようには見えません》。司法とは、可動的でいつでも位置が動く境界線を持った、欲求のこの連続体である」(ドゥルーズ=ガタリ「カフカ・P.103~104」法政大学出版局 一九七八年)

それは「無限定に延長できる構築物であり、したがってまた分解でもある」。そして「可動的でいつでも位置が動く境界線」ということが前提ならそれは「境界線」などないに等しいということを意味する。《欲望としての法/法は欲望する》というべきこの種の事態。作品「審判」ではまるで身に覚えのない罪で被告となったKが訴訟の「無際限な引き延ばし」という方法を教わる場面が出てくる。

「『引延しというのはですね』、と画家は言って、ぴったりした言葉を捜すように一瞬宙に目を浮かせた、『引延しとは、訴訟がいつまでも一番低い段階に引きとめられていることによって成立つのです。これをやりとげるためには、被告と援助者、とくに援助者が絶えず裁判所と個人的な接触を保つことが必要です。もう一度言うと、この場合は見せかけの無罪判決を獲得するときのような苦労はいりませんが、そのかわりはるかに大きな注意が必要です。訴訟から目を離してはならないし、担当の裁判官のもとに、特別な機会に行くのはむろんとして、たえず定期的に出かけていかねばならず、いろんな方法で彼の好意をつなぎとめておかねばならない。もしその裁判官を個人的に知らないんだったら、知人の裁判官を通して働きかけねばならないが、その場合でも直接の話し合いを断念してしまってはいけない。これらの点で努力を怠りさえしなければ、かなりの確かさで、訴訟は最初の段階から先へ進まないと信じていいのです。むろん訴訟が中止されたわけではない、しかし被告は自由の身と言ってもいいくらいに、有罪判決されるおそれがありません。見せかけの無罪にたいしこの引延しには、被告の将来が前者の場合ほど不安定でないという利点があります。突然に逮捕される驚きからは守られているし、たとえそのほかの情勢がきわめて思わしくない時期でも、あの見せかけの無罪獲得につきものの努力や緊張感を引き受けなくてはならぬのか、などと怖(おそ)れることもありません。もちろん引延しにも被告にとって決して過小評価できないある種の弱点があります。といってわたしはなにも、この場合は被告が自由になることは決してない、ということを考えているのではありません。本来の意味ではそれは見せかけの無罪の場合だって同じことですからね。それとは違う弱点です。というのは、少くとも見せかけでもその理由がなければ、訴訟は停止するわけにはいかないということです。従って、外にたいしては訴訟の中でいつも何かが起っていなければならない。つまりときおりさまざまな命令が出されなければならず、被告が訊問(じんもん)されたり、審理が行われたり、等々がなされていなければならぬわけです。そこで訴訟は絶えず、わざと人為的に局限された小さな範囲のなかで回転させられていくことになります。これはむろん被告にとってある種の不快感をともなうことですが、しかしあなたはそれではひどすぎると想像してはならんでしょう。すべては外面的なことにすぎないんですから。たとえば訊問はごく短いものですし、出かけてゆく時間や気持がなければ、断ってもかまわない。ある種の裁判官の場合には、長期にわたっての命令をあらかじめ一緒に決めておくことさえできるんです。本質的にはつまり、とにかく被告は被告なんだから、ときおり裁判官のもとに出頭するというにすぎません』」(カフカ「審判・P.223~225」新潮文庫 一九九二年)

というふうに、どんな報道であれ見るたびに思うのは、原告の側がいつの間にか「被告」ででもあるかのように見えてきたり、逆に被告の側があたかも「原告」であるかのように転倒して見えてきてしまうという危険な錯覚である。日本のすべての市民の側が注意深く観察し点検しておくべき罠だらけ穴だらけ的末期症状。だがしかし肝心の責任者層にはその自覚がまるでないかのようだ。そしてむしろ自覚があるからこそ開き直ることができると言うことも可能だろう。なぜこのタイプの錯覚が起こるかについてはニーチェがずいぶん昔からいっていた。十九世紀すでにいっていた。

「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)

ところがまったく何らの希望もないわけではない。荘子はいう。

「昔者、莊周、夢爲胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喻適志與、不知周也、俄然覺、則蘧蘧然周也、不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與、周與胡蝶、則必有分矣、此之謂物化

(書き下し)昔者(むかし)、荘周(そうしゅう)、夢に胡蝶(こちょう)と為(な)る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喻(たのし=愉)みて志(こころ)に適(かな)うか、周なることを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚(さ)むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。周と胡蝶とは、則ち必ず分あらん。此れをこれ物化と謂う。

(現代語訳)むかし、荘周(そうしゅう)は自分が蝶(ちょう)になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか。それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(ぶっか=すなわち万物の変化)と名づけるのだ」(「荘子(第一冊)・内篇・斉物論篇・第二・十三・P.88~89」岩波文庫 一九七一年)

この場合、荘周(荘子)は蝶の身体へ変態したのか。そうではない。しかもそんなことはどこにも書いていない。むしろ荘子は《荘子の身体のままで》「楽しく飛びまわる蝶」になったのだ。もう一つ。

「子祀・子輿・子犁・子來、四人相與語曰、孰能以无爲首、以生爲脊、以死爲尻、孰知死生存亡之一體者、吾與之友矣、四人相視而笑、莫逆於心、遂相與爲友、俄而子輿有病、子祀往問之、曰、偉哉、夫造物者、將以予爲此拘拘也、曲僂發背、上有五管、頣隠於齊、肩高於頂、句贅指天、陰陽之気有乱、其心間而无事、偏遷而鑑于井曰、嗟乎、夫造物者、又將以予爲此拘拘也、子祀曰、女惡之乎、亡、予何惡、浸假而化予之左臂以爲雞、予因以求時夜、浸假而化予之右臂以爲彈、予因以求鴞炙、浸假而化予之尻以爲輪、以神爲馬、予因而乗之、豈更駕哉、且夫得者時也、失者順也、安時而處順、哀樂不能入也、此古之所謂縣解也、而不能自解者、物有結之、且夫物不勝天久矣、吾又何惡焉

(書き下し)子祀(しし)・子輿(しよ)・子犁(しり)・子来(しらい)、四人相(あ)い与(とも)に語りて曰わく、孰(たれ)か能く無(む)を以て首(こうべ)と為し、生を以て脊(せ)と為し、死を以て尻(しり)と為すや。孰か死生存亡の一体なるを知る者ぞ。吾れこれと友たらんと。四人相い視(み)て笑い、心に逆らう莫(な)く、遂(つい)に相い与に友と為(な)る。俄(にわ)かにして子輿に病あり、子祀往(ゆ)きてこれを問う。曰わく、偉なるかな、夫(か)の造物者(ぞうぶつしゃ)。将(まさ)に予れを以て此の拘拘(こうこう)を為さんとすと。曲僂(きょくる)背に発し、上に五管あり、頣(あご)は斉(へそ=臍)に隠れ、肩は頂(あたま)より高く、句贅(こうぜい)は天を指(さ)す。陰陽の気に乱(みだ)るることあるも、其の心間(しずか=閑)にして無事(むじ)なり。偏遷(へんせん)して井(せい)に鑑(かがみ)して曰わく、嗟手(ああ)、夫の造物者、又た将に予れを以て此の拘拘を為さんとするなりと。子祀曰わく、女(なんじ)これを悪(にく)むかと。曰わく、亡(いな)、予れ何ぞ悪まん。浸(ようや)くに仮(いた)りて予れの左臂(さひ)を化して雞(けい)と為(な)さば、予れは因(よ)りて時夜(じや)を求めん。浸くに仮りて予れの右臂を化して弾(だん)と為さば、予れは因りて鴞炙(きょうしゃ)を求めん。浸くに仮りて予れの尻を化して輪と為し、神(しん)を以て馬と為さば、予れは因りてこれに乗らん。豈(あ)に更(さら)に駕(が)せんや。且(か)つ夫れ得る者は時なり、失う者は順なり。時に安んじて順に処(お)れば、哀楽も入(い)ること能(あた)わず、此れ古(いにし)えの謂わゆる県解(けんかい)なり。而も自ら解くこと能わざる者は、物これを結ぶあればなり。且つ夫れ物の天に勝たざるや久し。吾れ又た何ぞ悪(にく)まんと。

(現代語訳)子祀(しし)と子輿(しよ)と子犁(しり)と子来(しらい)とが、四人でいっしょに語りあった。『無を頭とし、生を背(せなか)とし、死を尻とすることのできる者が、、だれかいるだろうか。死と生と。存と亡とが一体であることをわきまえた者が、だれかいるだろうか。われわれはそういう者と友だちになりたい』。四人はこういうと、顔を見あわせてにっこり笑い、心からうちとけて、そのまま互いに友だちとなった。〔その後〕、突然、子輿が病気になった。子祀が見舞いに訪ねていくと、子輿はこういった、『偉大だね、あの造物者(ぞうぶつしゃ)は。わしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』。背中はひどい背むしでもりあがり、内臓は頭の上にきて頣(あご)は臍(へそ)のあたりにかくれ、両肩は頭のてっぺんよりも高く、頭髪のもとどりは天をさしている。体内の陰陽の気が乱れているのだが、その心は平静で格別の事もない。よろめきながら井戸の〔そばに行くと〕、水に姿をうつして、『ああ、あの造物者はまたわしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』といった子祀はいう、『君はそれがいやかね』。『いや、わしがどうしていやがろう。〔造化のはたらきが〕だんだん進んでわしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こうと思う。だんだん進んでわしの右の臂(かいな)をはじき弓に変えるというなら、ついでにわしは射(い)落した鳥の焼き肉をほしいと思う。だんだん進んでわしの尻(しり)を車の輪に変え、わしの心を馬にするというなら、ついでにわしはそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ。それに、いったいこの世に生を受けたのは生まれるべき時にめぐりあっただけのことだし、生を失って死んでゆくのも死すべき道理に従うまでのことだ。めぐりあわせた時のままに身をまかせて、自然の道理に従っていくということなら、〔生死のために感情を動かすこともなく〕、喜びや悲しみの感情が入りこむ余地はない。こういう境地が、むかしの人のいう県解(けんかい)ーーーすなわち束縛からの解放ということだ。しかもなお自分で解放することができない〔で生死のためにくよくよする〕というのは、外界の事物がその心の中で固まっているからだ。それに、そもそも外界の事物が自然の道理に勝てないのは、むかしからのことだ。わしは〔ただ自然の道理に従うばかり〕、またどうしてこの病をいやがったりしようか』」(「荘子(第一冊)・内篇・大宗師篇・第六・五・P.194~197」岩波文庫 一九七一年)

子輿は病気で身体が変容した。にもかかわらず子輿は何一つ動じることがない。というのも「わしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こう」と思い、「わしの尻(しり)を車の輪に変え、わしの心を馬にするというなら、ついでにわしはそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ」という態度だからである。このように<しなやかな>「身ごなし」をいかにして身につけるか。ドゥルーズ=ガタリはいう。

「非分節化すること、有機体であることをやめるとは、いったいどんなことか。それがどんなに単純で、われわれが毎日していることにすぎないかをどう言い表わせばよいだろう。慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要であり、オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫 二〇一〇年)

与野党含め日本政府自身が立ち上げている課題。例えば「拉致被害者全員帰国」一つ解決できない悲しい国家=日本。にもかかわらず国家に対して異議申し立てする市民の側を相手にすると途方もなく強い。というより強過ぎて白けてしまう。この種の「しらけ」は一挙にあたり一面をニヒリズムで覆い尽くしてしまう。ニーチェはいう。

「いったい何がおこったのか?『《目的》』という概念をもってしても、『《統一》』という概念をもってしても、『《真理》』という概念をもってしても、生存の総体的性格は解釈されえないとわかったとき、《無価値性》の感情がえられたのである。かくして、何ものもめざされ達成されず、生成という多様性をおおう統一は欠けている。すなわち、生存の性格は《真》ではなく《偽》なのであるーーー《真》の世界があるとおのれを説得する根拠は、もはやまったくなくなるーーー要するに、私たちが世界に価値を置き入れてきた《目的》、《統一》、《存在》という諸範疇(はんちゅう)は、ふたたび私たちによって《引きぬき去られ》ーーーいまや世界は《無価値のものにみえて》くるーーー」(ニーチェ「権力への意志・上巻・十二・P.29~30」ちくま学芸文庫 一九九三年)

この<危険なニヒリズム>。ニーチェは告発する。なぜ危険か。例えばありとあらゆる地域紛争。しかも地域紛争を検討するのにわざわざ軍事行動まで行く必要はない。その研究素材はガソリン不足とか生活物資が届かないといったごく身近なところにごろごろ転がっている。報道されるほとんどすべてはその尖端部分でしかないという事情が条件をなす。地域紛争には膨大な後方支援物資が必要不可欠だが、にもかかわらずほんの僅かな小さな先端部分が大きく見え、逆に質量ともに膨大な部分を占めている後方支援の側はまるでない《かのように》見えている。この種の錯覚についてニーチェは述べる。

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

地球には限りがある。だから宇宙開発、などと言ってみたところで太陽系にも銀河系にも限りがある。結局のところ、一つが課題が解決されるやただちに次の課題が出現する。そしてまた百年後に生き残っている人々がいるとして、しかしそれらの人々はどこでどのような生活様式を背負うことになっているのだろうか。さらのその次の百年はどうなのか。差し当たり、二〇二二年一月一日発効の世界最大規模経済圏RCEP。「拉致被害者全員帰国」に当たってどのように尽力できるのか。まさか「無際限な引き延ばし」などということは<ない>だろうし<あってはならない>と考える。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・非定住民たちの永遠回帰「ガドルフの百合」

2021年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
ガドルフは「憐(あわ)れな旅のもの」である。「みじめな旅のガドルフ」と記述されてもいる。朝から歩き通しだが次の町まではまだ二十五キロ以上ある。途中、烈しい雷雨に襲われる。その時の雷雨の余りの過酷さに接してガドルフはこう思う。

「(もうすっかり法則がこわれた。何もかもめちゃくちゃだ。これで、も一度きちんと空がみがかれて、星座がめぐることなどはまあ夢(ゆめ)だ。夢でなければ霧(きり)だ。みずけむりさ)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.214』新潮文庫 一九九五年)

通常の気象「法則」はもはや通用しないとガドルフは半ば呆れ半ば諦めるほかない。状況は「アナーキー」と言ってよい。しかし次々に襲いかかる稲光(いなびか)りは瞬間々々でしかないものの確かに道が続いていることを指し示す。「法則」は消えてアナーキーな世界へ変わったが、アナーキーな世界で気ままに振る舞う稲妻が今度は逆にガドルフの眼の前で道のありかを照らし上げる。逆説的だがアナーキーとはそういうものでもある。そんな状況下でふいに「巨(おお)きなまっ黒な家」がガドルフの視界に入った。ガドルフはそこへ逃げ込みながらこう思う。

「(この屋根は稜(かど)が五角で大きな黒電気石(せき)の頭のようだ。その黒いことは寒天だ。その寒天の中へ俺(おれ)ははいる)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.215』新潮文庫 一九九五年)

建物の「屋根」は「五角で大きな黒電気石(せき)の頭のよう」でありさらに「その黒いことは寒天」にほかならずガドルフは「その寒天の中へ」はいる。アナーキー化した世界では一切の「法則」が抹消されている。「その寒天の中へ俺(おれ)ははいる」と思いながら実際「寒天の中へ」入ったガドルフはその途端「おれは寒天だ」と考えることができるだけでなく事実上「寒天として」振る舞い始める。ガドルフは「法則」の消えた世界でただちに「寒天」と融合し「寒天」になったと言わねばならない。

さて、家の中はまっ暗。玄関で挨拶するも返事がない。「しんとして」おり、誰もいそうにない。

「(みんなどこかへ遁(に)げたかな。噴火(ふんか)があるのか。噴火じゃない。ペストか。ペストじゃない。またおれはひとりで問答をやっている。あの曖昧な犬だ。とにかく廊下(ろうか)のはじででも、ぬれた着物をぬぎたいもんだ)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.215』新潮文庫 一九九五年)

絶え間なく差し込む稲光り。窓の外の風景がちらりと見える。「白い貝殻(かいがら)でこしらえあげた」楊の木が目に入った。ガドルフは思う。

「(うるさい。ブリキになったり貝殻になったり。しかしまたこんな桔梗(ききょう)いろの背景に、楊の木の舎利がりんと立つのは悪くない)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.216』新潮文庫 一九九五年)

ガドルフはともかく雨に打たれた外套を脱ぎ、頭や顔をさっぱりと拭ってひと息つくことにする。それにしても家の中にはガドルフのほか誰一人いないようだ。背負ってきた「背嚢」を「手探りで開いて、小さな器械の類にさわって」みた。すると少しばかり気持ちが落ち着いたように思う。ガドルフの商売がなんであるかはさっぱり不明なのだが少なくとも「小さな器械の類」を背嚢の中に入れて歩き続ける「旅のもの」だということのみがここで明かされる。そしてそれ以上のことは作品のラストに至っても何一つ明かされない。ただ日頃から慣れ親しんだものに手を触れると気持ちが落ち着くというのは「寒天」になってもならなくてもガドルフにとっては変わらない事情である。

そしてまた稲妻のたびに周囲の光景が映って見えるのだが、石膏像や家具類が置いてあったり散らばっていたりする。ガドルフは思う。

「(ここは何かの寄宿舎か。そうでなければ避(ひ)病院か。とにかく二階にどうもまだ誰(たれ)か残っているようだ。一ぺん見て来ないと安心ができない)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.217』新潮文庫 一九九五年)

次に強烈な稲光りが周囲を照らした時、今度は硝子窓(ガラスまど)から「何か白いものが五つか六つ、だまってこっちをのぞいている」のが目に入る。

「(丈(たけ)がよほど低かったようだ。どこかの子供が俺(おれ)のように、俄(にわ)かの雷雨で遁げ込んだのかも知れない。それともやっぱりこの家の人たちが帰って来たのだろうか。どうだかさっぱりわからないのが本当だ。とにかく窓を開いて挨拶(あいさつ)しよう)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.217』新潮文庫 一九九五年)

ところが「どなたですか。今晩は」と挨拶を送っても返事がない。再び電光がそこら一面を照らした。するとそこにあるのは「十本ばかり」の「百合の花」。返事がないのももっともだと納得するガドルフ。しかしまたアナーキーな世界では様々なものの区別が消えてしまう。だからアナーキーなわけだが。「寒天」としてのガドルフは今見えたばかりの「百合」との融合を果たす。

「(おれの恋は、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕(くだ)けるなよ)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.218』新潮文庫 一九九五年)

例えばこの種の状況を「運命共同体」と言ってしまえばなるほど聞こえはいいかもしれない。だがアナーキーという<原理なき原理>は或る共同体と別の共同体との境界線を抹消してしまう。アルトーが「ヘリオガバルス」の中で<アナーキー>に注目して論じたように「運命共同体」というものももはや存在しない。詩人=宮沢賢治はこう書く。

「暗(やみ)が来たと思う間もなく、又稲妻が向うのぎざぎざの雲から、北斎の山下白雨のように赤く這(は)って来て、触(ふ)れない光の手をもって、百合を擦(かす)めて過ぎました。雨はますます烈(はげ)しくなり、かみなりはまるで空の爆破(ばくは)を企(くわだ)て出したよう、空がよくこんな暴れものを、じっと構わないで置くものだと、不思議なようにさえガドルフは思いました」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.219』新潮文庫 一九九五年)

文章の中に「北斎の山下白雨」とある。葛飾北斎「富嶽三十六景」の一つとして有名。右下朱色の幾何学模様が稲妻。だが近代社会の導入は近世日本を徹底的に破壊しパースペクティヴを決定的に異るものに変化させたため、もはや<あの稲妻>を生(なま)で見ることは不可能になった。可能なのは<あのような稲妻>ばかりである。

さらに打ちつづく稲妻。ガドルフの眼に飛び込んできた瞬間的光景は、荒れ狂う暴風に耐えられなくなった一本の百合がぽきりと折れたシーン。

「(おれはいま何をとりたてて考える力もない。ただあの百合は折れたのだ。おれの恋は砕けたのだ)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.220』新潮文庫 一九九五年)

しばらくして雷雨は去る。一本の百合は確かに折れていた。けれどもほかの百合の群はまっ白なまま残っている光景がガドルフの眼前に広がっている。

「(これは暁方(あけがた)の薔薇色ではない。南の蠍(さそり)の赤い光がうつったのだ。その証拠(しょうこ)にはまだ夜中にもならないのだ。雨さえ晴れたら出て行こう。街道の星あかりの中だ。次の町だってじきだろう。けれどもぬれた着物を又引っかけて歩き出すのはずいぶんいやだ。いやだけれども仕方ない。おれの百合は勝ったのだ)」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.222』新潮文庫 一九九五年)

何か一つがいつも犠牲として自然生態系に捧げられるのは賢治作品のパターンだがここでは百合の群の中の一本が生贄にされている。法華経主義者=賢治としてはそのような如来的実践(菩薩的無償性)を「ガドルフの百合」にも描き込んだ。また注目しておきたいのはやや唐突ながら「南の蠍(さそり)の赤い光」とある箇所。蠍座の蠍は賢治にとって特別な思い入れがある。例えば「銀河鉄道の夜」に出てくるエピソード。

「川の向う岸が俄(にわ)かに赤くなりました。楊(やなぎ)の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のように赤く光りました。まったく向う岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗(ききょう)いろのつめたそうな天をも焦(こ)がしそうでした。ルビーよりも赤くすきとおりリチウムよりもうつくしく酔(よ)ったようになってその火は燃えているのでした。『あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう』ジョバンニが云(い)いました。『蠍(さそり)の火だな』カムパネルラが又(また)地図と首っ引きして答えました。『あら、蠍の火のことならあたし知ってるわ』。『蠍の火って何だい』ジョバンニがききました。『蠍がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんかお父さんから聴いたわ』。『蠍って、虫だろう』。『ええ、蠍は虫よ。だけどいい虫だわ』。『蠍いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールについてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫(さ)されると死ぬって先生が云ってたよ』。『そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯(こ)う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(みつ)かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押(おさ)えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺(おぼ)れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈(いの)りしたというの、<ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときにはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい>、って云ったというの。そしたらいつか蠍はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰(おっしゃ)ったわ。ほんとうにあの火それだわ』」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」『銀河鉄道の夜・P.209~211』新潮文庫 一九八九年)

さて、ガドルフとは何かという問いに戻ろう。「みじめな旅のガドルフ」・「憐(あわ)れな旅のもの」。「小さな器械の類」だけが商売道具らしい。そしてまた「とろとろ眠ろうと」しながらこんな夢を見る。

「一人は闇の中に、ありありうかぶ豹(ひょう)の毛皮のだぶだぶの着物をつけ、一人は烏(からす)の王のように、まっ黒くなめらかによそおっていました。そしてガドルフはその青く光る坂の下に、小さくなってそれを見上げてる自分のかたちも見たのです」(宮沢賢治「ガドルフの百合」『ポラーノの広場・P.221』新潮文庫 一九九五年)

この<乖離状態>。ラヴクラフト参照。

「カーターは人間であり非人間であり、脊椎(せきつい)動物であり無脊椎動物であり、意識をもつこともありもたないこともあり、動物であり植物であった。さらに、地球上の生命と共通するものをもたず、他の惑星、他の太陽系、他の銀河、他の時空連続体の只中を法外にも動きまわるカーターたちがいた。世界から世界へ、宇宙から宇宙へと漂う、永遠の生命の胞子がいたが、そのすべてが等しくカーター自身だった。瞥見(べっけん)したもののいくつかは、はじめて夢を見るようになったとき以来、長い歳月を経ても記憶にとどめられている夢ーーーおぼろな夢、なまなましい夢、一度かぎりの夢、連続して見た夢ーーーを思いださせた。その一部には、地球上の論理では説明のつけられない、心にとり憑(つ)き、魅惑的でありながら、恐ろしいまでの馴染(なじみ)深さがあった。これが紛れもない真実であると悟ったとき、ランドルフ・カーターは至高の恐怖にとらわれ、くらめく思いがしたーーー色を失う月のもと、ふたりしてあえて忌み嫌われる古びた埋葬地に入りこみ、ただひとりだけが脱け出した、あの怖気(おぞけ)立つ夜の慄然(りつぜん)たる絶頂でさえほのめかされることもなかったような、このうえもない恐怖だった。いかなる死であれ、運命であれ、苦悩であれ、自己一体感の喪失からわきおこる不二無類の絶望をひきおこせはしない。無に没して消えうせることは安らかな忘却であるにせよ、存在感を意識しながら、その存在というものが他の存在と区別できる明確なものではないことーーーもはや自己をもってはいない存在であることーーーを知るのは、いいようもない苦悶(くもん)と恐怖の極(きわみ)にほかならない」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.132~133』創元推理文庫 一九八九年)

ところでガドルフは「憐(あわ)れな旅のもの」としてどこから来たかもわからずどこへ行くのかもわからず、ただ過ぎ去って行くばかりである。永遠の非定住民なのだが、一方、非定住民は幾つかの村落共同体を越えて情報収集できる立場だったため、戦前の日本、とりわけ地方へ行くと「媒酌業者」を始める者たちが出てきた。縁談のためと称してあちこちから内密な情報を集めてくる。持っている情報量が多ければ多いほど選挙に利用されることで自らの存在価値を高める者も出てきた。赤松啓介は述べている。

「衆議院から県会、町村会、農会に至るまで選挙は多種多様であるし、町村長や区長の選挙、選出であるから、話題にこと欠かない。とった、とられたから、どんでん返しまで、ありとあらゆる秘術、秘策が開陳される。面白いのは一般百姓たちの買収で、そこらの一パイ屋、料理屋、宿屋へ連れ込んで飲ませるのだが、酔ってくるとどこそこはいくらくれたとか、筒抜けらしい。少しまとまった票のある男なら、その家で他所ごとの世間ばなしをして帰る。帰った後で座ぶとんを上げると、金包みが出てくるという仕掛けになっていた。ただし、こんなのはごく初歩的であり、一年も二年も前に山を売った、田を買ったということで、次の選挙はすんでいるらしい。また選挙ボスになると地方の町や都市で妾などに一パイ屋、カフエーなどを経営させ、策源地として活用する。その頃はまだ内閣が変わると、警察署長はもとより駐在所の巡査、小学校の校長、教員まで入れ替えになったといわれ、いろいろとゴマスリやタレコミが渦巻いて、聞いているだけで面白かった」(赤松啓介「性・差別・民俗・二・村の祭礼と差別・二・農村の結婚と差別の様相・P.123~124」河出文庫 二〇一七年)

しかし今やネット時代。「媒酌業者」はなくなったか。そうではない。まるでない。昔は良かったというのでもない。今やもはや昔以上に悪質な「媒酌業者」がその名称だけを取り換えて選挙や差別的世論形成のために諸々の活動に従事しているというのが実状と見るべきだろう。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・パロディは非=パロディへ転化する「飢餓陣営」

2021年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
軍事行動の最前線で大ダメージを受けたバナナン軍団。「辛(から)くも全滅(ぜんめつ)を免(まぬ)かれ」、マルトン原に残る古い穀倉の中に臨時幕営(ばくえい)を設置。しかしその穀倉も安全とはいえず、すでに砲弾で破損している箇所が見受けられる。ところが肝心のバナナン大将が帰ってこない。それでも大将の帰還を辛抱強く待って整列しているバナナン軍団。特務曹長と総長の二人は声を揃えてこう歌う。

「曹長特務曹長(互(たがい)に進み寄り足踏みつつ唄(う)う)『糧食(りょうしょく)はなし 四月の寒さ ストマクウオッチ(胃時計)ももうめちゃめちゃだ』」(宮沢賢治「飢餓陣営」『銀河鉄道の夜・P.246』新潮文庫 一九八九年)

激しい飢餓に襲われた軍団は戦争で死ぬというより飢えで全滅しそうな模様。さらに軍団が置かれた現状についてもう少し立ち入って特務曹長と曹長の二人はこう歌う。

「曹長特務曹長『大将ひとりでどこかの並木(なみき)の 苹果(りんご)を叩(たた)いているかもしれない 大将いまごろどこかのはたけで 人蔘(にんじん)ガリガリ 嚙(か)んでるぞ』」(宮沢賢治「飢餓陣営」『銀河鉄道の夜・P.247』新潮文庫 一九八九年)

大将の帰還がやけに遅いのはもしかしたら大将一人だけ隠れて「どこかの並木(なみき)の苹果(りんご)を叩(たた)いているかもしれない」し、また「どこかのはたけで人蔘(にんじん)ガリガリ嚙(か)んでる」に違いないというのである。そこへ突然登場したバナナン大将。「バナナのエボレットを飾(かざ)り菓子(かし)の勲章(くんしょう)を胸に満(みた)」している。エボレットは「肩章」のこと。時として拷問以上に過酷な飢餓に晒されたバナナン軍団の兵士たちは食べられない勲章にはまるで関心がなくそもそも勲章など無に等しい。ところがしかし、バナナン大将の胸をじゃらじゃら満たしているのは食べられない勲章ではなく「飾(かざ)り菓子(かし)の勲章(くんしょう)」である。そこで特務曹長と曹長の二人は飢餓のためにむざむざ兵士たちを死なせてしまうよりバナナン大将がじゃらじゃらと身につけている「飾(かざ)り菓子(かし)の勲章(くんしょう)」を騙し取り兵士たちに食べさせて飢えをしのがせ、その責任を取って二人で死のうと決意する。

話が決まった特務曹長はバナナン大将の前に進み出て勲章の一つ一つについて質問する。大将は一つ一つの勲章を特務曹長に手渡し、どうやって手に入れたかいちいち説明する。

(1)「ロンテンプナルール勲章」。「印度(インド)戦争」の戦功として受領したらしい。勲章のまん中に青い色の<ザラメ>がある。特務曹長はその勲章をすばやく曹長に渡し、曹長は兵卒一に渡し、兵卒一はただちにそれを嚥下(えんか)する。

(2)「ファンテプラーク章」。「支那(しな)戦のニコチン戦役」でもらったらしい。(1)と同じく曹長の手を経由させて今度は兵卒二がそれを嚥下する。

(3)「チベット戦争」での戦功品。今度は兵卒三が嚥下する。

(4)「普仏(ふふつ)戦争」にて。余りにも古い話で時代が合わないと思った特務曹長は大将に尋ねる。すると「六十銭で買った」との返事。兵卒四が嚥下する。

(5)次の勲章について大将はいう。「それはアメリカだ。ニュウヨウクのメリケン粉株式会社から贈られたのだ」。兵卒五が嚥下する。

(6)次の勲章。「支那の大将と豚(ぶた)を五匹(ひき)でとりかえた」もの。兵卒六が嚥下する。

(7)さらに次の勲章。「むすこからとりかえした」もの。兵卒七が嚥下する。

(8)「モナコ王国に於(おい)てばくちの番をしたとき貰(もら)った」もの。兵卒八が嚥下する。

(9)「手製」のもの。大将はいう。「わしがこさえたのじゃ」。兵卒九が嚥下する。

(10)「アフガニスタンでマラソン競争をやってとったのじゃ」。兵卒十が嚥下する。

(11)「イタリアごろつき組合」から「贈られた」もの。曹長が嚥下する。

(12)「ベルギ戦役マイナス十五里進軍の際スレンジングトンの街道で拾った」もの。特務曹長が嚥下する。

(13)「バナナのエボレット」。残る六人を含めみんなで千切(ちぎ)り皮を剥(む)いて一同で嚥下する。

これで全員、いったん飢餓から回復する。とともに<良心の呵責(かしゃく)>が舞い戻ってくる。その発生機序についてニーチェはいう。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)

では作品「飢餓陣営」の場合、なぜ飢餓から救われると同時に<良心の呵責(かしゃく)>が再発生したのか。(1)コジェーヴ、(2)バタイユ参照。

(1)「(真の)認識の中でそれ自身によりそれ自身に開示された《存在者》を、対象とは異なり対象に『対立』する主観によって、『主観』に開示された『対象』へと変ずるものは、この《欲望》である。人間が《自我》として、本質的に《非我》と異なり根本的にそれと対立する《自我》としてーーー自己自身及び他者に対しーーー自己を構成し自己を開示するのは、『自己の』《欲望》の中で、『自己の』《欲望》により、より適切には、『自己の』《欲望》としてである。(人間の)《自我》とは、或る《欲望》のーーー或いは《欲望》そのもののーーー《自我》なのである。したがって、人間の存在そのもの、自己意識的な存在は、《欲望》を含み、《欲望》を前提とする。そうである以上、人間的な実在性は、生物的な実在性、動物的な生の枠内でなければ構成され維持されることができない。だが、たとえこの《動物的欲望》が《自己意識》にとって必要な条件であるとしても、それだけでは十分な条件とは言えない。《動物的欲望》のみでは《自己感情》が構成されるにすぎない。認識が人間を受動的な静的状態に保つのとは対照的に、《欲望》は人間をそわそわさせ、人間を行動へ追いやる。《欲望》から生まれた以上、行動はこの欲望を充足させようとするが、『否定』によらなければ、すなわち欲望の対象を破壊するか、少なくともその形態を変じなければ、それを遂行することができない。例えば、空腹を満たすためには、食物を破壊しなければならない、ともかくもその形態を変じなければならない。このように、いかなる行動も『否定的』である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・第一章・P.11~12」国文社 一九八七年)

(2)「実のところを言うと、死の非現実性というのはある表層的な一面にしか過ぎない。事物たちの世界の内にその場を持たないもの、現実世界においては非現実的であるものは、正確に言うと死ではないのである。事実死は現実のまやかしを暴露する。という意味は、ただ単に持続の不在が現実というものの虚偽を想い出させるという点でそうするというだけではなく、なによりも死が生の偉大な肯定者であり、生に驚嘆して発せられた叫びであるという点でそうするのである。現実秩序が投げ棄てるのは、死がそうであるような現実の否定というよりもむしろ内奥的な、内在的な生命の肯定、つまりその際限のない激烈さ=暴力性(ヴァイオレンス)が事物たちの安定にとって危険であり、また死においてのみ初めて十分に啓示されるような内奥の生命の肯定なのである。現実秩序はこの内奥の生を無効にーーーつまり中和化ーーーしなければならない。そしてその代りに、労働という共同性の中にある個人がそうであるような事物を対置しなければならぬのである。だかしかしそういう現実秩序も、いままさに死のうちへと生が消滅する瞬間において、けっして《事物》ではありえない生が、その《不可視の》閃光を開示することがないようにしてしまうわけにはいかない。死の力が意味しているのは、この現実世界が生に関してある中和化されたイメージしか持てないということであり、また内奥性がその世界において眼を眩ますばかりの消尽のさまを開示するのは、ただまさしく内奥性が欠けんとする瞬間においてのみだということである。死がそこにあったときには、誰もそこに《それがある》と知らなかった。死は無視されており、それが現実的な事物たちの利にかなうことであった。死は他のものたちと同じように一つの現実的事物だったのである。しかし突如として死は、現実社会が嘘をついていたことを示す。するとそのとき深く考慮に入れられるのは、事物が喪失されたということではなく、また有用なメンバーが失われたということでもない。現実社会の失ったものは一人のメンバーではなく、その真理なのである。内奥の生命はもうすでに私にまで十分到達する力を失っており、それを私は基本的には一個の事物のようにみなしていたのであるが、その内奥の生を十分なまで私の感受性へと戻してくれるのは、それが不在となることによるのである。死は生をその最も充溢した状態において啓示し、現実秩序を沈み込ませる。それ以降は、この現実秩序が、もはや存在しないものの持続の要請であることは、ほとんど重要性を持たなくなる。諸関係に基づいて立てられている一つの存在体は、一個の基本要素が自らの要請に背いて消え去るときに、欠如する部分が生じて病み苦しむというのではない。そういう存在体は、すなわち現実秩序は、一度に全体として消え失せてしまったのである。もはやその現実秩序が問題となることはなく、そして死が涙のうちに運んでくるものは、内奥次元〔L’ordre intime〕の、なんの有用性も持たぬ消尽なのである」(バタイユ「宗教の理論・第一部・三・供犠、祝祭および聖なる世界の諸原則・P.60~62」ちくま学芸文庫 二〇〇二年)

作品「飢餓陣営」ではとりあえず「飢餓」という状況が取り扱われてはいるものの、戦乱に伴う「飢餓」であれ「殺人」であれ「飽食」であれ、バタイユのいう「際限のない激烈さ=暴力性(ヴァイオレンス)」が実現されるやそこに<良心の呵責・良心の疾(やま)しさ>が宗教的感情として出現する。従ってバナナン大将の胸をじゃらじゃら満たしている「飾(かざ)り菓子(かし)の勲章(くんしょう)」は消費・蕩尽された瞬間、配下全員に<良心の呵責・良心の疾(やま)しさ>が《宗教的感情として》出現していなければならない。バタイユはいう。「現実社会の失ったものは一人のメンバーではなく、その真理なのである」。なぜそうなるのか。この点についてヘーゲルは「反省〔反照〕」の重要性について述べている。ヘーゲル用語でいう「反省〔反照〕」は通俗的な意味での「謝罪」とはまるで異なる点に注意しよう。

「《本質》は《媒介的に定立された》概念としての概念である。その諸規定は本質においては《相関的》であるにすぎず、まだ端的に自己のうちへ《反省》したものとして存在していない。したがって概念はまだ《向自》として存在していない。本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、自分自身へ関係するものである。もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、《定立され媒介されたもの》として存在している。ーーー有は消失していない。本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、《直接的なもの》であるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち、仮象へ《ひきさげられている》。ーーーしたがって本質は、自分自身のうちでの《反照》としての有である。

<訳者注>。Reflexion、reflektierenという言葉は、ヘーゲルでは独自な意味に使われている。もともと、ラテン語のReflexioは、まがりもどることを意味する。ここから、光は、反射の意味となる。自己をかえりみるという場合の反省も、原意と無関係ではない。しかし、ヘーゲルは相関関係のうちにある二つのものを、その一方から出発して考察するとき、Reflexionという言葉を使う。例えば、支配者というものは、支配される者なしには存在せず、考えられず、自分自身のみからは理解できないものである。このような相関は、そこに存在しているのであるが、われわれが今支配者というものを理解しようとすれば、支配されるものへいき、そして再び支配者へ帰ってこなければならない。相関においては、かくして相関する互の側から、このようなReflexionが行われるわけである。これがReflexionの全体的な意味である。しかし、他者へのReflexionというように、この言葉が使われるとき、それは、とりあえず関係という意味しか表面に持っていない。ヘーゲルにおいては、概念が自覚する形をも持つから、反省と訳すが、十分ではない。エンチクロペディーの初版では、ヘーゲルは、『本質の領域では、相関性が支配的な規定をなしている』と言っている。マルクスは、資本論で、相対的価値形態を述べたところの、註のうちでReflexionsbestimmungに言及し、次のように言っている。『Reflexionsbestimmungenというものは、一般に、独特なものである。例えば、特定の人間が王であるのは、ただ他の人々が臣下としてかれにたいするからである。ところが、この人々は、かれが王であるからこそ、自分たちは臣下なのだと思っている』。なお、主観的思惟にReflexionという言葉をヘーゲルが使うとき、それは、すでにこれまでの訳者註に述べたように、関係的、相関的思惟である」(ヘーゲル「小論理学・下・第二部・本質論・一一二・P.15~16」岩波文庫 一九五二年)

さて次に特務曹長と曹長との対話がつづく。

「曹長『上官、私共二人はじめの約束(やくそく)の通りに死にましょう』。特務曹長『そうだ。おいみんな。おまえたちはこの事件については何も知らなかった。悪いのはおれ達二人だ。おれ達はこの責任を負って死ぬからな、お前たちは決して短気なことをして呉(く)れるな。これからあともよく軍律を守って国家のためにつくしてくれ』」(宮沢賢治「飢餓陣営」『銀河鉄道の夜・P.256』新潮文庫 一九八九年)

国家のために死ぬことに対して酔いしれる二人の上官。この点についてもニーチェは十九世紀のうちに早くも指摘している。

「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫 一九九三年)

ところがバナナン大将は特務曹長と曹長の自害を制して次善の策を提案する。

「『今わしは神のみ力を受けて新らしい体操を発明したのじゃ。それは名づけて生産体操となすべきじゃ。従来の不生産式体操と自(おのずか)ら撰(せん)を異にするじゃ』」(宮沢賢治「飢餓陣営」『銀河鉄道の夜・P.258』新潮文庫 一九八九年)

兵士たちは新しい体操を行うことになる。バナナン大将のいう新式の「生産体操」。どのような「体操」か。大将は自分の発案によるその「生産体操」を「果樹整枝法」と呼ぶ。兵士たちそれぞれが果樹園の果樹の枝を太い幹から細部まで順番に真似ていく体操。最後に実った果実を確実に収穫するため「棚(たな)」の形に体を真似る。

「大将『次は果樹整枝法、その六、棚(たな)仕立、これは日本に於(おい)て梨(なし)葡萄(ぶどう)等の栽培(さいばい)に際して行われるじゃ。棚をつくる。棚を。わかったか』」(宮沢賢治「飢餓陣営」『銀河鉄道の夜・P.260』新潮文庫 一九八九年)

そして兵士たちが組み合わさってできた果樹の棚の下をバナナン大将がくぐり抜けて収穫に移る。

「(兵士ら腕を組み棚をつくる。バナナン大将手籠(てかご)を持ちてその下を潜(くぐ)りしきりに果実を収む)」(宮沢賢治「飢餓陣営」『銀河鉄道の夜・P.260』新潮文庫 一九八九年)

馬鹿げた発想だろうか。そうかも知れない。だが「法華経・化城喩品」にこうある。人跡未到の密林の中でパニックに陥った僧侶たちを上手く導くため「幻の城」を出現させたという「方便」。

「譬如五百由旬。險難悪道。曠絶無人。怖畏之處。若有多衆。欲過此道。至珍寶處。有一導師。聡慧明達。善知險道。通塞之相。將導衆人。欲過此難。所將人衆。中路懈退。白導師言。我等疲極。而復怖畏。不能復進。前路猶遠。今欲退還。導師多諸方便。而作是念。此等可愍。云何捨大珍寶。而欲退還。作是念已。以方便力。於險道中。過三百由旬。化作一城。告衆人言。汝等勿怖。莫得退還。今此大城。可於中止。随意所作。若入是城。快得安穏。若能前至寶所。亦可得去。是時疲極之衆。心大歓喜。歎未曾有。我等今者。免斯悪道。快得安穏。於是衆人。前入化城。生已度想。生安穏想。爾時導師。知此人衆。既得止息。無復疲惓。即滅化城。語衆人言。汝等去来。寶處在近。向者大城。我所化作。爲止息耳。

(書き下し)譬えば、五百由旬の険難なる悪道の、曠(むな)しく絶えて人なき怖畏(ふい)の処あるが如し。若し多くの衆(ひとびと)ありて、この道を過ぎて、珍宝の処に至らんと欲するに、一(ひとり)の導師の、聡慧(そうえ)・明達(みょうだつ)にして、善く險道(けんどう)の通塞(つうそく)の相を知れるものあり。衆人(もろびと)を将(ひき)い導(みちび)きて、この難を過ぎんと欲するに、将(ひき)いらるる人衆(にんしゆ)は中路に懈退(けたい)して、導師に、白(もう)して言わく「われ等は疲(つか)れ極まりて、また怖畏す。また進むこと能わず。前路はなお遠し。今、退(しりぞ)きかえらんと欲す」と。導師は、諸(もろもろ)の方便多くして、この念をなす「これ等は愍むべし。いかんぞ大いなる珍宝を捨てて、退きかえらんと欲するや」と。この念を作しおわりて、方便力(ほうべんりき)をもって、険道(けんどう)の中において、三百由旬を過ぎて、一城を化作して、衆人(もろびと)に告げていわく、「汝等よ、怖るることなかれ。退きかえることを得ることなかれ。今、この大城は、中において止(とど)まりて、意(こころ)のなす所に随うべし。若しこの城に入らば、快(こころよ)く安穏(あんのん)なることを得ん。若しよく前(すす)みて、宝所(ほうしょ)に至らば、また去ることを得べし」と。このとき、疲れ極まりし衆(ひとびと)は、心大いに歓喜(かんぎ)して、未曽有なりと歎じ「われ等、いまこの悪道をまぬかれて、快く安穏なることを得たり」といえり。ここにおいて、衆人(もろびと)は、前(すす)みて化城(けじょう)に入りて、すでに度(こえ)たりとの想(おもい)を生じ、安穏の想(おもい)を生ぜり。そのとき、導師は、この人衆の、すでに止息(しそく)することを得、また疲惓(ひけん)なきを知りて、すなわち、化城を滅して、衆人(もろびと)に語りて言わく「汝等よ去来(いざ)や、宝所は近きにあり。さきの大城は、われの化作せるところにして、止息のためなるのみ」と。

(サンスクリット原典からの邦訳)例えば、僧たちよ、ここに広さ五百ヨージャナの人跡未到の密林があって、そこに大勢の人々が到着したとしよう。ラトナ=ドゥヴィーパに行くために、賢明で学識があり、敏捷で精神力があり、密林の難路に通じていて隊商を案内して密林を通過さすことのできる、一人の案内人がいるとしよう。ところで、かの大勢の人々は途中で疲れ果てた上に、密林の不気味さに怖れおののいて、このように言うとしよう。「君、案内人よ、われわれは疲れ果てて、不安に怖れおののいているんだ。引き返そうじゃないか。人跡未到の密林は非常な遠くまで広がっている」と。そのとき、僧たちよ、巧妙な手段に通暁しているかの案内人は、人々が引き返そうと思っていることを知り、このように考えるとしよう。「これは駄目だ。あこの憐れな連中は、このままではラトナ=ドゥヴィーパに行けないであろう」と。彼はかれらを憐れんで、巧妙な手段を用いるとしよう。その密林の真中に、百ヨージャナあるいは二百ヨージャナないし三百ヨージャナの向こうに、彼が神通力で都城を造るとしよう。こうして、彼は、人々にこのように言うとしよう。「諸君、怖れてはならぬ。怖れてはいけない。あそこに大きな町がある。あそこで休もう。諸君たちがしなければならないことがあるなら、あそこで用を足しなさい。安心して、あそこに滞在するがよろしい。あそこで休んで、仕事のある人はラトナ=ドゥヴィーパに行くがよい」と。そこで、僧たちよ、密林に入りこんだ人々は不思議に思い、いぶかりながらも、「われわれは人跡未踏の密林を通り抜けたのだ。安心して、ここに逗留しよう」と思うであろう。また、助かったと思うであろう。「われわれは安心した。気分が爽快になった」と思うであろう。そこで、かの案内人は人々の疲れがなくなったことを知ると、神通力で造った都城を消して、人々にこのように言うとしよう。「諸君、こちらへ来てください。ラトナ=ドゥヴィーパは直ぐ近くだ。この都城は、君たちを休憩させるために、わたしが造ったのだ」と」(「法華経・中・巻第三・化城喩品・第七・P.572~75」岩波文庫 一九六四年)

とことん追い詰められた人間は上司の勲章であろうとなかろうと何でも喰らう。いったん飢餓から回復すると今度は<良心の呵責・良心の疾(やま)しさ>が《宗教的感情として》回帰してくる。そこへ次に一見気が利いて見える宗教教義が与えられ<幻の城>造営に打ち込まされることになる。こうして形成された<トラウマ>は生涯癒えることのない疵(きず)となって関係者一同の精神の奥深く喰い込み人間精神をどんどん侵蝕していく。また、この種の<トラウマ>の原動力だが、それはフロイトがニーチェから借りてきた言葉<エス>から供給されているため、生涯に渡って止まるということを知らない。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・<共同体の一員であるまえに>「実験室小景」

2021年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
以前取り上げた「フランドン農学校の豚」で、<教師・生徒>の側の思考と<豚の感情>の側との弁証法を通して小説が進行していくのを見た。両者の弁証法なしに作品「フランドン農学校の豚」は進行することができなかった。とすると作品「フランドン農学校の豚」は弁証法によって始めて小説へ編成することができたと十分言える。要するに「フランドン農学校の豚」は、<小説として見る限り>「弁証法である」。もっとも、豚が感情を持つということを前提に書かれているわけだが。しかしそうでなければ「フランドン農学校の豚」だけでなく「よだかの星」も「カイロ団長」も「猫の事務所」も「蜘蛛となめくじと狸」も「ツェねずみ」も「どんぐりと山猫」も「かしわばやしの夜」も「烏の北斗七星」も「雪渡り」も「土神ときつね」も「なめとこ山の熊」も「鳥箱先生とフウねずみ」も、いずれにしても成立することはできなかった。なかでもとりわけまとまりのある「フランドン農学校の豚」を一度振り返ってみよう。

「『すいぶん豚というものは、奇体(きたい)なことになっている。水やスリッパや藁(わら)をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒(しょくばい)だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機体では豚なのだ』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.179~180』新潮文庫 一九八九年)

もっとも、「触媒(しょくばい)」という場合正しくは、それそのものは変化せず、或るものと他のものとの<あいだ>に立って両者に化学的変化を起こさせる物質を指す。ところが豚は豚の身体も同時に化学変化するため<媒介するもの>として考える方が正しい。その意味で豚は<生きたヘーゲル弁証法>と極めて似るのである。ヘーゲルから八箇所拾っておこう。

(1)「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.246~247」岩波文庫 一九五一年)

(2)「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.248~249」岩波文庫 一九五一年)

(3)「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである」(ヘーゲル「小論理学・上・八一・P.251」岩波文庫 一九五一年)

(3)「生あるものは死ぬ。しかもそれは、生あるものが生あるものとして自分自身のうちに死の萌芽を担っているからにほかならない」(ヘーゲル「小論理学・上・P.286」岩波文庫)

(4)「或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。かくして《限りなく》続いていく」(ヘーゲル「小論理学・上・九三・P.286」岩波文庫 一九五一年)

(5)「エレア派において思想は自分みずからを自由に相手とし、エレア派が絶対実在だと言明するもののうちで、思想は自己を純粋に把握し、思想が概念のうちを運動する。ここに、弁証法のはじまりが、すなわち、概念における思考の純粋運動のはじまりが見られます。と同時に、思考が現象ないし感覚的存在と対立し、さらには、内部から見た自己と他者との関係のなかでの自己が対立し、自己のもとにある矛盾が対象のもとにもあらわれてくる(それが弁証法の本来のすがたです)」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.322」河出文庫 二〇一六年)

(6)「一般に弁証法といえば、(a)外的弁証法ーーー事柄の運動の総体とは区別される観察者の運動ーーーと、(b)たんなる外からの洞察の運動ではなく、事柄そのものの本質、つまり、内容の純粋概念に導かれた運動とがあります。前者は、対象を観察した上で、これまで確実なことと見なされていた一切をぐらつかせるような根拠や側面を提示する方法です。その場合、根拠はまったく外的なものでもさしつかえなく、わたしたちは、ソフィストの哲学をあつかうさいに、この弁証法についてくわしく論じることになるはずです。もう一つの弁証法は、対象のなかにはいって観察するもので、対象は、前提や理念や当為ぬきに、外的な関係や法則や根拠からではなく、それだけで取りあげられます。観察者は事柄そのもののまっただなかに飛びこみ、対象を対象に即して観察し、対象のもつ内容に従って対象をとらえる。この観察においては、対象みずからが、対立する内容をもち、したがって廃棄されていくことをあらわにします。この弁証法は古代にとりわけよく見られます。外的な根拠にもとづいて推論する主観的な弁証法は、『正のうちには不正もあり、偽のうちには真もある』といったことを認める上ではそれなりの意味がある。が、真の弁証法は、対象が一面からして欠陥があるといった中途半端にとどまることなく、その本性の全体からして対象を解体します」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.355」河出文庫 二〇一六年)

(7)「弁証法が最初に運動にかんして成立したことについては、その理由として、弁証法そのものが運動であること、いいかえれば、運動そのものがあらゆる存在の弁証法であることがあげられます。事物は運動するものとして自分のもとに弁証法をもっており、そして運動とは、べつのものになること、自分を廃棄していくことです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.357」河出文庫 二〇一六年)

(8)「矛盾は運動においてもっとも明瞭に示される。運動では、対立するものが目の前にあらわれるからです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.359~360」河出文庫 二〇一六年)

フランドン農学校の豚(ヨークシャイヤ)は或る日、「ラクダ印の歯磨楊枝(はみがきようじ)」を目にする。豚は思う。すでに擬人化されている。

「豚は実にぎょっとした。一体、その楊枝の毛を見ると、自分のからだ中の毛が、風に吹(ふ)かれた草のよう、ザラッザラッと鳴ったのだ。豚は実に永い間、変な顔をして、眺めていたが、とうとう頭がくらくらして、いやないやな気分になった」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.181』新潮文庫 一九八九年)

畜産学校の教師は毎日この豚の様子を見に来る。そしていう。

「『も少しきちんと窓をしめて、室中(へやじゅう)暗くしなくては、脂(あぶら)がうまくかからんじゃないか。それにもうそろそろと肥育をやってもよかろうな、毎日阿麻仁(あまに)を少しずつやって置いて呉(く)れないか』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.182』新潮文庫 一九八九年)

その言葉をすっかり聞いた豚はへこんでしまい急速に食欲が減退する。そしてこう思う。

「<とにかくあいつら二人は、おれにたべものはよこすが、時々まるで北極の、空のような眼をして、おれのからだをじっと見る、実に何ともたまらない、とりつきばもないようなきびしいこころで、これのことを考えている、そのことは恐(こわ)い、ああ、恐い>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.182』新潮文庫 一九八九年)

ところが屠殺の日の前月、その「国の王」が奇妙な布告を出した。内容は次のとおり。

「それは家畜撲殺(ぼくさつ)同意調印法といい、誰(たれ)でも、家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書(しょうだくしょ)を受け取ること、又その承諾証書には家畜の調印を要すると、こう云う布告だった」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.182』新潮文庫 一九八九年)

近代社会の始まりとともに<人権>という概念も入ってくる。労働力維持とその増殖のため当然、資本主義は<人権>を必要とし、また<人権>がなければ延命していけないからだが。しかしなおさら豚は不安に陥りこう思う。人間社会の雇用形態でいう「契約」のことだ。

「<承諾書というのは、何の承諾書だろう何を一体しろと云うのだ。やる前の日には、なんにも飼料をやっちゃいけない、やる前の日って何だろう。一体何をされるんだろう。どこか遠くへ売られるのか。ああこれはつらいつらい>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.185~186』新潮文庫 一九八九年)

数日後、三人の生徒たちが何気なく会話しているのを豚は聞いた。こうある。

「『豚のやつは暖かそうだ』。一人が斯う答えたら三人共どっとふき出しました。『豚のやつは脂肪でできた、厚さ一寸の外套(がいとう)を着てるんだもの、暖かいさ』」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.186』新潮文庫 一九八九年)

豚はたちまち息苦しさを覚えて思う。

「<厚さ一寸の脂肪の外套、おお恐い、ひとのからだをまるで観透(みとお)してるおお恐い。恐い。けれども一体おれと葱と、何の関係があるのだろう。ああつらいなあ>」(宮沢賢治「フランドン農学校の豚」『風の又三郎・P.187』新潮文庫 一九八九年)

だがしかし遂にフランドンのヨークシャイヤ豚は研究生たちの実習材料として化学に<殉教>した。賢治は法華経主義者として豚に<仏性・贈与性>を認め与え、今後の人間社会の科学的発展に寄与するに違いないと祈りつつ、人間社会に向けて貴重極まりない<贈物>として敢えて豚を<殉教>させた。

さて一方、学者たちが集う実験室ではまた違った<意識の流れ>がある。詩人=宮沢賢治は自分自身が学者だったのでその様子が手に取るようにわかる。実験室に集う学者たちの<意識の流れ>に即してこんな詩を残している。これはこれで面白い。

「(春が来るとも見えないな)(いや、来るときは一どに来る 春の速さはまたべつだ)(春の速さはをかしいぜ)(文学亜流にわかるまい、ぜんたい春といふものは 気象因子の系列だぜ はじめははんの紐(ひも)を出し しまひには八重の桜をおとす それが地点を通過すれば 速さがそこにできるだらう)(さういうことを云(い)ってたら 論文なんかぐにゃぐにゃだらう)(論文なんかぱりぱりさ)」(宮沢賢治「春と修羅・第三集・一〇〇三・実験室小景」『宮沢賢治詩集・P.231~232』新潮文庫 一九九〇年)

このケースでも対話形式が取られており、さらにユーモアもある。二人の学者による対話だがどの言葉も実際に発語されることは決してない。二人ともあくまでそれぞれが<意識の流れ>に即した対話を演じる。ゆえに弁証法的な過程を経ており、したがって二人の対話は<弁証法でしかあり得ない>。そこで転がり出てきた一つの答えが「(さういうことを云(い)ってたら 論文なんかぐにゃぐにゃだらう)(論文なんかぱりぱりさ)」。

ややふざけながら対話を進行させつつ同時に二人の学者は科学界のもっと上層部に位置する「教授・博士・男爵(だんしゃく)」を目指そうとする<力への意志>でもある。目的通り明晰な論文を仕上げるためには「ぐにゃぐにゃ」だったり「ぱりぱり」だったりするような論文では無事に試験を通っていくことはできない。ところが内心では「(さういうことを云(い)ってたら 論文なんかぐにゃぐにゃだらう)(論文なんかぱりぱりさ)」と思って四角四面な体裁を取らざるを得ない「学術論文」というものを半分馬鹿にしている。一方で馬鹿にしながらもだがしかし他方では馬鹿にしている四角四面な論文というものに特有の形式に従っているし従わざるを得ない。なぜならこのような事情はそもそも「学術論文」というものに備わった形式がそう要請するからである。ニーチェから三箇所引こう。

(1)「個別的なものを《無視する》ということが、われわれが概念をもつことの原因なのであり、これとともにわれわれの認識は始まるのである。すなわち、《標題づけ》において、《諸々の類》の提示において、われわれの認識は始まるのである。だが、こうしたものに、事物の本質は対応してはいない。それは認識過程ではあるが、事物の本質を射当ててはいないのである。多くの個別的特徴が、われわれに一つの事物を規定してくれるが、すべてのものを規定してはくれない。こうした特徴の同等性が機縁となって、われわれは多くの事物を一つの概念の下に統括するようになる」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」『哲学者の書・P.319』ちくま学芸文庫 一九九四年)

(2)「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」『哲学者の書・P.352~353』ちくま学芸文庫 一九九四年)

(3)「つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形というものが存在するかのような観念を与えるのである、しかもそのさい不器用な手でもって原形の模写が行われるので、どの見本も不正確で、原形の忠実なる模写とは信用できないような結果になっているかのようなのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」『哲学者の書・P.353』ちくま学芸文庫 一九九四年)

科学はよりいっそう専門化し細分化されていくだろう。その意志の強烈さには次のように他を寄せつけない過酷な何かがある。

「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫 二〇一八年)

だがしかし世界中の誰もが科学にばかり打ち込んでいられるわけはない。科学者もまた一人の生活者として食べていかなくては研究さえ途中で停止してしまうほかない。さらにメンタルヘルス大国と化して久しいアメリカではますます<癒し・余暇>の必要性が毎日のように説かれている。今や中国・ロシア・EU諸国がそれに続いている。健康な高度テクノロジー社会を目指して逆に不健康この上ない超高度テクノロジー社会を実現してしまうという逆説。なぜそんな転倒が生じてきたのか。宮本常一は「女の世間」の中でこう書いている。「女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思う」。唐突なテーマに見えて全然そうでない。少しばかり引いておこう。

「『わしゃ足が大けえてのう、十文三分をはくんじゃがーーー』。『足の大けえもんは穴も大けえちうがーーー』。『ありゃ、あがいなことを、わしらあんまり大けえないで』。『なあに、足あとの穴が大けえって言うとるのよ』。『穴が大けえと、埋めるのに骨がおれるけに』。『よっぽど元気のええ男でないとよう埋めまいてーーー』。『またあがいなことをーーー』。これも田を植えながらの早乙女たちの話である。植縄をひいて正条植をするようになって田植歌が止んだ。田植歌が止んだからと言ってだまって植えるわけではない。たえずしゃべっている。その話のほとんどがこんな話である。『この頃は田の神様も面白うなかろうのう』。『なしてやーーー』。『みんなモンペをはいて田植えするようになったで』。『へえ?』。『田植ちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行きはせんので、田の神様を喜ばして、田植を手伝うてもろうたもんじゃちうに』。『そうじゃろうか?』。『そうといの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが田の神さまがニンマリニンマリしてーーー』。『手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)』。『誰のがええかれのがええって見ていなさるちうに』。『ほんとじゃろうか』。『ほんとといの。やっぱり、きりょうのよしあしがあって、顔のきりょうのよしあしとはちがうげな』。『そりゃそうじゃろうのう、ぶきりょうでも男にかわいがられるもんがあるけえーーー』。『顔のよしあしはすぐわかるが、観音様のよしあしはちょいとわからんでーーー』。『それじゃからいうじゃないの、馬にはのって見いって』。こうした話が際限もなくつづく。『見んされ、つい一まち〔一枚〕植えてしもうたろうが』。『はやかったの』。『そりゃあんた神さまがお喜びじゃでーーー』。『わしもいんで(帰って)亭主を喜ばそうっと』。女たちのこうした話は田植の時にとくに多い。田植歌の中にもセックスをうたったものがまた多かった。作物の生産と、人間の生殖を連想する風は昔からあった。正月の初田植の行事に性的な仕草をともなうものがきわめて多いが、田植の時のエロばなしはそうした行事の残存とも見られるのである。そして田植の時などに、その話の中心になるのは大てい元気のよい四十前後の女である。若い女たちにはいささかつよすぎるようだが話そのものは健康である。早乙女の中に若い娘のいるときは話が初夜の事になることが多い。『昔、嫁にいった娘がなくなく戻ったんといの』。『へえ?』。『親がわりゃァなして戻って来たんかって、きいたら、婿が夜になると大きな錐(きり)を下腹へむみ込うでいとうてたまらんけえ戻ったって言ったげな』。『へえ』。『お前は馬鹿じゃのう、痛かったらなして唾(つば)つけんか、怪我したら<親の唾、親の唾>って疵口(きずぐち)へつばをつけるとつい痛みがとまるじゃないか。それぐらいの事ァ知っちょろうがって言うたんといの』。『あんたはどうじゃったの』。『わしらよほどよばいど(夜這い奴)に鉢を割られてしもうてーーー』。『今どうじゃろうか。昔は何ちうじゃないの、はじめての晩には柿の木の話をしたちう事じゃがーーー』。『どがいな話じゃろうか』。『婿がのう、うちの背戸に大きな柿の木があって、ええ実がなっちょるが、のぼってもよかろうかって嫁に言うげな、嫁がのぼりんされちうと、婿がのって実をもいでもえかろうかちうと、嫁がもぎんされって、それでしたもんじゃそうなーーー』。私は毎年の田植をたのしみにしているのである。そこで話される話は去年の話のくりかえされる事もあるが、そうでない話の方が多い。声をひそめてはなさねばならぬような事もあるが、隣合った二人でひそひそはなしていると『ひそひそ話は罪つくり』と誰かが言う。エロ話も公然と話されるものでないとこうしたところでは話されない。それだけに話そのものは健康である。そのなかには自分の体験もまじっている。このような話は戦前も戦後もかわりなくはなされている。性の話が禁断であった時代にも農民のとくに女たちの世界ではこのような話もごく自然にはなされていた。そしてそれは田植ばかりでなく、その外の女たちだけの作業の間にもしきりにはなされる。全く機智があふれており、それがまた仕事をはかどらせるようである。無論、性の話がここまで来るに長い歴史があった。そしてこうした話を通して男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味している。したがって女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない。女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである」(宮本常一「女の世間」『忘れられた日本人・P.126~130』岩波文庫 一九八四年)

この論文冒頭に次の一節が掲げられている。

「女はまた、共同体の中で大きな紐帯(じゅうたい)をなしていたが、それは共同体の一員であるまえに女としての世間を持ち、そこではなしあい助けあっていた」(宮本常一「女の世間」『忘れられた日本人・P.105』岩波文庫 一九八四年)

女性たちはなぜ何のためにこれまで苦しんできたか。そしてさらに今は何によって苦しめられつつあるか。打ち続く<戦乱と貧困>が特に女性たちに対して押しつけてくる諸問題の共有とその解決へ向けた過程の模索。それは高度テクノロジーの爆発的発展によってようやく告発され世界中のありとあらゆるところで歴然たる社会問題として取り扱われるまでに至った。この問いはなるほど相反する傾向を持ち合わせてはいる。にもかかわらず女性たちの問題意識は遂に国境を打ち破り大規模な広がりと基本的人権に則した権利とを獲得しつつある。障壁になっているのは一体なんなのだろうか。知っているのに知らないふりをしている人間はまだまだ多いと言わなければならない。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・<戦乱・貧困・密造酒>「税務署長の冒険」

2021年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
物価高騰と打ち続く飢饉、さらにあちこちでまかり通る低賃金重労働のため、どの地方へ行っても多くの人々が一家ともども疲弊・餓死に直面していた時期。アメリカ発の株価大暴落が引き金となって世界中に広がった不景気の嵐。日本では大正から昭和に至ってなお一層事態は悪化の一途をたどっていた。そのため義務として定められたとしてもなお納税できなくなる世帯は急速に増大する。当り前のことだ。しかも当時の日本には社会保障制度などあってないに等しい。娯楽も江戸時代には普通にあったものがどんどん禁止され犯罪に問われるようになってきていた。すると<癒(いや)し><愉(たの)しみ>を奪われた全国至るところで密造酒の闇製造・闇販売が多発してくる。他の地方都市ばかりでなくイーハトヴでも「濁(にご)り酒」(密造酒)の大量生産が秘密裡に行われているという情報が当局に入ってきた。そんな時、あくまでも勤務に忠実であろうとしてイーハトヴに派遣されている或る一人の税務署長がいた。数少ないもののほんの僅かの情報を手がかりに摘発に乗り出す。小学校を借りて村の名誉村長・村長・村会議員・小学校長など、村の主だった人々たちの前で講演も行う。税務署長は講演の中でこう論じる。

「『濁密をやるにしてもさ、あんまり下手なことはやってもらいたくないな。なぁんだ味噌桶(みそおけ)の中に、醪(にごりざけ)を仕込(しこ)んで上に板をのせて味噌を塗(ぬ)って置く、ステッキでつっついて見るとすぐ板がでるじゃないか。厩(うまや)の枯草(かれくさ)の中にかくして置く、いい馬だなあ、乳もしぼれるかいと云うと顔いろを変えている。新らしい肥樽(こえだる)の中に仕込んで林の萱(かや)の中に置く。誰(たれ)かにこっそり持って行かれても大声で怒られない。煤(すす)だらけの天井裏(てんじょううら)にこさえて置いて取って帰って来るときは眼(め)をまっ赤にしている。できあがった酒(もの)だって見られたざまじゃない。どうせにごり酒だから濁(にご)っているのはいいとしても酸(す)っぱいのもある、甘(あま)いのもある。アイヌや生蕃(せいばん)にやってもまあご免蒙(こうむ)りましょうというようなものだ。そんなものはこの電燈(でんとう)時代の進歩した人類が呑むべきもんじゃない。どうせやるならまぜもう少し大仕掛けに設備を整えて共同ででもやらないか。すべからく米も電気で研(と)ぐべし、しぼるときには水圧機を使うべし、乳酸菌(きん)を利用し、ピペット、ビーカー、ビュウレット立派な化学の試験器械を使って清潔に上等の酒をつくらないか。もっともその時は税金は出して貰(もら)いたい。そう云うふうにやるならばわれわれは実に歓迎(かんげい)する。技師やなんかの世話までして上げてもいい。こそこそ半分こうじのままの酒を三升つくって罰金(ばっきん)を百円とられるよりは大びらでいい酒を七斗(と)呑めよ』」(宮沢賢治「税務署長の冒険」『ポラーノの広場・P.272~273』新潮文庫 一九九五年)

もし「濁(にご)り酒(ざけ)の密造」=「濁密(だくみつ)」に関わっている人間がその場にいればたちまち引っかかりの一つも見せるだろうというような内容である。だがその場に集まった人々はみんな愉快そうな面持ちをたたえている。税務署長は次にこう話す。

「『正直を云うとみんながどんなにこっそり濁密をやった所でおれの方ではちゃんとわかっている。この会衆の中にも七人のおれの方への密告者がまじっているのだ』」(宮沢賢治「税務署長の冒険」『ポラーノの広場・P.274』新潮文庫 一九九五年)

一瞬みんなは「しいん」となった。しかしそれは密造に関わっている人間の心境を追いつめたからではまるでない。この時の「しいん」は<そんな馬鹿な話があるか?>と<この税務署長の頭は確かか?>という意味の込もった「しいん」であって、言葉を置き換えると<しらけ>に等しい。すでに「しいん」の意味は詩人=賢治の手腕によって二重化されている。ところがさらに税務署長は打ち重ねて言葉をぶつけてみる。

「『おれの方では誰の家の納屋(なや)の中に何斗あるか誰の家の床下に何升あるかちゃんと表になってあるのだ』」(宮沢賢治「税務署長の冒険」『ポラーノの広場・P.274』新潮文庫 一九九五年)

すると税務署長の配下を除いて、学校に集まっていた「みんなが一斉に面白そうにどっと吹(ふ)き出し」てしまった。税務署長の講演はものの見事に失敗した。

大恥をかかされ苦湯(にがゆ)を飲まされた税務署長。「ハーナムキヤ」(「花巻」の言い換え)に戻って何かいい方法はないかと考える一方、官吏として公然と動ける配下の「シラトリ属」に命じて地域社会の内偵に奔走させる。税務署長自身は「トケイ(東京)の乾物商」に変装して村一帯を「探偵(たんてい)」することにした。地域社会をうろうろするだけでなく、事情次第では山間部の奥深くに入ることも十分考えられるため、名目は「椎蕈(しいたけ)取り」。小学校の向いにある「産業組合事務所」で「椎蕈(しいたけ)山」の場所を尋ねる。組合といっても小さな小屋。そこで道を聞いて少しばかり歩いたら道が二つに分かれている。迷っていると「十五ばかりになる子供が草をしょって来る」のが見えた。乾物商に変装した税務署長はその子供に道を尋ねる。ここで作品は大きく転回する。

「『おい、椎蕈山へはどう行くね』。すると子供はよく聞えないらしく顔をかしげて眼を片っ方つぶって云った。『どこね、会社へかね』。会社、さあ大変だと署長は思った。『ああ会社だよ。会社は椎蕈山とは近いんだろう』。『ちがうよ。椎蕈山はこっちだし会社ならこっちだ』。『会社まで何里あるね』。『一里だよ』。『どうだろう。会社から毎日荷馬車の便りがあるだろうか』。『三日に一度ぐらいだよ』」(宮沢賢治「税務署長の冒険」『ポラーノの広場・P.291~292』新潮文庫 一九九五年)

小説そのものが迷走を始めようとした瞬間、小説が進むべき過程を修正しに登場してきたのはまたしても「子供」。他の賢治作品と同じく子どもに重要な役割が与えられているわけだが、その理由は子ども向けの<童話・童謡>だからではない。或る種の「子ども」=「童子」に特権的役割が与えられるのは奈良時代や平安時代のようなずっと古い時代に属する古典でも同様である。むしろそうでなければならない歴然たる理由があった。それは軍記物の「平家物語」や舞いの「築島」に出てくる「人柱」信仰を見ても明らかである。またそのようなケースの「童子」の特徴として<性別未分化>という重要な条件を上げておかねばならない。

それはそれとして。税務署長は大掛かりな密造所を発見するのだが密造所の小屋の中の暗闇で自ら手に持っていた「アセチレンの火」を発見されてしまう。逃げようとしたが取っ捕まってしまった。変装しているので相手にはわからないが、そこにいたのは村の「名誉村長・村長・村会議員・小学校長」。あとはそこで働いているただの作業員。名誉村長に首ねっこをつまみあげられ外へ連れ出された税務署長の顔も陽光に照らされてばれてしまう。誰の言葉かわからないがこう言う声が響いた。

「『木へ吊(つ)るせ吊るせ。なあに証拠だなんてまあ挙がってる筈(はず)はない。こいつ一人片付ければもう大丈夫だ。樺花(かばはな)の炭釜(すみがま)に入れちまえ』」(宮沢賢治「税務署長の冒険」『ポラーノの広場・P.302』新潮文庫 一九九五年)

税務署長は気を失って倒れた。小屋の中で二、三日気絶していた模様である。そこへ名誉村長が直談判にやって来た。

「名誉村長は座って恭(うやうや)しく礼をして云った。『署長さん。先日はどうも飛んだ乱暴をいたしました。実は前後の見境いもなくあんなことをいたしましてお申し訳けございません。実は私どもの方でもあなたの方のお手入があんまり厳しいためつい会社組織にしてこんなことまでいたしましたような訳で誠(まこと)に面目次第もございません。就(つ)きましてはいかがでございましょう。私どもの会社ももうかっきり今日ぎり解散いたしまして酒は全部私の名義でつくったとして税金も納めます。あなたはお宅まで自働車でお送りいたしますがこの度限り特にご内密にねがいませんでしょうか』。署長はもう勝ったと思った。『いやお語(ことば)で痛み入ります。私も職務上いろいろいたしましたがお立場はよくわかって居ります。しかしどうも事ここに至れば到底(とうてい)内密ということはでき兼ねる次第です。もう談(はなし)がすっかりひろがって居りますからどうしても二、三人の犠牲者(ぎせいしゃ)はいたし方ありますまい。尤(もっと)も私に関するさまざまのことはこれは決して公(おおやけ)にいたしません。まあ罰金(ばっきん)だけ納めて下さってそれでいいような訳です』」(宮沢賢治「税務署長の冒険」『ポラーノの広場・P.304』新潮文庫 一九九五年)

どうしても税金だけは支払いたくないらしい。ところが税務署長の単独行動と並行して水面化で動いていた「シラトリ属」が警察も動員して村で二十人ばかり捕縛するのに成功。税務署長奪還のためようやく山奥の密造所へ乗り込んできた。関係者一同一斉検挙。「イーハトブ密造会社の工場」をぞろぞろと出た。しかしなぜ作者=賢治は密造所を指してわざわざ「イーハトブ密造会社の工場」と書いたのか。明治・大正・昭和と、民衆の生活苦は大変なもので低賃金重労働のわりには税金ばかりが一方的に跳ね上がっていく状況は全国的だった。そしてまた濁酒密造は「イーハトブ」とて例外でなく、むしろ<戦乱と飢饉>に見舞われて真っ先に打撃を受ける東北地方以北地域では当り前だったからに過ぎない。しかしそのような地方の苦悩を受け止めない「東京=中央」に対するどうしようもない違和感が賢治にパロディという方法を思いつかせた。それが賢治にできる精一杯の抵抗だったのかも知れない。

実際の宮沢賢治は作品「ポラーノの広場」で明らかなように飲酒に対して否定的である。法華経主義者としてはよりいっそう当然の態度である。しかし民衆からどんどん奪われていくものとそれに対する日本政府からのお返しとの《不均衡》がじわじわと国家を蝕んでいく元凶になるだろうという<読み>は当時の知識人たち共通の危機感にほかならない。一九三一年(昭和六年)満州事変勃発。賢治はもう三十五歳。その二年後、三十七歳で死去。一方、日本政府はわだかまり続ける国民の不満を内部に溜め込ませず逆に外国へ向け換えることに成功する。

なお、市長や議員や学校長を始めとして地域全体が「ぐる」になって利権と汚職にまみれているという状況設定は一九二〇年代のアメリカではもはや当り前であって、例えばダシール・ハメット「血の収穫」などはそのような時期に書かれた先駆的作品として名高い。また「税務署長の冒険」で「濁り酒」と「清酒」との区別がつかなかった点はミステリの謎解きに相当するためここでは省略。

BGM1

BGM2

BGM3