前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
「震旦(しんだん)ノ上定林寺(じやうぢやうりんじ)」は今の中国江蘇省江寧府にある仏教寺院。そこに普明(ふみやう)という一人の僧がいた。「臨渭(りんゐ)」(甘粛省奉安県東南部)の出身。幼少時に出家して懺悔に専心し、それを生業(なりわい)としていた。
普明が法花経を読誦すると普賢菩薩が六牙の白象に乗って現れ光を放つ。維摩経を読誦すると容姿端麗な大勢の采女(うねめ)らが雅楽に合わせて舞を舞い歌を詠じる音(こゑ)が大空にまで満ち満ちた。さらに真言(しんごん)・陀羅尼(だらに)を祈り始めると誰もが救われ著しい癒しの力を見せつけるのだった。
「法花経ノ普賢品(ふげんぼん)ヲ読誦スル時ニハ、普賢菩薩(ふげんぼさつ)、六牙(ろくげ)ノ白象(びやくざう)ニ乗(じよう)ジテ、光ヲ放(はなち)テ其ノ所ニ現ジ給フ。維摩経ヲ読誦スル時ニハ、妓楽(ぎがく)・歌詠(かえい)、虚空(こくう)ニ満(みち)テ、其ノ音(こゑ)ヲ聞ク。亦、神呪(じんじゆ)ヲ以テ祈(いのり)乞フ事、皆其ノ験(しるし)新(あら)タ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十六・P.117」岩波書店)
普賢菩薩と「六牙(ろくげ)ノ白象(びやくざう)」について法華経にこうある。
「我爾時乗 六牙白象王
(書き下し)われ(普賢菩薩)はその時、六牙(ろくげ)の白象王(びやくぞうおう)に乗り」(「法華経・下・巻第八・普賢菩薩勧発品・第二十八・P.320」岩波文庫)
また、「十万種の伎楽(ぎがく)」にも言及が見える。
「過去有仏 名雲雷音王。多陀阿伽度。阿羅訶。三藐三仏陀。國名現一切世間。劫名喜見。妙音菩薩。於万二千歳。以十万種伎楽。供養雲雷音王仏。幷奉上。八万四千七寶鉢。以是因緣果報。今生浄華宿王智仏國。有是神力。
(書き下し)過去に仏有(いま)せり、雲雷音王多陀阿阿伽度(うんらいおんおうただあかど)・阿羅訶(あらか)・三藐三仏陀(さんみやくさんぶつだ)と名づけたてまつる。国をば現一切世間(げんいつさいせけん)と名づけ、劫をば喜見と名づく。妙音菩薩は万二千歳において、十万種の伎楽(ぎがく)をもって、雲雷音王仏を供養し、幷びに八万四千の七宝の鉢を奉上(たてま)つれり。この因縁の果報を以って、今、浄華宿王智仏(じようけしゆくおうちぶつ)の国に生れて、この神力(じんりき)有り」(「法華経・下・巻第七・妙音菩薩品・第二十四・P.228」岩波文庫)
さらに維摩経の一節から引用したとされる世阿弥作「山姥(やまんば)」に「舞歌(ぶが)音楽の妙音」とある。
「道を極め名を立(な)てて、世上万徳(せじやうばんとく)の妙華(めうくわ)を開く事、此一曲の故(ゆへ)ならずや、然らばわらはが身ををとぶらひ、舞歌(ぶが)音楽の妙音の、声(こゑ)仏事をもなし給はば、などかわらはも輪廻を逃(のが)れ、帰性(きしやう)の善所(ぜんしよ)に至(いた)らざらんと」(新日本古典文学体系「山姥」『謡曲百番・P.162~163』岩波書店)
また「神呪(じんじゆ)」は密教でいう短い呪文の「真言(しんごん)」と長い呪文の「陀羅尼(だらに)」とを指す。
そんな折、王遁(わうとん)という男性の妻が重病に陥った。その苦痛はとてもではないが堪え難いという。夫の王遁はすぐ普明に請うて祈祷してくれるよう嘆願した。王遁の招きを引き受けた普明は王遁の家に到着。普明が家の門を入ると同時に王遁の妻は気を失って倒れてしまった。その時、普明は一つの生き物を見た。猫に似ている。体長約60〜90センチ。それがなぜか犬の穴から飛び出してきた。と、途端に妻の病は治癒した。
「普明、王遁ガ請(しよう)ニ依(より)テ其ノ家ニ至ル間、既ニ門ヲ入ル時ニ、其ノ妻(め)悶絶(もんぜつ)シテ、其ノ時ニ、普明、一ノ生(いき)タル者ヲ見ルニ、狸(ねこ)ニ似タリ。長サ数尺許(ばかり)也。犬ノ穴ヨリ出(いで)ヌ。其ノ時ニ、王遁ガ妻(め)ノ病愈(いえ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十六・P.117」岩波書店)
また或る時、普明が道を歩いていると、水辺で祭祀が執り行われているところに出くわした。巫覡(かむなぎ)=神子(みこ)・巫女(みこ)は普明に向かっていう。「神が普明の姿を見てみんな逃げ去ってしまった」。
「普明、昔、道ヲ行(ゆき)ケル間、人有(あり)テ水ノ辺(ほとり)ニシテ神ヲ祭ル事有(あり)ケリ。巫覡(かむなぎ)其ノ所ニ有(あり)テ、普明ヲ見テ云(いは)ク、『神、普明ヲ見テ皆走リ逃(にげ)ス』トナム云ヒケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十六・P.118」岩波書店)
さて。法華経にせよ維摩経にせよ密教の神呪にせよ、ここでの出現の仕方はいずれも言語と音楽である点に注意したい。普明は弓矢や刀剣類は身に付けず、ただひたすら言語と音楽でのみその任務を達成している。この意味で普明の言語と音楽は貨幣に等しい。補足しておくと、猫に似ており犬の穴から飛び出してきた物の正体は「狐(きつね)」。王遁の妻の病気の原因は狐に憑依されたことによるとされる。中国には「二尾の狐」伝説がある。日本では「玉藻前(たまものまえ)」伝説が有名。絶世の美女に化けて、もう少しのところで鳥羽院の全リビドーを吸い取って命を奪い去ってしまう直前まで持っていった桁違いの妖狐伝説として根強く残る。
「玉藻前(たまものまえ)」伝説がなぜ発生したかについて、朝廷の摂関家トップの座を争って藤原忠実(ただざね)とその次男藤原頼長(よりなが)との対立関係があったことは以前既に論じた。忠実は東寺の支配下に入った伏見稲荷信仰の側。頼長は従来の陰陽道の側。陰陽道で狐は男性を誘惑する「陰獣(いんじゅう)」とされていた。両者は親子の間柄だがそもそも価値観が対立していたため馬が合うわけがない。そして玉藻前は久寿二年(一一五五年)、那須野(なすの)の草原を老狐姿でいるところを何本もの箭(や)で射抜かれ殺害された。その翌年、保元一年(一一五六年)に鳥羽院死去。「保元の乱」勃発。華やかな王朝時代は没落し血で血を洗う武家政権へと移っていく。
さらに江戸時代。路傍で寝ていた狐をいじめ殺した女性が、後になって発狂し、逆に狐の怨霊に呪い殺された話が「甲子夜話」に見える。
「平戸の郷医に玄丹と云ありしが、或時病人あり迚(とて)呼に来る。村家のことゆゑ夫の病は婦来り、自ら薬箱を持ち且つ嚮導す。玄丹即(すなはち)出てともに行く。半途にして路傍に狐の臥(ふす)を見る。かの婦云。狐を窘(くるし)め見せ申さんやと。玄丹曰。よからん。婦乃(すなはち)手にて己が咽をしめたれば、向に臥(ふせ)ゐたる狐驚起(おどろきたち)て苦きさまなり。婦また云ふ。今少し困(くる)しめ候はん迚(とて)、両手にて咽を弥々強くしめたれば、狐ますます苦しみて息出ざる体なり。夫より婦、己が息の出ざるほどに咽をしめたれば、狐即悶絶したり。玄丹笑て去り、病人を診(うらな)ひ薬を与へて還れり。然るに四、五日を過て復(また)同処より病人あり迚(とて)呼に来る。玄丹先の病再発なるやと思ひ、往て見るに、此度は先日の婦の発狂せる体なり。聞けば狐のつきたるにて、さまざまの譫語(うはごと)し、汝にくきやつなり。先に我が寐(いね)ゐたるを種々に苦しめ、後は悶絶までさせたり。夫とは知ずして有りしが、其後近処の人に其ことを語て笑ひ罵りたるを伝聞(つたへきけ)り。今其怨を酬ひ汝をとり殺すなりと云ふ。玄丹も覚有ることゆゑ驚て聞居たりと云。其後のことは不知」(「甲子夜話1・巻十四・十七・P.240」東洋文庫)
もう一つ、押さえておこう。
「水ノ辺(ほとり)ニシテ神ヲ祭ル」とあるのは仏教伝播以前からその地で信仰されていた土着の神の祭祀であり、この場合は水辺なので恐らく「水神(みずのかみ)」。それ以後、そこが或る秩序〔価値体系〕と別の秩序〔価値体系〕との境界になる。仏教へ転向した者たちが多い一方、山間部へ移動した者たちもまた多い。定住民と移動民との接触という見地から見れば大変重要。
「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫)
日本では柳田國男がこう述べている。
「最初は麓の方から駆け登ったとしても、いったん山に入ってから後は遷徙(せんし)移動に至っては、全然下界と没交渉にこれを行うことができる処ばかりである。九州で申さば今でもこの徒の活動しているのは彦山と霧島の連山である。阿蘇火山の東側の外輪山を通ればほとんど無人の地のみである。ただ阪梨(さかなし)の峠を鉄道が横ぎるようになったら彼等は大いに面食うことになるであろう。四国では石鎚山彙(いしづちさんさんい)と剣山の奥が本拠であるらしい。吉野川の上流には処々に閑静な徒渉(としょう)場があるのみならず、多くの山の峯は白昼大手を振って往来しても見咎(みとが)める者もなく、必要があればちょっと鬱散る(うつさん)のために海岸に出てみることも自由である。それから本土においても彼等にとって不退の領土がある。前に述べた大井川の上流から、たとえば木曽の親類を訪問するにも良い路が幾筋もある。赤石・農鳥(のうとり)に就いて北に向えば、高遠(たかとお)の町の火を眼下に見つつ、そっと蓼科(たてしな)の方へ越えることもできる。夜行の貨物列車に驚かされるのが厭(いや)なら、守屋岳(もりやだけ)の峯伝いに岡谷の製糸工場のすこし下流で天竜川を渡ってもよろしい。塩尻峠や鳥居峠では日本人の方が閉口して地の底を俯伏(ふふく)している。山人にとってはおそらくは里近い平野が我々の方の山路、峠路に該当することであろう。我々の旅人が麓の宿の旅籠(はたご)に泊って明日の山越えの用意をするように、彼等はまた一人旅の昼道は危いなどと、言っているかも知れぬ」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.393』ちくま文庫)
さらに。
「秋葉の奥山のごときもまた安全な路線である。天竜の峡谷で足を沾(ぬら)すことさえ承知ならば、何の骨折りもなく木曽駒ヶ岳一帯の幹路に取り附き得る。木曽から立山へ、または神通(じんずう)川が面倒なら位山(くらいやま)・川上岳の峯通に直接に白山に掛り能郷(のうご)の白山から夜叉池(やしゃがいけ)の霊地を巡遊して、北国海道などは一飛(ひととび)に比良(ひら)にも鞍馬(くらま)にも比叡にも愛宕(あたご)にも出られ、柳桜の平安城を指点して、口先だけならば将門(まさかど)・純友(すみとも)の豪語もなし得たのである。それから西へ行けば大山・三瓶(さんべ)山、因幡・出雲にも小さな植民地がある。また熊野の奥へ越えるのには逢阪山(おうさかやま)に往来の人がちと多過ぎる。ゆえに湖東胆吹山(いぶきやま)の筋を迂回(うかい)して伊勢・大和の境山へ行く。路はやや遥かではあるが住心地(すみごこち)の好い南の海辺である。夜寒の苦が少なくしてかつ白く柔かい海の魚を取り得る望みもある。伊豆の天城(あまぎ)よりは近所で静かでよい。夏になれば富士川を越えて東北の新天地にも遊ぶことができる。富士の八湖を左手にして籠阪(かごさか)を夜半に横ぎり、笹子(ささご)・大菩薩(だいぼさつ)を経て秩父(ちちぶ)の奥に行けばゆるりと休息する。荒船から碓氷(うすい)にかかり浅間の中腹を伝って、左に折れて戸隠・黒姫・妙高山附近の故郷を訪ねるもよし、あるいはまた白根から南会津に入れば、只見川の水源地のごときは安楽国の一である。駒ヶ岳・飯豊(いいで)・朝日岳まで行けば広い国と大きな海が見える。鳥海山(ちょうかいさん)へは大分迂回せねばならぬが、奥州境の山に沿うて北秋田に入り、田代・岩木の山に行けば多くの同類がいる。阿仁(あに)から岩手山の方に出てもよし、鹿角(かづの)の沢へ下ると銅山の煙には弱るが、北上川の分水嶺を過ぎて東海の荒浜の見える閉伊(へい)の山地にも落ち付くことができる」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.394』ちくま文庫)
家郷とはどこか。そして世阿弥の描いた「山姥」はなぜ「鬼女」の姿で出現しなくてはならなかったのか。自然生態系に壊滅的打撃を与え、原発汚染水を海に垂れ流して顧みない今の日本政府にはもはや何一つ見えないだろう。ニーチェのいうように神の殺害者はなるほど人間だというほかない。問題の根は遥かに深い。
BGM1
BGM2
BGM3
「震旦(しんだん)ノ上定林寺(じやうぢやうりんじ)」は今の中国江蘇省江寧府にある仏教寺院。そこに普明(ふみやう)という一人の僧がいた。「臨渭(りんゐ)」(甘粛省奉安県東南部)の出身。幼少時に出家して懺悔に専心し、それを生業(なりわい)としていた。
普明が法花経を読誦すると普賢菩薩が六牙の白象に乗って現れ光を放つ。維摩経を読誦すると容姿端麗な大勢の采女(うねめ)らが雅楽に合わせて舞を舞い歌を詠じる音(こゑ)が大空にまで満ち満ちた。さらに真言(しんごん)・陀羅尼(だらに)を祈り始めると誰もが救われ著しい癒しの力を見せつけるのだった。
「法花経ノ普賢品(ふげんぼん)ヲ読誦スル時ニハ、普賢菩薩(ふげんぼさつ)、六牙(ろくげ)ノ白象(びやくざう)ニ乗(じよう)ジテ、光ヲ放(はなち)テ其ノ所ニ現ジ給フ。維摩経ヲ読誦スル時ニハ、妓楽(ぎがく)・歌詠(かえい)、虚空(こくう)ニ満(みち)テ、其ノ音(こゑ)ヲ聞ク。亦、神呪(じんじゆ)ヲ以テ祈(いのり)乞フ事、皆其ノ験(しるし)新(あら)タ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十六・P.117」岩波書店)
普賢菩薩と「六牙(ろくげ)ノ白象(びやくざう)」について法華経にこうある。
「我爾時乗 六牙白象王
(書き下し)われ(普賢菩薩)はその時、六牙(ろくげ)の白象王(びやくぞうおう)に乗り」(「法華経・下・巻第八・普賢菩薩勧発品・第二十八・P.320」岩波文庫)
また、「十万種の伎楽(ぎがく)」にも言及が見える。
「過去有仏 名雲雷音王。多陀阿伽度。阿羅訶。三藐三仏陀。國名現一切世間。劫名喜見。妙音菩薩。於万二千歳。以十万種伎楽。供養雲雷音王仏。幷奉上。八万四千七寶鉢。以是因緣果報。今生浄華宿王智仏國。有是神力。
(書き下し)過去に仏有(いま)せり、雲雷音王多陀阿阿伽度(うんらいおんおうただあかど)・阿羅訶(あらか)・三藐三仏陀(さんみやくさんぶつだ)と名づけたてまつる。国をば現一切世間(げんいつさいせけん)と名づけ、劫をば喜見と名づく。妙音菩薩は万二千歳において、十万種の伎楽(ぎがく)をもって、雲雷音王仏を供養し、幷びに八万四千の七宝の鉢を奉上(たてま)つれり。この因縁の果報を以って、今、浄華宿王智仏(じようけしゆくおうちぶつ)の国に生れて、この神力(じんりき)有り」(「法華経・下・巻第七・妙音菩薩品・第二十四・P.228」岩波文庫)
さらに維摩経の一節から引用したとされる世阿弥作「山姥(やまんば)」に「舞歌(ぶが)音楽の妙音」とある。
「道を極め名を立(な)てて、世上万徳(せじやうばんとく)の妙華(めうくわ)を開く事、此一曲の故(ゆへ)ならずや、然らばわらはが身ををとぶらひ、舞歌(ぶが)音楽の妙音の、声(こゑ)仏事をもなし給はば、などかわらはも輪廻を逃(のが)れ、帰性(きしやう)の善所(ぜんしよ)に至(いた)らざらんと」(新日本古典文学体系「山姥」『謡曲百番・P.162~163』岩波書店)
また「神呪(じんじゆ)」は密教でいう短い呪文の「真言(しんごん)」と長い呪文の「陀羅尼(だらに)」とを指す。
そんな折、王遁(わうとん)という男性の妻が重病に陥った。その苦痛はとてもではないが堪え難いという。夫の王遁はすぐ普明に請うて祈祷してくれるよう嘆願した。王遁の招きを引き受けた普明は王遁の家に到着。普明が家の門を入ると同時に王遁の妻は気を失って倒れてしまった。その時、普明は一つの生き物を見た。猫に似ている。体長約60〜90センチ。それがなぜか犬の穴から飛び出してきた。と、途端に妻の病は治癒した。
「普明、王遁ガ請(しよう)ニ依(より)テ其ノ家ニ至ル間、既ニ門ヲ入ル時ニ、其ノ妻(め)悶絶(もんぜつ)シテ、其ノ時ニ、普明、一ノ生(いき)タル者ヲ見ルニ、狸(ねこ)ニ似タリ。長サ数尺許(ばかり)也。犬ノ穴ヨリ出(いで)ヌ。其ノ時ニ、王遁ガ妻(め)ノ病愈(いえ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十六・P.117」岩波書店)
また或る時、普明が道を歩いていると、水辺で祭祀が執り行われているところに出くわした。巫覡(かむなぎ)=神子(みこ)・巫女(みこ)は普明に向かっていう。「神が普明の姿を見てみんな逃げ去ってしまった」。
「普明、昔、道ヲ行(ゆき)ケル間、人有(あり)テ水ノ辺(ほとり)ニシテ神ヲ祭ル事有(あり)ケリ。巫覡(かむなぎ)其ノ所ニ有(あり)テ、普明ヲ見テ云(いは)ク、『神、普明ヲ見テ皆走リ逃(にげ)ス』トナム云ヒケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十六・P.118」岩波書店)
さて。法華経にせよ維摩経にせよ密教の神呪にせよ、ここでの出現の仕方はいずれも言語と音楽である点に注意したい。普明は弓矢や刀剣類は身に付けず、ただひたすら言語と音楽でのみその任務を達成している。この意味で普明の言語と音楽は貨幣に等しい。補足しておくと、猫に似ており犬の穴から飛び出してきた物の正体は「狐(きつね)」。王遁の妻の病気の原因は狐に憑依されたことによるとされる。中国には「二尾の狐」伝説がある。日本では「玉藻前(たまものまえ)」伝説が有名。絶世の美女に化けて、もう少しのところで鳥羽院の全リビドーを吸い取って命を奪い去ってしまう直前まで持っていった桁違いの妖狐伝説として根強く残る。
「玉藻前(たまものまえ)」伝説がなぜ発生したかについて、朝廷の摂関家トップの座を争って藤原忠実(ただざね)とその次男藤原頼長(よりなが)との対立関係があったことは以前既に論じた。忠実は東寺の支配下に入った伏見稲荷信仰の側。頼長は従来の陰陽道の側。陰陽道で狐は男性を誘惑する「陰獣(いんじゅう)」とされていた。両者は親子の間柄だがそもそも価値観が対立していたため馬が合うわけがない。そして玉藻前は久寿二年(一一五五年)、那須野(なすの)の草原を老狐姿でいるところを何本もの箭(や)で射抜かれ殺害された。その翌年、保元一年(一一五六年)に鳥羽院死去。「保元の乱」勃発。華やかな王朝時代は没落し血で血を洗う武家政権へと移っていく。
さらに江戸時代。路傍で寝ていた狐をいじめ殺した女性が、後になって発狂し、逆に狐の怨霊に呪い殺された話が「甲子夜話」に見える。
「平戸の郷医に玄丹と云ありしが、或時病人あり迚(とて)呼に来る。村家のことゆゑ夫の病は婦来り、自ら薬箱を持ち且つ嚮導す。玄丹即(すなはち)出てともに行く。半途にして路傍に狐の臥(ふす)を見る。かの婦云。狐を窘(くるし)め見せ申さんやと。玄丹曰。よからん。婦乃(すなはち)手にて己が咽をしめたれば、向に臥(ふせ)ゐたる狐驚起(おどろきたち)て苦きさまなり。婦また云ふ。今少し困(くる)しめ候はん迚(とて)、両手にて咽を弥々強くしめたれば、狐ますます苦しみて息出ざる体なり。夫より婦、己が息の出ざるほどに咽をしめたれば、狐即悶絶したり。玄丹笑て去り、病人を診(うらな)ひ薬を与へて還れり。然るに四、五日を過て復(また)同処より病人あり迚(とて)呼に来る。玄丹先の病再発なるやと思ひ、往て見るに、此度は先日の婦の発狂せる体なり。聞けば狐のつきたるにて、さまざまの譫語(うはごと)し、汝にくきやつなり。先に我が寐(いね)ゐたるを種々に苦しめ、後は悶絶までさせたり。夫とは知ずして有りしが、其後近処の人に其ことを語て笑ひ罵りたるを伝聞(つたへきけ)り。今其怨を酬ひ汝をとり殺すなりと云ふ。玄丹も覚有ることゆゑ驚て聞居たりと云。其後のことは不知」(「甲子夜話1・巻十四・十七・P.240」東洋文庫)
もう一つ、押さえておこう。
「水ノ辺(ほとり)ニシテ神ヲ祭ル」とあるのは仏教伝播以前からその地で信仰されていた土着の神の祭祀であり、この場合は水辺なので恐らく「水神(みずのかみ)」。それ以後、そこが或る秩序〔価値体系〕と別の秩序〔価値体系〕との境界になる。仏教へ転向した者たちが多い一方、山間部へ移動した者たちもまた多い。定住民と移動民との接触という見地から見れば大変重要。
「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫)
日本では柳田國男がこう述べている。
「最初は麓の方から駆け登ったとしても、いったん山に入ってから後は遷徙(せんし)移動に至っては、全然下界と没交渉にこれを行うことができる処ばかりである。九州で申さば今でもこの徒の活動しているのは彦山と霧島の連山である。阿蘇火山の東側の外輪山を通ればほとんど無人の地のみである。ただ阪梨(さかなし)の峠を鉄道が横ぎるようになったら彼等は大いに面食うことになるであろう。四国では石鎚山彙(いしづちさんさんい)と剣山の奥が本拠であるらしい。吉野川の上流には処々に閑静な徒渉(としょう)場があるのみならず、多くの山の峯は白昼大手を振って往来しても見咎(みとが)める者もなく、必要があればちょっと鬱散る(うつさん)のために海岸に出てみることも自由である。それから本土においても彼等にとって不退の領土がある。前に述べた大井川の上流から、たとえば木曽の親類を訪問するにも良い路が幾筋もある。赤石・農鳥(のうとり)に就いて北に向えば、高遠(たかとお)の町の火を眼下に見つつ、そっと蓼科(たてしな)の方へ越えることもできる。夜行の貨物列車に驚かされるのが厭(いや)なら、守屋岳(もりやだけ)の峯伝いに岡谷の製糸工場のすこし下流で天竜川を渡ってもよろしい。塩尻峠や鳥居峠では日本人の方が閉口して地の底を俯伏(ふふく)している。山人にとってはおそらくは里近い平野が我々の方の山路、峠路に該当することであろう。我々の旅人が麓の宿の旅籠(はたご)に泊って明日の山越えの用意をするように、彼等はまた一人旅の昼道は危いなどと、言っているかも知れぬ」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.393』ちくま文庫)
さらに。
「秋葉の奥山のごときもまた安全な路線である。天竜の峡谷で足を沾(ぬら)すことさえ承知ならば、何の骨折りもなく木曽駒ヶ岳一帯の幹路に取り附き得る。木曽から立山へ、または神通(じんずう)川が面倒なら位山(くらいやま)・川上岳の峯通に直接に白山に掛り能郷(のうご)の白山から夜叉池(やしゃがいけ)の霊地を巡遊して、北国海道などは一飛(ひととび)に比良(ひら)にも鞍馬(くらま)にも比叡にも愛宕(あたご)にも出られ、柳桜の平安城を指点して、口先だけならば将門(まさかど)・純友(すみとも)の豪語もなし得たのである。それから西へ行けば大山・三瓶(さんべ)山、因幡・出雲にも小さな植民地がある。また熊野の奥へ越えるのには逢阪山(おうさかやま)に往来の人がちと多過ぎる。ゆえに湖東胆吹山(いぶきやま)の筋を迂回(うかい)して伊勢・大和の境山へ行く。路はやや遥かではあるが住心地(すみごこち)の好い南の海辺である。夜寒の苦が少なくしてかつ白く柔かい海の魚を取り得る望みもある。伊豆の天城(あまぎ)よりは近所で静かでよい。夏になれば富士川を越えて東北の新天地にも遊ぶことができる。富士の八湖を左手にして籠阪(かごさか)を夜半に横ぎり、笹子(ささご)・大菩薩(だいぼさつ)を経て秩父(ちちぶ)の奥に行けばゆるりと休息する。荒船から碓氷(うすい)にかかり浅間の中腹を伝って、左に折れて戸隠・黒姫・妙高山附近の故郷を訪ねるもよし、あるいはまた白根から南会津に入れば、只見川の水源地のごときは安楽国の一である。駒ヶ岳・飯豊(いいで)・朝日岳まで行けば広い国と大きな海が見える。鳥海山(ちょうかいさん)へは大分迂回せねばならぬが、奥州境の山に沿うて北秋田に入り、田代・岩木の山に行けば多くの同類がいる。阿仁(あに)から岩手山の方に出てもよし、鹿角(かづの)の沢へ下ると銅山の煙には弱るが、北上川の分水嶺を過ぎて東海の荒浜の見える閉伊(へい)の山地にも落ち付くことができる」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.394』ちくま文庫)
家郷とはどこか。そして世阿弥の描いた「山姥」はなぜ「鬼女」の姿で出現しなくてはならなかったのか。自然生態系に壊滅的打撃を与え、原発汚染水を海に垂れ流して顧みない今の日本政府にはもはや何一つ見えないだろう。ニーチェのいうように神の殺害者はなるほど人間だというほかない。問題の根は遥かに深い。
BGM1
BGM2
BGM3