白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

TPPと謎の判決

2018年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
背後関係の一つは多分こういうこと。

「90年代後半のアジア通貨危機で、IMFが融資条件に要求した構造改革に米韓FTAが追い打ちをかけ、国内の公共財産がこれでもかとばかりに民営化され外資に吸い上げられた結果、格差と貧困が深刻化した韓国」(堤未果「日本が売られる・P.267」幻冬舎新書)

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日独ファシズムの相違

2018年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
大日本帝国指導者層とナチス・ドイツ指導者層のファシズムとを同じ次元で語ることは事態の展開とその素地を見誤ることになる。ナチス指導者層の多くはいわゆる「ゴロツキ」上がりの権力亡者/誇大妄想者によって占められていた。一方、大日本帝国指導者層の多くはいわゆる高学歴のエリート層に属しており、その内心は「事なかれ主義」によって占められていた。しかし、では、なぜ「事なかれ主義」の小心者エリート層が「本土決戦/一億玉砕」へと進んでいったのか。丸山真男は、国家指導部による「曖昧な事なかれ主義」体質が結果的に「本土決戦/一億玉砕」へ逆倒するのだと考えた。

「日独ファシズムが世界に対してほぼ同様な破壊と混乱と窮乏の足跡を残したにも拘らず、かしこにおける観念と行動の全き一貫性に対してここにおける両者の驚くべき《乖離》がまず顕著な対照を示している。ヒットラーは一九三九年八月二十二日、まさにポーランド侵入決行を前にして軍司令官に対して次のように述べた。『余はここに戦端開始の理由を宣伝家のために与えよう──それが尤もらしい議論であろうがなかろうが構わない。勝者は後になって我々が真実を語ったか否かについて問われはしないであろう。戦争を開始し、戦争を遂行するに当っては正義などは問題ではなく、要は勝利にあるのである』。何と仮借のない断定だろう。そこにはカール・レーヴィットのいう『能動的ニヒリズム』が無気味なまでに浮き出ている。こうしたつきつめた言葉はこの国のどんなミリタリストも敢えて口にしなかった。『勝てば官軍』という考え方がどんなに内心を占めていても、それを《公然と》自己の決断の《原則》として表白する勇気はない。却ってそれをどうにかして隠蔽し道徳化しようとする。だから、日本の武力による他民族抑圧はつねに皇道の宣布であり、他民族に対する《慈恵行為》と考えられる。それが遂には戯画化されると、『言うまでもなく皇軍の精神は皇道を宣揚し国徳を布昭するにある。すなわち一つの弾丸にも皇道がこもっており、銃剣の先にも国徳が焼き付けられておらねばならぬ。皇道、国徳に反するものあらば、この弾丸、この銃剣で注射をする』(荒木貞夫の一九三三年における演説・No.270)というように、個々の具体的な殺《りく》行為のすみずみまで『皇道』を浸透させないと気がすまない。ところが他方、ナチ親衛隊長ヒムラーによると、『一ロシア人、一チェッコ人にどういう事態が起ったかということに就いては余は寸毫の関心も持たない。──諸民族が繁栄しようと、餓死しようと、それが余の関心を惹くのは単にわれわれがその民族を、われわれの文化に対する奴隷として必要とする限りにおいてであり、それ以外にはない』と。これはまた《はっきり》しすぎていて挨拶の仕方もない次第だ。むろん国内、国外に向って色々と美しいスローガンをまきちらす点ではナチもひけをとらない。しかしナチの指導者はそれがどこまでが単なるスローガンであり、どこまでが現実であるかという《けじめ》を結構心得て用いているようである。これに反してわが軍国支配者たちは、自分でまきちらしたスローガンにいつしか引きこまれて、現実認識を曇らせてしまうのである。元朝鮮総督南次郎大将の次の答弁を見よ(No.1935)。

裁判長 どうしてあなたはそれを聖戦と呼ばれたのですか。
南証人 《その当時の言葉が一般に『聖戦』といっておりましたので》その言葉を申したのです。
コミンズ・カー検察官 その『聖』ということ、対中国戦争のどこにその『聖』という字を使うようなことがあるのでしょう。(後略)
南証人 そう詳しく考えておったのではなくして当時これを『聖戦』と一般に云っておったものですから、《ついそういう言葉を使ったのです。侵略的なというような戦ではなくして、状況上余儀なき戦争であったと思っておったのでありました》」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.96~97」未来社)

軍国主義とかファシズムといっても大日本帝国指導者層とナチス・ドイツ指導者層とでは考え方が違っている。「侵略」についてナチスは「当然のこと」として自覚的に遂行するが、一方の大日本帝国は「自己欺瞞」の反復としてそうした。この違いは大きい。日本の場合、「侵略」宣伝に際して「倫理/道徳のため」というスプレーが吹きかけられていて容易にわかりづらい様相を呈している。

「さらに元上海派遣軍総司令官松井石根大将の場合を見よう。彼は口供書で日華事変の本質を次のように規定している。

#抑も日華両国の闘争は所謂『亜細亜の一家』内に於ける兄弟喧嘩にして──《恰も一家内の兄が忍びに忍び抜いても猶且つ乱暴を止めざる弟を打擲するに均しく》其の之を悪むが為にあらず《可愛さ余っての反省を促す手段》たるべきことは余の年来の信念にして──。#

これは必ずしも後でくっつけた理屈ではないらしい。上海に派遣される際、大アジア協会有志送別会の席上でも『自分は戦に行くというよりも兄弟をなだめるつもりで行くのだ』とあいさつしている(下中弥三郎氏の証言)。可愛さ余っての打擲の結果は周知のような目を蔽わせる南京事件となって現われた。支配権力はこうした道徳化によって国民を欺瞞し世界を欺瞞したのみでなく、なにより《自分自身》を欺瞞したのであった。我国で上層部に広い交際を持ったグルー元駐日大使もこうした自己欺瞞とリアリズムの欠如に驚かされた一人である。いわく、

#私は百人中にたった一人の日本人ですら、日本が事実上ケロッグ条約や九ヶ国条約や連盟規約を破ったことを本当に信じているかどうか疑わしく思う。比較的少数の思考する人々だけが率直に事実を認めることが出来、一人の日本人は私にこういった──『そうです、日本はこれらの条約をことごとく破りました。日本は公然たる戦争をやりました。満州の自衛とか民族自決とかいう議論はでたらめです。しかし日本は満州を必要とし、話は要するにそれにつきるのです』。《しかしこのような人は少数に属する》。日本人の大多数は、本当に彼ら自身をだますことについて驚くべき能力を持っている。──日本人は必ずしも不真面目なのではない。このような義務(国際的な)が、日本人が自分の利益にそむくと認めることになると、彼は自分に都合のいいようにそれを解釈し、彼の見解と心理状態からすれば彼は全く正直にこんな解釈をするだけのことである#

そうして大使はこう結論する。『このような心的状態は、如何に図々しくも自分が不当であることを知っているのよりもよほど扱い難い』。つまりこれが自己の行動の意味と結果をどこまでも自覚しつつ遂行するナチ指導者と、自己の現実の行動が絶えず主観的意図を裏切って行く我が軍国指導者との対比にほかならない。どちらにも罪の意識はない。しかし一方は罪の意識に真向から挑戦することによってそれに打ち克とうとするのに対して、他方は自己の行動に絶えず倫理の霧吹きを吹きかけることによってそれを回避しようとする。メフィストフェレスとまさに逆に『善を欲してしかもつねに悪を為』したのが日本の支配権力であった。どちらが一層始末に悪いかは容易に断じられない。ただ間違いなくいいうることは一方はより強い精神であり、他方はより弱い精神だということである。弱い精神が強い精神に感染するのは思えば当然であった」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.97~99」未来社)

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常套句問題

2018年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
一般的なマスコミ報道よりも遥かに面白い記事/言葉に出合うことが時々ある。それは週刊誌であったりネット空間だったり子供らの露骨な質問だったりする。その瞬間、それまで見えなかったものがたちまち可視化されることがある。しかし、「見えない」のはなぜだろうか。

「見える場のなかの見えないものは、理論展開のなかで、この場によって定義される見えるものにとって外的で疎遠であれば《何でもいいもの》ではない。見えないものはつねに見えるものによって、《それの》見えないもの、《それの》見ることの禁止として定義される。だから見えないものは、空間的隠喩をもう一度使って言えば、見えるものの外部、排除の外的な暗闇ではなくて、見えるものによって定義されるがゆえに見えるもの自体に内在する《排除の内的な暗闇》なのである。言い換えると、地盤、地平、したがって所与の理論的な問いの構造によって定義される見える場の境界といった魅惑的な隠喩は、空間的隠喩を額面通りにとってこの場を《それの外部にあるもうひとつの空間によって》定義される場として考えるなら、この場の性質について思い違いをさせかねない。このもうひとつの空間なるものは、それを自分の否認として含む最初の空間のなかにある。このもうひとつの空間は、まるごと最初の空間なのであって、最初の空間は、それ自身の境界線に排除するものの否認によってのみ定義される。最初の空間には《内部の》境界しかないし、それはその外部を自己の内部にかかえていると言っていい。このように理論的場の逆説は、あえて空間的隠喩を使って言えば、《限定される》がゆえに《無限な》空間、すなわち、それをなにものかから分かつ《外的な》限界や境界をもたない空間であるという点にある。なぜかといえば、それは自分の内部で定義され限定され、自分でないものを排除することで自分の本来の存在を作り出す、定義の有限性を自分の内部にもっているからである」(アルチュセール「資本論を読む・上・P.45~46」ちくま学芸文庫)

10月26日(金)/朝日新聞/15面。「常套句」の使用に関する諸問題。

答える側が乱発する「遺憾」「不徳の致すところ」等々の大量使用。それによってうやむやにされ、視聴者の側には計り知れないもやもや感を与え残してしまう「常套句」問題。このことの問題性は何も答える側にだけではなく、むしろ問う側にも共通する。という問いかけがその内容。

暗黙のうちに了解された「問いの構造」。要するに「問いと答えが既にセット」になって頭の中へインプットされており、問う側も問われる側も何らそれを疑おうとしないという質疑応答の場の致命的な崩壊状況。突破口はあるのか?かつてアルチュセールはこう述べた。

「ここでわれわれはもっとやっかいな難題に出会う。なぜなら、われわれは、まちがった答えの《反復》だけでなく、とりわけ《まちがった問い》の《反復》が多くのひとびとのなかで生み出してきた数世紀来の『自明さ』に対して、この企てにおいてはほとんど一人だけで抵抗しなくてはならないからである。われわれはこのイデオロギー的問いによって定義されるイデオロギー的空間、この《必然的に閉じた》空間から脱出しなくてはならない(閉じた空間だと言うのは、イデオロギーの理論的生産様式を特徴づける《再認》構造の本質的結果のひとつは閉じているからである。この不可避的に閉じた円環を、ラカンは別の文脈で、また別の目的から、『《双対の鏡像関係》』と呼んだ)。そうすることでわれわれは、別の場所で新しい空間を開くべきである──この空間は、《解答について予断を下すことのない、問題の正当な定立》が要求する空間である。『認識問題』のこの空間が閉じた空間すなわち悪循環(イデオロギー的再認の鏡的関係の悪循環そのもの)であること、まさにこの事実を西欧哲学における『認識理論』の歴史は、有名な『デカルト的円環』からヘーゲル的あるいはフッサール的理性の目的論の円環に至るまで、はっきりと《見させて》くれる。この円環の必然的存在を理論的に引き受ける、すなわちそれを自分のイデオロギー的企てにとって本質的であると考えようと決意する哲学(フッサール)が最高度の自覚と誠実さに達したとしても、この《円環》から《抜け出す》ことはできなかったし、イデオロギー的な囚われから《抜け出す》ことはできなかった──同様に、この『閉鎖性』の絶対的可能性の条件を、『開放性』(外見的には閉鎖性のイデオロギー的非=閉鎖性でしかない)のなかで考えようとした人、つまりハイデガーもまたこの円環から抜け出すことができなかった。外部であれ深さであれ、単なる《外》に身を置くことでは閉じた空間から出ることはできない。この外またはこの深さが《その》外または《その》深さにとどまるかぎりは、それらはまだ《この》円環、《この》閉じた空間に属している──ちょうど円環がそれとは別の《それの》他者のなかで『反復する』ように。この円環から首尾よく免れるのは、この空間の反復によるのではなくて、それの非=反復によってである──理論的に根拠のある《逃走》だけがそれを可能にする。この逃走は、正しくは、逃げだす相手につねに縛られている《逃走》ではなくて、新しい空間、新しい問いの構造の根本からの創設であり、それのおかげではじめて、イデオロギー的な問題定立の再認の構造のなかで否認された現実の《問題》を立てることができる」(アルチュセール「資本論を読む・上・P.100~101」ちくま学芸文庫)

「新しい空間、新しい問いの構造の根本からの創設」が活路を開くという。なるほどそうだ。とりわけ世界的規模のネット空間は常に「斜めからの視線」を生産し続けて止まない。まあ、諸刃の剣でもあるのだが。

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村上レディオ(2018.10.21)

2018年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
村上春樹はカヴァー・ヴァージョンを聴くのが好きなんだそうだ。いろんな楽曲のね。コレクションも相当なものらしい。そんなわけもあってか番組の後半でビートルズ“GET BACK”のジャズ・アレンジがかかったんだけど、そこでピアノを弾いているのは何と大西順子。しかも、これがないとスウィングじゃない、と言わんばかりのご機嫌なピアノ・ソロを聴かせている。

ソロの盛り上げ方はほぼ定番なのだが、聴き飽きたとは思わせないで逆に聴いていてじわじわと楽しくなってくるんだから不思議。こんなヴァージョンあったんですね。知りませんでした。

そう言えば。何年前か忘れたけど村上はエッセイの中で、大西順子を聴いていると書いてたなあ。

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コンビニ人間・感想

2018年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム
村田沙耶香「コンビニ人間」文春文庫

一般社会の中に上手く溶け込めない主人公。彼女はマニュアル通りに振る舞うことでようやく「まとも」な人間として扱われている。周囲は彼女を「治そう」とする。彼女もまたマニュアル通りに動いている限りで順調なコンビニバイトに従事している間だけはそれを生きがいに感じている。そうでないと社会の中で自分の居場所はないと自覚してもいる。

女性/36歳/独身/彼氏なし/処女/就職歴なし/コンビニバイト歴18年。バイト仲間からも気持ち悪がられている。窮屈な社会だ。しかしそうした窮屈さを主人公は淡々と受け止めているように見える。なるほど疑問に思うことは度々ある。とはいっても、だからどうすればいいのか。

結婚にも子作りにも関心がない。要するに極めて狭い意味での「生産性」がない。周囲は言う。「普通」になって、と。しかし「普通」とは一体なんなのか。たとえ「普通」でなかったとしても、ではそれがどうしたというのか。そう問いかける間もなく、コンビニとはいえバイトはだんだん若い新人が入ってきては出て行く。店員のサイクルは早い。そんな中で主人公は今のバイトをいつまで続けられるかわからない。

その辺りは昨今の一般企業とも事情が似ている。「異物」は排除し「普通」の社員を急募する。だが普通の社員でいられるのもたかが数年のうちに過ぎない。急加速するグローバルIT社会化。今は「普通」の正社員として扱われていても、みるみるあいだに事実上「非正規」扱いに降格され、バイトになり、異物化して居場所を失う。社会の底辺をさまようほかなくなる。というように「普通」とはかくも熾烈で容赦のない社会的/経済的イデオロギーだ。そんな「普通」という日常的な言葉/観念が主人公にもたらす数々の圧力。彼女に未来はあるのだろうか。

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