白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・アルベルチーヌの目をスキャンするもう一人の女の目

2022年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
ブロックの妹と元女優との同性愛はどうなったのか。<私>とアルベルチーヌとブロックとの三人がカジノから出た時ちょうど、二人は大っぴらにはしゃぎながら歩いていくところだった。

「そしてある夜、私が、アルベルチーヌと、たまたま出会ったブロックとの三人で、なかば灯りの消えたカジノから出てきたとき、例のふたりがからみあい絶えずキスをしながら通りかかり、私たちのところまで来ると、忍び声や、笑い声や、淫らな喘ぎ声をあげた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.556」岩波文庫 二〇一五年)

とっさに<私>はこの「特殊な耐えがたい声がアルベルチーヌに向けられたものかもしれないという考え」にさいなまれた。しかし「忍び声や、笑い声や、淫らな喘ぎ声」が「特殊な耐えがたい声」に置き換えられて聞こえるのはそれが「アルベルチーヌに向けられたものかもしれないという考え」に支えられている限りのことである。アルベルチーヌに対する同性愛疑惑を一方で支えているのは他でもない<私>なのだ。

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

というふうに。もしそうでないなら<私>は「忍び声や、笑い声や、淫らな喘ぎ声」を「特殊な耐えがたい声」として聞き取ることはない。リゾート地特有の記号の一つに過ぎないと思い、ただ無関心な態度でやり過ごしていただろう。

また「私は浜辺で、すらりとした若い色白の美人を見かけた」。そのまなざしは「まるで目を灯台にしてアルベルチーヌに合図を送っているふうである」。何らかの身振り(言語)をきっかけに一度芽生えた疑惑は記号論的コノテーションの増殖をますます引き起こしていくばかりだ。

「私は浜辺で、すらりとした若い色白の美人を見かけた。その目の中央からは幾何学的な明るい光が放射され、そのまなざしを前にすると、なにやら星座を見ている気になる。私はこの若い女のほうがアルベルチーヌよりずっと美人ではないか、アルベルチーヌを諦めたほうが賢明ではないかと考えた。ただしこの若い美人は、ひどく下品な暮らしのなかでたえず姑息な策を弄してきたらしく、顔にはそんな暮らしの目には見えぬ鉋(かんな)がかけられていたせいか、顔のほかの部分よりもずっと高貴なその目からは、ただものほしげな欲望の光だけが放たれていた。ところが私はその翌日、カジノで私たちから非常に遠く離れた席にいたこの若い婦人が、あたりをくるくるかわるがわる照らすまなざしの光をたえまなくアルベルチーヌに注いでいるのに気づいた。まるで目を灯台にしてアルベルチーヌに合図を送っているふうである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.556~557」岩波文庫 二〇一五年)

さらに「きらきら光る目のこの女は」と続いていく。

「きらきら光る目のこの女は、べつの年にもバルベックに来ていたのかもしれない。この女があえてこれ見よがしの光の合図をアルベルチーヌに送ったのは、アルベルチーヌがすでにこの女の欲望なりべつの女友だちの欲望なりに身を任せていたからかもしれない。だとするとあの合図は、現在なにかを求めているというより、なにかを求める根拠として過去の楽しかった時間をほのめかしているのではないか」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.557」岩波文庫 二〇一五年)

嫉妬の塊と化した<私>の頭の中は、と言いたいところだが、一度嫉妬に駆られた人間というものは、その度合いの違いがあるだけのことで、何をやらかすかわからない点ではどこにでも転がっている事例の一つにしか見えないことも事実ではないだろうか。

それより遥かに注目したいのは、プルーストが「目の中央からは幾何学的な明るい光が放射され」とか「目を灯台にして」とかの言葉で示している「目」の機能について。ニーチェはいう。

「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる。画家、彫刻家、叙事詩人はすぐれて幻想家である」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫 一九九四年)

おそらくそのニーチェの言葉が念頭にあったのだろう。ドゥルーズはいう。

「眼は光を拘束するのであり、眼それ自身が拘束された光なのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第二章・P.264」河出文庫 二〇〇七年)

<拘束された光としての眼>。もはや人間の目は機械と化したかのようだ。すでに人間が「どのように機械《と結びついて部品となるのか》、あるいはほかの別のものと結びついて部品となり機械を構成することになるのかといったことを示すことが問題なのである」。

「ここでは、もはや、機械と人間とを比較対照して、一方と他方との間に相互に対応、延長、代用の関係が可能であるか否かを評定するといったことが問題なのではない。そうではなくて、むしろ、人間と機械との間にコミュニケイションを形成して、人間がどのように機械《と結びついて部品となるのか》、あるいはほかの別のものと結びついて部品となり機械を構成することになるのかといったことを示すことが問題なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・補遺・P.460」河出書房新社 一九八六年)

人間の目の機能を機械が代理するわけではない。早くも至るところに設置され、ますます設置されていく或る種の機械と人間の行動とは、いつどこにおいても結び付けられてしまっているということが問われねばならない。ジジェクは「デジタル警察国家の時代」と呼んでこう述べる。

「間違いなくわたしたちは、デジタル警察国家の時代に突入している。デジタル機械はあの手この手でわたしたちの私的な事実や行動を、健康から買い物の習慣、政治的意見から娯楽、仕事上の決定から性行為にいたるまで、すべて記録しているのだ。今日のスーパーコンピューターがあれば、この莫大な量のデータを各個人のファイルにきれいに仕分け整理し、すべてのデータに国家機関や私企業がアクセスできるようにすることが可能である。しかし事態を真に一変させてしまうのは、デジタル管理そのものではなく、脳科学者お気に入りのプロジェクトだ。デジタル機械がわたしたちの心を直接読み取れるようにする(もちろんわたしたちには知られずに)のである」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.114」青土社 二〇二二年)

例えば、一方に人間がいてもう一方に「目をスキャンする」機械装置が設置されているような場所。要するに先進国ではもはや当り前になりつつある光景。顔認証が広く採用されていくとともに目による認証もどんどん開発されつつある。すると商業施設、例えばデパートを例に取ると、それは何をするためのどのような装置へ変換されるのか。

「機械が目をスキャンすることによりわれわれの身元を特定し、銀行口座を照会して、購買力を確かめる。加えて店を出るとき自動で持っているものを記録するため、わたしたちは何もする必要がない。デパートはわたしたちにとって、ただ入り、欲しいものや必要なものを手に取り、立ち去るだけの場所になる」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.115」青土社 二〇二二年)

ジジェクがしつこく「コモンズ」と「コモンズの管理」とに言及するには理由がある。

「自由をもとめる戦いは結局のところコモンズの管理をめぐる戦いであり、今日これはわたしたちの生活を統制するデジタル空間を誰が管理するかという戦いを意味する。だから『中国対西洋』などではないーーーファーウェイと西洋のあいだで目下行われている闘争は二次的なものであり、わたしたちを支配しようとする者同士の党派間の争いにすぎない。真の闘争は、彼ら全員と、彼らに管理されているわたしたち普通の人々との間にあるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・3・P.96」青土社 二〇二二年)

ロシアが統制しているのは情報でありEUが規制しているのはウェブである。その他もろもろ。今やデジタルネットワークを制する者が世界を制するというべきだろう。最近のテレビ、さらに詳しいのは週刊誌報道だが、統一協会問題が大々的に取り上げられている。記事に目を通せば一目瞭然というべきか、統一協会の本当の狙いがどこにあるのか。ソフト路線に移行するとともに見えてきた狙いは何なのか。どのような諸機関が関わっているか。見たくなくても見ないわけにはいかない課題がようやく見えつつあるのではと思われる。

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Blog21・グランドホテルとヴェネツィアの関係/<私>の「鳥・ヘビ・リス」への変身

2022年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
ニッシム・ベルナールはグランドホテルに勤務する一人の「若いボーイ」を愛人として囲っていたわけだが、ただそれだけのことを述べるためにのみ登場した人物ではない。それだけのことなら作品のあちこちに散りばめられたシャルリュスの言動を見れば十分だろう。プルーストがわざわざベルナールを登場させ、その動向を描いている理由はソドム(男性同性愛)の現実だけでなくシャルリュスとの相違点を示すことにもある。シャルリュスの言説のほとんどは社交界の中で大いに語られているが、しかし同性愛者という点では同じでも、ベルナールの欲望は「迷宮のように入り組んだ、バルベックのホテル全体を好んでいた」。ベルナールが「多くの廊下、秘密の小部屋、サロン、クローク、食料貯蔵室、回廊など」を「探検する」のはグランドホテルの構造がそうなっていて始めて可能になる。

「そのうえ氏は、多くの廊下、秘密の小部屋、サロン、クローク、食料貯蔵室、回廊などを備えて、迷宮のように入り組んだ、バルベックのホテル全体を好んでいた。オリエント人の遺伝なのか、後宮が好きで、夜になると外出してその隅々をこっそり探検する氏のすがたが見られた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.545」岩波文庫 二〇一五年)

プルーストはグランドホテルの構造について大変細かく分割して描いて見せている。とともにそれはカルパッチョが描いたヴェネツィアの絵画の構造に極めて類似していないだろうか。画家エルスチールが<私>に述べたように。「ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現した観があ」るだけでなく、「どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかない」こと。ベルナールにとってバルベックのグランドホテルは、画家にとって十五世紀末のヴェネツィアに相当する。

「『なにしろその画家たちが制作をした町が町だけに、描かれた祝宴も一部は海上でくり広げられましたからね。ただし当時の帆船の美しさは、多くの場合、その重々しく複雑な造りにありました。こちらで見られるような水上槍競技もありましたが、ふつうはカルパッチョが<聖女ウルスラ伝>で描いたようになんらかの使節団の歓迎行事として開催されたものでした。どの船もどっしりと巨大な御殿を想わせる建造物で、深紅のサテンとペルシャの絨毯とにおおわれた仮説橋で岸につながれていて、船のうえでは婦人たちがサクランボ色のブロケード織りや緑色のダマスク織りの衣装を身にまとい、すぐそばの極彩色の大理石を嵌めこんだバルコニーから身を乗り出して眺めているべつの婦人たちが真珠やギピュールレースを縫いつけ白のスリットを入れた黒い袖のドレスを着ているときには、船はほとんど水陸両用かと思えて、ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現した観があります。どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかないありさまです』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.544~545」岩波文庫 二〇一二年)

当時のヴェネツィア。「ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現した観」。さらに「どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかない」。これらは十五世紀末のヴェネツィアだけでなく一九〇〇年頃のヨーロッパのリゾート地バルベックだけでもなく、ほかならぬ二十一世紀の世界的大都市、なかでも<東京>にさえ通じる共通点ではないだろうか。同時に読者は十五世紀末のヴェネツィアと一九〇〇年頃のヨーロッパのリゾート地バルベックと現在の<東京>とを置き換えて読むことができるのではないだろうか。そして、あえて、この三者を置き換えて読んでみるとしよう。すると読者はその置き換えに何らの齟齬も生じないことを発見して衝撃を受ける。画家エルスチールの創作技法についてプルーストはこう述べていた。

「ほかでもないエルスチールの努力は、ものごとを頭で理解するように示すのではなく、われわれの最初のヴィジョンがつくられる錯覚のままに提示するところにあった。画家はこのような遠近法の法則のいくつかを明るみに出したが、それが当時はるかに衝撃的なことだったのは、芸術がそれをはじめてあらわにしたからである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.424~425」岩波文庫 二〇一二年)

プルーストが「ものごとを頭で理解するように示すのではなく」と言っているのは普段の<習慣・因習>に捉われない態度を指して言われている。作家の場合ならこうなる。

「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)

世界中どこへ行っても人々は自分の身に付いた生活様式に基づいて行動している。或る地域に特有の<或る価値体系>に基づいて行動している。その範囲でしか考えることができない。しかし世界にはまた<別の価値体系>に基づいて行動している人々もいる。この<或る価値体系>に属する人々の言動と<別の価値体系>に属する人々の言動との違い(差異)が、一方の人々にもう一方の人々の実在を突きつけると同時に世界の多元性を承認させる重大な契機をなす。エルスチールの絵画やヴァントゥイユの音楽といった芸術が<私>に教えてくれたことはこの<別の価値体系>の存在だ。いつも見ているのに見えていなかったバルベックの断崖。それはエルスチールの言葉が、ではなく、エルスチールの絵画が、<私>に始めて教えてくれたものだった。その意味で文学の歩みは絵画や音楽など芸術に比べればいつも随分遅いのである。例えば、日本でようやく村上春樹がデビューした頃、YMOはすでに世界の音楽シーンに芸術的とも言える衝撃を与えていた、というふうに。

さてニッシム・ベルナールは一人の「若いボーイ」だけでは明らかに不満足なのだろう、何食わぬ顔でグランドホテルの中をうろつき「危険を顧みず地下にまで潜入して若きレヴィ族を探し求め」ていた。なお「レヴィ族」というのはユダヤ教で祭司の助手を務めた部族のこと。だからここでは、ベルナールにとって、グランドホテルに勤める若く美しい男性スタッフのことを意味する。

「危険を顧みず地下にまで潜入して若きレヴィ族を探し求め、それでも人に見られてスキャンダルになるのを避けようとするニッシム・ベルナール氏は、『ユダヤ女』のこんな詩句を想わせた。

<ああ、われらが父祖の神よ、
われらのもとに降りて、
われらが秘密をお隠しください、
悪人どもの目から!>」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.545」岩波文庫 二〇一五年)

アルベルチーヌ、シャルリュス、そしてニッシム・ベルナールと、それぞれに違った欲望が出揃った上で、「革命の欲望」ではなく「欲望という名の革命」について。ドゥルーズ=ガタリから。

「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.146~147」河出書房新社 一九八六年)

とはいえプルーストはただ単に記憶や愛と嫉妬の力にばかり頼って創造しているわけでもまたない。記号論という学問はまだなかった頃にもかかわらず、なぜか記号について深く思索する作家である。ニッシム・ベルナールがグランドホテルを秘密の花園に見立てて、しかし紳士の態度を保ちつつ注意深く徘徊していた頃、<私>はマリー・ジネストとセレスト・アルバレという二人の姉妹に欲望を向けていた。またグランドホテルでは、三十年も昔に「『あれは外交便の共回り(クーリエ)』と歌われていた時代の慣わしをとどめていた」。プルーストは衣装や言葉遣いの変化に極めて敏感だったので、もはや古くなった習慣と新しく登場してきた習慣との間にきまって出現する横断性に並々ならぬ関心を寄せていた。

「その一方で私は、氏とは正反対に、小間使いとして外国の老夫人につき従ってバルベックにやって来たふたりの姉妹の部屋へあがって行った。ホテルの用語ではお供(クーリエール)と呼ばれ、クーリエやクーリエールは使い走り(クールス)をする人だと想いこんでいたフランソワーズの用語では、『使い走りの人(クールシエール)』と呼ばれる人たちである。ホテルの用語は、ずっと気高く、『あれは外交便の共回り(クーリエ)』と歌われていた時代の慣わしをとどめていたのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.546」岩波文庫 二〇一五年)

次にプルーストが記しているのはセレストによる発言集。<私>はセレストの巧みな言葉遣いの中で「鳥・ヘビ・リス」へと変身する。

(1)「『あら!この子ったら、カケスみたいな髪をした黒い小悪魔さんだわ、きっと深い企みなのよ!あなたをこしらえたとき、お母さんがなにを考えていたのか知れたもんじゃないわ、だって、あなた、鳥にそっくりだもの。ごらん、マリー、ほら、まるで羽づくろいをしているみたい、首だってくるっと回すでしょ?ずいぶん身軽そうで、飛びたつ稽古をしてるみたい。まあ、あなたも運がいいわね、あなたをつくった人たちがお金持の家に生んでくれたんだもの、そうでなけりゃ、あなたのような浪費家はどうなっていたか』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.548」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「『マリー、ほら見てごらん、があーん!ほら、首をまっすぐ立てたでしょ、ヘビみたいに。ほんと、ヘビそっくり』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.548」岩波文庫 二〇一五年)

(3)「『ほら、マリー、うちの田舎でよく見かけるでしょ、とってもすばしっこくて目では追いきれないリスを』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.549」岩波文庫 二〇一五年)

これらはどれも<私>がクロワッサンをミルクに浸している時にセレストが<私>を評して述べた言葉である。<私>はこれらの言葉に詩人の才能を見た。二人の姉妹は学校に通ったことは通ったのだがろくに学ばなかった。しかしその「ことば遣い」は「非常に文学的」だとプルーストはいう。「現代の最高傑作かもしれない作品が、全国学力コンクールやブロイ流の型にはまった模範的教育から生まれたのではな」い、と述べるのと同様である。

「ヴァントゥイユの知られざる作品をよみがえらせた敬愛の情がモンジュヴァンの乱脈をきわめた環境から生まれたとすれば、現代の最高傑作かもしれない作品が、全国学力コンクールやブロイ流の型にはまった模範的教育から生まれたのではなく、競馬場の『パドック』や大きなバーへ通いつめる暮らしから生まれたのだと考えると、私はこれにもやはり驚かずにはいられなかった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.417~418」岩波文庫 二〇一七年)

プルーストは学校に行くなと言っているわけではなく遊ぶなと言っているわけでもない。「驚き」のないところからは立ち去ることが重要だというわけだ。エルスチールやヴァントゥイユがそうであるように、もちろん孤独を伴う生活様式ではあるが。

ところで「驚く」とはどういうことだろう。「驚く」ことは「見出す」ことでもある。その点で芸術家ほど秀でた人々はいない。言い換えれば、芸術家ほど記号論に秀でた人々はいない。ただしかし芸術家が今の学術的記号論者と決定的に異なる点は、逆説的に、記号論からのさらなる脱コード化を目指し、感性のレベルで極めて横断的なスタイル、トランス記号論の地平を切り開いて止まないところにあるのだろう。

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Blog21・プルーストが描くゴモラ疑惑/ゴモラ/ソドムへの絶えざる通過

2022年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
アルベルチーヌの「誓い」にもかかわらず疑念の収まらない<私>。ところがこの年、アンドレはロズモンドやジゼルとともにリゾートシーズン最盛期頃にはさっさとバルベックを離れて帰る予定だという。とはいってもそれまでまだ数週間ある。そこで<私>の不安定な心痛を察したかのようにアルベルチーヌは、アンドレとアルベルチーヌとが<私>の知らない間に会うことのないよう「自分の言動をすべてお膳立てして、私に疑念が残っていればそれをうち消し、ふたたびあらたな疑念が生じないようにしてくれた」。しかし「お膳立て」するためにはアルベルチーヌ単独ではもとより不可能である。少なくともアンドレとの間に何らかの「合意」がなくては「お膳立て」できない。普段から毎日のようにごく普通に仲良く会っている娘たちが、或る一定期間に限って会わずに済むようタイミングよく仕組むにはそれなりの段取りを付けておく必要がある。<私>は思う。「ふたりのあいだには見るからに合意があったばかりか、ほかの徴候からしても、アルベルチーヌは私との話し合いをアンドレに打ち明け、私のばかげた疑惑を鎮めてほしいと頼みこんだにちがいなかった」。まるで贈収賄の構造ではないか。

「おまけにその数週のあいだアルベルチーヌは、自分の言動をすべてお膳立てして、私に疑念が残っていればそれをうち消し、ふたたびあらたな疑念が生じないようにしてくれた。けっしてアンドレとふたりきりにならないように気を配り、私とふたりで帰るときは私に戸口まで送ってほしい、ふたりで出かけるときは私に戸口まで迎えに来てほしいと言い張った。そのあいだアンドレも同様に努力して、アルベルチーヌに会うのを避けているように思われた。このようにふたりのあいだには見るからに合意があったばかりか、ほかの徴候からしても、アルベルチーヌは私との話し合いをアンドレに打ち明け、私のばかげた疑惑を鎮めてほしいと頼みこんだにちがいなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一五年)

そこでもし仮に、アルベルチーヌ、アンドレ、ジゼルだけを取り出してみて、三人三様の「嘘のつきかた」を区別してみたところで、むしろ三人とも「嘘のつきかた」が異なることで逆に「たがいにうまくかみ合って一体化していた」のは以前述べた。作品中では後に出てくる記述なのだがそれはもはや既成事実として上げられる。

「ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していた」とある部分。

「もとよりジゼルは、アルベルチーヌと同じような嘘のつきかたはしなかった。アルベルチーヌの数々の嘘のほうが、たしかに私にはずっと辛いものだった。しかしなによりもまず、ふたりの嘘にはある共通点があって、それはある場合には嘘だという事実そのものが明々白々な点である。嘘の背後に隠れている現実が明々白々だというわけではない。殺人犯ともなればだれしも万事うまく仕組んだから自分がつかまるはずはないと想いこむが、結局、殺人犯はほぼ間違いなくつかまる。それにひきかえ嘘つきがつかまることはめったにない。なかでもこちらが愛している女はまずつかまらない。女がどこへ行ったのか、そこでなにをしたのか、こちらにはとんと見当もつかない。ところが女がこちらと話している最中に、ふと話をそらし、裏には口にこそ出さないなにかがあるとき、その嘘は即座に察知される。嘘だと感じられるのに、真相を知るに至らないのだから、嫉妬は募るばかりだ。アルベルチーヌの場合、それが嘘だと感知されたのは、この物語のなかで何度も見てきたような多くの特殊な点によってであるが、主としてつぎの点を挙げるべきだろう。それはアルベルチーヌが嘘をつくときは、その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである。本当らしさとは、嘘つきがどう考えるにせよ、けっして本当のことではない。本当のことに耳を傾けている最中、なにか本当らしく聞こえるだけのこと、もしかすると本当のことよりも本当らしく聞こえること、もしかするとあまりにも本当らしく聞こえることを耳にすると、多少とも音楽的な耳の持主なら、規則に合わない詩句とか、べつの語と間違えて大声で朗読された語とかを耳にしたときのように、これは違うと感じるものだ。耳がそう感じると、愛する男なら心が動揺する。ある女がベリ通りを通ったのかワシントン通りを通ったのかが判然としないという理由でもって全生涯が一変するのなら、なぜこう考えてみないのだろうか?もし当の女に何年か会わずにいる思慮分別さえあれば、その何メートルかの違いなど、いや、その女自身さえ、何万分の一かに(すなわちこちらの目には見えないほどの大きさに)縮小されてしまい、ガリヴァーよりもずっと巨大であった相手も小人(リリパット)国の女になり果て、いかなる顕微鏡をもってしてもーーー無関心となった記憶の顕微鏡はもっと強力で頑丈だから措くとして、すくなくとも心の顕微鏡では見えなくなるのだ!それはともあれ、アルベルチーヌの嘘とジゼルの嘘のあいだにはーーー嘘だとわかるというーーー共通点が存在したとはいえ、ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していたために、その小集団に備わる他人には入りこめない堅固さは、ある種の商社や出版社や新聞雑誌社などと同様の堅固さを想わせた。こうした団体を相手にした哀れな作家は、その構成メンバーである名士たちの多様性にもかかわらず、自分がだまされているのかそうでないのか絶対にわからない。というのも新聞や雑誌の社主がいとも誠実な物腰で嘘をつくからで、それというのも社主としては、他社に反旗を翻し『誠実』の旗幟(きし)を鮮明にした以上、貶(おとし)めてきたほかの新聞や劇場の社主や、ほかの出版社社長らの金儲け主義とまったく同じことを自分がおこない、なんら変わらぬ収益策に走っている事実をことあるごとに覆い隠さなければならないだけに、なおさら勿体(もったい)をつけ誠実そうに嘘をつかざるをえないのだ。嘘をつくのはおぞましいことだと(政党の党首のように出任せででも)宣言してしまうと、往々にしてほかの人たち以上に嘘をつかざるをえなくなるが、だからといって勿体ぶった誠実の仮面や厳かな司教冠を脱ぐことはない。『誠実な人』たる経営協力者は、社主とは違って、もっと無邪気に嘘をつく。自分の妻をだますように、軽演劇(ヴォードヴィル)ふうの仕掛けを使って作家をだますのだ。新聞雑誌の編集責任者はといえば、不作法な正直者と言うべきか、なんの底意(そこい)もなく嘘をつく。建築家が家はこれこれの時期にできあがると約束しておきながら、その時期になってもまだ工事すら始めていないのに似る。編集長ともなると、天使のごときうぶな心の持主で、前述の三人のあいだを飛びまわり、事情がわからずとも仲間としての気遣いと優しい団結心から、その三人に非の打ちどころのない貴重なことばの助け船を出す。これら四人はたえず内輪もめをしているが、作家がやって来るとその内紛はぴたりとやむ。個別の言い争いを越えて、危機に瀕した『部隊』の救援に駆けつけるという、軍人としての重要な義務をだれもが想い出すのだ。私は例の『小集団』にたいして、そうとは気づかぬまま、ずっと以前からこの作家の役割を演じていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.398~401」岩波文庫 二〇一六年)

それでもともかくアルベルチーヌたちは、<私>の気持ちが落ち着くよう動くことにはしてくれた。しかし、だからといって<私>の疑念(ゴモラ)は立ち去るどころか別の人物に置き換えられて目の前を堂々と横行し始める。その一つは友人ブロックの妹と元女優との同性愛関係。この二人の大胆な振る舞いはグランドホテルの中の最も賑やかな場所で演じられる。

「人に見られると自分たちの快楽の背徳性が倍増するように思えたのだろう、恐ろしい愛戯をみなの目にさらしたくなったのである。それはまずゲーム室のバカラのテーブルのまわりで愛撫しあうことから始まったが、それだけなら要するに親しい友情の発露とみなすこともできた。やがてふたりは大胆になった。そしてついにある夜、大きなダンスホールのあまり暗くもない片隅のソファーで、臆面もなく、ベッドに寝ているときにも等しい振る舞いにおよんだのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.538」岩波文庫 二〇一五年)

宿泊客の中には苦情を入れた人たちもちらほらいた。だが宿泊客は文字通りただ単に一日だけホテルに滞在するだけで翌日には消え去ってしまう通りすがりに過ぎない。苦情を入れられたホテルの支配人にしても、さてどうしたものかといった風情。というのもブロック嬢は、毎年バルベックの別荘にやって来る常連客ニッシム・ベルナールの絶大な保護下にあったからである。

そこで<私>はもう一つの疑念(ソドム)が今度はシャルリュスではない人物によって演じられるのを見る。ニッシム・ベルナールはブロックの父親の伯父。毎日グランドホテルにやって来て昼食だけは必ずホテルで取る。その理由はいたって単純で、ホテルに勤める一人のボーイを愛人として囲っていたからだ。男性同性愛者ニッシム・ベルナールにとってグランドホテルの玄関ホールは美しいドアマンやボーイたちが華麗に花咲き乱れる至高の楽園にほかならない。次のように。

「つい『アタリー』の詩句を心のなかでつぶやかずにはいられなかった。というのも十七世紀なら柱廊玄関と呼ばれていたと思われるホテルの玄関ホールにはいったとたん、とくにおやつの時間には、若いドアマンたちの『花咲く一団』がまるでラシーヌ劇で合唱隊を務める若いイスラエルの娘たちのように突っ立っていたからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.388」岩波文庫 二〇一五年)

そんなベルナールが若いボーイとの接触と愛人化とに成功した手順は次の通り。

「若いボーイは、バルベックの『神殿』たる『豪華ホテル』にて『世間から離れて育てられた』がその甲斐はなく、ジョアドのつぎの忠告にも従わなかった。

<富や黄金を頼りにしてはならぬ>

もしかするとボーイは『罪びとたち地上にあふれ』とつぶやき、世間とはそういうものだと自分を正当化していたのかもしれない。それはともかく、ニッシム・ベルナールもこれほど早い手応えを期待していなかったのに、さっそく最初の日から、

<まだおびえているのか、それとも甘えるためか、
その罪のない両腕がまつわりつくのを感じた>

そしてもう二日目から、ニッシム・ベルナール氏はそのボーイを外に連れだし、『毒気を近づけ、その無垢を汚した』のである。そのときから若者の生活は変わってしまった。上司に言われるとおりパンや塩を運んでいても、満面にこんな想いがにじみ出ていた。

<花から花へ、快楽から快楽へと われらが欲望をさまよわせよう。
すぎ去るわれらが歳月の残りは頼りなきもの。
きょうのこの日、急いで人生を楽しもう!
名誉や役職こそ
甘美な盲従の代償。
悲しい無垢な者などに
だれが声をあげてくれよう>」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.539~541」岩波文庫 二〇一五年)

ここで僅かばかり振り返っておきたい。プルーストが描き出している場面の順序である。アルベルチーヌを巡る女性たちの同性愛疑惑。次にブロックの妹と元女優との辺り憚らぬ同性愛関係。第三にニッシム・ベルナールと若いボーイとの男性同性愛関係。第一のゴモラ疑惑が払拭されたかと思う間もなく第二に紛れもないゴモラ関係が出現し、そのゴモラ関係を下位に保護する立場に立ちつつ第三により強力なソドム関係の出現が絶え間なく描かれている。もっとも、異性愛がないわけではない。ところが<私>の目の前に出現するのは非-異性愛の連続ばかりであり異性愛の側はむしろ種々の非-異性愛をかえって引き立てるための脇役としてほとんど霞んでしまっている。そこで問いを立てることができる。異性愛と非-異性愛とで異性愛の側が「正常」だとされる根拠というのは、ただ単に前者の側の数が多いという統計学的な結果に過ぎないのではという問いである。とはいえ、もしそういうことなら人間がそこから生まれてくる「生殖」行為は果たしてどのような位置付けになるのか。ニーチェはいう。

「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上・八九六・P.491」ちくま学芸文庫 一九九四年)

あらためて欲望の観点を導入しなければならないだろう。「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》」からである。

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Blog21・プルーストが上げる<ソドム(男性同性愛)><ゴモラ(女性同性愛)><トランス性愛>/嫉妬を越えた<私>の狂気

2022年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>にとって「よく効く鎮静剤」としての「誓いの言葉」。その効果を永続的なものにするためには「私はその夜のうちに発って、二度とアルベルチーヌに会わずにいるべきであった」。とすれば<私>にとって、次の二箇所で述べられていることは確実であるように思えた。

(1)「私はその夜のうちに発って、二度とアルベルチーヌに会わずにいるべきであった。そのときから私は、相思相愛ではない恋においてーーー多くの人にとって相愛の恋など存在しない以上、たんに恋においてと言ってもいいーーー人が味わえるのは、今のようなまたとない瞬間に私に授けられた見せかけの幸福にすぎず、そんな瞬間には、女の好意ゆえか、あるいは女の気まぐれゆえか、はたまた単なる偶然ゆえか、あたかもわれわれが心から愛されているかのように、そうした場合と同様の女のことばや行為とわれわれの欲望とがたまたまぴったり一致するのだと予感していた。私がこの幸福のかけらに出会わなければ、私ほど気むずかしくない人たち、あるいは私よりも恵まれた人たちにとって幸福がいかなるものでありうるのかに私は気づかずに死んでいたのだから、賢明なのはこの小さな幸福のかけらを興味ぶかくうち眺め、それを陶然として味わっておくことであっただろう」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.522」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「賢明なのは、私にはこの局面でのみすがたをあらわしたこの幸福のかけらは、ずっと広大で永続的な幸福の一部だと考えておくことであっただろう。さらに賢明なのは、この幸福の見せかけが翌日に否定されることがないように、いっときの例外的な偶然の作為によってのみ授けられた好意のあかしを、あらためてもう一度求めようとしないことであっただろう。私はバルベックを発って孤独のうちに閉じこもり、私がいっとき愛をこもらせることのできた声の最後の残響とハーモニーを奏でつづけているべきで、その声にはもはやそれ以上私に話しかけないことだけを求めるべきであっただろう。その声が、今後はべつのものになるほかない新たなことばを発して、その不協和音によって感覚の沈黙がかき乱されるのを怖れたからで、その沈黙のなかでこそ、まるでピアノのペダルを踏みこんだときのように、私の内部で長いあいだ幸福の調性が保たれたにちがいないからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.522~523」岩波文庫 二〇一五年)

しかしこの二箇所の記述は根も葉もないただ単なる希望的観測でしかない。ほどなくバルベックにリゾート地のシーズン最盛期がやって来た。<私>の楽観的憶測はあっけない妄想としてたちどころに崩壊する。「浜辺はいまや娘たちであふれかえ」っていた。<私>はアルベルチーヌに頼まれてもいないのに次の提案を口にする。「若い女がバルベックにやって来るたびに心配で落ち着かず、アルベルチーヌがその娘と知り合いにならぬよう、できればその新たな到着客に気づかぬよう、いっしょにできるだけ遠くへ出かける提案をした」。

「浜辺はいまや娘たちであふれかえり、コタールから聞かされた見解のせいで、私は新たな疑念をいだかないまでも、この点にかんして敏感で傷つきやすくなり、そんな疑念が心中に生じないように用心し、若い女がバルベックにやって来るたびに心配で落ち着かず、アルベルチーヌがその娘と知り合いにならぬよう、できればその新たな到着客に気づかぬよう、いっしょにできるだけ遠くへ出かける提案をした」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.534~535」岩波文庫 二〇一五年)

しかし「浜辺はいまや娘たちであふれかえ」っているとしても、そして続々と出現する娘たちについて「アルベルチーヌがその娘と知り合いにならぬよう、できればその新たな到着客に気づかぬよう、いっしょにできるだけ遠くへ出かける」ことができたとしても、<私>の恐怖は収まらない。<私>が遥かに恐れているのは「アルベルチーヌは倒錯者と関係を結ぼうとしているのではないか、私のせいでそれができず残念に思っているのではないか、あるいは実例が多いという理由で、これほど広まった悪徳は非難してはいけないと信じているのではないか」という、ほとんど箇条書きのように整理整頓された<言葉>の列挙に依存している限り止めることができない不安の奔流である。

「もちろん私がそれ以上に恐れていたのは、素行の悪さが目立ったり悪いうわさを聞いたりする女たちであった。私はそんなうわさは事実無根の中傷なのだとアルベルチーヌに言い聞かせようとしたが、もしかするとそんなことをしたのは、まだ意識していなかった心配ではあるが、アルベルチーヌは倒錯者と関係を結ぼうとしているのではないか、私のせいでそれができず残念に思っているのではないか、あるいは実例が多いという理由で、これほど広まった悪徳は非難してはいけないと信じているのではないか、などと心配したせいかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.535」岩波文庫 二〇一五年)

<私>が「倒錯者」とか「罪深い女の悪徳」とかいうのはゴモラ(女性同性愛)に憧れる女性全般のことだ。ところがソドム(男性同性愛)についてだけでなくゴモラ(女性同性愛)についてだけでもなくトランス性愛についてもプルーストは次に上げるようにもっと早いうちに無罪判決を下している。長いので便宜上三箇所に分けて引こう。

(1)「われわれはこの男の顔のなかに、心を打つさまざまな気遣い、ほかの男たちには見られぬ気品ある自然な愛想のよさを見出して感嘆するのだから、この青年が求めているのはボクサーだと知ってどうして嘆くことがあろう?これらは同じひとつの現実の、相異なる局面なのだ。さらに言えば、これらの局面のうちわれわれに嫌悪の情をいだかせる局面こそ、いちばん心を打つ局面であり、どんなに繊細な心遣いよりも感動的なのである。というのもそれは、自然が無意識のうちにおこなう感嘆すべき努力のあらわれにほかならないからだ。性をめぐるさまざまな欺瞞にもかかわらずこうして性がみずから企てる自己認識は、社会の当初の誤謬のせいで遠くに追いやられていたものへと忍び寄ろうとする密かな企てに見える」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.66」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「おそらくきわめて内気な少年期をすごした男のなかには、快楽をひとりの男の顔に結びつけることさえできれば満足して、どのような肉体的快楽を享受できるかについてはさして感心を向けない者もいる。これにたいして、おそらくもっと激しい欲望をいだくせいであろう、自分の肉体的快楽の対象をなんとしても限定する男たちもいる。こんな男たちが自分の想いを告白すれば、世間一般の顰蹙(ひんしゅく)を買うだろう。ところがこの男たちもサトゥルヌスの星のもとでのみ暮らしているとはかぎらない。前者の男たちにとっては女性が完全に排除されているが、この後者の男たちにとってはそうではないのだ。前者の男たちにとって、おしゃべりや媚のような頭のなかの恋愛がなければ女性なるものは存在しないに等しいが、後者の男たちは、女を愛する女性を探し求め、その女性から若い男を手に入れてもらったり、若い男とすごす快楽をその女性に増幅させてもらったりする。おまけにこの男たちは、それと同じやりかたで、男と味わうのと同じ快楽をその女性たちを相手に味わうこともできる」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.66~67」岩波文庫 二〇一五年)

(3)「そんなわけで前者の男を愛する男たちからすると、嫉妬をかき立てられるのは相手の男がべつの男と味わう快楽だけで、それだけが自分には裏切りに思える。なぜならその男たちは、女と愛情をわかち合うことはなく、そうしているように見えても慣習として結婚の可能性を残しておくためにすぎず、女との愛情から与えられる快楽をまるで想像できないので、耐えがたく思えるのは自分の愛する男が味わう快楽だけだからである。ところが後者の男たちは、しばしば女性との嫉妬をかき立てられる。というのもこの男たちは、女性と結ぶ関係において、女を愛する女性からすると相手の女役を演じているうえ、同時にその女性もこの男たちが愛する男に見出すのとほとんど同じ快楽を与えてくれるので、嫉妬する男は、自分の愛する男がまるで男にも等しい女に首っ丈になっているように感じると同時に、その男がそんな女にとっては自分の知らない存在、つまり一種の女になっていると感じて、その男がまるで自分から逃れてゆくような気がするのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.67~68」岩波文庫 二〇一五年)

だからプルーストは始めから知っていたのだ。ガタリの言葉ではこうなる。「おそらくわれわれは一般的な説明を必要としないような事実データに直面しているのかもしれない」と。

「ここに問われている唯一の問題は、プルーストの女性生成ーーー《乙女たち》を通じて表明されるーーーと、彼の想像家生成によって巻き込まれるような諸地層の脱属領化作用、諸顔面、諸人物、諸風景のリトルネロ化作用との間の関係を明らかにすることである。おそらくわれわれは一般的な説明を必要としないような事実データに直面しているのかもしれない」(ガタリ「機械状無意識・第2部・第3章・P.355」法政大学出版局 一九九〇年)

一方、<私>は「同性愛=悪徳」という言葉の短絡的かつ宗教的観念に囚われるばかりで、嫉妬を通り越し、「もうどんな女にもバルベックには来てもらいたくなかった」とさえ考えるようになる。

「私としては罪深い女の悪徳をことごとく否定することで、やはり女の同性愛は存在しないのだと主張しようとしていたらしい。アルベルチーヌは、私があれやこれやの女の悪徳を信じないことを受け入れた。『そうね、あれはあの人がそう見せかけている好みだと思うわ、ちょっと気取るためなのよ』。しかしそれを聞いた私は、女性の潔白を主張したことを後悔しそうになった。以前はあれほど厳格だったアルベルチーヌが、その種の趣味をもたない女でもそれを気取ろうとするほど、その『嗜好』がなにやら心をそそる有益なものと信じているように見え、それが私には不愉快だったのである。私は、もうどんな女にもバルベックには来てもらいたくなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.535~536」岩波文庫 二〇一五年)

アルベルチーヌの愛の身振りは<私>を狂気というテーマ系へ叩き込んでいく。

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Blog21・プルースト「よく効く鎮静剤」/グローバル資本主義による<暴露>=性的多様性

2022年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
アンドレを愛していることにしつつ、<私>は、アンドレの大親友アルベルチーヌに問いかける、というより大芝居を打ってみる。「その暮らしぶりについて人からどんなうわさ話を聞いたかを伝え、同じ悪徳に染まる女たちには深い嫌悪を覚えるとはいえ、きみの共犯者の名前を聞くまではそんなことは気にもならかなったが、アンドレを愛しているだけにぼくがそのうわさにどんなに苦痛を感じているか、きみには容易にわかるはずだ」と。

「私はとうとう思いきってアルベルチーヌに、その暮らしぶりについて人からどんなうわさ話を聞いたかを伝え、同じ悪徳に染まる女たちには深い嫌悪を覚えるとはいえ、きみの共犯者の名前を聞くまではそんなことは気にもならかなったが、アンドレを愛しているだけにぼくがそのうわさにどんなに苦痛を感じているか、きみには容易にわかるはずだ、と言ってみた。ほかの女たちの名前を聞いたけれど、そんな女たちのことはどうでもよかった、と言い添えたほうが、もっとうまいやりかただったかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.517~518」岩波文庫 二〇一五年)

ところで<私>にこれほど手の込んだ役割を熱演せざるを得なくさせているものは何なのか。<私>が「同じ悪徳に染まる女たち」と呼んでいる限りではアルベルチーヌとアンドレとが女性同士の同性愛に耽り込んで<私>を忘れ去っているかもしれないことに対する単なる嫉妬の力である。そして<私>に限らずとも一般的に嫉妬は、自分の自尊心が高ければ高いほど自分で自分自身を傷つけ、自分の内面にこれ以上ないほど惨めな思いに打ちひしがれた精神状態を出現させる。さらに同性愛が表面上は「悪徳」とされていた当時ーーーもっとも、上流社交界には幾らでも同性愛者がおり周囲からの公認さえ堂々と得ているケースがあったことをプルーストは知っているわけだがーーー<私>もまた「悪徳」という言葉を利用して同性愛の疑いのあるアルベルチーヌをどんどん問い詰めることができた。

だがしかし、アルベルチーヌが同性愛者ではなくただ単にどこにでもいる異性愛者だったとしたらどうだったか。<私>以外に愛人がいる身振りが目に付けばただちに<私>は道徳的見地からアルベルチーヌに「悪徳」のレッテルを貼り付けて問い詰めていたに違いない。愛する相手が異性愛者であろうと同性愛者であろうとニーチェがいうように「愛」という名の「所有欲」がそうさせるのだ。

またさらに重要なのは、というよりもっと遥かに注意深く問題にしなければならないテーマは、「悪徳」という否定的な観念を<私>に振り回させて止まないものは何かという点である。<私>の場合、次にあるようにコタールの指摘「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ」という<言葉>こそが直接のきっかけになっている。

「しかし私の心にはいりこんで私をひき裂いたのは、あのコタールの指摘による突然の耐えがたい暴露であって、それが全面的に効果を及ぼしたのであり、それ以外の原因ではなかった。もしもワルツを踊るふたりの姿勢についてコタールから指摘されなかったら、アルベルチーヌがアンドレを愛しているとか、すくなくともアンドレと愛撫しあい戯れたことがあるとか、そんなことを以前の私が自分で考えることはけっしてなかっただろう。それと同じで、そんな考えから、私にとってはそれとずいぶんことなる、アルベルチーヌがアンドレ以外の女たちとも愛情というだけでは言い訳にならないような関係をもつことがありうるという考えに移行することも、以前の私にはできなかったであろう。アルベルチーヌは、そのうわさは本当ではないと誓う前に、そんなうわさを聞かされた者ならだれもがそうするように怒りと悲しみをあらわにし、義憤に駆られた好奇心をむき出しにして、中傷をした未知の男がだれなのか知りたい、その男と対決してやっつけると息巻いた。とはいえアルベルチーヌは、すくなくとも私のことを恨んでいないと請け合った」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.518」岩波文庫 二〇一五年)

そこで始めてアルベルチーヌの言葉は<私>にとって「よく効く鎮静剤」としての効果を発揮する。患部そのものが消滅したわけでは全然ない。アルベルチーヌの言葉はあくまで「もっとも効率よく私の心を鎮めてくれた」だけに過ぎず、病根自体が断たれた「証拠」はまるでない。にもかかわらず「よく効く鎮静剤」として作用したのは「嫉妬というものは病的疑念なる範疇に属するもので、その疑念は、断言の真実味よりも、むしろ断言の力強さによって解消されるからである」。なお、すぐ後に続く文章は愛するということに関するいつもの逆説。プルースト作品ではしょっちゅう繰り返し反復される。愛すれば愛するほど苦痛は増大し、逆に苦痛からの解放はもはや相手を愛していないことの証拠になるというパラドックスである。

「アルベルチーヌが私に与えてくれたのは誓いのことばだけであり、それは断言ではあるが証拠に裏づけられたことばではなかった。しかし、ほかでもない、そのことばがもっとも効率よく私の心を鎮めてくれた。嫉妬というものは病的疑念なる範疇に属するもので、その疑念は、断言の真実味よりも、むしろ断言の力強さによって解消されるからである。そもそも恋愛の特性は、われわれをいっそう疑い深くすると同時に、いっそう信じやすくする点にあり、愛する女にはほかの女よりも真っ先に嫌疑をかけるとともに、愛する女が否認すればたやすくそれを信じてしまう。世の中には貞淑な女だけがいるわけではないことが気になるには、つまりそれに気づくためには、恋をしてみなくてはならないのと同じで、貞淑な女が存在することを願うにも、つまりそれを確かめるためにも、恋をしてみる必要がある。みずから苦痛を求めながら、すぐに苦痛からの解放を求めるのもまた人間である。それゆえ苦痛から解放してくれる提案は、えてしてどれも真実味を帯びて見える。人はよく効く鎮静剤に文句を言ったりはしない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.519」岩波文庫 二〇一五年)

次のセンテンスでプルーストは一人の人間について「ふたつの人格」の実在を前提に論理を進めている。

「そもそもわれわれが愛する相手は、どんなに多種多様であろうと、その相手がわれわれのものと見えるか、欲望をべつの人に向けていると見えるかによって、主たるふたつの人格を提示する可能性がある。第一の人格は、われわれが第二の人格の実在を信じるのを妨げる格別な力をもち、第二の人格によってひきおこされる苦痛を鎮める特殊な秘訣を備えている。愛する対象は、苦痛になるかと思えば薬にもなり、その薬は苦痛を止めもすれば悪化もさせる」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.519~520」岩波文庫 二〇一五年)

この「第二の人格によってひきおこされる苦痛を鎮め」ようとして、大変多くの人々は自分が「愛する対象」に特有のパルマコン(医薬/毒薬)性に依存するのだが、そもそも自分が「愛する対象」に特有のパルマコン(医薬/毒薬)性があるとはどういうことか。それこそ自分が「愛する対象」は、その身体を見る限りなるほど一つであるにもかかわらず、実をいうと、内的には多元的(少なくとも二元的)であると認めている何よりの証拠なのではないだろうか。そしてこの多元性はもちろん性的多様性を含んでいる。

「エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.242」河出文庫 二〇一〇年)

それら名だたる世界文学の中に自分の鏡像を見る人々がどれほど大量にいることか。狭い意味での同性愛や昨今話題のLGBTに関する認識はあまりにも粗雑過ぎる。一時的な感情ではなく事実をもっと直視しなければならないし、事実を根拠に法律も時代に合ったものへ修正していかなくてはならない。グローバル資本主義がようやく果たした局地的文学から世界文学への広がり。もはや同性愛どころか<動物への生成変化><植物への生成変化>など幾らでも見つけることができる。またアルベルチーヌのように異性愛かつ同性愛、さらには植物になり、なおかつ楽器にさえなっていく終わりなき過程。それについてはガタリのいう「トランス主体性」という言葉が当てはまる。これから少しずつ見ていくことになるだろう。

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