ブロックの妹と元女優との同性愛はどうなったのか。<私>とアルベルチーヌとブロックとの三人がカジノから出た時ちょうど、二人は大っぴらにはしゃぎながら歩いていくところだった。
「そしてある夜、私が、アルベルチーヌと、たまたま出会ったブロックとの三人で、なかば灯りの消えたカジノから出てきたとき、例のふたりがからみあい絶えずキスをしながら通りかかり、私たちのところまで来ると、忍び声や、笑い声や、淫らな喘ぎ声をあげた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.556」岩波文庫 二〇一五年)
とっさに<私>はこの「特殊な耐えがたい声がアルベルチーヌに向けられたものかもしれないという考え」にさいなまれた。しかし「忍び声や、笑い声や、淫らな喘ぎ声」が「特殊な耐えがたい声」に置き換えられて聞こえるのはそれが「アルベルチーヌに向けられたものかもしれないという考え」に支えられている限りのことである。アルベルチーヌに対する同性愛疑惑を一方で支えているのは他でもない<私>なのだ。
「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)
というふうに。もしそうでないなら<私>は「忍び声や、笑い声や、淫らな喘ぎ声」を「特殊な耐えがたい声」として聞き取ることはない。リゾート地特有の記号の一つに過ぎないと思い、ただ無関心な態度でやり過ごしていただろう。
また「私は浜辺で、すらりとした若い色白の美人を見かけた」。そのまなざしは「まるで目を灯台にしてアルベルチーヌに合図を送っているふうである」。何らかの身振り(言語)をきっかけに一度芽生えた疑惑は記号論的コノテーションの増殖をますます引き起こしていくばかりだ。
「私は浜辺で、すらりとした若い色白の美人を見かけた。その目の中央からは幾何学的な明るい光が放射され、そのまなざしを前にすると、なにやら星座を見ている気になる。私はこの若い女のほうがアルベルチーヌよりずっと美人ではないか、アルベルチーヌを諦めたほうが賢明ではないかと考えた。ただしこの若い美人は、ひどく下品な暮らしのなかでたえず姑息な策を弄してきたらしく、顔にはそんな暮らしの目には見えぬ鉋(かんな)がかけられていたせいか、顔のほかの部分よりもずっと高貴なその目からは、ただものほしげな欲望の光だけが放たれていた。ところが私はその翌日、カジノで私たちから非常に遠く離れた席にいたこの若い婦人が、あたりをくるくるかわるがわる照らすまなざしの光をたえまなくアルベルチーヌに注いでいるのに気づいた。まるで目を灯台にしてアルベルチーヌに合図を送っているふうである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.556~557」岩波文庫 二〇一五年)
さらに「きらきら光る目のこの女は」と続いていく。
「きらきら光る目のこの女は、べつの年にもバルベックに来ていたのかもしれない。この女があえてこれ見よがしの光の合図をアルベルチーヌに送ったのは、アルベルチーヌがすでにこの女の欲望なりべつの女友だちの欲望なりに身を任せていたからかもしれない。だとするとあの合図は、現在なにかを求めているというより、なにかを求める根拠として過去の楽しかった時間をほのめかしているのではないか」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.557」岩波文庫 二〇一五年)
嫉妬の塊と化した<私>の頭の中は、と言いたいところだが、一度嫉妬に駆られた人間というものは、その度合いの違いがあるだけのことで、何をやらかすかわからない点ではどこにでも転がっている事例の一つにしか見えないことも事実ではないだろうか。
それより遥かに注目したいのは、プルーストが「目の中央からは幾何学的な明るい光が放射され」とか「目を灯台にして」とかの言葉で示している「目」の機能について。ニーチェはいう。
「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる。画家、彫刻家、叙事詩人はすぐれて幻想家である」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫 一九九四年)
おそらくそのニーチェの言葉が念頭にあったのだろう。ドゥルーズはいう。
「眼は光を拘束するのであり、眼それ自身が拘束された光なのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第二章・P.264」河出文庫 二〇〇七年)
<拘束された光としての眼>。もはや人間の目は機械と化したかのようだ。すでに人間が「どのように機械《と結びついて部品となるのか》、あるいはほかの別のものと結びついて部品となり機械を構成することになるのかといったことを示すことが問題なのである」。
「ここでは、もはや、機械と人間とを比較対照して、一方と他方との間に相互に対応、延長、代用の関係が可能であるか否かを評定するといったことが問題なのではない。そうではなくて、むしろ、人間と機械との間にコミュニケイションを形成して、人間がどのように機械《と結びついて部品となるのか》、あるいはほかの別のものと結びついて部品となり機械を構成することになるのかといったことを示すことが問題なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・補遺・P.460」河出書房新社 一九八六年)
人間の目の機能を機械が代理するわけではない。早くも至るところに設置され、ますます設置されていく或る種の機械と人間の行動とは、いつどこにおいても結び付けられてしまっているということが問われねばならない。ジジェクは「デジタル警察国家の時代」と呼んでこう述べる。
「間違いなくわたしたちは、デジタル警察国家の時代に突入している。デジタル機械はあの手この手でわたしたちの私的な事実や行動を、健康から買い物の習慣、政治的意見から娯楽、仕事上の決定から性行為にいたるまで、すべて記録しているのだ。今日のスーパーコンピューターがあれば、この莫大な量のデータを各個人のファイルにきれいに仕分け整理し、すべてのデータに国家機関や私企業がアクセスできるようにすることが可能である。しかし事態を真に一変させてしまうのは、デジタル管理そのものではなく、脳科学者お気に入りのプロジェクトだ。デジタル機械がわたしたちの心を直接読み取れるようにする(もちろんわたしたちには知られずに)のである」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.114」青土社 二〇二二年)
例えば、一方に人間がいてもう一方に「目をスキャンする」機械装置が設置されているような場所。要するに先進国ではもはや当り前になりつつある光景。顔認証が広く採用されていくとともに目による認証もどんどん開発されつつある。すると商業施設、例えばデパートを例に取ると、それは何をするためのどのような装置へ変換されるのか。
「機械が目をスキャンすることによりわれわれの身元を特定し、銀行口座を照会して、購買力を確かめる。加えて店を出るとき自動で持っているものを記録するため、わたしたちは何もする必要がない。デパートはわたしたちにとって、ただ入り、欲しいものや必要なものを手に取り、立ち去るだけの場所になる」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.115」青土社 二〇二二年)
ジジェクがしつこく「コモンズ」と「コモンズの管理」とに言及するには理由がある。
「自由をもとめる戦いは結局のところコモンズの管理をめぐる戦いであり、今日これはわたしたちの生活を統制するデジタル空間を誰が管理するかという戦いを意味する。だから『中国対西洋』などではないーーーファーウェイと西洋のあいだで目下行われている闘争は二次的なものであり、わたしたちを支配しようとする者同士の党派間の争いにすぎない。真の闘争は、彼ら全員と、彼らに管理されているわたしたち普通の人々との間にあるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・3・P.96」青土社 二〇二二年)
ロシアが統制しているのは情報でありEUが規制しているのはウェブである。その他もろもろ。今やデジタルネットワークを制する者が世界を制するというべきだろう。最近のテレビ、さらに詳しいのは週刊誌報道だが、統一協会問題が大々的に取り上げられている。記事に目を通せば一目瞭然というべきか、統一協会の本当の狙いがどこにあるのか。ソフト路線に移行するとともに見えてきた狙いは何なのか。どのような諸機関が関わっているか。見たくなくても見ないわけにはいかない課題がようやく見えつつあるのではと思われる。
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「そしてある夜、私が、アルベルチーヌと、たまたま出会ったブロックとの三人で、なかば灯りの消えたカジノから出てきたとき、例のふたりがからみあい絶えずキスをしながら通りかかり、私たちのところまで来ると、忍び声や、笑い声や、淫らな喘ぎ声をあげた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.556」岩波文庫 二〇一五年)
とっさに<私>はこの「特殊な耐えがたい声がアルベルチーヌに向けられたものかもしれないという考え」にさいなまれた。しかし「忍び声や、笑い声や、淫らな喘ぎ声」が「特殊な耐えがたい声」に置き換えられて聞こえるのはそれが「アルベルチーヌに向けられたものかもしれないという考え」に支えられている限りのことである。アルベルチーヌに対する同性愛疑惑を一方で支えているのは他でもない<私>なのだ。
「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)
というふうに。もしそうでないなら<私>は「忍び声や、笑い声や、淫らな喘ぎ声」を「特殊な耐えがたい声」として聞き取ることはない。リゾート地特有の記号の一つに過ぎないと思い、ただ無関心な態度でやり過ごしていただろう。
また「私は浜辺で、すらりとした若い色白の美人を見かけた」。そのまなざしは「まるで目を灯台にしてアルベルチーヌに合図を送っているふうである」。何らかの身振り(言語)をきっかけに一度芽生えた疑惑は記号論的コノテーションの増殖をますます引き起こしていくばかりだ。
「私は浜辺で、すらりとした若い色白の美人を見かけた。その目の中央からは幾何学的な明るい光が放射され、そのまなざしを前にすると、なにやら星座を見ている気になる。私はこの若い女のほうがアルベルチーヌよりずっと美人ではないか、アルベルチーヌを諦めたほうが賢明ではないかと考えた。ただしこの若い美人は、ひどく下品な暮らしのなかでたえず姑息な策を弄してきたらしく、顔にはそんな暮らしの目には見えぬ鉋(かんな)がかけられていたせいか、顔のほかの部分よりもずっと高貴なその目からは、ただものほしげな欲望の光だけが放たれていた。ところが私はその翌日、カジノで私たちから非常に遠く離れた席にいたこの若い婦人が、あたりをくるくるかわるがわる照らすまなざしの光をたえまなくアルベルチーヌに注いでいるのに気づいた。まるで目を灯台にしてアルベルチーヌに合図を送っているふうである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.556~557」岩波文庫 二〇一五年)
さらに「きらきら光る目のこの女は」と続いていく。
「きらきら光る目のこの女は、べつの年にもバルベックに来ていたのかもしれない。この女があえてこれ見よがしの光の合図をアルベルチーヌに送ったのは、アルベルチーヌがすでにこの女の欲望なりべつの女友だちの欲望なりに身を任せていたからかもしれない。だとするとあの合図は、現在なにかを求めているというより、なにかを求める根拠として過去の楽しかった時間をほのめかしているのではないか」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.557」岩波文庫 二〇一五年)
嫉妬の塊と化した<私>の頭の中は、と言いたいところだが、一度嫉妬に駆られた人間というものは、その度合いの違いがあるだけのことで、何をやらかすかわからない点ではどこにでも転がっている事例の一つにしか見えないことも事実ではないだろうか。
それより遥かに注目したいのは、プルーストが「目の中央からは幾何学的な明るい光が放射され」とか「目を灯台にして」とかの言葉で示している「目」の機能について。ニーチェはいう。
「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる。画家、彫刻家、叙事詩人はすぐれて幻想家である」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫 一九九四年)
おそらくそのニーチェの言葉が念頭にあったのだろう。ドゥルーズはいう。
「眼は光を拘束するのであり、眼それ自身が拘束された光なのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第二章・P.264」河出文庫 二〇〇七年)
<拘束された光としての眼>。もはや人間の目は機械と化したかのようだ。すでに人間が「どのように機械《と結びついて部品となるのか》、あるいはほかの別のものと結びついて部品となり機械を構成することになるのかといったことを示すことが問題なのである」。
「ここでは、もはや、機械と人間とを比較対照して、一方と他方との間に相互に対応、延長、代用の関係が可能であるか否かを評定するといったことが問題なのではない。そうではなくて、むしろ、人間と機械との間にコミュニケイションを形成して、人間がどのように機械《と結びついて部品となるのか》、あるいはほかの別のものと結びついて部品となり機械を構成することになるのかといったことを示すことが問題なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・補遺・P.460」河出書房新社 一九八六年)
人間の目の機能を機械が代理するわけではない。早くも至るところに設置され、ますます設置されていく或る種の機械と人間の行動とは、いつどこにおいても結び付けられてしまっているということが問われねばならない。ジジェクは「デジタル警察国家の時代」と呼んでこう述べる。
「間違いなくわたしたちは、デジタル警察国家の時代に突入している。デジタル機械はあの手この手でわたしたちの私的な事実や行動を、健康から買い物の習慣、政治的意見から娯楽、仕事上の決定から性行為にいたるまで、すべて記録しているのだ。今日のスーパーコンピューターがあれば、この莫大な量のデータを各個人のファイルにきれいに仕分け整理し、すべてのデータに国家機関や私企業がアクセスできるようにすることが可能である。しかし事態を真に一変させてしまうのは、デジタル管理そのものではなく、脳科学者お気に入りのプロジェクトだ。デジタル機械がわたしたちの心を直接読み取れるようにする(もちろんわたしたちには知られずに)のである」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.114」青土社 二〇二二年)
例えば、一方に人間がいてもう一方に「目をスキャンする」機械装置が設置されているような場所。要するに先進国ではもはや当り前になりつつある光景。顔認証が広く採用されていくとともに目による認証もどんどん開発されつつある。すると商業施設、例えばデパートを例に取ると、それは何をするためのどのような装置へ変換されるのか。
「機械が目をスキャンすることによりわれわれの身元を特定し、銀行口座を照会して、購買力を確かめる。加えて店を出るとき自動で持っているものを記録するため、わたしたちは何もする必要がない。デパートはわたしたちにとって、ただ入り、欲しいものや必要なものを手に取り、立ち去るだけの場所になる」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.115」青土社 二〇二二年)
ジジェクがしつこく「コモンズ」と「コモンズの管理」とに言及するには理由がある。
「自由をもとめる戦いは結局のところコモンズの管理をめぐる戦いであり、今日これはわたしたちの生活を統制するデジタル空間を誰が管理するかという戦いを意味する。だから『中国対西洋』などではないーーーファーウェイと西洋のあいだで目下行われている闘争は二次的なものであり、わたしたちを支配しようとする者同士の党派間の争いにすぎない。真の闘争は、彼ら全員と、彼らに管理されているわたしたち普通の人々との間にあるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・3・P.96」青土社 二〇二二年)
ロシアが統制しているのは情報でありEUが規制しているのはウェブである。その他もろもろ。今やデジタルネットワークを制する者が世界を制するというべきだろう。最近のテレビ、さらに詳しいのは週刊誌報道だが、統一協会問題が大々的に取り上げられている。記事に目を通せば一目瞭然というべきか、統一協会の本当の狙いがどこにあるのか。ソフト路線に移行するとともに見えてきた狙いは何なのか。どのような諸機関が関わっているか。見たくなくても見ないわけにはいかない課題がようやく見えつつあるのではと思われる。
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