ルイスはおもう。「霊魂」すなわち「欲望する種々の流れ」を「肉体から離し、休むところもなく野原の上を走っている」わけだがそのとき周囲の風景は「夢のようでぼんやりしている」と。
「『こうして霊魂を肉体から離し、休むところもなく野原の上を走っているとーーー(川がある、男が魚を釣っている。尖塔がある、村道があって弓形の窓をした宿屋がある)みんな僕には夢のようでぼんやりしている。こうした苦々しい数々の思い、この羨み、この辛酸、こうしたものが僕の心に休みどころを与えない。僕はルイスの幽霊、果敢ない命の路傍の人だ。その心の中では数々の夢が力を持っている。ーーーだが、鎖に繋がれた獣が海岸でずしんと足を踏んでいる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.64~65」角川文庫)
ルイスはルイス自身が「ルイスの幽霊」に思えてきて「夢が力を持」つ。ウルフ作品に独特の「ぼんやり性」。この、「夢が力を持」つとはどのような状態をいうのか。
「私たちの過去が、じぶんにはほとんどまったく隠されたままであるのは、過去が現在の行動の必要によって抑止されているからであるとすれば、過去は意識の閾を踏みこえる力を、私たちが有効な行動に対する関心を離脱して、いわば夢の生へと身を置くたびごとに、ふたたび獲得することになるだろう」(ベルクソン「物質と記憶・P.305~306」岩波文庫)
そして人間の認識はP.321図5にあるように、逆円錐の点SからABの間を常に行ったり来たりしている。
「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)
さらに「心の中では数々の夢が力を持」つとルイスがいうときの、夢の多層的複数性ならびにその奇妙な形態〔内的融合〕について。
「もし私たちが自我と外的事物との接触面の下を掘り進んで、有機化された生きた知性の奥底まで侵入していけば、私たちはきっと、一度分離されたために、論理的に矛盾する諸項というかたちで相互に排除し合っているように見える多くの観念の重なり合い、あるいはむしろ内的融合を目撃することになるだろう。世にも奇妙な夢ではある。けれども、二つのイメージが重なり合って、異なる二人の人間を同時に示すが、それでも一人でしかないという、この夢は、目覚めた状態における私たちの概念の相互浸透について、わずかながら或る観念を与えてくれるであろう。夢見る人の想像力は、外的世界から隔離されてはいるが、知的生活のいっそう深い領域で絶えず観念の上で続けられている作業を単純なイメージに基づいて再現し、それなりの流儀でつくり変えているのである」(ベルクソン「時間と自由・P.163~164」岩波文庫)
また、ルイスの特性なのだが、「鎖に繋がれた獣が海岸でずしんと足を踏んでいる」イメージを反復している。どこか悲しげな様子は人間が本来持っている野生的生という概念に関係がある。「海岸」で、まさに「波打ち際」で足止めされ、そのため完全な波になって大海へ帰っていき一つの宇宙として融合し合うこともできず、かといって海から上陸して完全な確固たる固形物として山脈をなす大地の生を永遠の事業として担うこともできず、どちらでもなければどちらでもありうるような、常にその《あいだ》をさまようほかない人間として束縛されている苦悶のうちにある。夢と現実との《あいだ》ということ。しかし人間はいつも両者の《あいだ》をさまようことしか許されていない認識機械としては、常に既に持続の前か後かを知るばかりでしかないのかもしれない。それでもなお中心に位置しようとするためには実際にウルフがやったように自殺してしまうほかないのかも知れない。だからそれを避けるために、ニーチェのいうように、人間はあえて芸術を持つのに違いない。
バーナードもまた車中の人となっている。旅行客が乗り込んでくる。それを見てこうおもう。
「『僕はお互いが別れ別れに分離していることを信じない。われわれは単一じゃあないんだ。それに又僕は、人生の真の性質に関する僕の貴重な観察の蒐集をふやしたいのだ。僕の書物は、知り得る限りの種類の男女を包含して、きっと大部な巻数になることだろう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.65」角川文庫)
バーナードは「われわれは単一じゃあない」と強くおもう。なるほど姿形こそそれぞれ「分離」して見えてはいても、それはそう映って見えているに過ぎず、むしろ「知り得る限りの種類の男女を包含し」得ると考える。単一性についてはもう少し後でまとめて述べたい。
さて、ネヴィル。子どもの頃のバーナードの行為を思い出してこう考える。
「『彼はその話を子供の折、パンを小さな球に丸めた時に始めたのだ。一つの球は男で、一つは女だった。僕たちはみんな小さな球なんだ。僕たちはすっかりバーナードの物語の文句だし、<あ>や<い>の下の欄で、その雑記帖に書き下された色々な事柄なのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.67~68」角川文庫)
子ども時代、みんなはよく一緒に遊んだものだった。なかでもバーナードは言語化の学習に優れていた。他の仲間たちをパンから作った「球」にしてみたり、少し成長してからは巧みに言語を操り仲間たちをバーナード語録とでも呼べそうなストーリーの中へと言語化して仲間たちの人生を目録化してしまった。バーナードの「雑記帖」の一部分はバーナードとその仲間たちのストーリーで満たされている。今や逆に「雑記帖」の側が上位に立ってバーナードとその仲間たちの人生を支配する記述に《なる》。そして「雑記帖」は各々の目録でもある限り、それはバーナードとその仲間たちの人生をまさしく支配する「履歴書」に《なる》。バーナードとその仲間たちの人生は、ほかでもない「履歴書」として社会へ出ていく。ネヴィルの淡々とした様子は自分たちの人生が実は言語化されてしまうという形態を取らないわけにはいかないという必然性の前で打ちひしがれた諦観から到来するべく送り届けられている。
波の描写。その一部分。鏡の効果。
「鏡は壁の上で面を白く輝かせた。窓閾のうつつの花は幻の花を伴ってもいた。でもその幻は花の一部でもあったのだ。蕾の一つがのびのびと花開いた時、鏡の中の色淡い花もまた、蕾の一つを開いたのだから」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.73」角川文庫)
しかしただ単なる鏡の効果だけを述べたわけではないというべきだ。鏡に反映する映像をも含めてこの風景全体を「或る一刻」として内包する一つの宇宙と捉えねばならないだろう。なるほど単なる風景が描かれているに過ぎない。けれどもそれを構成する鳥、花、風、波などはどれも併せて全体で一つの「或る一刻」をなす。
ところで再びバーナード。単一性について。
「『僕は一つの単一ではなくて、複合した多数であることがはっきりする。バーナードは、公然としては泡だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.73」角川文庫)
個人は「単一ではな」いし「単一では」ありえない。バーナードのいう通りだ。ニーチェはこういっていた。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)
「『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)
ちなみに、ニーチェが批判している「持続」はベルクソンのいう「持続」ではない。社会的文法によって強制的にでっち上げられ固定化された「因果関係」のことだ。さらにニーチェを激怒させるのは、いったん固定化された因果関係であっても、それは国家装置の都合次第でまったく別の因果関係へ加工=変造され、その時その時の支配的権力(教会、国家、科学、資本など)の思うがままにさんざん濫用されてきたという動かしようのない歴史である。このように因果関係を偽造=変造する権力装置のやりたい放題の歴史を歴史的事実として目の当たりにしてきた哲学者として、ニーチェの目には、因果関係の絶対性など本気にするほうがどうかしていると映って見えるほかない。しかしそれはどのようにして遂行されたか。
まず主人と奴隷との差異が抹消された。それは最初期あるいは台頭期の資本主義によって達成された。さらに理性と狂気との差異も抹消された。そのことで以前は或る種の神秘性を獲得していた狂気からその独自性が剥がされ、ただ単なる人間へと解消された。そのように、すべての人間をいったん「同等」な人間として、「数えられるもの、算定できるもの」すなわち「約束をなしうる動物」へと統一した。この過程は長い習慣化を通してなされた。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)
その後に、改めて目に見えない境界線を引いた。たとえば、人間としては同等であるが同等であるとしたさらにその上で人間を健常者と狂人とに分割した。また経済的次元では債権者と債務者とに分割した。資本主義市場のグローバル化にしたがって主人は人格化された資本になり奴隷はいつでも交換可能(あるいは廃棄可能)な労働力になった。とりわけ労働者は奴隷から解放されはしたけれども、奴隷から解放されたことで逆に主人による保護を失った。命の保証を失くした。そのような仕方で更新された差異の導入が行われたのだが、あらゆる人間をいったん「同等」な人間として認める必要があったのは「約束・契約」を実行できる人間という概念を捏造するための方便が必要とされたからである。そして改めて両者の間に目に見えない途方もない厚みと深みのある境界線を設けて分割したのだ。こうして、人間としては同じであるとされる以上、どのような立場であっても、「約束・契約」を果たすことができ、また果たされねばならないという掟が創設されるに至った。たとえば、経済的諸関係の場では次のように。
「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫)
単一に見えるものであっても、それはその時点ですでにおそろしく「複合化」されているとニーチェはいう。統一は「見せかけ」だと。
「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四八九・P.33」ちくま学芸文庫)
ところでバーナードは自分のことを「複合した多数」だと考えてはいるが、世間の間で、「公然としては泡だ」と考える。作品「船出」でヒューウェットは友人ハーストにこういっていた。
「『事実は、人は決してひとりではないし、誰かの仲間でもないんだ』『意味するところは?』とハースト。『意味するところ?そう、泡みたいなものーーーオーラかなーーーきみだったら何ていう?きみにはぼくの泡が見えないし、ぼくにはきみの泡が見えない。互いに見ることができるのは点、炎の真ん中の芯みたいなものだけだ。炎はどこにでもついて回る。炎はぼくら自身ではなく、ぼくらの感じるもの、つまりまわりの世界、主に人間たち、いろいろな人間たちだ』『きみはさぞ頼りない泡に違いない!』ハーストが言い返す。『で、ぼくの泡が誰かの泡にぶつかるとーーー』『両方ともはじけるのか?』ハーストが口を挟んだ。『そうするとーーーそうするとーーーそうするとヒューウェットは独りじっくり考え込み『それは、それは、でっかーい世界になるだろう』と思いきり両腕を伸ばし、それでも渦巻く宇宙は捕らえられぬとでも言いたげだった。ハーストといるときはいつでも、異常に、あてどもなく旺盛になるのだ。『前はまったくきみはばかだと思っていたが、今はそうは思わない』ハーストが言った。『自分が何を言いたいのか、わかっていないが、とにかく何か言おうとしている』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.186~187」岩波文庫)
バーナードの思想はウルフのデビュー作「船出」の中ですでにヒューウェットによって述べらている。「『で、ぼくの泡が誰かの泡にぶつかるとーーー』『両方ともはじけるのか?』ハーストが口を挟んだ。『そうするとーーーそうするとーーーそうするとヒューウェットは独りじっくり考え込み『それは、それは、でっかーい世界になるだろう』と思いきり両腕を伸ばし、それでも渦巻く宇宙は捕らえられぬ」というほど大規模な、というより、規模という概念を超えた、想像もつかないような宇宙的融合が目指されている。しかし「泡」は遂に「泡」なのかもしれない。小説後半、自分たちのことを指して「泡沫」とさえ誰かがいう。だがそれはそのときに触れよう。
バーナードは自分が種々の仮面を次々と付け換え演じていかねばならないことをよく意識している。そして、苦労して手に入れた人生だけれども、その実状は仮面の付け換えこそが人生最大の仕事だと言わんばかりなのだ。ちなみに村上春樹用語でいえば「やれやれ」といったところだろう。
「『彼等は、僕が種々雑多な推移転換を行わねばならないこと、バーナードとして夫々の役割を交互に演ずる異なった人間たちの色々な出入口をふたがねばならないことなどがわかってはいない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.74」角川文庫)
バーナードのいうように、バーナードが仮面Aを付けているとき、バーナードは同時に同じ仮面Aを使用することは「ふたがねばならない」し、事実上そのようなことはできない。言い換えれば、商品Aは同時に別のところで同一の商品Aであることは不可能である。或る人間が仮面Aを演じているとき、同時に或る人間も他の人間も同じ仮面Aを使用することはできない。何より危険なことは素顔の露呈である。作品「モナリザ」のように。あのような素顔の露呈は、それを果たしたのは資本主義なのだが、しかし様々な意味を増殖させてしまう。無数の意味の出現は逆に無意味を告げに来る。本当のモナリザなど実はないということを逆に暴露してしまう。素顔を与えることによって逆に素顔を覆い隠してしまう。ほんの瞬間的な裂け目を露出させるのみ。その裂け目から無限の意味が増殖する。だが意味は余りにも多数化していくほかないため、意味はまたもや無意味化される。意味と無意味との自動的反復が永遠に起こり続けることになる。古代神話が告げているように「多頭は無頭」なのだ。したがって仮面しかないことに気づく。あるいは言語しか。だが仮面を付け換えるとき、不意に素顔が露呈することは本当にないのだろうか。しかしこの問いは無意味だ。なぜなら素顔というものについて本当は誰も知ってなどいないからだ。
この辺りでいったんバーナードによる総括がなされる。
「『キャノン、リセット、ピータス、ホーキンンズ、ラーベント、ネヴィルーーーこんな連中がみんな中流の魚だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.74」角川文庫)
バーナードを取り巻く登場人物らの名。複数である。したがって「群れ」といってもいい。そしてバーナードにとってそれらは「みんな中流の魚」でしかなく《なる》。「魚類」への生成変化を確認しておこう。プルーストではアルベルチーヌの「両棲類」への生成変化があったのだが覚えているだろうか。
「そんな彼女は、あるときは、あの海の環境から出てしまって、私の占有物となり大きな価値をもたなくなったアルベルチーヌであり、またあるときは、ふたたび元の環境にとびこみ、私からのがれて私の知りえないようなある過去のなかにはいってしまい、女の友であるあの婦人にくっついて、波しぶきかくるめく日ざしのように私の気分をわるくするアルベルチーヌであって、浜辺にもどされたり、私の部屋に帰ったりの、いわば水陸両棲の愛に生きるアルベルチーヌなのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.300」ちくま文庫)
なお、アルベルチーヌは「女の友であるあの婦人にくっついて」いることがある同性愛者でもあることを見落としてはいけない。それを確実なものにするのはほかでもない語り手の嫉妬である。「くるめく日ざしのように私の気分をわるくする」とある。そういえば思い出した。芸術に携わる或る種の人間は「薔薇」から、薔薇そのものが持つ芸術性を生産することができる。芸術性を生産するという行為によって、登場してくる一つの「家系」を、薔薇が与える高貴性の次元へ移し変えることができる。次のように。
「というのもエルスチールは、一つの花をながめるにしても、その花をまずわれわれの内心の庭、われわれがつねにそこにとどまらざるをえない内心の庭に移しながらでなくては、それをながめることができなかったからである。彼はこの水彩画のなかで、彼が見た薔薇、そして彼がいなければ人がけっして知ることのなかった薔薇、そんな薔薇の幻をわれわれの目に見せてくれたのであった、したがってその薔薇は、この画家が、天才的な園芸家とおなじように、《薔薇》という家系をゆたかにして出現させた、新しい一つの変種だということができるだろう」(プルースト「失われた時を求めて7・P.166」ちくま文庫)
そのとき始めて「薔薇」という冠を付与された「或る家系」が発生するのであって、この発生は事後的であり、それ以前ではありえない。知覚にまつわる潜在的あるいは可能的という逆説性について。
「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない」(ベルクソン「創造的進化・P.240」ちくま学芸文庫)
たとえば、犯人が鴨川を渡るとしよう。犯人が鴨川を渡ったがゆえに、逆に犯人が鴨川を渡らなかった可能的様態について始めてなおかつ一挙にその行動の素描を下描きする〔想定する〕ことが可能となる、という意味で事後的なのだ。
ちなみにこの両日にまたがる日本での大騒動。新天皇の即位に当たって日程を決定したのは今の内閣である。日本のテレビ・マスコミは大騒ぎを演出することに大いに貢献した。とりわけ沖縄新基地建設、原発問題、天皇制そのものの持つ問題までがそれによって隠蔽された。安倍首相を中心とする内閣は新天皇の即位を知覚してから(見てから)沖縄、原発、天皇制といった諸問題の検討に入ったのではない。逆に沖縄新基地建設、原発問題、天皇制そのものの持つ問題など諸々の諸問題の進捗具合を知覚してから(見てから)新天皇の即位に当たって日程を決定したのだ。その意味で日本全土にわだかまる諸々の諸問題の「輪郭」を内閣は先に知覚する。知覚した(把握した)その時点で即位の日程についての可能的潜在的な行動の素描を一挙に下描きした。事態は次のように推移した。
「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・P.30~31」ちくま学芸文庫)
さらに内閣は新天皇の即位という出来事を流通貨幣として機能させた。諸問題を隠蔽する方便として濫用した。こんなふうに。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
あるいは次のようにも。
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
金融関係者のあいだではこうも映ったに違いない。もしそんなふうには映っていないというのならその人物は金融関係者でないか少なくともその資格を有していない。
「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)
BGM
「『こうして霊魂を肉体から離し、休むところもなく野原の上を走っているとーーー(川がある、男が魚を釣っている。尖塔がある、村道があって弓形の窓をした宿屋がある)みんな僕には夢のようでぼんやりしている。こうした苦々しい数々の思い、この羨み、この辛酸、こうしたものが僕の心に休みどころを与えない。僕はルイスの幽霊、果敢ない命の路傍の人だ。その心の中では数々の夢が力を持っている。ーーーだが、鎖に繋がれた獣が海岸でずしんと足を踏んでいる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.64~65」角川文庫)
ルイスはルイス自身が「ルイスの幽霊」に思えてきて「夢が力を持」つ。ウルフ作品に独特の「ぼんやり性」。この、「夢が力を持」つとはどのような状態をいうのか。
「私たちの過去が、じぶんにはほとんどまったく隠されたままであるのは、過去が現在の行動の必要によって抑止されているからであるとすれば、過去は意識の閾を踏みこえる力を、私たちが有効な行動に対する関心を離脱して、いわば夢の生へと身を置くたびごとに、ふたたび獲得することになるだろう」(ベルクソン「物質と記憶・P.305~306」岩波文庫)
そして人間の認識はP.321図5にあるように、逆円錐の点SからABの間を常に行ったり来たりしている。
「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)
さらに「心の中では数々の夢が力を持」つとルイスがいうときの、夢の多層的複数性ならびにその奇妙な形態〔内的融合〕について。
「もし私たちが自我と外的事物との接触面の下を掘り進んで、有機化された生きた知性の奥底まで侵入していけば、私たちはきっと、一度分離されたために、論理的に矛盾する諸項というかたちで相互に排除し合っているように見える多くの観念の重なり合い、あるいはむしろ内的融合を目撃することになるだろう。世にも奇妙な夢ではある。けれども、二つのイメージが重なり合って、異なる二人の人間を同時に示すが、それでも一人でしかないという、この夢は、目覚めた状態における私たちの概念の相互浸透について、わずかながら或る観念を与えてくれるであろう。夢見る人の想像力は、外的世界から隔離されてはいるが、知的生活のいっそう深い領域で絶えず観念の上で続けられている作業を単純なイメージに基づいて再現し、それなりの流儀でつくり変えているのである」(ベルクソン「時間と自由・P.163~164」岩波文庫)
また、ルイスの特性なのだが、「鎖に繋がれた獣が海岸でずしんと足を踏んでいる」イメージを反復している。どこか悲しげな様子は人間が本来持っている野生的生という概念に関係がある。「海岸」で、まさに「波打ち際」で足止めされ、そのため完全な波になって大海へ帰っていき一つの宇宙として融合し合うこともできず、かといって海から上陸して完全な確固たる固形物として山脈をなす大地の生を永遠の事業として担うこともできず、どちらでもなければどちらでもありうるような、常にその《あいだ》をさまようほかない人間として束縛されている苦悶のうちにある。夢と現実との《あいだ》ということ。しかし人間はいつも両者の《あいだ》をさまようことしか許されていない認識機械としては、常に既に持続の前か後かを知るばかりでしかないのかもしれない。それでもなお中心に位置しようとするためには実際にウルフがやったように自殺してしまうほかないのかも知れない。だからそれを避けるために、ニーチェのいうように、人間はあえて芸術を持つのに違いない。
バーナードもまた車中の人となっている。旅行客が乗り込んでくる。それを見てこうおもう。
「『僕はお互いが別れ別れに分離していることを信じない。われわれは単一じゃあないんだ。それに又僕は、人生の真の性質に関する僕の貴重な観察の蒐集をふやしたいのだ。僕の書物は、知り得る限りの種類の男女を包含して、きっと大部な巻数になることだろう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.65」角川文庫)
バーナードは「われわれは単一じゃあない」と強くおもう。なるほど姿形こそそれぞれ「分離」して見えてはいても、それはそう映って見えているに過ぎず、むしろ「知り得る限りの種類の男女を包含し」得ると考える。単一性についてはもう少し後でまとめて述べたい。
さて、ネヴィル。子どもの頃のバーナードの行為を思い出してこう考える。
「『彼はその話を子供の折、パンを小さな球に丸めた時に始めたのだ。一つの球は男で、一つは女だった。僕たちはみんな小さな球なんだ。僕たちはすっかりバーナードの物語の文句だし、<あ>や<い>の下の欄で、その雑記帖に書き下された色々な事柄なのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.67~68」角川文庫)
子ども時代、みんなはよく一緒に遊んだものだった。なかでもバーナードは言語化の学習に優れていた。他の仲間たちをパンから作った「球」にしてみたり、少し成長してからは巧みに言語を操り仲間たちをバーナード語録とでも呼べそうなストーリーの中へと言語化して仲間たちの人生を目録化してしまった。バーナードの「雑記帖」の一部分はバーナードとその仲間たちのストーリーで満たされている。今や逆に「雑記帖」の側が上位に立ってバーナードとその仲間たちの人生を支配する記述に《なる》。そして「雑記帖」は各々の目録でもある限り、それはバーナードとその仲間たちの人生をまさしく支配する「履歴書」に《なる》。バーナードとその仲間たちの人生は、ほかでもない「履歴書」として社会へ出ていく。ネヴィルの淡々とした様子は自分たちの人生が実は言語化されてしまうという形態を取らないわけにはいかないという必然性の前で打ちひしがれた諦観から到来するべく送り届けられている。
波の描写。その一部分。鏡の効果。
「鏡は壁の上で面を白く輝かせた。窓閾のうつつの花は幻の花を伴ってもいた。でもその幻は花の一部でもあったのだ。蕾の一つがのびのびと花開いた時、鏡の中の色淡い花もまた、蕾の一つを開いたのだから」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.73」角川文庫)
しかしただ単なる鏡の効果だけを述べたわけではないというべきだ。鏡に反映する映像をも含めてこの風景全体を「或る一刻」として内包する一つの宇宙と捉えねばならないだろう。なるほど単なる風景が描かれているに過ぎない。けれどもそれを構成する鳥、花、風、波などはどれも併せて全体で一つの「或る一刻」をなす。
ところで再びバーナード。単一性について。
「『僕は一つの単一ではなくて、複合した多数であることがはっきりする。バーナードは、公然としては泡だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.73」角川文庫)
個人は「単一ではな」いし「単一では」ありえない。バーナードのいう通りだ。ニーチェはこういっていた。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)
「『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)
ちなみに、ニーチェが批判している「持続」はベルクソンのいう「持続」ではない。社会的文法によって強制的にでっち上げられ固定化された「因果関係」のことだ。さらにニーチェを激怒させるのは、いったん固定化された因果関係であっても、それは国家装置の都合次第でまったく別の因果関係へ加工=変造され、その時その時の支配的権力(教会、国家、科学、資本など)の思うがままにさんざん濫用されてきたという動かしようのない歴史である。このように因果関係を偽造=変造する権力装置のやりたい放題の歴史を歴史的事実として目の当たりにしてきた哲学者として、ニーチェの目には、因果関係の絶対性など本気にするほうがどうかしていると映って見えるほかない。しかしそれはどのようにして遂行されたか。
まず主人と奴隷との差異が抹消された。それは最初期あるいは台頭期の資本主義によって達成された。さらに理性と狂気との差異も抹消された。そのことで以前は或る種の神秘性を獲得していた狂気からその独自性が剥がされ、ただ単なる人間へと解消された。そのように、すべての人間をいったん「同等」な人間として、「数えられるもの、算定できるもの」すなわち「約束をなしうる動物」へと統一した。この過程は長い習慣化を通してなされた。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)
その後に、改めて目に見えない境界線を引いた。たとえば、人間としては同等であるが同等であるとしたさらにその上で人間を健常者と狂人とに分割した。また経済的次元では債権者と債務者とに分割した。資本主義市場のグローバル化にしたがって主人は人格化された資本になり奴隷はいつでも交換可能(あるいは廃棄可能)な労働力になった。とりわけ労働者は奴隷から解放されはしたけれども、奴隷から解放されたことで逆に主人による保護を失った。命の保証を失くした。そのような仕方で更新された差異の導入が行われたのだが、あらゆる人間をいったん「同等」な人間として認める必要があったのは「約束・契約」を実行できる人間という概念を捏造するための方便が必要とされたからである。そして改めて両者の間に目に見えない途方もない厚みと深みのある境界線を設けて分割したのだ。こうして、人間としては同じであるとされる以上、どのような立場であっても、「約束・契約」を果たすことができ、また果たされねばならないという掟が創設されるに至った。たとえば、経済的諸関係の場では次のように。
「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫)
単一に見えるものであっても、それはその時点ですでにおそろしく「複合化」されているとニーチェはいう。統一は「見せかけ」だと。
「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四八九・P.33」ちくま学芸文庫)
ところでバーナードは自分のことを「複合した多数」だと考えてはいるが、世間の間で、「公然としては泡だ」と考える。作品「船出」でヒューウェットは友人ハーストにこういっていた。
「『事実は、人は決してひとりではないし、誰かの仲間でもないんだ』『意味するところは?』とハースト。『意味するところ?そう、泡みたいなものーーーオーラかなーーーきみだったら何ていう?きみにはぼくの泡が見えないし、ぼくにはきみの泡が見えない。互いに見ることができるのは点、炎の真ん中の芯みたいなものだけだ。炎はどこにでもついて回る。炎はぼくら自身ではなく、ぼくらの感じるもの、つまりまわりの世界、主に人間たち、いろいろな人間たちだ』『きみはさぞ頼りない泡に違いない!』ハーストが言い返す。『で、ぼくの泡が誰かの泡にぶつかるとーーー』『両方ともはじけるのか?』ハーストが口を挟んだ。『そうするとーーーそうするとーーーそうするとヒューウェットは独りじっくり考え込み『それは、それは、でっかーい世界になるだろう』と思いきり両腕を伸ばし、それでも渦巻く宇宙は捕らえられぬとでも言いたげだった。ハーストといるときはいつでも、異常に、あてどもなく旺盛になるのだ。『前はまったくきみはばかだと思っていたが、今はそうは思わない』ハーストが言った。『自分が何を言いたいのか、わかっていないが、とにかく何か言おうとしている』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.186~187」岩波文庫)
バーナードの思想はウルフのデビュー作「船出」の中ですでにヒューウェットによって述べらている。「『で、ぼくの泡が誰かの泡にぶつかるとーーー』『両方ともはじけるのか?』ハーストが口を挟んだ。『そうするとーーーそうするとーーーそうするとヒューウェットは独りじっくり考え込み『それは、それは、でっかーい世界になるだろう』と思いきり両腕を伸ばし、それでも渦巻く宇宙は捕らえられぬ」というほど大規模な、というより、規模という概念を超えた、想像もつかないような宇宙的融合が目指されている。しかし「泡」は遂に「泡」なのかもしれない。小説後半、自分たちのことを指して「泡沫」とさえ誰かがいう。だがそれはそのときに触れよう。
バーナードは自分が種々の仮面を次々と付け換え演じていかねばならないことをよく意識している。そして、苦労して手に入れた人生だけれども、その実状は仮面の付け換えこそが人生最大の仕事だと言わんばかりなのだ。ちなみに村上春樹用語でいえば「やれやれ」といったところだろう。
「『彼等は、僕が種々雑多な推移転換を行わねばならないこと、バーナードとして夫々の役割を交互に演ずる異なった人間たちの色々な出入口をふたがねばならないことなどがわかってはいない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.74」角川文庫)
バーナードのいうように、バーナードが仮面Aを付けているとき、バーナードは同時に同じ仮面Aを使用することは「ふたがねばならない」し、事実上そのようなことはできない。言い換えれば、商品Aは同時に別のところで同一の商品Aであることは不可能である。或る人間が仮面Aを演じているとき、同時に或る人間も他の人間も同じ仮面Aを使用することはできない。何より危険なことは素顔の露呈である。作品「モナリザ」のように。あのような素顔の露呈は、それを果たしたのは資本主義なのだが、しかし様々な意味を増殖させてしまう。無数の意味の出現は逆に無意味を告げに来る。本当のモナリザなど実はないということを逆に暴露してしまう。素顔を与えることによって逆に素顔を覆い隠してしまう。ほんの瞬間的な裂け目を露出させるのみ。その裂け目から無限の意味が増殖する。だが意味は余りにも多数化していくほかないため、意味はまたもや無意味化される。意味と無意味との自動的反復が永遠に起こり続けることになる。古代神話が告げているように「多頭は無頭」なのだ。したがって仮面しかないことに気づく。あるいは言語しか。だが仮面を付け換えるとき、不意に素顔が露呈することは本当にないのだろうか。しかしこの問いは無意味だ。なぜなら素顔というものについて本当は誰も知ってなどいないからだ。
この辺りでいったんバーナードによる総括がなされる。
「『キャノン、リセット、ピータス、ホーキンンズ、ラーベント、ネヴィルーーーこんな連中がみんな中流の魚だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.74」角川文庫)
バーナードを取り巻く登場人物らの名。複数である。したがって「群れ」といってもいい。そしてバーナードにとってそれらは「みんな中流の魚」でしかなく《なる》。「魚類」への生成変化を確認しておこう。プルーストではアルベルチーヌの「両棲類」への生成変化があったのだが覚えているだろうか。
「そんな彼女は、あるときは、あの海の環境から出てしまって、私の占有物となり大きな価値をもたなくなったアルベルチーヌであり、またあるときは、ふたたび元の環境にとびこみ、私からのがれて私の知りえないようなある過去のなかにはいってしまい、女の友であるあの婦人にくっついて、波しぶきかくるめく日ざしのように私の気分をわるくするアルベルチーヌであって、浜辺にもどされたり、私の部屋に帰ったりの、いわば水陸両棲の愛に生きるアルベルチーヌなのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.300」ちくま文庫)
なお、アルベルチーヌは「女の友であるあの婦人にくっついて」いることがある同性愛者でもあることを見落としてはいけない。それを確実なものにするのはほかでもない語り手の嫉妬である。「くるめく日ざしのように私の気分をわるくする」とある。そういえば思い出した。芸術に携わる或る種の人間は「薔薇」から、薔薇そのものが持つ芸術性を生産することができる。芸術性を生産するという行為によって、登場してくる一つの「家系」を、薔薇が与える高貴性の次元へ移し変えることができる。次のように。
「というのもエルスチールは、一つの花をながめるにしても、その花をまずわれわれの内心の庭、われわれがつねにそこにとどまらざるをえない内心の庭に移しながらでなくては、それをながめることができなかったからである。彼はこの水彩画のなかで、彼が見た薔薇、そして彼がいなければ人がけっして知ることのなかった薔薇、そんな薔薇の幻をわれわれの目に見せてくれたのであった、したがってその薔薇は、この画家が、天才的な園芸家とおなじように、《薔薇》という家系をゆたかにして出現させた、新しい一つの変種だということができるだろう」(プルースト「失われた時を求めて7・P.166」ちくま文庫)
そのとき始めて「薔薇」という冠を付与された「或る家系」が発生するのであって、この発生は事後的であり、それ以前ではありえない。知覚にまつわる潜在的あるいは可能的という逆説性について。
「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない」(ベルクソン「創造的進化・P.240」ちくま学芸文庫)
たとえば、犯人が鴨川を渡るとしよう。犯人が鴨川を渡ったがゆえに、逆に犯人が鴨川を渡らなかった可能的様態について始めてなおかつ一挙にその行動の素描を下描きする〔想定する〕ことが可能となる、という意味で事後的なのだ。
ちなみにこの両日にまたがる日本での大騒動。新天皇の即位に当たって日程を決定したのは今の内閣である。日本のテレビ・マスコミは大騒ぎを演出することに大いに貢献した。とりわけ沖縄新基地建設、原発問題、天皇制そのものの持つ問題までがそれによって隠蔽された。安倍首相を中心とする内閣は新天皇の即位を知覚してから(見てから)沖縄、原発、天皇制といった諸問題の検討に入ったのではない。逆に沖縄新基地建設、原発問題、天皇制そのものの持つ問題など諸々の諸問題の進捗具合を知覚してから(見てから)新天皇の即位に当たって日程を決定したのだ。その意味で日本全土にわだかまる諸々の諸問題の「輪郭」を内閣は先に知覚する。知覚した(把握した)その時点で即位の日程についての可能的潜在的な行動の素描を一挙に下描きした。事態は次のように推移した。
「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・P.30~31」ちくま学芸文庫)
さらに内閣は新天皇の即位という出来事を流通貨幣として機能させた。諸問題を隠蔽する方便として濫用した。こんなふうに。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
あるいは次のようにも。
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
金融関係者のあいだではこうも映ったに違いない。もしそんなふうには映っていないというのならその人物は金融関係者でないか少なくともその資格を有していない。
「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)
BGM