ジュネを読み進めたいのだが、このあたりで論点整理のため、さしあたりフーコーの考察に触れておきたいとおもう。ジュネの生涯は現代的かつ戦前の施設や刑務所での暮らしが長かった。それを考慮しつつ現代的かつ戦前よりも以前の施設や刑務所の姿についての考察、古典主義時代における「監視と処罰」の諸関係についてまとめておきたいとおもうからである。とりあえず簡略化しておくと、それは行刑機関としての国家による「経済策」という「技術的な推移過程」の研究ということになろうかとおもわれる。知っている人々のあいだではとうの昔に読んだとおもわれるかもしれない。日本でも思想的には一九八〇年代の一時期に流行もした。ところが日本独自のいつもの事情通り、ただ単なる流行で終わってしまった印象が今なおある。ところが、ジュネが生涯の前半では実際に歩みもし、生涯の後半では描きもした独特の道程は、フーコーが論じた一般的な行刑機関の機能に回収されるものではほとんどない。その点がジュネの面白さではあるけれども。だから面倒かもしれないが、一般的な「監視と処罰」とはどのようなものだったかについて一通り振り返っておくと後々都合がいいようにおもう。
まず古典主義時代まではとにかく派手で盛大な行刑処分が当たり前に行われていた。或る種の「祭り」としての処刑であある。ストーリーがあるのだ。罪人は主人公として公衆の面前へと華々しく登場する。裁かれるのはまともに「身体」であり、その意味ではフーコーが上げているように「身体刑は、傷痕を体に残すことによって、あるいは華々しい儀式をともなうことによって、刑の犠牲者を不名誉な人間にしたてあげねばならない」、その一方でそれが犯罪と等価の価値をもつ「浄化」行為としても役立たなければならない。パフォーマンスとしてもただ単に豪華絢爛なだけでは何らの意味もない。行政あるいは資本と一体化し始めた行政はいつも一石で二鳥を落とす。合理性が理性として忍び込んでくる。理性は意識的なものだ。そこでは、貸した分は少なくとも等価かそれ以上の価値で返されなければ許されないという理性が働いている。だから古典主義時代に入ったときすでに「経済性」は考慮に入れられていた。
「身体刑は一つの技術なのであり、それは法律ぬきの極度の狂暴さと同一視されてはならないのである。刑罰は、身体刑になるためには次の三つの主要な基準に合致する必要がある。第一に刑罰は、人が正確に測定できずとも少なくとも評価と比較と段階づけを行いうる、ある量の苦痛を生み出さなければならない。死刑が一つの身体刑であるのは、死刑が単に生存権の剥奪ではないのみならず、しかも計算にもとづく苦痛の漸次的増加の機会ならびに時間である、そうした意味合いにおいてであり、その死刑の幅たるや、斬首刑──あらゆる苦痛を一刀両断の動作とただの一瞬とに縮めているので、つまり身体刑の零度ーーーに始まり、苦痛をほとんど無限にまで高める四裂きの刑にいたるわけで、その中間に絞首刑と火刑と長時間の苦しみを与える車責めの刑がある。身体刑としての死刑は、生命を苦痛のなかに留めておく技術であって、生命を《多様な死にざま》に分割して、生存の停止以前に『最大限に精妙なる苦悶』を獲得する。身体刑は苦痛についての量中心の技術全体を基礎にしている。だが次に、苦痛を生じさせるには規則がともなうのである。身体刑は、身体への打撃の型、苦痛の質・強さ・時間を、犯罪の軽重、犯罪者の地位身分、犠牲者の位階、これらと相関関係におく。苦しみには法律的な基準が定めてあり、身体刑である場合の刑罰は、盲滅法に、もしくは一まとめにして身体に加えられるのではなく、細則にしたがって計算されるのである。たとえば、鞭打ちの回数、烙印の押される位置、火刑や車責めの刑の責苦の時間(執行途中の死刑囚を死ぬまで放置しておくかわりに、ただちに絞殺すべきかどうか、また、どれだけの時間を経たのちに絞殺というこの憐れみの処置をとるか、その点を決定するのは裁判所の仕事である)、執行すべき身体毀損のタイプ(手を斬り落とし、舌や唇を突き刺す責苦)。これら各種の要素すべてが刑罰を多様にするのであって、しかも裁判所および犯罪の質に応じて組み合わされる。ロッシの表現によると、『ダンテの詩情が法律化されたもの』である。が、いずれにせよ、身体と刑罰にかんする果てしない知である。第三に、身体刑は一種の祭式を構成する。処罰の典礼の構成要素の一つ、しかも次の二つの要請をみたすそれである。身体刑は、刑の犠牲者にかんしては痕跡を残すものでなければならない、つまり身体刑は、傷痕を体に残すことによって、あるいは華々しい儀式をともなうことによって、刑の犠牲者を不名誉な人間にしたてあげねばならない。犯罪(クリーム)の《浄化》という機能をもちながらも、身体刑は清浄潔白にしてくれるわけではない。それは受刑者のまわりに、さらにはその身体そのものに、消えうせてはならない表徴をしるすのであって、いずれにせよ、人々は晒し者の刑や晒し台の刑や拷問や責苦をまさしく自分の目で見たのち、それらの思い出を記憶にとどめるだろう。他方、刑を課す司法の側については、身体刑は華々しいものでなければならない、いくぶんかは司法の側の勝利として万人の目で見てもらわなければならない。使用される暴力の極端さそのものが、司法の栄光の一部分をつくるのである。すなわち、罪人が責苦をうけて悲鳴をあげ大声を出すということは、司法の恥ずべき側面ではなく、自らの力を誇示する司法の儀式そのものである。多分、被処刑者の死後も身体刑がくりひろげられる理由はそこにあるにちがいない。たとえば、死体の火あぶり、燃えはてた灰の散布、簀の子に載せての死体の引きまわし、道ばたでの死体の晒し。司法は、在りうべき責苦のあとまでも身体を追い回すのだ。刑罰としての身体刑は、身体へのありとあらゆる処罰を包括しているわけではない。というのは、それは分化したかたちで苦痛を生み出すことであり、刑の犠牲の刻印のために、また処罰する権力の明示のために組織される祭式であって、自分の立てた原則を忘れ自己統御を失ってしまうような司法権力の激怒のすがたではないのである。身体刑の《極端さ》には、権力の一つの経済策全体がもりこまれている」(フーコー「監獄の誕生・P.38~39」新潮社)
やや時代を下る。拷問はもちろん残っている。だが、残酷や残虐が拷問の主軸を占める見せもの的な時代はもはや終わりに近い。国家は少し賢くなった。一般の犯罪者集団によるリンチなどという馬鹿げた行為にわざわざ予算をつぎ込んだりはしなくなる。そしてそこでは綿密な計算と体系化(コード化)という近代合理主義が司法を大きく変えていく過程を見せつけることになる。とはいえ、この合理化はきわめて近代的な合理化であって、そのぶん、人々の目にはなかなか付きにくくされている。逆に力を持ったのは体系化(コード化)という「経済策」だ。
「拷問はどんな犠牲を払ってでも真実を手に入れる手段ではない、つまり、近代の尋問の荒れ狂ったような拷問ではまったくないのであって、古典主義時代のそれは、なるほど残酷ではあるが野蛮ではない。きちんと規定された手続にしたがう規則正しい執行であって、たとえば、拷問の時期・時間、使用される道具類、綱の長さ、重(おも)りの重量、楔の数、尋問する司法官の介入の仕方など、こうしたすべては各種の慣行にもとづいて、細心の注意をはらって、体系化(コード化)してある。拷問は厳密な司法上の作用なのである」(フーコー「監獄の誕生・P.44」新潮社)
さらに事情は変化する。犯罪者はただ単なる犯罪者で終わるわけでは何らない。他のものと置き換え可能なものとして「活用」への過程が用意されていく。
「刑の期間が意味をもつのはもっぱら、可能な矯正、および矯正される犯罪者の経済的な活用との関連においてでしかない」(フーコー「監獄の誕生・P.126」新潮社)
それでも監視はどこまで行っても監視の範囲を越えることはない。監視が管理へと変化したのはむしろつい最近のことだ。監視を伴いつつも新しい管理社会が登場したのは戦後しばらく経ってから。日本ではそれがまったく新しい管理社会だと気づかれるようになったのは二〇世紀も終わり頃。九〇年代後半に入ってからだろう。欧米は先端的テクノロジーの発展がもっと早かったために、気づかれるのも早かった。しかし気づくのに遅れをとったということは、先を越されたということでもある。そして行刑機関としての国家に対して、対抗する勢力は今なお常に先を越されてしまっている。しかし現代の管理社会について述べるのはまだ早い。まず抑えておきたいのはいわゆる「パノプティコン」である。
「ベンサムの考えついた<一望監視施設>(パノプティコン)は、こうした組み合わせの建築学的な形象である。その原理はよく知られているとおりであって、周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には円周状にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる(塔から内庭ごしに、周囲の建物のなかを監視するわけである)。周囲の建物は独房に区分けされ、そのひとつひとつが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓が二つ、塔の窓に対応する位置に、内側へむかって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それゆえ、中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なあり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで充分である。周囲の建物の独房内に捕えられている人間の小さい影が、はっきり光のなかに浮かびあがる姿を、逆光線の効果で塔から把握できるからである。独房の檻の数と同じだけ、小さい舞台があると言いうるわけで、そこではそれぞれの役者はただひとりであり、完全に個人化され、たえず可視的である。一望監視のこの仕掛けは、中断なく相手を見ることができ即座に判別しうる、そうした空間上の単位を計画配置している。要するに、土牢機能──閉じ込める、光を絶つ、隠すーーーのうち、最初のを残して、あとは解消されている。(この新しい仕掛では)充分な光と監視者の視線のおかげで、土牢の暗闇の場合よりも見事に、相手を補足できる。その暗闇は結局は保護の役目しか果していなかったのだから。今や、可視性が一つの罠である。その結果としてまず第一にーーー消極的な効果としてだがーーー幽閉の施設のなか、ゴヤによって描かれハワードによって記述された、そうした場所のなかにかつて見出された、あの多数の人々が密集し、うごめき、騒がしかった状態は回避できる。今や各人は、然るべき場所におかれ、独房内に閉じ込められ、しかもそこでは監視者に正面から見られているが、独房の側面の壁のせいで同輩と接触をもつわけにはいかない。見られてはいても、こちらには見えないのであり、ある情報のための客体ではあっても、ある情報伝達をおこなう主体にはけっしてなれないのだ。中央の塔に向きあう自分の個室の配置によって、各人は中心部からの可視性を押しつけられるが、しかし円環状の建物の内部区分たる、きちんと分離された例の独房は側面での不可視性を予想させる。しかもその不可視性は秩序によって保証されるのである。で、閉じ込められる者が受刑者であっても、陰謀や集団脱獄の企てや将来の新しい犯罪計画や相互の悪い感化などが生じる懸念はない。病者を閉じ込めても感染の心配はなく、狂人の場合でも相互に狂暴になる危険はないし、子供の閉じ込めであっても、他人の宿題などをひき写す不正行為も、騒ぎも、おしゃべりも、盗みも、共同謀議も、仕事の遅れや不完全な仕上がりや偶発事故をまねく不注意も起こらない。密集せる多人数、多種多様な交換の場、互いに依存し共同するさまざまな個人、集団的な効果たる、こうした群衆が解消されて、そのかわりに、区分された個々人の集まり(という新しい施設)の効果が生じるわけである。看守の観点に立てば、そうした群衆にかわって、計算調整が可能で取締りやすい多様性が現われ、閉じ込められる者の観点に立てば、隔離され見つめられる孤立性が現われるのだ。その点から生じるのが<一望監視装置(パノプティック)>の主要な効果である。つまり、権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者にうえつけること。監視が、よしんばその働きの中断があれ効果の面では永続的であるように、また、権力が完璧になったためその行使の現実性が無用になる傾向が生じるように、さらにまた、この建築装置が、権力の行使者とは独立した或る権力関係を創出し維持する機械仕掛になるように、要するに、閉じ込められる者が自らがその維持者たる或る権力的状況のなかに組み込まれるように、そういう措置をとろう、というのである。そうであるためには、囚人が監視者にたえず見張られるだけでは充分すぎるか、それだけでは不充分か、なのだ。まったく不充分と言うのは、囚人が自分は監視されていると知っているのが肝心だからであり、他方、充分すぎると言ったのは、囚人は現実には監視される必要がないからである」(フーコー「監獄の誕生・P.202~203」新潮社)
皮肉なことに「囚人は」もはや「監視される必要がない」。パノプティコンは途方もなく合理的な装置である。見る側の姿はまったく見えない。けれども、見られる側の姿はいつどこで何をしているか、常に監視されているという意識を持たざるを得ない。そこでは「監視する側の没人格化」という特異な現象が起こってくる。
「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)
したがって、監視する側にとって、「誰が」監視するか、などということはほとんど問題にならない。いまの日本経済にとって課題とされている人材不足問題だが、「監視する側」の観点からみるかぎり、人材に関してだけではあるにせよ、すでに刑務所の中では問題解消されている。「誰でもいい」からだ。
「誰が権力を行使するかは重大ではない。偶然に採用された者でもかまわぬぐらいの、なんらかの個人がこの機械装置を働かすことができる、したがって、その管理責任者が不在であれば、その家族でも側近の人でも友人でも来訪者でも召使でさえも代理がつとまるのだ。まったく同様に、その人を駆り立てる動機が何であってもよく、たとえば、差し出がましい人間の好奇心であれ、子供のいたずらであれ、この人間性博物館を一巡したいとおもう或る哲学者の知的好奇心であれ、見張ったり処罰したりに喜びを見出す人間の意地悪さであれかまわない。こうした無名で一時的な観察者が多数であればあるほど、被拘禁者にしてみれば、不意をおそわれる危険と観察される不安意識がなおさら増すわけである。<一望監視装置>とは、各種各様な欲望をもとにして権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛である」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)
ここで「権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛」とある。資本主義をより一層推し進める側にせよ、反対に資本主義の横暴を許さないとする側にせよ、常に既に出来上がってしまっていることがある。それが「権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛」である。ニーチェはいう。権力者層にとって、すべての人間を等質のものとして裁きを与えるためには、前もって「人間」を「人間という一言」でくくりあげて拘束してしまい、どの人間のどの部分を持ってきてもいずれもが等質のものでなければ計算できない。だから近代的人間の誕生はその各々が先験的にもっている差異〔それぞれ異なるということ〕を抹消して、無理やり「算定できるものにした」、あるいは「算定できるものにされた」と。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)
このような過程を経て、どの人間も言葉の上ではなるほど「平等」であるとされたが、行刑機関としての国家からみれば、「平等」であればあるほど逆にどのような人間であっても、法の名において計算づくめでどのような裁きをも与えうる大義名分を獲得したということを意味している。
「ある現実的な服従強制が虚構的な(権力)関連から機械的に生じる。したがって、受刑者に善行を、狂人に穏やかさを、労働者に仕事を、生徒に熱心さを、病人に処方の厳守を強制しようとして暴力的手段にうったえる必要はない。ベンサムが驚嘆していたが、一望監視の施設はごく軽やかであってよく、鉄格子も鎖も重い錠前ももはや不要であり、(独房の)区分が明瞭で、戸口の窓がきちんと配置されるだけで充分である。城塞建築にもひとしい古い《安全確保(シュルテ)の施設》(つまり牢獄)にかわって、今や《確実性(セイティチュード)の施設》(新しい一望監視の装置)の簡潔で経済的で幾何学的な配置が現われうるわけである。権力の効果と強制力はいわばもう一方の側へーーー権力の適用面の側へ移ってしまう。つまり可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知する者(つまり被拘禁者)は、みずから権力による強制に責任をもち、自発的にその強制を自分自身へ働かせる。しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力的関係を自分に組込んで、自分がみずからの服従強制の本源になる。それゆえ、外側にある権力のほうでさえも自分の物理的な重さ(施設や装置の重々しさ)を軽くでき、身体不関与を目標にする。しかもその権力がこの境界(精神と身体との)へ接近すれば接近するほど、ますますその効果は恒常的で深いもの、最終的に付与され、たえず導入されるものとなる。つまり、あらゆる物理的(身体的、でもある)な対決を避け、つねに前もって仕組まれる、永続的な勝利」(フーコー「監獄の誕生・P.204~205」新潮社)
刑務所内で囚人はすでに自動機械である。パノプティコンの絶大な効果のもとで、囚人たちは自分で自分自身の行為だけでなく内面すらも見張るようになる。近代合理性あるいは理性は「極悪凶暴」とされる囚人たちをあっという間に手なずけることに成功した。囚人の内面まで用意周到に隈なく自分で注意深く監視させること。「極悪凶暴」なのは一体どちらかという疑問すら湧いてこなくもない。さらにパノプティコンの有効性は広く認められるに至る。多種多様な業種で応用されるようになる。いまでも「あらゆる施設に適用可能である」とフーコーは述べる。
「応用面ではその施設は多価値的である。囚人の素行を改めさせる役目だけにとどまらず、病者を看護したり、生徒を教育したり、狂人を見張ったり、労働者を監視したり、乞食や無為怠惰な者を働かせたりに役立つ。それは空間のなかへのさまざまな身体の定着の型であり、個々人の相互比較による配分の型、階層秩序的な組織の型、権力の中心とその通路の配置の型、権力の用いる道具および介入の様式の型であって、これらは病院や仕事場や監獄で使用しうる型である。多種多様な個々人を対象にして、彼らに或る課題や或る行為を押しつけなければならぬ場合、この一望監視の図式が活用できるだろう。それこそはーーー必要な変形を加えるという条件をつけるならーーー『広すぎない一定の空間内で、或る人数の人間を監視下におく必要がある、あらゆる施設に』適用が可能である」(フーコー「監獄の誕生・P.207」新潮社)
実際、刑務所や行刑施設の外で有効利用されるようになったパノプティコン。「病院の患者監視」「学校の生徒監視」「精神病院患者の監視」「労働者の勤務管理」「無職者の動向監視」などに広がっている。そしてそれらは情報としていつでも現金化できるようになった。この過程がグローバル化と同時に進行したことで生じてきた、いわゆる「監視」から「管理」へと呼ばれる推移だ。家族が家族をリサーチする。マーケティングする。売買が成立する。自分で自分自身の言動についていつも鋭敏に目を光らせていること。できているか、そうでないか。できていないならどうすればよいか。できているならどのような行動に移るべきか。各自は自分で自分自身を常に監視する形で自分の言動を決定する。パノプティコンはそもそも上からの監視として採用されたシステムなのだが、この効果は余りにも合理的であるがゆえ、われもわれもと世界中が急速に同様の施設・設備を配置するに至った。このとき、自分で自分自身を監視することは、もはや常識レベルの次元で果たされていたと、専門的には考えられている。
「監禁的なるものは、徒刑監獄や犯罪者の懲役刑にはじまり雑多で軽微な規制にまで広がる長い濃淡の段階をもっているとはいえ、法律によって正当化され司法が得意な武器として活用する或る型の権力を伝える。規律・訓練ならびにそこで機能する権力が、はたしてどのように恣意的な姿で現われたりしようか、それらが司法そのものの諸機構を、それらの強さをやわらげながらもひたすら活動させているからには。規律・訓練が権力の諸結果を一般化して、自分の最低段階の施設にまで権力を伝達するのは、権力の厳格さを避けるためであるからには。監禁制度のこうした連続性、ならびに《形式としての監獄》のこうした普及の結果、規律・訓練中心の権力の合法化が、いやいずれにせよそれの正当化が可能になり、こうしてその権力は自らに含まれうる過度なもの、もしくは職権濫用的なものを人目につかぬようにするのである。
ところが反対に、ピラミッド状の監禁制度は、法律上の処罰を行使する権力に、その権力があらゆる過度ないしあらゆる暴力からいわば免れた姿をおびるそうした脈略を与える。規律・訓練の装置とそこに含まれる《規制措置》が巧妙なやり方で拡大上昇する諸段階のなかでは、監獄が表明するのは別種の権力の爆発では全然なく、まさしく、すでに最初の段階の制裁以来たえず働いている機構の強さの補足的一段階にすぎないわけである。投獄するまでにいたらず人を閉じ込める《矯正》施設の最低段階のものと、法律違反を特定したのちにその罪人を送りこむ監獄とのあいだでは、差異はほとんど感じられない(しかも感じられてはならない)のである。独特な処罰権力をなるべく秘密にするという結果をみちびく厳重な経済策である。今後はいかなるものもその権力に、かつて身体刑受刑者の身体に権威の報復をおこなっていた時代の、君主権力の古い過激さをもはや思い出させはしない。監獄は他の場所で始められた仕事を、しかも社会全体が多数の規律・訓練上の機構をとおして成員のそれぞれに続ける仕事を、投獄される人々に継続して行なうのである。
こうした監禁の連続体のおかげで、判決をくだす審級(裁判中心の)が取締りと変容と矯正と改良にあたるすべての審級(行刑中心の)のなかにしのびこむ。極端な場合には、もはやいかなるものによっても前者の審級は後者の審級から区別されないにちがいない、もしも非行者のとくに《危険有害な》性格、彼らの逸脱のはなはだしさ、祭式(司法の有する)の当然の厳粛さなどが存在しなければ。ところが、この処罰権力は機能の点では、治療もしくは教育の権力と本質的には異なっていない。処罰権力はそれらの権力から、そしていっそう劣った取るにたりぬその職務から、下部からの保証を、ただし技術と合理性を中心とする保証である以上やはり重要な保証を受取る。監禁的なるものは、規律・訓練をおこなう技術的権力を《合法化する》ように、処罰をおこなう法律的権力を《自然なものにする》。このように両者の権力を等質化し、法律的権力のなかに存在しうる暴力的なものと技術的権力のなかに存在しうる恣意的なものを消し去り、両者の権力のせいで起こるかもしれない反抗の影響をやわらげ、したがってそれら権力の激化と執拗さを役立たぬものにし、機械技術的であれ慎ましやかであれ同一の計算された方法を一方の権力から他方の権力へ通いあわせる、以上の方法でもって監禁的なるものは、人間の有益な管理ならびに蓄積の問題があらわれた十八世紀にその方式が探究されてきた、あの権力の大いなる《経済策》の実効化を可能にする」(フーコー「監獄の誕生・P.302~303」新潮社)
ところが実効性を持ったのはただ単に《経済策》だけではなかった。広い意味ではなるほど経済的ではあるが。この経済策は、「欲望する機械」をも作品化することに成功した。ベンサムがそこまで考えおよんでいたとは到底考えられない。しかし資本主義はその合理性を熟成させるとともにじっくりと「欲望の抑制」すら育んでいた。フーコーと前後する形でドゥルーズとガタリが述べたことだ。
「分裂者分析の目的は、以下のようなものとなる。まず、経済と政治とに対するリビドー備給の特殊な本性を分析すること。次に、このことによって、欲望している主体の中で、いかにして欲望が自分自身の抑制を欲望するという決心が起りうるかということを明らかにすること」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.132~133」河出書房新社)
具体的にこうも述べる。
「《ただ、欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外のなにものも存在しないのである》。社会的再生産の最も抑制的なまた最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生みだされるものなのだ。あれこれの条件の下で欲望から派生する組織の中で生みだされるものなのだ。われわれは、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、『何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦うのか』といった問題に。いかにして、ひとは、<パンを切りつめても、もっと多くの税金を>などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。またある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしも盗みをしないということである。何故、人々は幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにもこれらのものを《欲する》ことまでしているのか」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.44」河出書房新社)
また、家庭のあり方について。なぜ日本でも殺人発生率が最も多いのは家庭内なのか。「オイディプス神話」について、もっと本気で疑ってかかる必要性を感じるというほかない。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを(つまり信じられないような欲望の抑圧を)操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.151~152」河出書房新社)
要するに、まず第一に「ひな形」としての「人為的家庭」が政府主導で作成される。改憲論議もまたその中に含まれよう。同時に「家庭」のあり方。それは社会的規模を有する権力者層の希望にそった「家庭のあり方」でのみ、まさしくその「あり方」で押し付けられるかぎりでのみ、「家庭のあり方」はあくまで《経済策》として国家の側から一方的に「派遣される」という事情を抜きにして語れないのである。
また、「狂気」についてフーコーは「獣性」の移動というエピソードに触れている。これはこれで注目すべき部分だろう。
「クートンが狂人たちの動物性を定式化し、彼らがそこでふるまうのは自由にしておいたとき、彼は狂人(フウー)たちを動物性から解放したのではあったが、彼自身の動物性をさらけだし、そこに閉じこもってしまったのである。彼の狂暴さのほうが、狂人(デマン)たちの狂気よりもいっそう気違いじみ、いっそう非人間的だったわけである。こうして、狂気は狂人を見張る番人たちのほうへ移動した。狂人を動物として閉じこめる者のほうが、今や狂気の動物的な野蛮さを保持する者なのである。そうした人々においてこそ獣性は荒れくるうのであり、狂人たちに現われる獣性はその人々の獣性の混沌とした反映にほかならない。一つの秘密があらわになる。というのは、獣性は動物のなかにではなく、それを鎖につなぐ家畜化のなかにあったからである」(フーコー「狂気の歴史・P.499」新潮社)
洒落で「ミイラ取りがミイラに」とある。それを地で行ったわけだ。しかしこれはそういう教訓的な意味ではまったくない。むしろ獣性は移動するものだということが一つある。獣性の置き換え可能性という点。この点に関して日本のマスコミは考えなくてはならないだろう。一方で「綿密に計算された許されない犯罪」という用語の濫用。他方で「まったく行き当たりばったりの許されない犯罪」という用語の濫用。「犯罪報道で食っているマスコミだから仕方がない」、ではもはや済まされないとおもわれる。この際、「マスコミという獣性」も用語のうちに叩き込んでおくべきだろう。視聴者を馬鹿にするにもほどがあるというものだからだ。もう一つは獣性の生成変化と性愛の生成変化とのきわめて近く深い関係が上げられる。
「性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~288」河出文庫)
この「獣性」については「家族小説」としてのゾラ「居酒屋」「ナナ」などが面白いとおもうのだが。ニーチェはいう。外部へ放出されないエネルギーは方向転換されて内部へ逆流すると。家庭内殺人や自殺行為だけでなく自主規制や自己責任論なども、ニーチェなら躊躇なくこの種に分類することだろう。
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まず古典主義時代まではとにかく派手で盛大な行刑処分が当たり前に行われていた。或る種の「祭り」としての処刑であある。ストーリーがあるのだ。罪人は主人公として公衆の面前へと華々しく登場する。裁かれるのはまともに「身体」であり、その意味ではフーコーが上げているように「身体刑は、傷痕を体に残すことによって、あるいは華々しい儀式をともなうことによって、刑の犠牲者を不名誉な人間にしたてあげねばならない」、その一方でそれが犯罪と等価の価値をもつ「浄化」行為としても役立たなければならない。パフォーマンスとしてもただ単に豪華絢爛なだけでは何らの意味もない。行政あるいは資本と一体化し始めた行政はいつも一石で二鳥を落とす。合理性が理性として忍び込んでくる。理性は意識的なものだ。そこでは、貸した分は少なくとも等価かそれ以上の価値で返されなければ許されないという理性が働いている。だから古典主義時代に入ったときすでに「経済性」は考慮に入れられていた。
「身体刑は一つの技術なのであり、それは法律ぬきの極度の狂暴さと同一視されてはならないのである。刑罰は、身体刑になるためには次の三つの主要な基準に合致する必要がある。第一に刑罰は、人が正確に測定できずとも少なくとも評価と比較と段階づけを行いうる、ある量の苦痛を生み出さなければならない。死刑が一つの身体刑であるのは、死刑が単に生存権の剥奪ではないのみならず、しかも計算にもとづく苦痛の漸次的増加の機会ならびに時間である、そうした意味合いにおいてであり、その死刑の幅たるや、斬首刑──あらゆる苦痛を一刀両断の動作とただの一瞬とに縮めているので、つまり身体刑の零度ーーーに始まり、苦痛をほとんど無限にまで高める四裂きの刑にいたるわけで、その中間に絞首刑と火刑と長時間の苦しみを与える車責めの刑がある。身体刑としての死刑は、生命を苦痛のなかに留めておく技術であって、生命を《多様な死にざま》に分割して、生存の停止以前に『最大限に精妙なる苦悶』を獲得する。身体刑は苦痛についての量中心の技術全体を基礎にしている。だが次に、苦痛を生じさせるには規則がともなうのである。身体刑は、身体への打撃の型、苦痛の質・強さ・時間を、犯罪の軽重、犯罪者の地位身分、犠牲者の位階、これらと相関関係におく。苦しみには法律的な基準が定めてあり、身体刑である場合の刑罰は、盲滅法に、もしくは一まとめにして身体に加えられるのではなく、細則にしたがって計算されるのである。たとえば、鞭打ちの回数、烙印の押される位置、火刑や車責めの刑の責苦の時間(執行途中の死刑囚を死ぬまで放置しておくかわりに、ただちに絞殺すべきかどうか、また、どれだけの時間を経たのちに絞殺というこの憐れみの処置をとるか、その点を決定するのは裁判所の仕事である)、執行すべき身体毀損のタイプ(手を斬り落とし、舌や唇を突き刺す責苦)。これら各種の要素すべてが刑罰を多様にするのであって、しかも裁判所および犯罪の質に応じて組み合わされる。ロッシの表現によると、『ダンテの詩情が法律化されたもの』である。が、いずれにせよ、身体と刑罰にかんする果てしない知である。第三に、身体刑は一種の祭式を構成する。処罰の典礼の構成要素の一つ、しかも次の二つの要請をみたすそれである。身体刑は、刑の犠牲者にかんしては痕跡を残すものでなければならない、つまり身体刑は、傷痕を体に残すことによって、あるいは華々しい儀式をともなうことによって、刑の犠牲者を不名誉な人間にしたてあげねばならない。犯罪(クリーム)の《浄化》という機能をもちながらも、身体刑は清浄潔白にしてくれるわけではない。それは受刑者のまわりに、さらにはその身体そのものに、消えうせてはならない表徴をしるすのであって、いずれにせよ、人々は晒し者の刑や晒し台の刑や拷問や責苦をまさしく自分の目で見たのち、それらの思い出を記憶にとどめるだろう。他方、刑を課す司法の側については、身体刑は華々しいものでなければならない、いくぶんかは司法の側の勝利として万人の目で見てもらわなければならない。使用される暴力の極端さそのものが、司法の栄光の一部分をつくるのである。すなわち、罪人が責苦をうけて悲鳴をあげ大声を出すということは、司法の恥ずべき側面ではなく、自らの力を誇示する司法の儀式そのものである。多分、被処刑者の死後も身体刑がくりひろげられる理由はそこにあるにちがいない。たとえば、死体の火あぶり、燃えはてた灰の散布、簀の子に載せての死体の引きまわし、道ばたでの死体の晒し。司法は、在りうべき責苦のあとまでも身体を追い回すのだ。刑罰としての身体刑は、身体へのありとあらゆる処罰を包括しているわけではない。というのは、それは分化したかたちで苦痛を生み出すことであり、刑の犠牲の刻印のために、また処罰する権力の明示のために組織される祭式であって、自分の立てた原則を忘れ自己統御を失ってしまうような司法権力の激怒のすがたではないのである。身体刑の《極端さ》には、権力の一つの経済策全体がもりこまれている」(フーコー「監獄の誕生・P.38~39」新潮社)
やや時代を下る。拷問はもちろん残っている。だが、残酷や残虐が拷問の主軸を占める見せもの的な時代はもはや終わりに近い。国家は少し賢くなった。一般の犯罪者集団によるリンチなどという馬鹿げた行為にわざわざ予算をつぎ込んだりはしなくなる。そしてそこでは綿密な計算と体系化(コード化)という近代合理主義が司法を大きく変えていく過程を見せつけることになる。とはいえ、この合理化はきわめて近代的な合理化であって、そのぶん、人々の目にはなかなか付きにくくされている。逆に力を持ったのは体系化(コード化)という「経済策」だ。
「拷問はどんな犠牲を払ってでも真実を手に入れる手段ではない、つまり、近代の尋問の荒れ狂ったような拷問ではまったくないのであって、古典主義時代のそれは、なるほど残酷ではあるが野蛮ではない。きちんと規定された手続にしたがう規則正しい執行であって、たとえば、拷問の時期・時間、使用される道具類、綱の長さ、重(おも)りの重量、楔の数、尋問する司法官の介入の仕方など、こうしたすべては各種の慣行にもとづいて、細心の注意をはらって、体系化(コード化)してある。拷問は厳密な司法上の作用なのである」(フーコー「監獄の誕生・P.44」新潮社)
さらに事情は変化する。犯罪者はただ単なる犯罪者で終わるわけでは何らない。他のものと置き換え可能なものとして「活用」への過程が用意されていく。
「刑の期間が意味をもつのはもっぱら、可能な矯正、および矯正される犯罪者の経済的な活用との関連においてでしかない」(フーコー「監獄の誕生・P.126」新潮社)
それでも監視はどこまで行っても監視の範囲を越えることはない。監視が管理へと変化したのはむしろつい最近のことだ。監視を伴いつつも新しい管理社会が登場したのは戦後しばらく経ってから。日本ではそれがまったく新しい管理社会だと気づかれるようになったのは二〇世紀も終わり頃。九〇年代後半に入ってからだろう。欧米は先端的テクノロジーの発展がもっと早かったために、気づかれるのも早かった。しかし気づくのに遅れをとったということは、先を越されたということでもある。そして行刑機関としての国家に対して、対抗する勢力は今なお常に先を越されてしまっている。しかし現代の管理社会について述べるのはまだ早い。まず抑えておきたいのはいわゆる「パノプティコン」である。
「ベンサムの考えついた<一望監視施設>(パノプティコン)は、こうした組み合わせの建築学的な形象である。その原理はよく知られているとおりであって、周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には円周状にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる(塔から内庭ごしに、周囲の建物のなかを監視するわけである)。周囲の建物は独房に区分けされ、そのひとつひとつが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓が二つ、塔の窓に対応する位置に、内側へむかって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それゆえ、中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なあり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで充分である。周囲の建物の独房内に捕えられている人間の小さい影が、はっきり光のなかに浮かびあがる姿を、逆光線の効果で塔から把握できるからである。独房の檻の数と同じだけ、小さい舞台があると言いうるわけで、そこではそれぞれの役者はただひとりであり、完全に個人化され、たえず可視的である。一望監視のこの仕掛けは、中断なく相手を見ることができ即座に判別しうる、そうした空間上の単位を計画配置している。要するに、土牢機能──閉じ込める、光を絶つ、隠すーーーのうち、最初のを残して、あとは解消されている。(この新しい仕掛では)充分な光と監視者の視線のおかげで、土牢の暗闇の場合よりも見事に、相手を補足できる。その暗闇は結局は保護の役目しか果していなかったのだから。今や、可視性が一つの罠である。その結果としてまず第一にーーー消極的な効果としてだがーーー幽閉の施設のなか、ゴヤによって描かれハワードによって記述された、そうした場所のなかにかつて見出された、あの多数の人々が密集し、うごめき、騒がしかった状態は回避できる。今や各人は、然るべき場所におかれ、独房内に閉じ込められ、しかもそこでは監視者に正面から見られているが、独房の側面の壁のせいで同輩と接触をもつわけにはいかない。見られてはいても、こちらには見えないのであり、ある情報のための客体ではあっても、ある情報伝達をおこなう主体にはけっしてなれないのだ。中央の塔に向きあう自分の個室の配置によって、各人は中心部からの可視性を押しつけられるが、しかし円環状の建物の内部区分たる、きちんと分離された例の独房は側面での不可視性を予想させる。しかもその不可視性は秩序によって保証されるのである。で、閉じ込められる者が受刑者であっても、陰謀や集団脱獄の企てや将来の新しい犯罪計画や相互の悪い感化などが生じる懸念はない。病者を閉じ込めても感染の心配はなく、狂人の場合でも相互に狂暴になる危険はないし、子供の閉じ込めであっても、他人の宿題などをひき写す不正行為も、騒ぎも、おしゃべりも、盗みも、共同謀議も、仕事の遅れや不完全な仕上がりや偶発事故をまねく不注意も起こらない。密集せる多人数、多種多様な交換の場、互いに依存し共同するさまざまな個人、集団的な効果たる、こうした群衆が解消されて、そのかわりに、区分された個々人の集まり(という新しい施設)の効果が生じるわけである。看守の観点に立てば、そうした群衆にかわって、計算調整が可能で取締りやすい多様性が現われ、閉じ込められる者の観点に立てば、隔離され見つめられる孤立性が現われるのだ。その点から生じるのが<一望監視装置(パノプティック)>の主要な効果である。つまり、権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者にうえつけること。監視が、よしんばその働きの中断があれ効果の面では永続的であるように、また、権力が完璧になったためその行使の現実性が無用になる傾向が生じるように、さらにまた、この建築装置が、権力の行使者とは独立した或る権力関係を創出し維持する機械仕掛になるように、要するに、閉じ込められる者が自らがその維持者たる或る権力的状況のなかに組み込まれるように、そういう措置をとろう、というのである。そうであるためには、囚人が監視者にたえず見張られるだけでは充分すぎるか、それだけでは不充分か、なのだ。まったく不充分と言うのは、囚人が自分は監視されていると知っているのが肝心だからであり、他方、充分すぎると言ったのは、囚人は現実には監視される必要がないからである」(フーコー「監獄の誕生・P.202~203」新潮社)
皮肉なことに「囚人は」もはや「監視される必要がない」。パノプティコンは途方もなく合理的な装置である。見る側の姿はまったく見えない。けれども、見られる側の姿はいつどこで何をしているか、常に監視されているという意識を持たざるを得ない。そこでは「監視する側の没人格化」という特異な現象が起こってくる。
「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)
したがって、監視する側にとって、「誰が」監視するか、などということはほとんど問題にならない。いまの日本経済にとって課題とされている人材不足問題だが、「監視する側」の観点からみるかぎり、人材に関してだけではあるにせよ、すでに刑務所の中では問題解消されている。「誰でもいい」からだ。
「誰が権力を行使するかは重大ではない。偶然に採用された者でもかまわぬぐらいの、なんらかの個人がこの機械装置を働かすことができる、したがって、その管理責任者が不在であれば、その家族でも側近の人でも友人でも来訪者でも召使でさえも代理がつとまるのだ。まったく同様に、その人を駆り立てる動機が何であってもよく、たとえば、差し出がましい人間の好奇心であれ、子供のいたずらであれ、この人間性博物館を一巡したいとおもう或る哲学者の知的好奇心であれ、見張ったり処罰したりに喜びを見出す人間の意地悪さであれかまわない。こうした無名で一時的な観察者が多数であればあるほど、被拘禁者にしてみれば、不意をおそわれる危険と観察される不安意識がなおさら増すわけである。<一望監視装置>とは、各種各様な欲望をもとにして権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛である」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)
ここで「権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛」とある。資本主義をより一層推し進める側にせよ、反対に資本主義の横暴を許さないとする側にせよ、常に既に出来上がってしまっていることがある。それが「権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛」である。ニーチェはいう。権力者層にとって、すべての人間を等質のものとして裁きを与えるためには、前もって「人間」を「人間という一言」でくくりあげて拘束してしまい、どの人間のどの部分を持ってきてもいずれもが等質のものでなければ計算できない。だから近代的人間の誕生はその各々が先験的にもっている差異〔それぞれ異なるということ〕を抹消して、無理やり「算定できるものにした」、あるいは「算定できるものにされた」と。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)
このような過程を経て、どの人間も言葉の上ではなるほど「平等」であるとされたが、行刑機関としての国家からみれば、「平等」であればあるほど逆にどのような人間であっても、法の名において計算づくめでどのような裁きをも与えうる大義名分を獲得したということを意味している。
「ある現実的な服従強制が虚構的な(権力)関連から機械的に生じる。したがって、受刑者に善行を、狂人に穏やかさを、労働者に仕事を、生徒に熱心さを、病人に処方の厳守を強制しようとして暴力的手段にうったえる必要はない。ベンサムが驚嘆していたが、一望監視の施設はごく軽やかであってよく、鉄格子も鎖も重い錠前ももはや不要であり、(独房の)区分が明瞭で、戸口の窓がきちんと配置されるだけで充分である。城塞建築にもひとしい古い《安全確保(シュルテ)の施設》(つまり牢獄)にかわって、今や《確実性(セイティチュード)の施設》(新しい一望監視の装置)の簡潔で経済的で幾何学的な配置が現われうるわけである。権力の効果と強制力はいわばもう一方の側へーーー権力の適用面の側へ移ってしまう。つまり可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知する者(つまり被拘禁者)は、みずから権力による強制に責任をもち、自発的にその強制を自分自身へ働かせる。しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力的関係を自分に組込んで、自分がみずからの服従強制の本源になる。それゆえ、外側にある権力のほうでさえも自分の物理的な重さ(施設や装置の重々しさ)を軽くでき、身体不関与を目標にする。しかもその権力がこの境界(精神と身体との)へ接近すれば接近するほど、ますますその効果は恒常的で深いもの、最終的に付与され、たえず導入されるものとなる。つまり、あらゆる物理的(身体的、でもある)な対決を避け、つねに前もって仕組まれる、永続的な勝利」(フーコー「監獄の誕生・P.204~205」新潮社)
刑務所内で囚人はすでに自動機械である。パノプティコンの絶大な効果のもとで、囚人たちは自分で自分自身の行為だけでなく内面すらも見張るようになる。近代合理性あるいは理性は「極悪凶暴」とされる囚人たちをあっという間に手なずけることに成功した。囚人の内面まで用意周到に隈なく自分で注意深く監視させること。「極悪凶暴」なのは一体どちらかという疑問すら湧いてこなくもない。さらにパノプティコンの有効性は広く認められるに至る。多種多様な業種で応用されるようになる。いまでも「あらゆる施設に適用可能である」とフーコーは述べる。
「応用面ではその施設は多価値的である。囚人の素行を改めさせる役目だけにとどまらず、病者を看護したり、生徒を教育したり、狂人を見張ったり、労働者を監視したり、乞食や無為怠惰な者を働かせたりに役立つ。それは空間のなかへのさまざまな身体の定着の型であり、個々人の相互比較による配分の型、階層秩序的な組織の型、権力の中心とその通路の配置の型、権力の用いる道具および介入の様式の型であって、これらは病院や仕事場や監獄で使用しうる型である。多種多様な個々人を対象にして、彼らに或る課題や或る行為を押しつけなければならぬ場合、この一望監視の図式が活用できるだろう。それこそはーーー必要な変形を加えるという条件をつけるならーーー『広すぎない一定の空間内で、或る人数の人間を監視下におく必要がある、あらゆる施設に』適用が可能である」(フーコー「監獄の誕生・P.207」新潮社)
実際、刑務所や行刑施設の外で有効利用されるようになったパノプティコン。「病院の患者監視」「学校の生徒監視」「精神病院患者の監視」「労働者の勤務管理」「無職者の動向監視」などに広がっている。そしてそれらは情報としていつでも現金化できるようになった。この過程がグローバル化と同時に進行したことで生じてきた、いわゆる「監視」から「管理」へと呼ばれる推移だ。家族が家族をリサーチする。マーケティングする。売買が成立する。自分で自分自身の言動についていつも鋭敏に目を光らせていること。できているか、そうでないか。できていないならどうすればよいか。できているならどのような行動に移るべきか。各自は自分で自分自身を常に監視する形で自分の言動を決定する。パノプティコンはそもそも上からの監視として採用されたシステムなのだが、この効果は余りにも合理的であるがゆえ、われもわれもと世界中が急速に同様の施設・設備を配置するに至った。このとき、自分で自分自身を監視することは、もはや常識レベルの次元で果たされていたと、専門的には考えられている。
「監禁的なるものは、徒刑監獄や犯罪者の懲役刑にはじまり雑多で軽微な規制にまで広がる長い濃淡の段階をもっているとはいえ、法律によって正当化され司法が得意な武器として活用する或る型の権力を伝える。規律・訓練ならびにそこで機能する権力が、はたしてどのように恣意的な姿で現われたりしようか、それらが司法そのものの諸機構を、それらの強さをやわらげながらもひたすら活動させているからには。規律・訓練が権力の諸結果を一般化して、自分の最低段階の施設にまで権力を伝達するのは、権力の厳格さを避けるためであるからには。監禁制度のこうした連続性、ならびに《形式としての監獄》のこうした普及の結果、規律・訓練中心の権力の合法化が、いやいずれにせよそれの正当化が可能になり、こうしてその権力は自らに含まれうる過度なもの、もしくは職権濫用的なものを人目につかぬようにするのである。
ところが反対に、ピラミッド状の監禁制度は、法律上の処罰を行使する権力に、その権力があらゆる過度ないしあらゆる暴力からいわば免れた姿をおびるそうした脈略を与える。規律・訓練の装置とそこに含まれる《規制措置》が巧妙なやり方で拡大上昇する諸段階のなかでは、監獄が表明するのは別種の権力の爆発では全然なく、まさしく、すでに最初の段階の制裁以来たえず働いている機構の強さの補足的一段階にすぎないわけである。投獄するまでにいたらず人を閉じ込める《矯正》施設の最低段階のものと、法律違反を特定したのちにその罪人を送りこむ監獄とのあいだでは、差異はほとんど感じられない(しかも感じられてはならない)のである。独特な処罰権力をなるべく秘密にするという結果をみちびく厳重な経済策である。今後はいかなるものもその権力に、かつて身体刑受刑者の身体に権威の報復をおこなっていた時代の、君主権力の古い過激さをもはや思い出させはしない。監獄は他の場所で始められた仕事を、しかも社会全体が多数の規律・訓練上の機構をとおして成員のそれぞれに続ける仕事を、投獄される人々に継続して行なうのである。
こうした監禁の連続体のおかげで、判決をくだす審級(裁判中心の)が取締りと変容と矯正と改良にあたるすべての審級(行刑中心の)のなかにしのびこむ。極端な場合には、もはやいかなるものによっても前者の審級は後者の審級から区別されないにちがいない、もしも非行者のとくに《危険有害な》性格、彼らの逸脱のはなはだしさ、祭式(司法の有する)の当然の厳粛さなどが存在しなければ。ところが、この処罰権力は機能の点では、治療もしくは教育の権力と本質的には異なっていない。処罰権力はそれらの権力から、そしていっそう劣った取るにたりぬその職務から、下部からの保証を、ただし技術と合理性を中心とする保証である以上やはり重要な保証を受取る。監禁的なるものは、規律・訓練をおこなう技術的権力を《合法化する》ように、処罰をおこなう法律的権力を《自然なものにする》。このように両者の権力を等質化し、法律的権力のなかに存在しうる暴力的なものと技術的権力のなかに存在しうる恣意的なものを消し去り、両者の権力のせいで起こるかもしれない反抗の影響をやわらげ、したがってそれら権力の激化と執拗さを役立たぬものにし、機械技術的であれ慎ましやかであれ同一の計算された方法を一方の権力から他方の権力へ通いあわせる、以上の方法でもって監禁的なるものは、人間の有益な管理ならびに蓄積の問題があらわれた十八世紀にその方式が探究されてきた、あの権力の大いなる《経済策》の実効化を可能にする」(フーコー「監獄の誕生・P.302~303」新潮社)
ところが実効性を持ったのはただ単に《経済策》だけではなかった。広い意味ではなるほど経済的ではあるが。この経済策は、「欲望する機械」をも作品化することに成功した。ベンサムがそこまで考えおよんでいたとは到底考えられない。しかし資本主義はその合理性を熟成させるとともにじっくりと「欲望の抑制」すら育んでいた。フーコーと前後する形でドゥルーズとガタリが述べたことだ。
「分裂者分析の目的は、以下のようなものとなる。まず、経済と政治とに対するリビドー備給の特殊な本性を分析すること。次に、このことによって、欲望している主体の中で、いかにして欲望が自分自身の抑制を欲望するという決心が起りうるかということを明らかにすること」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.132~133」河出書房新社)
具体的にこうも述べる。
「《ただ、欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外のなにものも存在しないのである》。社会的再生産の最も抑制的なまた最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生みだされるものなのだ。あれこれの条件の下で欲望から派生する組織の中で生みだされるものなのだ。われわれは、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、『何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦うのか』といった問題に。いかにして、ひとは、<パンを切りつめても、もっと多くの税金を>などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。またある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしも盗みをしないということである。何故、人々は幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにもこれらのものを《欲する》ことまでしているのか」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.44」河出書房新社)
また、家庭のあり方について。なぜ日本でも殺人発生率が最も多いのは家庭内なのか。「オイディプス神話」について、もっと本気で疑ってかかる必要性を感じるというほかない。
「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを(つまり信じられないような欲望の抑圧を)操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.151~152」河出書房新社)
要するに、まず第一に「ひな形」としての「人為的家庭」が政府主導で作成される。改憲論議もまたその中に含まれよう。同時に「家庭」のあり方。それは社会的規模を有する権力者層の希望にそった「家庭のあり方」でのみ、まさしくその「あり方」で押し付けられるかぎりでのみ、「家庭のあり方」はあくまで《経済策》として国家の側から一方的に「派遣される」という事情を抜きにして語れないのである。
また、「狂気」についてフーコーは「獣性」の移動というエピソードに触れている。これはこれで注目すべき部分だろう。
「クートンが狂人たちの動物性を定式化し、彼らがそこでふるまうのは自由にしておいたとき、彼は狂人(フウー)たちを動物性から解放したのではあったが、彼自身の動物性をさらけだし、そこに閉じこもってしまったのである。彼の狂暴さのほうが、狂人(デマン)たちの狂気よりもいっそう気違いじみ、いっそう非人間的だったわけである。こうして、狂気は狂人を見張る番人たちのほうへ移動した。狂人を動物として閉じこめる者のほうが、今や狂気の動物的な野蛮さを保持する者なのである。そうした人々においてこそ獣性は荒れくるうのであり、狂人たちに現われる獣性はその人々の獣性の混沌とした反映にほかならない。一つの秘密があらわになる。というのは、獣性は動物のなかにではなく、それを鎖につなぐ家畜化のなかにあったからである」(フーコー「狂気の歴史・P.499」新潮社)
洒落で「ミイラ取りがミイラに」とある。それを地で行ったわけだ。しかしこれはそういう教訓的な意味ではまったくない。むしろ獣性は移動するものだということが一つある。獣性の置き換え可能性という点。この点に関して日本のマスコミは考えなくてはならないだろう。一方で「綿密に計算された許されない犯罪」という用語の濫用。他方で「まったく行き当たりばったりの許されない犯罪」という用語の濫用。「犯罪報道で食っているマスコミだから仕方がない」、ではもはや済まされないとおもわれる。この際、「マスコミという獣性」も用語のうちに叩き込んでおくべきだろう。視聴者を馬鹿にするにもほどがあるというものだからだ。もう一つは獣性の生成変化と性愛の生成変化とのきわめて近く深い関係が上げられる。
「性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~288」河出文庫)
この「獣性」については「家族小説」としてのゾラ「居酒屋」「ナナ」などが面白いとおもうのだが。ニーチェはいう。外部へ放出されないエネルギーは方向転換されて内部へ逆流すると。家庭内殺人や自殺行為だけでなく自主規制や自己責任論なども、ニーチェなら躊躇なくこの種に分類することだろう。
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