エルスチールの家でアルベルチーヌを紹介された<私>。前回よりはくっきりアルベルチーヌの顔を見る機会に恵まれたことになる。さてその日アルベルチーヌは先にエルスチール邸から帰宅する。その後、そういえばアルベルチーヌの顔には小さなほくろがあったはずだと<私>は思い出し、もう一度記憶の中で反復しようとする。だがそこまではっきりアルベルチーヌの顔貌を記憶に叩き込んだわけではないため、ほくろの位置がどこにあったかはなはだ「あいまい」にしか思い出せない。そこで<私>はアルベルチーヌの顔を絵画のキャンバスに見立ててほくろの位置がどこだったか、キャンバスと化した顔のあちこちへほくろを移動させて「あるときはこちらに、べつのときはそちらに置く始末だった」。相手の女性がアルベルチーヌかそうでないか。識別記号の一つとして「ほくろ」が<私>の記憶に登録されている点に注目しよう。
「はじめて紹介された日の夕べのことはこれで終りにしようとして、目の下の頬にある小さなほくろをもう一度想いうかべたかけた私は、エルスチール宅からアルベルチーヌが立ち去ったとき、このほくろをあごのうえに見たことを想い出した。結局、私は、アルベルチーヌに会ったときにほくろの存在に気づきはしたが、さまよえる私の記憶はその後ほくろをアルベルチーヌの顔のうえに歩きまわらせ、あるときはこちらに、べつのときはそちらに置く始末だった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.500」岩波文庫 二〇一二年)
しかし「娘のあごに小さなほくろがある」という認識はずっと以前に出ている。
「私は、娘のあごに小さなほくろがあるのに気づいた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.438」岩波文庫 二〇一二年)
後になって実際は「上唇の鼻の下」だとわかる。だがプルーストが語っているのは、よくありがちな文芸評論家のいうように記憶というものは実に<あいまい>だということでは全然ない。「娘のあごに小さなほくろがあるのに気づいた」ほぼ直後、<私>の意識はアルベルチーヌ・シモネの“Simonet”というスペルに含まれる“n”が一つかそれとも二つかという問いに移動している点である。記憶の<曖昧さ>というより遥かに気まぐれな<脈略のなさ>についての記述なのだ。
「すでに浜辺で耳にしたこのシモネという名前にしても、それを書いてみよと言われたら私は、名前に“n”がひとつしかないことをこの家族が重視しているとはつゆ知らず、“n”をふたつ書いたにちがいない。社会の階層が下がるにつれて、スノビズムはつまらないことに執着するものだ。そのくだらなさは貴族の高貴な家柄のこだわりと比べるとまだましかもしれないが、各人があまりにも特殊なわかりにくいことに固執する点では貴族以上で、それだけに驚きも大きい。もしかすると“n”がふたつのシモネ家に、事業に失敗したりそれ以上に悪行をしでかしたりした家があったのかもしれない。いずれにしてもシモネ家の人たちは、自分の名前に余分に“n”をつけられると、中傷を受けたみたいに腹を立てたという。“n”がふたつではなくひとつしかない唯一のシモネ家であることに、モンモランシー家がフランス最初の男爵家であることに感じるのに負けぬ誇りをいだいているのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.439~440」岩波文庫 二〇一二年)
エルスチールを介してアルベルチーヌを紹介されしばらく経ったある日。<私>が浜辺を散歩していた時、偶然アルベルチーヌに会った。アルベルチーヌの顔の特徴の一つに「こめかみの火照り」があることに気づいていた<私>はとっさに「こめかみの火照り」を探す。ところが「私が反対の側にいたからか、小さなトック帽がそれを覆っていたからか、その火照りが恒常的なものではないからか、顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心ではなくなっていた」。
「おまけにこめかみも、私が反対の側にいたからか、小さなトック帽がそれを覆っていたからか、その火照りが恒常的なものではないからか、顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心ではなくなっていた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.502」岩波文庫 二〇一二年)
見る側の位置が問題なのか帽子の影になっているのか「火照り」そのものが実は「恒常的」ではなかったからか。そんなことは実はどうでもいいのだ。プルーストがこの箇所で語っているのは、相手の顔を識別する記号はいつなんどき<象形文字>へ変化するかわかったものではなく、また、見る側が相手の顔の特徴だと思っていた記号は<思い込んでいた>特徴に過ぎず、それなしでは相手がアルベルチーヌなのかそれともまったくの他人なのかわからないとすれば、それこそ「顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心」という概念など始めから<ない>ということでなければならない。
そんなわけで今回はほんの僅かな記述を取り上げたに過ぎないけれども、その重要さから言うとすれば二点ばかり上げることができるだろう。
(1)愛する相手の識別記号(この場合は「ほくろ」)の話が女性の顔貌に関わる話題だからといって、そのすぐ後もなお顔貌に関わる印象(イメージ)が引き続いて回想されるわけではまるでなく、むしろアルベルチーヌ・シモネの“Simonet”というスペルに含まれる“n”が一つかそれとも二つかという問いに移動している点。並びに読者自身、その<脈略のなさ>にほとんど気づいていないこと。
(2)愛する相手の識別記号(この場合は「こめかみの火照り」)が認められないにも関わらず、相手の女性がアルベルチーヌにほかならないと分かるのはなぜか。言い換えれば、相手の「顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心」となる特徴というものはそもそも存在<しない>という「非中心性・脱中心性」というテーマの出現。また、<私>は「こめかみの火照り」を見つけようとして見当たらず混乱するけれども、この点はプルースト作品でお馴染みの<覗き>というテーマとともにある。もっと後でもう一度検討を加えなければならないが、例えば先に少しばかり触れておいたシャルリュスの同性愛的言動。それを見る<私>はシャルリュスの言動をただ単に見ているわけではまるでなく<覗き見る>のであり、なおかつ<覗き見ている>シーンを逐一厳密に読者に報告している。今でいう「ライブ配信」する。プルースト作品の主題がただ単なる「時間」ではなく「時間」の<主題化>だというのはこのような現在進行形的「ライブ配信性」に認められる。
BGM1
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「はじめて紹介された日の夕べのことはこれで終りにしようとして、目の下の頬にある小さなほくろをもう一度想いうかべたかけた私は、エルスチール宅からアルベルチーヌが立ち去ったとき、このほくろをあごのうえに見たことを想い出した。結局、私は、アルベルチーヌに会ったときにほくろの存在に気づきはしたが、さまよえる私の記憶はその後ほくろをアルベルチーヌの顔のうえに歩きまわらせ、あるときはこちらに、べつのときはそちらに置く始末だった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.500」岩波文庫 二〇一二年)
しかし「娘のあごに小さなほくろがある」という認識はずっと以前に出ている。
「私は、娘のあごに小さなほくろがあるのに気づいた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.438」岩波文庫 二〇一二年)
後になって実際は「上唇の鼻の下」だとわかる。だがプルーストが語っているのは、よくありがちな文芸評論家のいうように記憶というものは実に<あいまい>だということでは全然ない。「娘のあごに小さなほくろがあるのに気づいた」ほぼ直後、<私>の意識はアルベルチーヌ・シモネの“Simonet”というスペルに含まれる“n”が一つかそれとも二つかという問いに移動している点である。記憶の<曖昧さ>というより遥かに気まぐれな<脈略のなさ>についての記述なのだ。
「すでに浜辺で耳にしたこのシモネという名前にしても、それを書いてみよと言われたら私は、名前に“n”がひとつしかないことをこの家族が重視しているとはつゆ知らず、“n”をふたつ書いたにちがいない。社会の階層が下がるにつれて、スノビズムはつまらないことに執着するものだ。そのくだらなさは貴族の高貴な家柄のこだわりと比べるとまだましかもしれないが、各人があまりにも特殊なわかりにくいことに固執する点では貴族以上で、それだけに驚きも大きい。もしかすると“n”がふたつのシモネ家に、事業に失敗したりそれ以上に悪行をしでかしたりした家があったのかもしれない。いずれにしてもシモネ家の人たちは、自分の名前に余分に“n”をつけられると、中傷を受けたみたいに腹を立てたという。“n”がふたつではなくひとつしかない唯一のシモネ家であることに、モンモランシー家がフランス最初の男爵家であることに感じるのに負けぬ誇りをいだいているのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.439~440」岩波文庫 二〇一二年)
エルスチールを介してアルベルチーヌを紹介されしばらく経ったある日。<私>が浜辺を散歩していた時、偶然アルベルチーヌに会った。アルベルチーヌの顔の特徴の一つに「こめかみの火照り」があることに気づいていた<私>はとっさに「こめかみの火照り」を探す。ところが「私が反対の側にいたからか、小さなトック帽がそれを覆っていたからか、その火照りが恒常的なものではないからか、顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心ではなくなっていた」。
「おまけにこめかみも、私が反対の側にいたからか、小さなトック帽がそれを覆っていたからか、その火照りが恒常的なものではないからか、顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心ではなくなっていた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.502」岩波文庫 二〇一二年)
見る側の位置が問題なのか帽子の影になっているのか「火照り」そのものが実は「恒常的」ではなかったからか。そんなことは実はどうでもいいのだ。プルーストがこの箇所で語っているのは、相手の顔を識別する記号はいつなんどき<象形文字>へ変化するかわかったものではなく、また、見る側が相手の顔の特徴だと思っていた記号は<思い込んでいた>特徴に過ぎず、それなしでは相手がアルベルチーヌなのかそれともまったくの他人なのかわからないとすれば、それこそ「顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心」という概念など始めから<ない>ということでなければならない。
そんなわけで今回はほんの僅かな記述を取り上げたに過ぎないけれども、その重要さから言うとすれば二点ばかり上げることができるだろう。
(1)愛する相手の識別記号(この場合は「ほくろ」)の話が女性の顔貌に関わる話題だからといって、そのすぐ後もなお顔貌に関わる印象(イメージ)が引き続いて回想されるわけではまるでなく、むしろアルベルチーヌ・シモネの“Simonet”というスペルに含まれる“n”が一つかそれとも二つかという問いに移動している点。並びに読者自身、その<脈略のなさ>にほとんど気づいていないこと。
(2)愛する相手の識別記号(この場合は「こめかみの火照り」)が認められないにも関わらず、相手の女性がアルベルチーヌにほかならないと分かるのはなぜか。言い換えれば、相手の「顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心」となる特徴というものはそもそも存在<しない>という「非中心性・脱中心性」というテーマの出現。また、<私>は「こめかみの火照り」を見つけようとして見当たらず混乱するけれども、この点はプルースト作品でお馴染みの<覗き>というテーマとともにある。もっと後でもう一度検討を加えなければならないが、例えば先に少しばかり触れておいたシャルリュスの同性愛的言動。それを見る<私>はシャルリュスの言動をただ単に見ているわけではまるでなく<覗き見る>のであり、なおかつ<覗き見ている>シーンを逐一厳密に読者に報告している。今でいう「ライブ配信」する。プルースト作品の主題がただ単なる「時間」ではなく「時間」の<主題化>だというのはこのような現在進行形的「ライブ配信性」に認められる。
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