白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・アルベルチーヌの識別記号/その<脈略のなさ>と<脱中心的ライブ配信性>

2022年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
エルスチールの家でアルベルチーヌを紹介された<私>。前回よりはくっきりアルベルチーヌの顔を見る機会に恵まれたことになる。さてその日アルベルチーヌは先にエルスチール邸から帰宅する。その後、そういえばアルベルチーヌの顔には小さなほくろがあったはずだと<私>は思い出し、もう一度記憶の中で反復しようとする。だがそこまではっきりアルベルチーヌの顔貌を記憶に叩き込んだわけではないため、ほくろの位置がどこにあったかはなはだ「あいまい」にしか思い出せない。そこで<私>はアルベルチーヌの顔を絵画のキャンバスに見立ててほくろの位置がどこだったか、キャンバスと化した顔のあちこちへほくろを移動させて「あるときはこちらに、べつのときはそちらに置く始末だった」。相手の女性がアルベルチーヌかそうでないか。識別記号の一つとして「ほくろ」が<私>の記憶に登録されている点に注目しよう。

「はじめて紹介された日の夕べのことはこれで終りにしようとして、目の下の頬にある小さなほくろをもう一度想いうかべたかけた私は、エルスチール宅からアルベルチーヌが立ち去ったとき、このほくろをあごのうえに見たことを想い出した。結局、私は、アルベルチーヌに会ったときにほくろの存在に気づきはしたが、さまよえる私の記憶はその後ほくろをアルベルチーヌの顔のうえに歩きまわらせ、あるときはこちらに、べつのときはそちらに置く始末だった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.500」岩波文庫 二〇一二年)

しかし「娘のあごに小さなほくろがある」という認識はずっと以前に出ている。

「私は、娘のあごに小さなほくろがあるのに気づいた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.438」岩波文庫 二〇一二年)

後になって実際は「上唇の鼻の下」だとわかる。だがプルーストが語っているのは、よくありがちな文芸評論家のいうように記憶というものは実に<あいまい>だということでは全然ない。「娘のあごに小さなほくろがあるのに気づいた」ほぼ直後、<私>の意識はアルベルチーヌ・シモネの“Simonet”というスペルに含まれる“n”が一つかそれとも二つかという問いに移動している点である。記憶の<曖昧さ>というより遥かに気まぐれな<脈略のなさ>についての記述なのだ。

「すでに浜辺で耳にしたこのシモネという名前にしても、それを書いてみよと言われたら私は、名前に“n”がひとつしかないことをこの家族が重視しているとはつゆ知らず、“n”をふたつ書いたにちがいない。社会の階層が下がるにつれて、スノビズムはつまらないことに執着するものだ。そのくだらなさは貴族の高貴な家柄のこだわりと比べるとまだましかもしれないが、各人があまりにも特殊なわかりにくいことに固執する点では貴族以上で、それだけに驚きも大きい。もしかすると“n”がふたつのシモネ家に、事業に失敗したりそれ以上に悪行をしでかしたりした家があったのかもしれない。いずれにしてもシモネ家の人たちは、自分の名前に余分に“n”をつけられると、中傷を受けたみたいに腹を立てたという。“n”がふたつではなくひとつしかない唯一のシモネ家であることに、モンモランシー家がフランス最初の男爵家であることに感じるのに負けぬ誇りをいだいているのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.439~440」岩波文庫 二〇一二年)

エルスチールを介してアルベルチーヌを紹介されしばらく経ったある日。<私>が浜辺を散歩していた時、偶然アルベルチーヌに会った。アルベルチーヌの顔の特徴の一つに「こめかみの火照り」があることに気づいていた<私>はとっさに「こめかみの火照り」を探す。ところが「私が反対の側にいたからか、小さなトック帽がそれを覆っていたからか、その火照りが恒常的なものではないからか、顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心ではなくなっていた」。

「おまけにこめかみも、私が反対の側にいたからか、小さなトック帽がそれを覆っていたからか、その火照りが恒常的なものではないからか、顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心ではなくなっていた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.502」岩波文庫 二〇一二年)

見る側の位置が問題なのか帽子の影になっているのか「火照り」そのものが実は「恒常的」ではなかったからか。そんなことは実はどうでもいいのだ。プルーストがこの箇所で語っているのは、相手の顔を識別する記号はいつなんどき<象形文字>へ変化するかわかったものではなく、また、見る側が相手の顔の特徴だと思っていた記号は<思い込んでいた>特徴に過ぎず、それなしでは相手がアルベルチーヌなのかそれともまったくの他人なのかわからないとすれば、それこそ「顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心」という概念など始めから<ない>ということでなければならない。

そんなわけで今回はほんの僅かな記述を取り上げたに過ぎないけれども、その重要さから言うとすれば二点ばかり上げることができるだろう。

(1)愛する相手の識別記号(この場合は「ほくろ」)の話が女性の顔貌に関わる話題だからといって、そのすぐ後もなお顔貌に関わる印象(イメージ)が引き続いて回想されるわけではまるでなく、むしろアルベルチーヌ・シモネの“Simonet”というスペルに含まれる“n”が一つかそれとも二つかという問いに移動している点。並びに読者自身、その<脈略のなさ>にほとんど気づいていないこと。

(2)愛する相手の識別記号(この場合は「こめかみの火照り」)が認められないにも関わらず、相手の女性がアルベルチーヌにほかならないと分かるのはなぜか。言い換えれば、相手の「顔のなかで見る者の目を落ち着かせる中心」となる特徴というものはそもそも存在<しない>という「非中心性・脱中心性」というテーマの出現。また、<私>は「こめかみの火照り」を見つけようとして見当たらず混乱するけれども、この点はプルースト作品でお馴染みの<覗き>というテーマとともにある。もっと後でもう一度検討を加えなければならないが、例えば先に少しばかり触れておいたシャルリュスの同性愛的言動。それを見る<私>はシャルリュスの言動をただ単に見ているわけではまるでなく<覗き見る>のであり、なおかつ<覗き見ている>シーンを逐一厳密に読者に報告している。今でいう「ライブ配信」する。プルースト作品の主題がただ単なる「時間」ではなく「時間」の<主題化>だというのはこのような現在進行形的「ライブ配信性」に認められる。

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Blog21・彼方の貨幣から商品への移動に失敗したアルベルチーヌ

2022年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
エルスチールに紹介されてようやく<私>はアルベルチーヌと会うことができた。バルベックの浜辺で受けた最初の出会いの鮮烈さはすでに消失している。二度目の出会いはもはや二度目の出会いでしかない。アルベルチーヌは早くも価値下落を起こしている。しかし下落すればするほど、かえってそのぶん、<私>はアルベルチーヌを自由に取り扱うことができるようになる。手の届かない遥か遠くの貨幣から手の届く範囲に転がっているただ単なる貨幣へ変化した。

しかしこの時点からアルベルチーヌの顔貌はがらりと変わる。なるほどその顔貌ばかりは相変わらず諸商品の無限の系列をなして延々引き延ばされてはいく。だがどこにでもいそうな<私>という単なる一人の男の手の届く範囲の貨幣に過ぎないレベルへ大暴落を起こしたという事情はのっぴきならない事態である。どの商品でも構わないにせよ、しかしアルベルチーヌは商品に変わることができなかった。事態はもっと過酷だ。永遠に手の届かない彼方にある貨幣ではなく、一人の人間の手の届くところにある単なる貨幣にしかなれなかった。とすればもうたかが知れたものだ。どうあがいても手の届かない大貴族(皇帝・帝王・王位)という<貨幣>ではなく、一定の<貨幣額>を積み上げれば買い込むことのできる貨幣、新興ブルジョワ階級に属する貨幣への場所移動。この箇所が難解に思えるのはアルベルチーヌが手の届く範囲のただの女性になったということだけを語っているわけではないからである。

かつての貨幣ではもはやなく、かといって純然たる商品へ交換されたわけでもない。アルベルチーヌはただ、どこの金融市場でもごろごろ転がっており、有名無名に関わらず人間であればいつでも手に取って数値化できる貨幣へと変わった。だから<私>のような単なる匿名者の手の中でさえ好きなようにもてあそぶことができる<物としての女性>へと変化した。そこで<私>はさっそくアルベルチーヌから受け取った二度目の出会いの印象をホテルの部屋へ持ち帰ってさんざんなぶりものにする。

「しかし歓びを認知できたのは、もちろんしばらくしてホテルに帰ってひとりになり、私が私自身に戻ったときのことである。この意味で、歓びは写真のようなものといえる。愛する人のいるところで撮ったものはネガにすぎず、それを現像できるのは、あとで家に帰って内心の暗室を使えるようになってからである。その暗室の入口は、人に会っているかぎり『立入禁止』になっているのだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.493」岩波文庫 二〇一二年)

受け取った印象を個人の脳内でどんなふうにでも妄想して遊び惚けることができるのはなぜか。次のように何度か引用した通りだ。

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

また一九〇〇年頃になってようやく出現してきた新興ブルジョワ階級の娘世代はそれなりに個性を有した容貌を持っていて大変洗練されていたわけだが、ところが<私>から見れば言葉遣いの端々が余りにも下品なためしばしば耳障りでもある。

「それからもうひとつ、私は娘が『完全に』と言うかわりに『完璧に』という副詞を使うのを聞いて驚いた。ふたりの人物の話をしていて、一方のことは『あの女(ひと)は完璧に頭がおかしいけど、それでもとっても親切なの』と言い、もう一方については『あの男の人は、完璧に凡庸で、完璧に退屈なの』と言うのだ。このように不愉快な『完璧に』という用法は、自転車を押すバッカスの巫女、ゴルフに夢中のミューズが到達した、私には想いも寄らぬ文明と文化の発展段階を示すものである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.496」岩波文庫 二〇一二年)

下品な言葉遣いに自分でそうと気づいていない、にもかかわらず「自転車を押すバッカスの巫女、ゴルフに夢中のミューズ」だとプルーストは書く。以前引いた。

「バルベックで私は、馬に乗った商人の息子たちを見かけても、たちまち貴公子ととり違えたものだ。今度は、製造業や商業に携わるたいそう裕福なプチ・ブルジョワの家の娘たちを、いかがわしい境遇の者と想いこんでいたのである。この実業の世界というのは、見るからに私の興味を一番そそらない世界で、それというのも庶民の神秘も、ゲルマント家に代表される社交界の神秘もたたえないからである。大商人の娘たちと気づいて私が意気消沈しないですんだのは、浜辺のリゾート生活という華やかな空虚に幻惑された私の目に、その娘たちに前もって威光が授けられ、娘たちがそれを二度と失わない事態があったからである。私は、フランスのブルジョワ階級なるものが、いかに多種多様な彫像を生みだしす希有(けう)な職人であるかと驚嘆するほかなかった。それぞれの顔の特徴には、なんと多くの予想を超える種類があり、なんとみごとな創意工夫があり、それぞれの目鼻立ちになんという決断力とみずみずしいあどけなさがあることだろう!こんなディアナやニンフたちを生みだした吝嗇(りんしょく)のブルジョワというものが、私にはもっとも偉大な彫像製作家に思えたのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.438~439」岩波文庫 二〇一二年)

娘たちはとても美しい。だが美の対象としてはどこまで行っても新興ブルジョワ階級がだいたい三世代かけて造り出した「作品」というカテゴリーから出ることはできない。では一方、往年の大貴族は一体どこからやって来たどのような人々たちなのか。ニーチェはいう。

「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十七・P.101~102」岩波文庫 一九四〇年)

多少なりとも最初はそんなふうに出現した大貴族の先祖たち。作品中ではゲルマント家がその典型として描かれている。しかしゲルマント家はその後どうなったか。

「かくして称号と名前とは同一であるから、なおもゲルマント大公妃なる人は現存するが、その人は私をあれほど魅了した人とはなんの関係もなく、いまや亡き人は、称号と名前を盗まれてもどうするすべもない死者であることは、私にとって、その城館をはじめエドヴィージュ大公女が所有していたものをことごとくほかの女が享受しているのを見ることと同じくらい辛いことだった。名前の継承は、すべての継承と同じで、またすべての所有権の簒奪と同じで、悲しいものである。かくしてつねに、つぎからつぎへと途絶えることなく新たなゲルマント大公妃が、いや、より正確に言えば、千年以上にわたり、その時代ごとに、つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられるただひとりのゲルマント大公妃があらわれ、この大公妃は死を知らず、移り変わるもの、われわれの心を傷つけるものなどには関心を示さないだろう。同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くすからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.98~99」岩波文庫 二〇一九年)

そしてプルーストは述べる。

「社交界とは虚無の王国である」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.198」岩波文庫 二〇一七年)

そうかもしれない。だとしても、しかしなぜそこからさらに新しい資本がちょろちょろ顔を覗かせたりすることがあるのか。誰のどの懐にそんな資本があるのか。この不況にもかかわらず?だがプルーストがいうのはその意味での資本のことではまるでない。ほんのちょっとした吹けば飛ぶようなバブルで何度も失敗し、さらに失敗し、失敗が失敗を呼び寄せる悪循環に入ったまま抜け出せない現状とは全然関係ない。<私>がアルベルチーヌに近づけば近づくほど或る種の<身振り・言語>がさらなる<身振り・言語>を加速的に呼び寄せ呼び集め、とうとう誰のどの言葉がシニフィアン(意味するもの)でありシニフィエ(意味されるもの・意味内容)なのかさっぱりわからなくなる統合失調(スキゾフレニー)状態の到来が待っている。次の箇所はアルベルチーヌが死んだ後でアンドレの口から語られる部分。

「『わたしたちふたりは、そりゃもうすてきな時をすごしたわ。あの娘(こ)って愛撫が好きでね、熱烈だったの。おまけにわたしとだけじゃなかったのよ、あの娘(こ)が楽しんでたのは。ヴェルデュラン夫人のところでモレルっていう美男子と出会って、ふたりはすぐに了解しあったの。男の役目はねーーーなにしろ男はうぶな小娘たちが好きで、その小娘たちを悪の道へひきこんだらすぐ捨ててしまうのがお好みだったので、自分も楽しませてもらう了解をあの娘(こ)からとりつけたうえでーーー、遠くの浜辺にいる漁師の小娘たちや、洗濯屋の小娘たちを惹きつけることだったの。そんな小娘たちって、若い男には熱をあげても、若い娘から言い寄られたって振り向きもしないでしょ。男はそんな小娘をすっかり言いなりにしてしまうと、すぐさまその娘をまるっきり安全な場所へ連れてきて、そこでアルベルチーヌへひき渡すの。娘のほうは、惚れたモレルを失うのを怖れて、おまけにモレルも一役買っていたから、いつも言いなりになるのよよ、でも結局、いつもモレルに捨てられるの。モレルのほうは重大な結果になるのが恐ろしいし、一度か二度たのしめば充分だからと、にせの住所を残してずらかるの。モレルったら一度、そんな娘のひとりをアルベルチーヌといっしょに、大胆にもクーリヴィルの娼家に連れこんだの。そこで四、五人がかりで、同時にか、順ぐりにか、手込めにしたのよ。それがモレルの情欲だったのね、アルベルチーヌの情欲でもあったけど、でもアルベルチーヌのほうは、あとでひどく後悔してたわ。あなたのところじゃ、あの娘(こ)もそんな情欲をなんとか抑えて、あんなことに身を任せるのは日延べにしていたのでしょう。それにあなたが大好きだったから、気が咎めたのね。でも、万一あなたと別れたら、またやりだすのは目に見えてたわ。ただ、あなたと別れたあとで、あんなものすごい欲望に身を任せたら、もっと気が咎めてたと思うの。あの娘(こ)はね、あなたが救ってくれること、あなたが結婚してくれることを期待してたのよ。結局、自分でもこれは許さない狂気の沙汰だと感じていたのね。アルベルチーヌはそんなことをしでかしたあと、ある家に自殺者まで出したんで、あんなふうにみずから死を招いたんじゃないかと、わたしは何度もそう思ったわ』」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.402~404」岩波文庫 二〇一七年)

アルベルチーヌは<両性具有>であり横断的性愛者(トランス・ジェンダー)だったとして何度目かの証言が与えられる。プルーストが繰り返しその点に触れるのには理由がある。資本主義は異性愛だけの世界というものが嫌いだからだ。横断性のないところではどんな新しい機械であっても労働力との合体を果たすことはできない。男性の特権性とか女性の特権性とかいう一方的な考え方が問題とされるのは労働力人口の調整が必要になった時に限り出てくる。

そしてまた女性の人権確立運動の場合にしても最初は左派に属する人々が運動していたが運動が大きくなって或る程度の権利が保証されるようになればなるほど今度は逆に新自由主義の代弁者にしか見えない留学帰りの女性たちがのうのうとマスコミのコメンテーターとして同性(女性)の中の貧困者層を弾圧する方向にしか働かない発言を弄している。そんな社会活動ならとっとと止めさせなければならない。とはいえ貧困女性(女子)を抱える世帯を増やすのが目的だというのから話は別だが、その場合、新自由主義の代弁者にしか見えない留学帰りの女性たち自身の所得や社会的立場がたちまち追求されることは間違いないだろう。まかり間違えば資本主義機構そのものを迷走させてしまう恐れがあり過ぎるからだ。しかしそのような人々の正体が、本当は新自由主義を資本主義より以上の位置につけてトランプ政権のような国内大分裂状態を起こしたいという「隠れ革命コメンテーター」だというのならまた話が違ってくる。プルーストが語っているようにアルベルチーヌやアンドレ、ジゼルたちが口にする「嘘」とその効果から検証し直さなくてはならず、その検証結果を今度は今の日本の言論界に置き換えて洗いざらい見ぐるみ剥いですべての角度から身体検査しなくてはならないからである。この種の、新自由主義の代弁者にしか見えない留学帰りの女性たちの無責任この上ない発言のために一体どれだけの貧困女子が続発中か。マスコミは何一つ知らないか知っていても大型スポンサーに気を使うあまり何一つ言えないのだろう。なお、新自由主義の代弁者にしか見えない留学帰りの女性たちが本当に新自由主義を押し進めたいというのなら、暇の一つもつくって、性風俗業界で血まなこになって働いている若い女性たちの身代わりになるのが筋だと思われる。嫌がってももう遅い。現場を知らないというのはどれほど怖いか。思い知るのもたまにはよい経験になるだろう。新自由主義が今のままの条件で推移するとすればいずれは新自由主義を信奉する女性たちにその順番が回ってくるしもう待たれているくらいだというのに。

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Blog21・<私>の多数性/嫉妬の苦痛の増殖的延長

2022年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストの代表作「失われた時を求めて」。という有名な長編の名を知らない人間はどこにもいない。どの国の教科書にも載っている。同時期に出現したジョイス「ユリシーズ」とともに余りにも有名。だがしかし作家にとって有名なことがいつも有益であるとは必ずしも限らない。とりわけプルーストの場合はそうだ。文学・芸術に関する世界的権威を含む多くの読者から<誤解>されることで有名になったという動かせない事実。しかしプルースト自身おそらく文学の権威による<誤解>を経てでしか次の第二世代による新しい<読解>が出現することはないだろうと気づいていたふしがある。次の箇所。「空間に視覚上の錯覚があるように、時間にも同様の錯覚が存在する」。人間は「騙し絵」に接する時のようにしばしば「視覚上の錯覚」に陥る。けれどもこの種の「錯覚」が生じるのは視覚に限ったことだけだろうか。「時間にも同様の錯覚が存在する」のではないか?

「忘却の時間が私の記憶のなかに不規則かつ断片的に差し挟まれたためにーーー海上をおおう濃霧が万物の目印を消してしまうようにーーー、私の時間の距離感は混乱してばらばらになり、距離はこちらで縮まったかと思うとあちらでは延びる始末」と述べているように「時間」が主題だと思えることは確かでありまた「時間」は作品の最後までずっと主題としてあり続ける。だがプルースト作品の「主題は時間である」という公式が世界水準で教科書化されてしまうと、それだけの理解で本当によいのかという問いの側が瞬時に消え去ってしまい、第二世代からさらに第三世代へ読者が移り変わっているにもかかわらず、今なおプルースト作品の「主題は時間である」という公式はまるでどこからどう見ても問題ないかのように流通してしまっている。

「空間に視覚上の錯覚があるように、時間にも同様の錯覚が存在する。私のなかには仕事をしたい、無駄にすごした時をとり戻したい、生活を変えたい、というより真の生活をはじめたい、という昔ながらの漠然とした意志がなおも存続していたせいで、私は自分が昔と同じように若いのだと錯覚していたが、それでもアルベルチーヌの生前最後の数ヶ月のあいだに私の人生につぎからつぎへと生起したあらゆるできごとの想い出のせいでーーーまた人は自分が大きく変わったときに実際よりも長い時間を生きたと考えがちだから、そうしたあるできごとの想い出のせいでーーー、その数ヶ月は一年よりもはるかに長いものに感じられた。にもかかわらず私はそんな多くのことがらをいまや忘れてしまい、そうして生じた空虚な空間がそんな最近のできごとを自分から遠ざけたせいで、私はそれらを遠い昔のことのように思ったが、それも私がそんなできごとを忘れるだけの『時間』と言われるものを持ったからだろう。そのような忘却の時間が私の記憶のなかに不規則かつ断片的に差し挟まれたためにーーー海上をおおう濃霧が万物の目印を消してしまうようにーーー、私の時間の距離感は混乱してばらばらになり、距離はこちらで縮まったかと思うとあちらでは延びる始末で、あらゆるものと私との距離が、あるときは実際よりもずっと遠くに、あるときはずっと近くに感じられた」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.388~390」岩波文庫 二〇一七年)

では「失われた時を求めて」がこれほど長い作品なのはなぜか。もし「主題は時間である」あるいは「時間が主題である」ということを言おうとしてこれほど長々しい作品を書かなくてはならなかったというのが事実なら、それこそ逆にプルーストは途轍もない駄作家だということにならざるを得ない。ところがプルーストはあちこちにごろごろ転がっている駄作家たちとはまるで正反対の位置にいる。戦前戦後、そして二十一世紀になってなお何度も繰り返し研究対象とされてくる理由は「主題は時間である」あるいは「時間が主題である」という先入観から外部へ出てきて始めて見えてくる課題だからだ。単純な話で、(1)プルースト作品の「主題は時間である」あるいは「時間が主題である」というのは誰にでもわかると思う。しかし一方、(2)実際にプルーストが作品を通してやっていることは「時間の主題化」であり、そうなるのはどうしてだろうか、ということが研究されなければこれほど退屈な長編小説もほかにないと言わねばならないような作品だからだ。もはや常套句と化した「主題は時間」という教科書的フレーズとプルーストとはほとんど関係がない。常套句化は制度化を意味する。もはや一定の形式に収まり固定してしまっている。しかし制度化された以上、次の次元へ行くためには制度化されたものをいったん解体する必要が出てくる。社会というものはそうでなければ次の次元へ移動することができないからだ。したがって注目すべきは、実際に読者の目の前で繰り広げられる「時間の主題化」という前代未聞性であるほかない。

「主題」と「主題化」とではまるで違う。前者はすでに構造主義的枠内からはみ出すことなく手際よくまとめることを可能にする。ところが後者の場合、作品を通して読者は作品とともに「主題化」の過程を移動していくことになる。構造主義全盛期にもかかわらず「失われた時を求めて」は例外的に構造主義的読解とは別の場所へ棚上げされざるを得なかった困難さは、「主題」という静的枠組みの中に捕縛することができず、「主題化」という今まさに運動している作品を読解するしかないという不可能な条件を内部に含み持つため、ドゥルーズやデリダ、さらにドゥルーズ=ガタリといったごく一部の専門家による新しい解釈を待つほかなかったという事情による。

「失われた時を求めて」を読み直すこと。なぜ今それが必要か。作品発表は第一次世界大戦前夜。さらに第二次世界大戦終結後も読み継がれ、東西冷戦終結後も生き残り、再び「ウクライナ問題」を筆頭として世界が再分割される時期に入ってなお十分通用する文学というものはあまりないということではなく、世界再分割が実際に「主題化」してきた現時点で、「失われた時を求めて」に限ってなお一層鮮烈に改めて読めてしまうのはなぜか、ということでなくてはならない。問われているのは教科書的に固定された「歴史」と、いつも現在進行形で押し進められる「歴史化」とが違うくらいまるで違っている。ニーチェはいう。

「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)

アルベルチーヌは<私>にとって無限の系列を描いて記憶に残っている。その都度のアルベルチーヌの顔はその都度の<私>の精神状態次第で随分異なったものとなって瞬間々々を彩っている。<私>は<私>自身についてこう思う。「私は単一の人間ではなく、刻々と変わる混成部隊の分列行進のようなもので、そのなかには〔時〕によって何人もの情熱漢が存在したり、冷淡な男が存在したり、嫉妬ぶかい男が存在したりした」。

「アルベルチーヌの生活の総目録から採取されたかくも豊穣な想い出といい、その生活を前提としそれを彷彿とさせるかくも溢れんばかりの感情といい、いずれもアルベルチーヌが死んだ事実を信じられないものにしているように思われた。かくも溢れんばかりの感情と言ったのは、私の記憶が、私の感情を保存しつつ、その愛情にあらゆる多様性を残していたからである。継起する瞬間にほかならなかったのは、アルベルチーヌだけではなく、私自身もそうだった。アルベルチーヌにたいする私の愛は単純なものではなく、そこには未知のものへの好奇心に官能の欲望がつけ加わり、家庭的ともいえる安らぎに、ときには無関心が、ときには狂おしい嫉妬心がつけ加わっていた。私は単一の人間ではなく、刻々と変わる混成部隊の分列行進のようなもので、そのなかには〔時〕によって何人もの情熱漢が存在したり、冷淡な男が存在したり、嫉妬ぶかい男が存在したりしたーーーその嫉妬ぶかい男たちも、だれひとりとして同じ女に嫉妬していたわけではないのである。それゆえ、いつか快癒の日が来るとしても、それは願うような快癒にはならないだろう。このような大勢の集団では、その構成員は気づかぬうちにひとりまたひとりとべつの人間にとり還られ、その人間もまたべつの人間によって排除されたり補強されたりするから、最終的には人が単一の人間であったら考えられないような変化が完成するに至る。私の愛の複雑さ、私という人間の複雑さが、私の苦痛を増大させ、多様化したのだ。とはいえその数多くの苦痛も、つねにふたつの範疇に分類することができ、アルベルチーヌへの恋心はあるときは信頼へ、あるときは嫉妬ぶかい猜疑へと揺れうごき、その二者の交替がわが恋心の全生命を形づくっていたのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.166~167」岩波文庫 二〇一七年)

その時その時で変化に富むアルベルチーヌには「定型」といったものがない。むしろ<象形文字>としてしか出現してこない。だからアルベルチーヌに対する<私>の欲望は「あるときは信頼へ、あるときは嫉妬ぶかい猜疑へと揺れうご」く。前者はアルベルチーヌを信頼しきっている状態。確実に会えることがわかっている時や一緒に暮らし始めた時、<私>はアルベルチーヌに魅力を感じなくなる。逆に後者では不確定要素の増殖にともなって「嫉妬ぶかい猜疑」に取り憑かれた結果、<私>はとうとうアルベルチーヌを自宅に<監禁・監視>するようにまでなる。だが重要なのは、特に後者のように嫉妬が旺盛に<私>の身体をむしばんでしまう時期、不可解にも<私>は嫉妬がもたらす苦痛の延長化を欲望している点である。スワンの場合。

「ところが恋心に寄りそう影ともいうべき嫉妬心は、ただちにこの想い出と表裏一体をなす分身をつくりだす。その夜、オデットが投げかけてくれた新たな微笑みには、いまや反対の、スワンを嘲笑しつつべつの男への恋心を秘めた微笑みがつけ加わり、あの傾けた顔には、べつの唇へと傾けられた顔が加わり、スワンに示してくれたあらゆる愛情のしるしには、べつの男に献げられた愛情のしるしが加わる。かくしてオデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつは、室内装飾家の提案する下絵や『設計図』と同じような役割を演じることになり、そのおかげでスワンは、女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるようになった。あげくにスワンは、オデットのそばで味わった快楽のひとつひとつ、ふたりで編み出したとはいえ不用意にもその快さを女に教えてしまった愛撫のひとつひとつ、女のうちに発見した魅惑のひとつひとつを後悔するにいたった。いっときするとそうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.209」岩波文庫 二〇一一年)

なぜわざわざスワンは苦痛を引き延ばしてしまうのか。スワンがオデットを愛しているからである。しかし<私>の場合、スワンが演じてしまった苦痛の連鎖を見ていながら、スワン以上に果てしない苦痛の引き延ばしに立ち至ってしまう。苦痛を欲しているわけではない。苦痛から得られる何かを求めているわけでもない。そういうことではなく、「貨幣・言語・性・資本主義」というテーマがいつもころころ意味を取り換えるという人間社会の根本的問題との繋がりを問うていかなければ見えてくるものも見えてこないと思うのである。差し当たり<身振り・言語>が<象形文字>と化して読み取られるや生じる<断層>と<断層発生の必然性>について考えねばならないだろう。

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Blog21・アルベルチーヌを対象とする<二つのキス>とその条件

2022年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
多くの人々は職場や学校で毎日顔を合わせている友人知人がいることを経験として蓄積させていく。高齢者となって引退して以降、今度は近所の人々が新しく友人知人の中に入ってくる。ほぼ毎日反復される「挨拶」。始めのうちはそれが新鮮な「出会い」に思われるものだが、三ヶ月もすればもはやそれを「出会い」とは<呼ばない>ように変化していく。ところが毎回反復されるのはただ単なる「世間話・挨拶」ではまるでない。同一の「出会い」が反復されることは決してないからである。なぜただ単なる「世間話・挨拶」が何度も繰り返し可能なのか。まったく同一の「世間話・挨拶」であれば特に人間でなくてもよく、機械に任せておけば問題なく、同一作業の繰り返しでしかないというのであれば、それこそ或る人間と別の人間との「世間話・挨拶」というわずらわしい行為など演じる必要性は全然ないため、いっそのこと実際に顔を合わせることなくスマートフォンに任せておけばそれで済む。

にもかかわらずなぜ人間同士による「世間話・挨拶」の反復でなければならないか。毎日の習慣と化していればそこにもう「出会い」はないかのように見えはする。けれども「出会い」としての反復が必要になる条件として、人間はその都度新しく<差異化>された諸条件とともにでしか「出会われない」という桎梏に取り憑かれているという前提にあらかじめ拘束されているからである。五百億円の投資が五百一億円になって環流するためにはその都度新しく<差異化>された投資の変化が生産流通過程の中で確認できる限りにおいてであるように。

例えば入社3年目の或るOLの場合。昨日の退社時間に見知らぬ洒落た男性が隣接する部屋に配属になったと知り、その顔を見るや是非とも次の人事異動で自分の部下として同じ部屋で仕事をこなし、隙を見てホテルへ連れ込んで自分の性欲処理道具としておもちゃにしてやろうと考えるとする。そしてこの計画が順調にはかどり実際に洒落た新入男性社員を自分の性奴隷にさせることに成功したとしてもなお、男性社員の顔はいつも違った顔に見えるこということが起こってくる。その逆に入社3年目の或る男性社員の場合。同じく新しく入社した洒落た新人OLを自分の部下として毎日同じ部屋で仕事をともにするようになってもなお、相手のOLの顔はなぜかいつも違った顔に見えてきて嫉妬に燃えてしまうということが起こる。「愛と嫉妬」が一体化してしまわざるを得ない二〇歳代の時期には大変多くの社会人たち・学生たちが一度は経験する事象である。だがその熱烈な「愛と嫉妬」の時期を通り過ぎてしまうと、<事後的に>、或る記憶が反復されてくる。この場合の反復において、相手がしばしば見せてくれたどの顔もまったく同一というわけではまるでなく、逆に顕著な差異を帯びた無数の顔の系列を特徴とする<限りで反復される>。プルーストはアルベルチーヌについて「私には無数のアルベルチーヌが見えた。この娘は、いくつもの顔をもつひとりの女神よろしく、私が最後に見た娘に近づこうとすると、すぐまさべつの娘に変わってしまう」と述べる。実に正確極まりない文章というほかない。

「私は接吻するに先立って、アルベルチーヌが私と知り合う前に浜辺でただよわせていた神秘にあらためて満たされ、それ以前に暮らしていた土地までが本人のなかに見出せたらどんなにいいだろうと思った。私の知らない土地は無理だとしても、すくなくともその代わりに共にすごしたバルベックのありとあらゆる想い出、私の窓の下で砕ける波の音や子供たちの叫び声などをアルベルチーヌのなかに入れこむことができた。だがアルベルチーヌの頬という美しいバラ色の球体のうえに視線を走らせ、やさしく湾曲した頬の表面がみごとな黒髪の最初の褶曲(しゅうきょく)の麓のところで消え去ったり、黒髪がいくつもの山脈となって躍動しては険しい支脈を屹立させたかと思うと波立つ谷間をつくるのを目の当たりにすると、私はこう思わずにはいられなかった。『バルベックでは失敗したが、今度はいよいよアルベルチーヌの頬という未知のバラの味を知るんだ。人生のなかで事物や人間にたどらせることのできる地平はそう多くないのだから、あらゆる顔のなかから選びとった咲きほこる晴れやかな顔を遠くの額縁から取り出し、この新たな地平に連れてきて、その顔をついに唇によって知ることができたら、私の人生もいわば完了したとみなせるかもしれない』。私がそう思ったのは、唇による認識が存在すると信じこんでいたからである。私は肉体というこのバラの味をこれから知ることになると思いこんでいたが、それはウニと比べて、いやクジラと比べても明らかに一段と進化した生物である人間でも、やはり肝心の器官をいくつか欠いていること、とりわけ接吻に役立つ器官をなんら備えていないことに想い至らなかったからだ。人はこの欠けた器官を唇によって補っているので、愛する女性を角質化した牙で愛撫せざるをえない場合よりは、いくらかは満足できる成果が得られているのかもしれぬ。だが唇というものは、食欲をそそる対象の風味を口蓋(こうがい)に伝えるには適した器官であるが、頬を味わうにはそこには入りこめず、囲いの壁につき当たってその表面をさまようのに甘んじるほかなく、対象を間違えたとは理解できず、当てが外れたとも認めはしない。そもそも唇は、たとえはるかに熟練して上達した唇も、肉にじかに触れているその瞬間でさえ、自然が現段階では捉えさせてくれない風味をそれ以上に味わうことはできないだろう。というのも唇がその糧をなにひとつ見出しえないこの地帯では、唇は孤独で、ずいぶん前から視線にも、ついで臭覚にも見放されているからである。まずは視線から接吻するよう勧めれれた私の口が頬に近づくにつれて、移動する視線はつぎからつぎへと新たな頬を目の当たりにした。ルーペで眺めるみたいに間近で見る首は、皮膚のきめの粗さのなかにたくましさをあらわにして、顔の性格を一変させてしまった。写真という最新の技術ーーーそれは、近くで見ると往々にして塔ほどに高いと思われた家並みをすべて大聖堂の下方に横たえたり、いくつもの史的建造物をまるで連隊の訓練のよういつぎつぎと縦隊や散開隊形や密集隊形にさせたり、さきほどはずいぶん離れていたピアツェッタの二本の円柱をぴったりくっつくほどい近づけたり、近くにあるサルーテ教会をかなたに遠ざけたり、蒼白くぼやけた背景のもと、広大な水平線を、ひとつの橋のアーチ内や、とある窓枠内や、前景に位置する溌剌(はつらつ)とした色合いの一本の木の葉叢(はむら)のあいだに収めたり、同じひとつの教会の背景としてつぎつぎと他のあらゆる教会のアーケードを配置したりする技法であるーーー、私からするとこの技法だけが、接吻と同じく、一定の外観をもつ一個の事物と信じていたものから、それと同一の多数のべつのものを出現させることができるのだ。いずれもある視点から生じたものだが、どの視点もいずれ劣らぬ正当性を備えているからである。とどのつまり、バルベックにおいてアルベルチーヌが私の目にしばしば違って見えたのと同じで、今や、ひとりの人間がわれわれとの多様な出会いにおいて見せる風姿や色合いの変化の速度を桁外れに早めることによって、私がそんな出会いのすべてを数秒のなかに収めては、その人の個性を多様化する現象を実験的に再創造しようとしたかのように、私の唇がアルベルチーヌの頬に達するまでの短い行程のあいだに、その人の秘めるあらゆる可能性がまるで容器からつぎつぎと取り出されたかのように、私には無数のアルベルチーヌが見えた。この娘は、いくつもの顔をもつひとりの女神よろしく、私が最後に見た娘に近づこうとすると、すぐまさべつの娘に変わってしまう。すくなくとも私が娘に触れるまでは、その顔は見えたし、娘からはかすかな芳香も伝わってきた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.59~63」岩波文庫 二〇一四年)

<私>はアルベルチーヌの無限の系列という魅力の虜(とりこ)になっていた。ところが実際にアルベルチーヌを自分の所有物として獲得でき、さらにキスしようとするや、それまでアルベルチーヌに備わっていた鼻・目・唇などはキスのための「不愉快な徴候」として出現する。

「接吻のためには、唇が適していないのと同じく鼻孔と目の位置も不適切であるーーー突然、目が見えなくなり、ついで鼻が押しつぶされて何の匂いも感じなくなり、だからといってあれほど望んだバラ色の味をそれ以上に深く知ることもなく、こうした不愉快な徴候によって私は、とうとう自分がアルベルチーヌの頬に接吻しているのだと悟った」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.63」岩波文庫 二〇一四年)

例えば不倫関係にある男女の場合。タワー・マンションなどが今では主流。男性は妻が仕事に出かけるとともに同じタワー・マンションで知り合った別の女性に連絡を入れる。女性はすぐさま男性のもとへ駆けつけ性行為に耽溺する。しかし大事なのは、そのあいだ、男女とも「国家」に対して実質的に背信しているということでなければならない。国家?それより今この快楽を貪れるだけ貪るために自分の身体を賭けるということが事実上発生しているという紛れもない事実がが国家を危機に陥れる。しかしこのようなケースが今の日本ではいくらでも見られ、ありふれた日常の風景となっているのとは別に、資本主義自身がそれを欲望しているということに注目しなければ事態の理解にはほど遠いと言わなければならないだろう。資本主義はロシアかウクライナかアメリカかということを問題にしない。むしろそのことから起こってくる移民の流動に伴う「異種交配・交流・流通」を先見事項として優先させる傾向を持っているからである。或る<価値体型>と別の<価値体系>との接触から資本主義は始まる。だがまずそれを意識化させるために「偉大な芸術家」が要請されなければならない。音楽の次元でプルーストは次のように述べる。

「偉大な芸術家は、それぞれほかの芸樹家とはまるで違っているように見え、われわれが日常生活で求めても得られない強烈な個性の実感を与えてくれる!そんなことを考えていたとき、私はソナタの一小節にハッとした。それは私がよく知っている一小節であったが、注意を凝らすとずいぶん前から知っていたことにもときには異なる光が当てられ、一度も注目したことのなかったものに気づくことがある」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.353~354」岩波文庫 二〇一六年)

次の箇所でプルーストは述べる。「芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる」。

「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界は、われわれの見ている世界と同じでものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じようにわれわれには未知のままとどまるだろう。芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。これらの世界は、無限のかなたを回転するさまざまな星の世界よりもはるかに相互に異なる世界であり、その光の出てくる源がレンブラントと呼ばれようとフェルメールと呼ばれようと、その光源が消えて何世紀も経ったあとでも、なおもわれわれに特殊な光を送ってくれるのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.491」岩波文庫 二〇一八年)

だからといって芸術家と呼ばれる一群の人々の創作を通せば「多数の世界を見ることができ」るなどとプルーストは言っていない。もう一度振り返ってみよう。「こうした不愉快な徴候によって私は、とうとう自分がアルベルチーヌの頬に接吻しているのだと悟った」。アルベルチーヌの実際の「目、鼻、唇」は、<私>がアルベルチーヌに始めてキスできる機会に際して<邪魔な部分>として出現したというのである。それらはいずれも「部分対象」として<私>が創造していたアルベルチーヌの顔のそれぞれの部分として「切断」できるしまた或る時には「接続」できるということでなければならない。あらかじめ「統一」されているわけではないのである。

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Blog21・嘘が先延ばしする欲望とハイパー・インフレに見舞われた日本の現実

2022年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
エルスチールから「娘たちの一団」について直接紹介される機会は逃したものの、しかし再会できることが確実となった今、<私>にとって「娘たちの一団」はもはやまるで掴みどころのない正体不明の「星雲」では全然なくなる。再会不可能性ではなく再会可能性の側が遥か高く確率を上昇させ確実性を増大させた。とともに<私>の欲望は再会可能性への欲望から再会の「成就を先延ばしにする」欲望へ置き換えられる。

「しかしこうなったからには、現実の生活で娘たちに再会する可能性もあるだろう。娘たちは、かなたの水平線上を通りすぎてゆくだけの存在ではなくなり、その水平線上にさえ二度とあらわれまいと考えていたのも杞憂となった。もはや娘たちのまわりには、私とのあいだを隔てるあの大きな渦のようなものは漂っていない。その渦は、娘たちに近づくことができず永久に捉えられないという想いが私の心中にかき立てる不安に糧(かて)をえて、休むことなく動きまわる差し迫った欲望が形をとったものにほかならなかった。そんな娘たちへの欲望も、ひとたび実現しうると知ったとたんその成就を先延ばしにする他の多くの欲望と同じで、私はいまやそれに休息を与え、後日のために蓄えておくことができた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.478~479」岩波文庫 二〇一二年)

とはいえ、メイン・ディッシュを最後にとっておくという意味ではなく、時間がもたらす利得を後回しにして先延ばしにするという態度である。子供が好物のおかずを最後に回すという意味ではまるでなく、金融経済の利子についての考察に遥かに近い。「先延ばし/引き延ばし」から生じる利得についてはすでに述べた。いずれも恋愛関係における<苦痛と快楽との等価性>として出現するという点で。

(1)「ところが恋心に寄りそう影ともいうべき嫉妬心は、ただちにこの想い出と表裏一体をなす分身をつくりだす。その夜、オデットが投げかけてくれた新たな微笑みには、いまや反対の、スワンを嘲笑しつつべつの男への恋心を秘めた微笑みがつけ加わり、あの傾けた顔には、べつの唇へと傾けられた顔が加わり、スワンに示してくれたあらゆる愛情のしるしには、べつの男に献げられた愛情のしるしが加わる。かくしてオデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつは、室内装飾家の提案する下絵や『設計図』と同じような役割を演じることになり、そのおかげでスワンは、女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるようになった。あげくにスワンは、オデットのそばで味わった快楽のひとつひとつ、ふたりで編み出したとはいえ不用意にもその快さを女に教えてしまった愛撫のひとつひとつ、女のうちに発見した魅惑のひとつひとつを後悔するにいたった。いっときするとそうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.209」岩波文庫 二〇一一年)

(2)「スワンは郵便局から家に戻ったが、この一通だけは出さずに持ち帰った。ロウソクに火をつけ、封筒を近づけた。開けてみる勇気はなかったのである。最初はなにも読めなかったが、なかの固いカード状用箋を封筒の薄い紙に押しつけると、最後の数語が透けて読めた。きわめて冷淡な結びのことばである。今のようにフォルシュヴィル宛ての手紙を自分が見るのではなく、かりに自分宛ての手紙をやつが読んだら、はるかに愛情あふれる言葉がやつの目に入ったことだろう!スワンは、大きすぎる封筒のなかで揺れる用箋を動かないように押さえ、それからなかの用箋を親指でずらして、書いてある行を順ぐりに封筒の二重になっていない部分にもってきた。そこなら透けて読めたのである。それでも、はっきりとは判読できなかった。もっともきちんと読めなくても差しつかえなかった。書いてあるのは重要でない些末なことで、ふたりの恋愛関係をうかがわせることは一切ないのがわかったからである。オデットの叔父のことが書いてあるようだ。行のはじめに『あたしは、そうしてよかったのです』と書いてあるのが読めたが、どうしたのがよかったのかスワンは理解できなかった。が、突然、当初は判読できなかった一語があらわれ、文全体の意味が明らかになった。『あたしは、そうしてよかったのです、ドアを開けた相手は叔父でしたから』というのだ。開けた、だって。すると今日の午後、俺が呼び鈴を鳴らしたとき、フォルシュヴィルが来ていたのだ。あわてたオデットがやつを帰らせたために、あんな物音がしたのだ。そこでスワンは、手紙を端から端まで読んだ。オデットは最後に、あのように失礼な対応になったことをフォルシュヴィルに詫びたうえで、タバコを忘れてお帰りになった、と書いている。スワンが最初にオデットの家に寄ったときに書いて寄こしたのと同じ文面である。だが俺には『この中にあなたのお心もお忘れでしたら、お返ししませんでしたのに』と書きそえていた。フォルシュヴィルには、そんなことはいっさい書いていない。ふたりの関係は暗示する文言はなにひとつ出てこない。それにどうやらこの内容からすると、オデットはやつに手紙を書いて訪ねてきたのは叔父だと信じこませようとしているのだから、そもそもフォルシュヴィルは俺以上に騙されていることになる。要するにオデットが重視していたのは俺のほうで、その俺のために相手を追い払ったのだ。それにしてもオデットとフォルシュヴィルのあいだに何もないのなら、なぜすぐにドアを開けなかったのだろう。なぜ『あたしは、そうしてもよかったのです、ドアを開けたのは叔父でしたから』などと書いたのだろう。そのときオデットになんらやましいところがなかったのなら、ドアを開けなくてもよかったのにと、どうしてフォルシュヴィルが考えるだろうか。オデットがなんの危惧もいだかず託してくれたこの封筒を前にしたとき、スワンは申し訳ないと恐縮したが、それでも幸せな気分だった。自分のデリカシーに全幅の信頼を置いてくれたと感じられたからである。ところがその手紙の透明な窓を通して、けっして窺えないと思っていた事件の秘密とともに、未知の人の生身に小さく明るい切り口が開いたかのようにオデットの生活の一部があらわになったのだ。おまけにスワンの嫉妬も、この事態を歓迎した。嫉妬には、たとえスワン本人を犠牲にしてでも、おのが養分になるものを貪欲にむさぼり食らう利己的な独立した生命があると言わんばかりである。いまや嫉妬が糧(かて)を得たからには、かならずスワンは毎日、オデットが五時ごろだれの訪問を受けたかが心配になり、その時刻にフォルシュヴィルがどこにいたかを知ろうとするにちがいない。というのもスワンの愛情は、オデットの日課に無知であると同時に、怠惰な頭脳ゆえに無知を想像力で補うことができないという当初に規定された同じ性格をあいかわらず保持していたからである。スワンが最初に嫉妬を感じた対象は、オデットのすべての生活ではなく、間違って解釈された可能性のある状況にもとづきオデットがほかの男と通じていると想定される瞬間だけだった。その嫉妬心は、執念深い人がタコの足のように最初のもやい網を投げいれると、ついで第二の、さらに第三のもやい網を投じるのと同じで、まずは夕方の五時という瞬間に食らいつき、ついでべつの瞬間に、さらにもうひとつべつの瞬間にとり憑くのである。とはいえスワンは、つぎからつぎへと自分の苦痛を編み出したわけではない。それら一連の苦痛は、スワンの外から到来したひとつの苦痛を想い出したうえで、それを永続化したものにほかならなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.220~223」岩波文庫 二〇一一年)

ところが恋愛関係にはいつも或る種の<嘘>が混在するししないわけにはいかない場合が大変多い。誤解を解いて円満な関係を取り戻そうとする場合にも、逆に誤解を正解と錯覚させることで嫌な相手と手を切る場合にも。そこで或る種の問いがぶら下がってくるのは当然なのだが、それが言葉という形態を取るほかないという極めて根本的かつ致命的な事態にかかわる点で<嘘>は避けて通れない問いとして出現する。参照したいのは二箇所。第一にオデットがスワンに嘘を告げた場合。第二にアルベルチーヌが<私>に嘘を言っていた場合。

(1)「オデットはいた。さきにスワンが呼び鈴を鳴らしたときは、家にはいたが寝ていたと言う。呼び鈴の音に目が覚め、スワンにちがいないと思ってあとを追ったが、もう帰ったあとだった、窓ガラスを叩く音も聞こえた、と言う。すぐにスワンは、この言い分のなかに、正確な事実の断片が含まれているのに気づいた。不意を突かれた嘘つきが、偽りのない事実をでっちあげるにあたり、気休めにそんな事実の断片を組み入れ、その効力で嘘がいかにも『真実』らしく見えるのを期待するのと同じである。たしかにオデットは、なにか明らかにしたくないことをした場合、それを心の奥底にひた隠しにする。ところが嘘をつくべき相手が目の前にあらわれると、動転するあまり考えていたことはすべて瓦解し、創意工夫をしたり論理的に考えたりする能力は麻痺してしまう。もはや頭のなかは空白なのに、それでもなにか言わなくてはならない。そのときに出くわすのが、手の届くところにあった、ほかでもない隠しておきたいと考えていたことがらで、それは真実であるがあゆえにその場に残っていたのである。オデットは、そこからそれ自体なんら重要でない小さな断片をとり出すと、結局これでいいのだ、本物の断片なのだから嘘の断片のような危険はない、と考える。『すくなくともこれならほんとうだわ。どう転んでもこっちのものよ。あの人が調べたってほんとうだとわかるだけで、これであたしが裏切られることは絶対にありえないわ』。ところがそれはオデットの考え違いというべきで、それに裏切られるのだ。オデットには理解できなかったが、この本物の断片なるものの四隅がぴったり合わさるのは、恣意的にそれをとり出した本物の事実と隣接する他の断片だけであり、いかにその断片を嘘でかためた他の断片にはめ込もうとしても、つねにはみ出す部分や足りない部分が残り、その断片がとり出されたのはそこからではないことがばれてしまうのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.212~213」岩波文庫 二〇一一年)

オデットの嘘は簡単に見破られる。というのはオデットの言葉の中に断片的な「事実」が含まれているからだ。隅から隅まで嘘一色で塗り固めた平面であるならスワンがオデットの嘘を見抜くことはほとんど不可能だったかもしれない。ところがパズルの中に一つの<断片>が事実として含まれていたがゆえ、この事実としての<断片>に隣接して当てはめられるはずのもう一つの<断片>が齟齬を起こして上手く当てはまらないという事態が生じる。オデットはスワンを騙そうとして嘘をついたわけではない。スワンが抱く疑惑を嘘で乗り切ろうとしたに過ぎない。ところがオデットは自分の発言の中に一箇所の事実を交えて語ったため、他の嘘だらけの発言が一挙に齟齬を起こしてしまいパズルは崩壊するしかなかったということができる。

また一方、アルベルチーヌが<私>に向けて発した嘘の場合。性愛の相手が異性であろうと同性であろうといずれの場合にも歓びを受け取る横断的両性愛者として、ただ単なる異性愛に留まっているばかりの<私>に対して嘘をつかねばならない状況は随分多くなる。そんなアルベルチーヌの場合、嘘をついているとしても<私>にはたちどころに嘘だと判明してしまうわけだが、その根拠を得ようとアルベルチーヌの旧友たちであるジゼルやアンドレの証言を辿っていくにつれ、アルベルチーヌの言葉が嘘が嘘でないか<位置決定不可能>な次元へ置き換えられてしまうということが起こってくる。もとよりアルベルチーヌもジゼルもアンドレも「娘たちの一団」から発生し、思春期を通過して、徐々に各個人を区別できるようになった同一の<価値体系>に属する一団にほかならなかったとはいえ、それぞれ違う方面へ生き方を選択していったように<価値体系>もまたそれぞれ異なる社会性を帯びていかざるを得ない。したがって三人の女性がいつまでも同一の<価値体系>のもとで嘘をつきながら三人とも自分に危害が及ぶように計らったというわけではまるでない。そうではなく、アルベルチーヌが<私>に向かって丸きり嘘とわかる嘘をついたとしても、その言葉をジゼルに持って行って問いただしてみたところで、ジゼルはジゼルの言葉でそれを説明する。さらにアンドレのところに持って行ったとしてもアンドレはアンドレの言葉でそれを説明する。するとどう考えても嘘でしかないはずのアルベルチーヌの嘘が、ジゼルの次元、アンドレの次元へと場所移動するごとに嘘かそうでないか<位置決定不可能>な言葉へ変貌するという事態が起こってくる。誰にでもすぐにそれとわかる嘘だったはずの言葉が今度はそう簡単に嘘だと決めつける根拠を欠いてしまってくる。

(2)「もとよりジゼルは、アルベルチーヌと同じような嘘のつきかたはしなかった。アルベルチーヌの数々の嘘のほうが、たしかに私にはずっと辛いものだった。しかしなによりもまず、ふたりの嘘にはある共通点があって、それはある場合には嘘だという事実そのものが明々白々な点である。嘘の背後に隠れている現実が明々白々だというわけではない。殺人犯ともなればだれしの万事うまく仕組んだから自分がつかまるはずはないと想いこむが、結局、殺人犯はほぼ間違いなくつかまる。それにひきかえ嘘つきがつかまることはめったにない。なかでもこちらが愛している女はまずつかまらない。女がどこへ行ったのか、そこでなにをしたのか、こちらにはとんと見当もつかない。ところが女がこちらと話している最中に、ふと話をそらし、裏には口にこそ出さないなにかがあるとき、その嘘は即座に察知される。嘘だと感じられるのに、真相を知るに至らないのだから、嫉妬は募るばかりだ。アルベルチーヌの場合、それが嘘だと感知されたのは、この物語のなかで何度も見てきたような多くの特殊な点によってであるが、主としてつぎの点を挙げるべきだろう。それはアルベルチーヌが嘘をつくときは、その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである。本当らしさとは、嘘つきがどう考えるにせよ、けっして本当のことではない。本当のことに耳を傾けている最中、なにか本当らしく聞こえるだけのこと、もしかすると本当のことよりも本当らしく聞こえること、もしかするとあまりにも本当らしく聞こえることを耳にすると、多少とも音楽的な耳の持主なら、規則に合わない詩句とか、べつの語と間違えて大声で朗読された語とかを耳にしたときのように、これは違うと感じるものだ。耳がそう感じると、愛する男なら心が動揺する。ある女がベリ通りを通ったのかワシントン通りを通ったのかが判然としないという理由でもって全生涯が一変するのなら、なぜこう考えてみないのだろうか?もし当の女に何年か会わずにいる思慮分別さえあれば、その何メートルかの違いなど、いや、その女自身さえ、何万分の一かに(すなわちこちらの目には見えないほどの大きさに)縮小されてしまい、ガリヴァーよりもずっと巨大であった相手も小人(リリパット)国の女になり果て、いかなる顕微鏡をもってしてもーーー無関心となった記憶の顕微鏡はもっと強力で頑丈だから措くとして、すくなくとも心の顕微鏡では見えなくなるのだ!それはともあれ、アルベルチーヌの嘘とジゼルの嘘のあいだにはーーー嘘だとわかるというーーー共通点が存在したとはいえ、ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していたために、その小集団に備わる他人には入りこめない堅固さは、ある種の商社や出版社や新聞雑誌社などと同様の堅固さを想わせた。こうした団体を相手にした哀れな作家は、その構成メンバーである名士たちの多様性にもかかわらず、自分がだまされているのかそうでないのか絶対にわからない。というのも新聞や雑誌の社主がいとも誠実な物腰で嘘をつくからで、それというのも社主としては、他社に反旗を翻し『誠実』の旗幟(きし)を鮮明にした以上、貶(おとし)めてきたほかの新聞や劇場の社主や、ほかの出版社社長らの金儲け主義とまったく同じことを自分がおこない、なんら変わらぬ収益策に走っている事実をことあるごとに覆い隠さなければならないだけに、なおさら勿体(もったい)をつけ誠実そうに嘘をつかざるをえないのだ。嘘をつくのはおぞましいことだと(政党の党首のように出任せででも)宣言してしまうと、往々にしてほかの人たち以上に嘘をつかざるをえなくなるが、だからといって勿体ぶった誠実の仮面や厳かな司教冠を脱ぐことはない。『誠実な人』たる経営協力者は、社主とは違って、もっと無邪気に嘘をつく。自分の妻をだますように、軽演劇(ヴォードヴィル)ふうの仕掛けを使って作家をだますのだ。新聞雑誌の編集責任者はといえば、不作法な正直者と言うべきか、なんの底意(そこい)もなく嘘をつく。建築家が家はこれこれの時期にできあがると約束しておきながら、その時期になってもまだ工事すら始めていないのに似る。編集長ともなると、天使のごときうぶな心の持主で、前述の三人のあいだを飛びまわり、事情がわからずとも仲間としての気遣いと優しい団結心から、その三人に非の打ちどころのない貴重なことばの助け船を出す。これら四人はたえず内輪もめをしているが、作家がやって来るとその内紛はぴたりとやむ。個別の言い争いを越えて、危機に瀕した『部隊』の救援に駆けつけるという、軍人としての重要な義務をだれもが想い出すのだ。私は例の『小集団』にたいして、そうとは気づかぬまま、ずっと以前からこの作家の役割を演じていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.398~401」岩波文庫 二〇一六年)

一見すると今のマスコミ批判ででもあるかのようなプルーストの文章。しかしプルーストがどれほど高い知性を持ったかという議論へ持ち込むとすればそれはその時点でただちに的外れな議論にしかならないに違いない。プルーストがここで問題にしているのは、嘘であるにせよ嘘でないにせよ、或る言葉が意味を生じるやいなやそれがほとんど瞬時に立ち現わせてしまわずにはおかない言葉の呼び声ということではないだろうかと思うのである。言葉の呼び声というのはそれが集まれば集まるほど凶器としての姿をたちまち見せつけずにはおかない。そのせいで自殺した人間がどれほどいたか、また今にも自殺しそうな人々がどれほどいるか、ここ数日の世界情勢について言えば皆目見当がつかない事態に陥っていると思うほかないのである。言うまでもなくインフレがハイパー・インフレと化しつつある今の日本で、性風俗業界で働かざるを得ない人々の発言が東京証券取引所で日々示される数値よりなお一層現実的な実情を反映してはばからないという日々の生活実感から導かれる必然なのである。

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