グランドホテルのメインダイニングルームには巨大なガラスの「仕切り」があると述べた。それは昼間は外の大きな景色を眺め渡すのに便利な「仕切り」なのだが、夜になると逆に外からじろじろ眺められるのにとても便利な「仕切り」へ変貌する。バルベックの町で生活する様々な人々が興味本位で<覗き見>しにやって来てあれこれ批評する楽しみを提供する装置というもう一つの機能を発揮する。その意味で巨大なガラスの「仕切り」はホテルに滞在する富裕層にとってのみ特権的な立場を提供するだけではなく中に入ることのできない地元住民に対して<覗き見>の快楽を与えもする両義性を持つ。「貧しい人たちからすると、それは奇妙な魚や軟体動物の生態と同じほど不思議な世界」に見える。なぜそういう事態が起こるのか。というのは、地元住民たちからすれば珍しいものを見たいという欲望から覗きに来るわけではなく、夜になるとよりいっそう鮮明に光り輝く巨大なガラスの「仕切り」の内部が「奇妙な魚や軟体動物の生態と同じほど不思議な世界」に見えるその瞬間、地元住民に<覗き見>への欲望を出現させるからである。
「ホテルのメインダイニングルームには電気の泉から大量の灯りが湧きだし、まるで巨大な魔法の水槽となった。そのガラスの仕切りの前には、闇に隠れて見えない、バルベックの工場などで働く人や、漁師たち、プチ・ブルジョワの家族らが、集まっては押し合いへしあいしつつ、ガラスの内側の黄金色の渦のなかをゆらゆらとうごめく人たちの贅沢な暮らしをのぞき見ている。貧しい人たちからすると、それは奇妙な魚や軟体動物の生態と同じほど不思議な世界なのだ(大きな社会問題として、この不思議な生きものたちの饗宴をガラスの仕切りだけでいつまでも守ることができるのか、暗闇のなかでむさぼるように見つめる無名の連中がこの生きものを自分たちの水槽に移して食べてしまわないかという疑念が起こる)。さしあたり、足を止めて暗闇に紛れこむ群衆のなかに作家なり人間魚類学の愛好家なりがいたりすると、年老いた女の怪物どもの顎(あご)がひと切れの食物をぱくりと飲みこんで閉じるのを眺めては、その怪物たちを種族や先天的性格や後天的性格によって得意げに分類したかもしれない。それによるとあるセルビアの老婦人などは、口には海の大魚の突起をもつのに、小さいときからフォーブール・サン=ジェルマンの淡水で育ち、ラ・ロシュフーコー一族のようにサラダを食べる、と説明されるだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.104~105」岩波文庫 二〇一二年)
また<私>は日頃から、様々な人間を幾つかの類型に沿って区別する習慣を身につけている。場所移動すればしたで、コンブレーにいる友人知人たちととてもよく似た人物たち(ルグランダン、スワン家の門衛、スワン夫人自身)と共通の類似性を持つ別人たちをバルベックでも見出す。だから<私>はバルベックにいるにもかかわらず「カフェのボーイに変身したルグランダン」に出会う。また「門衛は私が一度だけ会った短期滞在の外国人」になっている。さらに「男性に変化して遊泳監視人になったスワン夫人」が出現する。しかしなぜそういうことになるのか。プルーストは「風貌と気性のいくつかの特徴を相互に切り離さずに惹きつけ、記憶にとどめておくので、このように自然の力がある人物を新たな肉体のなかに移植しても、元の人物像がさほど損傷することはない」という。しかし「風貌と気性のいくつかの特徴を相互に切り離さずに」ではなく、逆に特徴的な部分だけを「切り離す」ことが可能な限りで始めて「ある人物を新たな肉体のなかに移植」することができるのだ。
「そんなわけでバルベック滞在の最初の数日のうちに、私はルグランダンや、スワン家の門衛や、スワン夫人自身と出会うことになった。ルグランタンはカフェのボーイに、門衛は私が一度だけ会った短期滞在の外国人に、夫人は遊泳監視人になっていたのである。しかも磁力のようなものが、風貌と気性のいくつかの特徴を相互に切り離さずに惹きつけ、記憶にとどめておくので、このように自然の力がある人物を新たな肉体のなかに移植しても、元の人物像がさほど損傷することはない。カフェのボーイに変身したルグランダンは、その背丈と横からみた鼻筋とあごの一部を元のまま保っていたし、男性に変化して遊泳監視人になったスワン夫人は、いつもの風貌だけでなく、ある種の話しかたの癖まで受けついでいた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.111」岩波文庫 二〇一二年)
バルベックの地元の名士ステルマリアは娘のステルマリア嬢を伴ってホテルにやって来ている。<私>にとって地元の名士ステルマリアはどうでもいいのだがステルマリア嬢にはいたく欲望をそそられる。とはいえ何らのきっかけもなしにいきなり声をかけるような乱暴な真似はとてもできない。だが地元の名士ステルマリアはフランス上流階級の大人物にはまるで弱い。例えば同じくこのホテルに滞在しているヴィルパリジ侯爵夫人などには頭を上げることができない。実をいえばヴィルパリジ侯爵夫人は<私>の祖母の女学校時代の学友でありたいへん近い親友でもある。だからヴィルパリジ侯爵夫人と祖母との長年の友人関係を媒介にできれば、「ステルマリア嬢と私をへだてるーーーすくなくともバルベックではーーー無限の社会的距離をまたたくまに飛びこえることができると思えた」。この「無限の社会的距離」はどこまでも遠くへ延びているわけだが、或る種の媒介項を差し挟むことで瞬時に消滅させることもできる。だからといって「あってないようなもの」ではない。あるのである。実際に両者の間に横たわる「無限の社会的距離」として傲然と両者を「仕切り」分けている無限大の壁にも等しい。ところがこの「距離」はただひたすら遠くなるばかりではなく逆に恐ろしく近くなることもあるという伸縮自在性を持つ。極めて近くなるともはや消滅するに等しい。この操作が可能なのは<私>でもステルマリア嬢でもない。ヴィルパリジ侯爵夫人と<私>の祖母との交友関係以外にない。
「ヴィルパリジ侯爵夫人ときたら正真正銘の夫人に違いなく、その力をそぐ魔法にかけられていないどころか、みずから魔法を用いて私の力になってくれるのだ。その魔法のおかげで、私の力は百倍にもなり、まるで伝説の鳥の翼に運ばれるかのように、ステルマリア嬢と私をへだてるーーーすくなくともバルベックではーーー無限の社会的距離をまたたくまに飛びこえることができると思えた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.112」岩波文庫 二〇一二年)
その意味では<私>とステルマリア嬢との接続はいともたやすいだろう。ところが<私>の祖母は高級ホテルで古くからの友人知人にばったり出くわした場合に要請される長々しい挨拶や形ばかりのおしゃべりがいかに時間の無駄遣いであって本来の目的を阻害してしまうことになるかと考えているので、あえて「ヴィルパリジ夫人が見えないふりをした」。またヴィルパリジ夫人の側も「祖母がおやまあと挨拶したくないのを悟り、これまた宙をみつめた」。チャンスは目の前までやって来たにもかかわらず、<チャンスそのもの>として媒介項の機能を果たすことができる二人の老婦人はお互い旧知の間柄であるがゆえ<私>に素通りさせてしまう。<私>の目論見から「夫人は遠ざかり、ひとり取り残された私は、遭難した海で助けを求めていたのに、近づくように見えた船が止まらずに消え去ったときの気分」へ転落する。
「たまたま同じホテルに投宿した旧知の間柄でも、たがいにお忍びの振りをしても許されることを前提にしたほうが便利だと考えていたから、支配人が口にした名を聞くと、目をそらしただけで、ヴィルパリジ夫人が見えないふりをした。夫人のほうでも祖母がおやまあと挨拶したくないのを悟り、これまた宙をみつめた。夫人は遠ざかり、ひとり取り残された私は、遭難した海で助けを求めていたのに、近づくように見えた船が止まらずに消え去ったときの気分である」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.114」岩波文庫 二〇一二年)
グランドホテルでは新しい客という以外ほとんど何者でもない<私>。ステルマリア嬢は食事時にいつも帽子をかぶって登場する。しかしそのデザインは「いささか時代遅れ」だ。ところが<私>にはなぜか「優しい女性」に見える。その理由は次のように大変失礼なものだ。「その帽子のせいで貧しい女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」。
「いつも食事のときには、いささか時代遅れの羽根飾りにこれみよがしに挿したグレーのフェルト帽をかぶってきて、それが私に優しい女性に見えたが、それは帽子が銀色とバラ色のまじる顔色と調和していたからではなく、その帽子のせいで貧しい女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.120」岩波文庫 二〇一二年)
<私>がひしひしと感じている孤独な心細さが理解できないというわけでは決してない。しかし相手の女性が「貧しい女」に見えてくればくるほど<私>は親近感を覚えるというのは余りにも失礼ではないだろうか。帽子とは何か。<象形文字>の一つとして登場している。この場面は状況次第で逆に「その帽子のせいで裕福な女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」と変換することができる。それにしてもなぜ「貧しい女性」に見えたり逆に「裕福な女」に見えたりと変換可能なのか。帽子という<象形文字>はただ単なる<社会的地位>を表示する徴(しるし)としてだけではなく、流行に対してどのような考え方を持っているかという、自分の<精神的態度>をも差し示してしまうからである。試しによりいっそう精神的な面に注目するとすれば、「貧しい女性」でも「裕福な女」でもなく、わざとらしいお世辞でないかぎり、むしろ「豊かな女性」と形容するのが礼儀作法にかなっているのではと思われる。だがしかしプルーストは確かに「貧しい女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」と書いている。なぜなら、この場面での<私>にとって、実のところ相手の女性が「貧しい女」であって始めて「私に近しい存在」たり得ることこそ事実だからである。そのように服装を含めた<身振り仕草>というものはいつも或る種の言葉なのであり、そもそも言葉が始めから<身振り仕草>としてすでに語っているからである。
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「ホテルのメインダイニングルームには電気の泉から大量の灯りが湧きだし、まるで巨大な魔法の水槽となった。そのガラスの仕切りの前には、闇に隠れて見えない、バルベックの工場などで働く人や、漁師たち、プチ・ブルジョワの家族らが、集まっては押し合いへしあいしつつ、ガラスの内側の黄金色の渦のなかをゆらゆらとうごめく人たちの贅沢な暮らしをのぞき見ている。貧しい人たちからすると、それは奇妙な魚や軟体動物の生態と同じほど不思議な世界なのだ(大きな社会問題として、この不思議な生きものたちの饗宴をガラスの仕切りだけでいつまでも守ることができるのか、暗闇のなかでむさぼるように見つめる無名の連中がこの生きものを自分たちの水槽に移して食べてしまわないかという疑念が起こる)。さしあたり、足を止めて暗闇に紛れこむ群衆のなかに作家なり人間魚類学の愛好家なりがいたりすると、年老いた女の怪物どもの顎(あご)がひと切れの食物をぱくりと飲みこんで閉じるのを眺めては、その怪物たちを種族や先天的性格や後天的性格によって得意げに分類したかもしれない。それによるとあるセルビアの老婦人などは、口には海の大魚の突起をもつのに、小さいときからフォーブール・サン=ジェルマンの淡水で育ち、ラ・ロシュフーコー一族のようにサラダを食べる、と説明されるだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.104~105」岩波文庫 二〇一二年)
また<私>は日頃から、様々な人間を幾つかの類型に沿って区別する習慣を身につけている。場所移動すればしたで、コンブレーにいる友人知人たちととてもよく似た人物たち(ルグランダン、スワン家の門衛、スワン夫人自身)と共通の類似性を持つ別人たちをバルベックでも見出す。だから<私>はバルベックにいるにもかかわらず「カフェのボーイに変身したルグランダン」に出会う。また「門衛は私が一度だけ会った短期滞在の外国人」になっている。さらに「男性に変化して遊泳監視人になったスワン夫人」が出現する。しかしなぜそういうことになるのか。プルーストは「風貌と気性のいくつかの特徴を相互に切り離さずに惹きつけ、記憶にとどめておくので、このように自然の力がある人物を新たな肉体のなかに移植しても、元の人物像がさほど損傷することはない」という。しかし「風貌と気性のいくつかの特徴を相互に切り離さずに」ではなく、逆に特徴的な部分だけを「切り離す」ことが可能な限りで始めて「ある人物を新たな肉体のなかに移植」することができるのだ。
「そんなわけでバルベック滞在の最初の数日のうちに、私はルグランダンや、スワン家の門衛や、スワン夫人自身と出会うことになった。ルグランタンはカフェのボーイに、門衛は私が一度だけ会った短期滞在の外国人に、夫人は遊泳監視人になっていたのである。しかも磁力のようなものが、風貌と気性のいくつかの特徴を相互に切り離さずに惹きつけ、記憶にとどめておくので、このように自然の力がある人物を新たな肉体のなかに移植しても、元の人物像がさほど損傷することはない。カフェのボーイに変身したルグランダンは、その背丈と横からみた鼻筋とあごの一部を元のまま保っていたし、男性に変化して遊泳監視人になったスワン夫人は、いつもの風貌だけでなく、ある種の話しかたの癖まで受けついでいた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.111」岩波文庫 二〇一二年)
バルベックの地元の名士ステルマリアは娘のステルマリア嬢を伴ってホテルにやって来ている。<私>にとって地元の名士ステルマリアはどうでもいいのだがステルマリア嬢にはいたく欲望をそそられる。とはいえ何らのきっかけもなしにいきなり声をかけるような乱暴な真似はとてもできない。だが地元の名士ステルマリアはフランス上流階級の大人物にはまるで弱い。例えば同じくこのホテルに滞在しているヴィルパリジ侯爵夫人などには頭を上げることができない。実をいえばヴィルパリジ侯爵夫人は<私>の祖母の女学校時代の学友でありたいへん近い親友でもある。だからヴィルパリジ侯爵夫人と祖母との長年の友人関係を媒介にできれば、「ステルマリア嬢と私をへだてるーーーすくなくともバルベックではーーー無限の社会的距離をまたたくまに飛びこえることができると思えた」。この「無限の社会的距離」はどこまでも遠くへ延びているわけだが、或る種の媒介項を差し挟むことで瞬時に消滅させることもできる。だからといって「あってないようなもの」ではない。あるのである。実際に両者の間に横たわる「無限の社会的距離」として傲然と両者を「仕切り」分けている無限大の壁にも等しい。ところがこの「距離」はただひたすら遠くなるばかりではなく逆に恐ろしく近くなることもあるという伸縮自在性を持つ。極めて近くなるともはや消滅するに等しい。この操作が可能なのは<私>でもステルマリア嬢でもない。ヴィルパリジ侯爵夫人と<私>の祖母との交友関係以外にない。
「ヴィルパリジ侯爵夫人ときたら正真正銘の夫人に違いなく、その力をそぐ魔法にかけられていないどころか、みずから魔法を用いて私の力になってくれるのだ。その魔法のおかげで、私の力は百倍にもなり、まるで伝説の鳥の翼に運ばれるかのように、ステルマリア嬢と私をへだてるーーーすくなくともバルベックではーーー無限の社会的距離をまたたくまに飛びこえることができると思えた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.112」岩波文庫 二〇一二年)
その意味では<私>とステルマリア嬢との接続はいともたやすいだろう。ところが<私>の祖母は高級ホテルで古くからの友人知人にばったり出くわした場合に要請される長々しい挨拶や形ばかりのおしゃべりがいかに時間の無駄遣いであって本来の目的を阻害してしまうことになるかと考えているので、あえて「ヴィルパリジ夫人が見えないふりをした」。またヴィルパリジ夫人の側も「祖母がおやまあと挨拶したくないのを悟り、これまた宙をみつめた」。チャンスは目の前までやって来たにもかかわらず、<チャンスそのもの>として媒介項の機能を果たすことができる二人の老婦人はお互い旧知の間柄であるがゆえ<私>に素通りさせてしまう。<私>の目論見から「夫人は遠ざかり、ひとり取り残された私は、遭難した海で助けを求めていたのに、近づくように見えた船が止まらずに消え去ったときの気分」へ転落する。
「たまたま同じホテルに投宿した旧知の間柄でも、たがいにお忍びの振りをしても許されることを前提にしたほうが便利だと考えていたから、支配人が口にした名を聞くと、目をそらしただけで、ヴィルパリジ夫人が見えないふりをした。夫人のほうでも祖母がおやまあと挨拶したくないのを悟り、これまた宙をみつめた。夫人は遠ざかり、ひとり取り残された私は、遭難した海で助けを求めていたのに、近づくように見えた船が止まらずに消え去ったときの気分である」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.114」岩波文庫 二〇一二年)
グランドホテルでは新しい客という以外ほとんど何者でもない<私>。ステルマリア嬢は食事時にいつも帽子をかぶって登場する。しかしそのデザインは「いささか時代遅れ」だ。ところが<私>にはなぜか「優しい女性」に見える。その理由は次のように大変失礼なものだ。「その帽子のせいで貧しい女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」。
「いつも食事のときには、いささか時代遅れの羽根飾りにこれみよがしに挿したグレーのフェルト帽をかぶってきて、それが私に優しい女性に見えたが、それは帽子が銀色とバラ色のまじる顔色と調和していたからではなく、その帽子のせいで貧しい女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.120」岩波文庫 二〇一二年)
<私>がひしひしと感じている孤独な心細さが理解できないというわけでは決してない。しかし相手の女性が「貧しい女」に見えてくればくるほど<私>は親近感を覚えるというのは余りにも失礼ではないだろうか。帽子とは何か。<象形文字>の一つとして登場している。この場面は状況次第で逆に「その帽子のせいで裕福な女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」と変換することができる。それにしてもなぜ「貧しい女性」に見えたり逆に「裕福な女」に見えたりと変換可能なのか。帽子という<象形文字>はただ単なる<社会的地位>を表示する徴(しるし)としてだけではなく、流行に対してどのような考え方を持っているかという、自分の<精神的態度>をも差し示してしまうからである。試しによりいっそう精神的な面に注目するとすれば、「貧しい女性」でも「裕福な女」でもなく、わざとらしいお世辞でないかぎり、むしろ「豊かな女性」と形容するのが礼儀作法にかなっているのではと思われる。だがしかしプルーストは確かに「貧しい女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」と書いている。なぜなら、この場面での<私>にとって、実のところ相手の女性が「貧しい女」であって始めて「私に近しい存在」たり得ることこそ事実だからである。そのように服装を含めた<身振り仕草>というものはいつも或る種の言葉なのであり、そもそも言葉が始めから<身振り仕草>としてすでに語っているからである。
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