白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「言語ゲーム」と生成変化3

2019年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
規則/文法がそれほど明確に無意識化されていない場面を考えてみよう。

「道具箱の中に入っているいろいろな道具について考えよ。そこには、ハンマー、やっとこ、のこぎり、ねじまわし、ものさし、にかわつば、にかわ、くぎ、ねじがある。ーーーこれらのものの機能がさまざまであるように、語の機能もさまざまである(しかも、類似点があちこちにある)。もちろん、われわれを混乱させるのは、いろいろな語が話されたり、文書や印刷物の中で現われたりするとき、それらの姿が同じであるように見える、ということである。なぜなら、それらの《適用例》が、われわれにとってそれほど明らかでないからである。とりわけ、われわれが哲学しているときにそうなのだ!」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一一」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.22~23』大修館書店)

哲学しているとき「に」とりわけ「そうなのだ」。それまで自明とされていた規則/文法の、実体的不明確性が露わになってくる。それは常に流動するものだからだ。長引く沈黙。ふいに襲ってくる不安。言語と、特にその文法の樹立とによって明らかとされていたはずの因果関連の不在。あらゆる事物には必然的な繋がりなど何らないということ。人間は無意識的に打ち込まれた規則/文法によって拘束されている限りでのみ、平気のへいさで喜怒哀楽することが許されているに過ぎない。むしろ、そこにあるのは偶然適用された上で事後的に習慣・習得・習熟・熟達によって身に付けるにおよんだ形ばかりだということ。すなわち規則も文法もともに始めから偶然性のただ中を流れ浮遊する極めて不安定な形骸でしかないという事実を目の前にして驚くほかないということ。様々な破片の中から一つの形骸にすがりついた。そしてやっとのことで人類はともかくコミュニケーションすることができるような動物になった。とはいえ、コミュニケーションはあくまで不完全だ。完全なコミュニケーションなどどこをどう探しても見当たらない。そしてコミュニケーションはいつもどこかで不完全なコミュニケーションだからこそ成立するのだ。もし仮に完全なコミュニケーションがあったとしよう。その時点で言語は姿を消す。必要なくなるからだ。その瞬間、自=他のあいだに横たわっていた境界線はとろとろに融けて困惑させると同時に笑うべき曖昧さを呈する。自=他の区別が消滅し様々なレベルで両者の融合=交合すなわち不断の自己破壊と永劫回帰が出現する。人間と人間との単なるセックスなどその極くわずかな一部の現象にすぎない、ということが如実にわかる。コミュニケーションするときに言語が必要となるのは、コミュニケーションという行為はいつも何らかの不完全性に取り憑かれているからにほかならない。では、言語を媒介としてのみコミュニケーションは可能なのだろうか。そうではない。必ずしもそうとは限らないからこそ、言語を媒介としない直接的相関とその諸状態について、前々回はラブクラフト、前回はヘンリー・ミラーという実例を上げて述べたわけだ。

しかし問題はまだその端緒についたばかりだと言うべきなのかもしれない。生成変化についてドゥルーズがこんなふうに述べている箇所がある。

「すべてのプロセスは生成変化であり、生成変化にたいする評価は、生成変化を終わらせる結果ではなく、現に生成変化が進行しているとき、その質はどうか、生成変化が示す継続の力能はどれほどのものか、ということによって決まってくる。たとえば、動物への生成変化や、非=主体的個体化がそうです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.296」河出文庫)

「非=主体的個体化」とは何のことだろうか。「非人称化された不定法の主体」のことだ。しかし「主体」なのになぜ「非人称化」されねばならずなおかつ「不定法」なのか。リゾームとしての脳神経細胞組織のことを考えてみよう。例えば、誰でも名称だけは知っている「アドレナリン」。一般的な名称としてはなるほど「アドレナリン」と呼ばれている。だが、名前ではなく、実際のアドレナリンは一個の「主体」なのだろうか。むしろ一種の「流れ」なのではないだろうか。ここでアドレナリンの化学構造式を書くことはできる。けれども、化学式へと構造化され、書き付けられてしまったアドレナリンはもはや死体としてのそれでしかない。いうまでもなく、生きて動いている《なま》のアドレナリンそのものを現行犯で捕えることは不可能だ。捕えるとすれば言語で捕えるほかない。「《なま》のアドレナリン」は常に脳細胞全体とリンクしている。身体としても同時に連動している。さらに身体は思考にとって《外部》としてしか想定できない。なおかつ、身体は、それに取り巻かれそれを取り巻く周囲の環界と切り離しては何一つ受動的に反応することができないし能動的に働きかけることもできない。ということは、しかし、損得の次元を越えたところの問題であって、化学構造式へと変換された《アドレナリンという名の死体》を通して、人々は、アドレナリンについて少しづつ慎重に学び取っていくのだ。ドーパミン→ノルアドレナリン→アドレナリンという一連の変態過程あるいはプロセスとして。

ところで、「主体」という言葉には常に危険が付きまとっていることも事実だ。歴史は、いわゆる「主体」を特定の規律の下でのみ徹底化させることで出現したおぞましい過去を持っている。ナチズム、スターリニズム、文化大革命ーーー。「非=主体的」にせよ「非=意味的」にせよ、そのような過去(二〇世紀の大惨事)への反省から生まれてきた概念だという側面を否定するわけにはいかない。消去しようのない暗い歴史を持つのだ。今の日本では文系/理系/体育会系、などと没意味な分類が横行しているが、便宜上の使用の枠外に出るわけにはいかないのもそういう部分が隠されているからだ。なぜなら、「主体的であれ」と命じない分野がどこにあるだろうか、という問いは世紀をまたいで世界を圧倒して止まないからである。

さて、変身=分身の世界へ。

「われとわが身を責めることには一種の悦楽がある。人間が自己非難するとき、自分以外のだれも自分を責める権利がないと感じる。人間の罪状を消滅してくれるものは、牧師ではなく、告白なのだ」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.190」新潮文庫)

注意しなくてはならないだろう。始めから「罪状」などありはしない。まず最初に「告白」があり、その「告白」が、ありもしない「罪状」を生産すると同時に並行して「消滅」していくかのような「罪状」を眺める「悦楽」がある、と考えなければならない。この場合、言語が罪状を生むのであり、同時に同じ言語が罪状を消すのだ。この出現と消滅。言語の出し入れの反復。置き換えと生産と破壊。そこでは行為=悦楽が成立する。

「きみはぼくに言ったじゃないかーーーシビル・ヴェインは自分にとって、ありとあらゆるロマンスのヒロインだ、ある晩にはデズデモーナだったかおもえば、つぎの夜にはオフィーリアであり、ジュリエットとして死んだかと見れば、イモージュンとなって甦(よみがえ)る、とね」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.204」新潮文庫)

端的な変身が語られていると見ておこう。次のセンテンスは現実とは何かを考えさせられて面白い。笑える。しかしドリアンは極めて真剣だ。

「ドリアンは顔を顰(しか)め、新聞をふたつに引き裂くと、部屋を横切って行ってそれを投げ棄(す)てた。まったく醜悪だ!そして、醜悪さのために、ものごとがじつに怖(おそ)るべき現実味を帯びるではないか!」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.245」新潮文庫)

新聞に印刷された文字。文字はいつも中性的だ。にもかかわらず、一体どこでどのようにして「現実味を帯びる」のか。マスコミとその大手スポンサーはよくわかっているだろうと思われる。

ところで、D.H.ロレンスは性的なものに原始性を垣間見ることのできる達人だった。近現代人は、ロレンスのような達人に倣って近代をやり直すとともに、変身=分身の醍醐味を学ばねばならないのかも知れない。

「岩山の端まで歩き続け、そこから下の陸地を眺めた。何キロも続く、波形の海岸線。時には幅一キロにもなる平たい海岸地帯は、見渡す限り、バンガローの薄灰色のトタン屋根また屋根。まるで木の繊維組織の遊離細胞の結晶体のようだ。暗い木々。散財する一戸建の玩具のような家は日本の風景を彷彿とさせる。それから海岸の入江、石炭を積み出す桟橋、ずっと向うの海岸の岩、そして砕ける白波の長い線。

しかし、サマーズの目は真下の岩の斜面のこんもりとした葉叢(はむら)に大方は注がれていた。木生シダの密生する暗緑色の大きな渦巻状の中心部に、それからキャベッシュロの毛むくじゃらのてっぺんに。長く垂れ下ったシダがじめじめした花をつけて、黄色っぽく見えるところがある。次はユーカリの群生だーーー有史以前の世界!石炭紀の世界。石炭紀以来ひたすら待ち続けてきたまったくの孤独の世界。昔ながらの平坦なてっぺんをした木生シダ、モップそっくりのくしゃくしゃのシュロ。ここでは神経を尖がらした意識的な人間でいようと思っても無理だ。不可能だ。ふわふわと漂い流れる、朦朧(もうろう)とした世界、名づけられない過去へと帰っていく。この国と同じほど古い、太古の世界へ。不思議な太古の感情が魂の中で目覚める。人間の与(あずか)り知らぬ感情。麻痺にも似た太古の無関心が精神に侵入する。昔のトカゲ類さながらの麻痺。どちらが勝つか?陸地に家が点在している。まるでグラニュー糖をばら撒いたみたいだ。満潮の薄青い海に汽船が浮かび、黒い煙を吐いている。物憂げな木々の間に炭坑からの白い蒸気がかかっている。この大陸は目を覚ましているのだろうか。ここの人たちはこの太古の陸地を目覚めさせることがあるのだろうか。それともこの大陸が人を眠りに誘い、黄昏の世界の半意識の中に連れ戻すのだろうか。

サマーズは自分も麻痺したかのように感じて、手摺りにもたれたまま下を見ていた。が関心はなかった。どれだけぼんやりと、関心を持たずにいられたことか。目は見開いているが、闇に沈む麻痺した魂がかかずらうことは何もなかった。ハリエットも、カンガルーも、ジャズも、世界でさえも。この世界も回り舞台だ、世界でさえも。太古のシダの世界の影響力が男を包むとき、どうして他の世界に関心を向けられよう。シダの種子を心に吸い込んで、過去へと漂い流れる。ぼんやりと、半ば植物になったようだ。心にひっかかるものは何もない。決してまどろむことのない性の衝動でさえも、もっと暗く、もっと単調な、無関心なものに沈んでいく。植物の性(セックス)のように。意識的な義務感が生まれる前の暗い世界」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.254~255」彩流社)

ふわふわ、朦朧、無関心、「砕ける白波の長い線」。白波は「砕ける」=「自己破壊する」のだが、同時に、「線」状でもある。どちらなのだろうか。どちらでもないのか。実は、どちらでもありつつーーー。おそらくそうだ。侵入、麻痺、植物の性(セックス)。そして「意識的な義務感が生まれる前の暗い世界」。この「世界」は、では、無意識なのか。外部なのかそれとも内部なのか。不分明だ。分かち難い。しかし次のように述べることは可能であり、おそらく現実だろう。深淵を覗き込もうとするドゥルーズ。あらかじめ与えられたものは、同一性ではない。あるいは無でもない。原初に差異があった。というより、蠕動する「譫妄」(せんもう)状態があった。

「差異は、所与そのものではなく、所与がそれによって与えられる当のものである。思考は、差異にまで進むことを、どうして回避できようか。思考は、このうえなく思考に対立しているものを、どうして思考せずに済ませることができようか。というのも、わたしたちは、同一なものに関しては、なるほど全力を傾けて思考しはするのだが、きわめてささやかな思考〔思想〕すら得ることができないからである。反対に、わたしたちは、異なるもののなかで、もっとも高度な、しかし〔経験的には〕思考されえぬ〔思いも寄らぬ〕思考を、獲得するのではなかろうか。《異なる》もののこうした抗議は、十分に意味のあることだ。たとえ、差異が、それ自体消え去ってゆくようにして、そしておのれが創造する雑多なものを一様化してゆくようにして、その雑多なもののなかへ割りふられるといった傾向があるにせよ、差異は、感覚されるべき雑多なものを与えてくれるものとして、まずはじめに感覚されなければならない。しかも差異は、雑多なものを創造するものとして、思考されなければならないのである。(わたしたちが諸能力の共通の働き〔共通感覚〕に立ち戻っているからではなく、かえって、バラバラになった諸能力が互いに拘束し合うような暴力的関係に入っているからである)。譫妄(デリール)が、良識の根底にあり、だからこそ良識は、いつでも二番手のものなのである。思考は、差異を思考せざるをえない。すなわち、絶対に思考とは異なるものでありながらも、思考する機会を提供し、思考にひとつの思考〔思想〕を与える差異、これを思考は思考せざるをえないのである」(ドゥルーズ「差異と反復・下・P.156~157」河出文庫)

というところを押さえた上で再びロレンスへ。

「こんなふうに、精神の空白の雰囲気に楽しく浸っているジャックそのものがサマーズには奇怪な光景だった。人間なんかじゃなく偶然の成り行きに見とれている偶然の産物のようであった。こんな状態、このまさにオーストラリア的状態では、言葉などひと言も引き出せない。そうかと思うと、一旦しゃべり出せば、騒音としか言いようがなく、不気味な動物が突然声を出したのかとたまげるほどだ。無関心。根強い不思議な無関心。東洋の静観的宿命論ではなく、本当の無頓着に根ざした無関心。しかし、それは有り余ったエネルギーの深い流れを秘めていて、間欠泉のように今にも吹き出そうとしている。吹き出したら、一種の狂気、手のつけられない狂気となって心ゆくまで暴れ回り、粉々に破壊し尽さないではおかない。爆発し破壊する喜び。ジャックは爆発するだろうか。それとも静止願望がもっと根深く、シダの薄明にすっぽり包み込まれるのだろうか。変化はのろのろと進む。今日という日も、この国も問題にはならない。時は巨大であり、オーストラリアではほんの一歩退けば、もう、シダの時代だ。

町は夜の帷(とばり)が下りる頃、何とも奇妙な姿を見せる。ぽつん、ぽつんとあちこちで不揃いの電灯が灯り始め、薄暗がりの中で、舗装されていない轍(わだち)のついた広い道は昔の荒野に返った。開けっ放しのドアから、光が漏れている低いバンガローは、さながら荒野に立つ掘建小屋だ。荒野の不気味な暗がりに広がる開拓地。その時、若者たちが柔らかな道を馬に乗って、ものすごい勢いで駆けて行った。あぶみに足をかけて立ち上がり、薄茶色の競走馬にしがみついている。まるで幻のようだ。それと競うように、クリーム色の小馬に乗ったパン屋が、村を駆け抜けて行く。どこかで油を売っていたのだろう、炭坑夫が小屋で駆けて闇の中へと消えていった。まるで木馬のようにぎこちない動きだ。木綿のドレスを着た若い娘たちがバンガローの我が家の小さな木戸のところに立って、若い男たちに話しかけているーーー馬車に乗っている者、歩いている者、一日最後の行商の荷車を押す者、ぶらっと通り過ぎて行く者たちに。時は夕暮れ。刻一刻遠き国の夕闇が迫ってきて、白人の姿がまるで原住民みたいに暗闇からぼうと浮き出る。遠き国。その真っ只中にいて、その感を深くする。否その時こそ、この国は悠遠の昔に返っていくのだ。

夜は闇一色、時折り、南東の海の上空で、稲妻がほの白く光る。男ふたりがやれることはチェスしかなかったが、ジャックはゲームをやる気分ではなく、敗けてもけろりとしていた。やる気十分の時は、サマーズを煙に巻いて攻め込み、連勝して会心の笑みを浮かべるのが常だったが、気分が乗らないときは、歩(ふ)をむやみに進めては失ってしまうといった具合。だが一向に気にすることもなく、肉付きのいい体をそり返らせ背伸びするだけであった。どう見てもサマーズには人間の仕草とは思えない。ジャックは全く肉体だけの生きもののようだ。エネルギーに満ちた頑丈な肉体。蒸気は吐き出すが、停止している機械のようだ。精神も、霊も魂もなかった。張りつめて動かない肉体。目はちょっとかすみ、充血していた。魂がゆっくり崩れていく」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.258~259」彩流社)

ロレンスは書く。「人間なんかじゃなく偶然の成り行きに見とれている偶然の産物のようであった。こんな状態、このまさにオーストラリア的状態では、言葉などひと言も引き出せない」。「無関心。根強い不思議な無関心。東洋の静観的宿命論ではなく、本当の無頓着に根ざした無関心。しかし、それは有り余ったエネルギーの深い流れを秘めていて、間欠泉のように今にも吹き出そうとしている。吹き出したら、一種の狂気、手のつけられない狂気となって心ゆくまで暴れ回り、粉々に破壊し尽さないではおかない」。「変化はのろのろと進む」。「魂がゆっくり崩れていく」。長々と引用したのは、これらのフレーズに辿り着くために必要な手続きを踏んだからに過ぎない。導入として適切なのは「オーストラリアではほんの一歩退けば、もう、シダの時代」だという部分だろう。植物〔シダ類〕の性(セックス)は根底においてはリゾームとなる。そして重要なのは「狂気・粉々・流れ」だ。

「ポケットに両手を突っ込んで、あてもなくさまよいながら、心は無関心の世界へと漂っていた。心ここにあらず、遥かかなた、遥か遠くに飛んで、無関心の国にいる。世界はぐるぐる回って消えた。海に転がり落ちる石のように、過去の生活、つまり過去の意味は転がり落ち、さざ波の中に消えた。後はだだっ広い空漠感、太平洋、オーストラリアの海岸。遥かかなた、まるで他の惑星にいるような、死後の世界に足を踏み入れたような気がする。思い煩う肉体を後に残して。欲望にうずく肉体。それすら消え去った。自分にとってあんなにも意味があった一切が。関心のあった自己と古い世界、苦しいことも楽しいことも、死者から去っていくように消えた。風景だって?ーーー風景などまるで関心がなくなった。愛?ーーー大恩赦によって愛から放免されたみたいだ。人類愛?ーーーそんなものは存在しなかった。思想?ーーー海に転がり落ちる小石同然だ。偉大な輝かしい過去?ーーー海岸に打ち上げられた半透明の華奢な貝殻のように崩れ去った。海辺で考えることも、記憶を呼び戻すこともせず、オーストラリアの薄暗い岸壁の下で独り、心も魂も空っぽにして、長い海岸と広い陸地を相手にたった独りでいる。陽のあたる砂浜に漂う原始の闇と戯れ、独り夢うつつの世界に浸っている。あらゆるものの不思議な剥離感」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.470」彩流社)

無関心、心ここにあらず、無関心の国、心も魂も空っぽ、原始の闇と戯れ。またこうも。「あらゆるものの不思議な剥離感」。剥離感なら理解できる読者が少なからずいるに違いない。しかもこの場合の理解は言語を介しての理解ではなく、媒介物なしの「融け合う」、をいう。媒介物なしの「融け合う」状態で感じる「剥離感」。解離すること。うまくやらなければならない。もっとも、ニーチェによれば、人間はときどき解離しているものなのだが。ただそのことに気づいていないだけだ、と。ロレンスはこの状態を次の美しい言葉でいったん締めくくる。

「人間の息のかかったものなど微塵もない穏やかなオーストラリアの青空。文字など刻まれたことがないようなオーストラリアの幽けく白い大気。《白紙状態》」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.471」彩流社)

だが既にそのようなオーストラリアは消滅した。反復はどのように開始することができるだろうか。或る種の諦観へ傾きつつも、なお反復は加速していく。ゆっくりと、しかし確実に、大地もまた変身する。離接的総合。流れと切断とを繰り返す欲望する諸機械。

なお、「カンガルー」は一九二三年刊行。日本では大正十二年に当たる。関東大震災発生。

BGM

「言語ゲーム」と生成変化2

2019年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
引き続き「言語ゲーム」《と》変身=分身について。

「どのくらいの家々、どのくらいの街々があると、都市が都市になりはじめるのか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一八」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.25』大修館書店)

この問いにどう答えることができるだろうか。もちろん、理屈をこねるな、と言うことはできる。しかしその場合、「理屈をこねるな」という言葉が「答え」なのか。「答え」=「理屈をこねるな」という言葉なのか。もしそうであれば、仮に、学校の授業で「ここに答えを書きなさい」という問いに出会ったとしよう。「ここ」と指された場所に「理屈をこねるな」、と書き込むことは十分可能だ。そしてそれは間違っていない。だがしかし、一体誰がそのようなことをするだろうか。しない。なぜしないのか。生徒らはすでに、特定の「言語ゲーム」に習熟しているからだ、と言える。とはいえ、問題は残っているのだが。例えば、「都市計画」。いつどこで誰が何をいかに?ーーーと。

次に、特定の「言語ゲーム」に熟達しているケースを考えよう。

「でも、われわれがゲームをするときーーー<やりながら規則をでっち上げる>ような場合もあるのではないか。また、やりながらーーー規則を変えてしまう場合もあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・八三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.84』大修館書店)

確かに。このとき、何か、が起こっている。しかし何が起こっているのか。問題はウィトゲンシュタインから離れる。規則が変容するとき、一定の規則が何か別の規則へと増殖したり減少したりするとき、その「あいだ」で生じていることについて、述べたいと思う。異論は多様であってよい。だが、ただひたすら騒々しいばかりでは余りにも無意味でしかない。神話レベルでいえば、「多頭は無頭」だからだ。

近頃、悩んでいない人はいないのでは、と思われる現象が多発している。世界中の誰も彼もが何らかの発言あるいは返答を求められている、といった多少なりとも困惑せずにはいられない状況についてだ。ドゥルーズはかつてこういった。

「私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.277」河出文庫)

例えば、ツイッターとかメールとかーーー。本当に必要なのだろうか、これは。と、考え込んでしまうことが度々ある。逆に、誰か「意見を述べ」ないだろうか。できれば「述べ」てほしいものだが、と思うとき、案外誰も何も述べなかったりする。ともかく、先に必要だと思うのは、諸々の意見の盛大な乱立(毎日が「はげ山の一夜」)という状況をどう処理すればよいのか、ということだろう。ワイルドはこう述べている。

「『あんなすばらしい人間が年をとってしまうとは、なんという傷(いた)ましいことだ』嘆息(たんそく)まじりにワイルドが言った。『まったくだ』とわたしは答えた。『もし<ドリアン>がいつまでもいまのままでいて、代りに肖像画のほうが年をとり、萎(しな)びてゆくのだったら、どんなにすばらしいだろう。そうなるものならなあ!』ただそれだけだった」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.5~6」新潮文庫)

「ただそれだけ」、と。「ただそれだけ」のことなのだと。こうもいう。

「もしこの絵が変ることになっているならば、それはただ変るまでだ。それだけのことだ」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.210」新潮文庫)

「それだけのことだ」と。気にし過ぎてもいけない、と。だからといって、何も考えるな、とまでは言っていない。次のようには言う。

「思想の価値は、それを表現する人物の誠実さとはなんのつながりもない、むしろ、人物が誠実さを欠けば欠くほど、思想の知性度は純粋となる」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.27」新潮文庫)

「表現するもの」と「表現されるもの」とは「なんのつながりもない」。両者がどこでどう繋がり合うかは必ずしも必然的なものではなく逆に偶然に過ぎないのだと。しかしその偶然を追求することは、また別の意味で、大変興味深い行為だけれども、というくらいのイメージだろう。

さて、変身=分身について。スキゾフレニー(統合失調症)に関して、何も、実際の病者になってから考えねばならないなどとはここでは一切言っていない。スキゾになるためには薬物の使用などまったく必要ない。ドゥルーズ自身がそう言っている。

「オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫)

薬物でもなく自殺でもなく、わざわざ統合失調症を引き起こすことでもなく、むしろ、役者やダンサーのようになること。大事なのはそういうことだ。ところが、スキゾと対極にあるとされる「パラノイア」(神経症)は、事実として急速に世界的な感染拡大を見せてきている。このタイプのパラノ(神経症)は深刻であるばかりか、実在する患者が余りにも無自覚だという点でいわゆる先進国における新しい病として認知されるにおよんでいる。そしてその症状はすでに引用した。「私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいる」ということだ。無意識のうちに「強制する力がたくさんある」。あり過ぎて途方に暮れる、が、本人は途方に暮れるどころか逆に「諸々の意見の盛大な乱立(毎日が「はげ山の一夜」)という状況」の中に嬉々として打ち込んでいく。そしてそれをやめられない。これはすでにただ単なる患者でしかない。哲学・思想における「スキゾ/パラノ」とはまったく異なるただ単なる病気だ。治療に赴くほかない。

ところでしかし、ではいったい、スキゾフレニーとはどのような状態を呈する症候なのか。ヘンリ・ミラーが上手く記述している。

「錯乱状態に陥ったぼくは、馬のように飛びはね、、いななきはじめた。蛙を買ってきてそいつを蟇蛙(ひきがえる)と交尾させたりもした。なし得るいちばん簡単なこと、つまり死ぬことも考えたが、実際には何もしなかった。じっとつっ立ったまま、手足が化石化してゆくのを感じていた。その感じの何とすばらしく、何と治癒的で、何と分別的だったことか、ぼくはさかりのついたハイエナのように、臓腑の奥深くから笑いはじめた。ひょっとすると、このままロゼッタ石になってしまうかもしれないぞ!ぼくはじっと立ちつくし、そして待った。春になり、秋になり、そして冬になった。ぼくは機械的に保険契約を更新した。ぼくは草を食(は)み、落葉樹の根をかじった。何日もつづけてすわり、同じ映画を眺めた。時おりは歯も磨いた。自動拳銃で狙い撃ちされつづけても、銃弾はぼくをそれ、タ、タ、タと奇妙に壁にぶつかった。一度は暗い路上で兇漢に襲われ、短刀のぐさりと突き刺さるのを感じたこともある。まるで噴射シャワーを浴びたような感じだった。だが妙なことに、短刀はぼくの肌に傷穴を残さなかった。あまりにふしぎな体験だったため、ぼくは家へ帰ると、身体じゅうに短刀を突き立ててみた。またしても、針状シャワーを浴びたかのような感じだけだった。ぼくはすわりこみ、短刀をぜんぶ引き抜いたが、やはり血痕も傷穴も苦痛もないのにびっくりした。いっそ腕にかぶりついたらどうだろうと思っていたところへ、電話がかかってきた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.297~298」講談社文芸文庫)

登場人物はほぼ「動いていない」。ほとんど「石」に近い。凶暴なところなどまるでない。滑稽でさえある。ほぼ「動いていない」のだから。そんなわけで、ヘンリー・ミラーがどれほど正気か、を示すと同時に、どれほど真面目過ぎたか、をも示すために、しかし、変身=分身という点について述べた部分を拾ってみた。少しばかり齧ってみよう。

「ひとたび死んでしまえば、たとえ混沌のさなかにあっても、すべては必然的になるようになるものだ。そもそものはじめから、混沌以外の何ものでもなかったーーー分泌物がぼくを取り囲み、ぼくはそれを鰓(えら)を通して呼吸していた。月がたえずおぼろに輝いている下層部はなめらかで豊穣だったが、その上には騒音と不協和音があった。すべての中に、ぼくはすぐさま対立と矛盾を見いだし、現実と空想のあいだに皮肉を、逆説を見てとった。ぼくにとってはぼく自身が最悪の敵だった」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.9」講談社文芸文庫)

「鰓(えら)を通して呼吸していた」。「ぼくは」魚類だ。

「ぼくは本質においては、いわば矛盾人間だった。しかつめらしい高潔な人間と取られるかと思えば、陽気で向こう見ずだと思われ、誠意と熱意にあふれているようにも、だらしなくのんきな男とも受け取られた。実は、ぼくはそのぜんぶを同時にそなえーーーなおそのうえ、だれも(なかんずく、ぼく自身はまるで)気づいたことのない別な性格もそなえていた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.17」講談社文芸文庫)

自分で自分自身を「矛盾人間」と評している。けれども「ぼく自身」は「気づいたことのない別な性格もそなえていた」。増殖し複数化する「ぼく」なのだ。

「もしキリストのように十字架にかけられず、そのまま生きながらえ、絶望と虚無感を超越して生きつづけるならば、そこでもまた奇妙なことが起こるだろう。あたかも本当に死に、本当に甦ったような気分を味わい、中国人のように並はずれた人生を送ることになる。つまり、異常に快活で、異常に健康で、異常に冷淡になるということだ。悲壮感は消え、自然と合体し同時に自然に逆らいながら、花や岩や木のように生きて行かねばならない」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.92」講談社文芸文庫)

「ぼくは狂暴であり、同時に無気力だった。さながら灯台そのもののようにーーー怒濤逆まく海のまっただ中に、がっしりと定着していた。ぼくの下には、そそり立つ摩天楼をささえている岩棚とおなじ強固な岩があった。ぼくの土台は地中深く入りこみ、ぼくの身体の補強材は、赤熱したボルトを打ちこんだ鋼鉄でできていた。なかんずく、ぼくは一つの目だった。遠く広く探り、休みなく仮借なく回転をつづける巨大な探照灯だった。この油断なくさえた目のため、ぼくのその他の機能はすべて眠らされたように見えた。ぼくの持てる力はすべて、世界のドラマを見、それを取りこむことに使い果たされていた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.109~110」講談社文芸文庫)

「ぼくは一つの目だった」。しかも目は様々な機能を備えている。その代償に「ぼくのその他の機能はすべて眠らされたよう」とあり、ここではつまり、或るものAと別のものBとの置き換え可能性について言及されていることになる。無論ヘンリー・ミラーはそのことを言いたいがために書いたわけではない。代数学の学習会ではないのだ。

「もはや話すことも、聞くことも、考えることもなかった。今はただ取りまかれ囲いこまれ、同時に囲いこみ取りまくばかりだった。もはや同情にも思いやりにも用はなかった。草や虫や川のように、ただこの地上に棲息するというだけの人間になるのだ。分解され、光と石をのぞかれ、分子のように変わりやすく、原子のように持続性を保ち、大地そのもののように無情に徹するのだ」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.111」講談社文芸文庫)

「分解」「分子」「原子」ーーー。とことん微分化すること。変身=分身のために。ときどき巨大化もするが。いずれにしても別様になる。

「われわれが社会の責任ある一員となるにつれ、心の中に封じ込められてゆく驚異と神秘。われわれが働くべくその中へ押し出されるまで、世界はきわめて小さく、われわれはその縁(ふち)に、いわば未知なる世界の辺境に住まっていた。それは小さなギリシア的世界であったが、しかしあらゆる種類の変化、あらゆる種類の冒険と思索を可能にするだけの深さを持っていた。あながち小さすぎるとも言えなかった。無限の可能性がたっぷりと秘められていたからだ。ぼくは自分の世界の拡大から何一つ得たものはないーーーそれどころか、失うもののほうが多かった。ぼくはもっと子どものようになり、少年期を越えてもっと逆方向へ遡りたい。通常の成長方向に逆行し、超幼児期の領域へ戻りたいのだ。いずれはそこも狂気と渾沌の世界であろうが、今ぼくを取り囲んでいる世界ほど渾沌とし狂ったものではあるまい」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.215~216」講談社文芸文庫)

「神秘」とあるが神秘主義者でないことは明らかだと言われなければならない。「通常の成長方向に逆行し、超幼児期の領域へ」とある。ただ単なる逆戻りとは違っている。この逆方向への「可塑性」とは歴史性を帯びることになるような「可塑性」のことだ。

「ブルーミングデイルの混沌の中には一つの秩序があるが、この秩序はぼくにとってはまるで狂気じみて見えた。顕微鏡でのぞいてみるなら、ピンの頭にでも見いだせるような秩序だった。偶発的に思考された偶発的な一連の偶発事が持つ秩序だった。この秩序は、まず何より一つの臭気を持っていたーーーぼくの心に恐怖を叩きこむのは、ブルーミングデイルの臭気だった。ブルーミングデイルの店にはいると、それだけでぼくはばらばらになってしまった。腹わたと骨と軟骨とからなる無残な塊となり、床の上でどろどろに崩れてしまうのだ。漂う臭気は分解の匂いではなく、不適当な結合からくる腐臭だった。人間というあわれな錬金術師は、何ら共通点を持たぬ物質や本質を、無数の形や様式に溶接しようと試みた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.305~306」講談社文芸文庫)

秩序化されようとすると逆に「ぼくはばらばらになってしまった」。「どろどろに崩れてしまう」。さらに重要なことが書かれてある。「何ら共通点を持たぬ物質や本質を、無数の形や様式に溶接」する「試み」。「離接的総合」とはこういうことをいうのだろう。だから人々は実にしばしば失敗する。あたかも失敗しなくてはならない法の下に置かれているかのように。

「今やあらゆるものが縮小されて見えたーーー境界線の彼方に横たわる世界も、またぼくにとって実に恐ろしいほど壮大に見え、しかもはっきりと限界の定まった世界も。そこに茫然と立ちつくすうち、ぼくはふと一つの夢を思い起した。それはこれまで何度もくり返し見たことがあり、今でも時おり見ることがあり、これからも生きているかぎり見つづけたいと思っている夢だった。それは境界線を越える夢だったのだ。あらゆる夢の例に洩れず、この夢についてもあざやかな現実感、夢を見ているのではなく《現実の世界にいる》という実感が特徴だった。境界線を一歩またげば、ぼくは名も知られずまったく孤独な人間だった。話される言葉まで違っていた。事実ぼくは、いつも他国者、異邦人と見なされた。ぼくには無限の時間があり、通りをいくつもぶらつくことにすっかり満足していた。通りはただ一つしかなかった、と言うべきであろうかーーーぼくの住んでいた通りの延長が一つあるだけだと。やっとぼくは駅構内の上にかかった鉄橋までやってきた。境界線からはほんのわずかな距離なのだが、ここまでくるといつも夜になってしまった。この鉄橋から、ぼくは蜘蛛の巣のような線路や、貨物駅や、炭水車や、貯炭庫などを見おろすのだが、この異様な這いまわる物体の群れを見つめているうち、ある変身作用が起こってくるのを感じるのだーーーまるで夢でも見ているように。この変身と変形とともに、これはこれまで何度も見てきた古い夢だという気がしてくる。今に目がさめてしまうのではないかという怖ろしい不安を覚える。そしてぼくは知っているのだ。やがてまもなく、広大な空間のまっただ中で、ぼくにとって何よりも重大な何かをそなえた家に踏みこもうとする瞬間、目がさめてしまうであろうことを。この家に向かって歩き出そうとすると、ぼくの立っている地面は縁からくずれはじめ、溶けはじめ、消えはじめるのだ。空間は絨緞のようにめくり上がり、ぼくを包みこみ、それとともにぼくの入りこめなかった家をも呑みこんでしまう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.325~327」講談社文芸文庫)

こうある。「あざやかな現実感、夢を見ているのではなく《現実の世界にいる》という実感が特徴」だと。「ある変身作用が起こってくる」と。そしてまた「ぼくの立っている地面は縁からくずれはじめ、溶けはじめ、消えはじめる」。単なる妄想に過ぎないと言えるだろうか。夢と現実との「あいだ」と言うことはできる。だが、その「あいだ」とは果たしていったい何だろうか。続けよう。

「いま天井の穴から輝き出ていたあの黒い星を、ぼくらの結婚の小部屋の上にかかっていた、絶対者よりさらに不動でさらに遠く離れたあの恒星を思い起してみるーーーするとぼくにはわかるのだ、それが彼女であったこと、本質をすっかり抜き取られた彼女、顔のない死滅した黒い太陽であったことが」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.358」講談社文芸文庫)

「無数の枝を持ったセックスの燭台ジョージアナから話をはじめ、女陰の分枝を上へ外へとたどり、無限の世界であるセックスのn次元まで到達することも可能だった。ジョージアナは、セックスと呼ばれる未完成の怪物の、ごく小さな耳の鼓膜のようなものだった。彼女は透明に生き、大通りの短い午後の記憶という光の中に息づいていた。われわれのこの世の中と同様、それ自体無限であり定義の及ばぬ交合の世界、その世界の匂いと実体をはじめて触知し得るものとして与えてくれたのが彼女だった。交合の世界全体は、われわれがセックスと呼ぶ動物の常に増大をつづける皮膜のようなものであり、それは別の生き物のようにわれわれの存在にまで成長し、やがてはしだいにそれに取って代わるにいたる。そのため、いずれ人間世界は、みずから自分を生み出すこのすべてを包含し、すべてを生殖する新しい存在の、淡い記憶にすぎなくなってしまうであろう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.359」講談社文芸文庫)

出版当時、性的描写が問題にされたらしい。今では単なる「エロ本」ですらない。単なる「エロ本」の領域から消去されて始めて文学になった。文学へと生成したと言おう。日本でも単なる「エロ本」と勘違いされそうになったがあやうく難を逃れた作品で有名なものがある。村上龍「限りなく透明に近いブルー」(講談社文庫)。「エロ本」と区別し得る選考者がいたということは村上龍にとって幸いだった。小説の舞台が基地の街だという点に気づいた人がいたか、あるいはもともと知っていた人がいたということがその区別を可能にしている。だからといって基地の街ではすべてが「エロ本」化するという意味ではない。むしろポルノ的描写の盛大さにもかかわらず、あの小説が持つ価値にはそれほど関係がない。描かれている様々な性的痴態。それを受け止める感受性豊かな皮膚感覚の実践として価値があるのだ。皮膚=表層がポルノであるなら、それをそのまま描くほかない。その実践が「限りなく透明に近いブルー」として結晶したと言える。それはそれとして「南回帰線」というケースではこの作品なりに踏まねばならぬ段階があったのだ。

「ぼくは自分の死体内を歩きまわり、その巨大でぶざまな塊のあらゆる隅や裂け目を踏査する。それは終わりのない踏査だ。なぜなら絶え間ない膨張にともない、地球の熱い岩漿(マグマ)のように滑り流れをくり返すうち、地形までがすっかり変わってしまうからだ。瞬時も堅い大地の現われることはなく、何物にせよ瞬時も静止し、それと見分けられることはない。それは境界標のない拡大であり、ごく些細な身動きや身ぶるいによって目的地の変わる航海なのだ。空間や時間についてのすべての知覚を殺してしまうのも、その果てしない空間の充填なのだ。肉体が拡大すればするほど、世界はますます微小なものとなり、ついにはすべてがピンの頭に凝縮されたように感じられる。ぼく自身のなり変わった姿であるこの巨大な死骸ののたうちにもかかわらず、それを支えるもの、それが生まれてきた元の世界は、ピンの頭ほどの大きさしかないように感じられる。汚濁のただ中、いわば死の臓腑そのものの中に、ぼくは胚珠を、世界の平衡を保っている軌跡的な微小の梃子(てこ)の存在を感じる。ぼくは糖蜜のように世界の上におおいひろがるが、そのむなしさは怖ろしいばかりだ。だが、今さら胚珠を取り除くこともできない。すでに胚珠は冷たい炎の小さな結節となり、死骸の巨大な空洞の中で太陽のように燃え上がっているからだ。やがて大きな略奪鳥が飛行に疲れ戻ってくるとき、彼女はぼくが、不滅の分裂症患者であるぼくが、死の芯に隠れた燃える胚珠であるぼくが、みずからの無のまっただ中にいることを見いだすだろう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.369~370」講談社文芸文庫)

「ぼくといういまいましい機械は、困ったことにどうにも止まらないのだ。ぼくは奔流のまっただ中にいるのみか、今や奔流はぼくの中を流れ、しかもそれをぼくはどうにもできなかったのだ」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.430」講談社文芸文庫)

「ぼく」は「奔流のまっただ中に」いる、だけでなく、「奔流」が「ぼくの中を流れ」ている。この感覚を他のどのような言葉で言い表せばいいのか。

先ほど村上龍の名を出した。しかし「南回帰線」はいくつかの部分で村上春樹により一層似ている。例えば次の部分。

「神は一つの大きなお笑い草である、などと言うつもりはない。神に近づくには思いきり笑わねばならない、というのがぼくの意見なのだ。人生におけるぼくの目的のすべては、神に近づくこと、つまりより近く自分自身に近づくことにある。したがって、どの道を進むかは、ぼくにとってはどうでもいいことなのだ。しかし音楽だけは大切だった。音楽は松果腺の刺戟剤だ。音楽はバッハでもベートーベンでもない。音楽は魂の罐切りなのだ。音楽はわれわれの心を限りない静けさに沈め、われわれの存在の上にかかる屋根に気づかせてくれる」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.462〜463」講談社文芸文庫)

村上春樹の場合、「音楽はバッハでもベートーベンでもない」とは言わない。「バッハ」「ベートーベン」でもあり「デュラン・デュラン」「ヤナーチェック」でもありーーー次々と置き換えられ、連接されていく。

「芸術家はX根の人種に属し、彼はいわば精神的微生物であり、一つの根の種族より他の根の種へと移動をつづける。物質的、人種的体系の一部ではないがゆえに、不幸に押しつぶされる懸念もない。彼の出現は、常に破局と崩壊と同調している」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.486」講談社文芸文庫)

限りない「微分化」への生成。「一つの根の種族より他の根の種へと移動」しつつ「常に破局と崩壊と同調している」。

「眠りこんでしまわぬため、《生活》と呼ばれるあの不眠症の生贄(いけにえ)とならぬため、彼らは際限なく言葉をつづり合わせるという麻薬に訴えざるを得ない。これは決して機械的作用ではない、と彼らは言う。なぜなら、いつでも意のままにやめられるという幻想が、常につきまとっているからだ。ところが、現実にはやめることはできない。彼らは幻想を生み出すことに成功したのみであり、それは微弱ながら一つの成果ではあるにせよ、完全に目ざめた状態からはほど遠く、活動的とも非活動的とも形容し難かった」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.490~491」講談社文芸文庫)

豊富な語彙に彩られており、その分わかりやすいかも知れない。しかし次の二つの部分は極めて歴史的な記述だ。

「日曜の朝。ぼくは俗世間のことはきれいに忘れ、鉄筋コンクリートの寝床に横たわっている。街角を曲がったところには共同墓地が、つまりーーー《交合の世界》がある」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.292」講談社文芸文庫)

「そして今、ぼくは小さなカヌーを繰り、川を流れ下っている。諸君の思いのまま、ぼくは何でもやってみせようーーー無料で。ここは《交合の国》だ、ここには動物も樹木も星も何の問題もない」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.303」講談社文芸文庫)

「《交合の世界》=《交合の国》」=アメリカ合衆国、というわけだ。事実そうだ。今なお、いよいよそうだ。世界最大の移民の国というだけでは到底論じきることができない。また、そういっただけでは何ら目新しいところはないに違いない。ヘンリー・ミラーは次のようにもいう。

「ぼくの全身は不断の光芒となり、けっして捕えられることなく、振り返ることなく、衰えることなく、猛然たる速度で飛びつづけなければならない。都会は癌のように成長をつづける。ぼくは太陽のようにふくれ上がらねばならない。都会はしだいに深く深く、赤い肉に食いこんでゆくーーーついには飢餓のため死なねばならむ白いしらみのように、貪婪(どんらん)なのが都会なのだ。ぼくはわが身を食いにかかっている白いしらみを、飢えで死なせてやるつもりだ。ふたたび人間として再生するため、ぼくは都会として死ぬつもりなのだ。されば、ぼくは目を閉じ、耳をふさぎ、口をつぐむ。ふたたび人間としてすっかり生まれ変わるまで、ぼくはおそらく公園として、人びとが休息と暇つぶしに訪れる自然公園として、生きつづけるだろう」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.183」講談社文芸文庫)

「人間としてすっかり生まれ変わるまで、ぼくはおそらく公園として、人びとが休息と暇つぶしに訪れる自然公園として、生きつづける」。「公園として」生きる、のか。なかなか素晴らしい人生だという気がしないだろうか。しかも思い付きではないところがますますいいと思えてくる。そんなわけでヘンリー・ミラーは〔自分自身を微分化し変形させていかざるを得ないほど〕余りにも繊細過ぎた〔適任過ぎた〕ということは言えるかと思う。

なお、「南回帰線」は一九三九年出版。日本でいうと昭和十四年。第二次世界大戦勃発の年に当たっている。

BGM

「言語ゲーム」と生成変化1

2019年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
「言語ゲーム」を覚えているだろうか。(1)教わる者が対象を名ざすということ、すなわち、教師が石を指し示すなら、〔それを名ざす〕語を発音するという教育的過程としての「言語ゲーム」。(2)コミュニケーションにおける語の慣用の全過程を、子供がそれを介して自分の母国語を学びとるゲームの一つとしての「言語ゲーム」。(3)言語と言語の織り込まれた諸活動との総体としての「言語ゲーム」。ーーーそして「言語ゲーム」という言葉は、ここでは、言語を話すということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることを、はっきりさせるのでなくてはならないこととしての「言語ゲーム」、であること。ウィトゲンシュタインから。

「しかし、次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それは、われわれの単語における『石板!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石板!』という文の《引きのばし》であると言ってはなぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは『石板』と《言い》ながら、《そのようなこと〔『石板をもってこい!』ということ〕をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石板!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』ということをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことを欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分のいう文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。

ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起っている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。

文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されたているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店)

省略形が可能なのは、特定の言語とその規則の適用によって特徴付けられる或る共同体の内部に限られる。

「名ざすということは、一つの語と一つの対象との《奇妙な》結合であるように見える。ーーーかくして、哲学者が、名と名ざされるものとの関係《そのもの》を取り出そうとして、眼前のある対象を凝視しつつ、なんべんもある名をくり返し、あるいはまた『これ』という語をくり返すとき、ある奇妙な結合が実際に生じてくる。なぜなら、哲学的な諸問題は、言語が《仕事を休んでいる》ときに発生するからである」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・三八」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.46』大修館書店)

「哲学的な諸問題」が発生するのは「言語が《仕事を休んでいる》とき」だ。例えば、話題の尽きた時間。人々は或る種の「間の悪さ」を体験しないだろうか。「間の悪さ」あるいは「間の悪い」時間が続くとき、人々は、不安に駆られはしないだろうか。さらに「間の悪さ」が昂じてくると遂には得体の知れない恐怖に襲われそうな気になったりしないだろうか。そんなとき、言語を巡って、一体何が起こっているのか。言語は規則に従っている。特定の文法に従っている。しかしこの事情は、規則に、必ずしも従わなければならない必然性はないという意味を含んでいる。規則を設定しなければ成立しないという条件は、言い換えると、規則が適用されないあるいは通用しない場所では、言語は、ばらばらに空中分解してしまうことができる、という非常事態を常態として持つことを意味している。因果関連は絶対的ではないのだ。ゆえにコミュニケーションはいつも不完全であり、むしろ破壊的分裂の恐怖に駆られており、不完全なコミュニケーションとしてしかあり得ない。人々は出会うにせよ別れるにせよ怒るにせよ泣くにせよ、そうしながらも同時に、精一杯、規則/文法の維持・修正に務めようとはしている。複数の怒号の応酬でさえ無意識のうちになされる「規則/文法の維持・修正」に支えられつつでしか応酬=共犯できない。根拠不在の賭けにも似ていて、誰に責任があるわけでもないのだが、その不安は常に宙吊りのまま、永劫の未完を約束されているかのようだ。

「しかし、なぜひとは、この語を、それが明らかに名で《ない》場合でも、そのまま名にしてしまおうという考えを抱くようになるのか。ーーーまさにそうしたいためである。なぜなら、ひとは、ふつう『名』と言われているものに対して、異議をとなえたいような誘惑を感じているからである。そして、ひとはこの異議を次のように表現する、すなわち、《名というものは本来単純なものを指し示していなくてはならない》、と。さらに、ひとは、このことを、たとえば次のように根拠づけることができるかも知れない。すなわち、ふつうの意味における固有名に、たとえば『ノートゥング』という語がある。ノートゥングという剣は、一定の構造で合成された各部分から成っている。各部分が別様に合成されていれば、ノートゥングは存在しない。ところが、明らかに、『ノートゥングには鋭い刃がある』という文章は、ノートゥングがまだ完全であろうと、すでに打ち砕かれていようと、《意義》をもっている。しかし、もし『ノートゥング』がある対象の名だとしたら、ノートゥングが打ち砕かれてしまっているとき、そのような対象はもはや存在しない。そして、そのとき、名にいかなる対象も対応していないのであるから、この名はいかなる意味をももたないであろう。しかるに、このとき、『ノートゥングには鋭い刃がある』という文章には、意味をもたない語が入っているのであるから、この文章はナンセンスということになろう。ところが、この文章は意義をもっている。それゆえ、これを構成している各語に対して、常に何かが対応しているのでなくてはならない。それゆえ、『ノートゥング』という語は、意義の分析によって消滅し、その代わりに単純なものを名ざす語が導入されなくてはならない。こうした語を、われわれは、正当に、本来的な名と呼ぶだろう」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・三九」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.47』大修館書店)

さらに。

「『意味』という語を利用する《多くの》場合にーーーこれを利用する《すべて》の場合ではないとしてもーーーひとはこの語を次のように説明することができる。すなわち、語の意味とは、言語内におけるその慣用である、と。そして、名の《意味》を、ひとはしばしば、その《担い手》を指示することによって、説明する」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・四三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.49』大修館書店)

従って次のように言うことができる。

「『ノートゥングには鋭い刃がある』という文章は、ノートゥングがすでに打ち砕かれている場合でも意義をもつ、とわれわれは言った。すると、そうなっているのは、この言語ゲームにおいては、一つの名が、その担い手を欠いている場合でも慣用されているからである。しかし、われわれは、名(すなわち、われわれが確かに『名』とも呼ぶであろうような記号)を伴った一つの言語ゲームを考え、その中では、名が担い手の存在している場合にだけ慣用され、したがって、直示の身振りを伴った直示的な代名詞によって《常に》置きかえられうる、というふうに考えることができよう」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・四四」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.50』大修館書店)

先にこう述べた。「特定の言語とその規則の適用によって特徴付けられる或る共同体」=「言語ゲーム」。しかしそれは複数ある。このことをしみじみと実感することができるのは、別様の「言語ゲーム」が「一つの活動ないし生活様式の一部」として成立している場所へ移動したときだ。そこでは誰もが「異邦人」に《なる》。そしてそのような場所は常に複数ある。さて、「異邦人」に《なる》こととは。

「規則に従うということ、それは命令に従うことに類似している。ひとはそうするよう訓練され、命令には一定のしかたで反応する。しかし、いま命令や訓練に対して、あるひとは《しかじか》に、別のひとは《別様に》反応するとしたらどうであろうか。そのとき誰が正しいのか。

自分にとって全く親しみのない言語が通用している未知の国へ、研究者としてやって来たと思え。どのような状況のもとであなたは、その土地の人たちが命令を下し、命令を理解し、これに従い、命令に逆らう、等々と言うであろうか。

指示連関の体制こそ、人間共通の行動様式なのであり、それを介してわれわれは未知の言語を解釈するのである」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・二〇六」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.164』大修館書店)

もっとも、《なる》こと、「変身」=「分身」ができるのは、何も「異邦人」にだけとは限らない。オスカー・ワイルドはこう書いている。

「現今では、失恋の痛手はすぐさまベスト・セラーに化ける」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.9」新潮文庫)

なるほど、言い得て妙だ。もちろん隠喩ではなく事実として。次の文章を見てみよう。言葉に対する恐怖が語られる。言語は「無形の事物に形態を附与」する。言語は「無形の事物」を暴力的に加工する装置でもある。

「言葉!ただの言葉!その怖ろしさ!明晰さ、なまなましさ、残酷さ!誰も言葉から逃げおおせるものはいない。しかもなお、言葉にはいいしれぬ魔力が潜んでいるのだ。言葉は無形の事物に形態を附与し、ヴィオラやリュートの音にも劣らぬ甘美なしらべを奏でることができる。ただの言葉!いったい、言葉ほどなまなましいものがほかにあるだろうか」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.45」新潮文庫)

ワイルドからは一旦離れてみよう。ホフマンスタールは慎重な面持ちでこう述べている。

「高尚であれ一般的であれ、ある話題をじっくり話すことが、そしてそのさい、だれもがいつもためらうことなくすらすらと口にする言葉を使うことが、しだいにできなくなりました。『精神』『魂』あるいは『肉体』といった言葉を口にするだけで、なんとも言い表わしようもなく不快になるのでした。宮廷の問題や議会での出来事、その他なにごとについても判断を下すことが不可能になっているのに内心気づきました。これはなんらかの慮(おもんぱか)りのゆえではありません。ご存じのとおり、わたしは軽率といっていいくらい率直なたちなのですから。むしろ、ある判断を表明するためにはいずれ口にせざるをえない抽象的な言葉が、腐れ茸(きのこ)のように口のなかで崩れてしまうせいでした」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.109』岩波文庫)

「言葉が、腐れ茸(きのこ)のように口のなかで崩れてしまう」と。どういう状態なのか。と問うても仕方がない状態なのだ、おそらく。一般的に、ホフマンスタールは言語の危機と自国文化の危機とを同一視していたと言われている。しかしここでは、自国の言語の再構築に取りかかるというより、以前の崩壊しつつある言語と未来の来るべき言語が両方とも不在だという二重の不在の《あいだ》において、言語の融解と融合を流通させ合うことで何かいわく言い難いもの、他者としての自分自身の「身体」をも問いに付した上でさらなる未知の空間(それを文学と呼ぶのは勝手だが)へ飛翔しようとしているのかもしれない。だが一般論はどうでもいい。

「ちょうど、以前に拡大鏡で小指の皮膚を見たとき、溝やくぼみのある平地に似ていたのと同じように、今や人間とその営みが拡大されて見えたのです。もはやそれらを、なんでも単純化してしまう習慣的な眼差しでとらえることはできませんでした。すべてが部分に、部分はまたさらなる部分へと解体し、もはやひとつの概念で包括しうるものではありませんでした。個々の言葉はわたしのまわりを浮遊し、凝固して眼となり、わたしをじっと見つめ、わたしもまたそれに見入らざるをえないのです。それは、はてしなく旋回する渦であり、のぞきこむと眩暈(めまい)をおこし、突きぬけてゆくと、その先は虚無なのです」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.110~111』岩波文庫)

形容しようのない状態に陥っていることは確かだ。けれども、この状態を何か病的なものと勘違いしてはならない。言語はもともとばらばらなのではなかったか。そしてそれを数限りなく解体していくとどういった事態が生じてくるのか。ホフマンスタールはこういっている。

「とつぜん心のなかに、鼠の群の断末魔の苦しみにみちた地下室の情景が浮かびあがったのです。心のなかにはすべてがありました。甘く鼻をつく毒薬の香にみちみちた、冷たく息づまるような地下室の空気、黴(かび)くさい壁にあたってくだける断末魔の鋭い叫び、気を失って絡みあい痙攣(けいれん)する肉体、すてばちになり入り乱れて走りまわり、狂ったように出口を探し求めるさま、行きどまりの隙間で出会った二匹の冷たい怒りの眼つきーーー。鼠の魂がわたしの心のなかでおそろしい運命にむかって歯をむきだしたーーーですが、わたしの心を満たしたのが憐憫の情であったとはお考えにならないでください。それはなりません。もしそうなら、選んだたとえがひどくまずかったのです。あれははるかに憐憫以上のもの、また憐憫以下のものでした。それは恐るべきかかわりあいであり、これらの生き物のうちへと流れこんでゆくこと、あるいは、生と死、夢と覚醒、それらを貫いてとおる流体が、一瞬、これらの生き物のうちへとーーーどこからかはわかりませんがーーー流れこんだ、という感覚でした」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙・P.113~115」岩波文庫)

チャンドス卿は「鼠」になっている。「憐憫以上のもの、また憐憫以下のもの」であり、従って、それは同情とか共感とかとは違っている。チャンドス卿は明らかにそれまでとは別様な形態へ変態している。「鼠」に《なる》のだ。

さて、鼠になることができるなら、猫になることはできない相談だろうか。猫に《なる》。のみならず、ラヴクラフトは、動物にも植物にも《なる》。

「そのときおこったことはとても言葉ではあらわせない。覚醒時の人生では存在する余地さえないものの、限定された因果律と三次元の論法に基づく、偏狭、厳格、客観的な世界に立ち返るまで、現実の人生より奔放な夢にみなぎり、当然のものとしてうけとめられているような、そういう矛盾、逆説、変則性に満ちていた」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.117』創元推理文庫)

カーターは複数の「カーター自身」が分裂していくのを見る。

「カーターは人間であり間であり、脊椎(せきつい)動物であり無脊椎動物であり、意識をもつこともありもたないこともあり、動物であり植物であった。さらに、地球上の生命と共通するものをもたず、他の惑星、他の太陽系、他の銀河、他の時空連続体の只中を法外にも動きまわるカーターたちがいた。世界から世界へ、宇宙から宇宙へと漂う、永遠の生命の胞子がいたが、そのすべてが等しくカーター自身だった。瞥見(べっけん)したもののいくつかは、はじめて夢を見るようになったとき以来、長い歳月を経ても記憶にとどめられている夢ーーーおぼろな夢、なまなましい夢、一度かぎりの夢、連続して見た夢ーーーを思いださせた。その一部には、地球上の論理では説明のつけられない、心にとり憑(つ)き、魅惑的でありながら、恐ろしいまでの馴染(なじみ)深さがあった。これが紛れもない真実であると悟ったとき、ランドルフ・カーターは至高の恐怖にとらわれ、くらめく思いがしたーーー色を失う月のもと、ふたりしてあえて忌み嫌われる古びた埋葬地に入りこみ、ただひとりだけが脱け出した、あの怖気(おぞけ)立つ夜の慄然(りつぜん)たる絶頂でさえほのめかされることもなかったような、このうえもない恐怖だった。いかなる死であれ、運命であれ、苦悩であれ、自己一体感の喪失からわきおこる不二無類の絶望をひきおこせはしない。無に没して消えうせることは安らかな忘却であるにせよ、存在感を意識しながら、その存在というものが他の存在と区別できる明確なものではないことーーーもはや自己をもってはいない存在であることーーーを知るのは、いいようもない苦悶(くもん)と恐怖の極(きわみ)にほかならない」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.132~133』創元推理文庫)

「極微の断片」と化したカーターは「やがて復帰」する。しかしこの回帰は以前と同一物としてのカーターへの回帰ではまったくない。二度と戻らない体験を経た後のカーターに変容している。これが回帰だ。

「やがて波は高さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態はーーー四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとくーーー一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.137~138』創元推理文庫)

猫に《なる》。というより、カーターは、少なくとも「猫語」を話す。これもまた一種の変身にほかならない。

「カーターはここにきてついに、猫だけが知り、歳をくった猫が夜に屋根の頂から跳びあがってひそかに赴くという、謎めいた領域について、年老いた村人たちが声を潜めて口にする推測も的を射ていたことを知った。いかにもこの月の暗い裏面にこそ、猫は跳びわたり、丘陵をはねまわって太古の幻影と言葉をかわすのであり、カーターは悪臭放つ行列の只中にあって、猫のありふれた親しげな鳴き声を耳にしながら、故郷の勾配急な屋根や暖かい炉辺や灯のこぼれる小さな窓に思いをはせた。猫の言葉の大半はランドルフ・カーターの知るところとなっており、この遥かな恐ろしい場所にあって、カーターはしかるべき声を発した。しかしそうするまでもなく、口を開けたときですら、わきおこる猫の声がますます高まって近づいてくるのが聞こえ、星空を背景に速やかな影が見え、小さく優美な姿をしたものがいやましに数をふやして大群となり、丘から丘へと跳びわたっていた。一族の行動合図は発せられており、不穏な行列に驚愕(きょうがく)のいとまもあたえず、密集する柔毛(にこげ)と残忍な鈎爪(かぎづめ)の大群が波をうって怒濤(どとう)のように押し寄せてきた。フルートの音色はとだえ、夜の闇に絶叫があがった。ほとんど人間に似た者たちが瀕死(ひんし)の声をあげ、猫たちが唸り、鳴き、吠えたけったが、蟇めいた生物はついにひとことも発しないまま、忌(いま)わしい菌類の繁茂する孔(あな)だらけの地面に、悪臭放つ緑色の膿漿(のうしょう)を致命的に流した。松明が消えるまで途轍もない光景がつづき、カーターはかくもおびただしい猫を見たことがなかった。黒、灰色、白の猫、黄色、縞(しま)、ぶちの猫、普通の猫、ペルシア猫、マン島猫、チベット猫、アンゴラ猫、エジプト猫、そのすべてがすさまじい闘いのなかにいて、その上にいくばくか漂っているものこそ、ブバスティスの神殿にて猫の女神を偉大ならしめる、あの深遠おかしがたい高潔さだった。屈強な猫七匹がひと組となり、人間に似た奴隷の喉、あるいは蟇じみた生物のピンク色の触角のある鼻にとびかかり、菌類の繁茂する原野に手荒くひきずり倒すや、その数おびただしい仲間がなだれをうって押し寄せて、聖戦の猛威すさまじく、狂暴な鈎爪と歯で襲いかかるのだった。カーターは負傷した奴隷から松明をつかみとっていたが、忠実な擁護者の寄せくる波にまもなく押しつぶされてしまった。そして真闇のなかに横たわったまま、闘いのどよめきと勝利者の歓声を耳にするとともに、乱闘のなかを行きかう友らのやわらかい肢(あし)を感じとった。ついに畏敬(いけい)と憔悴(しょうすい)とがカーターの目を閉ざし、また開けたときには、ただならぬ光景が目をうった。地球から見る月の十三倍はあろうかという大きさで、輝く円形の地球が昇りでて、月世界の風景に不気味な光をふりそそいでおり、うち広がる荒れた高原や鋸歯状の峰のいたるところに、猫が涯しない海のように秩序ある隊形をとってうずくまっていた。猫のつくりだす円陣は幾重にも重なり、指揮官にあたる二、三匹の猫が列を離れ、カーターを慰めるかのように顔をなめたり喉を鳴らしたりしていた。死んだ奴隷や蟇じみた生物の痕跡はほとんどなかったものの、カーターは自分と戦士たちのあいだの空間のすこし離れたところに、一本の骨を見たように思った。カーターは耳に快い猫語で指揮官たちと話し、猫たちとの昔からの交友がよく知られ、猫が大勢集まるところでしばしば話の種になっていることを知った。ウルタールを通過したときにはそんなカーターが気づかれないわけもなく、毛並つややかな老猫たちは、黒の仔猫によこしまな目をむける飢えたズーグ族を処分した後、カーターにかわいがられたことを記憶にとどめていた」(ラヴクラフト「未知なるカダスを夢に求めて」『ラヴクラフト全集6・P.196~199』創元推理文庫)

猫の言語を話す「カーターにかわいがられたことを」猫たちは「記憶にとどめていた」。そして重要なのは、このときの猫たちとカーターのあいだでは同一の「言語ゲーム」が成立しているということでなければならない。

なお、晩年のワイルドは「同性愛」の罪で投獄されているわけだが、「ドリアン・グレイの肖像」は一八九一年刊行。ロシアでシベリア鉄道が起工されている。一方、ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」は一九〇二年発表。第一回日英同盟調印。シベリア鉄道完成。前者は「電信・電話・マスコミ」と「資本論」が世界の全面へ躍り出た頃。後者は夥しい技術革新と帝国主義の時代に相当する。

BGM

「毎月勤労統計調査」並びに「ロシア疑惑」関係者へ愛を込めて

2019年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
何も知らされないまま世界はどうすればよいのか。何も知らされないまま世界は世界自身の内面へ向けて一体何をどのようにして納得させることができるだろうか。問わねばならないことならまだ山ほどもある。「毎月勤労統計調査」並びに「ロシア疑惑」関係者へ。

「人間は日付よりも動作や笑い声を鮮明に記憶しているものです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.169」河出文庫)

人間を籠絡することはそれほど困難でないかもしれないが、人間の持つ野獣性を懐柔することは根本的な部分においてできない相談だ。脳に電動ドリルでも打ち込まないかぎり。

次の文章は少し具体的過ぎるかもしれない。ニーチェゆえに。

「『党略』。ーーー或る党員が党に対するこれまでの絶対的な信従者の立場を捨てて、条件つきの信従者に変わったことに気づくと、党はこれに我慢がならず、さまざまな挑発や侮辱をその党員に加えることによって彼を決定的な離党に追いこみ、党の敵にしたてあげようと努める。なぜなら、党は、党の信条の価値を何か《相対的》なものと見てそれに対する賛成や反対を、また検討や選択を許そうとする意図は、党にとり、総がかりで攻撃してくる敵よりももっと危険である、という猜疑心を持つからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・三〇五・P.208」ちくま学芸文庫)

秘密は秘密なりに秘密の逆説という形態を持つ。秘密と漏洩、秘密と暴露、秘密と自白。そのような対立構造を持ってきて秘密の全貌を明らかにしようとしたところで、しかしそれがなぜ秘密とされたのかという意味の何たるかを知ることはできない。対立させて見せているばかりではその効果においてほとんど意味をなさない。秘密もまた時間の経過とともに、外的事情になど関わりなく、生成変化していくものだからだ。秘密は秘密自身で形式的にも内容的にも別のものへと転化する。秘密は常に既に可変的だ。その意味で、秘密にした側も秘密を暴露した側も、結局のところ、内容空疎な結果を手渡される(=回帰する)ほかないという結果を招く。ややもすれば秘密の持つ可変性によって変容した秘密それじたいがすべての関係者をあざ笑うことになるだろう。

「《秘密の思い出》ーーー秘密は、知覚および知覚しえぬものを相手に、特権的な、しかしきわめて可変的な関係を結んでいる。秘密はまず、ある種の内容に関係する。内容がその形式にとって《大きすぎる》、あるいは複数の内容自体が一つの形式をもっている。それでも形式の方は、形式的関係を消去する包みや箱など、単なる容器によっておおわれ、裏打ちされ、あるいは置き換えられている。つまりこの場合の秘密とは、さまざまな理由から隔離したり、包み隠したほうがいいと見なされる内容のことなのである。しかしほかでもない、秘密と漏洩、秘密と冒瀆など、項が二つしかない二進法機械にしたがって秘密《と》暴露を対立させているかぎり、隠す理由(恥ずべきもの、宝物、神々しいものなど)を列挙してもほとんど意味をなさない。なぜなら、まず内容としての秘密は、やはり秘密にほかならない秘密の知覚に向けて乗り越えられていくからである。最終目標が何かはどうでもよい。秘密をつかむ知覚が告発を目指し、最終的には漏洩や暴露にたどりつくかどうか、それはどうでもよいことなのだ。逸話の見地からすると、秘密をつかむ知覚は秘密とは正反対だが、しかし概念の見地からすると、秘密の知覚もまた秘密の一部をなすからである。重要なのは、秘密をつかむ知覚自体も秘密でしかありえないということだ。スパイ、覗き魔、ゆすり屋、匿名の密告者など、秘密を垣間見ようとする者はすべて、その後の目的に関係なく、暴かれるべき秘密に劣らず秘密に満ちているのだ。常に女性や小鳥が、秘密裡に秘密を知覚する。きみたちの知覚よりも鋭敏な知覚が、きみたちには知覚しえぬものを、きみたちの箱に隠されたものを知覚する。秘密を知覚する立場の者には職業上の秘密があると予断してもいい。そして秘密を守護する者は、必ずしも事情に通じているわけではないとはいえ、やはり一つの知覚を体現している。なぜなら、彼らは秘密を暴こうとする者を知覚し、見破らなければならないからだ(つまり反スパイ活動)。だからまず第一の方向における秘密は、秘密自体に劣らず秘密である知覚へと向かうのだが、この知覚みずからもまた、知覚しがたいものになろうとする。この第一点をめぐって、実にさまざまな形象が生まれる。それから、第二点として、こちらもまた内容としての秘密から切り離せない問題がある。それは、秘密はどのようにして認められ、流布するかということだ。ここでもまた、目的や結末がどうあろうとも、秘密はそれなりの方法で流布するし、さらにこの方法自体も秘密に組み込まれていく。つまり内分泌としての秘密。秘密は、公的な形式に侵入し、そこに滑り込み、忍び込んで圧力をかけ、著名人をあやつるようでなければならない(それ自体は秘密結社ではないとはいえ、いわゆる『ロビー』タイプの影響力はその典型といえるだろう)。

要するに、みずからの形式を隠蔽し、容器を優先しただけの内容が秘密だと定義すれば、そのような秘密は二方向の運動から切り離すことができない。二方向の運動とは、一方で秘密の流れを断ち切ったり、暴いたりするにしても、もう一方では本質的に秘密の一部をなすような動きのことだ。つまり箱から何かがにじみ出てきたり、箱を透かして、あるいは箱が半開きになって何かが知覚されるということだ。秘密を発明したのは社会である。秘密とは社会的な、あるいは社会学的な概念なのだ。あらゆる秘密は集団的アレンジメントである。秘密は決して静態的な、あるいは不動化した概念ではない。秘密たりうるのは生成変化だけであり、秘密には生成変化がある。秘密の起源は戦争機械に求められる。女性への生成変化、子供への生成変化、動物への生成変化とともに秘密をもたらすのは戦争機械なのである。秘密結社は、社会の内部で常に戦争機械として作動する。秘密結社に関心をよせた社会学者たちは、保護、均等性と階層性、黙秘、儀式、没個性化、一極集中、自律性、分割など、結社がもつ数多くの規則を抽出した。しかし彼らは内容の運動を規制する二つの規則には十分な重要性を認めなかったようだ。二つの規則とは以下のようなものである。(1)あらゆる秘密結社が、結社自体よりも秘密性の高い背後組織をもつ。それは秘密を知覚する組織でもいいし、秘密を保護するものでもいい。秘密が漏洩した場合に処罰を下すものでもいい(ところで、秘密結社を秘密の背後組織によって規定したとしても、それは決して論点を先取りしたことにはならない。一つの結社がこうした二重化と特殊部門を含みもつならば、その結社は必ず秘密結社たりえている)。(2)あらゆる秘密結社に、影響、横滑り、ほのめかし、滲出、圧力、闇に包まれた拡散など、それ自体秘密に閉された行動様態があって、そこから『合言葉』と秘密の言語が生まれる(これは矛盾ではない。秘密結社は、社会全体に隈なく浸透し、その階層性と切片化を突き崩しながら、すべての社会形態に忍び込むという普遍的計画がなければ命脈を保つことができないのだ。秘密の階層性は対等の者同士の結託に結びつく。秘密結社がその構成員に、水中を泳ぐ魚のようになって社会に浸透していくことを命じる一方、秘密結社自体も魚を泳がせる水のようになる必要がある。秘密結社には周囲を取りまく社会全体の共謀が必要なのである)。これは、アメリカ合衆国におけるギャング組織や、アフリカにおける動物-人間の結社など、それぞれ独自性をもつ実例を見れば、容易に理解できることだ。一方には、秘密結社とその指導者が周囲の公人や政治家におよぼす影響力の様態があり、もう一方には秘密結社が背後組織をもつという二重化の様態がある。そしてこの背後組織が殺し屋とかボディガードのような特殊部門で成り立つこともある。影響力と二重化、分泌と凝結。あらゆる秘密はこうした二つの『離散単位』のはざまをぬい、しかも場合によっては離散単位が一つに結ばれ、混ざり合うこともあるのだ。この種の要素をものの見事に組み合わせるのは子供の秘密である。子供の秘密では、箱の中身としての秘密、秘密裡にいきわたる秘密の影響とその曼延、そして秘密をつかむ秘密の知覚が一体をなしているのだ(子供の秘密は大人の秘密をミニチュア化することによって成り立つのではなく、大人の秘密をつかむ秘密の知覚をともなう)。子供は秘密を暴くーーー」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.264~268」河出文庫)

そういうわけだ。とりわけ日本では次のフレーズに着目したい。「一方には、秘密結社とその指導者が周囲の公人や政治家におよぼす影響力の様態があり、もう一方には秘密結社が背後組織をもつという二重化の様態がある」。この場合、「秘密結社」は特に暗闇に隠れている必要はない。むしろ敗戦によって解体された当時の「四大財閥」のように堂々としているだけでなく資本換算可能な大土地所有者であっても何ら構わない。かえってそのほうが怪しまれなくてよいかも知れないからだが。

しかし秘密をめぐる主観はたった一つしかないのだろうか。そんなわけはない。

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四九〇・P.34」ちくま学芸文庫)

重要なのは「身体に問いたずねる」ことでなくてはならないだろう。

「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四九二・P.35~36」ちくま学芸文庫)

ところで、いずれの側に立つにせよ、いっそのことここで立ち止まるにせよ、それでもなお逃走線はあるだろうか。鍵はカフカが握っている。もっとも、作者としてのカフカは死んでしまっているが。

「カフカが、官僚政治に関して最高の理論家たりえたのは、あるレベルでは(だが、この位置決定できないレベルはどこにあるのか?)役所同士をへだてる障壁が『明確な境界』であることをやめて分子の環境に浸されるのはどうしてなのか、さらに分子の環境が障壁を溶解させると同時に責任者を増殖させ、認知も同定もできず、見分けることも、中央集権化することもできないミクロの形態に変えてしまうのはどうしてなのか、明らかにしたからだ。硬質な切片の分離《および》統合と共存するもう一つの体制」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.108」河出文庫)

参照しよう。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)

ドゥルーズ&ガタリは次のようにしなやかな手つきで上手く論述している。

「鎖列には二つの面があるだけではない。一方で鎖列は分節的であり、隣接したいくつかの分節に拡がるか、あるいはそれ自体がいくつかの鎖列である分節にわかれている。この分節性は、多かれ少なかれ固いかしなやかなものでありうるが、しかしこのしなやかさは固さと同じように束縛するものであり、固さよりも窒息させる作用を持っている。たとえば、『城』では、隣接する事務局のあいだには可動的な柵しかなく、バルナバスの野心はそれによって一層狂気的になる。入って行く事務局のうしろに、かならずもうひとつの事務局があり、誰かが見たクラムのうしろには、いつももうひとりのクラムがいる。分節は権力であると同時に領域である。また分節は、欲求を領域化し、固定し、写真にし、写真またはぴったりあった衣服にはりつけ、欲求にひとつの使命を与え、そこからこの欲求と結びつく超越性のイメージを抽出することによってーーーこのイメージと欲求自体が対立するほどにーーー、欲求を把握する。われわれはこの意味において、いかにそれぞれのブロック=分節が、超越的な法の抽象化によって規制されている、権力・欲求・領域性・領域回復の具体化であったかを知った。しかし他方では、同じように、ひとつの鎖列には《非領域化のいくつかの点》があると言わなくてはならない。あるいは、これと同じことになるが、鎖列にはいつも《逃走の線》があると言わなくてはならない」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.175~176」法政大学出版局)

国家の一部としての非-実現という軽やかな身振り。それら(複数形の)はいつも実践において競合する。並列的に愛し合っている。相関とは裏切りであり倒錯であり粘土であり霧散である。脱臼するほかないのだ。例えば、極めて具体的にいうと、戦争機械はいつも国家装置を退ける、という現実。なおカントの再読について触れておこう。いわゆる「啓蒙」をもっと推し進めて「啓蒙」を転倒させ分裂させると同時に変質するであろう炸裂のうちに身をくぐらせるための単なる思考実験に過ぎない。ささやかな愛を込めてそう述べておく。

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悩みすぎてもいけない

2019年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
(千葉雅也「動きすぎてはいけないーーージル・ドゥルーズと節約」」『意味がない無意味・P.185~191』河出書房新社)

ということだった。というか、ずいぶん前から同意していたし今もしている。以下のように。

「生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけねばならない」(ドゥルーズ「記号と事件・P.277」河出文庫)

さらに千葉雅也が引用している部分。

「脱領土化そのものにおいて再領土化する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

というだけでは一般読者にはわかりづらいかもしれない。今あげたフレーズには「遊牧民は」という主語が付いているからだ。果たして日本国内で「遊牧民=ノマド」であることは可能だろうか。違う。「遊牧民」というと、何か、大移動でもしなければならないかのように受け取られてしまう恐れがある。そういう意味ではないとはっきりさせるために。「動きすぎずに-動く」とは、この場合、次の文章も参照しておいたほうがいいだろうと考える。

「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

次に「意味の論理学」から引用したい。その理由は、実際のスキゾフレニー(統合失調症者)を何人もよく知っており、さらに医師の臨床的立場とはまた違って、常日頃からの付き合い(社交)から見た彼ら彼女らを知っているからなのだが。「社交」について千葉はこう書いている。

「世界が複数化したポスト・トゥルースの状況においては、同じ世界=事実という儀礼へと人々を《誘い込む》ようなふるまいが必要である。何らかのごり押しではない。ある事実へのインビテーションが必要なのだ。それは、社交である。社交とは、異なる事実=世界のあいだですり合わせを行い、ひとつの儀礼をつねに未完のものとして、変化可能=可塑的なものとして構成し続けることである」(千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.34』河出書房新社)

そうだ。深い意味など何もない。「スキゾ」としての「他者」とは、世間(特にマスコミ)が言いふらしているいつもの二重に犯罪的なイメージとは随分多くのケースでかけ離れていることを言いたいがために、あえて引用した。続けよう。

「分裂症的な二つの言葉とは、大雑把な類似しかない。表面の切れ目は、深い分裂と、何の共通のものもない」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.167」河出文庫)

その通りだ。政財官界(とりわけ大手スポンサー)と癒着しきったマスコミともまた何の関係もない。

「どうすれば、表面の切れ目が深くの分裂に、表面の無-意味(ナンセンス)が深層の無-意味(ナンセンス)にならないのだろうか」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.272」河出文庫)

昨今発展めまぐるしい脳神経細胞の研究結果がはじき出しているように、「表層/深層」の二分割自体がそもそもナンセンスだというべきだろうか。しかし、分割して考えるという方法は決して無価値ではない。事実、世界中のどの諸宗教・諸哲学・諸国家においても、歴史的に「心と体」とは分けて考えるのが常識とされてきた。違反した者らは、あるいは処刑され、あるいは監禁され、あるいは近年では流行りなのかもしれないが「消去」されてしまったわけであり、その限りでは、大文字の歴史とその執行の相続権はもはや無効化している。従って、もはや「心身二元論」ではなく、千葉雅也のいうように今や「身体=形態=他者」として捉えたほうが事実に即して遥かに近いのではないだろうか。全体(社会体)を(広い意味で)「表層」として肯定すること。そして同時にそれら諸部分は並列的に、極微な差異を互いに差異づけ合いつつ変容=変態していると。でないと失敗ばかり繰り返しているわりには大手を振って歩いている怪人物らのいいように世論を方向付けられてしまってはたまったものではないからだ。「自称-科学」は「自称-科学」でしかない。ゆえに、そういう事実をもっと動員して語ってもよかったかも知れないと思われる。

「現在の根底的な混乱、言いかえるなら、一切の測度を転倒して転覆する根底、現在から離れる深層の狂気-生成があるのではないだろうか」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.285」河出文庫)

ある。端的にそう言える。例えば、フィッツジェラルド、アルトー、熊楠、バロウズ、ーーーその他。

また千葉雅也は次の部分に言及している。

「すべてのひとが知っていることがらをうまく知ることができず、すべてのひとが承認しているとみなされていることがらを遠慮がちに否定する者が、たとえ一人だけであっても、しかるべき慎ましさをもって存在しているのである。代表=再現前されるがままにはならず、どのようなものであれそれを代表=再現前化することもない者が存在している。良き意志〔やる気〕と自然的な思考をそなえたひとりの個別的な者ではなく、自然においても概念においてもうまく思考することができない、悪しき意志〔やる気のなさ〕に満ちた、ひとりの特異な者が存在している。ひとり彼のみが、前提なき者である。彼のみが、現実的に開始するのであり、現実的に反復するのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.349」河出文庫)

千葉はこう述べる。簡潔でいい。

「その不動性=受動性は、思考すべき『問題』との出会いをもたらす生産的な『やる気のなさ』とも呼ばれていた」(千葉雅也「動きすぎてはいけないーーージル・ドゥルーズと節約」『意味がない無意味・P.186~187』河出書房新社)

さらに「非人称化へと向かう」とあるが。

「固有名というものは、一個人を指示するのではない。ーーー個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も苛酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである。固有名とは、一つの多様体の瞬間的な把握である。固有名とは、一個の強度の場においてそのようなものとして理解(包摂)された純粋な不定法の主体なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.88」河出文庫)

ここでありありと想起されることがある。《KAPITAL》=〔首都〕=「資本」としての「東京という名」の《速度》だ。いいのだろうか。早くも完全な欺瞞と化したとしか見えていない「ダイバーシティ」。問題の「両義性」はまさしくその地点で問われているのだと。

ところで、「認知症的歴史哲学」について再び。歴史哲学が不真面目だとは思えない。認知症もまた不真面目ではいられない。そしてまた両者ともに多様だ。こうも言える。歴史哲学は徹底的に真面目だ。認知症もまた徹底的に深刻である。そしてまた両者ともに多様であることに変わりはない。そういう位置付けがもしリアルにできるようになったとすれば、「認知症的歴史哲学」は認知されるだろうと思う。特に歴史哲学は世界のどこでいつ何(出来事/欠如/横行/倒錯/勃起/逃走/睡眠/内密/カフカ/猫)が起こっているか、それらが一体どのように接続されまた切断されてを繰り返しているかーーードゥルーズのいう「離接的総合」ーーー(あるいは「解離を孕んだ総合」)について、誰がわかっていると言明できるのか。実にさっぱりわからないとしか言いようがないし考えようもない。その意味で多層的歴史哲学の接続/切断の高速反復を哲学することと常に変身的=認知症的であることとは極めて近似的だと考えられるのではないだろうか。笑うしかないことが何度もある点も含めて両者はとても似ている。一読者としては何ら問題ないと思っているのだが。

先に引用しておいた部分。

「分裂症的な二つの言葉とは、大雑把な類似しかない。表面の切れ目は、深い分裂と、何の共通のものもない」

マルクスから引こう。

「議会の党がその二大分派に分解したばかりか、さらにその二つの分派のそれぞれの内部が分解したばかりか、議会内の秩序党は議会《外》の秩序党と仲たがいした。ブルジョアジーの代弁者や文士、彼らの演壇や新聞、要するにブルジョアジーのイデオローグとブルジョアジーそのもの、代表者と代表される者とは、たがいに疎隔し、もはやたがいに理解しえないようになった」(マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日・P.122」国民文庫)

「代表者と代表される者とは、たがいに疎隔し、もはやたがいに理解しえないようになった」、とあるように、「代表するもの」《と》「代表されるもの」とは差し当たり「何の共通のものもない」。両者の繋がりは恣意的でしかない。だからせめて選挙に行って投票するだけでもすればいいとは思うわけだ。大声など必要ない。資金過剰は自意識過剰と同じほど珍妙に見える。

さて、デリダから。「法/暴力/約束」について。

「すなわち、法/権利の基礎づけをなすもしくは《法/権利の定立をなす》暴力それ自体が、《法/権利を維持する》暴力を包み込まねばならず、またそれとたもとを分かつことができないのだ。法/権利を基礎づける暴力は自己の繰り返しを要求するということ、それが基礎づけるものとはそもそも、維持すべきもの、維持することのできるはずのもの、遺産や伝統になることを約束され、分割されることを約束されるべきものであるということ、これらは、法/権利を基礎づける暴力の構造から出てくるものだ。基礎づけとは、約束である」(デリダ「法の力・P.119」法政大学出版局)

「約束あるいは《契約》」に関し、マルクスはいう。

「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫)

デリダによれば、「これらは、法/権利を基礎づける暴力の構造から出てくる」。そして「基礎づけ」とは「約束である」と。要するに、「法/権利」《と》「暴力の構造」との「あいだ」を繋いでいるのは「約束あるいは《契約》」だということにならざるを得ない。しかし「労働者=消費者」は「約束あるいは《契約》」という暴力装置の下でのみ生きていきその下でのみ教育され得ることが許されているに過ぎない。

なるほど「神は死んだ」(ニーチェ)。にもかかわらず「神の死」の供犠の後にも先にも、ほくそ笑みつつ何度でも、国家は暴力としてせわしなくたちどころに更新される。相変わらず「雨漏り」してはいても(修繕可能)、思いもよらぬ「余白」(そこがポイント)を設けつつ、両義的な投機(賭け=しかし何をいかに?)として、エコノミー(経済的)且つグローバル(多国籍的)な諸環の部分として。さてしかし、ーーー国家もまた生成変化の一変種としては《可憐》にも、というべきだろうか。

なお、ヘーゲルに今なお残されている「ポテンシャル」という見解について。次に上げるセンテンスはアメリカの、ほかならぬトランプ大統領の言動について妥当するかと思う。トランプ・リスクを「理解/回避」するために。現役のハーバード、ケンブリッジ、エコール・ノルマル、北京、ソウル、東大、京大生ーーーであるかのように〔=「人目を引かずにいるというのは容易ならざることだ。アパートの管理人や隣人からも気づかれずに」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.249~250」河出文庫)〕ーーー若年層であるにもかかわらず、あるいは若年層ゆえに(しかしもちろん中高年は是非)、読解可能かと。

「『こころの法則と自負の狂気』

必然性が、自己意識において、真に何物であるかということは、自己意識のこの新しい形態が意識している。この形態においては、自己意識は自己自身にとって必然的なものである。自己意識は、一般者ないし法則を、《直接》〔無媒介に〕自己のうちにもっていると心得ており、この法則は、意識の自覚存在〔自独存在、対自存在〕のうちに、《直接》〔無媒介に〕存在しているという規定をもっているゆえ、《こころの法則》と呼ばれる。この形態は、前節に述べた形態のように、《自分だけで》の〔対自的、自覚的〕《個別性》という形で実在であるけれども、この《自独存在》〔自覚存在、対自存在〕が、必然的であり、一般的であると見られている規定のため、それだけで前の場合より豊かになっている。

こうして、直接自己意識自身のものであるような法則が、言いかえれば、こころでありながらも、法則を自分にもっているものが、自己意識の実現しようとしている《目的》である。そこで考えるべきことは、自己意識の実現が、その概念に一致するかどうか、またこの実現において、自己意識が、この自らの法則を本質として経験するかどうか、ということである。

このこころには、一つの現実が対立している。というのは、こころのうちでは、法則は、やっと《自分だけ》〔対自的、自覚的、自独的〕のものとなっただけであって、まだ実現されてはいないし、したがって、同時に、概念とは《別の》ものであるからである。このため、この他者は、実現さるべきものに対立するものであり、したがって、《法則と個別性の矛盾》であるところの現実として、規定される。だから、この現実は、一方では、個別の個〔人〕性が抑圧される法則であり、こころの法則に矛盾する世間という、暴力的な秩序である。が他方では、この秩序のもとに悩んでいる人間である。そのとき人間は、こころの法則に従っているのではなく、見知らぬ必然性に従属しているのである。ーーーすでに明らかなように、意識の現在の形態に、《対立して》いるように見えるこの現実は、個〔人〕性とその真実態が、分裂しているという前節の関係に、すなわち個〔人〕性を抑圧している残酷な必然性の関係に、ほかならない。だから、《われわれから見れば》、前の運動は、この新しい形態とよき対照をなしていることになる。というのも、この新しい形態は、自体的には前の運動から発したものであり、新しい形態を由来させる契機は、この形態から見れば、当然のことだからである。けれどもこの契機は、この形態にとっては、《見つけられたもの》という形で現われる。というのは、この形態は、自分の由来した《根源》については、何も意識をもっていないし、この形態が本質だと思っているのは、むしろ《自分自身だけで》〔対自的、自覚的、自独的〕あること、言いかえれば、肯定的自体に対する否定であるからである。

だから、こころの法則に矛盾するこの必然性を、また、この必然性のために現に起っている悩みを、廃棄すること、これがこの場合の個〔人〕性の目指していることである。したがって、この個〔人〕性は、個別的な快を求めている前の形態のように、軽率な態度をもはやとるものではなく、まじめな態度で、高い目的を求めるのである。そのまじめな態度は、個〔人〕性自身の《すぐれた》本質をのべることに、また《人類の幸福》〔シラー『群盗』の主人公カール・モールの言参照〕をつくり出すことに、自らの快を求めている。個〔人〕性が実現するものは、法則ですらあり、したがってその快は、同時に、すべてのこころがあまねく感ずる快である。快と法則は、この個〔人〕性にとっては、《分離》したものでは《ない》。その快は法則にかなっている。あまねく人類の法則を実現することは、個〔人〕性の個別的な快を準備することである。なぜならば、個〔人〕性の内部では、個〔人〕性と必然は《そのまま》一つであり、法則とは、こころの法則のことであるからである。個〔人〕性はまだ自分の立場を脱していないし、個〔人〕性と必然性を媒介する運動によって、さらにまた訓練によって、両者の統一が成しとげられるのでもない。直接的で《不作法な》〔訓練を受けていない〕本質を実現することが、あるすぐれたことをのべることだ、と考えられ、人類の幸福をもたらすことだ、と考えられているのである。

ところが、こころの法則に対立するような法則は、こころから分離しており、自分だけで自由である。この法則に従う人類は、法則とこころとの幸福な統一のうちに、生きているのではなく、おぞましい分裂と悩みのうちに生きているか、もしくは、法則に《従う》ときには、少なくとも《自己自身》のよろこびを欠き、そして、この法則に《背く》ときには、自己がすぐれたものだという意識をもてずに生きているのである。そういう暴力的な神的秩序や人間的秩序は、こころとは離れたものであるから〔『群盗』〕、こころからみれば一つの《仮象》であり、その法則になおまだくっついているもの、つまり暴力と現実とは、当然消さるべきものである。なるほど秩序がその《内容》の点で、たまたまこころの法則と一致することは、あるかもしれない。その場合には、こころがその秩序を認めるかもしれない。だが、こころにとって本質的なものは、純粋にそのままで、合法的なものなのではなく、こころがそこで、《自己自身》を意識することであり、そこで、《自ら》満足したつもりでいるということである。だが、一般的必然性の内容は、こころと一致しないときには、その内容から言っても、それ自体何物でもなく、こころの法則に、席を譲らねばならないことになる。

そういうわけで、個人はこころの法則を《遂行》する。つまり、こころが《一般的秩序》となり、快が、一つの絶対的に合法的な現実となる。だが、こうして実現されるとき、実際には、こころのこの法則は、個人から逃げ去ってしまっており、それはそのまま、本来ならば、廃棄さるべきであったような、当の関係になっているにすぎない。こころの法則は、実現されるというまさにそのことによって、《こころ》の法則であることを止める。なぜならば、そのとき法則は、《存在》という形式をとり、そこで《一般的な》威力にはなる、が、この威力に対し、《この》こころは無関心であるため、個人は、《自分自身の》秩序を《かかげ》ながらも、もはや、それが自分のものであることに、気づかないからである。それゆえ自己の法則を実現することによって個人は、《自らの》法則をもたらすのではない。秩序は、自体的には、個人自身のものであるけれども、自覚的には、個人に縁なきものであるため、そこに起ってくることは、現実の秩序のなかにまきこまれること、しかも自分にとって縁なきものであるだけでなく、敵対的でもある、圧倒的威力でさえあるような秩序のなかに、まきこまれることにほかならない。ーーー個人は、自ら行なうことによって、存在する現実という一般的な場〔境位〕の《なか》に入る、あるいはむしろ、一般的場〔境位〕《として》自らを立てる、そこで個人の行為の結果は、それ自身、個人の気持からすれば、一般的秩序という価値をもっているはずである。だがこのために、個人は自分を自分自身から《解放》してしまったことになり、自分で一般性として成長し、個別性からは純化される。個人は、一般性を、自分の直接的な自独存在〔対自存在、自覚存在〕という形でしか、認めようとしない。だからこの個人は、一般性が自分の行為であるため、同時に自分が一般性のものであるのに、この個人から放たれた一般性のうちに、自分を認めはしない。それゆえ個人の行為は、一般的秩序に《矛盾する》という、逆の意味をもっている。というのは、個人の行為の結果は、《自らの》個別的なこころの行為の結果であるはずであって、個に関わりのない、一般的な現実であるはずではないからである。しかもそれと同時に、行為は実際には現実を《承認》してしまってもいる。なぜなら、行為は、自らの本質を、《自由な現実》として立てるという意味をもっている、すなわち、現実を自らの本質として承認するという意味を、もっているからである。

個人は、自らを帰属させた現実の一般性が、自分に背くという在り方を、自らの行為という概念によって、一層詳しく規定したことになる。個人の行為の結果は、《現実》としては、一般者のものであるけれども、その内容から言えば、個人自身の個別性であり、この個別性は、一般者に対立したこの《個々の》個別性として、自らを保とうとしている。いま問題となっているのは、ある一定の法則をかかげることではない。そうではなく、個々のこころと一般性とが、そのままで一つになることは、高まって法則となり、妥当すべきことであるという、思想なのである。つまり、法則であるもののうちに、《各々のこころ》が《自己》自身を認めねばならない、という思想なのである。とはいえ、この個人のこころだけが、その現実を自らの行為の結果のうちに、立てたのであるから、その行為の結果は、個人からみれば、《自分の自独存在》〔対自存在、自覚存在、自立存在〕、つまり《自分の快》なのである。この行為は、そのままで一般者として通用すべきだという。すなわち、ほんとうのことを言えば、行為の結果は特殊なものであり、ただ一般性という形式をもっているにすぎない。つまり、その《特殊な》内容が、《そのままで》一般的なものと認めらるべきである、というのである。だから、この内容のうちに、他人たちは、自分たちのこころの法則を見つけはしない。むしろ、自分たちとは《別の人の》こころが、実現されていることに気がつく。法則であるもののなかに、各人は自分のこころを見つけるべきである、という一般的法則に従って、他人たちは、その《個人》のかかげた現実を、自分たちのものとは逆であると言い、また個人は、他人の現実を、自分のとは逆だと言うのである。だから個人は、初めは、固定した法則だけが、自分のすぐれた意図に反対のもので、いとうべきものだと気がついたのだが、いまとなっては、人間どもの諸々のこころそのものがそうなのだと、気がついたのである〔『群盗』〕。

これまでのべた意識は、一般性がまだやっと《直接的》なものであり、必然性が《こころ》の必然性であると、知っているにすぎない。そのためこの意識は、そういうものの実現と効果の本性を知っていない。つまり、一般性や必然性が《存在者》であって、その真の姿はむしろ《自体的一般者》であり、そこでは、一般性や必然性に信頼を置いている個別的意識が、《この》直接的な《個別性》で《ある》ためには、むしろ亡びるものだということを、この意識は知っていない。この意識が直接的個別性という存在のなかで手に入れるのは、この《自らの存在》ではなくて、《自己自身》の疎外なのである。だが、意識に自分を認めさせないのは、もはや死んだ必然性ではなく、一般的個人性によって命を与えられた必然性である。意識は、神の秩序と人間の秩序を、妥当なものではあるが、一つの死んだ現実と考えた。意識は自分だけで〔対自的に〕存在し、一般者には対立するこころとして、自分を固定させるのであるが、いま言った現実にあっては、この意識自身も、この現実のものである人々も、ともに自分自身の意識をもっていなかったのである。だがいま意識は、この秩序がむしろ万人の意識によって命を与えられており、万人のこころの法則であることに気がつく。意識は、現実が命のある秩序であることを、経験すると同時に実際には、意識が自分のこころの法則を実現することによってこそ、そうなるのだと経験する。なぜならば、このことは、個〔人性〕が、一般者として、自分の対象となりながらも、そのとき自分を認識しない、ということにほかならないからである。

こうして、自己意識のこの形態に、その経験の結果、真理として生まれるものは、この形態が、《自覚的》にそうあるものとは、《矛盾》している。だが、この形態が自覚的にそうあるものは、それ自身、この形態からみれば、絶対的普遍性という形式をもっており、それは、《自己意識》と無媒介〔直接的に、そのまま〕に一つであるこころの法則である。それと同時に、存立し生きている秩序は、やはり自己意識《自身の本質》であり、仕事である。自己意識の生み出すものは、この秩序にほかならない。だから、秩序もやはり、自己意識と無媒介に統一されている。こういうわけで自己意識は、二重の対立した実在に帰属するため、自己自身で矛盾しており、最も内面的なところで、混乱に陥っている。《この》こころの法則は、自己意識に自分自身を認識させるものにほかならない。だが、一般的な妥当する秩序は、例の法則を実現した結果、自己意識にとっては自分自身の《本質》となり、自分自身の《現実》となったのである。だから、己れの意識のうちでは矛盾しているものも、ともに、自己意識にとっての〔自覚的な〕本質であり、己れ自身の現実であるという、形式をとった姿であることになる。

自己意識は、自分の意識的な没落というこの契機を語り、そこに、自らの経験の結果があることを語る。そのとき自己意識は、自らが自己自身の内的転倒であり、意識の狂乱であることを表わす。この意識にとっては、その本質はそのまま非本質であり、その現実はそのまま非現実である。ーーー狂気と言ったが、それは次のように考えられてはならない。つまり、一般的に言って、本質のないものが本質的だと考えられ、現実的でないものが現実だと考えられ、その結果、ある人にとっては、本質的または現実的であるものが、他人にとっては、そうではないとか、現実の意識と非現実の意識、本質と非本質の意識が、ばらばらになってしまうとか、いうふうであってはならない。ーーーつまり、あることが実際に意識一般にとっては、現実的であり、本質的であるが、私にとってはそうではないとすれば、私は、自ら意識一般なのであるから、そのことの空しさを意識すると同時に、それが現実であることをも意識している。ーーーしかも両者がともに固定しているとすれば、これは、一般に狂気と言われるような統一である。しかし、この狂気において狂っているのは、意識にとっての一つの《対象》だけであって、それ自身における、またそれ自身としての、意識そのものではない。だが、ここに起ってきた経験の結果から言えば、意識は、自らの法則のうちに、この現実的なものとしての《自己自身》を、意識していることになる。そして同時に、意識にとっては、この同じ本質、この現実こそは、《疎外された》ものなのであるから、意識は、自己意識として、絶対的な現実として、自己の非現実を意識している。言いかえれば、両側面は、その矛盾によって、そのままに《意識の本質》と見られることになり、したがってこの本質は、その最も深いところで狂っていることになる。

だから人類の福祉を願って脈うつこころは、狂った自負の狂暴へと、自己の破滅に逆らって、身を保とうとする意識の狂熱へと移って行く。そうなるのは、意識が自分自身の姿である転倒を、自分の外に投げ出して、この転倒をどこまでも自分とは別のものと見なし、言い張るためである。だから、一般的秩序は、こころとこころの幸福との法則を、転倒させるものであるが、それは、狂信的な僧侶や飽食した暴君や、この両方から受けた屈辱を、自分より下のものを辱(はずか)しめ抑圧することによって、つぐなっている両者の僕やなどによって、捏造されたものであり、いつわられた人類の、名づけようもない不幸のために、使われたものであると、意識は言明する。ーーー意識は、このような狂乱状態にいながら、《個人》性がこの狂いをひき起し、転倒しているのだと、言明はするものの、その個人性は《他人》のものであり、《偶然》であるとするのである。しかし、こころ、言いかえれば、《そのままで一般的であろうとする、意識の個別状態》は、このように、狂いをひき起し転倒したものそのものであり、その行為が生み出すものは、この矛盾が《自分の》意識になるということにほかならないのである。なぜならば、このこころにとって真実であるものは、こころの法則であり、ーーーこの法則は、ただ《思いこまれた》だけのものであるが、これは存立している秩序のように、日の光に堪えたものではなく、日の光に出会うときには、むしろ亡びるものだからである。こころのこの法則は、《現実》となるはずであった。この点から言えば、こころにとって法則は、《現実》であり、《妥当する秩序》であるため、同時に目的であり本質である。だがこころにとっては、《現実》すなわち、ほかならぬ《妥当する秩序》としての法則は、むしろそのまま空しいものである。ーーーこれと同じように、こころ《自身の》現実は、つまり意識の個別態である《こころ自身》が、こころにとって本質である。けれども、この個別態を《存在する》ものとして立てることが、こころの目的である。だから、こころにとっては、直接的には、むしろ個別的ならぬものであるこころの自己が、本質である、つまり目的であることになる。が、それは法則として、まさにこの点で、こころがその意識自身に対してあるような一般性としてのことである。ーーーこのようなこころの概念は、自らの行為によって一つの対象となる。こころは己れの自己を、むしろ非現実的なものとして経験する、そして、非現実を、自らの現実として経験する。だから、偶然の見知らぬ個人性がではなく、まさにこのこころこそが、あらゆる側面から、自らのうちで転倒したものであり、転倒して行くものである」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.416~426」平凡社ライブラリー)

一部に「人類の福祉を願って」とある。今やもっと簡略に考えて「トランプ・ファミリーのための独占を願って」と置き換えて「読む」ことは、この現実的世界を全的破滅から死守するための「わだつみのこえ」にほかならない。

だからといって何も英語を否定するわけではなく逆に公用語としては英語を選択すべきであろう。英語は他のヨーロッパ諸国の言語には見られない利便性を持っているからだ。まず英語の特徴はヨーロッパ諸国の他の言語と比較して「ジェンダー」が欠落していること。男性名詞とか女性名詞とかいった過去の亡霊の法的秩序による文法的変換をいちいち必要としない効率的な点で驚くべき「進歩性」を示している。英語を公用語として使用することがかえって他の、他者の言語(日本語・中国語・ハングル・フランス語・ドイツ語ーーーその他の諸々の地域言語)の地域性を逆にこれまで以上に特徴付けるとともに保存するという効用が期待される。その意味で英語は、ヨーロッパ伝来の古典的言語が何度も繰り返し使い古されてあちこち摩滅した「貨幣」のようなものだ。こうも言える。

「真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚である。それは、使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである。それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)

BGM