規則/文法がそれほど明確に無意識化されていない場面を考えてみよう。
「道具箱の中に入っているいろいろな道具について考えよ。そこには、ハンマー、やっとこ、のこぎり、ねじまわし、ものさし、にかわつば、にかわ、くぎ、ねじがある。ーーーこれらのものの機能がさまざまであるように、語の機能もさまざまである(しかも、類似点があちこちにある)。もちろん、われわれを混乱させるのは、いろいろな語が話されたり、文書や印刷物の中で現われたりするとき、それらの姿が同じであるように見える、ということである。なぜなら、それらの《適用例》が、われわれにとってそれほど明らかでないからである。とりわけ、われわれが哲学しているときにそうなのだ!」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一一」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.22~23』大修館書店)
哲学しているとき「に」とりわけ「そうなのだ」。それまで自明とされていた規則/文法の、実体的不明確性が露わになってくる。それは常に流動するものだからだ。長引く沈黙。ふいに襲ってくる不安。言語と、特にその文法の樹立とによって明らかとされていたはずの因果関連の不在。あらゆる事物には必然的な繋がりなど何らないということ。人間は無意識的に打ち込まれた規則/文法によって拘束されている限りでのみ、平気のへいさで喜怒哀楽することが許されているに過ぎない。むしろ、そこにあるのは偶然適用された上で事後的に習慣・習得・習熟・熟達によって身に付けるにおよんだ形ばかりだということ。すなわち規則も文法もともに始めから偶然性のただ中を流れ浮遊する極めて不安定な形骸でしかないという事実を目の前にして驚くほかないということ。様々な破片の中から一つの形骸にすがりついた。そしてやっとのことで人類はともかくコミュニケーションすることができるような動物になった。とはいえ、コミュニケーションはあくまで不完全だ。完全なコミュニケーションなどどこをどう探しても見当たらない。そしてコミュニケーションはいつもどこかで不完全なコミュニケーションだからこそ成立するのだ。もし仮に完全なコミュニケーションがあったとしよう。その時点で言語は姿を消す。必要なくなるからだ。その瞬間、自=他のあいだに横たわっていた境界線はとろとろに融けて困惑させると同時に笑うべき曖昧さを呈する。自=他の区別が消滅し様々なレベルで両者の融合=交合すなわち不断の自己破壊と永劫回帰が出現する。人間と人間との単なるセックスなどその極くわずかな一部の現象にすぎない、ということが如実にわかる。コミュニケーションするときに言語が必要となるのは、コミュニケーションという行為はいつも何らかの不完全性に取り憑かれているからにほかならない。では、言語を媒介としてのみコミュニケーションは可能なのだろうか。そうではない。必ずしもそうとは限らないからこそ、言語を媒介としない直接的相関とその諸状態について、前々回はラブクラフト、前回はヘンリー・ミラーという実例を上げて述べたわけだ。
しかし問題はまだその端緒についたばかりだと言うべきなのかもしれない。生成変化についてドゥルーズがこんなふうに述べている箇所がある。
「すべてのプロセスは生成変化であり、生成変化にたいする評価は、生成変化を終わらせる結果ではなく、現に生成変化が進行しているとき、その質はどうか、生成変化が示す継続の力能はどれほどのものか、ということによって決まってくる。たとえば、動物への生成変化や、非=主体的個体化がそうです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.296」河出文庫)
「非=主体的個体化」とは何のことだろうか。「非人称化された不定法の主体」のことだ。しかし「主体」なのになぜ「非人称化」されねばならずなおかつ「不定法」なのか。リゾームとしての脳神経細胞組織のことを考えてみよう。例えば、誰でも名称だけは知っている「アドレナリン」。一般的な名称としてはなるほど「アドレナリン」と呼ばれている。だが、名前ではなく、実際のアドレナリンは一個の「主体」なのだろうか。むしろ一種の「流れ」なのではないだろうか。ここでアドレナリンの化学構造式を書くことはできる。けれども、化学式へと構造化され、書き付けられてしまったアドレナリンはもはや死体としてのそれでしかない。いうまでもなく、生きて動いている《なま》のアドレナリンそのものを現行犯で捕えることは不可能だ。捕えるとすれば言語で捕えるほかない。「《なま》のアドレナリン」は常に脳細胞全体とリンクしている。身体としても同時に連動している。さらに身体は思考にとって《外部》としてしか想定できない。なおかつ、身体は、それに取り巻かれそれを取り巻く周囲の環界と切り離しては何一つ受動的に反応することができないし能動的に働きかけることもできない。ということは、しかし、損得の次元を越えたところの問題であって、化学構造式へと変換された《アドレナリンという名の死体》を通して、人々は、アドレナリンについて少しづつ慎重に学び取っていくのだ。ドーパミン→ノルアドレナリン→アドレナリンという一連の変態過程あるいはプロセスとして。
ところで、「主体」という言葉には常に危険が付きまとっていることも事実だ。歴史は、いわゆる「主体」を特定の規律の下でのみ徹底化させることで出現したおぞましい過去を持っている。ナチズム、スターリニズム、文化大革命ーーー。「非=主体的」にせよ「非=意味的」にせよ、そのような過去(二〇世紀の大惨事)への反省から生まれてきた概念だという側面を否定するわけにはいかない。消去しようのない暗い歴史を持つのだ。今の日本では文系/理系/体育会系、などと没意味な分類が横行しているが、便宜上の使用の枠外に出るわけにはいかないのもそういう部分が隠されているからだ。なぜなら、「主体的であれ」と命じない分野がどこにあるだろうか、という問いは世紀をまたいで世界を圧倒して止まないからである。
さて、変身=分身の世界へ。
「われとわが身を責めることには一種の悦楽がある。人間が自己非難するとき、自分以外のだれも自分を責める権利がないと感じる。人間の罪状を消滅してくれるものは、牧師ではなく、告白なのだ」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.190」新潮文庫)
注意しなくてはならないだろう。始めから「罪状」などありはしない。まず最初に「告白」があり、その「告白」が、ありもしない「罪状」を生産すると同時に並行して「消滅」していくかのような「罪状」を眺める「悦楽」がある、と考えなければならない。この場合、言語が罪状を生むのであり、同時に同じ言語が罪状を消すのだ。この出現と消滅。言語の出し入れの反復。置き換えと生産と破壊。そこでは行為=悦楽が成立する。
「きみはぼくに言ったじゃないかーーーシビル・ヴェインは自分にとって、ありとあらゆるロマンスのヒロインだ、ある晩にはデズデモーナだったかおもえば、つぎの夜にはオフィーリアであり、ジュリエットとして死んだかと見れば、イモージュンとなって甦(よみがえ)る、とね」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.204」新潮文庫)
端的な変身が語られていると見ておこう。次のセンテンスは現実とは何かを考えさせられて面白い。笑える。しかしドリアンは極めて真剣だ。
「ドリアンは顔を顰(しか)め、新聞をふたつに引き裂くと、部屋を横切って行ってそれを投げ棄(す)てた。まったく醜悪だ!そして、醜悪さのために、ものごとがじつに怖(おそ)るべき現実味を帯びるではないか!」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.245」新潮文庫)
新聞に印刷された文字。文字はいつも中性的だ。にもかかわらず、一体どこでどのようにして「現実味を帯びる」のか。マスコミとその大手スポンサーはよくわかっているだろうと思われる。
ところで、D.H.ロレンスは性的なものに原始性を垣間見ることのできる達人だった。近現代人は、ロレンスのような達人に倣って近代をやり直すとともに、変身=分身の醍醐味を学ばねばならないのかも知れない。
「岩山の端まで歩き続け、そこから下の陸地を眺めた。何キロも続く、波形の海岸線。時には幅一キロにもなる平たい海岸地帯は、見渡す限り、バンガローの薄灰色のトタン屋根また屋根。まるで木の繊維組織の遊離細胞の結晶体のようだ。暗い木々。散財する一戸建の玩具のような家は日本の風景を彷彿とさせる。それから海岸の入江、石炭を積み出す桟橋、ずっと向うの海岸の岩、そして砕ける白波の長い線。
しかし、サマーズの目は真下の岩の斜面のこんもりとした葉叢(はむら)に大方は注がれていた。木生シダの密生する暗緑色の大きな渦巻状の中心部に、それからキャベッシュロの毛むくじゃらのてっぺんに。長く垂れ下ったシダがじめじめした花をつけて、黄色っぽく見えるところがある。次はユーカリの群生だーーー有史以前の世界!石炭紀の世界。石炭紀以来ひたすら待ち続けてきたまったくの孤独の世界。昔ながらの平坦なてっぺんをした木生シダ、モップそっくりのくしゃくしゃのシュロ。ここでは神経を尖がらした意識的な人間でいようと思っても無理だ。不可能だ。ふわふわと漂い流れる、朦朧(もうろう)とした世界、名づけられない過去へと帰っていく。この国と同じほど古い、太古の世界へ。不思議な太古の感情が魂の中で目覚める。人間の与(あずか)り知らぬ感情。麻痺にも似た太古の無関心が精神に侵入する。昔のトカゲ類さながらの麻痺。どちらが勝つか?陸地に家が点在している。まるでグラニュー糖をばら撒いたみたいだ。満潮の薄青い海に汽船が浮かび、黒い煙を吐いている。物憂げな木々の間に炭坑からの白い蒸気がかかっている。この大陸は目を覚ましているのだろうか。ここの人たちはこの太古の陸地を目覚めさせることがあるのだろうか。それともこの大陸が人を眠りに誘い、黄昏の世界の半意識の中に連れ戻すのだろうか。
サマーズは自分も麻痺したかのように感じて、手摺りにもたれたまま下を見ていた。が関心はなかった。どれだけぼんやりと、関心を持たずにいられたことか。目は見開いているが、闇に沈む麻痺した魂がかかずらうことは何もなかった。ハリエットも、カンガルーも、ジャズも、世界でさえも。この世界も回り舞台だ、世界でさえも。太古のシダの世界の影響力が男を包むとき、どうして他の世界に関心を向けられよう。シダの種子を心に吸い込んで、過去へと漂い流れる。ぼんやりと、半ば植物になったようだ。心にひっかかるものは何もない。決してまどろむことのない性の衝動でさえも、もっと暗く、もっと単調な、無関心なものに沈んでいく。植物の性(セックス)のように。意識的な義務感が生まれる前の暗い世界」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.254~255」彩流社)
ふわふわ、朦朧、無関心、「砕ける白波の長い線」。白波は「砕ける」=「自己破壊する」のだが、同時に、「線」状でもある。どちらなのだろうか。どちらでもないのか。実は、どちらでもありつつーーー。おそらくそうだ。侵入、麻痺、植物の性(セックス)。そして「意識的な義務感が生まれる前の暗い世界」。この「世界」は、では、無意識なのか。外部なのかそれとも内部なのか。不分明だ。分かち難い。しかし次のように述べることは可能であり、おそらく現実だろう。深淵を覗き込もうとするドゥルーズ。あらかじめ与えられたものは、同一性ではない。あるいは無でもない。原初に差異があった。というより、蠕動する「譫妄」(せんもう)状態があった。
「差異は、所与そのものではなく、所与がそれによって与えられる当のものである。思考は、差異にまで進むことを、どうして回避できようか。思考は、このうえなく思考に対立しているものを、どうして思考せずに済ませることができようか。というのも、わたしたちは、同一なものに関しては、なるほど全力を傾けて思考しはするのだが、きわめてささやかな思考〔思想〕すら得ることができないからである。反対に、わたしたちは、異なるもののなかで、もっとも高度な、しかし〔経験的には〕思考されえぬ〔思いも寄らぬ〕思考を、獲得するのではなかろうか。《異なる》もののこうした抗議は、十分に意味のあることだ。たとえ、差異が、それ自体消え去ってゆくようにして、そしておのれが創造する雑多なものを一様化してゆくようにして、その雑多なもののなかへ割りふられるといった傾向があるにせよ、差異は、感覚されるべき雑多なものを与えてくれるものとして、まずはじめに感覚されなければならない。しかも差異は、雑多なものを創造するものとして、思考されなければならないのである。(わたしたちが諸能力の共通の働き〔共通感覚〕に立ち戻っているからではなく、かえって、バラバラになった諸能力が互いに拘束し合うような暴力的関係に入っているからである)。譫妄(デリール)が、良識の根底にあり、だからこそ良識は、いつでも二番手のものなのである。思考は、差異を思考せざるをえない。すなわち、絶対に思考とは異なるものでありながらも、思考する機会を提供し、思考にひとつの思考〔思想〕を与える差異、これを思考は思考せざるをえないのである」(ドゥルーズ「差異と反復・下・P.156~157」河出文庫)
というところを押さえた上で再びロレンスへ。
「こんなふうに、精神の空白の雰囲気に楽しく浸っているジャックそのものがサマーズには奇怪な光景だった。人間なんかじゃなく偶然の成り行きに見とれている偶然の産物のようであった。こんな状態、このまさにオーストラリア的状態では、言葉などひと言も引き出せない。そうかと思うと、一旦しゃべり出せば、騒音としか言いようがなく、不気味な動物が突然声を出したのかとたまげるほどだ。無関心。根強い不思議な無関心。東洋の静観的宿命論ではなく、本当の無頓着に根ざした無関心。しかし、それは有り余ったエネルギーの深い流れを秘めていて、間欠泉のように今にも吹き出そうとしている。吹き出したら、一種の狂気、手のつけられない狂気となって心ゆくまで暴れ回り、粉々に破壊し尽さないではおかない。爆発し破壊する喜び。ジャックは爆発するだろうか。それとも静止願望がもっと根深く、シダの薄明にすっぽり包み込まれるのだろうか。変化はのろのろと進む。今日という日も、この国も問題にはならない。時は巨大であり、オーストラリアではほんの一歩退けば、もう、シダの時代だ。
町は夜の帷(とばり)が下りる頃、何とも奇妙な姿を見せる。ぽつん、ぽつんとあちこちで不揃いの電灯が灯り始め、薄暗がりの中で、舗装されていない轍(わだち)のついた広い道は昔の荒野に返った。開けっ放しのドアから、光が漏れている低いバンガローは、さながら荒野に立つ掘建小屋だ。荒野の不気味な暗がりに広がる開拓地。その時、若者たちが柔らかな道を馬に乗って、ものすごい勢いで駆けて行った。あぶみに足をかけて立ち上がり、薄茶色の競走馬にしがみついている。まるで幻のようだ。それと競うように、クリーム色の小馬に乗ったパン屋が、村を駆け抜けて行く。どこかで油を売っていたのだろう、炭坑夫が小屋で駆けて闇の中へと消えていった。まるで木馬のようにぎこちない動きだ。木綿のドレスを着た若い娘たちがバンガローの我が家の小さな木戸のところに立って、若い男たちに話しかけているーーー馬車に乗っている者、歩いている者、一日最後の行商の荷車を押す者、ぶらっと通り過ぎて行く者たちに。時は夕暮れ。刻一刻遠き国の夕闇が迫ってきて、白人の姿がまるで原住民みたいに暗闇からぼうと浮き出る。遠き国。その真っ只中にいて、その感を深くする。否その時こそ、この国は悠遠の昔に返っていくのだ。
夜は闇一色、時折り、南東の海の上空で、稲妻がほの白く光る。男ふたりがやれることはチェスしかなかったが、ジャックはゲームをやる気分ではなく、敗けてもけろりとしていた。やる気十分の時は、サマーズを煙に巻いて攻め込み、連勝して会心の笑みを浮かべるのが常だったが、気分が乗らないときは、歩(ふ)をむやみに進めては失ってしまうといった具合。だが一向に気にすることもなく、肉付きのいい体をそり返らせ背伸びするだけであった。どう見てもサマーズには人間の仕草とは思えない。ジャックは全く肉体だけの生きもののようだ。エネルギーに満ちた頑丈な肉体。蒸気は吐き出すが、停止している機械のようだ。精神も、霊も魂もなかった。張りつめて動かない肉体。目はちょっとかすみ、充血していた。魂がゆっくり崩れていく」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.258~259」彩流社)
ロレンスは書く。「人間なんかじゃなく偶然の成り行きに見とれている偶然の産物のようであった。こんな状態、このまさにオーストラリア的状態では、言葉などひと言も引き出せない」。「無関心。根強い不思議な無関心。東洋の静観的宿命論ではなく、本当の無頓着に根ざした無関心。しかし、それは有り余ったエネルギーの深い流れを秘めていて、間欠泉のように今にも吹き出そうとしている。吹き出したら、一種の狂気、手のつけられない狂気となって心ゆくまで暴れ回り、粉々に破壊し尽さないではおかない」。「変化はのろのろと進む」。「魂がゆっくり崩れていく」。長々と引用したのは、これらのフレーズに辿り着くために必要な手続きを踏んだからに過ぎない。導入として適切なのは「オーストラリアではほんの一歩退けば、もう、シダの時代」だという部分だろう。植物〔シダ類〕の性(セックス)は根底においてはリゾームとなる。そして重要なのは「狂気・粉々・流れ」だ。
「ポケットに両手を突っ込んで、あてもなくさまよいながら、心は無関心の世界へと漂っていた。心ここにあらず、遥かかなた、遥か遠くに飛んで、無関心の国にいる。世界はぐるぐる回って消えた。海に転がり落ちる石のように、過去の生活、つまり過去の意味は転がり落ち、さざ波の中に消えた。後はだだっ広い空漠感、太平洋、オーストラリアの海岸。遥かかなた、まるで他の惑星にいるような、死後の世界に足を踏み入れたような気がする。思い煩う肉体を後に残して。欲望にうずく肉体。それすら消え去った。自分にとってあんなにも意味があった一切が。関心のあった自己と古い世界、苦しいことも楽しいことも、死者から去っていくように消えた。風景だって?ーーー風景などまるで関心がなくなった。愛?ーーー大恩赦によって愛から放免されたみたいだ。人類愛?ーーーそんなものは存在しなかった。思想?ーーー海に転がり落ちる小石同然だ。偉大な輝かしい過去?ーーー海岸に打ち上げられた半透明の華奢な貝殻のように崩れ去った。海辺で考えることも、記憶を呼び戻すこともせず、オーストラリアの薄暗い岸壁の下で独り、心も魂も空っぽにして、長い海岸と広い陸地を相手にたった独りでいる。陽のあたる砂浜に漂う原始の闇と戯れ、独り夢うつつの世界に浸っている。あらゆるものの不思議な剥離感」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.470」彩流社)
無関心、心ここにあらず、無関心の国、心も魂も空っぽ、原始の闇と戯れ。またこうも。「あらゆるものの不思議な剥離感」。剥離感なら理解できる読者が少なからずいるに違いない。しかもこの場合の理解は言語を介しての理解ではなく、媒介物なしの「融け合う」、をいう。媒介物なしの「融け合う」状態で感じる「剥離感」。解離すること。うまくやらなければならない。もっとも、ニーチェによれば、人間はときどき解離しているものなのだが。ただそのことに気づいていないだけだ、と。ロレンスはこの状態を次の美しい言葉でいったん締めくくる。
「人間の息のかかったものなど微塵もない穏やかなオーストラリアの青空。文字など刻まれたことがないようなオーストラリアの幽けく白い大気。《白紙状態》」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.471」彩流社)
だが既にそのようなオーストラリアは消滅した。反復はどのように開始することができるだろうか。或る種の諦観へ傾きつつも、なお反復は加速していく。ゆっくりと、しかし確実に、大地もまた変身する。離接的総合。流れと切断とを繰り返す欲望する諸機械。
なお、「カンガルー」は一九二三年刊行。日本では大正十二年に当たる。関東大震災発生。
BGM
「道具箱の中に入っているいろいろな道具について考えよ。そこには、ハンマー、やっとこ、のこぎり、ねじまわし、ものさし、にかわつば、にかわ、くぎ、ねじがある。ーーーこれらのものの機能がさまざまであるように、語の機能もさまざまである(しかも、類似点があちこちにある)。もちろん、われわれを混乱させるのは、いろいろな語が話されたり、文書や印刷物の中で現われたりするとき、それらの姿が同じであるように見える、ということである。なぜなら、それらの《適用例》が、われわれにとってそれほど明らかでないからである。とりわけ、われわれが哲学しているときにそうなのだ!」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・一一」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.22~23』大修館書店)
哲学しているとき「に」とりわけ「そうなのだ」。それまで自明とされていた規則/文法の、実体的不明確性が露わになってくる。それは常に流動するものだからだ。長引く沈黙。ふいに襲ってくる不安。言語と、特にその文法の樹立とによって明らかとされていたはずの因果関連の不在。あらゆる事物には必然的な繋がりなど何らないということ。人間は無意識的に打ち込まれた規則/文法によって拘束されている限りでのみ、平気のへいさで喜怒哀楽することが許されているに過ぎない。むしろ、そこにあるのは偶然適用された上で事後的に習慣・習得・習熟・熟達によって身に付けるにおよんだ形ばかりだということ。すなわち規則も文法もともに始めから偶然性のただ中を流れ浮遊する極めて不安定な形骸でしかないという事実を目の前にして驚くほかないということ。様々な破片の中から一つの形骸にすがりついた。そしてやっとのことで人類はともかくコミュニケーションすることができるような動物になった。とはいえ、コミュニケーションはあくまで不完全だ。完全なコミュニケーションなどどこをどう探しても見当たらない。そしてコミュニケーションはいつもどこかで不完全なコミュニケーションだからこそ成立するのだ。もし仮に完全なコミュニケーションがあったとしよう。その時点で言語は姿を消す。必要なくなるからだ。その瞬間、自=他のあいだに横たわっていた境界線はとろとろに融けて困惑させると同時に笑うべき曖昧さを呈する。自=他の区別が消滅し様々なレベルで両者の融合=交合すなわち不断の自己破壊と永劫回帰が出現する。人間と人間との単なるセックスなどその極くわずかな一部の現象にすぎない、ということが如実にわかる。コミュニケーションするときに言語が必要となるのは、コミュニケーションという行為はいつも何らかの不完全性に取り憑かれているからにほかならない。では、言語を媒介としてのみコミュニケーションは可能なのだろうか。そうではない。必ずしもそうとは限らないからこそ、言語を媒介としない直接的相関とその諸状態について、前々回はラブクラフト、前回はヘンリー・ミラーという実例を上げて述べたわけだ。
しかし問題はまだその端緒についたばかりだと言うべきなのかもしれない。生成変化についてドゥルーズがこんなふうに述べている箇所がある。
「すべてのプロセスは生成変化であり、生成変化にたいする評価は、生成変化を終わらせる結果ではなく、現に生成変化が進行しているとき、その質はどうか、生成変化が示す継続の力能はどれほどのものか、ということによって決まってくる。たとえば、動物への生成変化や、非=主体的個体化がそうです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.296」河出文庫)
「非=主体的個体化」とは何のことだろうか。「非人称化された不定法の主体」のことだ。しかし「主体」なのになぜ「非人称化」されねばならずなおかつ「不定法」なのか。リゾームとしての脳神経細胞組織のことを考えてみよう。例えば、誰でも名称だけは知っている「アドレナリン」。一般的な名称としてはなるほど「アドレナリン」と呼ばれている。だが、名前ではなく、実際のアドレナリンは一個の「主体」なのだろうか。むしろ一種の「流れ」なのではないだろうか。ここでアドレナリンの化学構造式を書くことはできる。けれども、化学式へと構造化され、書き付けられてしまったアドレナリンはもはや死体としてのそれでしかない。いうまでもなく、生きて動いている《なま》のアドレナリンそのものを現行犯で捕えることは不可能だ。捕えるとすれば言語で捕えるほかない。「《なま》のアドレナリン」は常に脳細胞全体とリンクしている。身体としても同時に連動している。さらに身体は思考にとって《外部》としてしか想定できない。なおかつ、身体は、それに取り巻かれそれを取り巻く周囲の環界と切り離しては何一つ受動的に反応することができないし能動的に働きかけることもできない。ということは、しかし、損得の次元を越えたところの問題であって、化学構造式へと変換された《アドレナリンという名の死体》を通して、人々は、アドレナリンについて少しづつ慎重に学び取っていくのだ。ドーパミン→ノルアドレナリン→アドレナリンという一連の変態過程あるいはプロセスとして。
ところで、「主体」という言葉には常に危険が付きまとっていることも事実だ。歴史は、いわゆる「主体」を特定の規律の下でのみ徹底化させることで出現したおぞましい過去を持っている。ナチズム、スターリニズム、文化大革命ーーー。「非=主体的」にせよ「非=意味的」にせよ、そのような過去(二〇世紀の大惨事)への反省から生まれてきた概念だという側面を否定するわけにはいかない。消去しようのない暗い歴史を持つのだ。今の日本では文系/理系/体育会系、などと没意味な分類が横行しているが、便宜上の使用の枠外に出るわけにはいかないのもそういう部分が隠されているからだ。なぜなら、「主体的であれ」と命じない分野がどこにあるだろうか、という問いは世紀をまたいで世界を圧倒して止まないからである。
さて、変身=分身の世界へ。
「われとわが身を責めることには一種の悦楽がある。人間が自己非難するとき、自分以外のだれも自分を責める権利がないと感じる。人間の罪状を消滅してくれるものは、牧師ではなく、告白なのだ」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.190」新潮文庫)
注意しなくてはならないだろう。始めから「罪状」などありはしない。まず最初に「告白」があり、その「告白」が、ありもしない「罪状」を生産すると同時に並行して「消滅」していくかのような「罪状」を眺める「悦楽」がある、と考えなければならない。この場合、言語が罪状を生むのであり、同時に同じ言語が罪状を消すのだ。この出現と消滅。言語の出し入れの反復。置き換えと生産と破壊。そこでは行為=悦楽が成立する。
「きみはぼくに言ったじゃないかーーーシビル・ヴェインは自分にとって、ありとあらゆるロマンスのヒロインだ、ある晩にはデズデモーナだったかおもえば、つぎの夜にはオフィーリアであり、ジュリエットとして死んだかと見れば、イモージュンとなって甦(よみがえ)る、とね」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.204」新潮文庫)
端的な変身が語られていると見ておこう。次のセンテンスは現実とは何かを考えさせられて面白い。笑える。しかしドリアンは極めて真剣だ。
「ドリアンは顔を顰(しか)め、新聞をふたつに引き裂くと、部屋を横切って行ってそれを投げ棄(す)てた。まったく醜悪だ!そして、醜悪さのために、ものごとがじつに怖(おそ)るべき現実味を帯びるではないか!」(ワイルド「ドリアン・グレイの肖像・P.245」新潮文庫)
新聞に印刷された文字。文字はいつも中性的だ。にもかかわらず、一体どこでどのようにして「現実味を帯びる」のか。マスコミとその大手スポンサーはよくわかっているだろうと思われる。
ところで、D.H.ロレンスは性的なものに原始性を垣間見ることのできる達人だった。近現代人は、ロレンスのような達人に倣って近代をやり直すとともに、変身=分身の醍醐味を学ばねばならないのかも知れない。
「岩山の端まで歩き続け、そこから下の陸地を眺めた。何キロも続く、波形の海岸線。時には幅一キロにもなる平たい海岸地帯は、見渡す限り、バンガローの薄灰色のトタン屋根また屋根。まるで木の繊維組織の遊離細胞の結晶体のようだ。暗い木々。散財する一戸建の玩具のような家は日本の風景を彷彿とさせる。それから海岸の入江、石炭を積み出す桟橋、ずっと向うの海岸の岩、そして砕ける白波の長い線。
しかし、サマーズの目は真下の岩の斜面のこんもりとした葉叢(はむら)に大方は注がれていた。木生シダの密生する暗緑色の大きな渦巻状の中心部に、それからキャベッシュロの毛むくじゃらのてっぺんに。長く垂れ下ったシダがじめじめした花をつけて、黄色っぽく見えるところがある。次はユーカリの群生だーーー有史以前の世界!石炭紀の世界。石炭紀以来ひたすら待ち続けてきたまったくの孤独の世界。昔ながらの平坦なてっぺんをした木生シダ、モップそっくりのくしゃくしゃのシュロ。ここでは神経を尖がらした意識的な人間でいようと思っても無理だ。不可能だ。ふわふわと漂い流れる、朦朧(もうろう)とした世界、名づけられない過去へと帰っていく。この国と同じほど古い、太古の世界へ。不思議な太古の感情が魂の中で目覚める。人間の与(あずか)り知らぬ感情。麻痺にも似た太古の無関心が精神に侵入する。昔のトカゲ類さながらの麻痺。どちらが勝つか?陸地に家が点在している。まるでグラニュー糖をばら撒いたみたいだ。満潮の薄青い海に汽船が浮かび、黒い煙を吐いている。物憂げな木々の間に炭坑からの白い蒸気がかかっている。この大陸は目を覚ましているのだろうか。ここの人たちはこの太古の陸地を目覚めさせることがあるのだろうか。それともこの大陸が人を眠りに誘い、黄昏の世界の半意識の中に連れ戻すのだろうか。
サマーズは自分も麻痺したかのように感じて、手摺りにもたれたまま下を見ていた。が関心はなかった。どれだけぼんやりと、関心を持たずにいられたことか。目は見開いているが、闇に沈む麻痺した魂がかかずらうことは何もなかった。ハリエットも、カンガルーも、ジャズも、世界でさえも。この世界も回り舞台だ、世界でさえも。太古のシダの世界の影響力が男を包むとき、どうして他の世界に関心を向けられよう。シダの種子を心に吸い込んで、過去へと漂い流れる。ぼんやりと、半ば植物になったようだ。心にひっかかるものは何もない。決してまどろむことのない性の衝動でさえも、もっと暗く、もっと単調な、無関心なものに沈んでいく。植物の性(セックス)のように。意識的な義務感が生まれる前の暗い世界」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.254~255」彩流社)
ふわふわ、朦朧、無関心、「砕ける白波の長い線」。白波は「砕ける」=「自己破壊する」のだが、同時に、「線」状でもある。どちらなのだろうか。どちらでもないのか。実は、どちらでもありつつーーー。おそらくそうだ。侵入、麻痺、植物の性(セックス)。そして「意識的な義務感が生まれる前の暗い世界」。この「世界」は、では、無意識なのか。外部なのかそれとも内部なのか。不分明だ。分かち難い。しかし次のように述べることは可能であり、おそらく現実だろう。深淵を覗き込もうとするドゥルーズ。あらかじめ与えられたものは、同一性ではない。あるいは無でもない。原初に差異があった。というより、蠕動する「譫妄」(せんもう)状態があった。
「差異は、所与そのものではなく、所与がそれによって与えられる当のものである。思考は、差異にまで進むことを、どうして回避できようか。思考は、このうえなく思考に対立しているものを、どうして思考せずに済ませることができようか。というのも、わたしたちは、同一なものに関しては、なるほど全力を傾けて思考しはするのだが、きわめてささやかな思考〔思想〕すら得ることができないからである。反対に、わたしたちは、異なるもののなかで、もっとも高度な、しかし〔経験的には〕思考されえぬ〔思いも寄らぬ〕思考を、獲得するのではなかろうか。《異なる》もののこうした抗議は、十分に意味のあることだ。たとえ、差異が、それ自体消え去ってゆくようにして、そしておのれが創造する雑多なものを一様化してゆくようにして、その雑多なもののなかへ割りふられるといった傾向があるにせよ、差異は、感覚されるべき雑多なものを与えてくれるものとして、まずはじめに感覚されなければならない。しかも差異は、雑多なものを創造するものとして、思考されなければならないのである。(わたしたちが諸能力の共通の働き〔共通感覚〕に立ち戻っているからではなく、かえって、バラバラになった諸能力が互いに拘束し合うような暴力的関係に入っているからである)。譫妄(デリール)が、良識の根底にあり、だからこそ良識は、いつでも二番手のものなのである。思考は、差異を思考せざるをえない。すなわち、絶対に思考とは異なるものでありながらも、思考する機会を提供し、思考にひとつの思考〔思想〕を与える差異、これを思考は思考せざるをえないのである」(ドゥルーズ「差異と反復・下・P.156~157」河出文庫)
というところを押さえた上で再びロレンスへ。
「こんなふうに、精神の空白の雰囲気に楽しく浸っているジャックそのものがサマーズには奇怪な光景だった。人間なんかじゃなく偶然の成り行きに見とれている偶然の産物のようであった。こんな状態、このまさにオーストラリア的状態では、言葉などひと言も引き出せない。そうかと思うと、一旦しゃべり出せば、騒音としか言いようがなく、不気味な動物が突然声を出したのかとたまげるほどだ。無関心。根強い不思議な無関心。東洋の静観的宿命論ではなく、本当の無頓着に根ざした無関心。しかし、それは有り余ったエネルギーの深い流れを秘めていて、間欠泉のように今にも吹き出そうとしている。吹き出したら、一種の狂気、手のつけられない狂気となって心ゆくまで暴れ回り、粉々に破壊し尽さないではおかない。爆発し破壊する喜び。ジャックは爆発するだろうか。それとも静止願望がもっと根深く、シダの薄明にすっぽり包み込まれるのだろうか。変化はのろのろと進む。今日という日も、この国も問題にはならない。時は巨大であり、オーストラリアではほんの一歩退けば、もう、シダの時代だ。
町は夜の帷(とばり)が下りる頃、何とも奇妙な姿を見せる。ぽつん、ぽつんとあちこちで不揃いの電灯が灯り始め、薄暗がりの中で、舗装されていない轍(わだち)のついた広い道は昔の荒野に返った。開けっ放しのドアから、光が漏れている低いバンガローは、さながら荒野に立つ掘建小屋だ。荒野の不気味な暗がりに広がる開拓地。その時、若者たちが柔らかな道を馬に乗って、ものすごい勢いで駆けて行った。あぶみに足をかけて立ち上がり、薄茶色の競走馬にしがみついている。まるで幻のようだ。それと競うように、クリーム色の小馬に乗ったパン屋が、村を駆け抜けて行く。どこかで油を売っていたのだろう、炭坑夫が小屋で駆けて闇の中へと消えていった。まるで木馬のようにぎこちない動きだ。木綿のドレスを着た若い娘たちがバンガローの我が家の小さな木戸のところに立って、若い男たちに話しかけているーーー馬車に乗っている者、歩いている者、一日最後の行商の荷車を押す者、ぶらっと通り過ぎて行く者たちに。時は夕暮れ。刻一刻遠き国の夕闇が迫ってきて、白人の姿がまるで原住民みたいに暗闇からぼうと浮き出る。遠き国。その真っ只中にいて、その感を深くする。否その時こそ、この国は悠遠の昔に返っていくのだ。
夜は闇一色、時折り、南東の海の上空で、稲妻がほの白く光る。男ふたりがやれることはチェスしかなかったが、ジャックはゲームをやる気分ではなく、敗けてもけろりとしていた。やる気十分の時は、サマーズを煙に巻いて攻め込み、連勝して会心の笑みを浮かべるのが常だったが、気分が乗らないときは、歩(ふ)をむやみに進めては失ってしまうといった具合。だが一向に気にすることもなく、肉付きのいい体をそり返らせ背伸びするだけであった。どう見てもサマーズには人間の仕草とは思えない。ジャックは全く肉体だけの生きもののようだ。エネルギーに満ちた頑丈な肉体。蒸気は吐き出すが、停止している機械のようだ。精神も、霊も魂もなかった。張りつめて動かない肉体。目はちょっとかすみ、充血していた。魂がゆっくり崩れていく」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.258~259」彩流社)
ロレンスは書く。「人間なんかじゃなく偶然の成り行きに見とれている偶然の産物のようであった。こんな状態、このまさにオーストラリア的状態では、言葉などひと言も引き出せない」。「無関心。根強い不思議な無関心。東洋の静観的宿命論ではなく、本当の無頓着に根ざした無関心。しかし、それは有り余ったエネルギーの深い流れを秘めていて、間欠泉のように今にも吹き出そうとしている。吹き出したら、一種の狂気、手のつけられない狂気となって心ゆくまで暴れ回り、粉々に破壊し尽さないではおかない」。「変化はのろのろと進む」。「魂がゆっくり崩れていく」。長々と引用したのは、これらのフレーズに辿り着くために必要な手続きを踏んだからに過ぎない。導入として適切なのは「オーストラリアではほんの一歩退けば、もう、シダの時代」だという部分だろう。植物〔シダ類〕の性(セックス)は根底においてはリゾームとなる。そして重要なのは「狂気・粉々・流れ」だ。
「ポケットに両手を突っ込んで、あてもなくさまよいながら、心は無関心の世界へと漂っていた。心ここにあらず、遥かかなた、遥か遠くに飛んで、無関心の国にいる。世界はぐるぐる回って消えた。海に転がり落ちる石のように、過去の生活、つまり過去の意味は転がり落ち、さざ波の中に消えた。後はだだっ広い空漠感、太平洋、オーストラリアの海岸。遥かかなた、まるで他の惑星にいるような、死後の世界に足を踏み入れたような気がする。思い煩う肉体を後に残して。欲望にうずく肉体。それすら消え去った。自分にとってあんなにも意味があった一切が。関心のあった自己と古い世界、苦しいことも楽しいことも、死者から去っていくように消えた。風景だって?ーーー風景などまるで関心がなくなった。愛?ーーー大恩赦によって愛から放免されたみたいだ。人類愛?ーーーそんなものは存在しなかった。思想?ーーー海に転がり落ちる小石同然だ。偉大な輝かしい過去?ーーー海岸に打ち上げられた半透明の華奢な貝殻のように崩れ去った。海辺で考えることも、記憶を呼び戻すこともせず、オーストラリアの薄暗い岸壁の下で独り、心も魂も空っぽにして、長い海岸と広い陸地を相手にたった独りでいる。陽のあたる砂浜に漂う原始の闇と戯れ、独り夢うつつの世界に浸っている。あらゆるものの不思議な剥離感」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.470」彩流社)
無関心、心ここにあらず、無関心の国、心も魂も空っぽ、原始の闇と戯れ。またこうも。「あらゆるものの不思議な剥離感」。剥離感なら理解できる読者が少なからずいるに違いない。しかもこの場合の理解は言語を介しての理解ではなく、媒介物なしの「融け合う」、をいう。媒介物なしの「融け合う」状態で感じる「剥離感」。解離すること。うまくやらなければならない。もっとも、ニーチェによれば、人間はときどき解離しているものなのだが。ただそのことに気づいていないだけだ、と。ロレンスはこの状態を次の美しい言葉でいったん締めくくる。
「人間の息のかかったものなど微塵もない穏やかなオーストラリアの青空。文字など刻まれたことがないようなオーストラリアの幽けく白い大気。《白紙状態》」(D.H.ロレンス「カンガルー・P.471」彩流社)
だが既にそのようなオーストラリアは消滅した。反復はどのように開始することができるだろうか。或る種の諦観へ傾きつつも、なお反復は加速していく。ゆっくりと、しかし確実に、大地もまた変身する。離接的総合。流れと切断とを繰り返す欲望する諸機械。
なお、「カンガルー」は一九二三年刊行。日本では大正十二年に当たる。関東大震災発生。
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