言語獲得過程とインターネット常時接続状態とがひとつの動的インフラとして同期することになっている昨今。麻布競馬場はいう。
「言葉を獲得したあとも、小さな村落で集団生活を始めたあとも、書籍が流通するようになったあとも、スマホで友人や恋人と常時接続できるようになったあとも、それでも人間はずっと寂しいままなのだろう。愛や憎しみを手にしたとして、それを共有または交換すべき人がいないことへの絶望。たとえ雑踏の中にいても、自分の心が永遠に孤独であることへの絶望。一億総共感時代とでも言うべき昨今の状況は、スマホという究極の孤独解消ツールが生まれたにもかかわらず寂しさが消えなかったことへの、ある種の抵抗運動なのかもしれない」(麻布競馬場「共感と散歩」『群像・3・P.52』講談社 二〇二五年)
「スマホで友人や恋人と常時接続できるようになったあとも、それでも人間はずっと寂しいままなのだろう」
今や「スマホあるいはインターネット」は世界中で「ほぼインフラ化」している。しかしいわゆる「箱もの」とはまるで違うこれまでにない動因としてますますその作用を拡大再生産させていく一方だ。スマホ/ネットは世界を変えたというより《新しい欲望を生産する装置》として生まれ、いまこのときも《新しい欲望の生産》に余念がない。
なるほど「共感の嵐!」という広告を見ない日はない。しかし「共感」も「反感」もいずれにしてももはや「嵐!」を通り越して「<常時>暴風雨/緊急警戒警報発令中」の様相を呈している。スマホ/ネットは共感を生産し反感を生産し愛憎を増殖させ希望の生産を絶望の増殖と同期させる。
麻布競馬場は「共有または交換すべき人がいない」と述べる。その言葉は「教員不足/医師不足」あるいは「カウンセラー不足/アドバイザー不足」と言い換えることも可能だろうとおもえる。いまの日本は「相談相手の慢性的喪失」に陥っている。だからといって立場上さまざまな形で個人差も含めスマホ/ネットと未来永劫切断しきってしまうわけにもいかない。ところがその接続動作がさらに常に両義的な意味を持つ《新しい欲望の生産》へと向かわせ人間の身体をいつも緊急事態へ置こうとする。
散歩ひとつくらい、ゆっくりしたいものだとおもう。