白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/「野猪(くさゐなぎ)」を通して見る貨幣

2021年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

次に見ておきたい説話。だが、その現場はどの国のどの辺りなのか、欠字になっている。しかしだいたい想定することはできるだろう。男性の兄弟がいた。兄は地元で猟を生業に専念していた。弟は京の都で宮仕えしている。或る年の九月下旬頃、兄が鹿狩りのため山に入って「灯(ともし)」という狩猟法を用いて獲物を探していたところ、自分の名を呼ぶ「辛(から)ビタル音(こゑ)」=「しゃがれ声」が聞こえた。怪しく思った兄は乗っていた馬でもう一度引き返し、今度は弓を持つ手(左手)を声がした方向へ向けて通過してみた。すると今度は自分の名を呼ぶ声はまったくしない。兄が弓を持つ手(左手)を声がしてきた方向へ持ち換えて通ってみたわけは、その場合、逆に持っているよりも素早く矢を射ることができるからである。

「而(しか)ル間、其ノ兄、九月ノ下(しも)ツ暗(やみ)ノ比(ころ)、灯(ともし)ト云フ事ヲシテ、大キナル林ノ当(あた)リヲ過(すぎ)ケルニ、林ノ中ニ辛(から)ビタル音(こゑ)ノ気色異(こと)ナルヲ以(もつ)テ、此ノ灯(ともし)為(す)ル者ノ姓名(しやうみやう)ヲ呼(よび)ケレバ、怪(あやし)ト思(おもひ)テ馬ヲ押返(おしかへ)シテ、其ノ呼ブ音ヲ弓手様(ゆむでざま)ニ成(な)シテ、火ヲ焔串(ほぐし)ニ懸(かけ)テ行(ゆきけ)レバ、其ノ時ニハ不呼(よば)ザリケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.154」岩波書店)

類話が載る「宇治拾遺物語」を参照すると、現場は奈良の吉野の山間部ではと考えられる。その前に予備知識を少し。

今の奈良県吉野郡吉野町に「龍門寺(りゅうもんじ)跡」という遺跡がある。寺院本体の「龍門寺(りゅうもんじ)」は七世紀後半創建とされる。周辺はかつてから「龍門(りゅうもん)」と呼ばれていた。そこに一人の聖(ひじり)がいた。「宇治拾遺物語」では住んでいる地名を取って「龍門(りゅうもん)の聖(ひじり)」と呼んだらしい。ということは寺院が奈良の興福寺傘下に入るよりも以前、寺院らしき伽藍を備えて仏教化されるよりも以前、吉野の奥には山岳信仰が根付いていたと考えられる。だから「聖(ひじり)」なのだ。当時は仏教の高僧とはまた違い、「聖(ひじり)」は「仙人(せんにん)」というに近く、彼らの住む地域は聖地・霊場として認識されていた。三仙人〔大伴仙・安曇(あづみ)・久米仙(くめせん)〕を輩出してことで有名。少なくとも「あづみ・久米(くめ)」の二人は「今昔物語」に名が出ている。だが古代奈良時代から戦後昭和・平成・令和になってなお仙人と言えばただ一人「久米仙(くめせん)」の一人勝ちとも言える状況が続いているのはなぜだろう。

仙人は空を飛ぶことができるという神仙思考はそもそもインドや中国から輸入されたものだが、中でも久米仙ばかり圧倒的に人気なのは女性のふくらはぎに目を奪われて空から落下した伝説による。山間部の名もない女性が川で洗濯中に衣服の裾をまくり上げてむくらはぎを丸出しにしている場面を目にした久米仙。たちまち心を奪われ、洗濯している女性の目の前に落ちてしまった。

「久米も既に仙に成て、空に昇て飛(とび)て渡る間、吉野河の辺(ほとり)に、若き女衣(きぬ)を洗(あらい)て立(た)てり。衣を洗ふとて、女の膨胵まで衣を掻上(かきあげ)たるに、膨の白かりけるを見て、久米心穢(けが)れて、其(その)女の前に落(おち)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十一・第二十四・P.91」岩波文庫)

兼好も好きものだったようで「徒然草」にこうある。

「久米(くめ)の仙人(せんにん)の、物洗ふ女の脛(はぎ)を見て、通(つう)を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥(こ)え、あぶらづきたらんは、外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし」(兼好「徒然草・第八段・P.28」岩波文庫)

兼好によれば、女性のふくらはぎは肥えていればいるほど好いというわけではない。ただ単にぶくぶくと肥えているのではなくて、太すぎず細すぎず、さらにどちらかといえば或る程度あぶらの乗った感じであれば、それこそ浮世離れした神にも近い身体というべきかと言うわけだ。今でいえば一九八〇年代後半に突如出現した森高千里のようなイメージだろう。とはいえ、それはあくまで久米仙とか兼好とかが理想とした女性の体型であり、そうでない体型を理想とする人々がどれほど多いかはLGBTのみならず異性愛者の間でも理想の身体について随分と異なることはもはや常識に属する。ただ、久米仙の仙人たるところは空を飛んだとかいう滑稽譚にあるのではないと思われる。むしろ逆に「この女性なら」と直感するや忽ち仙人など辞めてしまい、地上に降り立ち、まさしくその女性に求婚して夫婦になった点に求めることができる。というのも、そもそも久米仙はなぜ空を飛んでいたのか。空から地上を見下ろして何か探し物でもしていたのだろうか。とすれば、久米仙はものの見事に理想の女性と夫婦になって、愛してやまない女体と共に暮らし生涯をまっとうすることができた。逆説的に言えば、仙人としての本懐を遂げたと十分に言いうる。

ちなみに熊楠は久米仙に引っかけて自分のことをしばしば「熊仙(くません)」と書いている。これは大変大事なことで、自己パロディ化のためにはただ単なるパロディやジョークとは違ったユーモア独特の技術が必要であり、熊楠はそれを身に付けている点だろう。

さて、そのような伝説が残る奈良・吉野の山間部という条件を頭に入れたところで、改めて「灯(ともし)」という狩猟法について。

「ともしといふ事をしける比(ころ)、いみじうくらかりける夜、照射(ともし)に出(いで)にけり。鹿(しし)をもとめありく程に、目をあはせたりければ、『鹿ありけり』とて、おしまはしおしまはしするに、たしかに目をあはせたり」(「宇治拾遺物語・巻第一・七・P.26」角川文庫)

月の出ない下旬頃、猟師は暗闇に満ちた森林の中に入って灯火を掲げて様子をみる。すると灯火の側を振り返ってじっと見る鹿はいつも何頭かいる。今でもそうだ。鹿の目に灯火の光が反射した隙を見計らって矢を射て仕留める猟法。

しばらくして弟が宮仕えから帰宅してきた。宮仕えといっても地位や役職によりけりで時々地元に戻ることはしばしばあったから。兄は先日「灯(ともし)」に出た際、妖怪〔鬼・ものの怪〕の仕業かと思われる声を聞いたと弟に語った。弟は確かめてみる必要があると思い、一旦様子を探りに自分一人で出かけることにした。現場付近に差し掛かった。すると人の名前を呼ぶ声がする。ところがよく聞くとその名前は弟の名前ではなく兄の名前である。その夜はそれを確かめただけで帰宅することにした。

「彼(か)ノ林ノ当(あた)リヲ過(すぎ)ケルニ、其ノ弟ノ名ヲバ不呼(よば)ズシテ、本(もと)ノ兄ガ名ヲ呼ケレバ、弟、其ノ夜ハ其ノ音(こゑ)ヲ聞(きき)ツル許(ばかり)ニテ返(かへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.154」岩波書店)

家に戻った弟は兄にいう。確かに奇妙な声は聞こえました。でもお兄さんと僕の名前を間違えて呼んでいるのです。思うに、妖怪〔鬼・ものの怪〕だとしてもかなり低級な部類かも知れませんね。明日また出かけて行って正体をばらして見たいと思います。

「実ノ鬼神(おにかみ)ラナバ己(おの)ガ名コソ可呼(よぶべ)キニ、其御名(そこのみな)ヲコソ尚(なほ)呼ビ候ヒツレ。其(そ)レヲ不悟(さとら)ヌ許(ばかり)ノ者ナレバ、明日ノ夜罷(まかり)テ、必ズ射顕(いあらは)シテ見セ奉ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.154~155」岩波書店)

弟は翌日の夜、前夜に試してみたように「火ヲ燃(とも)シテ其(そこ)ヲ通(とほり)ケルニ」、名を呼ぶ声が聞こえてくる方向に右手を向けている時は声がする。が、名を呼ぶ声が聞こえてくる方向に左手を向けて弓を素早く発射できる体勢で馬を歩かせると呼び声はしない。そこで弟は考えた。馬の鞍を逆に置き換えて自分も後ろ向きに馬に乗る。そして現場を通り過ぎてみた。すると兄の名を呼ぶ声がした。とっさに弟は声のした方向へ向けて一気に矢を射た。と、矢が何かに突き刺さった手応えのようなものを感じた。今度は再び馬の鞍を置き直しいつもの体勢で同じ場所を通り過ぎてみた。もう声はしなかった。いったん家に戻ることにした。

「亦(また)ノ夜、夜前(よべ)ノ如ク行(ゆき)テ、火ヲ燃(とも)シテ其(そこ)ヲ通(とほり)ケルニ、女手(めて)なる時ニハ呼ビ、弓手(ゆむで)ナル時ニハ不呼(よば)ザリケレバ、馬ヨリ下(おり)テ、鞍ヲ下(おろし)テ馬ニ逆様(さかさま)ニ置(おき)テ、逆様ニ乗(のり)テ、呼ブ者ニハ女手(めて)ト思ハセテ、我レハ弓手(ゆむで)ニ成(なし)テ、火を焔串(ほぐし)ニ懸(かけ)テ、箭(や)ヲ番(つが)ヒ儲(まうけ)テ過(すぎ)ケル時ニ、女手ト思(おもひ)ケルニヤ、前(さき)ノ如ク兄ガ名ヲ呼(よび)ケルヲ、音(こゑ)ヲ押量(おしはかり)テ射タリケレバ、尻答(しりこた)ヘツト思(おぼ)エテ、其ノ後、鞍ヲ例(れい)ノ様(やう)ニ置直(おきなほ)シテ、馬ニ乗テ女手ニテ過(すぎ)ケレドモ、音(こゑ)モ不為(せ)ザリケレバ、家ニ返(かへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.155」岩波書店)

夜が明けた。兄弟は現場の様子を見に、連れ立って山林の中へ入り様子を探ると、大きな「野猪(くさゐなぎ)」が矢に射抜かれ木に打ち付けられて死んでいた。

「夜明(あけ)ケルママニ、兄弟掻烈(かきつれ)テ行(ゆき)テ見ケレバ、林ノ中ニ、大キナル野猪(くさゐなぎ)木ニ被射付(いつけられ)テゾ、死(しに)テ有(あり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.155」岩波書店)

そこで「野猪(くさゐなぎ)」とは何か。「猪(いのしし)」ではない。猪(いのしし)はもっとはっきりした獣であり、山中の予想外のところで人間に出くわしたりすると、忽ち猛烈な速度で強靭な角を立てながら突進し、人間など四、五メートルほどもあっけなく吹っ飛ばしてしまう。一撃で仕留めないと猟師の側が殺されてしまう。「野猪(くさゐなぎ)」はそのような猪突猛進型ではなく、もっととぼけた、時には愛着の持てる動物だ。要するに「狸(たぬき)」を指す。

「谷の底に大なる狸の、胸よりとがり矢を射とほされて死(し)にてふせりけり」(「宇治拾遺物語・巻第八・六・P.201」角川文庫)

俗に「狸寝入り・狸おやじ」という言葉がある。古代ギリシア神話でオデュッセウスが「狂気」を装って面倒な出征を休もうとしたところ、結局ばれた話に似ている。

「アガメムノーンはそれで諸王に使いを遣(つか)わし、彼らが誓った誓言を思い出さしめ、ギリシアに対するこの侮辱はすべての者に共通であると言って、各人が自分の妻の安全を計るようにと勧告した。多くの者が出征に熱心であった。そしてある者がイタケーのオデュセウスの所に赴いた。しかし、彼は出征を欲せず、狂気を装った。しかし、ナウプリオスの子パラメーデースはその狂気が偽りであることを証した。そして狂気を装っているオデュセウスの後をつけ、ペーネローペーの懐よりテーレマコスを奪って、殺すかのごとくに剣を抜いた。オデュセウスは子供のことを心配して、偽りの狂気であることを白状して軍に従った」(アポロドーロス「ギリシア神話・摘要3・P.182」岩波文庫)

今の日本の政治家が都合次第で病院に入院したり急に体調不良を訴えたりするのに似ている。しかしオデュッセウスと政治家とではその目的も目標もまるで違っている。天と地ほども異なる。

なお、先に述べた「龍門寺(りゅうもんじ)」だが、かつては「竜門の滝」の上に造られていた。芭蕉が句を残している。

「龍門の花や上戸(じやうご)の土産(つと)にせん」(「笈の小文」『芭蕉紀行文集・P.81』岩波文庫)

さらに。

「酒のみに語らんかかる瀧の花」(「笈の小文」『芭蕉紀行文集・P.81』岩波文庫)

どちらの句もなぜ酒に関係しているのだろう。言ってしまうと、芭蕉の念頭には李白の詩の一節・「飛滝直下三千尺」(「望廬山瀑布」)がある。飛沫(しぶき)を上げる壮大な滝を眺めながら盃を傾けるのも風流なものだと。それを思うと今の東京都・銀座で深夜に飲み食いしている人間が国会議員のままのさばり返っている日本というのは、世界的に見てほぼ確実に論外だろうと思わざるを得ない。そしてまた「狸(たぬき)」は人間でない。動物である。動物でありながら、しかし妖怪〔鬼・ものの怪〕にふさわしい変身もままならない「狸(たぬき)」は、なぜ時として愛されるのか。狸とは何か。それはおそらく彼らが、貨幣になろうとどんなに苦労を重ねてみてもけっして貨幣になりきれない悲哀の象徴だからかも知れない。

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熊楠による熊野案内/科学者にとって記録とは何か

2021年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

熊楠は科学者による「記録」の重要性についてこう述べている。

「此通り俺(わし)の画いたのは三色もある。此『図譜』のやうに一色では無いのぢや。生えてある時の色と採収後の色とがいろいろ此通り変つてのだから『図譜』の通り信じて居ると大間違いが起る。学問上の事は、ちよつとの事でも世界中に大影響を及ぼすから注意せにやならぬ。白井博士を経て訂正方を頼みに来て居るから、ヒマヒマに間違つたやつを調べて訂正し漏れたやつを補ふてやるつもりぢや。マダマダ我国の政府者なぞは学問上の事に就ては本当の趣味が無いやうぢや」(南方熊楠「粘菌学より見たる田辺及台場公園保存論」『森の思想・P.365』河出文庫)

いわんや政治家をや、と内容は続く。が、熊楠は始めから政治には関心のない研究者だった。にもかかわらず「神社合祀に関する意見」を書き上げなければならなかった。自然生態系とその多様性というものが、どれほど巨大な規模とリゾーム性を活かしつつ世界を動かしているか、よくわかっていたからにほかならない。

天延二年(九七四年)から長和五年(一〇一六年)にかけて記録に残る佐伯公行(さへきのきんゆき)という実在人物がいた。長徳四年(九九八年)八月二十五日に播磨守(はりまのかみ)に任じられている。その子は五位身分に当たる「大夫(だいふ)」に昇進し、佐伯姓であることから姓の「佐」を用いて通称「佐大夫」(さだいふ)と呼ばれていた。邸宅は四条通と高倉通との交差点付近。今の大丸京都店東側辺りに住んでいた。藤原定成(ふじわらのさだなり)が阿波守(あはのかみ)だった頃、同行し、鳴門海峡の渦潮に巻き込まれでもしたのかも知れないが船ごと海に飲み込まれて水死したらしい。また、「今昔物語」では藤原定成(ふじわらのさだなり)となっているが、類話を掲載した「宇治拾遺物語」では「さとなり」となっている。さらに「さだなり」にせよ「さとなり」にせよ、いずれにしても「阿波守(あはのかみ)」を務めた記録はない。また「宇治拾遺物語」には確かに「水死」なのかどうかの記述は見当たらない。道中に死んだとあるだけ。

「さたいふは阿波守さとなりがともに阿波へくだりけるに、道にて死(しに)けり」(「宇治拾遺物語・巻第十・五・P.232」角川文庫)

だから確実なのは、水死したとされる「佐大夫(さだいふ)」の父に関し、「播磨(はりま)ノ守(かみ)佐伯(へき)ノ公行(きんゆき)ト云フ人有(あり)ケリ」、とある冒頭部分。公行(きんゆき)の全盛期には「蜻蛉日記」、「往生要集」、「枕草子」、「源氏物語」、「拾遺和歌集」、「和泉式部日記」、「紫式部日記」、「和漢朗詠集」などが書かれており、平安文学の全盛期と一致する。なかでも注目したいのは「往生要集」と「和漢朗詠集」。前者は僧侶・恵信院僧都源信(げんしん)の作品であり、死後の世界(地獄及び浄土)について詳しく述べられたもの。第一に七大地獄〔等活地獄・黒蠅地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・阿鼻地獄〕に関する説明から始まっており、なおかつインドや中国の書物から引用された箇所が夥しく見られ、ただ単なる仏教法話でない点を特徴とする。後者は貴族の教科書としてまとめられもの。和漢の名著から特に名文とされる箇所を選択して編集された。今でも書道の教科書として用いれることが多い。

ところでその間、宮廷内の権力闘争は激化の一途を辿り、比叡山では最後に開発され比良山との境界線に当たる横川(よかわ)にいた源信「往生要集」に代表される浄土信仰が平安貴族らの心の拠り所となっていた。ちなみに寛弘二年(一〇〇五年)、映画や漫画でお馴染みの陰陽師・安倍晴明が死ぬ。

それはそれとして寛弘四年(一〇〇七年)四月、都の政治権力の頂点へ上り詰めようとしていた藤原道長はどういうわけか修験道の中心地・大和(やまと)の金峯山(きんぷせん)へ参詣、写経奉納。「枕草子」、「源氏物語」、「和泉式部日記」など、華々しい文学の出現と並行して、長和三年(一〇一四年)二月、京の都の中枢である内裏が炎上。長和四年(一〇一五年)十一月、再び内裏炎上。いずれも宮廷内の火の管理が疎かになっていたことの証拠だが、反道長派による放火の可能性も否定できない。さらにその翌年の長和五年(一〇一六年)六月、今度は道長の邸宅・土御門(つちみかど)邸に盗賊が押し入り金銀約二千両が盗まれ、さらに七月、土御門邸は焼失した。その翌年の寛仁一年(一〇一七年)七月、京都は豪雨に見舞われ鴨川の堤防が決壊。それにもめげない道長は十二月、とうとう太政大臣となった。しかしその翌年の寛仁二年(一〇一八年)六月、今度は逆に旱魃に襲われ神泉苑で雨乞い神事が行われた。しばらくすると雨が降った。梅雨の季節なので降って当り前ではあるのだが、もし降らなかった場合、その責任が道長に降りかかってくることは明白だったので大袈裟な雨乞いの一つも開催するほかなかったのだろう。当時の神泉苑は今の京都市中京区の辺りで、東西は壬生通から猪熊通にかけて、南北は二条通から三条通にかけて広大な敷地を誇っており、大内裏のすぐ東南に位置する遊覧場だった。次の説話はそのような時代背景の中で生じた。

河内禅師(かはちのぜんし)という男性がいた。黄色の斑点を持つ一頭の「まだら牛」を飼っていた。一頭とはいっても牛は稲作農耕に欠かせない村落共同体の共有財産。河内禅師は請われて牛を一時知人に貸した。知人は借りた牛に車を付けて「淀(よど)」の橋に差し掛かった。桂川にかかる「樋爪(ひづめ)ノ橋」。今の京都市伏見区淀(よど)の、桂川を挟んで西側の樋爪(ひづめ)町にかつて橋が渡してあり「樋爪(ひづめ)ノ橋」と呼ばれた。禅師の知人は牛の操作ミスで車を桂川へ転落させてしまった。ところが牛は怪力を発揮し、車は川へ転落してしまったものの牛自身は踏ん張って橋の上に留まった。さいわい車に人は乗っていなかったため死者はなかった。それを見ていた人々は、普通ではとてもではないが耐えられないところなのに何と強靭な牛なのか、やんややんやと誉め称えた。ただ、それを黙って見ていたものがいる。

「河内禅師ガ許(もと)ニ、黄斑(あめまだら)ノ牛有(あり)ケリ。其ノ牛ヲ知(しり)タル人ノ借(かり)ケレバ、淀(よど)ヘ遣(やり)ケルニ、樋爪(ひづめ)ノ橋ニテ、牛飼ノ車ヲ悪(あし)ク遣(やり)テ、車ノ片輪(かたわ)ヲ橋ヨリ落(おと)シタリケルニ被引(ひかれ)テ車ヨリ落(おち)ケルヲ、『車ノ落ル也ケリ』ト思(おもひ)ケルニヤ、牛ノ踏(ふみ)ハダカリテ、不動(はたらか)デ立(た)テリケレバ、鞅(なむがい)ノ切レテ、車ハ落テ損(そん)ジニケリ。弊(つたな)キ牛ナラマシカバ、被引(ひかれ)テ牛モ損ジナマシ。然レバ、極(いみじ)キ力カナトゾ、其ノ辺(わたり)ノ人モ讃(ほめ)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十六・P.139」岩波書店)

なお、「樋爪(ひづめ)ノ橋」はおそらく宛字。「宇治拾遺物語」にはこうある。

「ひづめの橋」(「宇治拾遺物語・巻第十・五・P.232」角川文庫)

また「火爪」とも書く。「今昔物語」で「ひ」は欠字になっていて「つめ」は「通(つめ)」と書かれている。

大した牛だと評判になったからか河内禅師は以前にも増して牛を大切に育てていた。ところが或る日、何の兆候もなく突然牛が消え失せた。河内禅師はあちこち探し廻った。ところが一向に良い知らせは届かない。どうしようと考えあぐねて困り果てた。そしてしばらく経った或る夜。河内禅師は夢を見た。出てきたのは海に落ちて死んだはずの「佐大夫(さだいふ)」。戦慄した禅師は驚愕しつつその理由を尋ねた。

「海ニ落入(おちいり)テ死ニキト聞ク者ハ、何(い)カデ来(きた)ルニカ有ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十六・P.140」岩波書店)

佐大夫(さだいふ)はいう。死んだ後、鬼門の方角の片隅で暮らしているのだが、毎日々々「樋爪(ひづめ)ノ橋ノ許(もと)」まで通うという苦行を負わされている。罪が重いのか、体重がとても重くてもはや車に乗るだけでは間に合わず、かといって徒歩で通うのは不可能に近い。ところが最近「樋爪(ひづめ)ノ橋」でお前さんの「黄斑(あめまだら)ノ牛」が怪力を発揮して賞賛を浴びているのを見た。そこで牛を借りることにしたわけだ。たいへん頼りになる牛だな。この苦行だが、あと五日を残すばかり。六日目の午前十時頃には必ず返すからそうせっつかないでくれないか。

「己(おのれ)ハ死(しに)テ後、此ノ丑寅(うしとら)ノ角(すみ)ノ方(かた)ニナム侍(はべ)ルガ、其(そこ)ヨリ日ニ一度、樋爪(ひづめ)ノ橋ノ許(もと)ニ行(ゆき)テ苦(く)ヲ受侍(うけはべ)ル也。其レニ、己(おの)レガ罪ノ深クテ、極(きはめ)テ身ノ重ク侍レバ、乗物ノ不堪(たへ)ズシテ、歩(かち)ヨリ罷(まか)リ行(あり)クガ極テ苦(くるし)ク侍(はべれ)バ、此ノ黄斑(あめまだら)ノ御車牛(うし)ノ力ノ強クテ、乗リ侍ルニ堪(たへ)タレバ、暫ク借申(かりまう)シテ乗(のり)テ罷行(まかりあり)クヲ、極(いみじ)ク求メサセ給ヘバ、今五日有(あり)テ、六日ト申サム巳(み)ノ時許(ばかり)ニ返シ申シテムトス。強(あながち)ニナ求メ騒ガセ不給(たまひ)ソ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十六・P.140」岩波書店)

この鬼門は方角を指してはいるが方角を指しているのみで、実際どこのどの辺りなのかはっきりしない。「丑寅(うしとら)ノ角(すみ)ノ方(かた)」とあるばかり。一方、「樋爪(ひづめ)ノ橋ノ許(もと)」は平安京から見て隣接する地域との境界線に当たっており、なおかつ境界線を示す印としてあえて「橋」が架けられている。だから今の京都市伏見区淀(よど)樋爪(ひづめ)町にかつて架かっていた橋は平安京と異界とを繋ぐ境界領域として神聖化されていたということはわかるのである。

この説話にはユーモラスな「落ち」がある。約束通り「六日ト申サム巳(み)ノ時許(ばかり)」=「六日目の午前十時頃」になると河内禅師の家にぬうっと牛が入ってきた。長年付き合ってきた「黄斑(あめまだら)ノ牛」である。牛は一世一代の大仕事を成し遂げて帰ってきたかのような顔をして見せたという。付け加えるとすれば、失策連発してなお憚るところのない今の日本政府より、たった一頭の牛に救われた人々が大勢いた時代だったという点だろう。この怪異譚もまた、社会保障なき中世の暗黒時代の食糧難に際して、多くの動植物たちが人間の生活様式にとってどのような役割を淡々とこなしていたかを考える良い資料としてしっかり書き残されたというわけだ。レシートなど考えられもしなかった時代にもかかわらず、ではなく、レシートなど考えられなかったがゆえに、あえて「記録」がどれほど重要性を持っていたか。誰もが身に沁みて知っていたのである。

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熊楠による熊野案内/平安京の環境変異と高度テクノロジー

2021年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

今でいう京都府宇治市の小幡(こばた)が舞台。「今昔物語」は小幡(こはた)と読ませている。

その昔、頼清(よりきよ)という民部省所属の三等官がいた。斎院(賀茂社)の職員を務めていた。何をしたのか定かでないが、一定程度の懲戒処分を受け、小幡にある別宅へ引き退くことになった。長く頼清に仕えていた「参川(みかは)ノ御許(おもと)」という女性も暇になり、京の家で過ごしていた。そこへ頼清の馬の世話をしている下人がやって来て言った。頼清殿は急な事情ができたため小幡の別邸を出て今は山城(やましろ)にある人の家を借りて暮らしておられる。あなたも急いで山城の家へ参上するようにと。参川(みかは)ノ御許(おもと)は五歳ほどになる子どもを連れて山城の家へ駆けつけた。

ただ、この説話は文章自体に不明な点が多く、山城(やましろ)といってもそのどこなのかわかないのがまず問題。山科(やましな)の誤りではという説もあるが、もしそうだとしても生活環境はなお山城というに等しい。山城は当時の平安京から外の南部全体を指して用いる言葉でもあり、いずれにしろ都の外でなおかつかなり荒廃の激しい地域であることに変わりはない。南山城だとすれば今の奈良県最北端に隣接する。また小幡について、文面通り今の宇治市小幡だとしても当時は都の中心部から随分離れていて、代々藤原氏の墓所として使用されている地域だった。また大規模墓所には塚が多く、塚穴を狐が棲家として利用するため、怪異譚が生じる条件は整っているわけである。

さて、参川(みかは)ノ御許(おもと)は頼清が小幡の別宅を出て移ったという山城の家に赴く。すると頼清の妻が何かと忙しそうに立ち働いており、顔を出した参川(みかは)ノ御許(おもと)を見るとすぐに迎え出て大層もてなしてくれた。御許(おもと)は他の同僚と共に染め物や洗い張りの作業など色々とこなして忙しく働いた。四、五日が過ぎた。

「行着(ゆきつき)テ見レバ、常ヨリモ、頼清ガ妻(え)此ノ女を取饗応(とりきやうおう)シテ、物ナド食(くは)セテ、忽ガシ気(げ)ニテ、何(な)ニト無キ物染(そ)メ張(は)リ忽ギケレバ、女モ諸共(もろとも)ニ忽テ、四、五日ニ成ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十二・P.150」岩波書店)

そんな時、頼清の妻はいう。小幡の別宅には番人が一人残っているだけ。そこで内々に伝えて欲しいことがあるので行ってきてはくれないかと。御許(おもと)は年来仕えてきた頼清の別宅でもあるので、すぐ承知し、取り敢えず子どもを同僚に預けて小幡に出かけた。小幡の家に着いた御許(おもと)は既に頼清一行が去った後なのでさぞかし森閑と静まり返っているだろうと思っていた。ところが中の部屋へ入ってみると大勢の賑やかな声が聞こえてきた。覗いてみるとついさっき出たはずの山城の家にいた同僚たちも一緒にいる。何か怪しいと思ってさらに奥の部屋を覗くとなぜか主人・頼清もいる。

「小幡ニ行着(ゆきつき)テ、家ノ内ニ入(いり)タレバ、『定メテ人無クテ掻澄(かきすみ)テゾ有ラム』ト思フニ、糸稔(いとにぎ)ハハシクテ、有(あり)ツル所ニテ只今見ツル同僚共モ皆有リ。奇異(あさまし)クテ奥ニ入(いり)タレバ、主モ有り」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十二・P.151」岩波書店)

呆れたように突っ立っていると、やって来た御許(おもと)に気づいた人々がいう。やあ、久しぶりではないか。なぜ今まで姿一つ見せず、一体どこで何をしていたのか。頼清殿の懲戒処分はもう解けたのであなたの家にも人を遣ったところ、ここ二、三日は頼清殿に出仕していて見かけないと近所の人たちが言っていた。ところが頼清殿のいる小幡にはおらず、今になって突然現われた。どうしてなのかと。そこで御許(おもと)はこの数日間のいきさつを語ったところ、そこに集まっていた人々は皆こわばった様子で、中には御許(おもと)が夢幻でも見たのではないかとこっそり笑う者もいた。とはいえ、御許(おもと)にしてみれば自分の子どもを同僚に預けて急いで小幡へ駆けつけたにもかかわらず、その同僚までもずっと小幡の家にいたというのが不審で仕方がない。子どもを置いてきた問題の山城の家に何人かの従者と共に取って返すことにした。果たして子どもは無事だろうかとそればかりが頭をよぎる。そして四、五日ほど過ごした山城の家の辺りに到着した。と、そこには見渡すばかりの荒野が打ち広がっているばかり。人の姿などまるで見えない。遅かったかと絶望しつつなお子どもを探してみると茫々と生い茂った荻(おぎ)や薄(すすき)の合い間に子どもが独り泣いているのを発見した。五歳になる御許(おもと)の児だ。生きていたと知って抱き上げ、今度は一緒に小幡の別宅へ戻った。どういうわけなのか問われた御許(おもと)はいう。件の家は跡形もなく茫々たる荒野がどこまでも打ち続いているばかりで、ただ一人、この児だけが泣いているところを見つけて連れて帰ってきたわけですと。なんとも解せない話を聞かされ、主人の頼清も御許(おもと)が血迷ったことを口にしているようだと決めつけてしまう。

「人ヲ数(あまた)具(ぐ)シテ遣(やり)タリケレバ、女行(ゆき)テ、有(あり)ツル所ヲ見ケレバ、遥々(はるばる)ト有ル野ニ、草糸(いと)高ク生(おひ)タリ。人ノ形(かたち)無シ。胸塞(ふさ)ガリテ、忽(いそぎ)テ子ヲ求(もとめ)ケレバ、其ノ子只独(ひと)リ荻(おぎ)・薄(すすき)ノ滋(しげり)タル中ニ居テ哭(なき)ケレバ、母、喜(よろこび)乍(なが)ラ子ヲ抱キ取(とり)テ、本ノ小幡ニ返(かへり)テ、『然々(しかしか)有(あり)ツ』ト語(かたり)ケレバ、主モ此(こ)レヲ聞(きき)テ、『汝ガ虚言(そらごと)也』トゾ云(いひ)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十二・P.151」岩波書店)

山城の家で一緒に立ち働いていた同僚に子どもを預けて出てきたのだが、その同僚はずっと小幡の家にいたという。逆にあなたはどこへ行っていたのかと問い尋ねる空気が漂う。そんな幼い児をたった一人にしてどことも知れない荒れ果てた野原に放置し去るということがあるだろうかと御許(おもと)の側が疑われる始末だ。しかし、子どもの命が奪われることなく助かったというのは多分、狐に化かされたのかも知れないということになった。狐の悪戯(いたずら)だというわけだが、たとえそれが本当であろうがなかろうが、そこで考えないといけないことがある。

前に取り上げた「巻第二十七・第四十」では狐が大切にしている「白キ玉」を返してやった侍が、いつものように夜中に大内裏の応天門(おおてんもん)前を横切って帰宅しようとしていたところ、その狐が先に立って、密談中の強盗団を避けて通るよう先導してくれた。さらに「巻第二十六・第十七」では藤原利仁(としひと)が若い頃、上司に当たる五位侍が腹一杯暑預粥(いもがゆ)を食いたいというので敦賀へ案内する途中、近江国下阪本・三津浜(みつはま)の辺りで狐を呼んで伝令に使い、その礼に何かと食物を与えてやるとすっかり平らげて去った。お陰で暑預粥(いもがゆ)を堪能した五位侍は「仮(け)・納(をさめ)ノ装束」(普段着並びに晴れ着)など利仁に色々と贈り物をくれた。「狐の恩返し」とも言える説話だ。どちらとも狐だが、動物による恩返しの場合、動物と人間との距離はかなり近い。両者の共存関係がまだ成立可能なケースあるいは成立可能な地方・地域で起こっている。ところが動植物の怨霊化が加速するのと平行して、例えば都の入口とされていた「羅生門(らしょうもん)」ですら死体遺棄の名所と化していく点に注目する必要があるだろう。羅生門は弘仁七年(八一六年)と天元三年(九八〇年)の二度に渡り倒壊した。一度目は再建されたが二度目の倒壊以降、再建されないまま放置され廃墟化し急速に妖怪〔鬼・ものの怪〕の棲家とされていく。羅生門の荒廃がどれほど激しいとはいえ、まだ二階部分が維持されて残っていた頃、どんな様子だったか。

芥川龍之介「羅生門」では解雇されて行くところを亡くした「下人(げにん)」となっているが、本文では「盗人(ぬすっと)」。また、羅生門の二階で若い女性の死体の髪の毛を抜き取っている「老タル嫗(おうな)」の真っ白な「白髪(しらが)」について、もちろん「今昔物語」成立当時、長い白髪の老婆は怪物と化した「山姥(やまんば)」だと考えられていた。そして何度か触れているように日本最初の山姥はほかでもない黄泉国(よみのくに)へ置き去りにされた伊弉冉尊(イザナミノミコト)である。

「門ノ上層(うはこし)ニ和(やは)ラ掻(かか)ヅリ登タリケルニ、見レバ火髴(ほのか)ニ燃(とも)シタリ。盗人、怪(あやし)ト思テ連子(れんじ)ヨリ臨(のぞき)ケレバ、若キ女ノ死テ臥(ふし)タリ有リ。其ノ枕上(まくらがみ)ニ火ヲ燃(とも)シテ、年極(いみじ)ク老タル嫗(おうな)ノ白髪(しらが)白キガ、其ノ死人(しにん)ノ枕上ニ居(ゐ)テ、死人ノ髪ヲかなぐり抜キ取ル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第十八・P.335」岩波書店)

古く唐から贈られて厳重に管理されていた「玄象(げんじよう)」という名の琵琶の宝物が宮中から消え失せたことがあった。管弦に秀でた源博雅(みなもとのひろまさ)がその捜索を任された。博雅が玄象(げんじよう)独特の音色を探ってみると、清涼殿のちょうど南の方角から聞こえているようだ。朱雀門(すじゃくもん)まで来た。朱雀門から南はもう大内裏の外になる。さらに南へ行くと「鴻臚館(こうろくわん)」=「外国からの要人の接待施設」が七条通付近にある。しかし琵琶の音色はもう少し南から聞こえてくる。音を頼りにさらに南へ行ったところ、とうとう九条通に面した羅生門まで来た。その真下に立つと真上に当たる二階から琵琶の鳴り響く音がする。さては鬼の仕業かと博雅は思う。

「此は人の弾(ひく)には非(あら)じ。定めて鬼などの弾くことは有らめ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十四・第二十四・P.312」岩波文庫)

羅生門には鬼が棲む。といってもそれは曲がりなりにも羅生門が建っていた頃の話だ。天元三年(九八〇年)の倒壊後、再建されることはなかった。「源氏物語」成立の二十年ほど前すでに羅生門は瓦礫一つ残さないただ単なる死体遺棄場所になっていただけでなく、解雇されて行き場を失くした下人らが強盗へ変貌する場所であり、日常的に盗賊団が跋扈するほど荒廃していた。しかしところどころに民家はある。廃屋化した箇所を隔つつ何メートルかに一件くらいはおんぼろの平屋があり人間が住んでいた。このような生活環境は実は太平洋戦争前の昭和になっても残されていた。

「東海道線梅小路貨物駅の引込線に、へばりついたようにしてある六孫王という神社の名が新聞に出たのは、その翌朝のことだ。世間は、死んでいる男が、六孫裏といわれる貧しい人びとの密集する地帯の住人であったことを知ると、べつに驚きはしなかった。またか、と思っただけである。荒くれ者や、渡世人も住んでいる一郭だったからである」(水上勉「西陣の蝶」『越後つついし親不知・P.128』新潮文庫)

現場は昭和十二年(一九三七年)京都市下京区八条通り坊城(ぼうじょう)に設定されている。六孫王(ろくそんのう)神社は八条通と壬生通との交差点に今もある。JR京都駅八条口を出て八条通を真っ直ぐ西に歩く。大宮通を過ぎると東海道本線は南西方向へ折れる。その直前付近。なお、この小説は推理小説形式を取っているのでラストで解決を見ることになる。日本敗戦をまたいだ昭和三十三年(一九五八年)に設定。しかしそのラストはとてもではないが解決とは言い難い。推理作家時代の水上勉にすれば他の解決策を用意することなどいとも容易い。にもかかわらず解決とは言い難い、むしろ逆に疑問を投げかけるかのような結末が用意されたのはなぜか。ちなみに昭和三十三年(一九五八年)は世界がヒロシマの原爆投下を見た十二年後に当たり、さらに昭和三十一年(一九五六年)に日本原子力研究所(現・国立研究開発法人日本原子力研究開発機構)が茨城県那珂郡東海村に設置される二年前に当たっている。小説発表は昭和三十七年(一九六二年)。日本最初の原子力発電開始の前年に当たる。八条通から九条通にかけて、まだまだ貧困世帯がひしめいていた頃のことだ。

一九七〇年代高度経済成長期後半になってなお付近は民家密集地だった。東海道本線の真下付近からすぐ家々が連なる埃っぽい地帯でもあった。個人的には九十年代後半、多くのアルコール・薬物依存症者と話をする機会を持ったが、戦前戦後から八〇年代バブル期にかけての京都駅南部地域の様子を語る依存症者は少なくなかった。彼らの多くはもう死んでしまい語り部もほとんど残っていないが。そして長寿を保ってきた後期高齢者もあまり語りたがらない。どうして語りたがらないのだろう。地区とか在日コリアンや日雇い労働者が多かったとか、それだけなら日本の大都市のどこへ行っても幾らでもある話だ。と同時に大阪市西成区釜ヶ崎は一見変わったかのように見える。「日雇い労働者が集まる寄せ場」としては確かに変わったといえるかも知れない。ところがそれは日本の全国民がいつどこにいても派遣労働者になれるようになったという事情の逆説的風景に過ぎない。アメリカのトランプ政権に代表される新自由主義が押し進めたものは何か。

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・13・捕獲装置・P.234」河出文庫)

一九八〇年に発表されたドゥルーズ=ガタリの不吉な予言は的中したのである。

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熊楠による熊野案内/変身しないといけない時・変身してはいけない時

2021年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

平安時代中頃までは今の京都市上京区・中京区辺りは確かに高級官僚らの住宅街だったようだ。では次に、「下辺(しもわたり)」とはどの辺りを指すのか。下京区以南が漠然とそう呼ばれていた。とはいえ、下京区からさらに南部になればなるほど没落貴族・下級役人・商工業者・名もない百姓らが多く暮らしていたのは事実だとしても、ここに出てくる「下辺(しもわたり)」という言葉にはまた違った微妙な意味合いが含まれている。どういうことかというと、「上(かみ)=聖なる地域」に対する「下(しも)=賎なる地域」であり、「下辺(しもわたり)」にはいつどのような妖怪〔鬼・ものの怪〕が出現してもおかしくないという観念である。ところが「今昔物語」では大内裏の中、時には内裏の中へも妖怪〔鬼・ものの怪〕はしばしば出現して殿上人らを慄かせている。なので上と下との地理的位置関係がただちに聖と賎とを意味するわけではない。そうではなく、かつて華美を極めたにもかかわらず急速に荒廃してきた場所を狙って妖怪〔鬼・ものの怪〕が棲みつくという考え方が信じられていたように思われる。

いつの頃か、或る人が従者を連れて「方違(かたたがへ)」=「方角タブー」の時期に住居を移そうと「下辺(しもわたり)」付近で適当な家屋を探していた。まだ幼い児を連れている。世話係の乳母(めのと)も一緒だ。

「下辺(しもわたり)也ケル所ニ行(ゆき)タリケルニ、幼キ児(ちご)ヲ具(ぐ)シタリケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十・P.145」岩波書店)

ふと目に付いた家屋があったのでそこでしばらく過ごすことにした。夜になり幼児の枕元のそばには灯火を灯し、また二、三人ほどの従者も付き添わせた。夜更けに乳母はいったん目を覚まして幼児に乳を与えた。しばらくその児が寝ている様子を見ているうちに真夜中になった。すると「塗籠(ぬりごめ)」=「土壁造りの収納庫」の戸が音もなく僅かに開いて、そこから身長百五十センチほどで五位(ごゐ)姿の者たちが馬に乗ってぞろぞろ出てきた。見ていると五位たちは児の枕元を通っていく。乳母は震え上がりながらも「打蒔(うちまき)ノ米(よね)・白米(しらげよね)」=「浄化・避邪のための白米」をたっぷり手に掴んで投げつけた。当時、妖怪〔鬼・ものの怪〕退散には「打蒔(うちまき)ノ米(よね)・白米(しらげよね)」が効くと信じられていた。すると五位姿の者どもはたちまち消え失せた。なぜ五位姿なのかは何度か述べているように、五位身分の衣装は朱色・赤色だったため、特に鬼の姿は赤いとされていたことから鬼は大抵の場合、五位姿で描かれることが多い。さらに五位は馬に乗ることができるので、それがたとえ妖怪〔鬼・ものの怪〕であったとしてもわざわざ馬に乗って出てきたりする。妙に几帳面な出現の仕方で描かれることもあるわけだ。

「乳母(めのと)、目を悟(さま)シテ、児ニ乳(ち)ヲ含(ふく)メテ、寝タル様(やう)ニテ見ケレバ、夜半許(よなかばかり)ニ、塗籠(ぬりごめ)の戸ヲ細目(ほそめ)ニ開(あけ)テ、其(そこ)ヨリ長(たけ)五寸許(ばかり)ナル五位共(ごゐども)の、日(ひ)ノ装束(しやうぞく)シタルガ、馬ニ乗(のり)テ十人許(ばかり)次(つづ)キテ、枕上(まくらがみ)ヨリ渡(わたり)ケルヲ、此ノ乳母、怖(おそろ)シト思ヒ乍(なが)ラ、打蒔(うちまき)ノ米(よね)多(おほ)ラカニ掻爴(かきつかみ)テ、打投(うちなげ)タリケレバ、此ノ渡ル者共、散(さ)ト散(ちり)テ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十・P.145~146」岩波書店)

夜明け。陽の光に映し出された部屋の様子を見ると、児はまったく無事だったけれども、夜中に乳母がとっさに投げつけた白米(しらげよね)の一粒々々に血が付いていた。「日来(ひごろ)」=「数日間」はその家に滞在しようと思っていた一行だが、怖れ慄いて引き上げることにした。妖怪〔鬼・ものの怪〕の姿はただ単に消え失せた、というより、血だけはしっかり残す形で消滅した。血になったのではなく、魔除けとされる白米そのものに返り血を塗りつける形で消えた。何にでも変容する点で大変器用であり大した力量だと感心するものの、その意味は妖怪〔鬼・ものの怪〕によるデモがメインなのだろう。都といえども殿上人ばかりが独占している土地ではないと。

「夜明(あけ)ニケレバ、其ノ枕上ヲ見ケレバ、其ノ投(なげ)タル打蒔(うちまき)ノ米毎(よねごと)ニ、血ナム付(つき)タリケル。日来(ひごろ)其ノ家ニ有ラム、ト思(おもひ)ケレドモ、此ノ事ヲ恐(おぢ)テ返(かへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十・P.146」岩波書店)

熊楠が老いた男性のペニスについて、西鶴から「むかしの剣今の菜刀(ながたな)」と引いているように、変身はそもそも人間自身において起こる必然性なのだ。

「西鶴の『一代女』四の三に、一代女、屋敷の茶の間女になり、ある日七十二歳になる老下男をつれ外出し、温飩屋の二階に上がり、その老僕にしかかれど一向埒明かず、むかしの剣今の菜刀(ながたな)と嘆ずるうち、下を覗けば、あたま剃り下げたる奴(やつこ)が二十四、五なる前髪の草履取をつれきて、これもぬれとは見えすきて、座敷入用と聞こえて、云々、とあり」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.381』河出文庫)

「時花(はや)ればとて、今時(いまどき)の女、尻桁(しりげた)に掛(か)けたる、端(はし)紫の鹿子帯艫(かのこおび)、目にしみ渡(わた)りて、さりとては、いや風(ふう)也、自(みづか)らも、よる年にしたがひ、身を持(も)ち下(さ)げて、茶(ちや)の間(ま)女となり、壱年切(き)りに、勤(つと)めける。不断(ふだん)は、下(した)に洗(あら)ひ小袖、上(うへ)に木綿着物(もめんきるもの)に成(な)りて、御上(かみ)臺所の、御次(つぎ)に居(ゐ)て、見えわたりたる諸道具(しよだうぐ)を、取りさばきの奉公(ほうこう)也、黒米(くろごめ)に、走汁(はしらかし)に、朝夕(てうせき)をくれば、いつとなく、つやらしき形(かたち)を、うしなひ、我(わ)れながら、かくもまた、采体(とりなり)、いやしくなりぬ、されども、家父(やぶ)入りの春秋を、たのしみ、宿下(やどお)りして、隠(かく)し男に逢(あ)ふ時(とき)は、年に稀(まれ)なる、織姫(をりひめ)のここちして、裏(うら)の御門(ごもん)の、棚橋(たなばし)をわたる時にの嬉(うれ)しさ、足ばやに出(いで)行(ゆ)く風俗(ふうぞく)も、常(つね)とは仕替(しか)へて、黄無垢(きむく)に、紋嶋(もんじま)を、ひとつ前(まへ)にかさね、紺地(こんぢ)の今織(を)り後(うし)ろ帯(おび)、それがうへを、ことりましに、紫の抱(かか)へ帯(おび)して、髪(かみ)は引(ひ)き下(さ)げて、匕髻結(はねもとゆひ)を掛(か)け、額際(ひたいぎは)を、火塔(くはたう)に、取(と)つて、置墨(をきずみ)こく、きどく頭巾(づきん)より、目斗(ばか)りあらはし、年がまへなる中間(ちうげん)に、つぎづぎの袋(ふくろ)を持(も)たせり、其中(うち)に、上扶持(うはぶち)はね、三升四、五合、塩鶴(しほづる)の骨(ほね)すこし、菓子杉重(くはしすきぢう)のからまでも、取り集(あつ)めて、小宿(こやど)の口鼻(かか)が、機嫌(きげん)取りに、心をつくるもおかし、櫻田(さくらだ)の御門(ごもん)を通(とを)る時、我、袖より、はした銭(ぜに)、取り出(いだ)し、召(め)しつれし親仁(おやじ)が、けふの骨折(ほねを)り、おもひやられて、わづかなれども、莨菪(たばこ)成(な)りとも、買(か)ふて呑(の)みやれと、さし出(いだ)しけるに、いかに、お心付けなればとて、おもひもよらず、くだされました御同前(ごどうぜん)、わたくし事は、主命(しゆめい)なれば、御供(とも)、つかまつりませねば、外(ほか)に、水汲(みずく)む役(やく)あり、更(さら)に御こころに、かけ給ふなと、下々(したじた)には、きごく成(な)る、道理(だうり)を申しける、それより、丸(まる)の内(うち)の、屋形(やかた)々々を過(す)ぎて、町筋(すぢ)にかかり、女の足(あし)の、はかどらず、心せはしく、縹(たよ)り行(ゆ)くに、此中間(ちうげん)、我(わが)こやどの新橋(しんばし)へは、つれゆかずして、同じ所(ところ)を、四、五返(へん)も、右行(びらり)、左行(しやなり)と、つれてまはりけれども、町の案内(あんない)はしらず、うかうかと、ありきて、うち仰上(あふの)きて見れば、日影(ひかげ)も、西(にし)の丸に、かたぶくに驚き、気(き)をつけ見るに、めしつれし親仁(おやじ)、何(なに)やら、物を云(い)ひ掛(か)かりたき風情(ふぜい)、皺(しは)の寄(よ)りたる鼻(はな)の先(さき)に、あらはれし、さてはと、人の透(す)き間(ま)を見あはせ、釘貫(くぎぬ)き木隠(こがく)れにて、彼(か)の中間(ちうげん)、耳(みみ)ちかく、我(わ)れ等(ら)に、何(なに)ぞ用(よう)があるかと、小語(ささや)きければ、中間、嬉(うれ)しそふなる、㒵(かほ)つきして、子細(しさい)は語(かた)らず、破鞘(われざや)の脇指(わきざし)を、ひねくりまはし、君(きみ)の御事ならば、それがし目が命(いのち)、惜(お)しからず、国(くに)かたの、姥(ばば)がうらみも、かへり見ず、七十二になつて、虚(うそ)は申さぬ、大膽者(だいたんもの)と、おぼしめさば、それからそれまで、神仏(かみほとけ)は正直(しやうぢき)、今まで申した念仏(ねんぶつ)が、無(む)になり、人さまの楊枝(やうじ)壱本(ほん)、それはそれは、違(ち)がやうとも、おもはぬと、上髭(うはひげ)のある口から、長(なが)こと云(い)ふ程こそ、おかしけれ、そなた、我(わ)れ等(ら)に、ほれたといふ、一言(ごん)にて、濟(す)む事ではないか、といへば、親仁(おやじ)、潜(なみだ)然(ぐ)みて、それ程、人のおもはく、推量(すいりやう)なされましてから、難面(つれな)や、人に、べんべんと、詢(くど)かせられしは、聞(き)こえませぬと、無理(むり)なる、恨(うら)みを申すも、はや悪(に)くからず、律儀千萬(りちぎせんばん)なる年寄(としよ)りの、おもひ入れも、いたましく、移(うつ)り気(ぎ)になつて、小宿(こやど)に行(ゆ)けば、したい事するに、それを待(ま)ち兼(か)ね、数寄(すき)屋橋(ばし)の、かしばたなる、煮賣(にう)り屋に、恥(はぢ)を捨(す)てて、かけ込(こ)み、溫飩(うどん)すこしと、云(い)ひさま、亭主(ていしゆ)が目遣(めづか)ひ見れば、階(はし)の子(こ)、をしへける、二階(かい)にあがれば、内義(ないぎ)が、おつぶりと、気(き)を付けけるに、何事ぞと、おもへば、軒(のき)ひくうして、立つ事、不自由(ふじゆう)なり、疊(たたみ)弐枚(まい)敷(じき)の所を、澁紙(しぶかみ)にてかこひ、片隅(かたすみ)に、明(あか)り窓(まど)を請(う)けて、木枕(きまくら)ふたつ、置(を)きけるは、けふにかぎらず、曲者(くせもの)と、おもはれける、彼(か)の親仁(おやじ)に、添(そ)ひ臥(ぶ)しして、うれしがりぬる事を、限(かぎ)りもなく、気(き)のつきぬる程(ほど)、語(かた)りぬれども、身をすくめて、上気(じやうき)する折(を)りふしを、見あはせ、かたい帯(おび)の、むすびめなりと、ときかけぬれば、親仁(おやじ)、すこしは、うかれて、下帯(したおび)むさきと、おぼし召(め)すな、四、五日跡(あと)に、洗(あら)ひましたと、無用(むよう)の云(い)ひ分(わ)け、おかし、耳(みみ)とらへて、引(ひ)きよせ、腰(こし)の骨(ほね)のいたむ程、なでさすりて、もやもや、仕掛(しか)けぬれども、さりとは不埒(ふらち)、かくなるからは、残(この)り多(おほ)く、まだ日が高(たか)いと、云(い)ふて聞(き)かして、脇(わき)の下(した)へ、手をさしこめば、親仁(おやじ)、むくむくと、起(お)きあがるを、首尾(しゆび)かと、待(ま)ち兼(か)ねしに、昔(むかし)の劔(つるぎ)、今の菜刀(ながたな)、寶(たから)の山へ入りながら、むなしく帰ると、古(ふる)いたとへ事、云(い)ひさま、帯(おび)するを、引(ひ)きこかし、なんのかの、言葉(ことば)かさなるうちに、茶(ちや)屋の阿爺(とと)、階子(はしご)ふたつ目に、揚(あが)りて、申し申し、あたら溫飩(うどん)が、延(の)び過(す)ぎますがと、せはしくいふにぞ、なを親仁(おやじ)、おもひ切(き)りける、下(した)を覗(のぞ)けば、天窓(あたま)、剃(そ)り下(さ)げたる奴(やつこ)が、二十四、五なる、前髪(まへがみ)の草履(ざうり)取(と)りを、つれ来て、是もぬれとは、見えすきて、座敷(ざしき)入(い)ると聞(き)こえて、さてこそとおもはれーーー」(井原西鶴「屋敷琢澁皮」(やしきみがきのしぶりかわ)」『好色一代女・卷四・P.135~142』岩波文庫)

西鶴の描いた「一代女」はその時その時の環境に応じてさっさと身の振り方を変えていく。気持ちの切り換えがとても巧みだ。生活環境に対して機敏な反応を見せる。そうであって始めて、階段で男性同性愛者の客が上がってくる声を聞き取ることもできるのである。とすれば、変身とは何か。どういう態度をいうのか。いつも瞬時に変身する準備が出来ていること。同時にけっして変身してはいけない場面を心得ていること。江戸時代の女性たちは貧乏ではあった。しかしなかなかしたたかでもあったのだ。そうでなくては生きていけなかった。

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熊楠による熊野案内/和歌になった妖怪・リゾーム化する決算期

2021年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

はっきりした日付は特定できない。一条天皇の后・藤原彰子が京極殿(きやうごくどの)で遭遇した妖怪〔鬼・ものの怪〕について。なお、「上東門院(じやうとうもんゐん)」=「藤原彰子(ふじわらのしょうし)」=「藤原道長(ふじわらのみちなが)の娘」。「京極殿(きやうごくどの)」は今の京都市上京区にある京都御苑内・大宮御所(おおみやごしょ)の北部部分。藤原道長の邸宅があった。また「京極殿(きやうごくどの)」は「土御門殿(つちみかどどの)」とも呼ばれた。全盛期の様子を紫式部が書き留めている。

秋の気配が漂う頃になると言いようのない風情に満たされる。池のほとりのあちこちに立つ木の梢、さらに庭に引き入れてある細い流れに沿う草花など、一面は様々に色付いている。この季節の空はとりわけ美しい。また彰子は出産のために土御門殿で休んでいるわけだが、安産を願って昼夜を問わず唱えられている読経の声は空の美しさと相まり、しんみりと身に沁みてくるようだ。そのうち風が涼しくなると、絶えず流れている庭のせせらぎの音は読経の声とまざり合いつつ、夜通し聞こえてくるのだった。

「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿(つちみかどどの)の有様、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢(こずゑ)ども、遣水(やりいづ)のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空もえんなるにもてはやされて、不断(ふだん)の御読経(どきやう)の声々あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる」(「紫式部日記・p.7」岩波文庫)

或る春の日。彰子は南側に廂(ひさし)を設けた「日隠(ひがく)シノ間(ま)」で満開の桜を楽しんでいた。そこへ不意に「コボレテニホフ花ザクラカナ」と、この上なく神々しい声が響くのを聞いた。誰だろうと格子を開けて部屋の周囲や庭を見渡してみたが人の気配はどこにもない。いったい何者、と不審に思う。

「南面ノ日隠(ひがく)シノ間(ま)ノ程ニ、極(いみ)ジク気高(けたか)ク神(かみ)ザビタル音(こゑ)ヲ以(もつ)テ。『コボレテニホフ花ザクラカナ』ト長(なが)メケレバ、其ノ音(こゑ)ヲ院聞(きこしめ)サセ給ヒテ、『此(こ)ハ何(いか)ナル人ノ有ルゾ』ト思(おぼ)シ食(めし)テ、御障子(みしやうじ)ノ被上(あげられ)タリケレバ、御簾(みす)ノ内ヨリ御覧(ごらん)ジケルニ、何(いか)ニモ人ノ気色(けしき)モ無カリケレバ、『此(こ)ハ何(い)カニ。誰(た)ガ云ツル事ゾ』」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十八・P.142~143」岩波書店)

人を呼び周辺を探らせてみた。しかし人間の姿はまったく見当たらない。彰子はもしや「鬼神(おにかみ)」の仕業かと考え、当時関白だった藤原頼通(よりみち)に伝えた。すると返ってきた返事というのが、その現象は京極殿につきものの習慣で何も今に始まったことでない、いつもその和歌の一節を詠む声がするとのこと。

「其(そ)レハ、其(そこ)ノクセニテ、常ニ然様(さやう)ニ長(なが)め候フ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十八・P.143」岩波書店)

彰子が聞いた和歌の一節「コボレテニホフ花ザクラカナ」。この歌には原典がある。

「菅家万葉集の中

浅緑(あさみどり)野辺(のべ)の霞は包(つつ)めどもこぼれてにほふ花桜(ざくら)哉」(「拾遺和歌集・巻第一・四十・よみ人知らず・P.14」岩波書店)

なるほど「よみ人知らず」とあるものの、一方、「菅家万葉集の中」の一首として紹介されている。「菅家万葉集」(新撰万葉集)の撰者に関しては諸説あるものの、延喜一年(九〇一年)に太宰府に左遷されて死んだ菅原道真の私撰和歌集との説が最有力。延喜十三年(九一三年)には成立したようだ。その翌年の延喜十四年(九一四年)、日本初の勅撰和歌集・「古今和歌集」が紀友則(きのとものり)、紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこおうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)によって編纂された。「コボレテニホフ花ザクラカナ」の歌は古今集には載らず次の「後撰和歌集」にも載らず、約九十年後の「拾遺和歌抄」並びに「拾遺和歌集」に掲載された。同時期には「源氏物語」や「枕草子」が書かれていて平安時代文芸文化の全盛期に当たる。けれども政治の表舞台では出家していた花山院が愛人のもとへ通っていることが暴露され、それを藤原道長が利用して政敵(と言っても圧倒的に政治手腕に長けていたのは道長の側だが)の藤原伊周(これちか)・藤原隆家(たかいえ)らを都合よく左遷し去った。左遷先だが隆家は出雲、しかし伊周は太宰府。道真の左遷先と妙に重なる。なおかつ御霊(ごりょう)=怨霊(おんりょう)信仰が幅を利かせていた時代だったからか、道真左遷から九十年ほども後になり初めて勅撰和歌集に取り上げられる経過を辿ったのではと思われる。そうした政治的背景を考慮すると次のように、常は夜に出現するのが常識だった妖怪〔鬼・ものの怪〕が、なぜ白昼の「京極殿(きやうごくどの)」に出現したかが見えてきそうに思う。

「然様(さやう)ノ物ノ霊ナドハ、夜(よ)ルナドコソ現(げん)ズル事ニテ有レ、真日中(まひなか)ニ、音(こゑ)ヲ挙(あげ)テ長(なが)メケム、実(まこと)ニ可怖(おそるべ)キ事也カシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十八・P.143」岩波書店)

妖怪〔鬼・ものの怪〕は和歌にも変身するわけだ。近現代になって和歌集あるいは短歌集が商品に《なる》ように、と同時にいつでも貨幣交換可能に《なる》ように。

さらに白昼の「京極殿(きやうごくどの)」で和歌の吟詠が起こることについて「それは京極殿のあの場所ではいつものことだ」と言った藤原頼通は天喜一年(一〇五三年)、宇治に平等院鳳凰堂を建立している。翌天喜三年(一〇五五年)には三島由紀夫がこよなく愛した「堤中納言物語」が書かれる。毛虫大好きな毛虫フェチでなおかつ美貌の姫君にまつわる短編が有名。

「かくまであらぬも、世(よ)のつねび、ことざま、気配(けはい)もてつけぬるは、くうちをしうやはある。まことに、うとましかるべきさまなれど、いと清(きよ)げに、けだかう、わづらはしきけぞことなるべき。あな、くちをし。などか、いとむつけき心なるらむ。かばかりなるさまを」(「虫めづる姫君」『堤中納言物語・P.42』岩波文庫)

この姫君ほど美女でなくてもごく普通に世間で通っている常識的身振り物腰を身に付けた女性はたくさんいる。それを思うと残念な気持ちがしないだろうか。なるほど実に親しみにくい様子ではあるものの、とても凛としていて清廉高貴な雰囲気を漂わせておられる。ところが毛虫好きという厭わしい性癖。惜しいことだ。ぞっとするほど気味悪い。これほど美しい姫君であるのに。

そう周囲はいう。けれども姫君にすればそんな周囲の評価などどうでもよい。ただ見つけては手に取って這わせる毛虫どもの可愛らしさがたまらなくうっとりする。卑猥というより、随分後になって谷崎潤一郎が描いたような耽美主義的色彩が平安文学にも大きな陰翳を投げかけ出したばかりか、むしろそのような耽美性こそ味わい深く書かれ、また読み込まれるようになってきていた。そして言わねばならないが、この姫君の性癖がどれほど奇異に映って見えたとしても、「堤中納言物語」で忽然と登場した姫君はもはや妖怪〔鬼・ものの怪〕ではない。近代的フェチの先駆けというにふさわしい。なお、このような趣味性癖の出現を準備したのは間違いなく「源氏物語」である。江戸時代になって書かれた西鶴「好色一代男」が、実は「源氏物語」を下敷きにした或る種のパロディだとわかる人々。それが今や風前の灯と言っていいほど減少したのはなぜだろうか。日本は言葉(数式もまた一種の言語)を大切にする国だと言われてきた。だがそのようなことはもはや誰にも言えなくなってしまったように思う。

なお現在、日本政府による国策の致命的失策から一年を通してずっと「決算期」=「かつての晦日・年末」に陥っていることをはっきりさせておかないと危険この上ない。かつて熊楠はいった。

「私は友人の孫逸仙ーーー『ロンドン幽囚記』の著者ーーーから、広東で豊富に産するが、今では単に少年少女の娯楽の対象になっていると聞いた。日本でも少しも珍しいものではなく、酢貝(すがい)と呼ばれて、子供たちの玩具になっている。しかし、かつては情事に用いられたものらしい。西鶴(十七世紀)は熊野比丘尼が持ち運んで売る品物の主要なものの中に、それを記している」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.383~384』河出文庫)

「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)

年末の決算期はさらに厳しい。

「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・巻五・P.147』角川文庫)

とあるように精一杯歌い踊りを繰り返してもなお、故郷へ帰ることは絶望的になっていた。

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