前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
次に見ておきたい説話。だが、その現場はどの国のどの辺りなのか、欠字になっている。しかしだいたい想定することはできるだろう。男性の兄弟がいた。兄は地元で猟を生業に専念していた。弟は京の都で宮仕えしている。或る年の九月下旬頃、兄が鹿狩りのため山に入って「灯(ともし)」という狩猟法を用いて獲物を探していたところ、自分の名を呼ぶ「辛(から)ビタル音(こゑ)」=「しゃがれ声」が聞こえた。怪しく思った兄は乗っていた馬でもう一度引き返し、今度は弓を持つ手(左手)を声がした方向へ向けて通過してみた。すると今度は自分の名を呼ぶ声はまったくしない。兄が弓を持つ手(左手)を声がしてきた方向へ持ち換えて通ってみたわけは、その場合、逆に持っているよりも素早く矢を射ることができるからである。
「而(しか)ル間、其ノ兄、九月ノ下(しも)ツ暗(やみ)ノ比(ころ)、灯(ともし)ト云フ事ヲシテ、大キナル林ノ当(あた)リヲ過(すぎ)ケルニ、林ノ中ニ辛(から)ビタル音(こゑ)ノ気色異(こと)ナルヲ以(もつ)テ、此ノ灯(ともし)為(す)ル者ノ姓名(しやうみやう)ヲ呼(よび)ケレバ、怪(あやし)ト思(おもひ)テ馬ヲ押返(おしかへ)シテ、其ノ呼ブ音ヲ弓手様(ゆむでざま)ニ成(な)シテ、火ヲ焔串(ほぐし)ニ懸(かけ)テ行(ゆきけ)レバ、其ノ時ニハ不呼(よば)ザリケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.154」岩波書店)
類話が載る「宇治拾遺物語」を参照すると、現場は奈良の吉野の山間部ではと考えられる。その前に予備知識を少し。
今の奈良県吉野郡吉野町に「龍門寺(りゅうもんじ)跡」という遺跡がある。寺院本体の「龍門寺(りゅうもんじ)」は七世紀後半創建とされる。周辺はかつてから「龍門(りゅうもん)」と呼ばれていた。そこに一人の聖(ひじり)がいた。「宇治拾遺物語」では住んでいる地名を取って「龍門(りゅうもん)の聖(ひじり)」と呼んだらしい。ということは寺院が奈良の興福寺傘下に入るよりも以前、寺院らしき伽藍を備えて仏教化されるよりも以前、吉野の奥には山岳信仰が根付いていたと考えられる。だから「聖(ひじり)」なのだ。当時は仏教の高僧とはまた違い、「聖(ひじり)」は「仙人(せんにん)」というに近く、彼らの住む地域は聖地・霊場として認識されていた。三仙人〔大伴仙・安曇(あづみ)・久米仙(くめせん)〕を輩出してことで有名。少なくとも「あづみ・久米(くめ)」の二人は「今昔物語」に名が出ている。だが古代奈良時代から戦後昭和・平成・令和になってなお仙人と言えばただ一人「久米仙(くめせん)」の一人勝ちとも言える状況が続いているのはなぜだろう。
仙人は空を飛ぶことができるという神仙思考はそもそもインドや中国から輸入されたものだが、中でも久米仙ばかり圧倒的に人気なのは女性のふくらはぎに目を奪われて空から落下した伝説による。山間部の名もない女性が川で洗濯中に衣服の裾をまくり上げてむくらはぎを丸出しにしている場面を目にした久米仙。たちまち心を奪われ、洗濯している女性の目の前に落ちてしまった。
「久米も既に仙に成て、空に昇て飛(とび)て渡る間、吉野河の辺(ほとり)に、若き女衣(きぬ)を洗(あらい)て立(た)てり。衣を洗ふとて、女の膨胵まで衣を掻上(かきあげ)たるに、膨の白かりけるを見て、久米心穢(けが)れて、其(その)女の前に落(おち)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十一・第二十四・P.91」岩波文庫)
兼好も好きものだったようで「徒然草」にこうある。
「久米(くめ)の仙人(せんにん)の、物洗ふ女の脛(はぎ)を見て、通(つう)を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥(こ)え、あぶらづきたらんは、外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし」(兼好「徒然草・第八段・P.28」岩波文庫)
兼好によれば、女性のふくらはぎは肥えていればいるほど好いというわけではない。ただ単にぶくぶくと肥えているのではなくて、太すぎず細すぎず、さらにどちらかといえば或る程度あぶらの乗った感じであれば、それこそ浮世離れした神にも近い身体というべきかと言うわけだ。今でいえば一九八〇年代後半に突如出現した森高千里のようなイメージだろう。とはいえ、それはあくまで久米仙とか兼好とかが理想とした女性の体型であり、そうでない体型を理想とする人々がどれほど多いかはLGBTのみならず異性愛者の間でも理想の身体について随分と異なることはもはや常識に属する。ただ、久米仙の仙人たるところは空を飛んだとかいう滑稽譚にあるのではないと思われる。むしろ逆に「この女性なら」と直感するや忽ち仙人など辞めてしまい、地上に降り立ち、まさしくその女性に求婚して夫婦になった点に求めることができる。というのも、そもそも久米仙はなぜ空を飛んでいたのか。空から地上を見下ろして何か探し物でもしていたのだろうか。とすれば、久米仙はものの見事に理想の女性と夫婦になって、愛してやまない女体と共に暮らし生涯をまっとうすることができた。逆説的に言えば、仙人としての本懐を遂げたと十分に言いうる。
ちなみに熊楠は久米仙に引っかけて自分のことをしばしば「熊仙(くません)」と書いている。これは大変大事なことで、自己パロディ化のためにはただ単なるパロディやジョークとは違ったユーモア独特の技術が必要であり、熊楠はそれを身に付けている点だろう。
さて、そのような伝説が残る奈良・吉野の山間部という条件を頭に入れたところで、改めて「灯(ともし)」という狩猟法について。
「ともしといふ事をしける比(ころ)、いみじうくらかりける夜、照射(ともし)に出(いで)にけり。鹿(しし)をもとめありく程に、目をあはせたりければ、『鹿ありけり』とて、おしまはしおしまはしするに、たしかに目をあはせたり」(「宇治拾遺物語・巻第一・七・P.26」角川文庫)
月の出ない下旬頃、猟師は暗闇に満ちた森林の中に入って灯火を掲げて様子をみる。すると灯火の側を振り返ってじっと見る鹿はいつも何頭かいる。今でもそうだ。鹿の目に灯火の光が反射した隙を見計らって矢を射て仕留める猟法。
しばらくして弟が宮仕えから帰宅してきた。宮仕えといっても地位や役職によりけりで時々地元に戻ることはしばしばあったから。兄は先日「灯(ともし)」に出た際、妖怪〔鬼・ものの怪〕の仕業かと思われる声を聞いたと弟に語った。弟は確かめてみる必要があると思い、一旦様子を探りに自分一人で出かけることにした。現場付近に差し掛かった。すると人の名前を呼ぶ声がする。ところがよく聞くとその名前は弟の名前ではなく兄の名前である。その夜はそれを確かめただけで帰宅することにした。
「彼(か)ノ林ノ当(あた)リヲ過(すぎ)ケルニ、其ノ弟ノ名ヲバ不呼(よば)ズシテ、本(もと)ノ兄ガ名ヲ呼ケレバ、弟、其ノ夜ハ其ノ音(こゑ)ヲ聞(きき)ツル許(ばかり)ニテ返(かへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.154」岩波書店)
家に戻った弟は兄にいう。確かに奇妙な声は聞こえました。でもお兄さんと僕の名前を間違えて呼んでいるのです。思うに、妖怪〔鬼・ものの怪〕だとしてもかなり低級な部類かも知れませんね。明日また出かけて行って正体をばらして見たいと思います。
「実ノ鬼神(おにかみ)ラナバ己(おの)ガ名コソ可呼(よぶべ)キニ、其御名(そこのみな)ヲコソ尚(なほ)呼ビ候ヒツレ。其(そ)レヲ不悟(さとら)ヌ許(ばかり)ノ者ナレバ、明日ノ夜罷(まかり)テ、必ズ射顕(いあらは)シテ見セ奉ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.154~155」岩波書店)
弟は翌日の夜、前夜に試してみたように「火ヲ燃(とも)シテ其(そこ)ヲ通(とほり)ケルニ」、名を呼ぶ声が聞こえてくる方向に右手を向けている時は声がする。が、名を呼ぶ声が聞こえてくる方向に左手を向けて弓を素早く発射できる体勢で馬を歩かせると呼び声はしない。そこで弟は考えた。馬の鞍を逆に置き換えて自分も後ろ向きに馬に乗る。そして現場を通り過ぎてみた。すると兄の名を呼ぶ声がした。とっさに弟は声のした方向へ向けて一気に矢を射た。と、矢が何かに突き刺さった手応えのようなものを感じた。今度は再び馬の鞍を置き直しいつもの体勢で同じ場所を通り過ぎてみた。もう声はしなかった。いったん家に戻ることにした。
「亦(また)ノ夜、夜前(よべ)ノ如ク行(ゆき)テ、火ヲ燃(とも)シテ其(そこ)ヲ通(とほり)ケルニ、女手(めて)なる時ニハ呼ビ、弓手(ゆむで)ナル時ニハ不呼(よば)ザリケレバ、馬ヨリ下(おり)テ、鞍ヲ下(おろし)テ馬ニ逆様(さかさま)ニ置(おき)テ、逆様ニ乗(のり)テ、呼ブ者ニハ女手(めて)ト思ハセテ、我レハ弓手(ゆむで)ニ成(なし)テ、火を焔串(ほぐし)ニ懸(かけ)テ、箭(や)ヲ番(つが)ヒ儲(まうけ)テ過(すぎ)ケル時ニ、女手ト思(おもひ)ケルニヤ、前(さき)ノ如ク兄ガ名ヲ呼(よび)ケルヲ、音(こゑ)ヲ押量(おしはかり)テ射タリケレバ、尻答(しりこた)ヘツト思(おぼ)エテ、其ノ後、鞍ヲ例(れい)ノ様(やう)ニ置直(おきなほ)シテ、馬ニ乗テ女手ニテ過(すぎ)ケレドモ、音(こゑ)モ不為(せ)ザリケレバ、家ニ返(かへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.155」岩波書店)
夜が明けた。兄弟は現場の様子を見に、連れ立って山林の中へ入り様子を探ると、大きな「野猪(くさゐなぎ)」が矢に射抜かれ木に打ち付けられて死んでいた。
「夜明(あけ)ケルママニ、兄弟掻烈(かきつれ)テ行(ゆき)テ見ケレバ、林ノ中ニ、大キナル野猪(くさゐなぎ)木ニ被射付(いつけられ)テゾ、死(しに)テ有(あり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.155」岩波書店)
そこで「野猪(くさゐなぎ)」とは何か。「猪(いのしし)」ではない。猪(いのしし)はもっとはっきりした獣であり、山中の予想外のところで人間に出くわしたりすると、忽ち猛烈な速度で強靭な角を立てながら突進し、人間など四、五メートルほどもあっけなく吹っ飛ばしてしまう。一撃で仕留めないと猟師の側が殺されてしまう。「野猪(くさゐなぎ)」はそのような猪突猛進型ではなく、もっととぼけた、時には愛着の持てる動物だ。要するに「狸(たぬき)」を指す。
「谷の底に大なる狸の、胸よりとがり矢を射とほされて死(し)にてふせりけり」(「宇治拾遺物語・巻第八・六・P.201」角川文庫)
俗に「狸寝入り・狸おやじ」という言葉がある。古代ギリシア神話でオデュッセウスが「狂気」を装って面倒な出征を休もうとしたところ、結局ばれた話に似ている。
「アガメムノーンはそれで諸王に使いを遣(つか)わし、彼らが誓った誓言を思い出さしめ、ギリシアに対するこの侮辱はすべての者に共通であると言って、各人が自分の妻の安全を計るようにと勧告した。多くの者が出征に熱心であった。そしてある者がイタケーのオデュセウスの所に赴いた。しかし、彼は出征を欲せず、狂気を装った。しかし、ナウプリオスの子パラメーデースはその狂気が偽りであることを証した。そして狂気を装っているオデュセウスの後をつけ、ペーネローペーの懐よりテーレマコスを奪って、殺すかのごとくに剣を抜いた。オデュセウスは子供のことを心配して、偽りの狂気であることを白状して軍に従った」(アポロドーロス「ギリシア神話・摘要3・P.182」岩波文庫)
今の日本の政治家が都合次第で病院に入院したり急に体調不良を訴えたりするのに似ている。しかしオデュッセウスと政治家とではその目的も目標もまるで違っている。天と地ほども異なる。
なお、先に述べた「龍門寺(りゅうもんじ)」だが、かつては「竜門の滝」の上に造られていた。芭蕉が句を残している。
「龍門の花や上戸(じやうご)の土産(つと)にせん」(「笈の小文」『芭蕉紀行文集・P.81』岩波文庫)
さらに。
「酒のみに語らんかかる瀧の花」(「笈の小文」『芭蕉紀行文集・P.81』岩波文庫)
どちらの句もなぜ酒に関係しているのだろう。言ってしまうと、芭蕉の念頭には李白の詩の一節・「飛滝直下三千尺」(「望廬山瀑布」)がある。飛沫(しぶき)を上げる壮大な滝を眺めながら盃を傾けるのも風流なものだと。それを思うと今の東京都・銀座で深夜に飲み食いしている人間が国会議員のままのさばり返っている日本というのは、世界的に見てほぼ確実に論外だろうと思わざるを得ない。そしてまた「狸(たぬき)」は人間でない。動物である。動物でありながら、しかし妖怪〔鬼・ものの怪〕にふさわしい変身もままならない「狸(たぬき)」は、なぜ時として愛されるのか。狸とは何か。それはおそらく彼らが、貨幣になろうとどんなに苦労を重ねてみてもけっして貨幣になりきれない悲哀の象徴だからかも知れない。
BGM1
BGM2
BGM3
次に見ておきたい説話。だが、その現場はどの国のどの辺りなのか、欠字になっている。しかしだいたい想定することはできるだろう。男性の兄弟がいた。兄は地元で猟を生業に専念していた。弟は京の都で宮仕えしている。或る年の九月下旬頃、兄が鹿狩りのため山に入って「灯(ともし)」という狩猟法を用いて獲物を探していたところ、自分の名を呼ぶ「辛(から)ビタル音(こゑ)」=「しゃがれ声」が聞こえた。怪しく思った兄は乗っていた馬でもう一度引き返し、今度は弓を持つ手(左手)を声がした方向へ向けて通過してみた。すると今度は自分の名を呼ぶ声はまったくしない。兄が弓を持つ手(左手)を声がしてきた方向へ持ち換えて通ってみたわけは、その場合、逆に持っているよりも素早く矢を射ることができるからである。
「而(しか)ル間、其ノ兄、九月ノ下(しも)ツ暗(やみ)ノ比(ころ)、灯(ともし)ト云フ事ヲシテ、大キナル林ノ当(あた)リヲ過(すぎ)ケルニ、林ノ中ニ辛(から)ビタル音(こゑ)ノ気色異(こと)ナルヲ以(もつ)テ、此ノ灯(ともし)為(す)ル者ノ姓名(しやうみやう)ヲ呼(よび)ケレバ、怪(あやし)ト思(おもひ)テ馬ヲ押返(おしかへ)シテ、其ノ呼ブ音ヲ弓手様(ゆむでざま)ニ成(な)シテ、火ヲ焔串(ほぐし)ニ懸(かけ)テ行(ゆきけ)レバ、其ノ時ニハ不呼(よば)ザリケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.154」岩波書店)
類話が載る「宇治拾遺物語」を参照すると、現場は奈良の吉野の山間部ではと考えられる。その前に予備知識を少し。
今の奈良県吉野郡吉野町に「龍門寺(りゅうもんじ)跡」という遺跡がある。寺院本体の「龍門寺(りゅうもんじ)」は七世紀後半創建とされる。周辺はかつてから「龍門(りゅうもん)」と呼ばれていた。そこに一人の聖(ひじり)がいた。「宇治拾遺物語」では住んでいる地名を取って「龍門(りゅうもん)の聖(ひじり)」と呼んだらしい。ということは寺院が奈良の興福寺傘下に入るよりも以前、寺院らしき伽藍を備えて仏教化されるよりも以前、吉野の奥には山岳信仰が根付いていたと考えられる。だから「聖(ひじり)」なのだ。当時は仏教の高僧とはまた違い、「聖(ひじり)」は「仙人(せんにん)」というに近く、彼らの住む地域は聖地・霊場として認識されていた。三仙人〔大伴仙・安曇(あづみ)・久米仙(くめせん)〕を輩出してことで有名。少なくとも「あづみ・久米(くめ)」の二人は「今昔物語」に名が出ている。だが古代奈良時代から戦後昭和・平成・令和になってなお仙人と言えばただ一人「久米仙(くめせん)」の一人勝ちとも言える状況が続いているのはなぜだろう。
仙人は空を飛ぶことができるという神仙思考はそもそもインドや中国から輸入されたものだが、中でも久米仙ばかり圧倒的に人気なのは女性のふくらはぎに目を奪われて空から落下した伝説による。山間部の名もない女性が川で洗濯中に衣服の裾をまくり上げてむくらはぎを丸出しにしている場面を目にした久米仙。たちまち心を奪われ、洗濯している女性の目の前に落ちてしまった。
「久米も既に仙に成て、空に昇て飛(とび)て渡る間、吉野河の辺(ほとり)に、若き女衣(きぬ)を洗(あらい)て立(た)てり。衣を洗ふとて、女の膨胵まで衣を掻上(かきあげ)たるに、膨の白かりけるを見て、久米心穢(けが)れて、其(その)女の前に落(おち)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十一・第二十四・P.91」岩波文庫)
兼好も好きものだったようで「徒然草」にこうある。
「久米(くめ)の仙人(せんにん)の、物洗ふ女の脛(はぎ)を見て、通(つう)を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥(こ)え、あぶらづきたらんは、外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし」(兼好「徒然草・第八段・P.28」岩波文庫)
兼好によれば、女性のふくらはぎは肥えていればいるほど好いというわけではない。ただ単にぶくぶくと肥えているのではなくて、太すぎず細すぎず、さらにどちらかといえば或る程度あぶらの乗った感じであれば、それこそ浮世離れした神にも近い身体というべきかと言うわけだ。今でいえば一九八〇年代後半に突如出現した森高千里のようなイメージだろう。とはいえ、それはあくまで久米仙とか兼好とかが理想とした女性の体型であり、そうでない体型を理想とする人々がどれほど多いかはLGBTのみならず異性愛者の間でも理想の身体について随分と異なることはもはや常識に属する。ただ、久米仙の仙人たるところは空を飛んだとかいう滑稽譚にあるのではないと思われる。むしろ逆に「この女性なら」と直感するや忽ち仙人など辞めてしまい、地上に降り立ち、まさしくその女性に求婚して夫婦になった点に求めることができる。というのも、そもそも久米仙はなぜ空を飛んでいたのか。空から地上を見下ろして何か探し物でもしていたのだろうか。とすれば、久米仙はものの見事に理想の女性と夫婦になって、愛してやまない女体と共に暮らし生涯をまっとうすることができた。逆説的に言えば、仙人としての本懐を遂げたと十分に言いうる。
ちなみに熊楠は久米仙に引っかけて自分のことをしばしば「熊仙(くません)」と書いている。これは大変大事なことで、自己パロディ化のためにはただ単なるパロディやジョークとは違ったユーモア独特の技術が必要であり、熊楠はそれを身に付けている点だろう。
さて、そのような伝説が残る奈良・吉野の山間部という条件を頭に入れたところで、改めて「灯(ともし)」という狩猟法について。
「ともしといふ事をしける比(ころ)、いみじうくらかりける夜、照射(ともし)に出(いで)にけり。鹿(しし)をもとめありく程に、目をあはせたりければ、『鹿ありけり』とて、おしまはしおしまはしするに、たしかに目をあはせたり」(「宇治拾遺物語・巻第一・七・P.26」角川文庫)
月の出ない下旬頃、猟師は暗闇に満ちた森林の中に入って灯火を掲げて様子をみる。すると灯火の側を振り返ってじっと見る鹿はいつも何頭かいる。今でもそうだ。鹿の目に灯火の光が反射した隙を見計らって矢を射て仕留める猟法。
しばらくして弟が宮仕えから帰宅してきた。宮仕えといっても地位や役職によりけりで時々地元に戻ることはしばしばあったから。兄は先日「灯(ともし)」に出た際、妖怪〔鬼・ものの怪〕の仕業かと思われる声を聞いたと弟に語った。弟は確かめてみる必要があると思い、一旦様子を探りに自分一人で出かけることにした。現場付近に差し掛かった。すると人の名前を呼ぶ声がする。ところがよく聞くとその名前は弟の名前ではなく兄の名前である。その夜はそれを確かめただけで帰宅することにした。
「彼(か)ノ林ノ当(あた)リヲ過(すぎ)ケルニ、其ノ弟ノ名ヲバ不呼(よば)ズシテ、本(もと)ノ兄ガ名ヲ呼ケレバ、弟、其ノ夜ハ其ノ音(こゑ)ヲ聞(きき)ツル許(ばかり)ニテ返(かへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.154」岩波書店)
家に戻った弟は兄にいう。確かに奇妙な声は聞こえました。でもお兄さんと僕の名前を間違えて呼んでいるのです。思うに、妖怪〔鬼・ものの怪〕だとしてもかなり低級な部類かも知れませんね。明日また出かけて行って正体をばらして見たいと思います。
「実ノ鬼神(おにかみ)ラナバ己(おの)ガ名コソ可呼(よぶべ)キニ、其御名(そこのみな)ヲコソ尚(なほ)呼ビ候ヒツレ。其(そ)レヲ不悟(さとら)ヌ許(ばかり)ノ者ナレバ、明日ノ夜罷(まかり)テ、必ズ射顕(いあらは)シテ見セ奉ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.154~155」岩波書店)
弟は翌日の夜、前夜に試してみたように「火ヲ燃(とも)シテ其(そこ)ヲ通(とほり)ケルニ」、名を呼ぶ声が聞こえてくる方向に右手を向けている時は声がする。が、名を呼ぶ声が聞こえてくる方向に左手を向けて弓を素早く発射できる体勢で馬を歩かせると呼び声はしない。そこで弟は考えた。馬の鞍を逆に置き換えて自分も後ろ向きに馬に乗る。そして現場を通り過ぎてみた。すると兄の名を呼ぶ声がした。とっさに弟は声のした方向へ向けて一気に矢を射た。と、矢が何かに突き刺さった手応えのようなものを感じた。今度は再び馬の鞍を置き直しいつもの体勢で同じ場所を通り過ぎてみた。もう声はしなかった。いったん家に戻ることにした。
「亦(また)ノ夜、夜前(よべ)ノ如ク行(ゆき)テ、火ヲ燃(とも)シテ其(そこ)ヲ通(とほり)ケルニ、女手(めて)なる時ニハ呼ビ、弓手(ゆむで)ナル時ニハ不呼(よば)ザリケレバ、馬ヨリ下(おり)テ、鞍ヲ下(おろし)テ馬ニ逆様(さかさま)ニ置(おき)テ、逆様ニ乗(のり)テ、呼ブ者ニハ女手(めて)ト思ハセテ、我レハ弓手(ゆむで)ニ成(なし)テ、火を焔串(ほぐし)ニ懸(かけ)テ、箭(や)ヲ番(つが)ヒ儲(まうけ)テ過(すぎ)ケル時ニ、女手ト思(おもひ)ケルニヤ、前(さき)ノ如ク兄ガ名ヲ呼(よび)ケルヲ、音(こゑ)ヲ押量(おしはかり)テ射タリケレバ、尻答(しりこた)ヘツト思(おぼ)エテ、其ノ後、鞍ヲ例(れい)ノ様(やう)ニ置直(おきなほ)シテ、馬ニ乗テ女手ニテ過(すぎ)ケレドモ、音(こゑ)モ不為(せ)ザリケレバ、家ニ返(かへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.155」岩波書店)
夜が明けた。兄弟は現場の様子を見に、連れ立って山林の中へ入り様子を探ると、大きな「野猪(くさゐなぎ)」が矢に射抜かれ木に打ち付けられて死んでいた。
「夜明(あけ)ケルママニ、兄弟掻烈(かきつれ)テ行(ゆき)テ見ケレバ、林ノ中ニ、大キナル野猪(くさゐなぎ)木ニ被射付(いつけられ)テゾ、死(しに)テ有(あり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十四・P.155」岩波書店)
そこで「野猪(くさゐなぎ)」とは何か。「猪(いのしし)」ではない。猪(いのしし)はもっとはっきりした獣であり、山中の予想外のところで人間に出くわしたりすると、忽ち猛烈な速度で強靭な角を立てながら突進し、人間など四、五メートルほどもあっけなく吹っ飛ばしてしまう。一撃で仕留めないと猟師の側が殺されてしまう。「野猪(くさゐなぎ)」はそのような猪突猛進型ではなく、もっととぼけた、時には愛着の持てる動物だ。要するに「狸(たぬき)」を指す。
「谷の底に大なる狸の、胸よりとがり矢を射とほされて死(し)にてふせりけり」(「宇治拾遺物語・巻第八・六・P.201」角川文庫)
俗に「狸寝入り・狸おやじ」という言葉がある。古代ギリシア神話でオデュッセウスが「狂気」を装って面倒な出征を休もうとしたところ、結局ばれた話に似ている。
「アガメムノーンはそれで諸王に使いを遣(つか)わし、彼らが誓った誓言を思い出さしめ、ギリシアに対するこの侮辱はすべての者に共通であると言って、各人が自分の妻の安全を計るようにと勧告した。多くの者が出征に熱心であった。そしてある者がイタケーのオデュセウスの所に赴いた。しかし、彼は出征を欲せず、狂気を装った。しかし、ナウプリオスの子パラメーデースはその狂気が偽りであることを証した。そして狂気を装っているオデュセウスの後をつけ、ペーネローペーの懐よりテーレマコスを奪って、殺すかのごとくに剣を抜いた。オデュセウスは子供のことを心配して、偽りの狂気であることを白状して軍に従った」(アポロドーロス「ギリシア神話・摘要3・P.182」岩波文庫)
今の日本の政治家が都合次第で病院に入院したり急に体調不良を訴えたりするのに似ている。しかしオデュッセウスと政治家とではその目的も目標もまるで違っている。天と地ほども異なる。
なお、先に述べた「龍門寺(りゅうもんじ)」だが、かつては「竜門の滝」の上に造られていた。芭蕉が句を残している。
「龍門の花や上戸(じやうご)の土産(つと)にせん」(「笈の小文」『芭蕉紀行文集・P.81』岩波文庫)
さらに。
「酒のみに語らんかかる瀧の花」(「笈の小文」『芭蕉紀行文集・P.81』岩波文庫)
どちらの句もなぜ酒に関係しているのだろう。言ってしまうと、芭蕉の念頭には李白の詩の一節・「飛滝直下三千尺」(「望廬山瀑布」)がある。飛沫(しぶき)を上げる壮大な滝を眺めながら盃を傾けるのも風流なものだと。それを思うと今の東京都・銀座で深夜に飲み食いしている人間が国会議員のままのさばり返っている日本というのは、世界的に見てほぼ確実に論外だろうと思わざるを得ない。そしてまた「狸(たぬき)」は人間でない。動物である。動物でありながら、しかし妖怪〔鬼・ものの怪〕にふさわしい変身もままならない「狸(たぬき)」は、なぜ時として愛されるのか。狸とは何か。それはおそらく彼らが、貨幣になろうとどんなに苦労を重ねてみてもけっして貨幣になりきれない悲哀の象徴だからかも知れない。
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