前回、NHK「朝ドラ」について述べた。しかしそれがステレオタイプなのはなぜか、という点についてまで述べたわけではない。個別的事例を上げるに留めた。今回は「ステレオタイプ」自身について少し述べてみよう。
世の中を支配するためには「ステレオタイプ」と化した言語の力が必要なのは論を待たない。しかしその種の言語の力を維持するためにはそれが何度もしつこく繰り返されて「ステレオタイプ化」したものでなくてはならないという制約がある。ところが制約であるにもかかわらず、むしろ制約ゆえに、この制約は極度に高速で反復可能であるという意味で、限度というものを知らない。しかし「ステレオタイプ」というものは、繰り返し強迫的に反復されることでそれがあたかも《真理》であるかのように図々しく成長してきた或る種の隠喩でしかない。
「ステレオタイプとは、魔力もなく熱狂もなく繰り返される単語である。あたかも自然であるかのように、あたかも、奇妙なことに、繰り返される単語は、どの度に、それぞれ異なった理由で、そこにふさわしいかのように、あたかも模倣されることが、もはや模倣と感じられなくなることがあり得るかのように。図々しい単語だ。凝着性を求めていて、自分の固執性を知らない。ニーチェは《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、といった。ところで、この理屈でいくと、ステレオタイプは《真理》に到る現実の道筋であり、案出された装飾を、記号内容の、規範的な、強制的な形式へと移行させる具体的な過程なのである。(新しい言語学を想像してみるといい。それは、もはや、単語の起源、すなわち、語源論も、それの伝播、すなわち、語彙論さえも研究せず、それらの凝固の過程、歴史的言述に沿ったそれらの厚みの具合を研究することになろう。この学問は、真理の歴史的起源以上のもの、それの修辞的、言語的性格を明らかにして、多分、体制にとって危険なものとなるだろう)。(新しい単語、あるいは、耐えがたい言述の悦楽と結びついた)ステレオタイプに対する警戒が絶対的不安定性の原理である。それは何物も大事にしない(どんな内容も、どんな選択も)。二つの重要な単語の結びつきが《当り前になる》と、すぐに吐き気を催す。あるものが当り前になると、私はすぐに放棄する。それが悦楽だ。空しい苛立ちだろうか。エドガー・ポーの小説の中で、催眠術をかけられた瀕死の病人、ヴァルデマー氏は、繰り返される質問(《ヴァルデマーさん、眠っていますか》)のおかげで、仮死状態のまま生き延びる。しかし、この延命は耐えがたい。偽りの死、残酷な死、それは終りではないのだ。果てることのないものだ(《後生だからーーー早くーーー早くーーー眠らせて下さいーーーそれとも、早く、覚して下さい、早くーーー私は死んだのですよ》)。ステレオタイプとは、このような、死ぬことのできない状態だ。吐き気を催すような」(バルト「テクストの快楽・P.80~82」みすず書房)
ニーチェからの引用は次の部分。
「真理とは、何なのであろうか?それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的諸関係の総体であって、それが、詩的、修辞的に高揚され、転用され、飾られ、そして永い間の使用の後に、一民族にとって、確固たる、規準的な、拘束力のあるものと思われるに到ったところのものである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)
ポーからの引用部分。
「『ヴァルドマアルさん、いまあなたがどんな気持で何を望んでいるか、説明して貰えますか?』ふたたび両頬に、あの消耗性疾患に特有の紅潮がすぐのぼってきた。(両顎と唇は相変らず硬直したままだったが)口のなかで舌がふるえ、というよりも、はげしく回転し、ついに、私がすでに述べた、あの同じものすごい声が叫んだ。『後生だ!ーーー早く!ーーー早く!ーーー眠らせてくれーーーでなかったら、早く!ーーー目をさまさせてくれ!ーーー早く!ーーー《俺は死んでるんだぞ!》』」(ポオ「ヴァルドマアル氏の病症の真相」『ポオ小説全集4・P.235』創元推理文庫)
ステレオタイプは残酷なのだ。それは強制的に強いられた「仮死状態」の存続である。しかしステレオタイプは日常生活の中に溶け込んでいる。始めから溶け込んでいたわけではないが、その時その時の権力者層にとって便利であるだけでなく大衆の中に溶け込ませることができたがゆえに、なぜか《真理》だと見なされるようになってきた過程にある瞞着的仮面でしかない。それは次第に「馴れ」によって視聴者の身体の一部分をも構成するようになる。「馴れ」=「馴化・一般化・平板化・記号化など」は、ステレオタイプの濫用によって果たされる。「馴れ」=「馴化・一般化・平板化・記号化など」は身体に対する刻印としても書き込まれる。ところで、この「身体への書き込み」はどのようにしてなされてきたか。遺伝情報だけではないのだ。むしろ人間は長期間に渡る過去の歴史において「馴化」へと意志するよう強制される時間を持ったのだ。それは社会の側から身体へ刻印されたのであってその逆ではない。「馴れ」るように強制されたし今なお強制されている。本来的な自由ではなく外部から与えられたという意味では不自由であり、それが不自由な強制から始まったとはすでに考えることができなくなってしまった不自由なのである。ところが、それが明らかなイデオロギーであるにもかかわらず身体化したのはどのようにしてだったか。
「反復される努力は、それがつねにおなじものを再生するにすぎないならば、いったいなんの役にたつというのだろう。反復がほんとうに効果を有しているとするなら、それはまず《分解し》、つぎに《ふたたび合成し》ながら、かくて身体という知性に語りかけるところにある。反復は、それがあらたにこころみられるたびごとに、ふくまれていた運動を展開し、そのつど身体の注意をあらたな細部に対して呼びおこすが、その細部はそれまでは気づかれずに生起していたものなのである。反復は身体に分割させ、分類させる。かくて身体に対して、なにが本質的なことがらであるかを強調してみせるのだ。反復は、全体的な運動のうちに一本一本、内的構造をしるしづける輪郭線を見いだしてゆく。この意味で運動は、身体がそれを理解したときに習得されたといえるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.220~221」岩波文庫)
言い換えれば「調教」なのだ。こっそり反復させられ整形手術的に施させる「馴れ」という「調教」によって、身体の自由すら形式化され奪われているのである。ほとんど知らないうちに自由を奪われていく自由、というわけだ。しかし人々は、そのようにして書き込まれるに至った身体に対する刻印を、今でいう「空気感」=「社会的同調圧力」による暴力的機械的作業の反復による作業の結果だとはもはや考えられなくなっている。それほど静かに時間をかけて行なわれてきたステレオタイプの反復。この長い作業を行なうに当たって、できるだけ精神的負荷をもたらさず無理なく遂行するためには、とりわけマスコミ(特にテレビ)を利用するのが何より効果的だった。マスコミ関係者の中に一体どれだけ「千年先」のことまで考えて報道に携わっている人間がいるだろうか。
「《機械時代の諸前提》。ーーー新聞や出版、機械、鉄道、電信は、それが千年先にもたらす結論をまだ誰ひとりあえて引き出そうとしたことのない諸前提(プレミス)である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・漂泊者とその影・二七八・P.465」ちくま学芸文庫)
そして大変多くの視聴者は自分が見ているものがステレオタイプの反復でしかないにもかかわらず、むしろステレオタイプのほうを好き好んで愛好するという自分自身の家畜化すら進んで要求するようにさえなっている。しかしニーチェがいうようにステレオタイプはけっして《真理》ではない。むしろただ単なる「鎮静剤」に過ぎない。そしてこの「鎮静剤」は「未知のものの既知のものへの還元」である以上、大変危険な依存性を持つ。
「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫)
習慣化しただけの欺瞞的《真理》が「自由主義的制度」として力を持ってくる場所では次のような現象が出現する。
「自由主義的制度は、それが達成されるやいなや、自由主義的であることをただちにやめる。あとになってみると、自由主義的制度にもまして忌まわしい徹底的な自由の加害者はいないのである。この制度が成就するものの《何であるか》は、よく知られている。すなわち、それは権力への意志を危うくし、それは山や谷をならして道徳へと高まったものであり、それは、卑小に、臆病に、享楽的にする、ーーーそれでもって凱歌をあげるのはいつでも群居動物である。自由主義、これは平たくいえば《群居動物化》のことにほかならない」(ニーチェ「偶像の黄昏・三八」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.127』」ちくま学芸文庫)
そしてこのことはアメリカで流行している「リバタリアン」ならびに「トランプ人気」と、けっして切り離して考えることができない。なぜアメリカはトランプを選んだのか。ただ単なる「大衆迎合主義」(ポピュリズム)とはどのように違うのか。マスコミは説明しようとしない。トランプを歓迎するにせよ批判するにせよ、またしても核心をはずしているとしかおもえない。それこそマスコミの命取りになるのが目に見えているというのに。
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世の中を支配するためには「ステレオタイプ」と化した言語の力が必要なのは論を待たない。しかしその種の言語の力を維持するためにはそれが何度もしつこく繰り返されて「ステレオタイプ化」したものでなくてはならないという制約がある。ところが制約であるにもかかわらず、むしろ制約ゆえに、この制約は極度に高速で反復可能であるという意味で、限度というものを知らない。しかし「ステレオタイプ」というものは、繰り返し強迫的に反復されることでそれがあたかも《真理》であるかのように図々しく成長してきた或る種の隠喩でしかない。
「ステレオタイプとは、魔力もなく熱狂もなく繰り返される単語である。あたかも自然であるかのように、あたかも、奇妙なことに、繰り返される単語は、どの度に、それぞれ異なった理由で、そこにふさわしいかのように、あたかも模倣されることが、もはや模倣と感じられなくなることがあり得るかのように。図々しい単語だ。凝着性を求めていて、自分の固執性を知らない。ニーチェは《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、といった。ところで、この理屈でいくと、ステレオタイプは《真理》に到る現実の道筋であり、案出された装飾を、記号内容の、規範的な、強制的な形式へと移行させる具体的な過程なのである。(新しい言語学を想像してみるといい。それは、もはや、単語の起源、すなわち、語源論も、それの伝播、すなわち、語彙論さえも研究せず、それらの凝固の過程、歴史的言述に沿ったそれらの厚みの具合を研究することになろう。この学問は、真理の歴史的起源以上のもの、それの修辞的、言語的性格を明らかにして、多分、体制にとって危険なものとなるだろう)。(新しい単語、あるいは、耐えがたい言述の悦楽と結びついた)ステレオタイプに対する警戒が絶対的不安定性の原理である。それは何物も大事にしない(どんな内容も、どんな選択も)。二つの重要な単語の結びつきが《当り前になる》と、すぐに吐き気を催す。あるものが当り前になると、私はすぐに放棄する。それが悦楽だ。空しい苛立ちだろうか。エドガー・ポーの小説の中で、催眠術をかけられた瀕死の病人、ヴァルデマー氏は、繰り返される質問(《ヴァルデマーさん、眠っていますか》)のおかげで、仮死状態のまま生き延びる。しかし、この延命は耐えがたい。偽りの死、残酷な死、それは終りではないのだ。果てることのないものだ(《後生だからーーー早くーーー早くーーー眠らせて下さいーーーそれとも、早く、覚して下さい、早くーーー私は死んだのですよ》)。ステレオタイプとは、このような、死ぬことのできない状態だ。吐き気を催すような」(バルト「テクストの快楽・P.80~82」みすず書房)
ニーチェからの引用は次の部分。
「真理とは、何なのであろうか?それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的諸関係の総体であって、それが、詩的、修辞的に高揚され、転用され、飾られ、そして永い間の使用の後に、一民族にとって、確固たる、規準的な、拘束力のあるものと思われるに到ったところのものである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)
ポーからの引用部分。
「『ヴァルドマアルさん、いまあなたがどんな気持で何を望んでいるか、説明して貰えますか?』ふたたび両頬に、あの消耗性疾患に特有の紅潮がすぐのぼってきた。(両顎と唇は相変らず硬直したままだったが)口のなかで舌がふるえ、というよりも、はげしく回転し、ついに、私がすでに述べた、あの同じものすごい声が叫んだ。『後生だ!ーーー早く!ーーー早く!ーーー眠らせてくれーーーでなかったら、早く!ーーー目をさまさせてくれ!ーーー早く!ーーー《俺は死んでるんだぞ!》』」(ポオ「ヴァルドマアル氏の病症の真相」『ポオ小説全集4・P.235』創元推理文庫)
ステレオタイプは残酷なのだ。それは強制的に強いられた「仮死状態」の存続である。しかしステレオタイプは日常生活の中に溶け込んでいる。始めから溶け込んでいたわけではないが、その時その時の権力者層にとって便利であるだけでなく大衆の中に溶け込ませることができたがゆえに、なぜか《真理》だと見なされるようになってきた過程にある瞞着的仮面でしかない。それは次第に「馴れ」によって視聴者の身体の一部分をも構成するようになる。「馴れ」=「馴化・一般化・平板化・記号化など」は、ステレオタイプの濫用によって果たされる。「馴れ」=「馴化・一般化・平板化・記号化など」は身体に対する刻印としても書き込まれる。ところで、この「身体への書き込み」はどのようにしてなされてきたか。遺伝情報だけではないのだ。むしろ人間は長期間に渡る過去の歴史において「馴化」へと意志するよう強制される時間を持ったのだ。それは社会の側から身体へ刻印されたのであってその逆ではない。「馴れ」るように強制されたし今なお強制されている。本来的な自由ではなく外部から与えられたという意味では不自由であり、それが不自由な強制から始まったとはすでに考えることができなくなってしまった不自由なのである。ところが、それが明らかなイデオロギーであるにもかかわらず身体化したのはどのようにしてだったか。
「反復される努力は、それがつねにおなじものを再生するにすぎないならば、いったいなんの役にたつというのだろう。反復がほんとうに効果を有しているとするなら、それはまず《分解し》、つぎに《ふたたび合成し》ながら、かくて身体という知性に語りかけるところにある。反復は、それがあらたにこころみられるたびごとに、ふくまれていた運動を展開し、そのつど身体の注意をあらたな細部に対して呼びおこすが、その細部はそれまでは気づかれずに生起していたものなのである。反復は身体に分割させ、分類させる。かくて身体に対して、なにが本質的なことがらであるかを強調してみせるのだ。反復は、全体的な運動のうちに一本一本、内的構造をしるしづける輪郭線を見いだしてゆく。この意味で運動は、身体がそれを理解したときに習得されたといえるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.220~221」岩波文庫)
言い換えれば「調教」なのだ。こっそり反復させられ整形手術的に施させる「馴れ」という「調教」によって、身体の自由すら形式化され奪われているのである。ほとんど知らないうちに自由を奪われていく自由、というわけだ。しかし人々は、そのようにして書き込まれるに至った身体に対する刻印を、今でいう「空気感」=「社会的同調圧力」による暴力的機械的作業の反復による作業の結果だとはもはや考えられなくなっている。それほど静かに時間をかけて行なわれてきたステレオタイプの反復。この長い作業を行なうに当たって、できるだけ精神的負荷をもたらさず無理なく遂行するためには、とりわけマスコミ(特にテレビ)を利用するのが何より効果的だった。マスコミ関係者の中に一体どれだけ「千年先」のことまで考えて報道に携わっている人間がいるだろうか。
「《機械時代の諸前提》。ーーー新聞や出版、機械、鉄道、電信は、それが千年先にもたらす結論をまだ誰ひとりあえて引き出そうとしたことのない諸前提(プレミス)である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・漂泊者とその影・二七八・P.465」ちくま学芸文庫)
そして大変多くの視聴者は自分が見ているものがステレオタイプの反復でしかないにもかかわらず、むしろステレオタイプのほうを好き好んで愛好するという自分自身の家畜化すら進んで要求するようにさえなっている。しかしニーチェがいうようにステレオタイプはけっして《真理》ではない。むしろただ単なる「鎮静剤」に過ぎない。そしてこの「鎮静剤」は「未知のものの既知のものへの還元」である以上、大変危険な依存性を持つ。
「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫)
習慣化しただけの欺瞞的《真理》が「自由主義的制度」として力を持ってくる場所では次のような現象が出現する。
「自由主義的制度は、それが達成されるやいなや、自由主義的であることをただちにやめる。あとになってみると、自由主義的制度にもまして忌まわしい徹底的な自由の加害者はいないのである。この制度が成就するものの《何であるか》は、よく知られている。すなわち、それは権力への意志を危うくし、それは山や谷をならして道徳へと高まったものであり、それは、卑小に、臆病に、享楽的にする、ーーーそれでもって凱歌をあげるのはいつでも群居動物である。自由主義、これは平たくいえば《群居動物化》のことにほかならない」(ニーチェ「偶像の黄昏・三八」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.127』」ちくま学芸文庫)
そしてこのことはアメリカで流行している「リバタリアン」ならびに「トランプ人気」と、けっして切り離して考えることができない。なぜアメリカはトランプを選んだのか。ただ単なる「大衆迎合主義」(ポピュリズム)とはどのように違うのか。マスコミは説明しようとしない。トランプを歓迎するにせよ批判するにせよ、またしても核心をはずしているとしかおもえない。それこそマスコミの命取りになるのが目に見えているというのに。
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