白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

ステレオタイプ依存症

2019年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
前回、NHK「朝ドラ」について述べた。しかしそれがステレオタイプなのはなぜか、という点についてまで述べたわけではない。個別的事例を上げるに留めた。今回は「ステレオタイプ」自身について少し述べてみよう。

世の中を支配するためには「ステレオタイプ」と化した言語の力が必要なのは論を待たない。しかしその種の言語の力を維持するためにはそれが何度もしつこく繰り返されて「ステレオタイプ化」したものでなくてはならないという制約がある。ところが制約であるにもかかわらず、むしろ制約ゆえに、この制約は極度に高速で反復可能であるという意味で、限度というものを知らない。しかし「ステレオタイプ」というものは、繰り返し強迫的に反復されることでそれがあたかも《真理》であるかのように図々しく成長してきた或る種の隠喩でしかない。

「ステレオタイプとは、魔力もなく熱狂もなく繰り返される単語である。あたかも自然であるかのように、あたかも、奇妙なことに、繰り返される単語は、どの度に、それぞれ異なった理由で、そこにふさわしいかのように、あたかも模倣されることが、もはや模倣と感じられなくなることがあり得るかのように。図々しい単語だ。凝着性を求めていて、自分の固執性を知らない。ニーチェは《真理》とは古い隠喩の凝固したものに他ならない、といった。ところで、この理屈でいくと、ステレオタイプは《真理》に到る現実の道筋であり、案出された装飾を、記号内容の、規範的な、強制的な形式へと移行させる具体的な過程なのである。(新しい言語学を想像してみるといい。それは、もはや、単語の起源、すなわち、語源論も、それの伝播、すなわち、語彙論さえも研究せず、それらの凝固の過程、歴史的言述に沿ったそれらの厚みの具合を研究することになろう。この学問は、真理の歴史的起源以上のもの、それの修辞的、言語的性格を明らかにして、多分、体制にとって危険なものとなるだろう)。(新しい単語、あるいは、耐えがたい言述の悦楽と結びついた)ステレオタイプに対する警戒が絶対的不安定性の原理である。それは何物も大事にしない(どんな内容も、どんな選択も)。二つの重要な単語の結びつきが《当り前になる》と、すぐに吐き気を催す。あるものが当り前になると、私はすぐに放棄する。それが悦楽だ。空しい苛立ちだろうか。エドガー・ポーの小説の中で、催眠術をかけられた瀕死の病人、ヴァルデマー氏は、繰り返される質問(《ヴァルデマーさん、眠っていますか》)のおかげで、仮死状態のまま生き延びる。しかし、この延命は耐えがたい。偽りの死、残酷な死、それは終りではないのだ。果てることのないものだ(《後生だからーーー早くーーー早くーーー眠らせて下さいーーーそれとも、早く、覚して下さい、早くーーー私は死んだのですよ》)。ステレオタイプとは、このような、死ぬことのできない状態だ。吐き気を催すような」(バルト「テクストの快楽・P.80~82」みすず書房)

ニーチェからの引用は次の部分。

「真理とは、何なのであろうか?それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的諸関係の総体であって、それが、詩的、修辞的に高揚され、転用され、飾られ、そして永い間の使用の後に、一民族にとって、確固たる、規準的な、拘束力のあるものと思われるに到ったところのものである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)

ポーからの引用部分。

「『ヴァルドマアルさん、いまあなたがどんな気持で何を望んでいるか、説明して貰えますか?』ふたたび両頬に、あの消耗性疾患に特有の紅潮がすぐのぼってきた。(両顎と唇は相変らず硬直したままだったが)口のなかで舌がふるえ、というよりも、はげしく回転し、ついに、私がすでに述べた、あの同じものすごい声が叫んだ。『後生だ!ーーー早く!ーーー早く!ーーー眠らせてくれーーーでなかったら、早く!ーーー目をさまさせてくれ!ーーー早く!ーーー《俺は死んでるんだぞ!》』」(ポオ「ヴァルドマアル氏の病症の真相」『ポオ小説全集4・P.235』創元推理文庫)

ステレオタイプは残酷なのだ。それは強制的に強いられた「仮死状態」の存続である。しかしステレオタイプは日常生活の中に溶け込んでいる。始めから溶け込んでいたわけではないが、その時その時の権力者層にとって便利であるだけでなく大衆の中に溶け込ませることができたがゆえに、なぜか《真理》だと見なされるようになってきた過程にある瞞着的仮面でしかない。それは次第に「馴れ」によって視聴者の身体の一部分をも構成するようになる。「馴れ」=「馴化・一般化・平板化・記号化など」は、ステレオタイプの濫用によって果たされる。「馴れ」=「馴化・一般化・平板化・記号化など」は身体に対する刻印としても書き込まれる。ところで、この「身体への書き込み」はどのようにしてなされてきたか。遺伝情報だけではないのだ。むしろ人間は長期間に渡る過去の歴史において「馴化」へと意志するよう強制される時間を持ったのだ。それは社会の側から身体へ刻印されたのであってその逆ではない。「馴れ」るように強制されたし今なお強制されている。本来的な自由ではなく外部から与えられたという意味では不自由であり、それが不自由な強制から始まったとはすでに考えることができなくなってしまった不自由なのである。ところが、それが明らかなイデオロギーであるにもかかわらず身体化したのはどのようにしてだったか。

「反復される努力は、それがつねにおなじものを再生するにすぎないならば、いったいなんの役にたつというのだろう。反復がほんとうに効果を有しているとするなら、それはまず《分解し》、つぎに《ふたたび合成し》ながら、かくて身体という知性に語りかけるところにある。反復は、それがあらたにこころみられるたびごとに、ふくまれていた運動を展開し、そのつど身体の注意をあらたな細部に対して呼びおこすが、その細部はそれまでは気づかれずに生起していたものなのである。反復は身体に分割させ、分類させる。かくて身体に対して、なにが本質的なことがらであるかを強調してみせるのだ。反復は、全体的な運動のうちに一本一本、内的構造をしるしづける輪郭線を見いだしてゆく。この意味で運動は、身体がそれを理解したときに習得されたといえるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.220~221」岩波文庫)

言い換えれば「調教」なのだ。こっそり反復させられ整形手術的に施させる「馴れ」という「調教」によって、身体の自由すら形式化され奪われているのである。ほとんど知らないうちに自由を奪われていく自由、というわけだ。しかし人々は、そのようにして書き込まれるに至った身体に対する刻印を、今でいう「空気感」=「社会的同調圧力」による暴力的機械的作業の反復による作業の結果だとはもはや考えられなくなっている。それほど静かに時間をかけて行なわれてきたステレオタイプの反復。この長い作業を行なうに当たって、できるだけ精神的負荷をもたらさず無理なく遂行するためには、とりわけマスコミ(特にテレビ)を利用するのが何より効果的だった。マスコミ関係者の中に一体どれだけ「千年先」のことまで考えて報道に携わっている人間がいるだろうか。

「《機械時代の諸前提》。ーーー新聞や出版、機械、鉄道、電信は、それが千年先にもたらす結論をまだ誰ひとりあえて引き出そうとしたことのない諸前提(プレミス)である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・漂泊者とその影・二七八・P.465」ちくま学芸文庫)

そして大変多くの視聴者は自分が見ているものがステレオタイプの反復でしかないにもかかわらず、むしろステレオタイプのほうを好き好んで愛好するという自分自身の家畜化すら進んで要求するようにさえなっている。しかしニーチェがいうようにステレオタイプはけっして《真理》ではない。むしろただ単なる「鎮静剤」に過ぎない。そしてこの「鎮静剤」は「未知のものの既知のものへの還元」である以上、大変危険な依存性を持つ。

「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫)

習慣化しただけの欺瞞的《真理》が「自由主義的制度」として力を持ってくる場所では次のような現象が出現する。

「自由主義的制度は、それが達成されるやいなや、自由主義的であることをただちにやめる。あとになってみると、自由主義的制度にもまして忌まわしい徹底的な自由の加害者はいないのである。この制度が成就するものの《何であるか》は、よく知られている。すなわち、それは権力への意志を危うくし、それは山や谷をならして道徳へと高まったものであり、それは、卑小に、臆病に、享楽的にする、ーーーそれでもって凱歌をあげるのはいつでも群居動物である。自由主義、これは平たくいえば《群居動物化》のことにほかならない」(ニーチェ「偶像の黄昏・三八」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.127』」ちくま学芸文庫)

そしてこのことはアメリカで流行している「リバタリアン」ならびに「トランプ人気」と、けっして切り離して考えることができない。なぜアメリカはトランプを選んだのか。ただ単なる「大衆迎合主義」(ポピュリズム)とはどのように違うのか。マスコミは説明しようとしない。トランプを歓迎するにせよ批判するにせよ、またしても核心をはずしているとしかおもえない。それこそマスコミの命取りになるのが目に見えているというのに。

BGM

NHK「朝ドラ」はなぜ視聴率No.1なのか

2019年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
神奈川県川崎市で理由のはっきりしない連続殺傷事件が発生した。それでもNHK「朝ドラ」を見た視聴者が多いのはなぜだろう。もし連続殺傷事件が発生していなかったとしたらどうだろう。それでもNHK「朝ドラ」を見た視聴者数にほとんど多寡はなかったと想定される。「朝ドラ」が高視聴率を維持する決定的特徴を一つ上げておこう。それは主人公が旧秩序から脱出する冒険的物語であるからではない。ビルディングズ・ロマン(成長物語)だからでもない。そうではなく、主人公が旧秩序の問題点にぶつかるたびに旧秩序の問題点をあげつらっていきながら、結局のところ、結末では《旧秩序へ〔華々しく〕復帰》するかそうでない場合は時代の変遷と同時に出現する《新秩序へ〔華々しく〕参入》するかのいずれかという《権威への迎合的態度》が、多くの視聴者の目には《迎合的態度》に映って見えないようにできているからである。いつも核心を突きそうで実は突かない。或る意味、これほど悪質な連続ドラマもそうないのではといえる。もっとも、社会問題を追求しているわけではないエンターテイメントなのだという言い方はできる。ところが、社会問題を追求しているわけではないエンターテイメントのはずが、その絶大な影響力によって目下発生中の種々の社会問題を覆い隠してしまうことになるとき、それは立派な社会問題となる。この種のドラマの役割は設定された時代に実在した社会的な問題にも時折触れながら、さらにはその言動が問題の核心をえぐり出すこともあるかのように見せかけておきながら、実は問題の核心を視聴者の目からそらしてしまうことで視聴者を安心させ、視聴者の鑑識眼を社会的な問題の核心からますます遠ざけてしまい、より一層日本人総白痴化を推進する効果を持つ。

バルトはかつて「波止場」という映画をこう分析した。映画が視聴者を《瞞着》することに成功した事例である。

「カザンの映画『波止場』は瞞着のよい例である。周知のように、無頓着でやや粗暴な美男の波止場人足(マーロン・ブランド)が問題であり、愛と教会(スペルマン風のショッキングな神父の形で与えられる)のおかげで良心に目覚めるのである。この目覚めが、いんちきで不当な組合の排除と時を同じくし、波止場人足を彼等の搾取者の何人かに抵抗させるように思えるので、ある人々は、勇気のある映画、アメリカの観衆に労働者の問題を示そうとする《左の》映画を見ているのではなかろうかと、考えた。

実際は、もう一度また、わたしが他のアメリカ映画の話の時にその全く現代的なメカニズムを指摘した真実へのワクチンが問題となっているのだ。大雇用者の搾取機能をギャングの小グループに転化させ、そして、ちょっとしたぶざまな膿胞として固定された、この告白された小さな悪によって、現実の悪に背を向け、それを名指すのを避け、それを悪魔ばらいするのだ。

だが、カザンのこの映画の瞞着的な働きを前後の筋なしにでも確認するには、この映画の《人物達》を客観的に描写するだけで足りる。プロレタリアはここでは無気力な人間のグループによって構成され、屈従の下に背をかがめ、屈従をはっきり知っているがそれをくつがえす勇気がない。《国家》(資本主義的な)は絶対的な《正義》と混同され、それは犯罪と搾取に対する唯一の可能な救いである。労働者が国家、その警察そしてその調査委員会に到達すれば、彼は救われるのだ。教会についていえば、“どうだ見たか”式の現代主義の外見のもとに、それは、労働者の根本的な悲惨と親方=国家の父権との間の仲介的勢力以上の何物でもない。それに結末では、正義と良心のこのちょっとした瘙痒症は極めてすみやかに鎮まり、慈悲深い秩序の大きな安定性において解決し、そこでは労働者は働き、雇主は腕をこまねき、そして聖職者はそのどちらをもその適正な職能において祝福するのだ。

それに、丁度多くの人がカザンは狡猾にも彼の進歩主義を示そうとしているのだと信じたその瞬間に、この映画を裏切るのは結末それ自体である。最後の場面で、ブランドが、超人的努力によって、彼を待っている雇主の前に、良心的な良き労働者として出頭するに至るのが見られる。ところでこの雇主は見るからに戯画化されている。そこで人々はいったのだーーーカザンがいかに巧みに資本家達を笑い物にしているか見なさい。

ブレヒトによって提示された瞞着の解明の方法を適用し、映画の初めからもうわれわれが主人公に与えている同意の結果を調べるべきなのはまさにここであり、さもなければもう機会がない。ブランドがわれわれにとって肯定的なヒーローであり、その欠点にもかかわらず、群衆全体が、あの、参加の現象(これなくしては一般に見世物を見ることは可能でない)に従って、その心を託しているのは明らかである。良心と勇気を再発見したことによって更に偉大になったこのヒーローが、傷ついて、力つきそうになりながらも粘り強く、彼に仕事を返してくれるであろう雇主の方へ向って行く時、われわれの共感はもはや限度を知らず、われわれは反省なしにこの新しいキリストと同化し、その十字架行きに留保なしに参加する。さてブランドの苦難に満ちた昇天は実際、永遠の雇主階級の受身な承認に導く。すべての戯画にもかかわらず、全力を挙げてわれわれに示されるものは、《秩序への復帰》だ。ブランドと共に、波止場人足達と共に、アメリカの全労働者と共に、勝利と安堵の感情をもって、雇主階級の手中に身を委ね、もはやその腐った外観を描くのは何の役にも立たない。久しい以前から、われわれはこの波止場人足の運命との連帯の中に捉えられ塗りこめられてい、そしてこの波止場人足は、社会的正義の感覚を、アメリカ資本への賛辞と寄与をなすためにしか見出さないのだ。

わかることは、このシーンを客観的に瞞着の挿話にするのは、その《参加的》性質であることだ。最初からブランドを愛するようにしむけられ、われわれはいかなる時も彼を批判し、彼の客観的愚行に意識を持つことがもはやできない」(バルト「神話作用・P.55~57」現代思潮社)

「朝ドラ」の基本的パターンもまたそうだ。視聴者は始めから主人公(「波止場」ではマーロン・ブランド)に感情移入することをお約束として考えて何ら疑っていない。NHKも番宣の時点から主人公の性格や人格や生き方を「波乱万丈」というステレオタイプの用語にしたがって紹介しておく。そして番組が始まるや否やもう視聴者は「朝ドラ」の連載から離れられなくなるのだ。そして「雇主(資本家)は見るからに戯画化されている。そこで人々はいったのだーーーカザンがいかに巧みに資本家達を笑い物にしているか見なさい」などという、資本家自身の耳に入ってもまったく痛くも痒くもない俗世間のマスコミ評論だけが許されるのである。さらにこの種の「雇主(資本家)は見るからに戯画化されている。そこで人々はいったのだーーーカザンがいかに巧みに資本家達を笑い物にしているか見なさい」というマスコミの御用学者的評論は資本家を少しでも批判するどころか逆に労働者の側の感情にとってむしろ害毒を撒き散らす。実在の資本家の側からすればまったく痛くも痒くもない評論でしかないにもかかわらず、資本家もちゃんと批判されているではないかという大義名分が得られるからだ。「《告白》された多少の悪は、かくされた多くの悪を認めることを免除する」(バルト「神話作用・P.43」現代思潮社)。

それにしても最終的に「朝ドラ」が馬鹿馬鹿しいほど高い視聴率を叩き出している理由はどこにあるのだろうか。視聴者の《参加的》性質である。視聴者は主人公がどれほど核心をはずしたばかりか社会的瞞着にすら手を染めているにもかかわらず、それでも視聴者の頭の中から瞞着が瞞着に感じられなくなっているのは、視聴者が主人公に感情移入することで視聴者は主人公の「分身」として瞞着のドラマに積極的に《参加》=《加担》してしまっているからにほかならない。そしてこの事情は相互乗り入れし合う。視聴者の積極的な《参加》=《加担》によって今度は逆に主人公のほうが視聴者の「分身」として欺瞞的仮面を演じることになるのだ。

「波止場」の場合、バルトはいっている。「ブランドと共に、波止場人足達と共に、アメリカの全労働者と共に、勝利と安堵の感情をもって、雇主階級の手中に身を委ね、もはやその腐った外観を描くのは何の役にも立たない。久しい以前から、われわれはこの波止場人足の運命との連帯の中に捉えられ塗りこめられてい、そしてこの波止場人足は、社会的正義の感覚を、アメリカ資本への賛辞と寄与をなすためにしか見出さない」と。

そのような「お馬鹿」な視聴者にならないための方法として有効な心得はないのか。実はある。とっくの昔からある。夏目漱石の文章がそうだ。

「社会は人間の塊(かた)まりである。その人間を区別すれば色々出来る。貴とも賤(せん)ともなる。賢とも不肖ともなる。正とも邪ともなる。男とも女ともなる。貧とも富ともなる。老とも若、長と幼ともなる。その他色々に区別が出来る。区別が出来る以上は、区別された一のものが他を視(み)る態度は、一のうちにある甲が、同じく一のうちにある乙を視る態度とは異ならなければならぬ。人生観というと堅苦しく聞える。何だか恐ろしくて近寄りにくい。しかし煎(せん)じつめればこの態度である。隣りの法律家が余を視る立脚地は、余が隣りの法律家を視る立脚地とは自(おのず)から違う。大袈裟(おおげさ)な言葉でいうと彼此(ひし)の人生観が、ある点において一様でない。というに過ぎん。

人事に関する文章はこの視察の表現である。従って人事に関する文章の差異はこの視察の差異に帰着する。この視察の差異は視察の立場によって岐(わか)れてくる。するとこの立場が文章の差異を生ずる源になる。今の世にいう写生作家というものの文章は如何(いか)なる事をかいても皆共有の点を有して、他人のそれとは截然(せつぜん)と区別の出来るような特色を帯びている。するとこれらの団体はその特色の共有なる点において、同じ立場に根拠地を構えているというてよろしい。もう一遍大袈裟な言葉を借用すると、同じ人生観を有して同じ穴から隣りの御嬢さんや、向うの御爺さんを覗(のぞ)いているに相違ない。この穴を紹介するのが余の責任である。否この穴から浮世を覗けばどんなに見えるかという事を説明するのが余の義務である。

写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者(せんじゃ)を視(み)るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子(くんし)が小人(しょうじん)を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解剖すれば遂にここに帰着してしまう。

子供はよく泣くものである。子供の泣く度に泣く親は気違(きちがい)である。親と子供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は子供が泣く度に親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做(みな)して、擦(す)ったもんだの社会にわれ自身も擦ったり揉(も)んだりして、あくまで、その社会の一員であるという態度で筆を執る。従って隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗いているのとは記叙の題目その物は同じでもその精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。

そんな不人情な立場に立って人を動かす事が出来るかと聞くものがある。動かさんでもいいのである。隣りの御嬢さんも泣き、写す文章家も泣くから、読者も泣かねばならん仕儀(しぎ)となる。泣かなければ失敗の作となる。しかし筆者自身がぽろぽろ涙を落して書かぬ以上は御嬢さんが、どれほど泣かれても、読者がどれほど泣かれなくても失敗にはならん。子供が駄菓子(だがし)を買いに出る。途中で犬に吠(ほ)えられる。ワーと泣いて帰る。御母(おっか)さんが一所になってワーと泣かぬ以上は、傍人(ぼうじん)が泣かんでも出来損(できそこな)いの御母さんとはいわれぬ。御母さんは駄菓子を犬に取られる度に泣き得るような平面に立って社会に生息していられるものではない。写生文家は思う。普通の小説家は泣かんでもの事を泣いている。世の中に泣くべき事がどれほどあると思う。隣りの御嬢さんが泣くのを拝見するのは面白い。これを記述するのも面白い。しかし同じように泣くのは御免蒙(ごめんこうむ)りたい。だからある男が泣く様を文章にかいた時にたとい読者が泣いてくれんでも失敗したとは思わない。むやみに泣かせるなどは幼稚だと思う。

それでは人間に同情がない作物を称して写生文家というように思われる。しかしそう思うのは誤謬(ごびゅう)である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻(れいこく)でもない。無論同情がある。同情があるけれども駄菓子を落した子供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是(がんぜ)なく煩悶(はんもん)し、無体(むてい)に号泣し、直角に跳躍(ちょうやく)し、一散に狂奔(きょうほん)する底(てい)の同情ではない。傍(はた)から見て気の毒の念に堪(た)えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。

従って写生文家の描く所は多く深刻なものではない。否(いな)如何に深刻な事をかいてもこの態度で押して行くから、ちょっと見ると底まで行かぬような心持ちがするのである。しかのみならずこの態度で世間人情の交渉を視(み)るから大抵の場合には滑稽(こっけい)の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれて来る。

人によると写生文家のかいたものを見て世を馬鹿にしているという。茶化しているという。もし両親の子供に対する態度が子供を馬鹿にしている、茶化しているといい得(う)べくんば写生文家もまたこの非難を免かれぬかも知れぬ。多少の道化(どうけ)たるうちに一点の温情を認め得ぬものは親の心を知らぬもので、また写生文家を解し得ぬものであろう。この故に写生文家は地団太(じだんだ)を踏む熱烈な調子を避ける。かかる狂的な人間を写すのを避けるのではない。写生文家自身までが写さるる狂的な人間と同一になるを避けるのである。避けるのではない。そこまで引き込まるる事が可笑(おか)しくて出来(でき)にくいのである。そこで写生文家なるものは真面目に人世を観じておらぬかの感が起る。なるほどそうかも知れぬ。しかし一方から見れば作者自身が恋に全精神を奪われ、金に全精神を捧げ、名に全精神を注いで、そうして恋と金と、名を求めつつある人物を描くよりも比較的に真面目かも知れぬ。描き出(い)ださるべき一人に同情して理否も、前後も弁(わきま)えぬほどの熱情を以て文をやる男よりも慥(たし)かな所があるかも知れぬ。

わが精神を篇中の人物に一図(いちず)に打ち込んで、その人物になり済まして、恋を描き愛を描き、もしくは他の情緒を描くのは熱烈なものが出来るかも知れぬが、如何にも余裕がない作が現れるに相違ない。写生文家のかいたものには何となく《ゆとり》がある。逼(せま)っておらん。屈託気(くったくげ)が少ない。従って読んで暢(の)び暢びした気がする。全く写生文家の態度が人事を写し行く際に全精神を奪われてしまわぬからである。写生文家は自己の精神の幾分を裂いて人事を視る。余す所は常に遊んでいる。遊んでいる所がある以上は、写すわれと、写さるる彼との間に一致する所と同時に離れている局部があるという意味になる。全部がぴたりと一致せぬ以上は写さるる彼になり切って、彼を写す訳には行かぬ。依然として彼我(ひが)の境を有して、我の見地から彼を描かなければならぬ。これにおいて写生文家の描写は多くの場合において客観的である。大人は小児を理解する。しかし全然小児に成り済ます訳にも行かぬ。小児の喜怒哀楽を写す場合には勢(いきおい)客観的でなければならぬ。ここに客観的というは《我》を写すにあらず《彼》を写すという態度を意味するのである。この気合で押して行く以上は如何に複雑に進むとも如何に精緻(せいち)に赴(おもむ)くともまた如何に解剖的に説き入るとも調子は依然として同じ事である。

余は最初より大人と小児の譬喩(たとえ)を用いて写生文家の立場を説明した。しかしこれは単に彼らの態度を尤(もっと)もよくいいあらわすための言語である。決して彼らの人生観の高下を示すものではない。大人だから《えらい》。《えらい》見方をして人事に対するのが写生文家だという意義に解釈されては余の本旨に背(そむ)く。《えらい、えらくない》は問題外である。ただ彼らの態度がこうだというまでに過ぎぬ。

この故に写生文家は自己の心的行動を叙する際にもやはり同一の筆法を用いる。彼らも喧嘩をするだろう。煩悶するだろう。泣くだろう。その平生を見れば毫(ごう)も凡衆と異なる所なく振舞っているかも知れぬ。しかし一度(ひとたび)筆を執って喧嘩するわれ、煩悶するわれ、泣くわれ、を描く時はやはり大人が小児を視る如き立場から筆を下す。平生の小児を、作家の大人が叙述する。写生文家の筆に依怙(えこ)の沙汰(さた)はない。紙を展(の)べて思を構うるときは自然とそういう気合になる。この気合が彼らの人生観である。少なくとも文章を作る上においての人生観である。人生観が自然と出来ているのだから、自己が意識せざるうちに筆は既に着々としてその方向へ進んで行く。

彼らは何事をも写すを憚(はば)からぬ。ただ拘泥(こうでい)せざるを特色とする、人事百端、遭逢纏綿(そうほうてんめん)の限りなき波瀾(はらん)は悉(ことごと)く喜怒哀楽の種で、その喜怒哀楽は必竟(ひっきょう)するに拘泥するに足らぬものであるというような筆致が彼らの人生に齎(もたら)し来(きた)る福音(ふくいん)である。彼らのかいたものには筋のないものが多い。進水式をかく。すると進水式の雑然たる光景を雑然と叙(の)べて知らぬ顔をしている。飛鳥山の花見をかく。踊(おど)ったり、跳(は)ねたり、酣酔狼藉(かんすいろうぜき)の体(てい)を写して頭も尾もつけぬ。それで好いつもりである。普通の小説の読者からいえば物足らない。しまりがない。漠然として捕捉すべき筋が貫いておらん。しかし彼らからいうとこうである。筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないもののうちに筋を立てて見たって始まらないじゃないか。どんな複雑な趣向で、どんな纏(まとま)った道行(みちゆき)を作ろうとも畢竟は、雑然たる進水式、紛然たる御花見と異なる所はないじゃないか。喜怒哀楽が材料となるにもかかわらず拘泥するに足らぬ以上は小説の筋、芝居の筋のようなものも、また拘泥するに足らん訳だ。筋がなければ文章にならんというのは窮屈に世の中を見過ぎた話しである。ーーー今の写生文家がここまで極端な説を有しているかいないかは余といえども保証せぬ。しかし事実上彼らはパノラマ的のものをかいて平気でいる所を以て見ると公然と無筋を標榜せぬまでも冥々(めいめい)のうちにこういう約束を遵奉(じゅんぽう)していると見ても差支(さしつかえ)なかろう。写生文家もこう極端になると全然小説家の主張と相容(あいい)れなくなる。小説において筋は第一要件である。文章に苦心するよりも背景に苦心するよりも趣向に苦心するのが小説家の当然の義務である。従って巧妙な趣向は傑作たる上に大なる影響を与えうるものと、誰(だれ)も考えている。ところが写生文家はそんな事を主眼としない。のみならず極端に行くと力(つと)めて筋を抜いてまでその態度を明かにしようとする。

作家は身辺の状況と天下の形勢に応じて時々その立場を変えなければならん。評家もまた眼界を広くして必要の場合には作物に対するごとにその見地を改めねば活(い)きた批評は出来まい」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.165~173』岩波文庫)

さらにベルクソンはいう。

「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・P.30~31」ちくま学芸文庫)

応用してみよう。視聴者が「朝ドラ」(のドラマ的輪郭)を把握したとしよう。把握したがゆえに、把握しなかった場合に提起されていたであろう可能的潜在的選択肢が無数になおかつ一挙に素描されるのであってその逆ではない。可能的潜在的選択肢の急浮上によってドラマの中の理由のわからない場面やせりふを再び問い直すことができるようになる。とともにまた、視聴者が「朝ドラ」(のドラマ的輪郭)を上手く把握できなかったとしよう。把握できなかったがゆえに、把握し得ていた場合に提起されていたであろう可能的潜在的選択肢が無数になおかつ一挙に素描されるのであってその逆ではない。この場合もまた逆の方向から、ドラマの中の理由のわからない場面やせりふを再び問い直すことができるようになる。

「朝ドラ」は大変多くの評論家によってあれこれ評論されてきた。評論はあってよいとおもう。だが、どう見ても勘違いにおもわれるものも中には当然含まれる。たとえば一世を風靡した「おしん」について。困難に立ち向かい頑張れば頑張っただけの成果が得られるというだけの話なのだが、その「おしん」が絶頂的人気を博していた当時、日本経済はすでに「頑張れば頑張っただけの成果が得られる」かどうかわからない判然としない不確定性の時期に突入していた。それゆえにむしろ視聴者は「頑張れば頑張っただけの成果が得られる」という賃金の確実性を保障し将来性の不安を覆い隠してくれる「おしん」に夢中になったというのが真相ではないだろうか。「おしん」は一九八三年〜一九八四年にかけて放送されているが、それ以前の一九八〇年すでに一般市民は田中康夫「なんとなく、クリスタル」に付された日本の「出生率・少子化率」を目にしてしまっている。さらに一九八三年には浅田彰「構造と力」が発表され、現実の日本ならびに世界はそれどころではまったくないのだということが白日のもとにさらされることになった頃でもあった。また実際、「おしん」発表時に日本に生まれた子どもたちは今どうしているだろうか。「頑張れば頑張っただけの成果が得られる」などと一体どこの世界のSFかとさえ口にしない。ニーチェが危惧した「ニヒリスト」として日本社会を亡霊のように徘徊している。「ロスジェネ」世代として日本の未来の最大の問題のうちの一つとして大きくクローズアップされているのではないだろうか。

ところで昨今の「朝ドラ」の問題は、それがまごうかたない瞞着のドラマの連続ドラマ性であるということが一つ。二つめは、それにもかかわらず視聴者の側から毎度毎度余りにも熱量の高い視聴率を与えられているために、より一層激しい瞞着性を発揮して止まない点にあるといえるだろう。いわば今の「朝ドラ」は世間を瞞着しつづけることで実際に存在する社会的諸問題(少子高齢化、賃金格差、パワハラ、セクハラ、DV、幼児虐待など)からだんだん目をそらす方向へと作用している事実だ。熱心な視聴者の多くは今の四十代以上だとおもわれる。そして今の四十代以上の多くは将来の日本の姿を見ようとしていないか見ることを避けたがっているところがしばしば見られる。そういう人々の意向を探りつつ同時にその意向に沿って世論を支配する「朝ドラ」をこのまま制作していくとすればどうなるか。少なくとも三十年前すでにこの種のドラマあるいは映像の持つ宗教的政治的誘導性はソフトなマインド・コントロールとして社会問題化していた。その研究を率先して取り上げたのは八十年代後半の大学の一部である。というのは当時の大学構内は「統一教会=原理研究会」の人員獲得のための「狩場」と化してしたからだが。

BGM

強制不妊手術と国家的殺人

2019年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
女性の人工妊娠中絶の権利。権利は歴史的闘争を経て獲得されたものである。アメリカの州法がどのような展開を見せるにせよ、獲得された権利をみすみす手放すことには反対を表明するしかない。それについては二回ほどに分けて述べたのでここでは繰り返さない。ただ、付け加えておかねばならないことがある。これまで何度も議論されてきたようように、産む産まないは女性自身に決定権があるということである。宗教的政治的経済的等々、様々な制約が考えられ、また制約を逆に生きていくための自由として捉える場合もあるだろうとおもう。しかし言及しておかなくてはならないことは、日本でもまだまだ近い過去に、いわゆる「優生思想」というイデオロギーによる「強制不妊」を国家から強いられてきた被害者が実際にいたというだけでなく実際に今なお生きているという事実についてだ。

産むにしても産まないにしても、ただ単なる二者択一ではなく、さらに産みたくても産めないあるいは産めなかった場合が考えられる。問いたいのは第三の場合、産みたくても産めないあるいは産めなかった場合である。この場合は往々にして周囲の環境が大きな影響をおよぼしているだろうと考えられる。たとえば経済的制約は今なお深刻だ。しかしここで問題としたい「優生思想」はこの第三の場合を国家主導で出現させた実例として考えられなければならない現実である。国策として産むことが強制的に制限された場合。さらにこのケースは社会的周辺環境の無理解を含んでいる。今でも差別に苦しんでいる人々がいることはときどきではあるがマスコミでも取り上げられているのは周知の通り。

またアンティゴネから引用した理由について述べたい。アンティゴネは自分の思うように自分自身に正直であろうとして国家による法を無視して自分を貫徹した登場人物である。次のせりふに集約されよう。

「アンティゴネ だってもべつに、お布令を出したお方がゼウスさまではなし、あの世をおさめる神々といっしょにおいでの、正義の女神が、そうした掟を、人間の世にお建てになったわけでもありません。またあなたのお布令に、そんな力があるとも思えませんでしたもの、書き記されてはいなくても揺ぎない神さま方がお定めの掟を、人間の身で破りすてができようなどと。

だってもそれは今日や昨日のことではけっしてないのです。この定りはいつでも、いつまでも、生きてるもので、いつできたのか知ってる人さえありません。それに対して私が、いったい誰の思惑をでも怖がって、神さま方の前へ出て、責めを追おう気を持てましょう。いずれ死ぬのはきまったこと、むろんですわ、たとえあなたのお布令がなくたって。また寿命の尽きるまえに死ぬ、それさえ私にとっては得なことだと思えますわ。次から次へと、数え切れない不仕合せに、私みたいに、とっつかれて暮らすのならば、死んじまったほうが得だと、いえないわけがどこにあって。

ですから、こうして最期を遂げようと、私は、てんで、何の苦痛も感じませんわ。それより、もしも同じ母から生まれた者が死んだというのに、葬りもせず、死骸をほっておかせるとしたら、そのほうがずっと辛いに違いありません。それに比べてこちらのほうは、辛くも何ともないことです。あなたに、私がもしも今、馬鹿をやったと見えるのでしたら、だいたいはまあ、馬鹿な方から、馬鹿だと非難を受けるのですわね」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.172~173』ちくま文庫)

また、あえてフェミニズム陣営から反論の多いラカンから引用したわけは簡単なことである。ラカンがそこで提出した命題に、倫理とは何かを問うに値する一節が集約されていると考えるからだ。こういう文章だった。

「罪があると言いうる唯一のこととは、少なくとも分析的見地からすると、自らの欲望に関して譲歩したことだ、という命題を私は提出します。

この命題は、あれやこれやの倫理では受け入れられるにせよ受け入れられないにせよ、分析経験で我々が確認することを十分に表現しています。聴罪司祭に受け入れられるかどうかはともかくとして、結局、自分に罪があると実際に感じるのは、つねに根源的には自身の欲望に関して譲歩したからです」(ラカン「精神分析の倫理・下・P.231」岩波書店)

「『欲望に関して譲歩する』と私が呼ぶものは、つねに主体の運命においてなんらかの裏切りを伴うものです。皆さんもどんな症例においてもお気づきでしょう。その次元を考えて下さい。たとえば、主体は自らの道を裏切り、自らを裏切っていて、このことは彼にはっきりと解っています。あるいはもっと単純に、何かを誓い合ったり相手が裏切り、契約ーーー反逆でも逃亡でもどんな契約でもよいのです、その吉凶を問わず、暫定的な契約であれ短期間の契約であれ同じことですーーーを果たさなかったことを容認します。

人が裏切りを容認するとき、そして、善という観念ーーーこの瞬間裏切った人の善の観念と私は言いたいのですがーーーに押されて、自分自身のこだわりを捨てるとき、『こんなもんさ、我々のパースペクティヴは断念しよう、我々はどちらも、でも多分私の方が、そうたいした人間ではない、普通の平凡な道に戻ることにしよう』と納得するとき、この裏切りをめぐって何かが演じられています。ここに『欲望に関して譲歩する』と呼ばれる構造があることはお解りでしょう。

この限界、私がここで自分と他者との軽視を同じ一つの言葉で結びつけたこの限界が乗り越えられると、もはや戻ることはできません。埋め合せはできても、解約はありえないのです。このことは、精神分析が倫理的方針という領野において有効な羅針盤を我々に与えることができることを示す一つの経験的事実ではないでしょうか。

つまり私は三つの命題を提案したのです。

まず第一に、我々が有罪でありうる唯一のこと、それは欲望に関して譲歩してしまったことです。

第二に、英雄の定義、裏切られてもひるまない者です。

第三に、このような感じ方は万人の手の届くものでは決してなく、これこそ普通の人と英雄の相違です。この相違はそれと信じられているより、もっと神秘的なものです。普通の人間にとって、裏切りはほとんどつねに生じることですが、その結果として普通の人間は善への奉仕へと決定的に投げ返されます。しかしこの場合、この奉仕へと向かわせたものが本当は何であるかを見ることは彼には決してできません。

さらに申し上げましょう。善の領野、当然これは存在します。これを否定しようとするのではありません。しかしパースペクティヴを逆転させて、私は皆さんに次のことを提案します。第四の命題です。欲望への接近のため支払うべき対価ではない善はありません。というのは欲望とは、我々がすでに定義したように、我々の存在の換喩です。欲望がそこにある渓流、それはシニフィアン(記号表現)の連鎖の転調であるのみではなく、伏流として流れているのであり、これこそ本来の意味で我々がそれであるところのもの、そしてまた我々がそれでないところのものです。我々の存在、そして我々の非存在です。行為においてシニフィエ(意味されるもの)であるものが、連鎖のうちのシニフィアン(意味するもの)から他のシニフィアン(意味するもの)へと、あらゆるシニフィカシオン(意味作用)のもとで、移行しているのです」(ラカン「精神分析の倫理・下・P.233~235」岩波書店)

欲望の貫徹という見地から再び問われることになる。第三の場合。産みたくても産めないあるいは産めなかった場合。「優生思想」の犠牲者がそれに当たる。犠牲者は欲望を貫徹しようとしたにもかかわらず、国家の法によってそれを暴力的に阻止されてしまった。ラカンの言い方に変更を加える必要があるだろう。「欲望に関して譲歩してしまった」のではなく「欲望に関して《暴力的》に譲歩《させられた》」、と考えるべきケースなのだ。「本人の無知」を指摘する人々は昔からいた。ところが「本人」を「無知」な状態に「置いたまま処理した」のはほかならぬ国家である。さらに社会的環境という観点からみて周囲の理解がなかったといわざるを得ない。したがって国家はもっと積極的になおかつ迅速に被害者に対する人権回復・名誉回復・経済的補償を行なっていくべきであると考える。

また、社会的環境という観点からみて周囲の理解がなかったことに関し、集団的な主観の塊が果たした犯罪的言動は大きいと言わなければならない。主観はけっして一つではなく、むしろ逆に主観の多様性の大切さということをマスコミの側こそ、もっと積極性を盛り込みつつ報道していくべきだろうとおもわれる。ニーチェのいうように主観は実際にもけっして一つではないのだから。

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九〇・P.34」ちくま学芸文庫)

「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.35~36」ちくま学芸文庫)

さらにバルトから引用したい。というのは、なぜ「優生思想」などという社会的害悪しか生まない「都市伝説」のようなものが、とりわけ大都市を中心として発信されることが多いのか、という事情について説明してくれているとおもわれるからだ。

「今日において、神話とは何か?直ちに極めて簡単な答えを出そう。それは語源と完全に一致している。すなわち、《神話とは、ことばである》(『神話』という単語について千もの違う意味を挙げての反論があるに違いない。だがわたしは単語ではなく事柄を定義しようとしたのだ)。

もちろん、それはどんなことばでもいいというのではない。言語にとって神話になるためには特殊な条件が必要だ。そのことはすぐあとにわかる。だが最初から強く提示する必要があるのは、神話が伝達の体系であることだ。それは話しかけなのである。そのことによって、神話が、客体、概念または観念ではありえないのがわかる。それは意味作用の様式だ。一つの形式なのである。あとで、この形式に、歴史的限界、使用条件を課し、また、その中に、社会を再現することになろう。それだからといって、まず初めに、神話を形式として記述しなければならないのには、変わりがない。

神話の様々な対象のあいだに内容上の区別を立てようとするのが間違いであるのは明らかだ。というのは、神話はことばであり、話すことに属するものならすべてが神話でありうるからだ。神話は、その話しかけの対象によってではなく、それを表現するやり方によって、定義されるのだ。神話には形式的な限界があるが、内容的な限界はない。では、すべてが神話でありうるのか?そうだとわたしは思う。宇宙は無限に暗示的だからだ。世界のどの物体も閉ざされた沈黙の存在から、社会的馴化に開かれた言語的状態に移りうるのだ。というのは、いかなる法則も、自然のであれ人間のであれ、物事について話すのを禁じていないからだ。木は木である。たしかにそうだ。だがミヌウ・ドゥルエによっていわれた木はすでにもう完全な木ではない。それは飾られた木であり、或る種の消費に適応し、文学的楽しみ、反抗、映像を付与され、つまり、純粋な材質につけくわわる社会的《用途》を与えられているのだ。

もちろん、すべてが同時にいえるのではない。いくつかの事物は一時期、神話的ことばの対象となり、次いで消え去り、他の事物が入れ代って神話となる。ボードレールが女についていったように、《宿命的に》暗示的な事物があるのだろうか?決してそうではない。極めて古い神話というものを考えることはできるが、永遠の神話はないのだ。なぜなら、現実的なものをことばの状態に移行させるのは人間の歴史であり、それだけが神話的言語の生死を支配するのだ。悠遠であろうがなかろうが、神話体系は歴史的基礎しか持ちえない。事物の《性質》から出現することはできないのだ」(バルト「神話作用・P.139~141」現代思潮社)

繰り返す必要もないだろう。「都市伝説」あるいは「巷」(ちまた)にはびこる「神話」は、それが害毒であるにもかかわらず、なぜ急速になおかつ真実であるかのように広がっていくのか。同時にさらなる差別思想を新しく創設するのか。また実在する被害者をなお一層多く生み出すのか。そしてそれらの動きと同時に〔差別的思想の蔓延によって〕《国家もまた思い上がる》という現実を出現させるのか。なぜそうなるのか。それはバルトによれば、もともと近現代の「神話」というものは、また俗世間でいう「都市伝説」あるいは「巷」(ちまた)にはびこる「神話」というものが、その発生をほかでもない「言語」に依存しているからである。

言語あるいは広い意味での言語(数式・体系・形式化など)は、科学的見地から見てはなはだしく未熟だった原始的共同体だけでなく、むしろ二十一世紀の到来とともに達成されたネット社会の中でますます特権的な暴力装置としてより一層機能しやすいものとなった。なぜかはわからないが、科学の発展が必ずしも人間社会を幸福にするものだとはいえないのであって、それはナチス・ドイツ出現以前、ソ連成立とほぼ同時期にフロイトもいっていた。

「遠い未来においては、現在のわれわれにはおそらく想像もできぬほど大きな新しい進歩が文化のこの領域で行なわれ、人間と神との類似はいっそうその度を増すことだろう。しかしながら他面、われわれがいま行なっているこの検討との関連においては、神に類似するまでになりながら今日の人間が自分を幸福だと思っていないという事実も忘れてはならない」(フロイト「文化への不満」『フロイト著作集3・P.454』人文書院)

そうフロイトが述べた時代が今や現実のものとして人間社会を征服してしまっている。人間は征服されることに馴れきってしまい、ニーチェの言葉を借りれば「そこにある不思議なものを不思議がらないようになる」。今後、二度も三度も征服されるたびに、征服されたと気づかないままますますそうなってしまうかもしれない。

BGM

フランスの反快楽的強情主義

2019年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム
EUは資本主義の未来の先取りとして成立した。たとえばフランスにとってはフランスの快楽追求意志の過程であり、まだまだ過程でしかない。にもかかわらず、すでに放棄されようとしている。ルペン率いる極右政党の躍進はほんのいっときの感情的時間による支配でしかない。なるほど民主主義的見地からいえば極右政党はあってよい。しかしその拡大化と排他主義的傾向がもたらす貿易面での不利な状況は中長期的スパンで見た場合、フランスの貿易すなわち経済的諸関係にとって余計に不利な状況を拡大再生産するばかりであって、けっして有利な要因を呼び込むことにはならない。資本主義は孤立主義を徹底的に嫌う。むしろ逆に世界の多面的融合をどんどん推し進める。労働力の相互乗り入れを浸透させるように動く。今このときも休みなく相互乗り入れを浸透させようとしており、後退することを知らない。後になってフランスの景気動向と諸勢力の力関係が揺れ動き変化したとき、極右政党が打ち出した政治政策がどれだけネックとなって立ちはだかってしまうか、まだ誰にもわからない。しかし言葉だけが調子良く一人歩きしている。

フランスはテクストの国だ。他者との向き合い方もテクストである。テクストは快楽だ。他者との出会いは快楽でありテクストである。バルトはいう。

「テクストの快楽とテクストの制度の間にどんな関係があり得るだろうか。ほんの僅かな関係しかない。テクストの理論は悦楽を想定しているけれど、将来制度となる可能性はほとんどない。それが基礎づけるもの、厳密に実現するもの、仮定するものは、実践(作家の実践)であって、科学や方法や研究や教育法ではない。その原理からいって、この理論は理論家か実践家(書く人)しか生めず、専門家(批評家、研究者、教師、学生)は全然生めない。テクストの快楽の記述を妨げているのは、あらゆる制度的な研究の、宿命的にメタ言語的にならざるを得ない性格だけではない。われわれが、現在、真の生成の科学(それだけがわれわれの快楽を、道徳的な後見を添えずに引き取ってくれるだろう)を構想できないからでもある。『ーーーわれわれは、《生成》の、おそらく、《絶対的な流れ》を知覚するほど《精緻》ではない。《永続するもの》は、物事を常識的な平面に要約し、還元する、われわれの粗雑な器官によってのみ存在するのであって、実は、何物も《この形では》存在しないのである。木は瞬間毎に新しいものである。われわれが《形》を肯定するのは、われわれが絶対的な運動の精緻さを捉えないからである』(ニーチェ)」(バルト「テクストの快楽・P.113~114」みすず書房)

バルトのいうテクストは、日本の大学でいう「テキスト」(教科書)とは何の関係もない。逆にテクストは「制度」ではない。さらに、ただ単に「読む」ということを意味しているわけでもない。むしろ「制度」を乗り越えていく斬新でなおかつ複数の「行為」である。そこから快楽が生じると同時にそれ自体が快楽であるテクスト。不断に生成していくこと。それが快楽自身であること。テクストはいつも複数の快楽であり行為であるほかない。すぐれて《実践的》な複数の行為である。なお、バルトがニーチェから引用している部分。以下。

「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫)

世界は本来的に「絶対的流動」であり、ただ単なる「持続」ではない。ここで「持続」というのは、ベルクソンのいう持続とは違っている。むしろベルクソンのいう「持続」はニーチェのいう「絶対的流動」に相当する。それは「質的多様性」であり「絶対的異質性」である。

「それは、形成途上にある内的現象であり、その相互浸透によって自由な人間の連続的発展を構成するかぎりでの内的現象である。持続は、このようにその本然の純粋さに立ち戻ると、まったく質的な多様性、相互に融け合うようになる諸要素の絶対的異質性として現れてくるだろう」(ベルクソン「時間と自由・P.273」岩波文庫)

ではニーチェが批判する「持続」とは何か。それはたとえば「樹木」が現実的には各瞬間ごとにまったく異なる様相を呈し変化に富んだ諸局面を経巡っているにもかかわらず、その現実を無視して言語だけで成立した「樹木」という言葉が引き続き「同じ樹木」として「持続」されていることに対する大いなる疑問である。誰の目にも明らかな変化が確かに認められるのに、しかしなぜ、「同じ樹木」が「持続」していると考えるのかという根本的問い。各瞬間ごとに違う或る種の「樹木」なのではないか。すべての樹木は常に既に生成変化のうちにあるのではないか。そうニーチェは主張する。それを受けてバルトは、テクストを生成変化として捉えているわけだ。

テクストはたった一つの書物を読むわけではない。むしろ読むことは読者が改めて書くということなのであり、書くことのうちで書物も読者も生成変化していく過程の中に身を置くという行為である。だからテクストはいつもすでに変化のただなかを疾走していくという行為のうちにしかない。この疾走は無数に枝分かれしつつ多様な生成変化をフュージョンするがゆえに疾走自体が快楽なのだ。

さらにEUはフュージョンである。同時にこのフュージョンは一度始まったら終わるということを知らない。資本主義はそういうふうにできている。資本主義はあくまで自己目的なのでありフランスという一国家がどうであれ、その国民がどのように考えるにせよ、資本主義はまた別様に考える。あるいは何も考えない。ただひたすら自己目的を追求する快楽する諸機械でしかない。そのためにはどんな暴力装置をも手配するし自分で動かす。貿易については一国内での自己満足的な取引を許さず(旧ソ連が実例だ)諸外国とのダイナミックな取引を優先させて競争させるし、剰余価値の追求のためには臆することなく殺人的行為を実行する。そういう意味ではマルクスの時代から何らの変化もない。

「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。

もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易にとうぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。

貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。

ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。

このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)

また、移民反対とか労働力商品の流動性阻止とかいう反資本主義的な言動が幅を効かせるようになり資本主義的自然法則が崩れかけてくると、資本主義はその発生の頃の様式へ自分で自分自身を巻き戻し、国家権力を暴力的に発動して割安な労働力商品の形成を容赦なく貫徹する。

「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)

これら資本主義に内在的な掟に逆らう勢力の台頭は、それが小さなうちは目をつむり寛容な態度を見せておくけれども、一定の程度を越えて成長してくる場合、資本主義はそれらを自動的に叩き潰すことにしているし言うまでもなくこれまでもそうしてきた。そのようなわけだ。したがって、資本主義がフランスやイギリスだけを大目に見てやるという手厚い慈悲の心を持っているなどと、いったいどこの誰がおもうだろうか。全世界をシャッフルさせること。今の資本主義が目指しているのはそういうことだ。しかしなぜフランスはその程度のこともわかろうとしないのだろうか。強情の行方はなかなか辛いものがあるとおもわれるわけだが。

「それから強情が現われてくるが、これは本来永遠者の力による絶望である、換言すれば人間が絶望的に自己自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に濫用するのである。強情が永遠者の力による絶望であるというちょうどそのために、彼は或る意味では非常に真理の近くにある、ーーーだが彼が真理の側に非常に近くあるというちょうどそのために、彼は無限に真理から遠く隔たっている」(キルケゴール「死に至る病・P.111」岩波文庫)

BGM

日米外交破綻への無意識

2019年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
「風習の道徳」化。実に多様な諸存在があったにもかかわらず、「別様の感じ方」をした様々な人々は共同体から排除され抹殺されてきた。そして風習の道徳にしたがい馴らされ平板化され凡庸化され記号化され薄っぺらにされた人々だけが社会を構成するようになった。

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)

たいへん長いあいだに渡って人間は「算定しうべきものに《された》」。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)

なぜ人間は「算定しうべきものに《された》」のか。それは「責任」の所在とその「債務」を確定させるためだ。社会的には、どんな行為でさえその等価物があると考えられた。「債権者」と「債務者」との両サイドに「二分割」し得るに違いないという幻想がその梃子(てこ)になった。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)

ニーチェは二分割という疑惑について、それは「売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられる」と考えた。ニーチェにすればすでに、一つの事物ですら多様性から生成して止まないものであり、分割するにしてもたった二分割しかなされ得ないなどとは考えようもなかったからだ。が、ともかく俗世間では「二分割」することが前提とされるに至った。フーコーが明らかにしたように、狂気であれ非理性であれ理性であれ、人間が人間を裁くにあたって、人間はそもそも同等の価値を有する等価の人間同士であると前提しておかなければ同じ天秤に掛けて裁くことはできない。そのために無理にでも「算定しうべきものに《された》」という経緯がある。たとえば「債権者」と「債務者」とは同等の権利の所有者であって、その限りで、「債権者」は「債務者」を裁くことができる、というふうに。もっとも、刑罰というシステムは思いのほか巧妙にできているのである。最初の頃、「死刑」に関して「私刑」という方法があった。私的な基準に照らし合わせてみて、共同体が感じたように「債務者」を好きなように「私刑」に処するという事態が存在していた。そこでは「債権者は一種の《快感》ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される」。ところが国家的共同体の発生とともに「私刑」は廃止されるに至る。すなわち「実際の刑罰権、すなわち行刑がすでに『お上(かみ)』の手に移っている場合」、「私刑」の代理行為として公的死刑制度が与えられるわけだが、その際、「債権者」は「人の軽蔑され虐待されるのを《見る》という優越感に到達する」。

順々に見直していかなくてはならない。

「すなわち、等価ということは次のようにして成立するーーー直接に利益を受け取ることによって損害を補償するかわりに(従って金銭や土地など、何らかの種類の占有物によって補償するかわりに)、債権者は一種の《快感》ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される。しかもこの満足感は、債権者の社会的地位が低くかつ卑しいほどいよいよ高く評価され、ややもすれば債権者にとって非常に結構なご馳走のように思われ、否、より高い地位の味試しのようにさえ思われた。債権者は債務者に『刑罰』を加えることによって一種の、『《主人権》』に参与する。ついには彼もまた、人を『目下』として軽蔑し虐待しうるという優越感に到達するーーーあるいは少なくとも、実際の刑罰権、すなわち行刑がすでに『お上(かみ)』の手に移っている場合には、人の軽蔑され虐待されるのを《見る》という優越感に到達する。してみると、報償ということの本質は、残虐を指令し要求する権利に存するわけになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.72」岩波文庫)

「負い目とか個人的債務という感情は、われわれの見たところによれば、その起源を存在するかぎりの最も原始的な個人関係のうちに、すなわち、買手と売手、債権者と債務者の間の関係のうちにもっている。ここで初めて個人が個人に対峙し、ここで初めて個人が個人に《対比された》。この関係がすでに多少でも認められないほどに低度な文明というものは、いまだに見出されないのである。値を附ける、価値を量る、等価物を案出し、交換するーーーこれらのことは、人間の最も原初的な思惟を先入主として支配しており、従ってある意味では思惟《そのもの》になっているほどだ。最も古い種類の明敏さはここで育てられた。人間の挟持、他の畜類に対する優越感の最初の萌芽も同じくここに求められるであろう。ーーー人間は価値を量る存在、評価し、量定する存在、『本来価値を査定する動物』として自らを特色づけた。売買はその心理的な付属物とともに、いかなる社会的体制や結合よりも古い。交換・契約・負債・権利・義務・決済などの感情の萌芽はーーー力と力とを比較したり、力を力で計量したり、算定したりする習慣とともにーーーむしろまず個人権という最も初歩的な形式から、最も粗笨で最も原初的な社会複合体(類似の複合体に比較して)へ《移された》。今や眼はこの見方に合わされた。そして融通は利(き)かないが、しかしまた断乎としてまっしぐらに突き進んで行く古代人類の思惟に特有なあの重厚さをもって、人々はまもなく『事物はそれぞれその価値を有する、《一切》はその対価を支払われうる』というあの大きな概括に辿り着いた。ーーーこれが《正義》の最も古くかつ最も素朴な道徳的基準であり、地上におけるあらゆる『好意』、あらゆる『公正』、あらゆる『善意』、あらゆる『客観性』の発端である。この最初の段階における正義は、ほぼ同等な力を有する人々の間の、相互に妥協しようとする、決済によって再び互いに『諒解』し合おうとする善意であり、ーーー一方、より小さい力を有する人々に関しては、それらの人々にはまたそれらの人々相互の間で決済をつけることを《強制》しようとする善意である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.79~80」岩波文庫)

「犯罪者」は始めから「犯罪者」であったわけでは何らない、ということについて。

「犯罪者は何よりもまず『破壊者』であり、これまで関与してきた共同生活のあらゆる財産や快適に関して言えば、《全体に対する》契約や言質の破棄者である。犯罪者は、単に自己のあらかじめ受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。それゆえに彼は、その後は当然これらの財産や便益をことごとく喪失するのみならずーーーむしろ今や《それらの財産がいかに重要なものであったか》を思い知らされる。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥するーーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。『刑罰』はこの開花段階においては、あの憎悪され保護を解かれ抑圧された敵、一切の権利と保護のみでなく、一切の恩恵をも喪失した敵に対する正常な関係の単なる模写であり、《真似事》であるにすぎない。従ってそこにあるのは、あらゆる無慈悲と残忍とに充ちた《征服せられたる者は禍なるかな!》の軍律と祝勝のみだ。ーーーこのことからして、刑罰が歴史上に現われた際に取ったあらゆる《形式》が戦争そのもの(戦争の犠牲祭をも含めて)によって与えられたものであることが明らかになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.81~82」岩波文庫)

共同体が大きくなると、したがって国家規模になると、共同体は個人的な罪をもはや重視しなくなる。個別的な犯罪にいちいち構ってなどいない。「破壊者」が「犯罪者」だとされるのは一体どこでなのか。もし「破壊者」が「犯罪者」だとすると、国家の法ではなく、むしろゼウスを筆頭とする神々の掟に殉じたアンティゴネはまさしく「破壊者」=「犯罪者」として裁かれていることになる。実際、アンティゴネに下される国家の側からの罰は死刑だからだ。ところが死刑執行の直前にアンティゴネは自分で自分の首をくくって縊死する。処刑される直前、法の「破壊者」ではあっても国家による恣意的法による処刑は免れる自害。その意味でアンティゴネはディオニュソスとしての破壊者あるいは自己破壊を生きているのであり、間違っても国家の法によってみすみす裁かれるわけでは何らない。

「アンティゴネ だってもべつに、お布令を出したお方がゼウスさまではなし、あの世をおさめる神々といっしょにおいでの、正義の女神が、そうした掟を、人間の世にお建てになったわけでもありません。またあなたのお布令に、そんな力があるとも思えませんでしたもの、書き記されてはいなくても揺ぎない神さま方がお定めの掟を、人間の身で破りすてができようなどと。

だってもそれは今日や昨日のことではけっしてないのです。この定りはいつでも、いつまでも、生きてるもので、いつできたのか知ってる人さえありません。それに対して私が、いったい誰の思惑をでも怖がって、神さま方の前へ出て、責めを追おう気を持てましょう。いずれ死ぬのはきまったこと、むろんですわ、たとえあなたのお布令がなくたって。また寿命の尽きるまえに死ぬ、それさえ私にとっては得なことだと思えますわ。次から次へと、数え切れない不仕合せに、私みたいに、とっつかれて暮らすのならば、死んじまったほうが得だと、いえないわけがどこにあって。

ですから、こうして最期を遂げようと、私は、てんで、何の苦痛も感じませんわ。それより、もしも同じ母から生まれた者が死んだというのに、葬りもせず、死骸をほっておかせるとしたら、そのほうがずっと辛いに違いありません。それに比べてこちらのほうは、辛くも何ともないことです。あなたに、私がもしも今、馬鹿をやったと見えるのでしたら、だいたいはまあ、馬鹿な方から、馬鹿だと非難を受けるのですわね」(ソポクレス「アンティゴネ」『ギリシア悲劇2・P.172~173』ちくま文庫)

「共同体は次第に力を増すにつれて、個人の違背をもはや重大視しなくなる。それというのも、個人をもはや以前ほど全体の存立に対して危険なもの、破壊的なものと見なす必要がなくなるからである。非行者はもはや『法の保護の外におかれ』たり、追放されたりはしない。一般の怒りはもはや以前のように、無制限に個人の上に注がれることを許されない。ーーー非行者はむしろ今やこの怒りに対して、殊に直接の被害者の怒りに対して、全体の側から慎重に弁護され、保護される。非行を差し当たり仕かけられた人々との妥協、事故の範囲を局限し、より広汎な、まして一般的な関与や動揺を予防しようとする努力、等価物を見つけて係争全体を調停しようとする試み(《示談》)、わけても違背はそれぞれ何らかの意味で《償却されうる》と見ようとする、従って少なくともある程度までは犯罪者と犯行とを《分離》しようとする次第に明確に現われてくる意志ーーーこれらは刑法の爾後の発達においてますます明瞭に看取される諸相である。共同体の力と自覚が増大すれば、刑法もまたそれにともなって緩和される。共同体の力が弱くなり危殆に瀕すれば、刑法は再び峻厳な形式を取るにいたる。『債権者』の人情の度合いは、常にその富の程度に比例する。結局、苦しむことなしにどれだけの侵害に耐えうるかというその度合いそのものが、彼の富の《尺度》なのだ。加害者を《罰せずに》おくーーーこの最も高貴な奢侈を恣(ほしいまま)にしうるほどの《権力意識》をもった社会というものも考えられなくはないであろう。そのとき社会は、『一体、俺のところの居候どもが俺にとって何だというのか。勝手に食わせて太らせておけ。俺にはまだそのくらいの力はあるのだ!』と言うこともできるであろうーーー『一切は償却されうる、一切は償却されなければならない』という命題に始まった正義は、支払能力のない者を大目に見遁すことをもって終わる。ーーーそれは地上における善事と同じく、《自己自身を止揚する》ことによって終わりを告げる。ーーー正義のこの自己止揚、それがいかなる美名をもって呼ばれているかを諸君は知っているーーー曰く、《恩恵》。言うまでもなく、それは常に最も強大な者の特権であり、もっと適切な言葉を用いるならば、彼の法の彼岸である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.82~83」岩波文庫)

法はむしろ「私刑」の禁止について鋭く目を尖らせるようになる。個別的な自衛権あるいは処罰権を存在させないためだ。国家から独立した法体系の存在を認めないこと。そちらのほうにむしろ気を向けるようになる。国家から独立した「別様の」法体系の存在は文字通り国家からの独立を宣言することと同様のことと考えられるからである。そしてまた法の創設以前には犯罪もあり得ないとニーチェはいう。法が創設されて始めて犯罪が出現する。もっともな話だ。それまでは合法だった行為が突然違法とされたりするわけだから。今最も注目を集めたのは「女性の人工妊娠中絶の権利」だろう。

「しかし最上の権力が反抗感情や復仇感情に対して採用し、かつ実行する最後の手段ーーー最上の権力は何らかの方法によってこの手段を採用しうるだけの力を得るや否や常にこれを採用するーーーは《法律》の制定である。すなわち、一般に何がその最上の権力の眼から許されたもの、正しいものと見なさるべきか、何が禁じられたもの、正しからざるものと見なさるべきかについての命令的な宣言である。最上の権力は、法律の制定の後は個人または集団全体の侵害や専横を法律に対する侵犯として、最上の権力自体に対する叛逆として扱うことによって、隷属者の感情をそういう侵犯により惹き起こされた直接の損害から逸れさせ、やがて長い間には被害者の立場のみを見かつ認めるような、すべての復讐が欲するものとは正反対なものにまで到達するーーー。それから後は、眼は行為を次第に《非個人的に》評価するように訓練される。被害者自身の眼すらもそのように訓練される。ーーーしてみると、法律の制定の後に初めて『法』及び『不法』が生じるのだ(そして、デューリングの主張するように、侵害行為の後に初めて生じるのでは《ない》)。法および不法を《そのものとして》論じるのは全くノンセンスだ。《そのものとして》見れば、侵害も圧制も搾取も破壊も、何ら『不法行為』ではありえない。生は《本質的には》、すなわちその根本機能においては、侵害的・圧制的・搾取的・破壊的に作用するものであって、これらの性格を抜きにしては全く考えられえないものだからだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.86~87」岩波文庫)

次のセンテンスは「刑罰の『意味』がいかに不安定であり、いかに追補的であり、いかに偶然的であるか、同一の処分がいかに相違した目的に利用せられ、適用せられ、準用せられうるか」について、述べられている。「平和の破壊者として、あたかも戦争に用いられるような武器をもって打倒せらるべき敵ーーーに対する宣戦および作戦としての刑罰」とある。何も中国共産党中央本部の側に立って主張するつもりはない。そうではなく、アメリカのトランプ大統領は「犯罪者」ではないのか、という問いが問われねばならなくなってきたからである。日本の企業がなぜトランプ政権のために自腹を切らされなければならないのか。不思議でしょうがない。

「刑罰の『意味』がいかに不安定であり、いかに追補的であり、いかに偶然的であるか、同一の処分がいかに相違した目的に利用せられ、適用せられ、準用せられうるか、これについて少なくとも一つの見当を与えるために、比較的小さな偶然の材料に基づいて私自身に思い浮かんだ見本をここに並べてみよう。危害の除去、加害の継続の阻止としての刑罰。被害者に対する何らかの形における(感情の上の代償でもよい)損害賠償としての刑罰。均衡を紊(みだ)すものの隔離による騒擾の拡大防止としての刑罰。刑の決定者および執行者に対する恐怖心の喚起としての刑罰。犯罪者がこれまで享有してきた便益に対する一種の決済としての刑罰(例えば、犯罪者が鉱山奴隷として使用せられる場合)。退化的要素の除去としての(時としてはシナの法律におけるが如く、一族全体の除去としての、従って種族の純潔を維持し、または社会型式を固定する手段としての)刑罰。祝祭としての、換言すれば、ついに克服せられたる敵に対する暴圧や嘲弄としての刑罰。受刑者に対してであれーーーいわゆる『懲治』ーーー、処刑の目撃者に対してであれ、記憶をなさしめるものとしての刑罰。非行者を常軌を逸した復讐から保護する権力の側から取りきめた謝礼の支払いとしての刑罰。復讐が強力な種族によってなお厳として維持せられ、かつ特権として要求せられている場合、その復讐の自然状態との妥協としての刑罰。平和や法律や秩序や官憲の敵ーーー共同体にとっての危険分子として、共同体の前提たる契約の破棄者として、反逆者、裏切者として、また平和の破壊者として、あたかも戦争に用いられるような武器をもって打倒せらるべき敵ーーーに対する宣戦および作戦としての刑罰」(ニーチェ「道徳の系譜・P.93~94」岩波文庫)

むしろアメリカのトランプ政権こそ、日本企業の業績不振に関して「責任」があると言わねばならないのではないだろうか。ともかく今やトランプ政権からどのように見えるかという観点からのみ「犯罪者」が決定されるという状況は余りにもおかし過ぎる。全米各地で行われた「女性の人工妊娠中絶の権利回復デモ」に対するトランプ政権の圧力にしても、これまで獲得されてきた女性の権利を逆に剥奪しているようにしかおもえない。

「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八九六・P.491」ちくま学芸文庫)

もうずっと昔にフロイトもこう喝破している。

「たいていの人にとって、『意識的』ということは『心的』ということと同じなのですが、われわれは『心的』という概念を広げようと企てて、意識的でない心的なものを承認する必要に迫られたのでした。これとまったく類似していることですが、他の人たちは『性的』と『生殖機能に属している』ーーーあるいはもっと簡単に言おうと思うなら『性器的』ーーーとを同一視していますが、われわれは、『性器的』でない、すなわち生殖とはなんの関係もない『性的』なものを承認せざるをえないのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.9」新潮文庫)

なおかつ、さらに多様なものの見方というものはある。実際にある。しかし、一人の人間の内部においてさえ、多様なものの見方はなぜ発生するのか。それは発生しないではいられないからだとしかいえない。ベルクソンのいうP.321図5参照。いわゆる「逆円錐」。この中で観念は各瞬間ごとに様々な位置を取りつつ無数の諸断面として切り出されてくるからである。

「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)

さらに裁かれる側は、裁く側が行う「行刑上の処置そのものを見る」。死刑執行なら殺されるという処置である。かつて裁かれる側は共同体にそれなりの損害を与えたとされている。裁かれる側は人を殺したから今度は殺されるのだとおもう。しかし「殺した場合」、今度は「正義」の名において「殺し返される」というのはどこか倒錯しているように見えはしないだろうか。たとえば、企業が企業の都合で正社員・非正規社員・パート・アルバイトなどを大量解雇した場合など、それがために事実上殺されたに等しい家族あるいは生活保護を受けてもやっていけず仕方なく性風俗店で働いている女性は実際にいるわけだ。にもかかわらず、大量解雇した企業の側が「正義」の名において「殺し返される」という法的処置が下されないのはなぜなのか。解雇された側ばかりが行刑上の不利益を被っている。生活様式を劣悪化させていかざるを得ない。この悪循環をこそ断たねばならないのでは、とおもうのだが。残念なことに現状はそうは動いていないとしかおもえない。ますます輪を掛けた悪循環に陥っているように見える。

「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・P.95」岩波文庫)

ニーチェにいわせればトランプ政権は「法」を「むしろ単にある種の顧慮から利用している」ように見えるのである。また、「どのように見えるか」という観点は多ければ多いほど世界の民主主義にとっては有利であるにもかかわらず、である。トランプ政権の残酷さはトランプ自身がどこかコミカルに見えているため、なかなか残酷には見えないということもあるかもしれない。しかし事情はこうだ。

「残酷さは、置きかえられていっそう精神的となった一つの官能である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八六〇・P.478」ちくま学芸文庫)

トランプ政権の「官能」を成就してやるためになぜ諸外国はトランプ政権の「残酷さ」を受け入れなくてはならないのか。「犯罪者」がもし本当に「破壊者」であるとしたらトランプ政権こそまさしく自腹を切らない「犯罪者」集団だと指摘するほかなくなってくるのではないだろうか。

さらに。フーコーの権力分析が袋小路に陥ったことは前に述べた。それは新自由主義的社会のリゾームな諸関係についてフーコーの手法は当てはまらないことが決定的になってきたことを意味している。フーコーの権力分析が最も有効性を発揮したのは規律・監禁という統治方法がまだ社会の中で有効に活用されていた時期、いわゆる「パノプティコン」(一望監視装置)というシステムが権力の側にとって有効に働いていた時期に当たっている。ところがもはや地球上はリゾームな諸関係によって「接続/切断/他の流れとの再接続」を不断に繰り返す平滑空間と化した。リゾームな社会の諸関係においては支配者の側の権利は常に既に被支配者の権利と分かちがたく混じり合い融合していて、支配するにせよ被支配者の側の権益を無視しては支配者もまた成り立たないという特徴を持つ。アメリカはアメリカだけで世界の頂点に君臨することはもはや不可能になっている。世界中の諸国と様々な経済的関係を維持することでようやく成立しているに過ぎない脆さをあちこちの部分として内部に組み込んでしまった後の、一時の頂点に過ぎない。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)

また、アメリカは世界中の権力層の絶頂にいると思い込んでいるわけだが、それはただ単なる思い込みではなく、むしろ事実上の絶頂でもあることは論を待たない。ところが権力はリゾームな社会の出現によっていつも移動あるいは自己破壊へ、さらなる強度の出現へと自由自在に生成変化していくものへと変わった。一つの権力がいつまでも同じ場所にいるということはまったくなくなった。むしろ移動の自由、解体の自由、融合の自由、脱コード化の自由、脱土地化の自由、諸地域の横断の自由を実践している。アメリカは次のことを理解していないか理解する能力に欠けている。

「《生成における絶頂(最も奴隷的な基礎にもとづく権力の最高の精神化)からの逆行》は、もはや何ひとつ組織化するものをもたなくなったのち、《おのれに背きつつ》、おのれの力を破壊のために消費する」(ニーチェ「権力への意志・第三書・P.236〜237」ちくま学芸文庫)

何か決定的に強力な壁(国家権力・国家的思想的体制など)が立ちはだかることで、外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられ》自分で自分自身の内部を無惨にも破壊させてしまうとニーチェはいった。同時にニーチェは、すべての壁を越えて絶頂へ到達した権力意志の場合はどうなるのかと思考する。もはや新しく自分の内部へ取り込む他の権力を持たなくなった場合、それでも生成変化への意志は前進しつづけることを止めない。だから今のアメリカのような場合、かつて堰き止められて外へ向けて放出されないすべての本能が《内へ向けられ》自分で自分自身の内部を破壊させてしまう自己破壊へと向かったように、これまで獲得してきたあらゆる本能・権力意志を「おのれ」の「破壊のために消費する」こととなる。そしてそれはリゾーム化した資本主義では当然起こるべくして起こってくる傾向でもあるのだ。なるほど東西冷戦時代には対立という形式が有効な権力形態を出現させるケースもままあった。しかし冷戦は終わった。そして対立もまたシミュラクル(見せかけ)という形でしか残ってはいない。かつての対立型イデオロギーなどもはやどこへ行ってもどんどん通用しなくなってきた。世界は対立しているかのように見えていても実際は経済的分野において明白であるようにいつも相互に繋がり合っているというリゾーム型社会を実現し、実現したリゾーム型社会のさらなる増殖とヴァージョンアップに向かってこの瞬間も止まることなく加速的に動いている。トランプ政権にはその現実が見えていない。資本主義の本当の実力とその傾向をしっかり把握できていない。

そこであらわになってきた生きた権力に対して有効とされる方法は、次に上げるドゥルーズの言葉によって一定程度集約されていると考えられるだろう。

「だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います」(ドゥルーズ「記号と事件・P.352」河出文庫)

そしてまだ言わなければならないのだろうか。「非=コミュニケーション」とはどういうことか。戦闘あるいは戦争もまた関係者の間では「コミュニケーション」の一種なのである。だから「非=コミュニケーション」は戦闘あるいは戦争すら不可能な逃走の線を縦横無尽に描いていくことでなければならないのだ。

BGM