「らせん訳<源氏物語>」出版記念対談から。メンツは「町田康×毱矢まりえ、森山恵」。
「町田 この本を読むと、ウェイリーは平安時代の日本の建築とか装束を、当時のイギリスの読者が読んでわかるような言葉に置き換えて訳していたんですね。だからそれを今の日本の読者にわかるように訳す、お二人の『らせん訳』というのが、僕にはすごくわかりやすかった。読者も皆そうやと思うんです。
毱矢・森山 うれしい。
町田 かといって、じゃあ何でも置き換えたらいいのかというと、そういうわけじゃない。そこには膨大な逡巡があったということが、『レディ・ムラサキ』を読んでわかった気がします。
例えば外国人に『歌舞伎町』をどう説明するか。『歌舞伎町って、歌舞伎をやっている町ね』、いや、歌舞伎町で歌舞伎はやってない(笑)。そういう誤解を含めてどう処理するか。ただ言葉を説明してもわからんというのは、今の日本でも同じだと思います。
源氏物語でいえば、宮中の女房とか女御、更衣とかいわれても、今の僕には何のことかわからない。具体的なイメージが湧かない。でも更衣を『ワードロープのレディ』とカタカナで読むと、むしろそのほうがある了解につながる。こういう言葉を発見したときは、やっぱり驚きみたいなものがあったんですか?
森山 そうです。驚きと喜びがあったんですね。例えば先日、大河ドラマの『光る君へ』の関連番組を見ていたら、『釣殿』が紹介されていました。ウェイリーは『フィッシング・パヴィリオン fishing-pavilion』と訳しているんです。
町田 神殿造の池に面した建物ですね。
毱矢 釣殿が『フィッシング・パヴィリオン』、おもしろい!と。それを発見した喜びを分かち合いたい気持ちがありました。
森山 神無月が『Godless Month』とか。
町田 ゴッドレス・マンス、笑わしよんな(笑)」(町田康×毱矢まりえ、森山恵「『らせん訳』とは何か」『群像・2024・4・P.104~105』講談社 二〇二四年)
すかさず滑り込んでくる町田康の関西弁も面白い。毱矢まりえ・森山恵が気づいた発見の悦びとほとんどべたに近い町田康の言葉遣いとの二重奏が、さしあたりニーチェのいう「大いなる笑い」をもたらす。
「森山 神様がお留守(笑)。ふざけているのではなくて真面目に、完全に正しい訳語なのだけど、つい笑ってしまう。
町田 でも、その距離感がおかしいですね。
毬矢 その距離感、それぞれの言葉の持つ文化的背景を大事にしたかったんです。
町田 僕は『#日本語で言へ』運動というのをSNSで孤独にやってるんですけど、今は何でも横文字で言うじゃないですか。Go To Eatとか、役所から出てくる言葉は横文字が多い。。あれは一つには、意味をぼやかしてマイルドにしようということでしょうけど、そうすると本来その言葉が持っている歴史とか、言葉にまつわる僕らの情緒とか、そういうものが全部なくなってしまう。意味すらもよくわからないまま、何となくそういう気分にさせる、たちの悪い揮発した情緒みたいなものに包まれている。それが嫌で、当たり前に英語で言われている言葉を日本語に言い換えているんですけど。そうするとやっぱり違和感があって笑いますね。
森山 おっしゃるとおりで、言い換えると『ずれ』が生まれる。日本語から英語へ、英語から日本語へと翻訳するたびに、二重、三重のずれが出てくる。
町田 それが『らせん』ということですね」(町田康×毱矢まりえ、森山恵「『らせん訳』とは何か」『群像・2024・4・P.105』講談社 二〇二四年)
森山恵のいう「二重、三重のずれ」はただ単に「日本語から英語へ、英語から日本語へと翻訳」を反復させているからだけではおそらく出てこない。むしろアルチュセールが言っていた「多元的複合的決定性」へ身体を向けて<あえて>開かれたままに運動させておくことから始めて生じる。<あえて>でなくては逆に悲惨なものになってしまう。
「『たのしい知識』には、おそらく車の中からパリの雑踏をスナップ撮影した映像がしばしば挿入される。当たり前だが、その映像の中で仕事や買物をしている人びとは、スタジオのふたりに対して、それぞれの場所に固有の背景としっかり結びついて、安らっている。さて、私たちはなぜ『既存の資本ー賃労働関係やそれによって決定される生産過程への配置を自明のものとみなして自らそれに適合させるような労働力を再生産すること』を進んで行ってしまうのか?浅田彰によると、そのプロセスは『石材の如きものではなく精密な複合的構造であり、上部構造をまきこんだ絶えざる再生産によってのみその構造を維持』しているのだから、この『構造の非再生産、即ち、ズレの創出による現状変更への可能性に向けてパースペクティヴを開く』ことこそが『階級闘争』であるとしたのがアルチュセール派だった。ジガ・ヴェルトフ集団は、おそらくジャン=ピエール・ゴランを通して、このアルチュセールの教えに馴染んでいた。彼らの映画は、ヨーロッパ各国の家庭のテレビに放映されるために作られたことを再び思い出そう」(西田博至「めざめよと、われらに呼ばわるオプティカルな声ら」『ジャン=リュック・ゴダールの革命・P.74』eleking-books 二〇二三年)
ウェイリーだけではいけないのだ。毱矢まりえ・森山恵の二人だけで完結させてしまってもまたいけないのである。博学なウェイリー《と》毱矢まりえ・森山恵が思わず知らず多重奏を演じてしまっていなくては「楽しい」わけがない。そこへ<関西弁としての町田康>がぶっちゃけノイズを断続的に打ち響かせることでこの対談は本編とはまた別のところで「楽しい」あるいは大いに笑える。
ひとつ戻ろう。
「町田 話がまったく前に進まず、次々と思いがけないところへ飛んでいく。どこに連れて行かれるかわからないという意味で、南方熊楠の随筆を読むようなおもしろさがありました」(町田康×毱矢まりえ、森山恵「『らせん訳』とは何か」『群像・2024・4・P.103』講談社 二〇二四年)
そう言われてみればなるほどと誘惑的ではあるのだ。