「盗まれたものが『芥川龍之介全集』(ちくま文庫)でなかったらこの犯罪の動機はまったくの迷宮入りとなってしまっていたでしょう。
『芥川龍之介全集』(ちくま文庫)
まず第一に、盗まれたものが芥川全集でなければならない必然性を考えてみましょう。例の少年にはその動機がまったく欠けています。とすればただ単なる衝動的犯行でしょうか。一見すればそう見えなくもない。第二に、他の誰かから頼まれたというケースです。その場合、たとえ頼まれたとしても断わることができます。しかし断われない場合も当然あります。何か弱味を握られている場合です。少年には何か弱味がなかったでしょうか。盗んででも芥川全集を持っていかなくてはならない相手がいたかどうか。この点を考えてみましょう。捜査に協力することを断わった上で学校に頼んで少年の成績表を見せてもらいました。すると中学一年から二年へ上がると同時に飛躍的に成績が上昇していることに気付きました。うなぎ昇りと言ってもいいでしょうか。ちょっと考えにくいほどの上昇率です。ところで試験問題はどうでしょうか。少年が芥川にならって読書量を増やしたとします。その結果が試験問題に反映したと考えられるでしょうか。答えは否です。中学や高校の試験問題は特定の作家の小説を幾ら大量に読み込んだとしても、それがすぐに試験結果に反映されるような仕組みにはなっていないからです。大学受験の半分は受験技術習得のための努力量が反映されるのであって、ただ単に特定の作家の作品をたくさん読んだからといってもそれが大学受験への早道になるなどということはほとんどすべての場合で考えられないでしょう。受験勉強が受験技術習得のための予備校化している問題はもうずっと昔から指摘されてきました。今なお改善されたとは言えません。皆さん、誰しも御存知のはずです。では少年の飛躍的な成績上昇の原因はどこにあるのか。中学一年から二年へ上がる時、学校ではクラス替えがあったようですね。おそらく二年から三年へ上がる時もまたあるのでしょう。さて、問題です。容疑者とされた少年がもし三年になってもまだずっと成績上昇という目を見張らんばかりの快挙を再び皆さんの目に見せてくれるでしょうか。クラス替え次第ということになりはしないでしょうか。なぜそうなるのか。こうです。少年の弱味を握っていたのは他の誰でもない今のクラス委員長だからです。クラス委員長の実家はこの辺りで知らない人はいないほどとても恵まれた教育環境のようですね。しかも大量に毛の多い血統書付きの猫まで飼っていらっしゃる。制服に付着する猫の毛の量もさぞかし大量になることでしょう。だからこそクラス委員長は猫の毛をしっかり払い落してから外出することにしている。几帳面なのでしょう。ところが猫の毛というものは、ほんの少しなら接触した他人の衣服にも付着してしまいます。すべての毛を払い落すことはできないほど繊細なものですから。少年の衣服に付いていたほんの少量の猫の毛は、今のクラス委員長と接触した時に偶然付着したものではないでしょうか。でもなぜクラス委員長と接触しなければならなかったのか。試験問題について多くのヒントをもらうためです。クラス替えと同時に飛躍的な成績上昇が見られたのはその結果なのです。少年にすればクラス委員長があたかも神か何かのように映って見えたことでしょう。それ以降少年はクラス委員長から頼まれることなら何でもはいはいと言いなりになるようになった。芥川全集の万引き。それもその一つなのではなかったでしょうか。芥川作品に引き寄せられる中学二年生。早熟といえば言えるでしょう。逆に犯行を頼まれた少年にすればただ単に学校の成績を上げてくれるというだけでもありがたい絶対的存在です。二人の関係がうむも言わせぬ上下関係へ変貌するまでそれほど時間はかからなかったに違いありません。ところで、クラス委員長の実家は経済的に恵まれているのにわざわざ芥川全集、それも文庫版を隠れて手に入れる必要があっただろうか、そう思われるでしょう。当然です。クラス委員長の実家には恐らく、とても立派な芥川全集が飾られているでしょう。しかしそれは持ち出すのに手間のかかる大きなサイズです。一冊だけ引き抜くと目立ってしまって見た目に格好よくないという点も考慮せねばなりません。抜けや欠けが一切ないという点は経済的に恵まれた家にとって抜き差しならない大切な信仰箇条なのです。だから文庫であるというだけでなく、その訳注の綿密さに定評のある『ちくま文庫』版に白羽の矢が立ったと見るべきでしょう。クラス委員長は訳注の綿密さを知っていたに違いない。ところが容疑者となった少年はそんなことまったく知らないし興味もない。ただ成績表のグラフの推移だけがいつも問題だった。経済的にも教育面でも二人の少年の将来を考えさせずにはおかない要素がまだまだ幾らも見えてきそうです。今回の事件はただ単なる『万引き』という言葉では収めることのできない怖いほどの深さをたたえてはいないでしょうか」(’17.6.30)
BGM-A
「なぜ露出した腸が凄惨(せいさん)なのであろう。何故人間の内側を見て、悚然(しょうぜん)として、目を覆ったりしなければならないのであろう。何故血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。何故人間の内蔵が醜いのだろう。──それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか」(三島由紀夫「金閣寺・P.62~63」新潮文庫)
「『踏め。踏むんだ』抵抗しがたく、私はゴム長靴の足をあげた。米兵が私の肩を叩(たた)いた。私の足は落ちて、春泥(しゅんでい)のように柔らかいものを踏んだ。それは女の腹だった。女は目をつぶって呻(うめ)いていた。『もっと踏むんだ。もっとだ』私は踏んだ。最初に踏んだときの異和感は、二度目には迸(ほとばし)る喜びに変わっていた」(三島由紀夫「金閣寺・P.83」新潮文庫)
「もし私が女を踏まなかったら、外人兵は拳銃(けんじゅう)をとり出して、私の生命をおびやかしたかもしれない。占領軍に反抗することはできない。私はすべてを強いられてやったのである。しかし私のゴム長の靴裏に感じられた女の腹、その媚(こ)びるような弾力、その呻(うめ)き、その押しつぶされた肉の花ひらく感じ、或る感覚のよろめき、そのとき女の中から私の中へ貫ぬいて来た陰微な稲妻(いなずま)のようなもの、──そういうものまで、私が強いられて味わったということはできない。私は今も、その甘美な一瞬を忘れていない」(三島由紀夫「金閣寺・P.91」新潮文庫)
「ふつうその用途が正反対と思われている物同士が、組み合わさることをわたしに申出るので、わたしの会話はユーモアたっぷりなものになるのだった。『お前さん、この頃だいぶいかれているぜ、まったく』『いかれてるだって!』と、わたしは眼を丸くしながら繰返した。『いかれてる』。それで思い出すが、そう言えば、わたしはその頃、今述べたような精神の贅沢(ぜいたく)きわまる超脱の結果、針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟みを見たとき、ある絶対的な認識について啓示を受けたと思ったのだった。この誰でも知っている小さな物品の優雅さと奇異さが、《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)
「わたしは警察を尊敬していた。それは殺すという行為をなしうるのだ。距離をへだてて、代理人を使ってではなく、自らの手をもって、その殺人は、たとえ命令されたものであるにしろ、あくまで独自の、個人の意志にかかわるものであり、その決意と共に殺人者としての責任を含んでいるのである。警察官は人を殺す行為を習わされる。わたしはそれら、殺人という最も至難な行為をするための、不吉な、しかし微笑する機械を愛するのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.285」新潮文庫)
「わたしの恋男(こいびと)の一人一人は一編の暗黒小説を現出させるのだ。したがって、わたしが仄(ほの)暗い主人公たちによって引入れられる、危険に満ちた夜陰的冒険は、時によって非常に長い共棲(きょうせい)の、性愛的儀典の丹精をこめた創造であるのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.289」新潮文庫)
「わたしはベルナールに訊(き)いてみた、『もしおれを逮捕しろという命令を受けたら、あんたおれを捕(つか)まえる?』彼は六秒より長くは困った様子を見せなかった。片方の眉(まゆ)をしかめながら彼はこう答えた。『そうしたらおれは自分で直接手を下さないですむようにするよ。誰か仲間に頼んでやってもらうよ』このひどい卑劣さは、わたしを激昂(げっこう)させるよりはむしろわたしの愛をいっそう深くするものであった」(ジュネ「泥棒日記・P.290」新潮文庫)
「母売りてかへりみちなる少年が溜息橋(ためいきばし)で月を吐きをり」(寺山修司「テーブルの上の荒野」・「寺山修司青春歌集・P.107」角川文庫)
「死児埋めしままの田地を買ひて行く土地買人に子無し」(寺山修司「田園に死す」・「寺山修司青春歌集・P.124」角川文庫)
「ちか頃、縊りの病といふあり。細紐と見たれば縊りたきこころ、おさへがたきものなり。水仙の花あれば木にそを縊り、花嫁人形あれば、そを縊る。その患者ゆくところ、縊られざるものはなし。みな、患者のふかきふかき情のあらはれゆゑ、ひとかれを詩人と呼ぶこともあり。詩人、ことごとく縊りては時の試練をまぬがれむとするらしも、その縊られし木は異形のさまにて黒く立つなり。ときに縊り花の木、ときに縛り人形の木なるはよけれど、またときには首吊りの木となることもあり。木、人間の生(な)る木のごとく、縊られ実りたるひとを風にそよがすさますさまじ。ここに『時』なしと思へるはただ、独断なり。患者、これをもつて表現といふ。げに、表現といふは、おそろしきものなり」(寺山修司「田園に死す」・「寺山修司青春歌集・P.147~148」角川文庫)
「暗い新宿どこまで行けば 春が来るやら晴れるやら 青い血を吐くほととぎす 姉は地獄へ嫁にゆく」(寺山修司「ロング・グッドバイ・P.105」講談社文芸文庫)
「女は立ちあがって、電灯をつけた。女は、前のパチンコ屋の寮にいた時、使っていたという鏡台に、体をうつした。乳房を手でおおっていた。そこが男の一番みたいところだと言うようにその手を離し、そして両耳の毛をかきあげる。『どうや、順ちゃん、昔のわたしから想像できんでしょ』彼はしぶしぶあいづちをうった。乳房など見ていなかった。ふっくら肉のついた腰と陰毛と太ももをみていた」(中上健次「蛇淫」・「蛇淫・P.18~19」講談社文芸文庫)
「大阪まで面会に来た肉親の者やその使いの者から、秋幸は三年間のうちに、秋幸の生れた土地の近辺が大きく変ってしまっている事を耳にしていた。新地で『モン』という店を出していたモンは用意周到に地図と写真まで用意して、原子力発電所がその土地を間にはさんだ五十キロ以内の地点に三ヶ所つくられる事が決定したし、それに紀伊半島を一周する高速道路の建設がはじまり、その土地の近辺は地理が一変したと説明した。路地も新地も消えた。市の中央にあった山も土地と隣の土地の間にあった峠もごっそりと取り払った。土地は空前の土建ブーム、土地ブームで、三年前手押し車ひとつ持って他所の組のおこぼれにあずかっていた者がキャデラックを乗り廻し、札ビラを切っている」(中上健次「地の果て至上の時・P.13~14」講談社文芸文庫)
「佐倉が町の人の中に踊り出て来るのは天皇暗殺計画が発覚してこの土地から何人もの人間が検挙され、その指導者とされたのが養子に行った佐倉の弟だったという事が明るみに出て以降だった。その弟は毒取(どくとる)と呼ばれる、町では数少ない医者の一人で、路地の者らは当時銭がないなら窓を三つ叩けと合図をきめて無料で診察を受けていたし、さらに検挙された者のうちに路地を檀家にした住職がいたので、警察は路地をも監視した。路地の者が材木を商う佐倉に理由のない好意を抱いたのは、その天皇暗殺計画で処刑された毒取のせいだった。その事件は様々な歴史的な背景があり、何よりも徳川時代に御三家と呼ばれた紀州藩で末期には江戸の家老として国を動かしていた水野氏の城下新宮で起った事だった。明治には徳川時代に日の目をみなかった新勢力が台頭したが、紀州はこの事件で一挙にたたき落されて闇の中に沈んだ。天皇暗殺計画はデッチ上げだと町の人々は口々に言ったが、天皇を警護する近衛兵を紀州出身からはこれ以降、取らなくなった。他で紀州と言うと非国民あつかいされたと人は言った」(中上健次「地の果て至上の時・P.41」講談社文芸文庫)
「呂方が密かに心を寄せていた女に手を出してしまった馬鹿がいた。そいつは顔をボコボコに腫らし、手足の筋を切られて大久保公園に転がっているところを発見された。おれが見つけたのだ。おれはすぐに、そいつのズボンの股間がドス黒く濡れていることに気づいた。はじめは小便を洩らしたのかと思ったが、血だった。呂方はそいつのペニスを茸(きのこ)のように縦に切り裂いていたのだ」(馳星周「不夜城・P.74」角川文庫)
「問題になった女も、一度だけ見たことがある。髪の毛と眉毛をすっかり剃られた顔を歪(ゆが)めながら、呂方の手下に見張られてたちんぼうをさせられていた。屈んだだけでケツが見えてしまいそうな短いスカートをはかされ、客が交渉をはじめるたびにスカートをめくられ、頭と同じように奇麗に剃りあげられた股間をさらけだしていた。その女は、しばらくして連れこみホテルで殺された。ネイヴィのアメ公の変態にやられたという話だった」(馳星周「不夜城・P.75」角川文庫)
「『ただじゃ殺さないぜ。手足の腱を切って、おまえのおカマを掘ってやる。歯を引き抜いてしゃぶらせてやる。目玉を抉(えぐ)って、そこにおれのをぶちこんでやる』」(馳星周「不夜城・P.80」角川文庫)
言葉に生気があった頃の文章を幾つか上げた。他にも思い出深い文章は色々ある。思い出すことがもしあれば、その都度上げて行きたいと思っている。しかし読者にそのような意味が届くだろうか。このような思いは届くだろうか。日本語で堂々と誤りを犯しておいて何ら恥というものを知らない日本政府のもとで。加えておこう。日本では古来言葉の主催者は天皇であるとされてきた。従って言葉の仕組みを政治的に踏みにじりながら使用していてもさっぱり理解できていない日本政府は、その脳天から爪先まで天皇の主催による言葉の世界を貶め恥ずかしめていることは明白だろうに。いずれにしてもしばらく休養を取りたいと思う。
二〇一七年六月二十六日作。
(1)ミスター・クリスマス造花と製薬で一杯の神ミスター・クリスマス
(2)空噴水と知りつつ死んで居る鴉
(3)鳩よどちらを向いている猫の気配がふと消える
(4)子供が子供の目をのぞき込む夢が怖い
(5)一部始終を見て居るただ見て居る
☞例えば李白。その名は中学や高校の教科書にも載っている世界的に有名な詩人。文学は世界の道徳を悠然と超え出ていく。
「木蘭の枻(かい) 沙棠(さとう)の舟 玉簫(ぎょくしょう) 金管(きんかん) 両頭に坐す 美酒は樽中(そんちゅう)に千斛(せんごく)を置き 妓を載せ波に随って去留を任す」(李白「江上吟」・「唐詩選・上・P.111」岩波文庫)
現代語訳:わが乗るは木蘭のかいをそなえ、沙棠で作ったみごとな舟。舟の両側には玉で飾った簫と黄金で飾った笛を持つ女たちがいならぶ。樽の中には千石もの美酒をたたえ、妓女をのせ、波のまにまに、行くも止まるも流れにまかせたまま。
杜甫の名を知らない読者もまたいないだろう。
「左相の日興 万銭(ばんせん)を費(ついや)す 飲むこと長鯨の百川を吸うが如く 杯(さかずき)を銜(ふく)み聖(せい)を楽しみ賢を避(さ)くと称す」(杜甫「飲中八仙歌」・「唐詩選・上・P.129」岩波文庫)
現代語訳:左相は一日の遊びに一万銭を使う。その飲みぶりは大きな鯨が百の川の水を吸いこむようで、杯を口にしては聖人の境地に楽しみ、賢人はごめんだなどと言っている。
「李白は一斗(いっと) 詩百篇(しひゃっぺん) 長安市上(ちょうあんしじょう) 酒家(しゅか)に眠る 天子(てんし)呼び来れども船に上(のぼ)らず 自ら称す 臣(しん)は是れ酒中(しゅちゅう)の仙(せん)と」(杜甫「飲中八仙歌」・「唐詩選・上・P.129~130」岩波文庫)
現代語訳:李白は一斗飲めば百篇の詩ができる。長安の町なかの酒屋で酔いつぶれ、寝こんでしまうし、天子からお呼びがあっても、船に上ろうとしない。そして自分では『手前は酒の世界の仙人でござる』などと言っている。
「此(こ)の身(み) 醒(さ)めて復(ま)た酔う 興(きょう)に乗(じょう)じては即ち家と為さん」(杜甫「春帰」・「唐詩選・中・P.127」岩波文庫)
現代語訳:この身は酔いからさめて、また酔うことのくりかえし、興がわいたら、そこをそのままわが家とするだけのことさ。
「酒を酌んで君に与う 君自ら寛(ゆる)うせよ」(王維「酌酒与裴迪」・「唐詩選・中・P.225」岩波文庫)
現代語訳:この酒をついで、君にすすめる。まあ一杯飲んで、気を大きくしたまえ。
「縦飲(しょういん)久しく捨て 人共(ひととも)に棄つ 懶朝(らんちょう) 真(まこと)に世(よ)と相違(あいたが)えり」(杜甫「曲江対酒」・「唐詩選・中・P.285」岩波文庫)
現代語訳:気ままに酒ばかり飲んでいる私の生活、久しい以前から世間への義理を欠いているから、世の中の人の方でもみな、私を見捨ててしまった。朝廷のつとめもおろそかにしているので、世間とは全く背中あわせの始末。
「鞭(むち)を鳴らして酒肆(しゅし)に過(よぎ)り げん服して倡門(しょうもん)に遊ぶ」(儲光羲「長安道」・「唐詩選・中・P.373」岩波文庫)
現代語訳:貴公子は乗馬の鞭を鳴らしつつ酒場に立ち寄り、あるいはきらびやかによそおって、妓楼に遊ぶ。
「彭沢(ほうたく) 興(きょう) 浅からず 風に臨んで帰心を動かす この琴堂(きんどう)の暇(いとま)に頼(よ)り 傲睨(ごうげい)して菊酒(きくしゅ)を傾(かたむ)けたり」(蕭頴士「重陽日陪元魯山徳秀登北城矚対新霽因以贈別」・「唐詩選・中・P.400」岩波文庫)
現代語訳:陶淵明にも似たこの地の県令どのは、浅からぬ興趣をそそられ、風に吹かれながら、郷里の田園へ帰ろうとする気持をおこされた。されば政務の余暇を得て、心ゆくまで眺めわたしつつ、重陽の菊花の酒を傾けられる。
「葡萄(ぶどう)の美酒(びしゅ) 夜光の杯 飲まんと欲(す)れば 琵琶(びわ) 馬上に催(うなが)す 酔うて沙場(さじょう)に臥(ふ)す 君笑うこと莫(な)かれ 古来征戦 幾人か回(かえ)る」 (王翰「涼州詞」・「唐詩選・下・P.33」岩波文庫)
現代語訳:葡萄のうまざけをたたえた、夜光のさかずき。それを飲もうとすれば、うながすかのように、馬上から琵琶のしらべがおこる。酔いしれて、砂漠の上に倒れ伏す私を、君よ、笑いたもうな。昔から戦いに出でたった人のうち、幾人が無事で帰還できたことか。
「酒醒めて簞(たかむしろ)に臥(ふ)さんことを思(おも)い」(杜甫「陪鄭広文、遊何将軍山林」・「杜甫詩選・P.60」岩波文庫)
現代語訳:酔いざめのからだは竹むしろに寝そべりたいと思うほど。
「酔うては青荷葉(せいかよう)を把(と)り」(杜甫「陪鄭広文、遊何将軍山林」・「杜甫詩選・P.63岩波文庫)
現代語訳:酒に酔って青いはすの葉を手にもち。
「酒を醒まさんとして微風(びふう)入り 詩を聴けば静夜(せいや)分(わ)かる」(杜甫「陪鄭広文、遊何将軍山林」・「杜甫詩選・P.65岩波文庫)
現代語訳:酒をさまそうとして微風が吹きこみ、詩に耳を傾けていると静かに夜がふけてゆく。
「故老(ころう) 余(わ)れに酒を贈り 乃(すなわ)ち言う 飲まば仙(せん)を得(え)んと 試(こころ)みに酌(く)めば百情(ひゃくじょう)遠く さかずきを重ねれば忽(たちま)ち天を忘る 天 豈(あ)に此(ここ)を去らんや 真に任せて先んずる所無し 雲鶴 奇翼(きよく)有り 八表(はっぴょう)をも須臾(しゅゆ)にして還(めぐ)る」(「連雨独飲」・「陶淵明全集・上・P.126~127」岩波文庫)
現代語訳:長老が酒を贈ってくれた。なんと、これを飲めば仙人になれるという。ためしに飲んでみると、なるほど、わずらわしさの数かずが遠く去ったような気がし、さらに杯をかさねると、たちまち陶然として忘我の境地になった。いや、仙人の住む天界も、この境地からさほどへだたったものではあるまい。まさに天真そのもの、天とぴったり一体となり、ふしぎな翼をもった雲間の鶴が一瞬間に宇宙をかけめぐったような気持である。
李白にせよ杜甫にせよ陶淵明にせよ、世間一般の人々と比べて何も特別な感覚を持っていたわけではない。彼らが当時のアルコールあるいはドラッグを天界からの恵みのように讃えたい欲望を隠す必要がなかった理由はまさしく彼らが日々の暮らしを送っている下界の苦悩にあった。
「『頭隠して尻隠さず』。どのような犯罪であろうとどこかに何かの痕跡が残るものです。まったく何の痕跡もなしに犯罪を成し得ることなど不可能です。その意味では『頭隠して尻隠さず』という<ことわざ>は幾らかの事実を言い表わしていると言えるでしょう。しかし<ことわざ>はステレオタイプでしかありません。いつも必ず事件の構造を適確に言い表わしていると断定することもまたできないことは、日々の暮しの中で誰もが経験しているに違いないでしょう。では猫のタマは飼主に向かって一体何を伝えようとしているのでしょうか。なるほど一見したところ、『頭隠して尻隠さず』という<ことわざ>だけを伝えようとしているかのように見えはします。それは確かかも知れません。しかしタマの様子をもっとよく見てみましょう。猫の感情表現としてはやや珍しいポーズが見られないでしょうか。言い換えてみます。タマは決して頭を隠してはいません。タマが隠しているのは頭ではなく目なのではないでしょうか?犯罪の痕跡の比喩表現である尻は隠さず、目を隠しているのです。要するに痕跡は隠されていないが、それを見ることはできないという込み入った事情を物語っていはしないでしょうか。さらにタマはこれまで数多くの哲学/思想書と接して来ました。有名な言葉の一つや二つくらいは知らず知らずのうちに覚えたに違いありません。そこで皆さん、こんな言葉を御存知ではないでしょうか。
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
こうあります。『目には見えない』。改めてタマの表現を言葉に変換してみましょう。犯罪の痕跡は残されているはずなのだが、それは《今なお目には見えていない》。そういうことなのではないでしょうか。従って今回の犯罪はただ単なる『万引き』ではない。目には見えない何か他の深い理由があると。タマはそう言っているのではないか、と思われて仕方がないのです。捜査のやり直しが必要でしょう」(’17.6.23)
BGM-A
「装置としての婚姻」と「装置としての性的欲望」は決して同じものではない。むしろ逆に、それぞれ社会的に違った役割を与えられている別々のものだ。両者の機能を混同しないようにしよう。
「おそらくどのような社会においても、性的関係は《婚姻の装置》を産み出したであろう。すなわち、結婚のシステムであり、親族関係の固定と展開の、名と財産の継承のシステムである。この婚姻=結合の装置=仕組みは、それを保証する拘束のメカニズム、それが求める縷々錯綜した知と共に、経済的プロセスや政治的構造がもはやその中に適切な道具あるいは充分な支えを見出し得なくなるにつれて、その重要さを失っていった。西洋近代社会は、特に十八世紀以降、この婚姻の装置に重なりつつ、それを排除することなしにその重要さを削減するのに貢献することとなる一つの新しい装置を発明した。それが《性的欲望の装置》である」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.136」新潮社)
「婚姻の装置と同じく、それは性的に結ばれた相手という関係に接合される。しかしそのありようは全く異なるのだ。この二つの仕組み=装置は、厳密に相対立するものとして捉えることができる」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.136~137」新潮社)
「婚姻の装置は、許可されたものと禁じられたもの、定められたものと非合法なものを定義する規則のシステムのまわりに構築される。性的欲望の装置は、権力の流動的で多形的かつ情況的な技術に従って機能する」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137」新潮社)
「婚姻の装置はその主要目的の中に、関係の働き=ゲームを再生産し、関係を律する法を維持することを含んでいる。性的欲望の装置は、反対に、管理の領域と形態の恒常的拡大を生み出す」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137」新潮社)
「前者にとっては、機能的一貫性は、限定された立場にある当事者を繋ぐ絆である。後者にとっては、身体の感覚、快楽の質であり、いかに微かで捉え難いものであっても、それらの刻印の性質である」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137」新潮社)
「そして最後に、婚姻の装置が、富の継承あるいは流通において演ずる役割の故に強固に経済と関係づけられているとすれば、性的欲望の装置は、多数の微妙な中継点を介して経済に結びつけられているが、その主要なものは身体であり、生産し消費する身体なのである」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137」新潮社)
管理社会の変容に関する重要部分。人口面から見てだいたいの平均は既にマスコミ報道されてもいる。二十一世紀一杯を通して日本の人口は急速に減少していく。一方、アフリカ並びにインドは急速に増殖していく。それら諸前提を念頭に読み進めなければならなくなってきた点に注意しよう。
「一言で言えば、婚姻の装置は、それが維持する役割を担っている社会体の自律的内部平衡(ホメオスターシス)へと、おそらくは繋がれている。そこから、それが権利としての法に対してもつ特権的な絆が生じる。そこからまた、婚姻の装置にとっての重要な段階は、『生殖=再生産』だということになる。性的欲望の装置の存在理由は、生殖=再生産することではなく、増殖すること、いよいよ精密なやり方で身体を刷新し、併合し、発明し、貫いていくこと、そして、住民をますます統括的な形で管理していくことにある」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137」新潮社)
日本やヨーロッパ諸国や中国がこうむってきた管理の形態とそれを含む大きな戦略を、今度は、二〇世紀よりもずっと刷新された形態でアフリカ諸国やインドが実験に供されることとなろう。その意味では、ただ単なる人口増殖について、それは歓迎すべき現象なのか、あるいは逆に歓迎すべき現象ではないのか、時期や地域によって大きく異なった見方を立てて検証する必要が出てくるに違いない。
「従って、社会の近代的形態により抑圧された性的欲望というテーマが想定するものとは正反対の、三乃至四つの命題を認めなければならない。すなわち、性的欲望は権力の新しい装置に結びついていること、十七世紀以来、ますます拡大の傾向にあること、以後、それを支えてきた仕組みは、生殖=再生産を目的としてはいないこと、それは初めから身体の濃密化に、つまり知の目的として、権力の関係内部における要素として身体の評価に結びついてきた、ということである」(ミシェル・フーコー「知への意志・P.137~138」新潮社)
なお「婚姻の装置」とはまた違った「性的欲望の装置」の理解のためには、ニーチェの次の言葉を頭に置いておく必要がある。
「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八九六・P.491」ちくま学芸文庫)