白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/鶏の卵の怨念・破裂した武帝の脇腹

2021年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き

北周(五五六年~五八一年)の武帝(ぶてい)は鶏の卵(かひご)を大いに好んで食べていた。毎食ごとに多くの卵を召し上がっていたので、その総数は数年間で桁違いの数にのぼった。なお、脚注によれば「冥報記」に「一食数枚」とあるらしい。「個」ではなく「枚」ということは、おそらく、「ゆで卵」ではなく「卵焼き・目玉焼き」を指すと思われる。「今昔物語」の鶏(にわとり)に関する記述では他に顕著な特徴を持つ刑罰が描かれた条が載る。またの機会に取り上げようと思うが、報復として人間の脚が焼け爛れる描写があり、脚の太腿(ふともも)部分の肉は焼け爛れた後に焼けたままではあるものの密着する。だが膝から下部は骨ばかりになって残る。昔話にありがちなアナロジー(類似・類推)の法則を念頭に置くと「卵焼き・目玉焼き」が相当するかと思われる。

宮廷の宴膳を担当する「監膳(かんぜん)」の副大臣を抜彪(ばつひう)という者が務めていた。国王に鶏の卵(かいご)を備えて格別に寵愛された。その後、隋の時代になり文帝(ぶんてい)が即位してからも監膳として仕えた。ところが開皇(五八一年〜六〇〇年)の頃、抜彪は突然死した。だが体はまだ暖かいので不審に思った家人は葬らずしばらく様子を見ることにした。三日を経て抜彪は生き返った。そしていう。冥途で周の武帝にお会いした。それについて今の国王(=文帝)にお伝えすべきことがある。すぐに私を国王のもとへ運んでほしいと。国王はそう聞かされ抜彪を召し出された。抜彪は国王にこう申し上げた。

「最初に私が死んだ時、私の名を呼ぶ声がしたのでその声に従って進んでいこうとすると一つの穴があり、その穴に道が続いていて入っていきました。ほんの少し穴の中に入ったところ、遥か西の方角に百騎を超える警護の者が集結しておりあたかも国王の警備のように物々しい様子。あっという間もなく忽然と私の目の前へ移動したかと思うと本当に武帝を守護する一団でした」。

「我レ、初メ死(しせ)シ時、忽(たちまち)ニ見ルニ、人、我ヲ喚(よば)フ。随(したがひ)テ、一ノ所ニ至ル。其ノ道ニ穴有リ。径(ただち)ニ穴ノ中ニ入ル。纔(わずか)ニ穴ノ口ニ至ルニ、遥(はかる)ニ西ノ方ヲ見レバ、百余騎ノ人有リ。来(きたり)テ衛(かく)メル事、国王ヲ守ルガ如シ。俄(にはか)ニ穴ノ口ニ来(きた)ルヲ見レバ、即チ周ノ武帝ヲ衛(かく)メル也(なり)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.225」岩波書店)

抜彪は続ける。「お亡くなりになられた武帝は、私を冥途へ召喚された理由を説明したいので付いて来てほしいと仰って穴の中へ入って行かれました。使者もまた私を引き連れて穴の中へ連行したのです。穴を抜けると城が見えます。城の門の中へ引き入れられ庭に連れられて行きました。武帝はそこにいらっしゃり、一人の気高い王と一緒に座っておられます。ですが武帝はその王をたいへん敬っておられます。どうやら閻魔王のようです。私にも閻魔王に拝謁の礼を述べるよう命じられました。

「使者、亦、監膳ヲ引(ひき)テ、穴ノ中ニ入(いり)ヌ。穴ノ中ニ城(じやう)有(あり)テ、門有リ。引テ、門ヲ入テ庭ニ至ル。武帝ヲ見レバ、一人ノ気高(かたか)キ人ト共ニ同ジク坐セリ。然レドモ、武帝、極(きはめ)テ敬ヘル形也。使、監膳ヲ引(ひき)テ、王ヲ令拝(をがま)シム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.225」岩波書店)

閻魔王は私に向かって問い掛けられました。「お前は武帝のための食事係を務めていたわけだが、その間、白団(=鶏の卵)をどれくらい与えたか」。

「汝ヂ、此ノ武帝ノ為ニ食(じき)ヲ備ヘテ、前後ニ進メシ白団、幾許(いくそばく)ノ員(かず)ゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.225」岩波書店)

覚えていないし記録もしていない旨を告げると、今度は武帝に向かい、食べた卵をすべて吐き出しなさいと命じられました。武帝は顔色を変えて悲惨な表情をされています。すると庭の前に忽然と鉄製の寝床が出現し数十人の獄率がぞろぞろ出てきました。獄卒たちのはすべて牛頭人身です。武帝は怯えきり恐怖で一杯になりながら鉄製の寝床に寝かされました。獄卒らはただちに寝床を取り囲んで鉄(くろがね)の梁(うつはり)で武帝の体を押し潰しに掛かりました。鉄棒で押し潰された武帝の両脇はぱっくり破裂し、そこから鶏の卵がぼろぼろとこぼれる落ちてきました。寝台の周りはどんどん卵で一杯になり寝台の高さと同じところまで積み上がったのです。その量は二〇〇〇キロほどになりました。

「見レバ、庭ノ前ニ一ノ鉄(くろがね)ノ床有リ。幷(ならび)ニ獄率(ごくそつ)、数十人(すじふにん)出来(いできたり)タリ。皆、牛ノ頭(かしら)ニシテ、身ハ人也。此レヲ見ルニ、恐(お)ヂ怖ルル事無限(かぎりな)シ。帝、即チ其ノ所ニ至(いたり)テ、床ノ上ニ臥シヌ。獄率、前後ニ居(ゐ)テ、鉄ノ梁(うつはり)ヲ以テ帝ヲ押ス。被押(おさ)レテ帝ノ二ノ脅(わき)剖(わ)レ裂(さけ)ヌ。其ノ裂タル所ヨリ、鶏ノ卵、泛(こぼ)レ出(いで)タリ。俄ニ其ノ床ト斉(ひとし)ク積レリ。其ノ員十余石(こく)ナルベシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.226」岩波書店)

獄卒の顔形について頸(あたま)は牛で頸(くび)から下は人間とある。牛頭(ごず)を指す。平安時代初期から中世一杯にかけて鬼の姿は牛頭馬頭として描かれる場合が非常に多い。「太平記」にこうある。

「鬼切(おにきり)と申すは、元(もと)は、清和源氏(せいわげんじ)の先祖、摂津守頼光(つのかみらいこう)の太刀にぞありける。大和国宇多郡(やまとのくにうだのこおり)に、大きなる森あり。その陰(かげ)に、夜な夜な怪物(ばけもの)あつて、行(い)き来(き)の人を取(と)り喰(く)らひ、牛馬六畜(ぎゅうばろくちく)を撮(つか)み裂(さ)く。頼光、これを聞いて、郎等(ろうどう)渡部源五綱(わたなべごんごつな)と云いける者に、『かの怪物を、討つて奉(まいら)せよ』とて、秘蔵の太刀を賜(た)びてけり。綱、頼光の命(めい)を含んで、宇多郡に行き、甲冑(かっちゅう)を帯(たい)し、夜な夜な森の影にして待ちたりける。この怪物、綱が勢ひにや恐れけん、あへて眼(まなこ)に遮(さえぎ)る事なし。綱、さらば形を替へて謀(たばか)らんと思ひ、髪を解き乱し覆(おお)ひ、鬘(かつら)を懸けて、金黒(かねぐろ)に太眉(ふとまゆ)を作り、薄絹(うすぎぬ)を打ち負(かず)きて、女の如く出で立ちて、朧月夜(おぼろづきよ)の明けぼのに、杜(もり)の下をぞ通りける。俄(にわ)かに虚空(こくう)掻き曇り、杜の上に、物立(た)ち翔(かけ)るやうに見えけるが、空より綱が鬢(びん)の髪(かみ)を爴(つか)んで、中(ちゅう)に取つてぞ上がりける。綱、件(くだん)の太刀を抜いて、虚空を払ひ切りにぞ切つたりける。雲の上に、あつと云ふ音(こゑ)して、血の顔にさつと懸かりけるが、毛の生(お)ひたる手の、指三つありて熊の手の如くなるを、二の腕より切つてぞ落としたりける。綱、この手を取つて頼光に奉る。頼光、これを朱(しゅ)の唐櫃(からひつ)に収めて置かれける後(のち)、夜な夜な懼(おそ)ろしき夢をぞ見給ひける。占夢(せんむ)の博士(はかせ)に問ひ給ひければ、七日(なぬか)が間の重き慎(つつし)みとぞ、占ひ申しける。これによつて、頼光(らいこう)、堅く門戸(もんこ)を閉ぢて、七重(ななえ)の四目(しめ)を曳(ひ)き、四方の門に、十二人の番衆(ばんしゅ)を居(す)ゑ、宿直蟇目(とのいひきめ)をぞ射させらる。物忌(ものい)みすでに七日に満(まん)じける夜(よ)、河内国高安郡(かわちのくにたかやすのこおり)より、頼光の母儀(ぼぎ)来たつて、門(かど)をぞ敲(たた)かせける。物忌(ものい)みの最中なりけれども、正(まさ)しき老母の、対面のためとて遠々(はるばる)と来たりたれば、力なく門を開き、内へ入れ奉つて、珍(ちん)を調(ととの)へ、酒を進め、様々(さまざま)の物語に覃(およ)びける時、頼光、至極(しごく)飲(の)み酔(え)ひて、この事をぞ語り出だされける。老母、持ちたる盃(さかずき)を前に差し置きて、『あな怖(おそ)ろしや。わがあたりの人も、この怪物(ばけもの)に多く取られて、子は親に先立ち、妻は夫に別れたる者、多く候ぞや。さても、いかなる物にて候ふぞや。あはれ、その手を見ばや』と。所望(しょもう)せられければ、『安き程の事にて候ふ』とて、唐櫃(からひつ)の中より、件(くだん)の手を取り出して、老母の前にぞ差し置き給ひける。母、これを取つて、且(しばら)く見る由(よし)しけるが、わが右の手の、臂(ひじ)より切れたるを差し出して、『これは、わが手にて候ひける』と云ひて、差し合はせ、兀(たちまち)長(たけ)二丈ばかりなる牛鬼(うしおに)になつて、酌(しゃく)に立つたりける綱(つな)を、左の手に提(ひっさ)げて、天井の煙出し(けぶりだ)しより上がかりけるを、頼光、件(くだん)の太刀を抜いて、牛鬼の頸(くび)を切つて落とす。その頸、頼光に懸かりけるを、太刀を逆手(さかて)に取り直して、合はせられければ、この頸、太刀の鋒(きっさき)を五寸喰(く)ひ切つて口に含みながら、頸はつひに地に落ちて、忽(たちま)ちに目をぞ塞ぎける。その骸(むくろ)はなほ破風(はふ)より蜚(と)び出(い)でて、曠(はる)かの天に昇りけり」(「太平記5・第三十二・11・鬼丸鬼切の事・P.186~189」岩波文庫)

また「平家物語」では二位殿の夢に「馬の面(おもて)・牛の面」と出てくる。

「入道相国の北の方二位の夢に見(み)給ひける事こそおそろしけれ。猛火(ミヤウクハ)のおびたたしくもえたる車を、門の内へやり入(いれ)たり。前後に立(タチ)たるものは、或は馬の面(おもて)のやうなるものもあり、或は牛の面のやうなるものもあり。車のまへには、『無(ム)』といふ文字ばかりぞ見(み)えたる鉄(クロガネ)の札をぞ立(たて)たりける。二位殿夢(ユメ)の心に、『あれはいづくよりぞ』と御(お)たづねあれば、『閻魔(エンマ)の庁(チヤウ)ヨリ、平家太政入道殿の御迎(おんムカイ)に参(まい)ッて候』と申(まうす)」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第六・入道死去・P.345」岩波書店)

さらに鬼として常識化した後の牛頭(ごず)とそれ以前の牛頭天王(ごずてんのう)との関連と混合との歴史については、山本ひろ子「異神・下・第四章・行疫神ー牛頭天王・P.205〜385」(ちくま学芸文庫)が詳しい。かつて人間界で神の一種だった牛頭馬頭(ごずめず)は、冥界に置き換えられ、今度は閻魔王の部下・獄卒あるいは鬼へと転倒して立ち現れる。

遂に庭を埋めた鶏の卵。閻魔王は冥官に命じたその数を数えさせた。冥官が計算し終わると鉄製の寝床とともに獄卒らも消え失せた。閻魔王は抜彪にいう。「お前は速やかに地上に帰りなさい」。既に死去しており冥途に引き留められている武帝は抜彪が地上に戻る穴のところまで来ていう。「そなたは地上に還ったらただちに私が冥途で受けている苦悶について隋の国王に報告してほしい。かつて私が国の倉庫を管理に当たっていた頃、玉や絹など様々な貴重品を手に入れることができた。そして皇帝となったが仏教を廃して儒教や道教ばかり重んじた。ゆえにこのような耐えがたい責め苦を受ける身になってしまった。どうか私のために仏教に則した法要を行なってほしい」。

「汝ヂ、還(かへり)テ速ニ我ガ此ノ苦ヲ令聞(きかし)メヨ。大隋(だいずい)ノ天子ハ、昔(むか)シ我レト共ニ倉庫ヲ事(あづかり)シ時、玉帛(ぎよくはく)、我レモ此レ儲(まうけ)タリキ。我レ今、身ニ皇帝ト成(なり)テ、仏法ヲ滅(めつ)シテ、極(きわめ)テ、大(おほきなる)苦ヲ受ク。我ガ為ニ善根(ぜんごん)ヲ可修(しゆすべ)キ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.226~227」岩波書店)

生きて地上に送り返された抜彪が文帝にそう告げたところ心底気の毒に思いやられ、全国に命じて一人につき「一ノ銭」を納めるよう支持、亡き武帝のための追善供養が催された。

「文帝、此レヲ聞テ、悲ビノ心無限(かぎりな)クシテ、天下(てんが)ノ人ニ勅シテ、毎人(ひとごと)ニ一ノ銭ヲ令出(いださし)メテ、彼ノ武帝ノ為ニ、追(おひ)テ善根ヲ令修(しゆせし)メ給ヒケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.227」岩波書店)

さて。鶏の卵はかねてから蛋白源として貴重だった。それを武帝は思うがまま一人で好き放題に食していた。そこで武帝に関する債権・債務関係は消費された鶏の卵を基準として計量されることになった。武帝は鉄の寝床に横たわり鉄棒で押し潰され、両脇は破裂し、そこから生前食った二〇〇〇キロに及ぶ卵がぼろぼろこぼれ落ちてくる。ここでも罰則の狙いは等価関係である。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

武帝が負った債務の償却は追善供養という形態で贖われるほかない。しかしいつまでどれほど供養を続ければ債務が終了するのか明確にされることは一切ない。また、地上と冥途とを繋ぐ回路は他の説話に見える冥界下りと同様、「一ノ所ニ至ル。其ノ道ニ穴有リ」、と記されている。

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熊楠による熊野案内/美女「王照君」を巡る三つの取引

2021年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

漢の元帝の時代、皇帝は大臣・公卿の娘の中から容姿美麗で魅力的な女性ばかり選び出して宮中に置かれていた。その数は四、五百人ばかり。のちにはもっと増え、すべての女性を拝見されるとは必ずしも限らなくなってきた。そんな頃、「胡国(ごこく)=「北方遊牧民族」の者たちが漢の都にやって来た。野蛮な風貌の者たちばかり。皇帝を始め大臣・臣下、すべての官僚はこの事態をどうするか持て余して議論したがどうもいい案が出てこない。

「而(しか)ル間、胡国(ごこく)ノ者共、都ニ参(まゐり)タル事有(あり)ケリ。此レハ夷(えびす)ノ様(やう)ナル者共(ども)也ケリ。此レニ依(より)テ、天皇ヨリ始メ大臣・百官、皆、此ノ事ヲ繚(あつかひ)テ議スルニ、思ヒ得タル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第五・P.299」岩波書店)

ただ、小知恵の効く一人の臣下がおり次のように皇帝に進言した。「胡国(ごこく)の者たちがこの都までやって来るとは極めて物騒な事態であります。この場は何らかの策を講じて彼らを本国へ帰らせることが大事だろうと思われます。そこで鑑みるに、今の宮中には無駄に大勢の女性らがいるわけですが、そのうちの容貌が劣る者を一人選び出して彼ら胡国の者どもに与えておやりになるのが賢明に思われます。彼らは喜んで帰国するに違いありません。それにこしたことはないちょっとないだろうと」。

「此ノ胡国(ごこく)ノ者共(ども)ノ来レル、国ノ為ニ極(きはめ)テ不宜(よから)ヌ事也。然レバ、構ヘテ、此等ヲ本(もとの)国ヘ返シ遣(やら)ム事ハ、此ノ宮ノ内ニ徒(いたづら)ニ多ク有ル女ノ、形(かた)チ劣(おとり)ナラムヲ一人、彼ノ胡国ノ者ン可給(たまふべ)キ也。然ラバ、定メテ喜(よろこ)ムデ返(かへり)ナム。更ニ此レニ過(すぎ)タル事不有(あら)ジ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第五・P.299~300」岩波書店)

皇帝はなるほどとお思いになり自ら女性の選定に当られたが、どの女性とも定めかね困惑されていたところ、妙案を思いつかれた。「宮廷の御用絵師をたくさん集めてこれら女性たちの肖像画を描かせるべし。それを見て最も見劣りする者を胡国の者どもに与えてやることにしよう」。

「数(あまた)ノ絵師ヲ召(めし)テ、此ノ女人共(ども)ヲ見セテ、其ノ形ヲ絵ニ令書(かかし)メテ、其レヲ見テ、劣(おとり)ナラムヲ胡国ノ者ニ与ヘム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第五・P.300」岩波書店)

すぐに絵師らが呼ばれ、宮中にいる女性たちの肖像画を描いて提出するよう命じられた。絵師らは肖像画の制作に取り掛かったが、一方、女性たちは北方遊牧騎馬民族の本拠地のことなど知るわけもなく、ただ遥か遠くの野蛮な国へ連れて行かれ彼らにもて遊ばれる運命を嘆き悲しむあまり、我も我もと金銀財宝を集めて絵師らに賄賂を贈り、絵師らの側も賄賂に気をよくして快く応じた。結果、どれも見た目だけは美麗な肖像画ばかり出来上がってきた。数百枚の肖像画が皇帝に渡される運びとなったわけだが、それら肖像画の中に王照君(わうせうくん)という女性の肖像画があった。

「絵師共(ども)此レヲ書(かき)ケルニ、此ノ女人共(ども)、夷(えびす)ノ具ト成(なり)テ、遥(はるか)ニ不知(しら)ヌ国行(ゆき)ナムズル事ヲ歎キ悲(かなしみ)テ、各(おのおの)我レモ我レモト絵師ニ、或ハ金銀(こんごん)ヲ与ヘ、或ハ余(ほか)ノ諸(もろもろ)ノ財(たから)ヲ施(せ)シケレバ、絵師、其レニ耽(ふけり)テ、弊(つたな)キ形ヲモ吉(よ)ク書(かき)成シテ持参(もてまゐり)タリケレバ、其ノ中ニ王照君(わうせうくん)ト云フ女人有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第五・P.300」岩波書店)

王照君は日頃から自らの容貌端麗なことをわきまえており、まさか自分がとは信じて疑っていなかったため、絵師に金銀財宝などの賄賂を積み上げて特に偽装工作する必要性を感じていなかった。すると他の女性らからたんまり賄賂を受け取って思い上がっている絵師は、賄賂をよこさない王照君に限り本来の姿形にさえ合わせようとせず逆に徹底的に卑しく貧相な肖像画を描いて提出した。選考の結果、胡国の者どもへの贈り物は王照君に決まった。

「形(かた)チ美麗ナル事、余(ほか)ノ女ニ勝(まさり)タリケレバ、王照君ハ、我ガ形ノ美(び)ナルヲ憑(たのみ)テ、絵師ニ財(たから)ヲ不与(あたへ)ザリケレバ、本ノ形ノ如クニモ不書(かか)ズシテ、糸(い)ト賤気(いやしげ)ニ書(かき)テ持(も)テ参リケレバ、『此ノ人ヲ可給(たまはる)ベシ』ト被定(さだめられ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第五・P.300」岩波書店)

皇帝は一枚だけ目立って怪しげに描かれている肖像画に疑念を抱き、実際の王照君を呼び出してみると、打ち広がるばかりに一際輝いて見える魅力的な女性である。王照君は実に玉のように美しい。それに比べれば他の女人らはただ単なる土塊に過ぎない。皇帝は不審に思いつつ嘆息した。

「天皇、怪(あやし)ビ思(おもひ)給テ、召(めし)テ此レヲ見給フニ、王照君、光ヲ放ツガ如クニ実(まこと)ニ微妙(めでた)シ。此レハ玉ノ如ク也。余(ほか)ノ女人ハ皆土ノ如ク也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第五・P.301」岩波書店)

数日が経った。胡国の者たちの間にも王照君が贈り物にされるという噂が広がり、宮中に参上しその件について問い合わせてみたところ、再び選考し直すこともなされないままとうとう王照君は胡国への贈り物として与えられ、馬に乗って胡国へ連れていかれてしまった。

「日来(ひごろ)ヲ経(へ)ニケルニ、夷ハ、『王照君ヲナム可給(たまはるべ)キ』ト自然(おのづか)ラ聞テ、宮ニ参(まゐり)テ其ノ由ヲ申(まうし)ケレバ、改メ被定(さだめらる)ル事無クテ、遂ニ王照君ヲ胡国(ごこく)ノ者ニ給(たまひ)テケレバ、王照君ヲ馬ニ乗セテ胡国ヘ将行(ゐてゆき)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第五・P.301」岩波書店)

胡国の者たちはたいそう喜んで琵琶など管絃を盛大に用いて様々な音楽を奏でつつ王照君を胡国へ連れ帰った。王照君は泣いて悲しんだけれども次々に演奏される音楽を聴いているうちに少しばかり心が慰められる気がした。胡国に到着後、后(きさき)としてこれ以上ないというほどの寵愛を受けた。とはいえ王照君が心底から打ち解けて楽しむということは果たしてあっただろうか。

「彼(か)ノ胡国ノ人ハ王照君ヲ給ハリテ、喜(よろこ)ムデ、琵琶ヲ弾キ諸(もろもろ)ノ楽(がく)ヲ調ベテゾ将行(ゐてゆき)ケル。王照君、泣キ悲ビ乍(なが)ラ、此レヲ聞テゾ少シ噯(なぐさ)ム心地(ここち)シケル。既ニ本(もとの)国ニ将至(ゐていたり)ニケレバ、后トシテ傅(かしづき)ケル事無限(かぎりな)シ。然レドモ、王照君ノ心ハ更ニ不遊(すさまず)モヤ有(あり)ケム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第十・第五・P.301」岩波書店)

さて。一般的な評価としてこの説話は、王照君の美貌を自ら信じて疑わない傲慢さを揶揄するエピソードとして解説されることが多い。奢る心のあり方を戒める仏教説話としての解釈である。しかしそれを認めれば今度は他の女性たちのように贈収賄を容認する文脈になり、贈収賄は多ければ多いほど効果的とする風潮をまかり通らせる心のあり方は逆に不問に付されてしまうというまったく転倒した社会的価値観を延命させる諸条件の容認を招いてしまう。だがしかし、この説話では贈収賄はもとより、それ以上に重要な権力意志の動き、それぞれ形態の異なる一種類の貨幣と二種類の貨幣的なものが流通する前と後とが描かれていると見ることができる。

第一に贈収賄に用いられた金銀財宝。その役割は肖像画の偽造に使われた。次のようにごく普通の金銭の役割を演じた。

「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫)

王照君を除く他のすべての女性は可憐である。その可憐さが賄賂を横行させる。見知らぬ外国への贈り物にされたくないという内心の不安から贈賄という手段が出現するのだが、内心というのは、この説話では深層でも何でもなく明らかに表層であり、すっかり目に見える劣等感に基づく〔王照君に対する〕復讐意志にほかならない。そしてこの場面で流通した貨幣はいつものように覆い隠すものとしての役割を演じる。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

第二に王照君の類い稀な美貌ゆえの《排除》が上げられよう。貨幣による贈収賄がもしなかったとしても王照君だけが排除された可能性は否定できない。金銀財宝が用いられても用いられなくても宮廷内部での誹謗中傷の応酬という手段がある。だからいずれにしても次のように王照君は排除されるほかなくなる。

「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)

この《排除》が起こるや否や漢の国は胡国という軍事的脅威から救われる。王照君は漢の国を延命させるための生贄として、胡国軍退去と交換関係に置かれた。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

「プレゼントとしての王照君=胡国軍退去」あるいは「プレゼントとしての王照君は胡国軍退去に値する」。説話では、この種の交換・取引が国家的装置として重要な役割を演じた。

第三に王照君は宮中の他のすべての女性の救世主として出現している。生贄という社会的装置。

「なぜ人々の罪や悲しみをその身に引き受ける者として死にゆく神が選ばれねばならなかったか、という疑問については、スケープゴートとして聖性を用いる慣習において、かつて明確に別個のものとしてあった二つの風習が、結びついてしまったという可能性を考えることができる。一方では、すでに見たように、人間もしくは動物の神を殺すという風習は、その聖なる命を年齢ゆえの衰弱から救うことが目的であった。一方で、これもすでに見たように、一年に一度罪や害悪を全面的に追放するという風習があった。そして、人々がたまたまこの二つの風習を結びつけてしまうと、死にゆく神をスケープゴートとして雇うという結果になる。これが殺されるのは、元来は罪を拭い去るためではなく、老齢による衰弱からその聖なる命を救うことを目的としていた。しかし、ともかくも彼は殺されねばならないのだから、人々はこの機会に、罪や苦しみという自分たちの重荷を、いっそ彼に背負わせてしまおうと考えたのかもしれない。この男ならば、墓場を越えた見知らぬ世界まで、その重荷を運んで行ってくれそうだからである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.260」ちくま学芸文庫)

フレイザーのいうスケープゴートは説話の場合、他の数百という女性たちから余りにも逸脱した過剰な美ゆえに神格化され、或る共同体から別の共同体へ移動可能な或る種の《神》として追放されなければならない。そして始めて他の数百にのぼる女性たちを救うことができる。その意味で王照君は《貴種》ではあっても返ってくる《流離》はない。

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熊楠による熊野案内/河南の嫁・蚯蚓(みみず)の羹(あつもの)を与えて狗(いぬ)の頭(かしら)にすげ換えられ「市(いち)」へ着地し生き延びる

2021年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

隋の大業(だいげふ)の頃(六〇五年~六一六年)、「河南(かなん)=黄河南部」に或る一家が暮らしていた。夫婦には姑(しうとめ)がいた。その妻は常からやたらと姑が憎くてならなかった。姑の年齢はわからないが両目とも盲目だった。姑が憎たらしくてたまらない妻は密かに蚯蚓(みみず)を切り捌いて羹(あつもの)に仕立て上げ、それを姑に食べさせていた。

「婦(よめ)、強ニ姑(しうとめ)ヲ憎ムニ依(より)テ、蚯蚓(みみず)ヲ切(きり)テ羹(あつもの)トシテ、姑ニ令食(じきせ)シム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十二・P.270」岩波書店)

目の見えない姑は羹(あつもの)の味が何だかおかしいことに気づいた。そこでこっそりその臠(ししむら=切り身)を隠し持っておき、後で息子(=夫婦の夫の側)に見せた。息子はそれを見て仰天、すぐさま妻と離婚することになった。そして夫がちょうど妻を連れて妻の実家まで送り届けようとしていたところ、実家のある県へ行く途中、いきなり猛烈な雷雨に見舞われた。その時、一緒に連れていたはずの妻の姿が忽然と消え失せた。

「既ニ妻ノ本ノ家ニ送ラムト為(す)ル程ニ、未(いま)ダ懸(くゑん)ニ不行着(ゆきつか)ザル間ニ、俄(にはか)ニ雷震有リ。其ノ時ニ、具セル所ノ妻(め)、忽ニ失(うせ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十二・P.270~271」岩波書店)

夫が不審に思っているとしばらくして空から何かが落ちてきた。生き物のように思われる。様子を見ていると衣裳は妻のもの、体も妻のようだが、頭(かしら)は「白キ狗(いぬ)」の頭部に置き換えられている。さらにその言葉を吐き出しているのは紛れもない狗の口。

「見レバ、着タル所ノ衣ハ、妻ノ本(もと)着タル所也。其ノ身、亦、本ノ如キ也。其ノ頭(かしら)ハ、替(かはり)テ白キ狗(いぬ)ノ頭(かしら)ト成レリ。其ノ詞、亦、狗ニ不異(ことなら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十二・P.271」岩波書店)

夫は妻にどうしてこんなことになっているのかと問うた。妻は狗の声でこう語る。「わたしは姑の食事に蚯蚓(みみず)の羹(あつもの)を与えていました。そのため天神(てんじん)=天帝(てんてい)の罰を受けたのです」

「我レ、姑(しうとめ)ノ為ニ不孝(ふけう)ニシテ、蚯蚓(みみず)ノ羹(あつもの)ヲ令食(じきせし)メタルニ依(より)テ、忽ニ天神(てんじん)ノ罰シ給フ所也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十二・P.271」岩波書店)

ともかく夫は、頭部と声の調子だけが狗に置き換えられた妻を連れて妻の実家へ送り届けた。実家でも余りに謎めいた変容ぶりに驚かれてしまい理由を尋ねられたので夫は妻の説明どおり同じように答えた。それゆえ妻は実家からも追放されてしまった。その後、頭部が狗と化した妻は城内の市(いち)に出て物乞いとして過ごすことになった。さらにその後どうなったかまではわからないにせよ。

「其ノ後ハ、妻、市(いち)ニ出(い)デテ人ニ物ヲ乞(こひ)テ世ヲ過(すぐ)シケリ。後ニ在所ヲ不知(しら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十二・P.271」岩波書店)

さて。債権・債務関係を見てみよう。この夫婦の妻は嫁入り先の姑と上手くいかなかったのかそれとも始めから姑のことが気に入らなかったのかわからないが、盲目の姑に黙って蚯蚓の切り身を捏ね合わせたものを食わせていた。それが罪と看做され頸(くび)を白い狗の頸(くび)に置き換えられた。第一に注目すべきは身体の他の部分は同じでも頭部は別の動物の何にでも置き換えることができるという点。この事情は今なお社会的立場のすげ換えとして、とりわけ懲罰として、配置転換とか社会的抹殺人事として世界中で行使されている。なるほど頭部は人間のままで狗そのものには見えないため、しかしそのぶん、明らかな報復人事あるいは「見せしめ」として毎日どこででも振るわれている権力意志の一つである。とはいえ、妻はなぜそれほど姑を憎んでいたのか。姑の側が先に嫁いじめをしていた時期があったからとも考えられる。説話にはその部分はない。だからおそらく嫁に対する姑の虐待がよくあるように、その転倒したケース、要するにこれまたよくある姑虐待として掲載されたように思う。

ニーチェのいう債権・債務関係は均衡を得たか。第一に人間の頸(くび)から狗の頸(くび)への転化がある。第二に実家へ送り返されたばかりでなく実家からも追放された上での「市(いち)の物乞い」への転化がある。そこへ来てようやく止まった。死んではいない。また狗といっても「白キ狗(いぬ)」であり、この転化は懲罰として起こったことではあるものの、「白」という色に特徴的な両義性を持つ。本朝部で大内裏の門のそばに捨てられていた捨て子に乳を与えて育てた狗もまた次のように「白き狗」だった。

「夜(よ)打深(うちふけ)て、何方(いずかた)より来るとも無くて、器量(いかめし)く大(おお)きなる白き狗出来(いできたり)ぬ。他の狗共(ども)皆此れを見て逃去(にげさり)ぬ。此の狗、此の児の臥したる所へ只寄(ただより)に寄れば、『早(はよ)う、此の狗の、今夜此(この)児をば食でむと為(す)る也けり』と見るに、狗寄(より)て児の傍(かたはら)に副(そ)ひ臥(ふし)ぬ。吉(よ)く見れば、狗、児に乳(ち)を吸(すわ)する也けり。児、人の乳を飲む様に、糸吉(いとよ)く飲む」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第四十四・P.130~131」岩波文庫)

次に見ておきたいのは妻が変容した場所。二箇所ある。第一に「未(いま)ダ懸(くゑん)ニ不行着(ゆきつか)ザル間」。実家へ送り返す途中。或る家から別の家への移動の《間》に起こっている変容。第二に実家を追放されて「市(いち)」という特権的流通空間への移動に伴う「物乞い」への移動が上げられる。「市(いち)」はそれ自体《間》であり言い換えれば《境界領域》をなす。そこではありとあらゆる諸商品が貨幣を介して、あるいは貨幣となりつつ、次々と姿形を置き換えていく。市(いち)ではどこからやって来た誰かという身元確認は必要ない。平安時代初頭から中世一杯を通して市(いち)は「公界(くがい)」と看做されていた。道元はいっている。

「大悟は公界(くがい)におけるを、末上の老年に相見(しやうけん)するにあらず」(「正法眼蔵1・第十・大悟・P.213」岩波文庫)

仏道を深めていくことは人々の共同の場においてであり、老年期の最後に至って始めて出会うというものではない。という意味。

さらに。

「『自然成』といふは、修因感果なり。公界(くがい)の因あり、公界の果あり。この公界の因果を修(しゆ)し、公界の因果を感ずるなり」(「正法眼蔵1・第十四・空華・P.266」岩波文庫)

自然に成るというのは、因を修行すれば結果は付いてくる、それを感じよということだ。共同的自然に発する因があり、共同的自然に結ばれる果がある。この共同的自然の因果を覚り、共同的自然の因果を感じることである。という意味。

またこうも。

「公界(くがい)の調度なるがごとし」(「正法眼蔵3・第六十・三十七品菩提分法・P.299」岩波文庫)

我々自身の私物ではなく、公(おおやけ)のための道具と規定される。という意味。

中世の市は「津・坂・宿・中洲・山林」などと共に駆込寺(かけこみでら)の機能を持った。だから妻がいうように「天神(てんじん)ノ罰」だったとしてもなお単なる「地獄行き」とはまた異なる道程として考えられねばならない。その意味でこの説話は「転化と移動の物語」として捉えることができる。

また「公界(くがい)」という言葉は同じでもそれがとりわけ女性たちにとって「苦界(くがい)」へ変化し、売春中心の生活の繰り返しになっていくのは室町時代末期、戦国時代になってから著しく目立ってきた変化である。熊野比丘尼が地獄絵図の絵解きを始めとし、牛王札(ごおうふだ)や酢貝(すがい)の販売だけでは生活できず、むしろ売色で生きていくようになったのもその頃。だから遊女と化した熊野比丘尼の姿が描かれるようになったのも西鶴が活躍した江戸時代が顕著である。

「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)

戦国時代末期、豊臣秀吉が京の北部に大型遊郭を建設しそれを今度は東部の鴨川五条付近へ移動させたりできた理由は、既に社会的共同性を分ち持った「公界(くがい)」が崩壊し、来る日も来る日も押し寄せてくる生活苦に喘ぐほかない「苦界(くがい)」へ転倒してしまったことを如実に物語っている。

蚯蚓(みみず)について。土を食べて微生物を分解するため、その糞が肥料になるのは今や誰でも知っている。土壌を新しく浄化する機能については古代ギリシアの時代からわかっていた。蚯蚓(みみず)のいる土地にはたくさんの樹木が茂り様々な花が開花するため、土地柄によりけりで敢えて蚯蚓(みみず)を祭る地域もあったほど。しかし近代以降、化学的に合成された薬物散布の結果、汚染された土壌では生きていけない動植物が出てきたのに対し、蚯蚓(みみず)の場合は加工薬物に対する免疫機能が高く汚染された土壌でも生きていけるので、汚染物質を体内に溜め込んだ微生物や極少動物を食べているうちに蚯蚓(みみず)自身の身体が毒性を帯びるようになった。そのため蚯蚓(みみず)を餌とする鳥などは逆に毒性を体内に溜め込んだ蚯蚓(みみず)を食べて死ぬような事態が発生してきた。だが本来、蚯蚓(みみず)は栄養価が高く、汚染されていない土壌で育てられた類種は今なお食用や薬用に用いられている。またそうした蚯蚓(みみず)を購入して新しく土壌を改良し、農作物の生産によりよく活用する方法も研究・実践されている。

さてしかし土壌汚染という事態がなかった近代以前、蚯蚓(みみず)の生食で有名な「田村屋只四郎(たむらやただしろう)」という人物がいた記録が「甲子夜話」に見える。「葺屋町(ふきやちょう)」は今の東京都中央区日本橋堀留町・人形町付近。「高陽徒」は大酒家のこと。

「諸客集会せし雑話の中にて一人云けるは、今は故人なるが、葺屋町川岸に荒物商売する田村屋只四郎と云者あり。異人にて、諸蟲何と云こともなく取り喰ふ。蛇、蛙、蚯蚓(みみず)を始め、皆生ながら食ふ。大小の諸虫かく為ざるは無し。常に人に戒て曰。蚰蜒(ゲヂゲヂ)蠼螋(ハサミムシ)は食すること勿れ。必ず毒ありと。年六十を過て終れり。我問ふ。酒を飲しや。答ふ。下戸には非れど、高陽徒にはあらずと。今なほ識る者多し」(「甲子夜話5・巻六十九・二・P.85」東洋文庫)

なお、西鶴が「男色大鑑」を執筆していた頃、江戸の「葺屋町(ふきやちょう)」界隈には芝居小屋が集まっており、凛たる歌舞伎役者を懇ろに可愛がることができる影間茶屋も繁盛していたようだ。

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熊楠による熊野案内/后が生んだ「鉄(くろがね)ノ精(たま)」

2021年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、「莫耶(まくや)」という「鉄(くろがね)ノ工(たくみ)」=「鍛冶職人」がいた。莫耶が生きていた頃、国王の后は夏の暑さをしのぐためいつも鉄(くろがね)の柱を抱いていらした。冷んやりするので避暑の方法の一つとして採用されていたらしい。そんな折、后は懐妊・出産した。生まれたのは「鉄(くろがね)ノ精(たま)」=「鉄の塊・鉄の精霊」。

「国王ノ后、夏(なつの)暑サニ不堪(たへ)ズシテ、常ニ鉄(くろがね)ノ柱ヲ抱(いだ)キ給フ。而(しか)ル間、后懐妊シテ産セリ。見レバ、鉄(くろがね)ノ精(たま)ヲ生(しやうじ)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十四・P.274」岩波書店)

国王は怪しんで后を問い詰めると后はいった。「わたしは他の誰とも寝たことはまったくございません。ただ単に避暑のため鉄の柱をいつも抱いていただけです。もしかしたらそれゆえかもしれませんが」。

「我レ更ニ犯ス事無シ。只、夏(なつの)暑サニ不堪(たへず)シテ、鉄ノ柱ヲナム常ニ抱(いだ)キシ。若(も)シ其ノ故ニ有ル事ニヤ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十四・P.274」岩波書店)

国王はそう聞いて、そうかもしれないと納得。稀にみる奇瑞と考えて莫耶を呼び出し、后が生んだ鉄の塊を用いて宝剣を造るよう命じた。莫耶は仰せのとおり託された鉄で剣(つるぎ)を造った。莫耶が造った剣は二つ。一つを国王に献上し、だが、もう一つは隠しておいた。国王は献上された剣をお納めになり置いてらしたところ、その剣が鳴くのである。

「莫耶、其ノ鉄ヲ給ハリテ、剣ヲ二ツ造(つくり)テ、一(ひとつ)ヲバ国王ニ奉リツ。一ヲバ隠シテ置(おき)ツ。国王、其ノ莫耶ガ奉レル所ノ一ノ剣ヲ納メテ置キ給(たまひ)タルニ、其ノ剣、常ニ鳴ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十四・P.274」岩波書店)

国王は奇怪に思い大臣に相談した。大臣はいう。「剣が鳴くというからには何かきっと理由があるに違いありません。この剣はおそらく夫妻(めをと)二つでひと組の雌雄の類であって、もう一つの剣を恋い慕うあまり鳴くのでしょう」。

「此ノ剣ノ鳴ル事ハ、必ズ様(やう)有(ある)ベシ。此ノ剣、定メテ夫妻(めをと)二ツ有(ある)ラムカ。然レバ、一ヲ恋(こひ)テ鳴ル也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十四・P.274」岩波書店)

そう聞かされた国王は激怒。ただちに莫耶を逮捕するよう使いの者に命じた。そのころ莫耶は家にいた。まだ国王の使いが到着しないうちに莫耶は妻にこう語った。「夜のことだが不吉な夢が出現した。国王の使いの者がこちらへやって来ようとしている。私は間違いなく殺されるだろう。今、そなたのお腹の中にいる子がもし男子なら、成長した時『南(みなみの)山の松の中を見よ』と忘れず告げるよう頼む」。

「未(いま)ダ其ノ召使ノ莫耶ガ所ニ不至(いたらざ)ル前(さき)ニ、莫耶、妻(め)ニ語(かたり)テ云ク、『我レ、今夜(こよひ)、悪(あしき)相ヲ見ツ。必ズ国王ノ使来(きたらむ)トス。我レ死セム事疑ヒ無シ。汝ガ懐妊スル所ノ子、若シ男子ナラバ、勢長(せいちやう)ノ時ニ、<南(みなみの)山ノ松ノ中ヲ見ヨ>ト可語(かたるべ)シ』」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十四・P.274」岩波書店)

そういうと莫耶は北の門から外へ出て南の山へ入り、そこにある巨大な木の洞(ほら)の中に隠れて死んだ。その後、莫耶の妻は男子を産んだ。成長して十五歳になった頃には眉間が三十センチほどもある。なので眉間尺(みけんじやく)の名を得た。母は亡き父の遺言を詳しく眉間尺に語って聞かせた。

「其ノ後(のち)、妻(め)、男子ヲ生ゼリ。其ノ子、十五歳ニ成ル時ニ、眉間(みけん)一尺有リ。然レバ、名ヲ眉間尺(みけんじやく)ト付(つき)タリ。母、父ノ遺言(ゆいごん)ヲ具(つぶさ)ニ語ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十四・P.275」岩波書店)

眉間尺は母に告げられたとおりその場所に行って探ってみると、一つの剣(つるぎ)が見つかった。手に取ると父の敵(かたき)を取らねばという思いが湧いてきた。その頃、国王は或る夢を見た。眉間が三十センチほどもある者が世間におり、その者が謀反を起こして国王を殺害しようとしている夢だ。

「国王、夢ニ見給フ様(やう)、眉間(みけん)一尺有ル者、世ニ有(あり)テ、謀反(むほん)シテ我レヲ殺害(せつがい)セムトスト」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十四・P.275」岩波書店)

夢から覚めた国王は恐怖に駆られ全国に命令を下された。この世に眉間(みけん)が三十センチばかりある者がきっといる。そいつを捕縛して献上するかあるいは頸(くび)を取って持って来た者には千金の賞与を与えようと。噂を聞きつけた眉間尺は深い山中に隠れて様子を伺っていた。同行の士を探していたところ、国王の使いの者に捕縛され尋問されて身元が割れた。そのとき眉間尺は自分の頸(くび)を斬り落とした。使いの者は眉間尺の頭部を手にして国王のもとへ参上、獲物の頸(くび)を献上して賞与を得た。

さらに国王は使いの者に命じ、手に入れた眉間尺の頭(かしら)を一刻も早く釜茹でにして解体せよと述べられた。使いの者は国王の命令通り鑊(カナヘ)を用意し、そこへ眉間尺の頭部を放り込んで七日間ぐつぐつと煮込んだが頭部は一向に爛れず煮崩れてもこない。国王にそれを伝えると国王みずから釜茹での場へ出向き、煮え立っている鑊(カナヘ)の中を覗きこまれた。すると国王の頸(くび)がぽとりと鑊の中へ落ちた。その途端、二つの頭が互いに互いをむさぼり喰らい始めた。周囲の者らはその奇怪な様子を見てともかく眉間尺の頸(くび)を弱らせるため剣を鑊の中へ放り込んだ。すると二つの頭部は同時に爛れ始めた。

「其ノ後、眉間尺ガ頭(かしら)ヲ使ニ給(たまはり)テ、『速(すみやか)ニ此レヲ可煮失(にうしなふべ)キ也』ト仰(おほせ)ノ如クニ、其ノ頭ヲ鑊(カナヘ)ニ入レテ、七日(なぬか)煮ルニ、全ク不乱(ただれ)ズ。其ノ由ヲ奏(そうす)レバ、国王怪(あやし)ビ給テ、自ラ鑊ノ所ニ行(ゆき)テ見給フ間ニ、国王ノ頭(かしら)自然(おのづか)ラ落(おち)テ鑊ノ中ニ入(いり)ヌ。二(ふたつ)ノ頭咋(くひ)諍(あらそ)フ事無限(かぎりな)シ。使、此レヲ見テ、『奇異也』ト思(おもひ)テ、眉間尺ガ頭(かしら)ヲ令弱(よわらしめ)ムガ為ニ、剣(つるぎ)ヲ鑊ノ中ニ擲(な)ゲ入ル。其ノ時ニ、二ノ頭、共ニ乱(ただ)レヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十四・P.275~276」岩波書店)

使いの者がまた鑊の中を覗き込むと今度は使いの者の頸(くび)が鑊の中に落ちた。合わせて三つの頭が煮え立つ鑊の中で混じり合ってしまい、どの部分が誰の頭なのかさっぱりわからなくなった。そこで一つの墓を造り、三つの頭を一緒に葬ることになった。

「使、亦、鑊ノ中ヲ見ル間ニ、亦、使ノ頭自然(おのづか)ラ落(おち)テ鑊ノ中ニ入(いり)ヌ。然レバ、三(みつ)ノ頭交(まじは)リ合(あひ)テ、何(いづれ)ト云フ事ヲ不知(しら)ズ。此レニ依(より)テ、一ノ墓ヲ造(つくり)テ三ノ頭ヲ葬シテケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十四・P.276」岩波書店)

しかしこの説話の中間部分は典拠とされる「孝子伝」を誤読しており、眉間尺が自分で自分の頸(くび)を斬り落として国王の使いに持たせたことになっている。ところが前半部分で明らかなように眉間尺は処刑宣告された父の敵討ちのために国王の首を取るべく同行の士を探していたのであり、国王の使いに出会ったからといって、はいそうですかと簡単に自分から首を捧げるわけがない。またこの説話には類話が多く、その一つに「太平記」所収の眉間尺の条がある。「太平記」も誤読を免れているわけではないとはいえ、なぜかより一層「孝子伝」に近い伝聞に仕上げられている。「孝子伝」によれば国王は「楚王」を指す。

眉間尺の父・莫耶には知音(ちいん)という名の古くからの友人がいた。眉間尺が敵討ちのため同行の士を探していると、その客=知音と出会い、知音が眉間尺に策略を授ける。というのはーーー、「私はそなたの父・莫耶とは長年の朋友。もしそなたが楚王に復讐を誓うというのなら共に動くことにしましょう。そなたは楚王が探している大切なその剣の先を三寸ばかり食い切って口の中に含んでおいたまま死ぬのがいいでしょう。そうすれば私はそなたの頸(くび)を持って楚王に頸(くび)を献上しに行きます。楚王は必ずそなたの頸を自分の目で確認しようと近寄ってくるでしょう。その瞬間、そなたは口に含み隠しておいた剣の先を楚王めがけて吹き付け、楚王もろとも死ぬという方法です」。それは名案だと眉間尺はただちに剣の先を三寸ばかり食い切って口の中に含み隠し、さらに自分の首を掻き切って、客・知音の前に置いた。

「古(いにし)へ知音(ちいん)なるける客一人(いちにん)来たつて、眉間尺に向かつて申しけるは、『汝(なんじ)が父干将と交はりを結び事年久し。しかれば、その朋友(ほうゆう)の恩に謝(しゃ)せんがために、汝とともに、楚王を討ち奉るべき事を謀(はか)るべし。汝、もし父の恩を報ぜんとならば、持つ所の剣の先を三寸食ひ切つて、口中(こうちゅう)に含んで死すべし。われ、汝が首を取って楚王に献ぜば、楚王悦(よころ)びて、必ず汝(なんじ)が首を見給はん時、口に含める剣の先を楚王(そおう)に吹き懸けて、死を共にすべし』と申しければ、眉間尺(みけんじゃく)、大きに悦(よろこ)びて、則ち雌剣(しけん)の先を三寸食ひ切つて口の中に含み、自ら己れが首を掻き切つて、客の前にぞさし置きける」(「太平記2・第十三巻・6・干将莫耶の事・P.329~330」岩波文庫)

知音は眉間尺の頸(くび)を持って楚王に献上する。楚王は大変な喜びようで眉間尺の頸をただちに獄門に掛けた。三ヶ月のあいだ晒し首にしておいたのだが眉間尺の頸はまったく腐敗しない。逆に「目を見張り、歯を食ひしばりて、常に歯がみをしける」ありさま。楚王は恐れを抱き、今度は鼎(かなえ)=釜茹での釜の中に頸を入れて七日間ぐつぐつと煮込んだ。すると眉間尺の首が少しばかり爛れてきたように見える。見開いていた目を塞いでいる。ようやく弱ってきたらしい。もはやこれまでだろう、と感じた楚王は自ら鼎の蓋(ふた)を開(あ)けさせて中を覗き込んだ。すると眉間尺の頸は口に含み忍ばせていた剣の先を楚王めがけてばっと吹きつけた。剣の先は楚王の頸(くび)を刺し貫て首の骨を断ち切り、楚王の首は釜茹での鼎の中にぼとりと落ちた。

「客、眉間尺が頸(くび)を取つて、則ち楚王に献(たてまつ)る。楚王、大きにこれを悦びて、獄門(ごくもん)に懸けられたるに、三月(みつき)までその頸(くび)更(さら)に爛(ただ)れず。目を見張り、歯を食ひしばりて、常に歯がみをしける間、楚王、これを恐れて、更(さら)に近づき給はず。これを鼎(かなえ)の中に入れて、七日七夜までぞ煮(に)られける。余りに強く煮られて、この首少し爛れるて、目を塞(ふさ)ぎたるけるを、『今は子細(しさい)あらじ』とて、楚王、自ら鼎の蓋(ふた)を開(あ)けさせて、これを見給ひける時、この頸、口に含みたる剣の先を、楚王にばつと吹き懸け奉る。剣の先あやまたず楚王の頸の骨を通りければ、楚王の頸、忽(たちま)ちに落ちて、鼎の中に入りにけり」(「太平記2・第十三巻・6・干将莫耶の事・P.330」岩波文庫)

すると楚王の頸と眉間尺の頸とが煮えたぎる湯の中で上になり下になり喰い合い始めた。ともすれば眉間尺の頸(くび)が劣勢に陥る。そこで客・知音が今度は自分の頸(くび)を斬り落として煮えたぎる鼎の中へ放り込んだ。眉間尺は父・莫耶の敵討ちのために、そして客・知音は旧友の恩返しのために、楚王の頸(くび)に喰らい付いた。結果、煮え返る釜茹での湯の中で三つの首はどろどろに溶けて交じり合い、どの首が誰のものかなどまったくわからなくなるまで煮崩れて果てた。

「楚王の頸と眉間尺が頸と、煮え返る湯の中にして、上になり下になり、食ひ合ひけるが、ややもすれば、眉間尺が頸下になつて、食ひ負けぬべく見えける間、客、自ら己れが頸を掻(か)き落(お)として、鼎の中に投げ入る。眉間尺が頸と相共(あいとも)に、楚王の頸を食ひ破つて、眉間尺が頸は、『死して後、父の怨(あた)を報じぬ』と呼ばはり、客の頭は、『泉下(せんか)に朋友(ほうゆう)の恩を謝しぬ』と悦ぶ声して、ともに皆煮(に)え爛(ただ)れて失(う)せにけり」(「太平記2・第十三巻・6・干将莫耶の事・P.330~331」岩波文庫)

さて。第一に重要な点。そもそも「莫耶(まくや)」は「鉄(くろがね)ノ工(たくみ)」=「鍛冶職人」である。鍛冶(かぬち)は職業病として目を患っているのが通例だった。またその子・眉間尺の顔貌は著しい異相を呈しているものの、これもまた両目の位置が通例以上に離れている点で目に関係する。鍛冶の職場は地下。暗い。そしてフロイトのいうように「エス」(力の源泉)でもある。そこから生まれる鉄製品は製造過程でどれも繰り返し変形できるだけでなく、溶鉱炉の中で幾つにも分割可能である。たった一つとばかりは限らず、莫耶が造った剣のように二つにもできるし、場合によっては三つにもできる。その意味で目の変形・目の数や位置の相違という事情は重要。すると楚王の莫耶捕縛並びに斬首命令は楚王の后が鉄の精霊を孕んだことに関する去勢処分に相当すると考えられはしないだろうか。

さらに二つの剣が離れ離れになっている状態。(1)眉間尺の両目が異例の様相を呈していること。(2)夫妻(めおと)ではあるが雌雄に離れ離れにされた状態。それぞれに対応するだろう。

しかしそれだけではこの説話はあまり意味を持たない。第二に重要なのは客の到来である。眉間尺は客・知音(ちいん)のことを知らない。生前の父の古くからの盟友だったことを後で知る立場に置かれている。このような場合の「客」は、折口信夫のいうように「客=まらうと」でなければならない。一定期間を空けて到来し役割を果たすと、今度は逆に丁寧に送り返される異例の神である。眉間尺は「客」という形態を取った「神」の援助によって始めて父の復讐を遂げることが可能になる。

そして第三。最後に墓が登場する。墓は一基。だがそこに収められる首は三人分。このケースでは一基の墓が貨幣あるいは言語の役割を演じている。一つの貨幣あるいは言葉が置かれることによってその下部に実はそれぞれ異なる身分に属する三人分の首が繋がれていることは覆い隠されてしまう。第一に三分割という脱中心化された諸商品の無限の系列が出現する。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

次に一基の墓によって三つの首は一つに収納され中心化され返される。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫)

そして一基の墓の出現と同時にそれ以前のすべての過程は覆い隠され忘れられる。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

またこの説話にも境界領域が描かれている。莫耶が消え失せるようにして死んだ場所だが「大(おほき)ナル木ノ中ニ隠(かくれ)」てである。巨木に出来た洞(ほら)を指していると思われるが、古来、巨木に出来た洞(ほら)は別世界への出入口とされてきた。隠された一方の剣もまたそこにあった。莫耶は洞(ほら)の中で剣と一体化している。だから眉間尺は成長して十五歳になった時、父の魂が入った剣を携えて世に出ることになる。だからこそ亡き父の旧友・知音(ちいん=音を聞き届け悟りを知る)はその剣の音に導かれて始めて眉間尺と出会う経過を辿るわけだ。そしてそこは「薄暗い山中」である。最後に三つの頭は一つの墓のもとに納められるが、それはそもそも溶鉱炉で三分割されたものが再び一つの鉄の塊に復帰したことに対応するだろう。これまでの説話で何度か見てきたように地獄は、どれも鉄製の官庁街と溶鉱炉の炎熱、そしてあちこち飛び交う様々な囚人の首の群れのイメージで覆われている。

なお、楚王の后(女性)が鉄の精霊を孕むという物語はその起源が性的次元に求められることを指し示す兆候でもあるだろう。楚王の后は鉄の精霊を孕み生む性として《或る力》を流通させる役割を演じている。一方、眉間尺の母(女性)も莫耶の遺言を子に伝達するという流通過程を演じて《或る力》を父から子へ移動させることに成功している。

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熊楠による熊野案内/梁(りやう)が命じた従者圧殺

2021年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

北斉の時代(五五〇年〜五七七年)、梁(りやう)という富豪がいた。臨終の時、妻子を呼んでこういった。「私は生涯、従者とともに馬を大切に取り扱い育ててきた。長年にわたって用いてきた従者と馬だから今や私の思うがまま操れるようになっている。しかしもう私は死ぬ。死ねば従者も馬も共に殺して一緒に葬ることを忘れないでほしい。というのは私が死んだ後、私は何に乗り誰を従者とすべきかわからないからだ」。

「我レ、生(いき)タリツル間、従(ともの)者幷(ならび)ニ馬ヲ懃(ねむごろ)ニ愛シ養ヒツ。然レバ、従(ともの)者ヲ仕ヒ、馬ヲ乗ル事久クシテ、皆我ガ心ニ叶(かな)ヘリツ。今我レ死(シ)ナバ、従(ともの)者ヲモ馬ヲモ同ジク可殺(ころすべ)シ。若(も)シ其レヲ不殺(ころさ)ズハ、我レ死(しに)テ後、何ヲカ乗物トシ、誰ヲカ仕人(つかひびと)ト為(せ)ム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十一・P.147」岩波書店)

梁が息絶える時、残された家人は遺言に随い従者を嚢(ふくろ)に入れて上から土を詰め込んで圧殺した。馬はまだ殺さず残しておいた。

「既ニ死セムト為(す)ル時ニ至(いたり)テ、家ノ人、遺言(ゆいごん)ノ如ク、嚢(ふくろ)ニ土ヲ入レテ、彼(か)ノ従(ともの)者ノ奴(やつこ)ノ上ニ圧(おし)テ押殺(おしころ)シツ。馬ヲバ未ダ不殺(ころさ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十一・P.147~148」岩波書店)

その後四日経った。死んだはずの従者が生き返り家人にこう語った。私は殺されるや忽(たちま)ち閻魔王庁にいたのです。思いも寄りませんでした。一旦門前で留められて一夜を門のそばで過ごしました。翌朝きょろきょろしていると死去されたご主人がいらっしゃるのが目に入りました。ご主人はぐるぐる巻きに縛り付けられて冥途の怖そうな獄卒に取りまかれ閻魔王の庁舎に連行されていかれるところでした。そのときご主人は私に気づいて仰ったのです。

「私が死ねばあの世でも従者が必要だと思っていたので家の者に命じてお前をも殺せと言い残して死んだ。家の者はその言葉に従ってお前を共に葬ったわけだが、こうも責め苦ばかり受けていては従者を呼んで何かさせようにもその時間がまったくない。従者を連れてくる必要は始めからない。だから冥官に申し出てお前を解放してもらおうと願い出るつもりだ」。

「我レ死(しに)シ時、従(ともの)者ヲ仕ハムガ為ニ『汝ヲ殺セ』ト云(いひ)置キキ。家ノ人、遺言(ゆいごん)ニ随(したがひ)テ汝(なむぢ)ヲ殺(ころし)タレドモ、今自(みづか)ラ苦ヲノミ受(うけ)テ汝ヲ可仕(つかふべ)キ様(やう)無カリケリ。然レバ、我レ、官ニ申(まうし)テ、汝ヲ免(ゆる)サムト思フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十一・P.148」岩波書店)

従者はこう続ける。ご主人はそういうと門の中に連れて行かれました。私は門の外に留め置かれたままでしたので塀の外から内部の様子を伺い覗いていました。

「すると引き連れられたご主人のところに冥官がやって来て獄卒らを問いただして言います。昨日は体脂肪を搾り取ったかと。獄卒は答えました。十五リットル程搾り取りました。冥官はいいます。早く連れて行って押し潰し、三十リットルばかり搾り取るように。

「官ノ内ノ人、此ノ主(あるじ)ヲ守リ衛(かく)メル人ニ問(とひ)テ云(いは)ク、『昨日油ハ押(おし)キヤ』ト。答(こたへ)テ云(いは)ク、『八升ヲ押シ得タリ』ト。官ノ云(いは)ク、『早ク将還(ゐてかへり)テ一斗六升ヲ押(おし)取レ』ト」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十一・P.148」岩波書店)

さらにその翌日、従者が見ているとまた主人が引き連れられてやって来た。しかし今度は少し顔色がいいらしい。従者の姿を見つけるとお前を免(ゆる)してやってほしいと冥官に申し述べるからと言った。そこへ冥官がやって来て守衛に当たっている獄卒に聞く。押し潰して油脂を搾り取ったかと。獄卒はいう。いや取れません。なぜかと冥官が問いただす。守衛の獄卒はいう。

「この罪人には家族がおり、死んで三日目に僧を招いて供養のための法事を始めました。お経を読誦する声が響いてくるたびに鉄製の責め具がいとも簡単に折れてしまうのでこれ以上油を搾り取ることができないのです」。

「此ノ人死シテ三日ニ、家ノ人有(あり)テ、此ノ人ノ為ニ、僧ヲ請(しやう)ジテ斎会(さいゑ)ヲ設ク。経唄(きやうばい)ノ声ヲ聞毎(きくごと)ニ、鉄(くろがね)ノ梁(うつはり)輒(たやす)ク折(をれ)タルガ故ニ、油ヲ不押得(おしえざ)ル也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十一・P.149」岩波書店)

冥官はしばらく様子を見るために連れて行けと言う。その時に主人は冥官に言った。「従者を許してやって下さい」。すると冥官はただちに従者を召し出して告げた。お前には過失がないので解放する。すぐ地上に返りなさいと。

「其ノ時ニ主(あるじ)、官ニ申ス、『従(ともの)者ヲ免(ゆる)サム』ト。官、即チ我レヲ召シテ云(いは)ク、『汝(なむ)ヂ、過(とが)無(なき)ニ依(より)テ免(ゆる)ス。速(すみやか)ニ可還(かへるべ)シ』ト」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十一・P.149」岩波書店)

従者は冥途に取り残されている主人と別れる時、主人は次のように語ったという。「お前は速やかに家に戻り私の妻子にこう伝えてくれ。そなたたちの追善法要のおかげで私は耐え難い責め苦から脱れることができたが、罪滅ぼしが終わったとはまだまだ言えない。そなたたち、出来る限り早く法花経を写経し仏像を造って私が受けている責め苦を助けてもらいたい。地獄の苦悶を免(まぬが)れることを願ってやまない。そして今後は祭壇を設けることはやめるように言ってくれ。仏教以外に儒教や道教や色々と祭祀を設けているとそのぶん罪が重なりますます苦しいのだ」。

「主ノ宣(のたま)ハク、『汝ヂ、速ニ還(かへり)テ我ガ妻子ニ此ノ由ヲ可伝語(つたへかたるべ)シ、<汝等ガ追善(ついぜん)ノ力(りき)ニ依(より)テ、我レ、難堪(たへがた)キ苦ヲ免(まぬか)ルル事ヲ得タレドモ、未ダ猶不免畢(まぬかれをはら)ズ。汝等、速ニ心ヲ至シテ法花経(ほくゑきやう)ヲ書写(しよしや)シ、仏像ヲ造立(ざうりふ)シテ我ガ苦ヲ助ケ救ヘ。願(ねがは)クハ免(まぬか)ルル事ヲ得ム。今ヨリ後、祭ヲ設(まうく)ル事無カレ>。其レニ依(より)テ我ガ罪ヲ益(ます)也』ト云畢(いひをはり)テ別レヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十一・P.149」岩波書店)

生き返った従者は死んだ主人の家族にそう詳しく語った。聞かされた家族らは一門一統を上げてその日をこの家の主人の法事の日とし、以後、裕福だった財産を処分、遂に家が傾くほど深く仏門に帰依することになったという。

さて。説話の冒頭、この頃はまだ殉死の風習が残っていたことが明確にされている。熊楠が指摘しているように日本でも垂仁朝の時代の風習として次の記述が見える。

「十一月(しもつき)の丙申(ひのえさる)の朔(ついたち)丁酉(ひのとのとりのひ)に、倭彦命を身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか)に葬(はぶ)りまつる。是(ここ)に、近習者(ちかくつかへまつりしもの)を集(つど)へて、悉(ことごとく)に生(い)けながらにして陵(みさざき)の域(めぐり)に埋(うづ)み立(た)つ。日(ひ)を数(へ)て死(し)なずして、昼(ひる)に夜(よる)に泣(いさ)ち吟(のどよ)ふ。遂(つひ)に死(まか)りて爛(く)ち臭(くさ)りぬ。犬烏(いぬからす)聚(あつま)り噉(は)む」(「日本書紀2・巻第六・垂仁天皇二十八年十一月・P.42~44」岩波文庫」)

そこで垂仁天皇は殉死を禁止した。

「三十二年の秋七月(ふみづき)の甲戌(きのえいぬ)の朔巳卯(ついたちつちのとのうのひ)に、皇后(きさき)日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)薨(かむさ)りましぬ。臨葬(はぶりまつ)らむとすること日有(あ)り。天皇、群卿(まへつきみ)に詔して曰(のたま)はく、『死(しにひと)に従(したが)ふ道(みち)、前(さき)に可(よ)からずといふことを知(し)れり』。今此(こ)の行(たび)の葬(もがり)に、奈之為何(いかにせ)む』のたまふ。是(ここ)に、野見宿禰(のみのすくね)、進(すす)みて、曰(まう)さく、『夫(そ)れ君主(きみ)の陵墓(みさざき)に、生人(いきたるひと)を埋(うづ)み立(た)つるは、是(これ)不良(さがな)し。豈(あに)後葉(のちのよ)に伝(つた)ふること得(え)む。願(ねが)はくは今便事(たよりなること)を議(はか)りて奏(まう)さむ』とまうす。則ち使者(つかひ)を遣(つかは)して、出雲国(いずものくに)の土部壱佰人(はじべひとももひと)を喚(め)し上(あ)げて、自(みづか)ら土部等(ら)を領(つか)ひて、埴(はにつち)を取(と)りて、人(ひと)・馬(うま)及(およ)び種種(くさぐさ)の物(もの)の形を造作(つく)りて、天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)りて曰(まう)さく、『今(いま)より以後(のち)、是(こ)の土物(はに)を以(も)て生人(いきたるひと)に更易(か)へて、陵墓(みさざき)に樹(た)てて、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ』とまうす。天皇、是(ここ)に、大(おほ)きに喜(よろこび)たまひて、野見宿禰(のみのすくね)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、『汝(いまし)が便議(たよりなるはかりこと)、寔(まこと)に朕(わ)が心(こころ)に洽(かな)へり』とのたまふ。則(すなは)ち其(そ)の土物(はに)を、始(はじ)めて日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)に立(た)つ。仍(よ)りて是(こ)の土物(はに)を号(なず)けて埴輪(はにわ)と謂(い)う。亦(また)は立物(たてもの)と名(なづ)く。仍りて令(のりごと)を下(くだ)して曰(のたま)はく、『今より以後(のち)、陵墓(みさざき)に必(かなら)ず是(こ)の土物(はに)を樹(た)てて、人(ひと)をな傷(やぶ)りそ』とのたまふ。天皇、厚(あつ)く野見宿禰(のみのすくね)の功(いさをしきこと)を賞(ほ)めたまひて、亦(また)鍛地(かたしところ)を賜(たま)ふ。則(すなは)ち土部(はじ)の職(つかさ)に任(つけたまふ)。因(よ)りて本姓(もとのかばね)を改(あらた)めて、土部臣(はじのおみ)と謂(い)ふ。是(これ)、土部連(はじのむらじ)等(ら)、天皇喪葬(みはぶり)を主(つかさど)る縁(ことのもと)なり。所謂(いはゆ)る野見宿禰は、是(これ)土部連等が始祖(はじめのおや)なり」(「日本書紀2・巻第六・・垂仁天皇三十二年七月・P.44~46」岩波文庫」)

にもかかわらず「いけごめ(生き埋め)・殉死」の風習は江戸時代末期まで続いた。ところで冥官は死んだ梁(りやう)の身体から「一斗六升ヲ押(おし)取レ」と獄卒に命じている。一方、殉死させられた従者の殺害方法は嚢詰(ふくろづめ)の圧殺。この点で死者の油脂分を搾り取る拷問法と嚢詰(ふくろづめ)で圧殺された従者の処刑法との一致に注目しておこう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

ニーチェのいう債権・債務関係の等価性は、主人の体脂肪の搾り取りと従者の圧殺法とが秤に掛けられて算定されている箇所でわかると思う。しかしどのようにして両者は「算定しうるものにされた」か。次の箇所を参照。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫)

さらに主人とその従者とではそもそも同一の天秤にかけることは不可能だった。それが可能になるのはどうしてか。交換・取引・売買・交易を可能にした行為こそがその最初である。

「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

ところが一度でも交換や置き換えが可能になると、そこへ至った経緯は覆い隠されてしまい跡形もなくなる。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

説話に戻れば、仏教受容の過程でしばしば起こっただろう諸神との並立が問題にされているが、だからといって、仏教一辺倒になったかといえば必ずしもそうではなく儒教も道教も生き残って今に至っている。必要なのは許す許さないではなく、互いが互いの差異を認め合うという基本的人権の理念に基づいた常識的態度である。だが人々は常識というものを空気のようなもの、常に存在して当り前のものとして信じて疑っていない。だから実にしばしば見落とす。

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)

そのような場合、無意識のうちに犯してしまっている様々な過失について指摘するにはどうすればよいのか。カントはいう。

「趣味判断において要請されるところのものは、概念を介しない適意に関して与えられる《普遍的賛成》にほかならない、従ってまた或る種の判断ーーー換言すれば、同時にすべての人に妥当すると見なされ得るような美学的判断の《可能》にほかならない、ということである。趣味判断そのものはすべての人の同意を《要請》するわけにいかない(このことをなし得るのは、理由を挙示し得る論理的ー全称的判断だけだからである)、ただこの同意を趣味判断の規則に従う事例としてすべての人に《要求》するだけである、そしてこのような事例に関しては、判断の確証を概念に求めるのではなくて、他のすべての人達の賛同に期待するのである。それだから普遍的賛成は一個の理念にほかならない」(カント「判断力批判・上・P.93~94」岩波文庫)

誰にも「強制」することはできない。しかし「求めること」=「他のすべての人達の賛同に期待する」ことはいつ誰にでもできると。

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