前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き
北周(五五六年~五八一年)の武帝(ぶてい)は鶏の卵(かひご)を大いに好んで食べていた。毎食ごとに多くの卵を召し上がっていたので、その総数は数年間で桁違いの数にのぼった。なお、脚注によれば「冥報記」に「一食数枚」とあるらしい。「個」ではなく「枚」ということは、おそらく、「ゆで卵」ではなく「卵焼き・目玉焼き」を指すと思われる。「今昔物語」の鶏(にわとり)に関する記述では他に顕著な特徴を持つ刑罰が描かれた条が載る。またの機会に取り上げようと思うが、報復として人間の脚が焼け爛れる描写があり、脚の太腿(ふともも)部分の肉は焼け爛れた後に焼けたままではあるものの密着する。だが膝から下部は骨ばかりになって残る。昔話にありがちなアナロジー(類似・類推)の法則を念頭に置くと「卵焼き・目玉焼き」が相当するかと思われる。
宮廷の宴膳を担当する「監膳(かんぜん)」の副大臣を抜彪(ばつひう)という者が務めていた。国王に鶏の卵(かいご)を備えて格別に寵愛された。その後、隋の時代になり文帝(ぶんてい)が即位してからも監膳として仕えた。ところが開皇(五八一年〜六〇〇年)の頃、抜彪は突然死した。だが体はまだ暖かいので不審に思った家人は葬らずしばらく様子を見ることにした。三日を経て抜彪は生き返った。そしていう。冥途で周の武帝にお会いした。それについて今の国王(=文帝)にお伝えすべきことがある。すぐに私を国王のもとへ運んでほしいと。国王はそう聞かされ抜彪を召し出された。抜彪は国王にこう申し上げた。
「最初に私が死んだ時、私の名を呼ぶ声がしたのでその声に従って進んでいこうとすると一つの穴があり、その穴に道が続いていて入っていきました。ほんの少し穴の中に入ったところ、遥か西の方角に百騎を超える警護の者が集結しておりあたかも国王の警備のように物々しい様子。あっという間もなく忽然と私の目の前へ移動したかと思うと本当に武帝を守護する一団でした」。
「我レ、初メ死(しせ)シ時、忽(たちまち)ニ見ルニ、人、我ヲ喚(よば)フ。随(したがひ)テ、一ノ所ニ至ル。其ノ道ニ穴有リ。径(ただち)ニ穴ノ中ニ入ル。纔(わずか)ニ穴ノ口ニ至ルニ、遥(はかる)ニ西ノ方ヲ見レバ、百余騎ノ人有リ。来(きたり)テ衛(かく)メル事、国王ヲ守ルガ如シ。俄(にはか)ニ穴ノ口ニ来(きた)ルヲ見レバ、即チ周ノ武帝ヲ衛(かく)メル也(なり)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.225」岩波書店)
抜彪は続ける。「お亡くなりになられた武帝は、私を冥途へ召喚された理由を説明したいので付いて来てほしいと仰って穴の中へ入って行かれました。使者もまた私を引き連れて穴の中へ連行したのです。穴を抜けると城が見えます。城の門の中へ引き入れられ庭に連れられて行きました。武帝はそこにいらっしゃり、一人の気高い王と一緒に座っておられます。ですが武帝はその王をたいへん敬っておられます。どうやら閻魔王のようです。私にも閻魔王に拝謁の礼を述べるよう命じられました。
「使者、亦、監膳ヲ引(ひき)テ、穴ノ中ニ入(いり)ヌ。穴ノ中ニ城(じやう)有(あり)テ、門有リ。引テ、門ヲ入テ庭ニ至ル。武帝ヲ見レバ、一人ノ気高(かたか)キ人ト共ニ同ジク坐セリ。然レドモ、武帝、極(きはめ)テ敬ヘル形也。使、監膳ヲ引(ひき)テ、王ヲ令拝(をがま)シム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.225」岩波書店)
閻魔王は私に向かって問い掛けられました。「お前は武帝のための食事係を務めていたわけだが、その間、白団(=鶏の卵)をどれくらい与えたか」。
「汝ヂ、此ノ武帝ノ為ニ食(じき)ヲ備ヘテ、前後ニ進メシ白団、幾許(いくそばく)ノ員(かず)ゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.225」岩波書店)
覚えていないし記録もしていない旨を告げると、今度は武帝に向かい、食べた卵をすべて吐き出しなさいと命じられました。武帝は顔色を変えて悲惨な表情をされています。すると庭の前に忽然と鉄製の寝床が出現し数十人の獄率がぞろぞろ出てきました。獄卒たちのはすべて牛頭人身です。武帝は怯えきり恐怖で一杯になりながら鉄製の寝床に寝かされました。獄卒らはただちに寝床を取り囲んで鉄(くろがね)の梁(うつはり)で武帝の体を押し潰しに掛かりました。鉄棒で押し潰された武帝の両脇はぱっくり破裂し、そこから鶏の卵がぼろぼろとこぼれる落ちてきました。寝台の周りはどんどん卵で一杯になり寝台の高さと同じところまで積み上がったのです。その量は二〇〇〇キロほどになりました。
「見レバ、庭ノ前ニ一ノ鉄(くろがね)ノ床有リ。幷(ならび)ニ獄率(ごくそつ)、数十人(すじふにん)出来(いできたり)タリ。皆、牛ノ頭(かしら)ニシテ、身ハ人也。此レヲ見ルニ、恐(お)ヂ怖ルル事無限(かぎりな)シ。帝、即チ其ノ所ニ至(いたり)テ、床ノ上ニ臥シヌ。獄率、前後ニ居(ゐ)テ、鉄ノ梁(うつはり)ヲ以テ帝ヲ押ス。被押(おさ)レテ帝ノ二ノ脅(わき)剖(わ)レ裂(さけ)ヌ。其ノ裂タル所ヨリ、鶏ノ卵、泛(こぼ)レ出(いで)タリ。俄ニ其ノ床ト斉(ひとし)ク積レリ。其ノ員十余石(こく)ナルベシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.226」岩波書店)
獄卒の顔形について頸(あたま)は牛で頸(くび)から下は人間とある。牛頭(ごず)を指す。平安時代初期から中世一杯にかけて鬼の姿は牛頭馬頭として描かれる場合が非常に多い。「太平記」にこうある。
「鬼切(おにきり)と申すは、元(もと)は、清和源氏(せいわげんじ)の先祖、摂津守頼光(つのかみらいこう)の太刀にぞありける。大和国宇多郡(やまとのくにうだのこおり)に、大きなる森あり。その陰(かげ)に、夜な夜な怪物(ばけもの)あつて、行(い)き来(き)の人を取(と)り喰(く)らひ、牛馬六畜(ぎゅうばろくちく)を撮(つか)み裂(さ)く。頼光、これを聞いて、郎等(ろうどう)渡部源五綱(わたなべごんごつな)と云いける者に、『かの怪物を、討つて奉(まいら)せよ』とて、秘蔵の太刀を賜(た)びてけり。綱、頼光の命(めい)を含んで、宇多郡に行き、甲冑(かっちゅう)を帯(たい)し、夜な夜な森の影にして待ちたりける。この怪物、綱が勢ひにや恐れけん、あへて眼(まなこ)に遮(さえぎ)る事なし。綱、さらば形を替へて謀(たばか)らんと思ひ、髪を解き乱し覆(おお)ひ、鬘(かつら)を懸けて、金黒(かねぐろ)に太眉(ふとまゆ)を作り、薄絹(うすぎぬ)を打ち負(かず)きて、女の如く出で立ちて、朧月夜(おぼろづきよ)の明けぼのに、杜(もり)の下をぞ通りける。俄(にわ)かに虚空(こくう)掻き曇り、杜の上に、物立(た)ち翔(かけ)るやうに見えけるが、空より綱が鬢(びん)の髪(かみ)を爴(つか)んで、中(ちゅう)に取つてぞ上がりける。綱、件(くだん)の太刀を抜いて、虚空を払ひ切りにぞ切つたりける。雲の上に、あつと云ふ音(こゑ)して、血の顔にさつと懸かりけるが、毛の生(お)ひたる手の、指三つありて熊の手の如くなるを、二の腕より切つてぞ落としたりける。綱、この手を取つて頼光に奉る。頼光、これを朱(しゅ)の唐櫃(からひつ)に収めて置かれける後(のち)、夜な夜な懼(おそ)ろしき夢をぞ見給ひける。占夢(せんむ)の博士(はかせ)に問ひ給ひければ、七日(なぬか)が間の重き慎(つつし)みとぞ、占ひ申しける。これによつて、頼光(らいこう)、堅く門戸(もんこ)を閉ぢて、七重(ななえ)の四目(しめ)を曳(ひ)き、四方の門に、十二人の番衆(ばんしゅ)を居(す)ゑ、宿直蟇目(とのいひきめ)をぞ射させらる。物忌(ものい)みすでに七日に満(まん)じける夜(よ)、河内国高安郡(かわちのくにたかやすのこおり)より、頼光の母儀(ぼぎ)来たつて、門(かど)をぞ敲(たた)かせける。物忌(ものい)みの最中なりけれども、正(まさ)しき老母の、対面のためとて遠々(はるばる)と来たりたれば、力なく門を開き、内へ入れ奉つて、珍(ちん)を調(ととの)へ、酒を進め、様々(さまざま)の物語に覃(およ)びける時、頼光、至極(しごく)飲(の)み酔(え)ひて、この事をぞ語り出だされける。老母、持ちたる盃(さかずき)を前に差し置きて、『あな怖(おそ)ろしや。わがあたりの人も、この怪物(ばけもの)に多く取られて、子は親に先立ち、妻は夫に別れたる者、多く候ぞや。さても、いかなる物にて候ふぞや。あはれ、その手を見ばや』と。所望(しょもう)せられければ、『安き程の事にて候ふ』とて、唐櫃(からひつ)の中より、件(くだん)の手を取り出して、老母の前にぞ差し置き給ひける。母、これを取つて、且(しばら)く見る由(よし)しけるが、わが右の手の、臂(ひじ)より切れたるを差し出して、『これは、わが手にて候ひける』と云ひて、差し合はせ、兀(たちまち)長(たけ)二丈ばかりなる牛鬼(うしおに)になつて、酌(しゃく)に立つたりける綱(つな)を、左の手に提(ひっさ)げて、天井の煙出し(けぶりだ)しより上がかりけるを、頼光、件(くだん)の太刀を抜いて、牛鬼の頸(くび)を切つて落とす。その頸、頼光に懸かりけるを、太刀を逆手(さかて)に取り直して、合はせられければ、この頸、太刀の鋒(きっさき)を五寸喰(く)ひ切つて口に含みながら、頸はつひに地に落ちて、忽(たちま)ちに目をぞ塞ぎける。その骸(むくろ)はなほ破風(はふ)より蜚(と)び出(い)でて、曠(はる)かの天に昇りけり」(「太平記5・第三十二・11・鬼丸鬼切の事・P.186~189」岩波文庫)
また「平家物語」では二位殿の夢に「馬の面(おもて)・牛の面」と出てくる。
「入道相国の北の方二位の夢に見(み)給ひける事こそおそろしけれ。猛火(ミヤウクハ)のおびたたしくもえたる車を、門の内へやり入(いれ)たり。前後に立(タチ)たるものは、或は馬の面(おもて)のやうなるものもあり、或は牛の面のやうなるものもあり。車のまへには、『無(ム)』といふ文字ばかりぞ見(み)えたる鉄(クロガネ)の札をぞ立(たて)たりける。二位殿夢(ユメ)の心に、『あれはいづくよりぞ』と御(お)たづねあれば、『閻魔(エンマ)の庁(チヤウ)ヨリ、平家太政入道殿の御迎(おんムカイ)に参(まい)ッて候』と申(まうす)」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第六・入道死去・P.345」岩波書店)
さらに鬼として常識化した後の牛頭(ごず)とそれ以前の牛頭天王(ごずてんのう)との関連と混合との歴史については、山本ひろ子「異神・下・第四章・行疫神ー牛頭天王・P.205〜385」(ちくま学芸文庫)が詳しい。かつて人間界で神の一種だった牛頭馬頭(ごずめず)は、冥界に置き換えられ、今度は閻魔王の部下・獄卒あるいは鬼へと転倒して立ち現れる。
遂に庭を埋めた鶏の卵。閻魔王は冥官に命じたその数を数えさせた。冥官が計算し終わると鉄製の寝床とともに獄卒らも消え失せた。閻魔王は抜彪にいう。「お前は速やかに地上に帰りなさい」。既に死去しており冥途に引き留められている武帝は抜彪が地上に戻る穴のところまで来ていう。「そなたは地上に還ったらただちに私が冥途で受けている苦悶について隋の国王に報告してほしい。かつて私が国の倉庫を管理に当たっていた頃、玉や絹など様々な貴重品を手に入れることができた。そして皇帝となったが仏教を廃して儒教や道教ばかり重んじた。ゆえにこのような耐えがたい責め苦を受ける身になってしまった。どうか私のために仏教に則した法要を行なってほしい」。
「汝ヂ、還(かへり)テ速ニ我ガ此ノ苦ヲ令聞(きかし)メヨ。大隋(だいずい)ノ天子ハ、昔(むか)シ我レト共ニ倉庫ヲ事(あづかり)シ時、玉帛(ぎよくはく)、我レモ此レ儲(まうけ)タリキ。我レ今、身ニ皇帝ト成(なり)テ、仏法ヲ滅(めつ)シテ、極(きわめ)テ、大(おほきなる)苦ヲ受ク。我ガ為ニ善根(ぜんごん)ヲ可修(しゆすべ)キ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.226~227」岩波書店)
生きて地上に送り返された抜彪が文帝にそう告げたところ心底気の毒に思いやられ、全国に命じて一人につき「一ノ銭」を納めるよう支持、亡き武帝のための追善供養が催された。
「文帝、此レヲ聞テ、悲ビノ心無限(かぎりな)クシテ、天下(てんが)ノ人ニ勅シテ、毎人(ひとごと)ニ一ノ銭ヲ令出(いださし)メテ、彼ノ武帝ノ為ニ、追(おひ)テ善根ヲ令修(しゆせし)メ給ヒケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.227」岩波書店)
さて。鶏の卵はかねてから蛋白源として貴重だった。それを武帝は思うがまま一人で好き放題に食していた。そこで武帝に関する債権・債務関係は消費された鶏の卵を基準として計量されることになった。武帝は鉄の寝床に横たわり鉄棒で押し潰され、両脇は破裂し、そこから生前食った二〇〇〇キロに及ぶ卵がぼろぼろこぼれ落ちてくる。ここでも罰則の狙いは等価関係である。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
武帝が負った債務の償却は追善供養という形態で贖われるほかない。しかしいつまでどれほど供養を続ければ債務が終了するのか明確にされることは一切ない。また、地上と冥途とを繋ぐ回路は他の説話に見える冥界下りと同様、「一ノ所ニ至ル。其ノ道ニ穴有リ」、と記されている。
BGM1
BGM2
BGM3
北周(五五六年~五八一年)の武帝(ぶてい)は鶏の卵(かひご)を大いに好んで食べていた。毎食ごとに多くの卵を召し上がっていたので、その総数は数年間で桁違いの数にのぼった。なお、脚注によれば「冥報記」に「一食数枚」とあるらしい。「個」ではなく「枚」ということは、おそらく、「ゆで卵」ではなく「卵焼き・目玉焼き」を指すと思われる。「今昔物語」の鶏(にわとり)に関する記述では他に顕著な特徴を持つ刑罰が描かれた条が載る。またの機会に取り上げようと思うが、報復として人間の脚が焼け爛れる描写があり、脚の太腿(ふともも)部分の肉は焼け爛れた後に焼けたままではあるものの密着する。だが膝から下部は骨ばかりになって残る。昔話にありがちなアナロジー(類似・類推)の法則を念頭に置くと「卵焼き・目玉焼き」が相当するかと思われる。
宮廷の宴膳を担当する「監膳(かんぜん)」の副大臣を抜彪(ばつひう)という者が務めていた。国王に鶏の卵(かいご)を備えて格別に寵愛された。その後、隋の時代になり文帝(ぶんてい)が即位してからも監膳として仕えた。ところが開皇(五八一年〜六〇〇年)の頃、抜彪は突然死した。だが体はまだ暖かいので不審に思った家人は葬らずしばらく様子を見ることにした。三日を経て抜彪は生き返った。そしていう。冥途で周の武帝にお会いした。それについて今の国王(=文帝)にお伝えすべきことがある。すぐに私を国王のもとへ運んでほしいと。国王はそう聞かされ抜彪を召し出された。抜彪は国王にこう申し上げた。
「最初に私が死んだ時、私の名を呼ぶ声がしたのでその声に従って進んでいこうとすると一つの穴があり、その穴に道が続いていて入っていきました。ほんの少し穴の中に入ったところ、遥か西の方角に百騎を超える警護の者が集結しておりあたかも国王の警備のように物々しい様子。あっという間もなく忽然と私の目の前へ移動したかと思うと本当に武帝を守護する一団でした」。
「我レ、初メ死(しせ)シ時、忽(たちまち)ニ見ルニ、人、我ヲ喚(よば)フ。随(したがひ)テ、一ノ所ニ至ル。其ノ道ニ穴有リ。径(ただち)ニ穴ノ中ニ入ル。纔(わずか)ニ穴ノ口ニ至ルニ、遥(はかる)ニ西ノ方ヲ見レバ、百余騎ノ人有リ。来(きたり)テ衛(かく)メル事、国王ヲ守ルガ如シ。俄(にはか)ニ穴ノ口ニ来(きた)ルヲ見レバ、即チ周ノ武帝ヲ衛(かく)メル也(なり)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.225」岩波書店)
抜彪は続ける。「お亡くなりになられた武帝は、私を冥途へ召喚された理由を説明したいので付いて来てほしいと仰って穴の中へ入って行かれました。使者もまた私を引き連れて穴の中へ連行したのです。穴を抜けると城が見えます。城の門の中へ引き入れられ庭に連れられて行きました。武帝はそこにいらっしゃり、一人の気高い王と一緒に座っておられます。ですが武帝はその王をたいへん敬っておられます。どうやら閻魔王のようです。私にも閻魔王に拝謁の礼を述べるよう命じられました。
「使者、亦、監膳ヲ引(ひき)テ、穴ノ中ニ入(いり)ヌ。穴ノ中ニ城(じやう)有(あり)テ、門有リ。引テ、門ヲ入テ庭ニ至ル。武帝ヲ見レバ、一人ノ気高(かたか)キ人ト共ニ同ジク坐セリ。然レドモ、武帝、極(きはめ)テ敬ヘル形也。使、監膳ヲ引(ひき)テ、王ヲ令拝(をがま)シム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.225」岩波書店)
閻魔王は私に向かって問い掛けられました。「お前は武帝のための食事係を務めていたわけだが、その間、白団(=鶏の卵)をどれくらい与えたか」。
「汝ヂ、此ノ武帝ノ為ニ食(じき)ヲ備ヘテ、前後ニ進メシ白団、幾許(いくそばく)ノ員(かず)ゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.225」岩波書店)
覚えていないし記録もしていない旨を告げると、今度は武帝に向かい、食べた卵をすべて吐き出しなさいと命じられました。武帝は顔色を変えて悲惨な表情をされています。すると庭の前に忽然と鉄製の寝床が出現し数十人の獄率がぞろぞろ出てきました。獄卒たちのはすべて牛頭人身です。武帝は怯えきり恐怖で一杯になりながら鉄製の寝床に寝かされました。獄卒らはただちに寝床を取り囲んで鉄(くろがね)の梁(うつはり)で武帝の体を押し潰しに掛かりました。鉄棒で押し潰された武帝の両脇はぱっくり破裂し、そこから鶏の卵がぼろぼろとこぼれる落ちてきました。寝台の周りはどんどん卵で一杯になり寝台の高さと同じところまで積み上がったのです。その量は二〇〇〇キロほどになりました。
「見レバ、庭ノ前ニ一ノ鉄(くろがね)ノ床有リ。幷(ならび)ニ獄率(ごくそつ)、数十人(すじふにん)出来(いできたり)タリ。皆、牛ノ頭(かしら)ニシテ、身ハ人也。此レヲ見ルニ、恐(お)ヂ怖ルル事無限(かぎりな)シ。帝、即チ其ノ所ニ至(いたり)テ、床ノ上ニ臥シヌ。獄率、前後ニ居(ゐ)テ、鉄ノ梁(うつはり)ヲ以テ帝ヲ押ス。被押(おさ)レテ帝ノ二ノ脅(わき)剖(わ)レ裂(さけ)ヌ。其ノ裂タル所ヨリ、鶏ノ卵、泛(こぼ)レ出(いで)タリ。俄ニ其ノ床ト斉(ひとし)ク積レリ。其ノ員十余石(こく)ナルベシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.226」岩波書店)
獄卒の顔形について頸(あたま)は牛で頸(くび)から下は人間とある。牛頭(ごず)を指す。平安時代初期から中世一杯にかけて鬼の姿は牛頭馬頭として描かれる場合が非常に多い。「太平記」にこうある。
「鬼切(おにきり)と申すは、元(もと)は、清和源氏(せいわげんじ)の先祖、摂津守頼光(つのかみらいこう)の太刀にぞありける。大和国宇多郡(やまとのくにうだのこおり)に、大きなる森あり。その陰(かげ)に、夜な夜な怪物(ばけもの)あつて、行(い)き来(き)の人を取(と)り喰(く)らひ、牛馬六畜(ぎゅうばろくちく)を撮(つか)み裂(さ)く。頼光、これを聞いて、郎等(ろうどう)渡部源五綱(わたなべごんごつな)と云いける者に、『かの怪物を、討つて奉(まいら)せよ』とて、秘蔵の太刀を賜(た)びてけり。綱、頼光の命(めい)を含んで、宇多郡に行き、甲冑(かっちゅう)を帯(たい)し、夜な夜な森の影にして待ちたりける。この怪物、綱が勢ひにや恐れけん、あへて眼(まなこ)に遮(さえぎ)る事なし。綱、さらば形を替へて謀(たばか)らんと思ひ、髪を解き乱し覆(おお)ひ、鬘(かつら)を懸けて、金黒(かねぐろ)に太眉(ふとまゆ)を作り、薄絹(うすぎぬ)を打ち負(かず)きて、女の如く出で立ちて、朧月夜(おぼろづきよ)の明けぼのに、杜(もり)の下をぞ通りける。俄(にわ)かに虚空(こくう)掻き曇り、杜の上に、物立(た)ち翔(かけ)るやうに見えけるが、空より綱が鬢(びん)の髪(かみ)を爴(つか)んで、中(ちゅう)に取つてぞ上がりける。綱、件(くだん)の太刀を抜いて、虚空を払ひ切りにぞ切つたりける。雲の上に、あつと云ふ音(こゑ)して、血の顔にさつと懸かりけるが、毛の生(お)ひたる手の、指三つありて熊の手の如くなるを、二の腕より切つてぞ落としたりける。綱、この手を取つて頼光に奉る。頼光、これを朱(しゅ)の唐櫃(からひつ)に収めて置かれける後(のち)、夜な夜な懼(おそ)ろしき夢をぞ見給ひける。占夢(せんむ)の博士(はかせ)に問ひ給ひければ、七日(なぬか)が間の重き慎(つつし)みとぞ、占ひ申しける。これによつて、頼光(らいこう)、堅く門戸(もんこ)を閉ぢて、七重(ななえ)の四目(しめ)を曳(ひ)き、四方の門に、十二人の番衆(ばんしゅ)を居(す)ゑ、宿直蟇目(とのいひきめ)をぞ射させらる。物忌(ものい)みすでに七日に満(まん)じける夜(よ)、河内国高安郡(かわちのくにたかやすのこおり)より、頼光の母儀(ぼぎ)来たつて、門(かど)をぞ敲(たた)かせける。物忌(ものい)みの最中なりけれども、正(まさ)しき老母の、対面のためとて遠々(はるばる)と来たりたれば、力なく門を開き、内へ入れ奉つて、珍(ちん)を調(ととの)へ、酒を進め、様々(さまざま)の物語に覃(およ)びける時、頼光、至極(しごく)飲(の)み酔(え)ひて、この事をぞ語り出だされける。老母、持ちたる盃(さかずき)を前に差し置きて、『あな怖(おそ)ろしや。わがあたりの人も、この怪物(ばけもの)に多く取られて、子は親に先立ち、妻は夫に別れたる者、多く候ぞや。さても、いかなる物にて候ふぞや。あはれ、その手を見ばや』と。所望(しょもう)せられければ、『安き程の事にて候ふ』とて、唐櫃(からひつ)の中より、件(くだん)の手を取り出して、老母の前にぞ差し置き給ひける。母、これを取つて、且(しばら)く見る由(よし)しけるが、わが右の手の、臂(ひじ)より切れたるを差し出して、『これは、わが手にて候ひける』と云ひて、差し合はせ、兀(たちまち)長(たけ)二丈ばかりなる牛鬼(うしおに)になつて、酌(しゃく)に立つたりける綱(つな)を、左の手に提(ひっさ)げて、天井の煙出し(けぶりだ)しより上がかりけるを、頼光、件(くだん)の太刀を抜いて、牛鬼の頸(くび)を切つて落とす。その頸、頼光に懸かりけるを、太刀を逆手(さかて)に取り直して、合はせられければ、この頸、太刀の鋒(きっさき)を五寸喰(く)ひ切つて口に含みながら、頸はつひに地に落ちて、忽(たちま)ちに目をぞ塞ぎける。その骸(むくろ)はなほ破風(はふ)より蜚(と)び出(い)でて、曠(はる)かの天に昇りけり」(「太平記5・第三十二・11・鬼丸鬼切の事・P.186~189」岩波文庫)
また「平家物語」では二位殿の夢に「馬の面(おもて)・牛の面」と出てくる。
「入道相国の北の方二位の夢に見(み)給ひける事こそおそろしけれ。猛火(ミヤウクハ)のおびたたしくもえたる車を、門の内へやり入(いれ)たり。前後に立(タチ)たるものは、或は馬の面(おもて)のやうなるものもあり、或は牛の面のやうなるものもあり。車のまへには、『無(ム)』といふ文字ばかりぞ見(み)えたる鉄(クロガネ)の札をぞ立(たて)たりける。二位殿夢(ユメ)の心に、『あれはいづくよりぞ』と御(お)たづねあれば、『閻魔(エンマ)の庁(チヤウ)ヨリ、平家太政入道殿の御迎(おんムカイ)に参(まい)ッて候』と申(まうす)」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第六・入道死去・P.345」岩波書店)
さらに鬼として常識化した後の牛頭(ごず)とそれ以前の牛頭天王(ごずてんのう)との関連と混合との歴史については、山本ひろ子「異神・下・第四章・行疫神ー牛頭天王・P.205〜385」(ちくま学芸文庫)が詳しい。かつて人間界で神の一種だった牛頭馬頭(ごずめず)は、冥界に置き換えられ、今度は閻魔王の部下・獄卒あるいは鬼へと転倒して立ち現れる。
遂に庭を埋めた鶏の卵。閻魔王は冥官に命じたその数を数えさせた。冥官が計算し終わると鉄製の寝床とともに獄卒らも消え失せた。閻魔王は抜彪にいう。「お前は速やかに地上に帰りなさい」。既に死去しており冥途に引き留められている武帝は抜彪が地上に戻る穴のところまで来ていう。「そなたは地上に還ったらただちに私が冥途で受けている苦悶について隋の国王に報告してほしい。かつて私が国の倉庫を管理に当たっていた頃、玉や絹など様々な貴重品を手に入れることができた。そして皇帝となったが仏教を廃して儒教や道教ばかり重んじた。ゆえにこのような耐えがたい責め苦を受ける身になってしまった。どうか私のために仏教に則した法要を行なってほしい」。
「汝ヂ、還(かへり)テ速ニ我ガ此ノ苦ヲ令聞(きかし)メヨ。大隋(だいずい)ノ天子ハ、昔(むか)シ我レト共ニ倉庫ヲ事(あづかり)シ時、玉帛(ぎよくはく)、我レモ此レ儲(まうけ)タリキ。我レ今、身ニ皇帝ト成(なり)テ、仏法ヲ滅(めつ)シテ、極(きわめ)テ、大(おほきなる)苦ヲ受ク。我ガ為ニ善根(ぜんごん)ヲ可修(しゆすべ)キ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.226~227」岩波書店)
生きて地上に送り返された抜彪が文帝にそう告げたところ心底気の毒に思いやられ、全国に命じて一人につき「一ノ銭」を納めるよう支持、亡き武帝のための追善供養が催された。
「文帝、此レヲ聞テ、悲ビノ心無限(かぎりな)クシテ、天下(てんが)ノ人ニ勅シテ、毎人(ひとごと)ニ一ノ銭ヲ令出(いださし)メテ、彼ノ武帝ノ為ニ、追(おひ)テ善根ヲ令修(しゆせし)メ給ヒケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十七・P.227」岩波書店)
さて。鶏の卵はかねてから蛋白源として貴重だった。それを武帝は思うがまま一人で好き放題に食していた。そこで武帝に関する債権・債務関係は消費された鶏の卵を基準として計量されることになった。武帝は鉄の寝床に横たわり鉄棒で押し潰され、両脇は破裂し、そこから生前食った二〇〇〇キロに及ぶ卵がぼろぼろこぼれ落ちてくる。ここでも罰則の狙いは等価関係である。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
武帝が負った債務の償却は追善供養という形態で贖われるほかない。しかしいつまでどれほど供養を続ければ債務が終了するのか明確にされることは一切ない。また、地上と冥途とを繋ぐ回路は他の説話に見える冥界下りと同様、「一ノ所ニ至ル。其ノ道ニ穴有リ」、と記されている。
BGM1
BGM2
BGM3
