熊楠は「古今和歌集」に見える一和歌の解釈とともに次のような説話を紹介している。
「石橋君、『古今集』の歌に『思ひやる境遥かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人のなき』とあるを、『これ遠ければ夢に入らずとするものにて、近ければ霊魂肉体を離れて、夢に入るとするものなり』と評せり。一両年前歿せし英国稀有の博言家ゼームス・プラットいわく、支那人は、その幽霊が支那領土と他邦における居留地の外に現ぜずと信ず、と」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.265』河出文庫)
古今集のあるのは次の通り。
「思ひやるさかひはるかになりやするまどふ夢路(ぢ)にあふ人のなさ」(「古今和歌集・巻第十一・五二四・P.134」岩波文庫)
夢の中では愛人の家の場所が遠くなるのだろうか、誰一人として見当たらない、という意味。なるほどそれが本当だとすれば中国で信じられていた伝説もまた事実だということになる。中国ではもし故人の幽霊に逢えるとしてもそれは中国の領土内かあるいは外国にある中国人の居留地に限った場合でしかないと。例えば在日中国人にとって、横浜中華街や神戸南京街では故人の魂に逢うことができるということだろう。さらにこの種の伝説はアメリカのサンフランシスコやシカゴ、カナダのバンクーバーを筆頭とする多くのチャイナタウンにも受け継がれているに違いない。なお「一時期に大量の死者」という点ではアメリカ大陸横断鉄道工事のため大々的な募集によって集められた中国人低賃金労働者約一万人のうち、死者はもちろん犠牲者数が今なおはっきりしていないことが上げられる。外聞の悪い「強制労働」でなく「募集」という形式を取るのはどこの先進国でも用いる常套手段であって、日頃から生活に困っている低賃金労働者ゆえに募集すれば大勢集まることを自明の理として見越しているわけだ。その一方、鉄道工事現場周辺にはまだ多くの先住民・インディアンらが暮らしていた。先住民・インディアンらは当局の方針で強制移住させられインディアン居留地へまとめて隔離された。従って、そこではそこで、また違った祭祀が僅かながら伝統的に残されているかもしれない。いずれにせよ、古今集収録の和歌にしても中国の伝説にしても、考えてみれば、それぞれの民族共同体の伝統の枠内で生きておりなおかつその生活様式に則っていれば、その限りで有効性を持つ道祖神(さえのかみ)信仰と大変よく似た構造を取っていることに注目したいと思う。
さらに熊楠はいう。
「人の魂死して動物と現ずる例、『日本紀』巻十一、蝦夷(えみし)、田道(たじ)を殺して後、その墓を堀りしに、田道大蛇となって彼らを咋(く)い殺す、と載せ、『今昔物語』等に、女の怨念蛇に現ぜし話多し」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.266』河出文庫)
前者の記述は次の通り。
「五十五年に、蝦夷(えみし)、叛(そむ)けり。田道(たぢ)を遣して撃たしむ。即ち蝦夷の為(ため)に敗られて、伊峙水門(いしのみと)に死(みう)せぬ。時(とき)に従者(つかひびと)有(あ)りて、田道の手纏(たまき)を取り得(え)て、其(そ)の妻(め)に与(あた)ふ。乃(すなは)ち手纏を抱(いだ)きて縊(わな)き死(し)ぬ。時人(ときのひと)、聞(き)きて流涕(かなし)ぶ。是(こ)の後(のち)に、蝦夷(えみし)亦(また)襲(おそ)ひて人民(おほみたから)を略(かす)む。因りて、田道が墓(はか)を掘(ほ)る。即(すなは)ち大蛇(おろち)有りて、目(め)を発瞋(いから)して墓より出(い)でて咋(く)ふ。蝦夷、悉(ことごとく)に蛇(おろち)の毒(あしきいき)を被(かうぶ)りて、多(さは)に死亡(し)ぬ」(「日本書紀2・巻第十一・仁徳天皇五十三年五月~五十五年・P.270」岩波文庫)
ここで「大蛇(おろち)有りて、目(め)を発瞋(いから)し」とある。巨大蜈蚣(むかで)と大蛇との闘争でも両者の目は異様な光を煌々と放つ。以前「今昔物語」に収められた「加賀国諍蛇蜈島行人(かがのくにのへみとむかでとあらそふしまにゆきたるひと)、助蛇住島語(へみをたすけてしまにすむこと)」から引いて紹介した。
「澳ノ方ヨリ近ク寄来(よりきた)ルヲ見レバ、蜈(むかで)ノ十丈許(ばかり)アル、游(およぎ)来(きた)ル。上ハサヲ(青)ニ光(ひかり)タリ。左右ノ喬(そば)ハ赤ク光タリ。上ヨリ、見レバ、同(おなじ)長サ許(ばかり)ナル蛇(へみ)ノ臥(ふし)長(たけ)一把(ひといだき)許ナル、下向(くだりむか)フ。舌嘗(したなめ)ヅリヲシテ向ヒ合(あひ)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第九・P.46」岩波書店)
ちなみにゴカイ類に似たイソメ科のオニイソメは体長1〜3メートルに達する。見た目は極めて蜈蚣(むかで)に似ていて海蛇の一種のように色も付いており雑食有毒である。だからこのように奇妙に思える説話にもその根拠がまったく何一つなかったわけではないと考えられる。また「蛇に睨まれた蛙」という言葉が残っているのは誰でも知っている。今でも五十歳以上の人々の中にはその現場に見覚えがあるかもしれない。あるいは「蛇に睨まれた蛙」を見たことは実際ないけれども「蛇に睨まれてちっとも動けなくなっている鼠」なら覚えているのではないだろうか。その威圧感は動物同士だけでなく時として人間をも圧倒することがある。
なお「今昔物語」にある「紀伊の国の道成寺の僧、法花を写して蛇を救へる語」『今昔物語集・本朝部・巻第十四・第三・P.209〜214』(岩波文庫)は余りにも有名。けれども「道成寺(どうじょうじ)縁起」が「安珍・清姫」伝説として広く世に伝わるのは「今昔物語」成立(一一二〇年頃)から約五〇〇年後の江戸時代になってからのことだ。なぜなら「清姫」(きよひめ)という名前自体、江戸時代以降になって始めて出現した女性の名だからである。そこでここでは「怨念」ではないが、逆に「恩返し」の類例として次を参照。下をクリック↓
熊楠による熊野案内/異形の山神
登場する童女の正体はなるほど蛇。しかし蛇は蛇でも「小蛇」であって父親がいる。父親は蛇としての姿を見せることはない。けれども蛇は本来山の神とされているにもかかわらずこの父親は測り知れないほど豪勢な海中神殿を支配する水の神として出現する。
なお、言うまでもないが、「拉致問題」、「北方領土問題」、「沖縄基地問題」、「原発問題」等々、に年末年始など関係ない。
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「石橋君、『古今集』の歌に『思ひやる境遥かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人のなき』とあるを、『これ遠ければ夢に入らずとするものにて、近ければ霊魂肉体を離れて、夢に入るとするものなり』と評せり。一両年前歿せし英国稀有の博言家ゼームス・プラットいわく、支那人は、その幽霊が支那領土と他邦における居留地の外に現ぜずと信ず、と」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.265』河出文庫)
古今集のあるのは次の通り。
「思ひやるさかひはるかになりやするまどふ夢路(ぢ)にあふ人のなさ」(「古今和歌集・巻第十一・五二四・P.134」岩波文庫)
夢の中では愛人の家の場所が遠くなるのだろうか、誰一人として見当たらない、という意味。なるほどそれが本当だとすれば中国で信じられていた伝説もまた事実だということになる。中国ではもし故人の幽霊に逢えるとしてもそれは中国の領土内かあるいは外国にある中国人の居留地に限った場合でしかないと。例えば在日中国人にとって、横浜中華街や神戸南京街では故人の魂に逢うことができるということだろう。さらにこの種の伝説はアメリカのサンフランシスコやシカゴ、カナダのバンクーバーを筆頭とする多くのチャイナタウンにも受け継がれているに違いない。なお「一時期に大量の死者」という点ではアメリカ大陸横断鉄道工事のため大々的な募集によって集められた中国人低賃金労働者約一万人のうち、死者はもちろん犠牲者数が今なおはっきりしていないことが上げられる。外聞の悪い「強制労働」でなく「募集」という形式を取るのはどこの先進国でも用いる常套手段であって、日頃から生活に困っている低賃金労働者ゆえに募集すれば大勢集まることを自明の理として見越しているわけだ。その一方、鉄道工事現場周辺にはまだ多くの先住民・インディアンらが暮らしていた。先住民・インディアンらは当局の方針で強制移住させられインディアン居留地へまとめて隔離された。従って、そこではそこで、また違った祭祀が僅かながら伝統的に残されているかもしれない。いずれにせよ、古今集収録の和歌にしても中国の伝説にしても、考えてみれば、それぞれの民族共同体の伝統の枠内で生きておりなおかつその生活様式に則っていれば、その限りで有効性を持つ道祖神(さえのかみ)信仰と大変よく似た構造を取っていることに注目したいと思う。
さらに熊楠はいう。
「人の魂死して動物と現ずる例、『日本紀』巻十一、蝦夷(えみし)、田道(たじ)を殺して後、その墓を堀りしに、田道大蛇となって彼らを咋(く)い殺す、と載せ、『今昔物語』等に、女の怨念蛇に現ぜし話多し」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.266』河出文庫)
前者の記述は次の通り。
「五十五年に、蝦夷(えみし)、叛(そむ)けり。田道(たぢ)を遣して撃たしむ。即ち蝦夷の為(ため)に敗られて、伊峙水門(いしのみと)に死(みう)せぬ。時(とき)に従者(つかひびと)有(あ)りて、田道の手纏(たまき)を取り得(え)て、其(そ)の妻(め)に与(あた)ふ。乃(すなは)ち手纏を抱(いだ)きて縊(わな)き死(し)ぬ。時人(ときのひと)、聞(き)きて流涕(かなし)ぶ。是(こ)の後(のち)に、蝦夷(えみし)亦(また)襲(おそ)ひて人民(おほみたから)を略(かす)む。因りて、田道が墓(はか)を掘(ほ)る。即(すなは)ち大蛇(おろち)有りて、目(め)を発瞋(いから)して墓より出(い)でて咋(く)ふ。蝦夷、悉(ことごとく)に蛇(おろち)の毒(あしきいき)を被(かうぶ)りて、多(さは)に死亡(し)ぬ」(「日本書紀2・巻第十一・仁徳天皇五十三年五月~五十五年・P.270」岩波文庫)
ここで「大蛇(おろち)有りて、目(め)を発瞋(いから)し」とある。巨大蜈蚣(むかで)と大蛇との闘争でも両者の目は異様な光を煌々と放つ。以前「今昔物語」に収められた「加賀国諍蛇蜈島行人(かがのくにのへみとむかでとあらそふしまにゆきたるひと)、助蛇住島語(へみをたすけてしまにすむこと)」から引いて紹介した。
「澳ノ方ヨリ近ク寄来(よりきた)ルヲ見レバ、蜈(むかで)ノ十丈許(ばかり)アル、游(およぎ)来(きた)ル。上ハサヲ(青)ニ光(ひかり)タリ。左右ノ喬(そば)ハ赤ク光タリ。上ヨリ、見レバ、同(おなじ)長サ許(ばかり)ナル蛇(へみ)ノ臥(ふし)長(たけ)一把(ひといだき)許ナル、下向(くだりむか)フ。舌嘗(したなめ)ヅリヲシテ向ヒ合(あひ)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第九・P.46」岩波書店)
ちなみにゴカイ類に似たイソメ科のオニイソメは体長1〜3メートルに達する。見た目は極めて蜈蚣(むかで)に似ていて海蛇の一種のように色も付いており雑食有毒である。だからこのように奇妙に思える説話にもその根拠がまったく何一つなかったわけではないと考えられる。また「蛇に睨まれた蛙」という言葉が残っているのは誰でも知っている。今でも五十歳以上の人々の中にはその現場に見覚えがあるかもしれない。あるいは「蛇に睨まれた蛙」を見たことは実際ないけれども「蛇に睨まれてちっとも動けなくなっている鼠」なら覚えているのではないだろうか。その威圧感は動物同士だけでなく時として人間をも圧倒することがある。
なお「今昔物語」にある「紀伊の国の道成寺の僧、法花を写して蛇を救へる語」『今昔物語集・本朝部・巻第十四・第三・P.209〜214』(岩波文庫)は余りにも有名。けれども「道成寺(どうじょうじ)縁起」が「安珍・清姫」伝説として広く世に伝わるのは「今昔物語」成立(一一二〇年頃)から約五〇〇年後の江戸時代になってからのことだ。なぜなら「清姫」(きよひめ)という名前自体、江戸時代以降になって始めて出現した女性の名だからである。そこでここでは「怨念」ではないが、逆に「恩返し」の類例として次を参照。下をクリック↓
熊楠による熊野案内/異形の山神
登場する童女の正体はなるほど蛇。しかし蛇は蛇でも「小蛇」であって父親がいる。父親は蛇としての姿を見せることはない。けれども蛇は本来山の神とされているにもかかわらずこの父親は測り知れないほど豪勢な海中神殿を支配する水の神として出現する。
なお、言うまでもないが、「拉致問題」、「北方領土問題」、「沖縄基地問題」、「原発問題」等々、に年末年始など関係ない。
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