白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/人間死んで獣となる・怨霊日本・ゆえに咲く花美しく

2020年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠は「古今和歌集」に見える一和歌の解釈とともに次のような説話を紹介している。

「石橋君、『古今集』の歌に『思ひやる境遥かに成りやする惑ふ夢路に逢ふ人のなき』とあるを、『これ遠ければ夢に入らずとするものにて、近ければ霊魂肉体を離れて、夢に入るとするものなり』と評せり。一両年前歿せし英国稀有の博言家ゼームス・プラットいわく、支那人は、その幽霊が支那領土と他邦における居留地の外に現ぜずと信ず、と」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.265』河出文庫)

古今集のあるのは次の通り。

「思ひやるさかひはるかになりやするまどふ夢路(ぢ)にあふ人のなさ」(「古今和歌集・巻第十一・五二四・P.134」岩波文庫)

夢の中では愛人の家の場所が遠くなるのだろうか、誰一人として見当たらない、という意味。なるほどそれが本当だとすれば中国で信じられていた伝説もまた事実だということになる。中国ではもし故人の幽霊に逢えるとしてもそれは中国の領土内かあるいは外国にある中国人の居留地に限った場合でしかないと。例えば在日中国人にとって、横浜中華街や神戸南京街では故人の魂に逢うことができるということだろう。さらにこの種の伝説はアメリカのサンフランシスコやシカゴ、カナダのバンクーバーを筆頭とする多くのチャイナタウンにも受け継がれているに違いない。なお「一時期に大量の死者」という点ではアメリカ大陸横断鉄道工事のため大々的な募集によって集められた中国人低賃金労働者約一万人のうち、死者はもちろん犠牲者数が今なおはっきりしていないことが上げられる。外聞の悪い「強制労働」でなく「募集」という形式を取るのはどこの先進国でも用いる常套手段であって、日頃から生活に困っている低賃金労働者ゆえに募集すれば大勢集まることを自明の理として見越しているわけだ。その一方、鉄道工事現場周辺にはまだ多くの先住民・インディアンらが暮らしていた。先住民・インディアンらは当局の方針で強制移住させられインディアン居留地へまとめて隔離された。従って、そこではそこで、また違った祭祀が僅かながら伝統的に残されているかもしれない。いずれにせよ、古今集収録の和歌にしても中国の伝説にしても、考えてみれば、それぞれの民族共同体の伝統の枠内で生きておりなおかつその生活様式に則っていれば、その限りで有効性を持つ道祖神(さえのかみ)信仰と大変よく似た構造を取っていることに注目したいと思う。

さらに熊楠はいう。

「人の魂死して動物と現ずる例、『日本紀』巻十一、蝦夷(えみし)、田道(たじ)を殺して後、その墓を堀りしに、田道大蛇となって彼らを咋(く)い殺す、と載せ、『今昔物語』等に、女の怨念蛇に現ぜし話多し」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.266』河出文庫)

前者の記述は次の通り。

「五十五年に、蝦夷(えみし)、叛(そむ)けり。田道(たぢ)を遣して撃たしむ。即ち蝦夷の為(ため)に敗られて、伊峙水門(いしのみと)に死(みう)せぬ。時(とき)に従者(つかひびと)有(あ)りて、田道の手纏(たまき)を取り得(え)て、其(そ)の妻(め)に与(あた)ふ。乃(すなは)ち手纏を抱(いだ)きて縊(わな)き死(し)ぬ。時人(ときのひと)、聞(き)きて流涕(かなし)ぶ。是(こ)の後(のち)に、蝦夷(えみし)亦(また)襲(おそ)ひて人民(おほみたから)を略(かす)む。因りて、田道が墓(はか)を掘(ほ)る。即(すなは)ち大蛇(おろち)有りて、目(め)を発瞋(いから)して墓より出(い)でて咋(く)ふ。蝦夷、悉(ことごとく)に蛇(おろち)の毒(あしきいき)を被(かうぶ)りて、多(さは)に死亡(し)ぬ」(「日本書紀2・巻第十一・仁徳天皇五十三年五月~五十五年・P.270」岩波文庫)

ここで「大蛇(おろち)有りて、目(め)を発瞋(いから)し」とある。巨大蜈蚣(むかで)と大蛇との闘争でも両者の目は異様な光を煌々と放つ。以前「今昔物語」に収められた「加賀国諍蛇蜈島行人(かがのくにのへみとむかでとあらそふしまにゆきたるひと)、助蛇住島語(へみをたすけてしまにすむこと)」から引いて紹介した。

「澳ノ方ヨリ近ク寄来(よりきた)ルヲ見レバ、蜈(むかで)ノ十丈許(ばかり)アル、游(およぎ)来(きた)ル。上ハサヲ(青)ニ光(ひかり)タリ。左右ノ喬(そば)ハ赤ク光タリ。上ヨリ、見レバ、同(おなじ)長サ許(ばかり)ナル蛇(へみ)ノ臥(ふし)長(たけ)一把(ひといだき)許ナル、下向(くだりむか)フ。舌嘗(したなめ)ヅリヲシテ向ヒ合(あひ)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第九・P.46」岩波書店)

ちなみにゴカイ類に似たイソメ科のオニイソメは体長1〜3メートルに達する。見た目は極めて蜈蚣(むかで)に似ていて海蛇の一種のように色も付いており雑食有毒である。だからこのように奇妙に思える説話にもその根拠がまったく何一つなかったわけではないと考えられる。また「蛇に睨まれた蛙」という言葉が残っているのは誰でも知っている。今でも五十歳以上の人々の中にはその現場に見覚えがあるかもしれない。あるいは「蛇に睨まれた蛙」を見たことは実際ないけれども「蛇に睨まれてちっとも動けなくなっている鼠」なら覚えているのではないだろうか。その威圧感は動物同士だけでなく時として人間をも圧倒することがある。

なお「今昔物語」にある「紀伊の国の道成寺の僧、法花を写して蛇を救へる語」『今昔物語集・本朝部・巻第十四・第三・P.209〜214』(岩波文庫)は余りにも有名。けれども「道成寺(どうじょうじ)縁起」が「安珍・清姫」伝説として広く世に伝わるのは「今昔物語」成立(一一二〇年頃)から約五〇〇年後の江戸時代になってからのことだ。なぜなら「清姫」(きよひめ)という名前自体、江戸時代以降になって始めて出現した女性の名だからである。そこでここでは「怨念」ではないが、逆に「恩返し」の類例として次を参照。下をクリック↓

熊楠による熊野案内/異形の山神

登場する童女の正体はなるほど蛇。しかし蛇は蛇でも「小蛇」であって父親がいる。父親は蛇としての姿を見せることはない。けれども蛇は本来山の神とされているにもかかわらずこの父親は測り知れないほど豪勢な海中神殿を支配する水の神として出現する。

なお、言うまでもないが、「拉致問題」、「北方領土問題」、「沖縄基地問題」、「原発問題」等々、に年末年始など関係ない。

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熊楠による熊野案内/鶏は殺されたのか

2020年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
峰の小瀑(こざらし)が主催した闘鶏の会。小瀑の手には賭博の儲けだけでなく名だたる名鶏たちが転がり込んだ。その数「三十七羽」。それを眺めて悦に入り自慢していると小瀑の念者(ねんじゃ)=大臣=大尽(だいじん=年上の愛人)がたまたまやって来た。今夜一緒に床を共にしようという。パトロンたる念者から見れば小瀑は可愛い愛童に過ぎない。共に夜を過ごすことにする。とはいえ大尽には自宅があるので家族が寝ている間に帰らねばならない。だから「八つの鐘」(午前二時頃)が鳴ったら知らせろという。

それにしても愛人同士の夜の時間は思いのほか早く過ぎるものだ。床に入ってしばらくしたかどうかと思う間もなく「八つの鐘」が鳴り出した。大尽は小瀑の床から自宅へ引き上げようとする。小瀑は逆に引き止めようとする。二人が言い争っていると途端に鶏たちが一斉に大声で鳴き出した。大尽は慌てて自宅へ帰って行った。名残りを惜しむ小瀑はもっと床を共にしていたかったのに、と涙を流し、突然騒ぎ出した鶏たちに向けて怒りをぶちまける。「おのれら恋の邪魔(じやま)」だと罵って一羽も残さず追い払ってしまった。

「三十七羽の大鶏声々ひびきわたれば、『申さぬ事か』と起きわかれて、客はふだんの忍び駕籠(かご)をいそがせける。名残(なごり)を惜しむに是非もなく、泪(なみだ)に明くるを待ち兼ね、『おのれら恋のじやまをなすはよしなし』とて、一羽も残さず追ひはらひぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻八・二・別れにつらき沙室の鶏」『井原西鶴集2・P.579』小学館)

鶏は鳴き声で夜明け前の到来を告げ知らせる。露見するのが憚られる愛人同士の密会にとって大変便利な反面、早くも別れの時間が迫ったことを不意に知らせるため、時として憎悪の対象となった。熊楠はいう。

「『伊勢物語』に、京の男陸奥の田舎女に恋われ、さすがに哀れとや思いけん、往きて寝て、夜深く出でにければ、女『夜も明けば狐(きつ)にはめけん鶏(くだかけ)の、まだきに鳴きてせなをやりつる』。後世この心を『人の恋路の邪魔する鳥は犬に食われて死ぬがよい』とドド繰(く)ったものじゃ」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.183~184」岩波文庫)

見てみよう。

「むかし、男、みちの国にすずろに行きいたりにけり。そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、切(せち)に思へる心なむありける。ーーーさすがにあはれとや思ひけむ、いきてねにけり。夜ふかくいでにければ、女、

夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる」(新潮日本古典集成「伊勢物語・十四・P.27~28」新潮社)

女の和歌の「きつ」は「水槽」。「くたかけ」は鶏に対する罵倒表現。「せな」は女性の側から男性のことを指す時の言葉。熊楠が「往きて寝て」というように男性は確かに女性のもとを訪れて共に寝ている。とっとと性行為に耽った。しかし「夜ふかくいでにければ」とあるように夜更けのうちに女性の家から去ってしまう。時を知らせる鶏が鳴いたからだ。そこで女性は呪った。夜が明ければ鶏の奴を水槽に沈めて殺してやりたい。というのも鶏が余りにも早い時間に鳴いたせいで殿方が帰ってしまったからだと。「犬に食われて死ぬがよい」というのは後々の常套句であって、その意味で後世の人々はこの和歌の意味をよく理解していたと言える。

さらに熊楠は「和泉式部歌集」に触れて、「実際殺した」記録だ、としている。師宮(もろのみや)親王との恋愛時代を日記化した「和泉式部日記」にこうある。

「明(あ)けぬれば、『鳥(とり)の音(ね)つらき』とのたまはせて、やをら奉(たてまつ)りておはしぬ。道(みち)すがら、『かやうならぬ折(をり)は、かならず』とのたまはすれば、『常(つね)はいかでか』と聞(きこ)ゆ。おはしまして、帰(かへ)らせ給ひぬ。しばしありて御文(ふみ)あり。『今朝(けさ)は鳥(とり)の音(ね)におどろかされて、にくかりつればころしつ』とのたまはせて、鳥(とり)の羽(はね)に御文(ふみ)をつけて、

ころしても猶あかぬかなにはとりの折節(をりふし)知らぬ今朝(けさ)の一声(こゑ)

御かへし、

いかにとは我(われ)こそ思(おも)へ朝(あさ)な朝な鳴(な)き聞(き)かせつる鳥(とり)のつらさは」(「和泉式部日記・P.33」岩波文庫)

と、これだけ見れば鶏に対する憎悪がふつふつと湧き上がっているのはよくわかる。が、本当に殺したかどうかは曖昧になっていてはっきりわからない。和泉式部はあちこちで和歌を詠んでいるので諸本・諸説がある。師宮(もろのみや)親王との夜中の密会を邪魔された格好になった和泉式部によって、鶏は殺されたのかそれとも殺されるほど憎まれただけで一命は取り留めたのか。

そこで諸本の中でも有力な「群書類従・日記部」に掲載された和泉式部の和歌に注目してみる。熊楠が引いているのもおそらく「群書類従」に掲載されたものだろう。こうある。

「いかがとは我こそ思へ朝な朝ななほ聞せつる鳥を殺せば」

それが事実だとすれば「実際殺したのだ」とする熊楠の見解は正しいと考えられる。

以上、性愛に関して鶏が憎悪の対象とされた例を三個上げた。どれにも共通するのは同性愛にせよ異性愛にせよ、なぜか時間を告げる鶏が憎まれるという奇怪な現象である。恋愛関係において或る人間が別の人間に対して殺害意志を抱くことはしばしばある。それに伴う殺人事件がニュースにならない日はないくらい多い。けれどもそうでない場合、まったく別のもの、これらのケースでは鶏に憎悪が向け換えられているのはどうしてだろうか。性的リビドーはその対象を置き換えることがあると述べたのはフロイトである。さらにニーチェはこう述べている。

「残酷さは、置きかえられていっそう精神的となった一つの官能である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八六〇・P.478」ちくま学芸文庫)

今なおニーチェの言葉は現役を貫き通している。

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熊楠による熊野案内/鶏の名付けに見る「力への意志」

2020年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
十九世紀初頭、イギリスで或る噂が一都市を震撼させる出来事が起こった。

「一八〇九年三月三十日、大地震(ふる)うてビークン丘とビーチェン崖と打ち合い、英国バス市丸潰れとなる由を、天使が一老婆に告げた」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.177」岩波文庫)

単なる占いに過ぎない。しかしイギリス南部にあるバース市の住民や外国の観光客たちは先を争って市内から逃げ出した。ところが予言された期日を過ぎても何一つ変わったことは起こらない。そこでバース市民や外国人たちは自分たちが根も葉もない占いを信じて慌てて右往左往したことを恥じたとある。しかしなぜそのような事態が発生したか。闘鶏は賭博であって当局に知られるとまずい。だから参加者の名前を告げる際、その名前ではなく住所で告げ知らせた。一方は「ビークン山」、もう一方は「ビーチェン崖」。何も知らない人々がただ単にその部分だけを耳にすると、両者は一八〇九年三月三十日に激突してバース市全体が壊滅するというふうに聞こえる。そして人々は「天使」〔童子・童女〕と「老婆」との神話的関係が間に挟み込まれているものだから当然のように信じ込んだ結果そういう事態が生じた。

「ビークン丘とビーチェン崖の近所に住める二人の有名な養鶏家あって、酒店で出会い、手飼いの鶏の強き自慢を争うた後、当日がグード・フライデイの佳節に当れるを幸い、その鶏を闘わす事に定めたが、公に知られてはチェイと来いと拘引は知れたこと故、鶏を主人の住所で呼び、当日正真の十二時に、ビークン山とビーチェン崖が打ち合うべしと定め、闘鶏家連に通知すると、いずれもその旨を心得、鶏という事を少しも洩らさず件(くだん)の山と崖とが打ち合うとのみ触れ廻したのを、局外の徒が洩れ聞いて、尾に羽を添えて、真に山と崖が打ち合い、市は丸潰れとなるべき予言と変わったのだ」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.177」岩波文庫)

熊楠が注目するのはその「呼び名」である。西鶴は次の文章の中に三人の有名な歌舞伎役者の名を引いている。いずれも実在した人物。

「昔日(そのかみ)松本名左衛門、中頃に宮崎伝吉、今の峰の小瀑(こざらし)、いづれも美少人、その時にいたりて、花はさかりの客に悩(なづ)ませ、野郎の仕出しに姿をうけて呑(の)みつる事、今も身に添ひてわすれがたし。中にもこの人、役者どもの手本、よき衣装を着つけはじめける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻八・二・別れにつらき沙室の鶏」『井原西鶴集2・P.576』小学館)

松本名左衛門(まつもとなざえもん)は先発として引かれている。というのは寛永六年(一六二九年)から承応一年(一六五二年)まで行われていた若衆歌舞伎時代から既に若衆方として活躍し美少年の名をほしいままにしていただけでなく、若衆歌舞伎が禁止された翌年の承応二年(一六五三年)から始まる野郎歌舞伎時代に入るや若女方として再出発、大阪随一の名優として寛文・延宝時代には確固不動の地位を確立したことによる。若衆歌舞伎は美童〔美少年〕たちがまだ前髪を付けたまま演じていた歌舞伎であって、盛り上がる一方の男色関係と武士同士による若衆を巡る刃傷沙汰、経済活動に支障をきたすほどの演劇人気を問題視した幕府によって禁止に追い込まれた。だからといって、単純に若衆歌舞伎時代と野郎歌舞伎時代とを区別することはできない。とりわけ後の研究によってこの区別の存在自体が否定されるようになった。が、それは近代明治国家による欧米文化の輸入とともに同性愛が否定されて以降、芝居の世界でもまた同性愛愛好趣味などなかったことにしたいという国策的方向性が示されて以降の動きである。男性同性愛はなかった。女性同性愛もなかった。今で言うLGBTはまるでなかったと。そんなことを一体どこの誰が信じるだろうか。今やLGBTはどこの国にもあるしかつてずっとあったと認められている。そもそも古代ギリシア文献中、プラトン「饗宴」で既に自明として論じられているではないか。男性同性愛者をかつて「影間(かげま)」とか「影間野郎」(かげまやろう)とか呼んだのは彼らが「陰の間」に控えて年上の念者をじっと待っているその態度から相続された伝統だ。それを明治・大正・昭和という近代国家は破棄しようとしてとんだ勘違いを連発した。ところが昨今急速に、なおかつ世界的に広がったLGBTらの社会進出によって近年の研究結果は再びくつがえされないわけにはいかなくなっているのである。慌てて修正ばかり繰り返す態度は幾ら専門家といえども見苦しいだろう。日本の前首相による偽証の連発を思い起こさせて余りある。

宮崎伝吉(みやざきでんきち)も実在した歌舞伎役者。宮崎は演じるだけでなく歌舞伎作者としても活躍し俳人としても名を残している。江戸に上ってから市川團十郎や中村七三郎らと名を連ねるほどの名優として江戸歌舞伎界に君臨したがそもそもは大阪で若衆方として登場したのが出発。

峰の小瀑(こざらし)。延宝八年(一六八〇年)刊「役者八景」に若衆方として掲載されている。天和三年(一六八三年)頃刊行のパンフレットに若衆方として一世を風靡したとの記述がある。しかし貞享四年(一六八七年)刊行「野郎立役舞台大鏡」には既にその名は見えず、活躍した時期と全盛期とが重なっていることから歌舞伎役者としての生命は約五年ばかりだったと考えられる。峰野小瀑(みねのこざらし)と書くのが正しいと思われるが、延宝八年(一六八〇年)「西鶴大矢数」に見える峰野帆舟の名が峰野小瀑(みねのこざらし)のこととされる。また、芝居の町として有名になった大阪道頓堀だがもともとは道頓堀開削者の一人・安井九兵衛(やすいくへい)〔道卜(どうぼく)〕が寛永三年(一六二六年)に南船場に三箇所ほどあった芝居小屋を道頓堀へ集中移設させたのが始まり。以後、慶安五年(一六五二年)になって始めて道頓堀に中座、角座、浪花座がようやく開設された。安井九兵衛(やすいくへい)〔道卜(どうぼく)〕の道頓堀開削事業に対して敬意を表する意味でそれぞれの芝居小屋は特別に「安井桟敷」という特等席を設けVIP待遇で対応した。豊臣家滅亡後、大阪道頓堀の賑わいは明治・大正・昭和と続いたが、そもそもの始めから土木利権として出発したことを忘れてはいけない。

さて熊楠が注目するのは、今言ったようにその「呼び名」である。役者として頭角を現わし金銭的にも富裕となった峰の小瀑(こざらし)は様々な遊びに手を出すがとうとう飽きてしまう。そこで次に闘鶏を思いつき闘鶏の会を主催することにした。西鶴は物尽くしの手法でその名を並べ立てていく。

「ある時小瀑(こざらし)、紗室の鶏をあつめて会をはじめける。八尺四方にかたやを定め、これにも行司(ぎいやうじ)ありてこの勝負をただしけるに、よき見物ものなり。左右にならびし大鶏(おほどり)の名を聞くに、鉄石丸(てつせきまる)・火花丸(ひばなまる)・川ばたいだてん・しやまのねぢ助・八重のしやつら・磯松大風(いそまつおほかぜ)・伏見のりこん・中の嶋無類(むるい)・前の鬼丸・後(のち)の鬼丸・天満(てんま)の力蔵(りきざう)・けふの命しらず・今宮の早鐘(はやがね)・脇みずの山桜・夢の黒船・髭(ひげ)のはんくわい・神鳴の孫介・さざ波の金碇(かねいかり)・くれなゐの竜田(たつた)・今不二(いまふじ)の山・京の地車(ぢぐるま)・平野(ひらの)の岸くづし・寺島のしだり柳・綿屋の喧𠵅母衣(けんくわぼろ)・座摩(ざま)の前の首白(くびしろ)・尾なし公平(きんぴら)、この外名鳥かぎりなく、その座にしてつよきを求めて、あたら小判を何程か捨てける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻八・二・別れにつらき沙室の鶏」『井原西鶴集2・P.577~578』小学館)

熊楠は日本近代だけから始めたわけではまったくなく逆に日本の古典ばかり漁っていたわけでもまたない。むしろ米英留学期間が長い。なので当時は誰も考えつかなかった次のような比較が可能になる。

「その頃までも丸の字を鶏の名に付けたが、また丸の字なしに侠客や喧嘩がかった名をも附け、今不二の山と岸崩しが上出英国のビークン山とビーチェン崖に偶然似ているも面白い」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.178~179」岩波文庫)

日本で「丸」と言えば遥か昔から童子の名に多い。さらに「丸」は、宮廷で自分を呼ぶ時に用いられた「麿」(まろ)との関係が指摘されているが、今なお結論は見えていない。

また鶏に「侠客や喧嘩がかった名をも附け」たという事実。それこそまさしく動物に対しても力への意志・破格の破壊力としての「神の化身」を現わす表現として「過剰=逸脱」を目指したものにほかならない。「鉄石丸(てつせきまる)・火花丸(ひばなまる)、前の鬼丸・後(のち)の鬼丸、今不二(いまふじ)の山・平野(ひらの)の岸くづし」等々。「髭(ひげ)のはんくわい」はややわかりにくいかも知れない。「はんくわい」は樊噲(はんかい)のこと。鴻門の会で劉邦(りゅうほう)の危機を救って舞陽候の地位に任じられた漢の猛将。

明治近代国家の成立はそれ以前の実情がどうであったかという様々な事実をほぼ二、三十年のうちに覆い隠してしまったのだった。なお、鶏(にわとり)が干支(えと)の中でも一目置かれる理由は、金鶏(きんけい)伝説の名残りがその当時なお根強く実在していたことを物語る。「平家物語」でも「鶏合」(とりあわせ)は大変重要な箇所で出てくる。源平合戦の最終局面までもつれ込む重要な要素なのだ。

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熊楠による熊野案内/「旅行の暮の僧にて候」成立条件

2020年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠は大正時代に入ってなお残されている二つの説話を紹介している。どちらも熊野を舞台にしたもの。

「十一年前、余、紀州日高郡上山路村で聞いたは、近村竜神村大字竜神は、古来温泉で著名だが、上に述べた阿波の濁りが淵同様の伝説あり。所の者は秘して語らず。昔熊野詣での比丘尼(びくに)一人ここへ来て宿る。金多く持てるを主人が見て悪党を催し、鶏が止まる竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、最早(もはや)暁近いと欺き、尼を出立させ、途中に待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時、尼怨(うら)んで永劫(えいごう)ここの男が妻に先立って若死するように詛(のろ)うて絶命した。そこを比丘尼剥(はぎ)という。その後果して竜神の家毎(つね)に夫は早世し、後家世帯が通例となる。その尼のために小祠を立て、斎(いわ)い込んだが毎度火災ありて祟(たた)りやまずと。尼がかく詛うたは、宿主の悪謀を、その妻が諌(いさ)めたというような事があった故であろう」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.170~171」岩波文庫)

「竜神の伝説を『現代』へ投じた後数日、『大阪毎日』紙を見ると、その大正九年十二月二十三日分に、竜神の豪家竜神家の嗣子が病名さえ分らぬ煩いで困りおる内、その夫人に催眠術を掛けると俄(にわか)に『私は甲州の者で、百二十年前夫に死に別れ、悲しさの余り比丘尼になり、世の中に亡父に似た人はないかと巡礼中、この家に来り泊り、探る内、私の持った大判小判に目がくれ、竜神より上山路村を東へ越す捷径(ちかみち)、センブ越えを越す途上、私は途中で殺され、面皮を剥いで谷へ投げられ、金は全部取られた。その怨みでこの家へ祟るのである』と血相を変えて述べおわって覚めたと出た。それに対して竜神家より正誤申込みが一月十九日分に出た、いわく、百五十年ほど前に、一尼僧この地に来り、松葉屋に泊り出立せしを、松葉屋と中屋の二主人が途中で殺し、その金を奪うた報いで両家断絶し、今にその趾(あと)あり云々。これを誤報附会したのではないかとこの竜神氏、当主は余の旧知で、伊達千弘(陸奥宗光伯の父)の『竜神出湯日記』に、竜神一族は源三位頼政(みなもとのさんみよりまさ)の五男、和泉守頼氏(いずいのかみよりうじ)この山中に落ち来てこの奥なる殿垣内(とのがいと)に隠れ住めり、殿といえるもその故なり。末孫、今に竜神を氏とし、名に政の字を付くと語るに、その古えさえ忍ばれて『桜花木の根ざしを尋ねずば、ただ深山木(みやまぎ)とみてや過ぎなむ』とあるほどの旧(ふる)い豪家故、比丘尼を殺し金を奪うはずなく全くの誤報らしいが、また一方にはその土地の一、二人がした悪事が年所を経ても摩滅せず、その土地一汎(いっぱん)の悪名となり、気の弱い者の脳底に潜在し、時に発作して、他人がした事を自家の先祖がしたごとく附会して、狂語を放つ例も変態心理学の書にしばしば見受ける」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.171~172」岩波文庫)

後者の最後に「変態心理学」とある。当時は江戸川乱歩や夢野久作ら本格探偵小説作家の間で盛んに探究された。もともとはフロイト精神分析が日本に輸入されてから濫用されるに至った言葉。今やもはや「変態」でもなんでもなく精神医学の世界では精神・神経科領域の様々な症状として認知され常識としても定着するに至っている。その最先端医療の現場はヨーロッパだった。ところが急速かつ劇的な経済成長を遂げたが故に、一九七〇年代ベトナム戦争敗北以来、精神医学の最先端医療現場はアメリカへと移った。

さらに近代国家の登場とともに「変態心理学」という呼び名が流通するようになる前は、古代ギリシア=ローマはもちろん日本でも記紀神話の時代から江戸時代一杯を通して「変態」は「変態」ではなくむしろ「常態」だったことは明白だった。西鶴「男色大鑑」が世界中で高く評価されたように、世界中どこでも性愛の多様性は変幻自在な形態変化を持つという認識の側こそ常識だったからである。乱歩があえて「変態心理学」に傾倒したのはレジスタンスの立場からだ。

「私はあの小説を左翼イディオロギーで書いたわけではない。私はむろん戦争は嫌いだが、そんなことよりも、もっと強いレジスタンスが私の心中にはウヨウヨしている。例えば『なぜ神は人間を作ったか』というレジスタンスの方が、戦争や平和や左翼よりも、百倍も根本的で、百倍も強烈だ」(『芋虫』のこと<『探偵小説四十年』より> )

それはそれとして熊楠が上げた二つの説話の要約から重要な箇所を引いてみよう。まず前者から。

「昔熊野詣での比丘尼(びくに)一人ここへ来て宿る。金多く持てるを主人が見て悪党を催し、鶏が止まる竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、最早(もはや)暁近いと欺き、尼を出立させ、途中に待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時、尼怨(うら)んで永劫(えいごう)ここの男が妻に先立って若死するように詛(のろ)うて絶命した。そこを比丘尼剥(はぎ)という」

次に後者から。

「百五十年ほど前に、一尼僧この地に来り、松葉屋に泊り出立せしを、松葉屋と中屋の二主人が途中で殺し、その金を奪うた報いで両家断絶し、今にその趾(あと)あり云々」

両者ともに大変共通しているのは一目瞭然。と同時にこの種の話は江戸時代にはごく当たり前にあった。山間部の多い日本列島の地方へ行けば、実際の殺人事件としてどこにでもごろごろ転がっていた。西鶴はその絶大な知識と創作能力を大いに発揮できる場として小説の舞台に熊野を選び「本朝二十不孝」の中の一作として仕上げ収録した。作品では熊野生まれ熊野育ちの童女に与えられた特権的「野生」が見事に語られている。以前取り上げたので参照してほしい。下をクリック↓

熊楠による熊野案内/死化粧1

熊楠による熊野案内/死化粧2

熊楠による熊野案内/死化粧3

作品の中で熊野の童女はその「野生」ゆえに処刑される。けれどもそうしなければ貧乏な寒村では生きていけないため仕方なくやった行為であり情状酌量してほしいなどという、戦後の暴力主義的人権圧力団体のようなしみったれた主張は一切合切まるで口にしない。人権とは何か。今なお再考に値する読解価値に満ちた作品だと確実にいえる。不都合な既得権益の実態打破・不可解な未解決事件へと隠蔽されつつある拉致問題解明の一助のためにも。

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熊楠による熊野案内/子ども・女性・高齢者をめぐる犠牲祭

2020年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
二〇二〇年のパンデミックはこれまで何度も早急な取り組みの必要性が指摘されてきたにもかかわらず日本政府によって放置されてきた様々な政治課題をたちまちのうちに炙り出したという利点がある。政治課題はまだまだ死んではいない、確実に残されているという事実をあからさまに反復させるのに役立った。多くの人命を犠牲にしつつ。

パンデミックのさらなる浸透並びに増殖を抑制するため重点的に外出規制が呼びかけられている。するとこれまで外へ向けられて放出されていた個々人の力が国家による法の壁にぶち当たって反転し、今度は逆に一斉に内向することになった。そこでたちまち増大したのがDV。その傾向がどれほど確実なものか。ニーチェはとっくの昔から言っていた。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫)

子ども、女性、高齢者、などがその主な犠牲者になっている。彼らはパンデミック収束のためにDVに身を捧げられるほかない「人柱」ででもあるかのように扱われている。熊楠はいう。

「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)

政府は「国辱」というが、今や「子ども、女性、高齢者」に対するDVの蔓延は「国辱」としてさえ見なされていない。同時に今の日本政府にはこの「国辱」を解決するコントロール能力を始めから持ち合わせていない政府であるということも暴露されるに至った。

ところで熊楠が指摘している人柱の風習は日本ではもちろんのこと、近代以前にはどこの国へ行っても見られたものなのだが、フレイザーはその特徴を最も近年まで留めていたメキシコでの風習についてこう述べている。

「事実、神を表象する人間を殺すという風習は、メキシコにおいてほど組織的かつ大規模に行われた地はないように思われる。アコスタはつぎのように言っている。『彼らは善良と思った人間を捕虜にした。そしてこれを彼らの偶像神たちのために生贄にしたが、その前に彼らはこの生贄に、生贄が供される当の偶像神の名前を与えた。そしてその偶像神と同じ装飾をこの生贄に施し、これは同じ神を表すものである、と言った。また、この神の表象が生きている間、つまり、祝祭に応じて一年であったり六ケ月であったり、あるいはもっと短い期間、人々は彼を本来の偶像神と同じ方法で敬愛し、崇め、一方彼はその間、飲み、食い、享楽した。この生贄が街路を行くと、人々は進み出て彼を崇め、だれもが彼に施しを行い、彼が癒してくれるよう、祝福を与えてくれるようにと、子どもや病人を連れて来た。彼には一切のことが許されていたが、ただ、逃げ出さないよう十人から十二人の男が付き添っていた。また彼はときおり(通り過ぎる際に崇める者もいるので)小さな横笛を吹き、人々が彼への崇拝の準備をできるようにした。祝祭の日が訪れ、生贄が太った頃に、人々は彼を殺し、裂き、食すという、厳かな生贄を執り行ったのである』。たとえば、復活祭の頃からその数日後に当たる、大神テスカトリポカ〔アステカ族の主格神〕の毎年の祭りでは、ひとりの若者が選ばれ、一年間テスカトリポカの生きた化身として扱われた。若者は穢れのない体でなければならず、あるべき優雅さと威厳を備えた堂々たる役割を維持できるよう、入念な訓練を受けた。彼は一年間贅沢に耽り、王自らが、この未来の生贄がきらびやかな衣裳に身を包んでいるようにと気を配った。『王がすでに彼を神として崇めていたからである』。若者は、王家の仕着せを纏った八人の小姓に付き添われて、昼であれ夜であれ意のままに、花を持ち横笛を吹きながら首都の街路を歩き回った。彼の姿を見た者は、だれもがその前に跪き、彼を崇め、彼はその敬意を愛想よく受け入れた。彼が生贄にされる祝祭日の二十日前、四人の女神の名前を持つ、生まれ育ちの良い四人の乙女が、花嫁として彼に与えられた。生贄になる前の五日間、彼は神々しい栄誉をこれまで以上にふんだんに与えられた。王は宮殿に留まったが、廷臣たちは皆運命の生贄について行った。至る所で厳かな晩餐会や舞踏会が開かれた。最終日、若者は、いまだ小姓たちに付き添われながら、天蓋のある艀(はしけ)で、湖の向こう岸にある小さな寂れた神殿に護送された。これはメキシコの一般的な神殿と同じく、ピラミッド状の建造物である。神殿の階段を上る際、若者は一段につき一本、栄光の日々に咲いていた横笛を折った。頂上に達すると彼は捕らえられ、石の台盤に抑えつけられ、ひとりの祭司がその胸を、石の短刀で切り裂いた。祭司は心臓を取り出し、太陽に捧げた。首は先行の生贄たちの頭蓋とともに吊り下げられ、脚と腕は調理され、領主たちの食卓に上げられた。この若者の地位は、その後即座につぎの若者に受け継がれる。その若者もまた一年間、同様の深い尊敬の念をもって扱われ、一年の終わりには同じ運命に身を委ねたのだった。このように人間による表象を殺すことで殺された神が、今一度即座に甦るという考え方は、メキシコの儀式にはっきりと見ることができる。殺された人間神の皮を剥ぎ、その皮の中に別の生きた人間を包むと、今度はこの生きた人間が、新たな神性の表象となったのである。たとえば、神々の母トシ(Toci)を表象する女は、毎年の祭りで生贄に供された。彼女は装身具で飾り立てられ、女神の名で呼ばれる。彼女がその生きた化身と考えられている女神である」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十六節・P.283~285」ちくま学芸文庫)

人柱に立つのはいつも「童子・童女」である。日本でもまたそうだ。

「の多い地方には人権乏しい男女小児を家の土台に埋めたことは必ずあるべく、その霊をその家のヌシとしたのがザシキワラシ等として残ったと惟わる」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.246』河出文庫)

柳田國男は報告している。

「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫)

ただ、「遠野物語」の文体は次のような「あの偉大なる人間苦の記録」を覆い隠してしまう。

「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)

子どもが死んで成人女性が生き残った場合、次のように描かれている。

「また同じ頃、美濃とははるかに隔たった九州のある町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十余りの女性が、同じような悲しい運命の下(もと)に活(い)きていた。ある山奥の村に生れ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還(かえ)ってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲(あざ)ける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛(しば)り附けて、高い樹の隙間(すきま)から、淵を目掛けて飛び込んだ。数時間の後に、女房が自然と正気に復(かえ)った時には、夫も死ねなかったとみえて、濡(ぬ)れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊(つ)って自ら縊(くび)れており、赤ん坊は滝壺(たきつぼ)の上の梢に引っ掛かって死んでいたという話である。こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕(ゆうじょ)があったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅に、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.82~83』ちくま文庫)

しかしこの両方とも、当時の村落共同体に根深く巣食っていた複雑な人間関係については何ら触れられていない。だがそれでもなお窮乏状態に陥った村落共同体を救うためと称して人柱に立たされたのは「童子・童女」そして「老婆」である。次の記録は名高い姫路城に残る「姥石」についてである。

「姫路の城の姥石は、現に絵葉書もできているくらいの一名物であるが、これがまた中凹の、ちょっとした石の枕といってもよい石である。今でも城の石垣の間に置いてある。加藤清正この石垣を築く時、積んでも積んでも一夜の中(うち)に崩れ、当惑の折から、名も知らぬ老婆現れ来たり、臼のような小さい石を一つ、石垣の上に置いたら、それから無事に積み上げることができたと、現今では説明せられている。この城の守護神は老女では決してないが、最も威霊のある女性の神であったことは、この話とともに注意してみねばならぬ」(柳田國男「史料としての伝説・関のおば石」「柳田国男全集4・P.362~363」ちくま文庫)

老女・老婆には霊力が宿ると信じられていた時代。このような犠牲は後を絶つことなくどんどん行われていた。なかでも「童子」に与えられた聖性とそれに基づく犠牲祭は最も有力なものだ。

「人柱の企てが最初犠牲(いけにえ)となるべき者の暗示に基づき、その暗示は多分歌の形をもって与えられたことと、親子夫婦というがごとき関係にある者が二人以上、同時にこの運命に殉じたというのが、上古以来の伝説に一貫した要素であったらしいことが、『築島寺縁起』のごとき近世の一例からでも、幽(かす)かながらこれを推測し得るのである。松王健児が不意に現われて三十人の命に代り、それが実は大日王の化身であって、島成就のためにしばらくこの奇瑞(きずい)を示されたと説くのは、すっかり伝統の型を破ったもののようだが、なお彼がいたいけな童形であり、また惜み悲しまるる人の子であったという点において、弘く東西の諸民族に共通なる犠牲説話の条件を守っているとも見られ得る。そうしてあるいは偶然かも知らぬが、注意すべきは八幡神の信仰をもって、その遠い記念を包んでいるのである」(柳田國男「妹の力・松王健児の物語」『柳田國男全集11・P.145』ちくま文庫)

柳田が引用する「松王健児」は世にも美しい「童子」として唐突に出現する。幸若舞「築島」から引用した。下をクリック↓

熊楠による熊野案内/童子童女そして若宮

ちなみに弁慶は武蔵坊弁慶と名乗る前「鬼若」(おにわか)と名乗っていた。源義経の幼名は「牛若」(うしわか)。両者は対になっている。そして二人とも京の都に近い修験道場「鞍馬山」から登場してくる。共通性は「若」であり熊野の王子信仰と同様のものだ。さらに牛若・鬼若ともに鎌倉幕府創設者・源頼朝を大々的に支援するにもかかわらず頼朝とはまったく異なった出現方法が採用されている。さらに「天狗」に関して幸若舞「未来記」にこうある。一者目の天狗は牛若・鬼若の出現地と同じ愛宕山にいる。名前もある。

「愛宕(あたご)の山の太郎坊(たらうぼう)」(新日本古典文学体系「未来記」『舞の本・P.306』岩波書店)

二者目の天狗について。

「平野(ひらの)山の大天狗(てんぐ)」(新日本古典文学体系「未来記」『舞の本・P.306』岩波書店)

この「平野(ひらの)山」は今の滋賀県大津市比良(ひら)山のこと。「平野(ひらの)山の大天狗(てんぐ)」はその名を「次郎坊」(じろうぼう)といった。愛宕山と比良山系とは山岳地帯を通して地続きだが、天狗の名においてもまた両者は「太郎坊・次郎坊」というふうに対になっている点に注意しよう。牛若・鬼若にせよ太郎坊・次郎坊にせよ、どちらも山岳地帯から出現してくるとともに怪異な力を発揮する。こうした山神信仰は「熊野の本地の草子」に出てくる金剛童子のように、いつも怪異な力の持ち主として描かれる。しかしそれには明確な理由が認められる。記紀神話で実の兄妹(いもせ)の関係に当たる伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)が性交して子造りを始める。最初に生まれた嬰児はどうなったか。

「遂(つひ)に為夫婦(みとのまぐはひ)して、先づ蛭児(ひるこ)を生む。便(すなは)ち葦船(あしのふね)に載(の)せて流(ながしや)りてき」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第四段・P.28」岩波文庫)

蛭児〔=不具児〕は海へ流される。だが民族創造神話に出てくるこの種のエピソードは少なくない。日本書紀はもちろん、沖縄周辺から台湾、さらにインドネシアと、東南アジア一帯に広く分布する。しかもなお、この種のエピソードは民族創造神話の根本的部分として大変長く記憶の底に刻み込まれる。と同時に発生するのが若王子(にゃくおうじ)信仰である。熊野が古代宮廷から続くミソギの地として若くして死んだ王子らを祭る強力な伝統を形成しているのもその点に根拠を持つ。

ちなみに越前から越後にかけて「親知らず」と呼ばれる峻険な海岸が打ち続いていることはよく知られているが、三重県熊野市から和歌山県新宮市へ続く七里御浜(巡礼路)の途中にも「親知らず子知らず」という難所がある。熊野市は三重県に編入される前、もともと熊野の南牟婁郡に属していた。だからといって周辺地域に住む人々を単純に「熊野人」としてひとくくりにして考えるには困難な事情がある。

「熊野の地は、紀伊の國の中で一区画をなして居り、其が時代に依つて境を異にしてゐたらしい。昔ほど廣く、北方に擴つてゐて、所謂普通の紀伊國の地域を狭めてゐた。思ふに此は、南紀伊地方にゐた種族の暴威を振ふ者の、勢力を張つた時代は、遥かに北に及び、其衰へた時は、境界線が後退してゐたからだらう。奈良朝前後では、南北東西牟婁郡の範囲も定つて、北西の限界は、日高郡岩代附近と言ふことになつてゐたらしいが、熊野の祭祀の中心たるべき日前(ヒノクマ)・國懸(クニカカス)の社(ヤシロ)が、更にその北にある事は、其以前の熊野領域を示すのだ。古事記・日本紀の文脈を見ると、更に古代の熊野の領域が、北に擴つて居り、紀の川・吉野川南部の山地は、大和・吉野へかけて一体に、熊野人の勢力範囲であり、唯海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た、と言ふ事が出来る」(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」『折口信夫全集16・P.222』中公文庫)

折口のいう通りなら海岸沿いの「大辺路」(おおへじ)の一部は「熊野人」の活動圏外ということになってしまい「中辺路」(なかへじ)だけが「熊野人」の活躍地帯として限定される。とはいえ、山陰の若狭湾に残る八百比丘尼伝説とともに、吉野・熊野、そして伊勢から奥三河にかけて、熊野信仰とともに移動した芸能民の中に座頭を始めとする様々な不具者、「女語り」の者(比丘尼)、皇室に奉仕した吉野の国栖など、古代から中世にかけてかなり広く芸能民並びに職能民による大きな三角形が形成されていたことはほぼ間違いないだろう。それとはまた別の交通路を定期的に回遊する民としてサンカが考えられる。芸能民もまた遊牧民のように一年を通して様々な地域を巡業して廻っていたわけだが、回遊性という点では同じでも生活様式がまったく異なっていたがゆえ、サンカは芸能民からも疎まれることが少なくなかったことは中里介山「大菩薩峠」の中で描かれている。それについては追い追い機会を見て述べていきたい。それよりも今は、錯綜を繰り返して明確にはわからなくなっているサンカに関する過去の情報を二〇〇四年(平成十六年)になってさえ「出汁」(ダシ)に持ち出し、何度も繰り返し人権に関する「特措法」を延長させることで自分たちの既得権益をどこまでも拡張し、今では驚くべきことに政府与党の大規模支持母体を形成している複数の支持団体に狙いを付けなければならない。例えば、地区出身の故・野中広務が被差別を大々的に自民党と接続させ、なおかつ山陰地方での蟹の売買を媒介とした北朝鮮利権も自民党へ流れ込むように持っていった。一見野党に見える社民党もパチンコ利権でかろうじて存続してきたがパチンコ利権自体がもうそろそろ終焉に向かっている。そのような政治団体とそれを支持する複数の支持母体とを徹底的に究明しなくては、拉致問題を始めとする人身売買反対の象徴「ブルーリボン」の存在意義はなくなってしまう。ブルーリボンは日韓・日朝だけでなく人身売買反対〔奪還〕運動に関し、今や世界中で公認されている保証である。

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