ゴッホが探し求めたものは「自分とは何か」という問いに対する「答え」ではない。だが絵画へ変身することでそれは成し遂げられたといえる。
「ヴァン・ゴッホはその全生涯の間に異様なエネルギーと決意をもって自分の自我を探し求めた」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118』河出文庫)
アルトーはゴッホについて「その全生涯の間に異様なエネルギーと決意をもって」ひたすらその作業を推し進めたと言っているわけだが、しかし「異様なエネルギー」とはどんな「エネルギー」だったのだろうか。ただ単なる「力」とはどのように違っているのか。
「彼は狂気の一撃に見舞われて、どうしてもそれに辿り着けないという不安のなかで自殺したのではなく、それどころか、ようやくそれに辿り着き、自分が何であるか、そして自分が誰であるかを彼は見出したばかりだったのだが、そのとき社会の一般的意識が、社会から無理やり身を引き離した廉で彼を罰するために、ヴァン・ゴッホを自殺させたのである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118~119』河出文庫)
結論的には、ゴッホによって描かれた絵画は社会的一般的規範から逸脱するものだったがゆえに、さらに作者ゴッホ自身が社会規範に寄り添わず逆に「社会から無理やり身を引き離した廉で」社会規範の側から自殺へ追い込まれたということができる。以前述べたが、ゴッホの絵画からは二つの特徴が如実に見て取れる。第一に、社会規範から見ればどう見えていようとも、少なくとはゴッホにとっては別様にも見えるということ。第二に、ゴッホは他人がどう描いていようと自分はこう描こうと《欲した》ということ。一点目はニーチェ=アルトーの論理からいえば何らの問題もなくむしろニーチェのいう「別様の感じ方」を実践して見せたに過ぎない。より重要なのは二点目である。ステレオタイプな社会規範から「無理やり身を引き離し」て、有機体としての国家-社会から自分で自分自身を切断し、わざと歪めて描こうと《欲した》ことだ。「アルルの寝室」、「オヴェールの教会」などは、ゴッホ固有のその種の欲望が顕著に絵具と化してキャンバスにへばり付けられたものだといえる。「オヴェールの教会」の場合、どこにでもある平凡な昼間のワンシーンを描いたものだが、一見すると真夜中かと勘違いしてしまう。とことん暗闇に打ち沈んでいく空が濃い青色で描かれていてその底知れぬ奥深さに先に目を奪われてしまう。ところが地面は明らかに何ということもない昼間の花咲く草原の道である。「アルルの寝室」の場合、部屋そのものがぐんにゃり大胆に歪められている。遠近法は破局している。しかしその点においてこそゴッホは欲望する諸機械として「アルルの寝室」を本当に《生産した》といえるのだろうとおもわれる。ゴッホは流動する力について知らず知らずのうちに知っていた、あるいは知らないがそう行った、といえる。その代表的なものは作品「星月夜」のほぼ三分の二を覆い尽くす壮大な自然力の流動性において出現する。アルトーが「異様なエネルギー」と呼んだもの。それは自然力としての流動する力を相対化することなく逆に流動する力と一体化したゴッホ自身の姿である。しかし社会規範から見ればそれは統合失調者の症状にしか見えないという逆説をまともに背負ったのがゴッホだったということができる。欲望する諸機械として、流動する力を絵画化しつつ移動していくために、自分自身が自由であるために、なおかつ自由であろうとして、ゴッホはステレオタイプな社会規範を力づくで歪めるほかなかったのだ。その絵画は社会に抵抗していない。反逆していない。ただ単純に自分にはこうも見えるという「別様の感じ方」を実践したことと、こうしたいとおもう通りに《欲望した》だけのことだ。社会の側が許しがたいと感じたのはゴッホが社会に対して反逆したと考えたからではない。宗教がそれまで陳腐極まりない性欲の次元へ封じ込めておいたものをゴッホはあっさり捨て去り、自然力としての流動する力の次元をまともに《欲望》することを《欲した》からである。それは親米国家であれ反米国家であれ、そのような凡庸な区別など関係なしに、どんな反体制運動家のデモよりも手に負えない。
「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.146~147」河出書房新社)
慌てた社会の側はゴッホの精神的不調の訴えと同時に精神病院送りにしてしまった。とんだどさくさ紛れの犠牲者なのだ。しかしアルトーはゴッホ論の中でボードレールとゴッホとを同様に取り扱っている。それはまた違うのである。ボードレールは様々なアルコール・薬物に手を出してそれぞれを吟味し特徴を述べた文章を書いているように、極めて意識的な詩人である。ボードレールの苦悩は明らかに弁証法的な思考の産物であって、詩人という「犯罪者」にして「死刑執行人」でもあるというダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)から必然的にやって来る。アルトーはゴッホもボードレールもひっくるめて社会が葬り去ろうとした者の系列に編入してしまっているが、そのことはもう少し後でボードレールの名が「死刑執行人」ではなく社会から「疎外された者」として他の芸術家らと並列的に論じられる箇所で述べよう。今はゴッホの方法、流動する力について知らず知らずのうちに知っていた、あるいは知ってはいないがそう行った、という点について参照しておきたい。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
この等価関係は成立するやいなや時間的逆方法へ遡行し、異種の諸生産物のばらばらぶりをすべて覆い隠す。同時に異種のばらばらなものを等置する前にあったそれぞれの差異あるいは個々別々の歪みは、等値されるやいなや瞬時に消えてなくなる。だがマルクスは諸商品の無限の系列について中心をなす貨幣の介入によって等価性の維持が可能になる以前について、商品世界はそもそも脱中心的な諸商品の「寄木細工」だと述べている。
「この連鎖はばらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.121」国民文庫)
異種の諸生産物は等値されるやいなや中心を出現させる。そして貨幣による中心化によってそれぞれに違った脱中心的な諸商品の差異あるいは個々別々の歪みは一挙に排除され消え去り隈なく等価性を刻印される。等値するから等価であるかのように見えるのである。しかしこの行為は暴力ではないのだ。「知ってはいないがそう行う」のであって、その前とその後しか人間の目には入らない。その瞬間何が起こっているか、誰も知らない。ゴッホが見たのはこのような必然的にあちこち歪んでいる力の強度とその速さや遅さである。それをたとえば絵画にした場合、ゴッホの絵画のようなものが出現する。ゴッホの欲望はこの歪みについて、歪んでいるということだけでなく、歪めたいと欲したことだ。その瞬間、今度は絵画の側から社会に向けて社会規範の自明性を問いにかけることになる。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「ヴァン・ゴッホはその全生涯の間に異様なエネルギーと決意をもって自分の自我を探し求めた」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118』河出文庫)
アルトーはゴッホについて「その全生涯の間に異様なエネルギーと決意をもって」ひたすらその作業を推し進めたと言っているわけだが、しかし「異様なエネルギー」とはどんな「エネルギー」だったのだろうか。ただ単なる「力」とはどのように違っているのか。
「彼は狂気の一撃に見舞われて、どうしてもそれに辿り着けないという不安のなかで自殺したのではなく、それどころか、ようやくそれに辿り着き、自分が何であるか、そして自分が誰であるかを彼は見出したばかりだったのだが、そのとき社会の一般的意識が、社会から無理やり身を引き離した廉で彼を罰するために、ヴァン・ゴッホを自殺させたのである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118~119』河出文庫)
結論的には、ゴッホによって描かれた絵画は社会的一般的規範から逸脱するものだったがゆえに、さらに作者ゴッホ自身が社会規範に寄り添わず逆に「社会から無理やり身を引き離した廉で」社会規範の側から自殺へ追い込まれたということができる。以前述べたが、ゴッホの絵画からは二つの特徴が如実に見て取れる。第一に、社会規範から見ればどう見えていようとも、少なくとはゴッホにとっては別様にも見えるということ。第二に、ゴッホは他人がどう描いていようと自分はこう描こうと《欲した》ということ。一点目はニーチェ=アルトーの論理からいえば何らの問題もなくむしろニーチェのいう「別様の感じ方」を実践して見せたに過ぎない。より重要なのは二点目である。ステレオタイプな社会規範から「無理やり身を引き離し」て、有機体としての国家-社会から自分で自分自身を切断し、わざと歪めて描こうと《欲した》ことだ。「アルルの寝室」、「オヴェールの教会」などは、ゴッホ固有のその種の欲望が顕著に絵具と化してキャンバスにへばり付けられたものだといえる。「オヴェールの教会」の場合、どこにでもある平凡な昼間のワンシーンを描いたものだが、一見すると真夜中かと勘違いしてしまう。とことん暗闇に打ち沈んでいく空が濃い青色で描かれていてその底知れぬ奥深さに先に目を奪われてしまう。ところが地面は明らかに何ということもない昼間の花咲く草原の道である。「アルルの寝室」の場合、部屋そのものがぐんにゃり大胆に歪められている。遠近法は破局している。しかしその点においてこそゴッホは欲望する諸機械として「アルルの寝室」を本当に《生産した》といえるのだろうとおもわれる。ゴッホは流動する力について知らず知らずのうちに知っていた、あるいは知らないがそう行った、といえる。その代表的なものは作品「星月夜」のほぼ三分の二を覆い尽くす壮大な自然力の流動性において出現する。アルトーが「異様なエネルギー」と呼んだもの。それは自然力としての流動する力を相対化することなく逆に流動する力と一体化したゴッホ自身の姿である。しかし社会規範から見ればそれは統合失調者の症状にしか見えないという逆説をまともに背負ったのがゴッホだったということができる。欲望する諸機械として、流動する力を絵画化しつつ移動していくために、自分自身が自由であるために、なおかつ自由であろうとして、ゴッホはステレオタイプな社会規範を力づくで歪めるほかなかったのだ。その絵画は社会に抵抗していない。反逆していない。ただ単純に自分にはこうも見えるという「別様の感じ方」を実践したことと、こうしたいとおもう通りに《欲望した》だけのことだ。社会の側が許しがたいと感じたのはゴッホが社会に対して反逆したと考えたからではない。宗教がそれまで陳腐極まりない性欲の次元へ封じ込めておいたものをゴッホはあっさり捨て去り、自然力としての流動する力の次元をまともに《欲望》することを《欲した》からである。それは親米国家であれ反米国家であれ、そのような凡庸な区別など関係なしに、どんな反体制運動家のデモよりも手に負えない。
「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.146~147」河出書房新社)
慌てた社会の側はゴッホの精神的不調の訴えと同時に精神病院送りにしてしまった。とんだどさくさ紛れの犠牲者なのだ。しかしアルトーはゴッホ論の中でボードレールとゴッホとを同様に取り扱っている。それはまた違うのである。ボードレールは様々なアルコール・薬物に手を出してそれぞれを吟味し特徴を述べた文章を書いているように、極めて意識的な詩人である。ボードレールの苦悩は明らかに弁証法的な思考の産物であって、詩人という「犯罪者」にして「死刑執行人」でもあるというダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)から必然的にやって来る。アルトーはゴッホもボードレールもひっくるめて社会が葬り去ろうとした者の系列に編入してしまっているが、そのことはもう少し後でボードレールの名が「死刑執行人」ではなく社会から「疎外された者」として他の芸術家らと並列的に論じられる箇所で述べよう。今はゴッホの方法、流動する力について知らず知らずのうちに知っていた、あるいは知ってはいないがそう行った、という点について参照しておきたい。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
この等価関係は成立するやいなや時間的逆方法へ遡行し、異種の諸生産物のばらばらぶりをすべて覆い隠す。同時に異種のばらばらなものを等置する前にあったそれぞれの差異あるいは個々別々の歪みは、等値されるやいなや瞬時に消えてなくなる。だがマルクスは諸商品の無限の系列について中心をなす貨幣の介入によって等価性の維持が可能になる以前について、商品世界はそもそも脱中心的な諸商品の「寄木細工」だと述べている。
「この連鎖はばらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.121」国民文庫)
異種の諸生産物は等値されるやいなや中心を出現させる。そして貨幣による中心化によってそれぞれに違った脱中心的な諸商品の差異あるいは個々別々の歪みは一挙に排除され消え去り隈なく等価性を刻印される。等値するから等価であるかのように見えるのである。しかしこの行為は暴力ではないのだ。「知ってはいないがそう行う」のであって、その前とその後しか人間の目には入らない。その瞬間何が起こっているか、誰も知らない。ゴッホが見たのはこのような必然的にあちこち歪んでいる力の強度とその速さや遅さである。それをたとえば絵画にした場合、ゴッホの絵画のようなものが出現する。ゴッホの欲望はこの歪みについて、歪んでいるということだけでなく、歪めたいと欲したことだ。その瞬間、今度は絵画の側から社会に向けて社会規範の自明性を問いにかけることになる。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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