白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義13

2020年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホが探し求めたものは「自分とは何か」という問いに対する「答え」ではない。だが絵画へ変身することでそれは成し遂げられたといえる。

「ヴァン・ゴッホはその全生涯の間に異様なエネルギーと決意をもって自分の自我を探し求めた」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118』河出文庫)

アルトーはゴッホについて「その全生涯の間に異様なエネルギーと決意をもって」ひたすらその作業を推し進めたと言っているわけだが、しかし「異様なエネルギー」とはどんな「エネルギー」だったのだろうか。ただ単なる「力」とはどのように違っているのか。

「彼は狂気の一撃に見舞われて、どうしてもそれに辿り着けないという不安のなかで自殺したのではなく、それどころか、ようやくそれに辿り着き、自分が何であるか、そして自分が誰であるかを彼は見出したばかりだったのだが、そのとき社会の一般的意識が、社会から無理やり身を引き離した廉で彼を罰するために、ヴァン・ゴッホを自殺させたのである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118~119』河出文庫)

結論的には、ゴッホによって描かれた絵画は社会的一般的規範から逸脱するものだったがゆえに、さらに作者ゴッホ自身が社会規範に寄り添わず逆に「社会から無理やり身を引き離した廉で」社会規範の側から自殺へ追い込まれたということができる。以前述べたが、ゴッホの絵画からは二つの特徴が如実に見て取れる。第一に、社会規範から見ればどう見えていようとも、少なくとはゴッホにとっては別様にも見えるということ。第二に、ゴッホは他人がどう描いていようと自分はこう描こうと《欲した》ということ。一点目はニーチェ=アルトーの論理からいえば何らの問題もなくむしろニーチェのいう「別様の感じ方」を実践して見せたに過ぎない。より重要なのは二点目である。ステレオタイプな社会規範から「無理やり身を引き離し」て、有機体としての国家-社会から自分で自分自身を切断し、わざと歪めて描こうと《欲した》ことだ。「アルルの寝室」、「オヴェールの教会」などは、ゴッホ固有のその種の欲望が顕著に絵具と化してキャンバスにへばり付けられたものだといえる。「オヴェールの教会」の場合、どこにでもある平凡な昼間のワンシーンを描いたものだが、一見すると真夜中かと勘違いしてしまう。とことん暗闇に打ち沈んでいく空が濃い青色で描かれていてその底知れぬ奥深さに先に目を奪われてしまう。ところが地面は明らかに何ということもない昼間の花咲く草原の道である。「アルルの寝室」の場合、部屋そのものがぐんにゃり大胆に歪められている。遠近法は破局している。しかしその点においてこそゴッホは欲望する諸機械として「アルルの寝室」を本当に《生産した》といえるのだろうとおもわれる。ゴッホは流動する力について知らず知らずのうちに知っていた、あるいは知らないがそう行った、といえる。その代表的なものは作品「星月夜」のほぼ三分の二を覆い尽くす壮大な自然力の流動性において出現する。アルトーが「異様なエネルギー」と呼んだもの。それは自然力としての流動する力を相対化することなく逆に流動する力と一体化したゴッホ自身の姿である。しかし社会規範から見ればそれは統合失調者の症状にしか見えないという逆説をまともに背負ったのがゴッホだったということができる。欲望する諸機械として、流動する力を絵画化しつつ移動していくために、自分自身が自由であるために、なおかつ自由であろうとして、ゴッホはステレオタイプな社会規範を力づくで歪めるほかなかったのだ。その絵画は社会に抵抗していない。反逆していない。ただ単純に自分にはこうも見えるという「別様の感じ方」を実践したことと、こうしたいとおもう通りに《欲望した》だけのことだ。社会の側が許しがたいと感じたのはゴッホが社会に対して反逆したと考えたからではない。宗教がそれまで陳腐極まりない性欲の次元へ封じ込めておいたものをゴッホはあっさり捨て去り、自然力としての流動する力の次元をまともに《欲望》することを《欲した》からである。それは親米国家であれ反米国家であれ、そのような凡庸な区別など関係なしに、どんな反体制運動家のデモよりも手に負えない。

「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.146~147」河出書房新社)

慌てた社会の側はゴッホの精神的不調の訴えと同時に精神病院送りにしてしまった。とんだどさくさ紛れの犠牲者なのだ。しかしアルトーはゴッホ論の中でボードレールとゴッホとを同様に取り扱っている。それはまた違うのである。ボードレールは様々なアルコール・薬物に手を出してそれぞれを吟味し特徴を述べた文章を書いているように、極めて意識的な詩人である。ボードレールの苦悩は明らかに弁証法的な思考の産物であって、詩人という「犯罪者」にして「死刑執行人」でもあるというダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)から必然的にやって来る。アルトーはゴッホもボードレールもひっくるめて社会が葬り去ろうとした者の系列に編入してしまっているが、そのことはもう少し後でボードレールの名が「死刑執行人」ではなく社会から「疎外された者」として他の芸術家らと並列的に論じられる箇所で述べよう。今はゴッホの方法、流動する力について知らず知らずのうちに知っていた、あるいは知ってはいないがそう行った、という点について参照しておきたい。

「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

この等価関係は成立するやいなや時間的逆方法へ遡行し、異種の諸生産物のばらばらぶりをすべて覆い隠す。同時に異種のばらばらなものを等置する前にあったそれぞれの差異あるいは個々別々の歪みは、等値されるやいなや瞬時に消えてなくなる。だがマルクスは諸商品の無限の系列について中心をなす貨幣の介入によって等価性の維持が可能になる以前について、商品世界はそもそも脱中心的な諸商品の「寄木細工」だと述べている。

「この連鎖はばらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.121」国民文庫)

異種の諸生産物は等値されるやいなや中心を出現させる。そして貨幣による中心化によってそれぞれに違った脱中心的な諸商品の差異あるいは個々別々の歪みは一挙に排除され消え去り隈なく等価性を刻印される。等値するから等価であるかのように見えるのである。しかしこの行為は暴力ではないのだ。「知ってはいないがそう行う」のであって、その前とその後しか人間の目には入らない。その瞬間何が起こっているか、誰も知らない。ゴッホが見たのはこのような必然的にあちこち歪んでいる力の強度とその速さや遅さである。それをたとえば絵画にした場合、ゴッホの絵画のようなものが出現する。ゴッホの欲望はこの歪みについて、歪んでいるということだけでなく、歪めたいと欲したことだ。その瞬間、今度は絵画の側から社会に向けて社会規範の自明性を問いにかけることになる。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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延長される民主主義12

2020年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は身体という形態を取って生まれてくる。キリスト教だけでなく世界のあらゆる宗教的観念に共通しているのは、人間は身体という形態を取ってでしか生まれてくることができず、また精神は常に身体と一致していなければならない、というステレオタイプ(固定観念)である。しかしこの種の宗教的観念には何らの根拠もない。精神と身体とは常に一致していなくてはならないというカルト的信仰で充満した馬鹿馬鹿しい市民社会の倫理によってゴッホは自殺へ追い込まれたとするアルトーの理論はその点で十分正当性がある。

「ヴァン・ゴッホは本来の錯乱状態でではなく、肉体的にある問題の場であったことによって死んだのだが、その問題をめぐって、原初以来この人類という不公正極まりない精神はもがき苦しんでいる」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118』河出文庫)

だがゴッホが苦しんでいる時期は「原初」の古代世界ではない。「原初以来」支配してきたかび臭い宗教的風習のもとにである。医学の飛躍的発展にもかかわらず社会規範として君臨しているヨーロッパのキリスト教世界という渦中においてである。問題は、生まれると同時にあらかじめキリスト教の名のもとに与えられた身体という有機体なのであり、個々の精神が有機体としての身体から脱出したいと欲したとしてもそれをけっして許さない身体への閉じ込めという社会規範である。そしてこの社会規範を世界的規模で支えているのは相変わらずキリスト教だった。だからアルトーはゴッホの精神をとことん痛めつけ続けたのは「神の裁き」としてステレオタイプ化された精神をステレオタイプ化された身体の中に閉じ込めたキリスト教だと告発して止まない。しかしアルトーは言語を用いてそう述べるのであって、ゴッホの場合、ゴッホの絵画がそう語る。語っているのは「誰か」という問い。

「ニーチェにとって問題は、善と悪がそれじたい何であるかではなく、自身を指示するため《アガトス》、他者を指示するため《デイロス》と言うとき、だれが指示されているか、というよりはむしろ、《だれが語っているのか》、知ることであった。なぜなら、言語(ランガージュ)全体が集合するのは、まさしくそこ、言説(ディスクール)を《する》者、より深い意味において、言葉(パロール)を《保持する》者のなかにおいてだからだ。だれが語るのか?というこのニーチェの問いにたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのものーーー語の意味ではなく、その謎めいた心もとない存在だ、と述べることによって答え、みずからの答えを繰り返すことを止めようとはしない。ーーーマラルメは、言説(ディスクール)がそれ自体で綴られていくような<書物>の純粋な儀式のなかに、執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、おのれ固有の言語(ランガージュ)から自分自身をたえず抹殺しつづけたのである」(フーコー「言葉と物・P.324~325」新潮社)

文章というものは提出されるやいなや無数の意味を発生させるため、読解し分析し幾つかの有力な読みに絞り込むだけでも多少の研究期間を要する。けれども絵画、写真、音楽といった方法は、文章の読解とは次元が違っている。それらはほぼ一瞬で読み取らせる。無数の層が徹底的に圧縮され一つに折り重ねられた詩に等しい。或る詩が、絵画、写真、音楽といった他の形態へ変換されているというべきだろう。飛び上がってびっくりするほど難解でも何でもなくむしろごく単純な話なのだが、ところがそのような事情は一般的な市民社会の目には錯乱に見える。アルトーはゴッホの精神状態について「本来の錯乱状態でではな」かったと述べている。一方、或る種の「錯乱」を生きていたことは認めている。それはどのような意味においてか。

「精神に対する肉の、あるいは肉に対する身体の、あるいは両者に対する精神の優位の問題」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.118』河出文庫)

という問題に真面目に取り組むことが「錯乱」である。ゴッホの真面目さ。それは書簡に目を通せばわかるように大変こつこつとものごとに取り組み、絵画だけでなく芸術一般について広く目を通した上で様々な意見を述べる形をとっている。どこに錯乱があるのかと考え込んでしまう。「狂気」について述べている箇所を見ても支離滅裂なことを並べ立てているわけではまったくない。むしろ一般論の領域に収まっているためにその箇所に差し掛かっても「不意打ち」を受けることはない。

「ゾラとバルザックはその作品のなかで画家のようにある時代の社会や自然を描写して不思議な芸術的衝動を起させ、読者に話しかける、それによって、描かれたその時代に触れさせるのだ。ーーードミエも同じようにたいした天才だった。ミレーも彼が所属していた階級を代表する画家だ。これらの天才が気狂いじみていたとも考えられないことはない。彼等を手離しで感心して好きになるためには、こちらも少し狂う必要がある」(「ゴッホの手紙・上・P.146」岩波文庫)

というように。キリスト教と資本主義に支配された世界で転倒しているのはいつもすでに社会の側である。そしてそれを可能にしているのは社会的文法である。社会的文法は目に見えない次元で人間を拘束するからこそ絶大な桎梏(しっこく)として作用する。フロイト=ラカンの用語を借りれば無意識的次元から働きかけ人間の思考と行動とを支配する。しかしなぜそうなるのか。その事情について十九世紀後半すでに真面目になおかつ露骨に述べたニーチェは社会の側から断罪された、というよりもっと過酷な取り扱い方を受けた。ほとんど無視された。市民社会が見ないで済まそうと常に心がけてきたことがそこにはありありと論述されていたからである。ところでアルトーは「精神、肉、身体」を取り上げ「両者に対する精神の優位の問題」とややこしい書き方をしているが、「肉と身体と精神」だけでなくさらに「糞」を付け加えてみるともっとよくわかるに違いない。「肉と糞」。人間はそれを自己固有化〔占有〕することに余念がない。

「存在の中には 人間を 特にひきつけるものがあるのだが それはまさに 《糞》なのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)

さらに。

「人間は糞を失うのが怖かった あるいはむしろ糞を《ほしがった》 そしてそのため血を代償にしたのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)

何が言いたいのか。要するに人間は、ありとあらゆるものを自分固有の土地へと「土地化」することを《欲する》。肉を食べて脱糞し土地を新しく再土地化し不動産として商品化し転売を繰り返す。それこそが人間という不自然な動物の自然な営みである。人間は生まれついての不動産業者である。だが土地所有者でない不動産業者である。だからせっせと肉を食べ脱糞し再土地化と商品化ならびに貨幣との商品交換を絶え間なく繰り返していかなければならない。しばらくすると成功者が出てくる。資本の人格化としての資本家は自分で資本主義を動かしてでもいるかのような錯覚に酔うことができるようになる。しかし錯覚は遂に錯覚でしかない。二〇二〇年の新型ウイルス問題(パンデミック)のような事態発生に直面すると、資本主義は平滑化するやいなや条里化させておいた公理系の流れを詰まらせてたちまち機能不全におちいる。資本主義は公理系によって支えられているとともに公理系の創設が脱コード化の運動と同じ一つの動作であるかぎりで崩壊することなく延命することができてきたわけだが、日々要請される公理系の整理整頓、随時更新という必要不可欠な作業を怠っているとたった一度の「不意打ち」でこのありさまを呈する。ドゥルーズとガタリが「アンチ・オイディプス」で公理系について述べたのはもう五〇年近くも前のことだというのに。そしてまた、利子というものは市民社会が日々従事している経済活動の中から徐々に成立してくるわけだが、一旦承認された利子は成立するやいなや市民社会の中ではなく上に立って利子実現のために容赦なく全市民社会に対して絶え間なく圧力をかけ続ける。今や人間は資本主義に服従する部分機械に過ぎない。そのような人間でなくなるためには、宗教的掟によってあらかじめ与えられた身体を繰り返し批判に晒してみることが必要だ。ニーチェのいう「別様の仕方」、「別様の身体」を手に入れなければならない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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延長される民主主義11

2020年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホを自殺へ追い込んだのは「満場一致の意識」であるとアルトーは述べる。そのように本当のことを露骨に口にしてしまうとただちに精神病院送りにされる時代だった。ただしアルトーのいう「満場一致の意識」は、民主主義的制度が機能しているかぎりでいうことができる「満場一致」とは関係がない。では、そうでない「満場一致の意識」とは何のことだろうか。あるいはどのような状況を指して言われているのか。それが問われるのはいつも決まって「まだ萌芽状態にある戦争や革命や社会的激変の際に」という条件が前提とされていることを思い起こす必要性がある。この点に関して歴史的に見てほぼ例外はないと見てよいと思える。さらにそこには諸国民にとって自分の身に向かって「戦争や革命や社会的激変」に匹敵する何かが差し迫っていると感じているだけでなく複数の地域では事実その「萌芽状態」がすでに可視化されているという下位事情が含まれている。

「まだ萌芽状態にある戦争や革命や社会的激変の際には、満場一致の意識は問いただされ、自問するのであって、それもまた自らの判断を下すのである。この意識は、影響の大きい幾つかの個々の事例に関して言えば、ひとりでに呼び起こされ、それ自身から外に出るということがあり得る」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.116』河出文庫)

だからといってゴッホが、あるいはニーチェやアルトーが、「戦争や革命や社会的激変」に匹敵する何かが差し迫っていると警告したうちの一人であるとは断定できない。ニーチェ、アルトーらにしてもそうなのだが、「戦争や革命や社会的激変」に匹敵する何かが差し迫っていると「感じ取っていた」うちの一人一人であるということはできる。アルトーの場合、世界的二大勢力の破滅的激突について予言的にこう述べていた。一方はアメリカについて。

「なぜなら、こうしてアメリカ人が準備したのは、いまも必死で準備しているのはひたすら戦争なのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)

他方はスターリンのロシアについて。

「そしてこれらの敵のあいだには スターリンのロシアがいて これも軍事力には事欠かない。こうしたことはみんな申し分のないことだ、それにしても私はアメリカ人たちがこんなにも好戦的な民だとは知らなかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11~12」河出文庫)

しかし両者は何らかの媒介項なしに接触することはできない。媒介するもの。それは資本主義という制度である。

「なぜなら息子よ、われわれ生まれながらの資本主義者にとって、待ち伏せている敵は、数えきれない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)

アルトーはフランスという資本主義国家で生まれ育った。自分で自分自身の出自を知っている。アルトーは生まれるやいなやフランスという有機的器官に接続され登録された。本人の意思確認などできるわけもない乳幼児の状態で国家的有機体の一部分へ編入された。フランス国家という有機体への編入はただちにヨーロッパへの有機的参入にほかならない。教育機関での学習を通してそのような社会的事情を意識できるようになるにしたがってアルトーは、自分の身体が有機体としての諸器官を通してキリスト教的ヨーロッパやロシアのスターリニズムに姦通させられていたことを認めないわけにはいかなくなる。晩年のアルトーが提唱するに至った「器官なき身体」論はすでにその時点から徐々に熟成されてきたのだろう。

ところで人間は、集団化するやいなや「空気を読む」ことを始める。そもそも空気は吸うものだ。なのになぜ「読む」のか。複数の人間とはいってもたった二人では対話の次元に留まる。「空気を読む」というより文脈を理解するだけで対話は成立する。「空気を読む」必要性を敏感に感じ始めざるを得なくさせるのは、しかし、いつどのような条件においてだろうか。

「百人がいっしょにいると、各人はおのれの悟性を失って、或る別の悟性を手に入れる」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八二五・P.470」ちくま学芸文庫)

カントは「悟性」という言葉を用いているが「知性」と言い換えても問題が生じないように、ニーチェが「悟性」というとき、それを「知性」と言い換えても特に問題は生じない。試しにやってみる。

「百人がいっしょにいると、各人はおのれの知性を失って、或る別の知性を手に入れる」

そうして一挙に発生した「満場一致の意識」の犠牲者が次に列挙されることになる。

「かくしてボードレール、エドガー・ポー、ジェラール・ド・ネルヴァル、ニーチェ、キルケゴール、ヘルダーリン、コールリッジに関して、一斉になされた呪縛が存在したのである、そしてヴァン・ゴッホについてもそういうことがあったのだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.116』河出文庫)

かつて社会から葬り去られた輝かしい面々。社会は今になって彼らの作品を資本主義的生産様式に則って商品化し貨幣交換によって剰余価値を実現しさらなる資本の再生産過程を始めるのである。ところが二〇二〇年の新型ウイルス問題は当初計画されていた資本の流れに対して大幅な再調整を要請させることになった。一例を上げたい。マスコミが用いている「医療崩壊の危機」というステレオタイプ(決まり文句)について。

第一に、差し当たり日本国内のことを指して言っているように思えるのだが実際はどの先進国のどの医療制度について「崩壊」と言っているのかわからない点。まず前提として、崩壊するためにはその前に成立していなければならない。まだ出来上がっていないものが途中で頓挫することはあっても崩壊するためには完全な形で成立していなければ崩壊の始めようがない。しかし先進諸国の医療制度は日本も含めて確かに先進的ではあった。東西冷戦終結までは。だからドゥルーズとガタリはこう言うことができたのである。

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303~304」河出書房新社)

そしてこの理論は今なお有効である。社会福祉部門を自分の手で創設し創生期のむき出しの資本主義を洗練することで「ロシア革命を消化することができた」旧西側陣営は冷戦崩壊と同時に公理の付け加えを不要とみなし、逆に新自由主義にのめり込んでいく。公理系の大きな構成部分をなす社会福祉部門を維持するどころか急速に切り捨てていくことにした。当然のことながらそれでは上手く行かない。せっかく「消化した」はずの「ロシア革命」の側へ世界が世界自身を巻き戻してしまうというような事態が生じてきた。合理化すればするほど公理系は加速的に破壊される。一方で脱コード化しつつ他方で公理系化する諸力の運動のことを資本主義というのであって、この新しい読み方はマルクスが資本論の中で述べた「利潤率の傾向的低下の法則」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・P.347~435」国民文庫)をドゥルーズとガタリが脱構築して打ち立てたものだ。そしてこの読み方、ニーチェ流にいえば「別様の仕方」で読めば、さらにこう展開することができる。

「国家を超えて《世界的に統合された》(というより統合していく)《資本主義》の、補完的でありながら支配的でもあるレベルでは、新しい平滑空間が産出され、そこでは、もはや人間という労働の要素ではなく機械状の構成要素にもとづく資本が『絶対』速度に達している。多国籍企業が産出しているのは、一種の脱領土化した平滑空間であり、そこでは交換の極として占められる点が古典的な条理化の軌道からまったく独立している。新しいもの、それはいつもローテーションの新しい形である。ますます加速された現在の資本流通の新しい形は、不変資本と可変資本との区別、さらには固定資本と流動資本の区別さえ、だんだんと相対的なものにしつつある。本質的なことは、むしろ《条理化された資本と平滑な資本》の区別であり、国家と領土、さらには異なったタイプの国家群をも通り抜けていく複合体を通して、前者が後者を産み出していく仕方である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.283」河出文庫)

最初に国家を作ったのは誰か。平滑化する遊牧民、移動民、非定住民が「戦争機械」として世界各地を流動していたことがそもそもの根本にある。たとえば中国史に登場する「匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、氐(てい)、羌(きょう)、柔然(じゅうぜん)」など北方騎馬民族による機動力とその戦闘的攻撃力の高さが先にあり、それら外部からの進入に対し生じてきた防御の必要性が秦の始皇帝に万里の長城建設のきっかけを与え、結果的に内部から自己中心主義的国家を発生させることになった。「五胡六国時代」と単純化されて呼ばれている時期に相当する。だから三国志とか水滸伝とかを何度読み返してみてもそういう事情は見えてこない。しかし歴史上始めて出現した騎馬民族としては黒海北部周辺に展開したスキュタイ族がその風習とともに有名。

「スキュタイ人は最初に倒した敵の血を飲む。また戦闘で殺した敵兵は、ことごとくその首級を王の許へ持参する。首級を持参すれば鹵獲物(ろかくぶつ)の分配に与ることができるが、さもなくば分配に与れぬからである。スキュタイ人は首級の皮を次のようにして剥ぎとる。耳のあたりで丸く刃物を入れ、首級をつかんでゆすぶり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて皮から肉をそぎ落とし、手で揉んで柔軟にすると一種の手巾ができ上がる。それを自分の乗馬の馬勒にかけて誇るのである。この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇士と判定されるからである。またスキュタイ人の中には、剥いだ皮を羊飼の着る皮衣のように縫い合せ、自分の身につける上衣まで作るものも少なくない。さらにまた、敵の死体の右腕の皮を爪ごと剥いで、矢筒の被いを作るものも多い。人間の皮というものは実際厚くもあり艶もよく、ほとんど他のどの皮よりも白く光沢がある」(ヘロドトス「歴史・中・P.45〜46」岩波文庫)

彼らに共通する「遊牧性、移動性、非定住性」という特性において、「ボードレール、エドガー・ポー、ジェラール・ド・ネルヴァル、ニーチェ、キルケゴール、ヘルダーリン、コールリッジ」そして「ヴァン・ゴッホ」を語ることは十分に可能である。彼らの流動性は平滑化を促進するがその反動として成立した国家は条理化される。グローバル化した二〇二〇年の世界はというと、前者が後者を根拠とし同時に後者が前者を根拠とし、互いが互いのうちに自分の根拠を見出しつつ戦略をえがく世界同時依存という条件のもとで進行する資本主義が加速しているというべきなのだが、常に洗練させておかねばならない公理系を資本回転と同時に更新せず逆に放置しておいたため、資本主義的生産様式はあちこちで停滞することになった。しかし資本主義に責任があるのではない。資本主義は責任など始めから知らないし今後も知らない。問題は、資本主義を選択して強引に押し進めたにもかかわらず、整流器としての公理系の整理整頓という肝心の作業について、実施すべきことを実施せず怠慢していた政財官界の指導者層に集約されるべきが妥当だろうと考える。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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延長される民主主義10

2020年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホ、ニーチェ、アルトーという名はただ単なる名前であるというだけではない。そうではなく、社会的な或る重大な《問題の場としての身体》として、社会的な或る重大な《問題の場としての身体》であることを自ら引き受けた人々の名なのだ。

「精神病者とは、同じく社会が耳を貸そうとしなかった人間、そして耐え難い真実を表明するのを社会が妨げようとしたひとりの人間でもある」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)

ゴッホは何か暴力を振るっただろうか。振るってなどいない。事情は逆であって、社会の側が、社会規範の名において、ゴッホの精神に暴力を振い続けてきたのである。この種の社会的暴力というのはたいへん目に見えにくいものであり、そのぶんより一層狡猾に立ち働く。ゴッホは一旦精神病院に入院するが、入退院を繰り返すに等しい生活環境に置かれる。監禁されても絵画を描くことは自由だ。ところがゴッホは《絵画において》ゴッホ自身を実現しようとする。絵画は社会規範を知らない。しかし社会規範の側はゴッホの絵画でなくゴッホという人間に問題があるに違いないと勘違いしている。勘違いが完了するやいなや「叩きつぶすつもりなのである」。

「この場合、監禁は社会の唯一の武器ではないし、合議による人間たちの集まりは、諸々の意志に打ち勝つための他の手段をもっていて、それはこれらの意志を叩きつぶすつもりなのである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)

絵画はゴッホの作品であって絵画を刑罰に処することはできない。犯罪を裁くのではなく犯罪者を裁く司法の論理と同じことが延々と繰り返されるばかりだ。絵画というものは見えるなのだが見えるものとして出現すると同時に問題は発生する。特に混み入った事情があるわけではない。

「《ἐσθλός》(エストロス)という語は語根から言えば、《存在する者》、実在性をもつ者、現実的な者、真実な者を意味する。やがて主観的転意によって、『真実な者』は『誠実な者』を意味するようになる。概念変化のこの位相において、この語は貴族の合言葉となり、『高貴な』という意味にすっかり移行し、テヘオグニスが取り上げて描いているような《嘘つき》で卑俗な者からの区別を示すためのものとなる。ーーーそれで結局この語は、貴族の没落以後は、単に精神的な《高貴性》(ノブレス)を表示するものとして残り、いわば熟して甘くなってしまった。ーーー《δειλός》(デイロス=臆病な)という語は《ἀγαθός》(アガトス=よい、優れた)に対立する平民を指す」(ニーチェ「道徳の系譜・P.27」岩波文庫)

今や古代ギリシア時代の貴族はどこをどう探してみても見あたらない。資本主義によって絶滅させられてしまった。資本主義特有の顕著な傾向として邪魔なものは容赦なく消していくという運動の反復がある。邪魔なものを消していこうとするわけだが、邪魔なものは差し当たり目に見えない。だから邪魔なものではなく邪魔者を消していく。と同時に目に見えない次元で作用している社会的文法を書き換える。

「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・P.95」岩波文庫)

では絵画の場合、ゴッホは自殺したにもかかわらず、今なお誰が語っているのか。あるいは何が。

「ニーチェにとって問題は、善と悪がそれじたい何であるかではなく、自身を指示するため《アガトス》、他者を指示するため《デイロス》と言うとき、だれが指示されているか、というよりはむしろ、《だれが語っているのか》、知ることであった。なぜなら、言語(ランガージュ)全体が集合するのは、まさしくそこ、言説(ディスクール)を《する》者、より深い意味において、言葉(パロール)を《保持する》者のなかにおいてだからだ。だれが語るのか?というこのニーチェの問いにたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのものーーー語の意味ではなく、その謎めいた心もとない存在だ、と述べることによって答え、みずからの答えを繰り返すことを止めようとはしない。ーーーマラルメは、言説(ディスクール)がそれ自体で綴られていくような<書物>の純粋な儀式のなかに、執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、おのれ固有の言語(ランガージュ)から自分自身をたえず抹殺しつづけたのである」(フーコー「言葉と物・P.324~325」新潮社)

フーコーの著作は膨大な量にのぼる。とはいえ、ニーチェの数行からヒントを得ることで始めて可能になった発見だったといえる。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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延長される民主主義9

2020年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
アルトーは自分自身を含めて次のように語る。

「本物の精神病者とは何なのか?それは人間の名誉というある種の卓越した観念に悖(もと)る行いをするよりは、むしろ人が社会的に理解する意味において狂人になることを選んだ人間である」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)

その通りに受け止めるとすれば、ゴッホ、ニーチェ、アルトーという系列が出現するだろう。彼らはある時は絵画、ある時は言語、ある時は身振り仕ぐさとしての身体を用いて、何を言っているのだろうか。

「かくして社会は、精神病院のなかで、社会が厄介払いするつもりだった、あるいはそれから社会が身を守ろうとしたすべての人々を圧殺させたのである、まるでこれらの人々が社会と重大な何らかの卑劣な行いの共犯関係になることを拒んだとでもいうように」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)

要するに、「社会が厄介払いするつもりだった」もの、「それから社会が身を守ろうとしたすべての」身振り仕ぐさを露出させたのが、ゴッホ、ニーチェ、アルトーといった人々だった。それらは社会の側からすれば途方もない邪魔者に見えて仕方がない。とりわけ国家-社会という機構にすればそうだ。永久に息の根を止める必要性を感じ取った。ゴッホについてアルトーが述べているように「社会の順応主義」が問題とされているような絵画の場合は特に。

「というのも、ヴァン・ゴッホの絵画が攻撃するのは、何らかの風俗習慣の順応主義ではなく、まさに体制の順応主義そのものだからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)

アルトーの言葉では「体制の順応主義」になるのだが、現代社会、特に現在の日本が置かれている状況下でいえば、差し当たり「同調圧力」と述べるのが妥当する。さらに「同調圧力」は、ただ単に習慣化されているというだけでは社会的な規模で発生することはない。では何が条件となってこの「同調圧力」は社会的規模あるいは世界的規模で同時発生することができるのか。十九世紀すでにその条件は出揃っていた。

「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にする」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫)

そしてこの条件は二〇二〇年という時期から振り返ってみると、とっくの昔から何度も繰り返し成し遂げられてきた事情であると十分にいうことができる。だから経済について語るとき、次のことがいつも頭の中に表象されていなくては何一つ語ることはできない。

「研究の対象をその純粋性において撹乱的な付随事にわずらわされることなく捉えるためには、われわれはここでは全商業世界を一国とみなさなければならない」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.133」国民文庫)

さらにパンデミックという超越論的なウイルスの加速的急増傾向について。ニーチェが述べていた通りのことが資本主義的生産様式を通じて生じたといえる。

「一切の君の諸力を発達させよーーーしかしこれは、無政府状態を発達させよ!破滅せよ!ということだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四〇二・P.234」ちくま学芸文庫)

ところが新型ウイルスではなく新型ウイルス報道についても同じことがいえるのであって、報道は言語を用いてでしか行われないかぎり、不可避的に別の多様な事情を一斉に覆い隠す効果を発揮する。

「《言葉がわれわれの妨害になる!》ーーー大昔の人々がある言葉を提出する場合はいつでも、彼らはある発見をしたと信じていた。実際はどんなに違っていたことだろう!ーーー彼らはある問題に触れていた。しかしそれを《解決》してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。ーーー現在われわれはどんな認識においても、石のように硬い不滅の言葉につまずかざるをえない。そしてその際言葉を破るよりもむしろ脚を折るであろう」(ニーチェ「曙光・四七・P.64」ちくま学芸文庫)

こうして新型ウイルスの感染性の冪(べき)乗的広域化の加速的冪(べき)乗性は全世界で言語と貨幣の機能の同等性を日々証明しつつある。言語も貨幣もどちらも同様に、一方で多少の事実を可視化するが、他方で無数の諸事情を覆い隠す。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

というふうに。また、SARSやMARSからしばらく時間の経過があったわけだが、その間に何があったのか。事後的にではあるが確実にわかることがある。事後的にしかわからないものは事後的にしかわからないとしか言えないけれども、しかし言語/貨幣の見た目ではなくその価値はいつも後になって実現されるという事情の確実さを裏打ちしている。剰余価値の実現はいつも貨幣との商品交換が行われるやいなや実現されるのと同じ条件下においてでしかないように。そして言語とか貨幣とかの形態を取って意識にのぼってくるものはいつも次の条件に拘束されている。拘束されてはいるが、けれども意識化されると同時に次の事情だけは間違いなく晒し上げるのである。

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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