香港民主化運動の特徴は幾つかに分けて考えることができる。観察できる限り、その中でコーヒーの意味が次々と変化していることに気づく。
「フランスの現代社会においては、《食べ物がたえず状況に変換される傾向をもつ》、と言えよう。コーヒーの広告の神話以上によく、この動きを例証するものはない。コーヒーは、数世紀のあいだ、神経興奮剤と見なされてきた(ご記憶のように、ミシュレはフランス大革命をコーヒーの産物であるとした)。ところで今日は、広告は、この能力をとくに否定はしないが、逆説的にもコーヒーを、休憩、休息、さらにはくつろぎ、といったイメージに次第に連合させるようになっている。それはなぜか?それはコーヒーが、実質として感じとられるよりも、その使用状況として感じとられているからである。それは労働を中断する公認の機会であって、この休止が元気回復の明確な儀礼に当てられるのである。ところで、食品からその慣用へのこうした移転が真に一般的なものとなれば、食べ物の意味作用の能力はそれだけ増すと考えることができる。要するに、食べ物は実質性を失い、機能性を増していく。この〔表意〕機能は一般的なものとなり、(ビジネスランチのように)活動を、(コーヒーのように)休息を表わすようになるだろう。しかし、労働と息抜きの対立の厳密さそのものが、食べ物の伝統的な祝祭的機能を徐々に消滅させていく可能性がある。社会は食品摂取の表意体系を二つの大きな極のまわりに組織するようになるだろう。一つは(もはや労働ではなく)活動、他は(もはや祝祭ではなく)余暇である。必要とあればこのことからも十分に証明されるように、食べ物はあくまでも、特定の型の文明に有機的に組みこまれた一個の有機的体系なのである」(バルト「現代における食品摂取の社会心理学のために」『物語の構造分析・P.122~123』みすず書房)
とすれば今の香港民主化運動の中でコーヒーは何を意味しているといえるだろうか。労働ではない。余暇でもない。祝祭でもない。休息でもない。くつろぎでもない。活動一般でもない。むしろ一七八九年のフランス革命のように「興奮剤」を意味しているように見える。東アジアの中で香港だけが二〇〇年以上も前の時代に戻っているのだろうか。いったん定着したイメージはなかなか変わることがない。けれども資本主義のグローバル化と並行して記号化された食品は、その記号としての機能性をどこまでも変化させていくことを学び知ったかのようにおもわれる。記号はシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とに分割可能である。コーヒーなら、ただ単に飲料としてのみ存在するわけではなく、祝祭を意味し、興奮剤を意味し、労働を意味し、疲労回復を意味していた過去を持っていたが、後に休憩を、休息を、くつろぎを、余暇を、現わすようになった。しかし本当にそうか。資本主義は食品を記号化すると同時にその意味をばらばらに解体して再編-再々編しやすいように意味の脱中心化を押し進め、いつでも必要な時に必要な場所でどのような組み合わせ〔合体/合成〕も可能な方向へと解放したのではなかったろうか。
たとえば香港民主化運動で、デモの始まる前に一杯のコーヒーを飲み干して元気をつける学生はいないだろうか。他方、デモの大規模化阻止のために一杯のコーヒーを飲み干して元気をつける機動隊員はいないだろうか。そのような場ではすでにステレオタイプ化して久しい「コーヒー=余暇」という位置付けが失われてしまっている。逆に「コーヒー=興奮剤」の時代へ逆戻りしている。そして現地の様子をテレビでじっくり眺めている人々は「コーヒー=情報収集のための時間」として受け取っている。資本主義はそんなふうにして意味の一元的固定化を避け、廻り道を勧め、むしろより多くの意味を世界中に送り届け、そこからさらなる剰余を生み出すことを心得ている。資本主義はありとあらゆるものの解体と組み合わせ〔合体/合成/結合/合一〕、そしてそれらの自動化-機械装置化とをあちこちで並走させる。
まず一方で次のようにふるまっている。
「いずれのケースでも、内部と外部の通俗的な区別は消失しているし、同じく目に見える無秩序に対立させられていた現象の『内的な』絆も消失している。われわれの目の前にあるのは、現象的な主観性と本質的な内面性の経験主義的二律背反から決定的に解放された別のイメージ、新しい準概念である。それは《組立》と《機械装置》の法則によって、この概念の明確化によって最も具体的な諸規定に即して規制されるひとつのシステムである」(アルチュセール「資本論を読む・中・P.264」ちくま学芸文庫)
「いずれのケースでも」とあるけれども「いずれのケース」とは一体どのようなケースをいうのか。以下参照。
「機械の体系は、織布におけるように同種の作業機の単なる協業にもとづくものであろうと、紡績におけるように異種の作業機の組み合わせにもとづくものであろうと、それが一つの自動的な原動機によって運転されるようになれば、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫)
「作業機が、原料の加工に必要なすべての運動を人間の助力なしで行なうようになり、ただ人間の付き添いを必要とするだけになるとき、そこに機械の自動体系が現われる。といっても、細部では絶えず改良を求める余地のあるものではあるが。たとえば、たった一本の糸が切れても紡績機をひとりでに止める装置や、梭(ひ)の糸巻きの横糸がなくなればすぐに改良蒸気織機を止めてしまう自動停止器は、まったく近代的な発明である」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫)
「労働の社会的生産力の発展は大規模な協業を前提し、ただこの前提のもとでのみ労働の分割と結合とを組織することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生みだすことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化させることができる」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・二十三章・P.207」国民文庫)
「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(てこ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。
集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。
しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。
集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(てこ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。
正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。
要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210~214」国民文庫)
「諸商品(Pm)は、GーPmという行為がすめば、商品ではなくなって、生産資本Pとしての機能形態にある産業資本の存在様式の一つになる。しかし、それと同時に商品の素性は消えてしまっている。諸商品は、ただ産業資本の存在形態として存在するだけで、産業資本に合体されている」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.186」国民文庫
「全生産物がここでは機械という同じ形態で存在する(もし彼がいくつもの種類を生産するとすれば、各種類が別々に計算される)。全商品生産物は、一年間に機械製造に支出された労働の生産物であり、同じ種類の具体的労働と同じ生産手段との結合物である」(マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二〇章・P.286」国民文庫)
「自然発生的な運動のすべてのこれらのいろいろに違う契機がただ経験によって人の注目するところになりさえすれば、信用制度の機械的な補助手段にも、現にある貸付可能な資本の現実の釣り出しにも、計画的にきっかけが与えられるようになる」(マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二〇章・P.364」国民文庫)
「それは資本として支出されるのである。自分自身にたいする関係、ーーー資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば資本はこういう関係として現われるのであり、またこの関係のなかでは資本は貨幣を生む貨幣として現われるのであるが、このような関係がここでは媒介的中間運動なしに単に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体される」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.56」国民文庫)
「労賃に投ぜられた資本の現実の素材は労働そのものであり、活動している、価値を創造する労働力であり、生きている労働であって、これを資本家は死んでいる対象化された労働と交換して自分の資本に合体した」(マルクス「資本論・第二部・第二篇・第十一章・P.359」国民文庫)
「より高度な経済的社会構成体」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十六章・P.268」国民文庫)
「資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第五十一章・P.436」国民文庫)
だが他方、次のようにもふるまう。前に取り上げた。日本の女性ファッション雑誌での出来事。特定政治政党による誌面の政治的操作について。
「書かれた衣服の構造はすべて、あるひとつのものへ向かって上昇するような形をとっている、といっていいーーー。問題は個々にかけ離れていることの多いさまざまの要素の錯綜を通じ、ただひとつの対象へ向かって意味を収斂(しゅうれん)させることにある」(バルト「モードの体系・P.111」みすず書房)
しかしそのように振る舞いあるいは振る舞わされるのに甘んじることで、ますます資本主義国家や自称-社会主義国家による警察国家的支配体制を拡大強化していく方向性を暗黙のうちに容認しているのはほかでもない、この地球上に生きて暮らしている人間自身である。そしてこの「認識」の「確かさ」は人間を精神的自己破壊へと追い込んでしまう。
「世の人々はハムレットの言うことが《わかっている》のだろうか?人を気違いにするのは、疑いではなくて、《確かさ》なのだ」(ニーチェ「この人を見よ」『この人を見よ/自伝集・P.58』ちまく学芸文庫)
疑いようのない「認識」の「確かな手応え」は、それが急進的な精神的自己破壊を伴わない場合、人間を途方もないニヒリズムへ叩き込むことになる。そしてこの種のニヒリズムは世界の至るところでどのような人々がどのような苦痛に打ちひしがれていたとしても、それを知っていながらもなお、ただ単なるシニカルな(冷笑主義的な)態度を取るようになる。そして「無関係」の旗を掲げつつ自己欺瞞を正当化する倒錯的態度をさらに加速させていくばかりなのだ。
BGM
「フランスの現代社会においては、《食べ物がたえず状況に変換される傾向をもつ》、と言えよう。コーヒーの広告の神話以上によく、この動きを例証するものはない。コーヒーは、数世紀のあいだ、神経興奮剤と見なされてきた(ご記憶のように、ミシュレはフランス大革命をコーヒーの産物であるとした)。ところで今日は、広告は、この能力をとくに否定はしないが、逆説的にもコーヒーを、休憩、休息、さらにはくつろぎ、といったイメージに次第に連合させるようになっている。それはなぜか?それはコーヒーが、実質として感じとられるよりも、その使用状況として感じとられているからである。それは労働を中断する公認の機会であって、この休止が元気回復の明確な儀礼に当てられるのである。ところで、食品からその慣用へのこうした移転が真に一般的なものとなれば、食べ物の意味作用の能力はそれだけ増すと考えることができる。要するに、食べ物は実質性を失い、機能性を増していく。この〔表意〕機能は一般的なものとなり、(ビジネスランチのように)活動を、(コーヒーのように)休息を表わすようになるだろう。しかし、労働と息抜きの対立の厳密さそのものが、食べ物の伝統的な祝祭的機能を徐々に消滅させていく可能性がある。社会は食品摂取の表意体系を二つの大きな極のまわりに組織するようになるだろう。一つは(もはや労働ではなく)活動、他は(もはや祝祭ではなく)余暇である。必要とあればこのことからも十分に証明されるように、食べ物はあくまでも、特定の型の文明に有機的に組みこまれた一個の有機的体系なのである」(バルト「現代における食品摂取の社会心理学のために」『物語の構造分析・P.122~123』みすず書房)
とすれば今の香港民主化運動の中でコーヒーは何を意味しているといえるだろうか。労働ではない。余暇でもない。祝祭でもない。休息でもない。くつろぎでもない。活動一般でもない。むしろ一七八九年のフランス革命のように「興奮剤」を意味しているように見える。東アジアの中で香港だけが二〇〇年以上も前の時代に戻っているのだろうか。いったん定着したイメージはなかなか変わることがない。けれども資本主義のグローバル化と並行して記号化された食品は、その記号としての機能性をどこまでも変化させていくことを学び知ったかのようにおもわれる。記号はシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とに分割可能である。コーヒーなら、ただ単に飲料としてのみ存在するわけではなく、祝祭を意味し、興奮剤を意味し、労働を意味し、疲労回復を意味していた過去を持っていたが、後に休憩を、休息を、くつろぎを、余暇を、現わすようになった。しかし本当にそうか。資本主義は食品を記号化すると同時にその意味をばらばらに解体して再編-再々編しやすいように意味の脱中心化を押し進め、いつでも必要な時に必要な場所でどのような組み合わせ〔合体/合成〕も可能な方向へと解放したのではなかったろうか。
たとえば香港民主化運動で、デモの始まる前に一杯のコーヒーを飲み干して元気をつける学生はいないだろうか。他方、デモの大規模化阻止のために一杯のコーヒーを飲み干して元気をつける機動隊員はいないだろうか。そのような場ではすでにステレオタイプ化して久しい「コーヒー=余暇」という位置付けが失われてしまっている。逆に「コーヒー=興奮剤」の時代へ逆戻りしている。そして現地の様子をテレビでじっくり眺めている人々は「コーヒー=情報収集のための時間」として受け取っている。資本主義はそんなふうにして意味の一元的固定化を避け、廻り道を勧め、むしろより多くの意味を世界中に送り届け、そこからさらなる剰余を生み出すことを心得ている。資本主義はありとあらゆるものの解体と組み合わせ〔合体/合成/結合/合一〕、そしてそれらの自動化-機械装置化とをあちこちで並走させる。
まず一方で次のようにふるまっている。
「いずれのケースでも、内部と外部の通俗的な区別は消失しているし、同じく目に見える無秩序に対立させられていた現象の『内的な』絆も消失している。われわれの目の前にあるのは、現象的な主観性と本質的な内面性の経験主義的二律背反から決定的に解放された別のイメージ、新しい準概念である。それは《組立》と《機械装置》の法則によって、この概念の明確化によって最も具体的な諸規定に即して規制されるひとつのシステムである」(アルチュセール「資本論を読む・中・P.264」ちくま学芸文庫)
「いずれのケースでも」とあるけれども「いずれのケース」とは一体どのようなケースをいうのか。以下参照。
「機械の体系は、織布におけるように同種の作業機の単なる協業にもとづくものであろうと、紡績におけるように異種の作業機の組み合わせにもとづくものであろうと、それが一つの自動的な原動機によって運転されるようになれば、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫)
「作業機が、原料の加工に必要なすべての運動を人間の助力なしで行なうようになり、ただ人間の付き添いを必要とするだけになるとき、そこに機械の自動体系が現われる。といっても、細部では絶えず改良を求める余地のあるものではあるが。たとえば、たった一本の糸が切れても紡績機をひとりでに止める装置や、梭(ひ)の糸巻きの横糸がなくなればすぐに改良蒸気織機を止めてしまう自動停止器は、まったく近代的な発明である」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫)
「労働の社会的生産力の発展は大規模な協業を前提し、ただこの前提のもとでのみ労働の分割と結合とを組織することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生みだすことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化させることができる」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・二十三章・P.207」国民文庫)
「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(てこ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。
集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。
しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。
集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(てこ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。
正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。
要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210~214」国民文庫)
「諸商品(Pm)は、GーPmという行為がすめば、商品ではなくなって、生産資本Pとしての機能形態にある産業資本の存在様式の一つになる。しかし、それと同時に商品の素性は消えてしまっている。諸商品は、ただ産業資本の存在形態として存在するだけで、産業資本に合体されている」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.186」国民文庫
「全生産物がここでは機械という同じ形態で存在する(もし彼がいくつもの種類を生産するとすれば、各種類が別々に計算される)。全商品生産物は、一年間に機械製造に支出された労働の生産物であり、同じ種類の具体的労働と同じ生産手段との結合物である」(マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二〇章・P.286」国民文庫)
「自然発生的な運動のすべてのこれらのいろいろに違う契機がただ経験によって人の注目するところになりさえすれば、信用制度の機械的な補助手段にも、現にある貸付可能な資本の現実の釣り出しにも、計画的にきっかけが与えられるようになる」(マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二〇章・P.364」国民文庫)
「それは資本として支出されるのである。自分自身にたいする関係、ーーー資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば資本はこういう関係として現われるのであり、またこの関係のなかでは資本は貨幣を生む貨幣として現われるのであるが、このような関係がここでは媒介的中間運動なしに単に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体される」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.56」国民文庫)
「労賃に投ぜられた資本の現実の素材は労働そのものであり、活動している、価値を創造する労働力であり、生きている労働であって、これを資本家は死んでいる対象化された労働と交換して自分の資本に合体した」(マルクス「資本論・第二部・第二篇・第十一章・P.359」国民文庫)
「より高度な経済的社会構成体」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十六章・P.268」国民文庫)
「資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第五十一章・P.436」国民文庫)
だが他方、次のようにもふるまう。前に取り上げた。日本の女性ファッション雑誌での出来事。特定政治政党による誌面の政治的操作について。
「書かれた衣服の構造はすべて、あるひとつのものへ向かって上昇するような形をとっている、といっていいーーー。問題は個々にかけ離れていることの多いさまざまの要素の錯綜を通じ、ただひとつの対象へ向かって意味を収斂(しゅうれん)させることにある」(バルト「モードの体系・P.111」みすず書房)
しかしそのように振る舞いあるいは振る舞わされるのに甘んじることで、ますます資本主義国家や自称-社会主義国家による警察国家的支配体制を拡大強化していく方向性を暗黙のうちに容認しているのはほかでもない、この地球上に生きて暮らしている人間自身である。そしてこの「認識」の「確かさ」は人間を精神的自己破壊へと追い込んでしまう。
「世の人々はハムレットの言うことが《わかっている》のだろうか?人を気違いにするのは、疑いではなくて、《確かさ》なのだ」(ニーチェ「この人を見よ」『この人を見よ/自伝集・P.58』ちまく学芸文庫)
疑いようのない「認識」の「確かな手応え」は、それが急進的な精神的自己破壊を伴わない場合、人間を途方もないニヒリズムへ叩き込むことになる。そしてこの種のニヒリズムは世界の至るところでどのような人々がどのような苦痛に打ちひしがれていたとしても、それを知っていながらもなお、ただ単なるシニカルな(冷笑主義的な)態度を取るようになる。そして「無関係」の旗を掲げつつ自己欺瞞を正当化する倒錯的態度をさらに加速させていくばかりなのだ。
BGM