白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

香港民主化運動とコーヒーの意味論

2019年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム
香港民主化運動の特徴は幾つかに分けて考えることができる。観察できる限り、その中でコーヒーの意味が次々と変化していることに気づく。

「フランスの現代社会においては、《食べ物がたえず状況に変換される傾向をもつ》、と言えよう。コーヒーの広告の神話以上によく、この動きを例証するものはない。コーヒーは、数世紀のあいだ、神経興奮剤と見なされてきた(ご記憶のように、ミシュレはフランス大革命をコーヒーの産物であるとした)。ところで今日は、広告は、この能力をとくに否定はしないが、逆説的にもコーヒーを、休憩、休息、さらにはくつろぎ、といったイメージに次第に連合させるようになっている。それはなぜか?それはコーヒーが、実質として感じとられるよりも、その使用状況として感じとられているからである。それは労働を中断する公認の機会であって、この休止が元気回復の明確な儀礼に当てられるのである。ところで、食品からその慣用へのこうした移転が真に一般的なものとなれば、食べ物の意味作用の能力はそれだけ増すと考えることができる。要するに、食べ物は実質性を失い、機能性を増していく。この〔表意〕機能は一般的なものとなり、(ビジネスランチのように)活動を、(コーヒーのように)休息を表わすようになるだろう。しかし、労働と息抜きの対立の厳密さそのものが、食べ物の伝統的な祝祭的機能を徐々に消滅させていく可能性がある。社会は食品摂取の表意体系を二つの大きな極のまわりに組織するようになるだろう。一つは(もはや労働ではなく)活動、他は(もはや祝祭ではなく)余暇である。必要とあればこのことからも十分に証明されるように、食べ物はあくまでも、特定の型の文明に有機的に組みこまれた一個の有機的体系なのである」(バルト「現代における食品摂取の社会心理学のために」『物語の構造分析・P.122~123』みすず書房)

とすれば今の香港民主化運動の中でコーヒーは何を意味しているといえるだろうか。労働ではない。余暇でもない。祝祭でもない。休息でもない。くつろぎでもない。活動一般でもない。むしろ一七八九年のフランス革命のように「興奮剤」を意味しているように見える。東アジアの中で香港だけが二〇〇年以上も前の時代に戻っているのだろうか。いったん定着したイメージはなかなか変わることがない。けれども資本主義のグローバル化と並行して記号化された食品は、その記号としての機能性をどこまでも変化させていくことを学び知ったかのようにおもわれる。記号はシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とに分割可能である。コーヒーなら、ただ単に飲料としてのみ存在するわけではなく、祝祭を意味し、興奮剤を意味し、労働を意味し、疲労回復を意味していた過去を持っていたが、後に休憩を、休息を、くつろぎを、余暇を、現わすようになった。しかし本当にそうか。資本主義は食品を記号化すると同時にその意味をばらばらに解体して再編-再々編しやすいように意味の脱中心化を押し進め、いつでも必要な時に必要な場所でどのような組み合わせ〔合体/合成〕も可能な方向へと解放したのではなかったろうか。

たとえば香港民主化運動で、デモの始まる前に一杯のコーヒーを飲み干して元気をつける学生はいないだろうか。他方、デモの大規模化阻止のために一杯のコーヒーを飲み干して元気をつける機動隊員はいないだろうか。そのような場ではすでにステレオタイプ化して久しい「コーヒー=余暇」という位置付けが失われてしまっている。逆に「コーヒー=興奮剤」の時代へ逆戻りしている。そして現地の様子をテレビでじっくり眺めている人々は「コーヒー=情報収集のための時間」として受け取っている。資本主義はそんなふうにして意味の一元的固定化を避け、廻り道を勧め、むしろより多くの意味を世界中に送り届け、そこからさらなる剰余を生み出すことを心得ている。資本主義はありとあらゆるものの解体と組み合わせ〔合体/合成/結合/合一〕、そしてそれらの自動化-機械装置化とをあちこちで並走させる。

まず一方で次のようにふるまっている。

「いずれのケースでも、内部と外部の通俗的な区別は消失しているし、同じく目に見える無秩序に対立させられていた現象の『内的な』絆も消失している。われわれの目の前にあるのは、現象的な主観性と本質的な内面性の経験主義的二律背反から決定的に解放された別のイメージ、新しい準概念である。それは《組立》と《機械装置》の法則によって、この概念の明確化によって最も具体的な諸規定に即して規制されるひとつのシステムである」(アルチュセール「資本論を読む・中・P.264」ちくま学芸文庫)

「いずれのケースでも」とあるけれども「いずれのケース」とは一体どのようなケースをいうのか。以下参照。

「機械の体系は、織布におけるように同種の作業機の単なる協業にもとづくものであろうと、紡績におけるように異種の作業機の組み合わせにもとづくものであろうと、それが一つの自動的な原動機によって運転されるようになれば、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫)

「作業機が、原料の加工に必要なすべての運動を人間の助力なしで行なうようになり、ただ人間の付き添いを必要とするだけになるとき、そこに機械の自動体系が現われる。といっても、細部では絶えず改良を求める余地のあるものではあるが。たとえば、たった一本の糸が切れても紡績機をひとりでに止める装置や、梭(ひ)の糸巻きの横糸がなくなればすぐに改良蒸気織機を止めてしまう自動停止器は、まったく近代的な発明である」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫)

「労働の社会的生産力の発展は大規模な協業を前提し、ただこの前提のもとでのみ労働の分割と結合とを組織することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生みだすことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化させることができる」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・二十三章・P.207」国民文庫)

「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(てこ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。

しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。

集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(てこ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210~214」国民文庫)

「諸商品(Pm)は、GーPmという行為がすめば、商品ではなくなって、生産資本Pとしての機能形態にある産業資本の存在様式の一つになる。しかし、それと同時に商品の素性は消えてしまっている。諸商品は、ただ産業資本の存在形態として存在するだけで、産業資本に合体されている」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.186」国民文庫

「全生産物がここでは機械という同じ形態で存在する(もし彼がいくつもの種類を生産するとすれば、各種類が別々に計算される)。全商品生産物は、一年間に機械製造に支出された労働の生産物であり、同じ種類の具体的労働と同じ生産手段との結合物である」(マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二〇章・P.286」国民文庫)

「自然発生的な運動のすべてのこれらのいろいろに違う契機がただ経験によって人の注目するところになりさえすれば、信用制度の機械的な補助手段にも、現にある貸付可能な資本の現実の釣り出しにも、計画的にきっかけが与えられるようになる」(マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二〇章・P.364」国民文庫)

「それは資本として支出されるのである。自分自身にたいする関係、ーーー資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば資本はこういう関係として現われるのであり、またこの関係のなかでは資本は貨幣を生む貨幣として現われるのであるが、このような関係がここでは媒介的中間運動なしに単に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体される」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.56」国民文庫)

「労賃に投ぜられた資本の現実の素材は労働そのものであり、活動している、価値を創造する労働力であり、生きている労働であって、これを資本家は死んでいる対象化された労働と交換して自分の資本に合体した」(マルクス「資本論・第二部・第二篇・第十一章・P.359」国民文庫)

「より高度な経済的社会構成体」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十六章・P.268」国民文庫)

「資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第五十一章・P.436」国民文庫)

だが他方、次のようにもふるまう。前に取り上げた。日本の女性ファッション雑誌での出来事。特定政治政党による誌面の政治的操作について。

「書かれた衣服の構造はすべて、あるひとつのものへ向かって上昇するような形をとっている、といっていいーーー。問題は個々にかけ離れていることの多いさまざまの要素の錯綜を通じ、ただひとつの対象へ向かって意味を収斂(しゅうれん)させることにある」(バルト「モードの体系・P.111」みすず書房)

しかしそのように振る舞いあるいは振る舞わされるのに甘んじることで、ますます資本主義国家や自称-社会主義国家による警察国家的支配体制を拡大強化していく方向性を暗黙のうちに容認しているのはほかでもない、この地球上に生きて暮らしている人間自身である。そしてこの「認識」の「確かさ」は人間を精神的自己破壊へと追い込んでしまう。

「世の人々はハムレットの言うことが《わかっている》のだろうか?人を気違いにするのは、疑いではなくて、《確かさ》なのだ」(ニーチェ「この人を見よ」『この人を見よ/自伝集・P.58』ちまく学芸文庫)

疑いようのない「認識」の「確かな手応え」は、それが急進的な精神的自己破壊を伴わない場合、人間を途方もないニヒリズムへ叩き込むことになる。そしてこの種のニヒリズムは世界の至るところでどのような人々がどのような苦痛に打ちひしがれていたとしても、それを知っていながらもなお、ただ単なるシニカルな(冷笑主義的な)態度を取るようになる。そして「無関係」の旗を掲げつつ自己欺瞞を正当化する倒錯的態度をさらに加速させていくばかりなのだ。

BGM

モード化する資本

2019年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
作者は死んだといいはするが、ところで読者は何をやっているのだろうか。まずは確認事項から。

「われわれは今や知っているが、テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば神学的な意味(つまり、『作者=神』の《メッセージ》ということになろう)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」(バルト「作者の死」『物語の構造分析・P.85~86』みすず書房)

物語の脱中心化は達成された。にもかかわらず読者は一体何をしているのだろうか、というより、読者とは一体何であり得るのか。それはその個々人が何をしているかに掛かっている、というのなら、読者はいまだ到来していないとしか言えない。

「一編のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディ化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。しかし、この宛て先は、もはや個人的なものではありえない。読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの《誰か》にすぎない。だからこそ、偽善的にも読者の権利の擁護者を自称するヒューマニズムの名において、新しいエクリチュールを断罪しようとすることは、ばかげているのだ。古典的批評は、読者のことなど決して気にかけはしなかった。古典的批評にとっては、書く人間以外の人間など、文学のなかに存在しないのだ。良き社会は、まさしくおのれが排斥し、無視し、圧殺し、破壊しているものの立場に立って、臆面もなく非難しかえしてくるが、われわれは今やこの種の反語法に欺かれなくなった。エクリチュールにその未来を返してやるためには、こうした神話を覆さなければならない、ということをわれわれは知っている。読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわれなければならない」(バルト「作者の死」『物語の構造分析・P.88~89』みすず書房)

読者はただ単なる一般性へと解消されたに過ぎない。一般化とともに皮相化し記号化し均質化し平均化し、そうなればなるほどますます粗雑化した。作者は死んだわけではけっしてない。むしろ仮面を付け替えた。実作者は資本によって押しのけられ、資本そのものへ置き換えられた。したがって、実在の作者はほとんど死体と化して疲弊しているけれども、作者の仮面を強奪した資本は、作者の死にとって代わって君臨し、なおのことかつてとは比較にならない権能を大いに振るっている。

ところでつい最近、問題になった事例がある。或る女性ファッション雑誌誌上で特定の政治政党が見開きのぺージを宣伝に利用したというのだが。基本的にモード雑誌には昔から変わらない特徴がある。それは特に写真を含むページにおいて三層に分けて区別できるという点だ。一枚の写真は想像の世界である。ラカン用語を借りれば想像界ということになる。しかし読者は写真に写り込んでいる現実の世界に触れることはできない。それは知りようがない。だから現実の現場は現実界として取り扱うことができる。ところが雑誌に掲載されているページには何かしらのキャッチコピーが付されている。ほとんど必ずキャッチコピーあるいはそれに類する多種多様な言語が装飾に用いられている。そしてその言語が写真に映されたファッションの意味を一元的に定義する。したがってその言語(キャッチコピー)は象徴界だということができる。

この三層構造を論拠として、女性ファッション雑誌誌上で展開された、特定の政治政党による見開きぺージの政治的構造を語ることができる。端的にいって、次のように語ることは十分に可能だ。

「書かれた衣服の構造はすべて、あるひとつのものへ向かって上昇するような形をとっている、といっていいーーー。問題は個々にかけ離れていることの多いさまざまの要素の錯綜を通じ、ただひとつの対象へ向かって意味を収斂(しゅうれん)させることにある」(バルト「モードの体系・P.111」みすず書房)

読者に向けて一枚の写真がどのような意味を受け取らせたにせよ、そこに付された言語はより一層強力な象徴界の言葉として機能する。「ただひとつの対象へ向かって意味を収斂(しゅうれん)させる」ことになる。とすれば読者はいまだ誕生していないというほかない。むしろ雑誌ページに書き付けられたキャッチコピーによる「ただひとつの」「意味」の「収斂(しゅうれん)」によって、読者はひとたまりもなく多様な読みの可能性を奪われてしまっている。逆に、作者にとって代わった資本が新しい「作者」として、大々的に表面化したスポンサーとして、絶対的な「神」として、「ただひとつの」「意味」を無条件的に押し付けるというスキャンダルが発生している。

このことはファッション雑誌という媒体の性質を考慮しなくてはならない。ファッション雑誌は内容をソフィスティケートさせて伝達する。なので、かえって読者の側にすれば、知らず知らずのうちに誌面が極めてイデオロギー的なものへと変容させられていることを忘れてしまう。ほとんど無意識のうちにマインドコントロールされているというわけだ。しかしこのようなイデオロギー性は一体どこから到来するのだろうか。アルチュセールはいう。

「私はここで問題になっているのはイデオロギー的《哲学》だと言う。それというのも、『認識の問題』のイデオロギー的定立こそが、西欧の観念論的哲学と一体になった伝統(デカルトからカントとヘーゲルを経てフッサールにいたるまでの伝統)を定義するからである。私がこのような認識の『定立』は《イデオロギー的》であると言うのは、この問題が『答え』から出発して、答えの正確な《反射》として定式化されているからである。すなわち、それは本当の問題としてではなく、自分が与えたいと思う《イデオロギー的な》解答がたしかにこの問題の解答であるかのように定立されなくてはならなかった問題として定式化されたのである。ーーーこの論点はイデオロギーの本質をイデオロギー的形式で定義し、イデオロギー的認識(とりわけ、イデオロギーが語る認識)を原理上は《再認》の現象に還元する。イデオロギーの理論的生産様式においては(この関連では科学の理論的生産様式とはまったく違って)、問題の定式化は、認識過程の外部ですでに生産されている《解答》ーーー外部でというのは、理論外的審級や要求(宗教的、道徳的、政治的その他の)によって押しつけられるのだからーーーが、理論的鏡としても実践的正当化にも役立つように作られた人為的問題のなかに《自己を再認できる》諸条件の理論的表現でしかないからだ。このように、『認識の問題』によって支配される近代西欧哲学のすべては事実上、この《鏡のなかの再認》から期待される理論的=実践的効果を可能にするように《生産された》(あるひとたちには自覚的に、あるひとたちには無自覚的にーーーしかしここではどちらでもかまわない)用語でもって、またそのように生産された理論的土台に基づいて提起される『問題』の定式化によって支配されている。西欧哲学の歴史のすべては『認識問題』によってではなく、この『問題』が受け取る《べき》イデオロギー的解答によって支配されていると言ってもいいくらいだ。ここでイデオロギー的だと言うのは、認識の現実に無縁な実践的、宗教的、道徳的、政治的な『利害感心』によってあらかじめ解答が押しつけられるからである。マルクスが『ドイツ・イデオロギー』のときからかなり深みのある言葉で言うように、『《答えのなかばかりでなく、問いそのもののなかにも、ごまかしがあった》』」(アルチュセール「資本論を読む・上・P.98~100」ちくま学芸文庫)

「ドイツ・イデオロギー」参照。

「回答の内にだけでなく、<むしろ>問いそのものの内に、すでにごまかしがあった」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.38」岩波文庫)

しかし人間はどのような過程を経て、始めは写真のような想像的なものから、徐々にキャッチコピーのような象徴的〔言語的〕なものを認識することができるようになるのだろうか。ラカン参照。

「この鏡像段階というのは、精神分析がこの用語にあたえる全き意味で《同一化のひとつとして》理解するだけで十分です。すなわち、主体が或る像〔を自分のものとして〕引き受ける時みずからに生ずる変形ということで、ーーーそれがこの時相の作用として予定されていることは、精神分析における《イマーゴ》という古い用語の慣用によって十分に示されています。

この、自由に動くこともできなければ、栄養も人に頼っているような、まだ《口のきけない》状態にある小さな子供が、自分の鏡像をこおどりしながらそれとして引き受けるということは、《わたし》というものが原初的な形態へと急転換していくあの象徴的母体を範例的な状況のなかで明らかにするようにみえるのですが、その後になって初めて《わたし》は他者との同一化の弁証法のなかで自分を客観化したり、言語活動が《わたし》にその主体的機能を普遍性のなかでとりもどさせたりします」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126』弘文堂)

「重要な点は、この形態が《自我》という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列のなかへ位置づけるということであり、ーーーあるいはむしろそれは、主体が《わたし》として自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126~127』弘文堂)

「じじつ、《イマーゴ》についていえば、そのヴェールに覆われた顔がわれわれの日常経験や象徴的有効性の半影のなかで輪郭をあらわすのを見てとるというのはわれわれの特権ですし、ーーー個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに《自己身体のイマーゴ》が幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現われる《分身》の出現に認めている以上、鏡像は可視的世界への戸口であるようにみえます」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.127』弘文堂)

「鏡像段階の明らかにする空間的な騙取のなかに、人間の自然的現実が有機体として不十分であることの結果を認めさせますーーー。

けれども自然とのこうした関係は人間では生体内部の或る種の裂開によって、つまり生まれてから数ヶ月の違和感の徴候と共働運動の不能があわらにする<原初的不調和>によって変化させられます。

《鏡像段階》はその内的進行が不十分さから先取りへと急転するドラマなのですがーーーこのドラマは空間的同一化の罠にとらえられた主体にとってはさまざまの幻像を道具立てに使い、これら幻像はばらばらに寸断された身体像から整形外科的とでも呼びたいその全体性の形態へとつぎつぎに現われ、ーーーそしてついに自己疎外する同一性という鎧をつけるにいたり、これは精神発達の全体に硬直した構造を押しつけることになります」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.128~129』弘文堂)

「表面上の意味とは、マラルメの一節を正当化するものであろう。彼は、言語活動の通常の用法を、表も裏も、もはや擦りへった表面しか持たぬものなのに、それを《黙って》手渡しし合っているような貨幣の交換にたとえている。この隠喩がわれわれに想い起こさせるのは、言葉は、それが極限まで擦りへらされても、その受け渡し札としての価値は保持しているということである」(ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領野」『エクリ1・P.343』弘文堂)

果たして読者は自分自身の読者性を取り戻しただろうか。実在の作者をただ単なる兼業者へ葬り去っただけのことで、実は読者は自分自身に与えられた読者性を取り戻したとは到底いえないのではないだろうか。もし取り戻すとすれば、それは、いつ、どのように、であろうか。また、誰が、という問いも残されてはいるのだが、それは次の機会に述べよう。

なお、三層構造について。浅田彰による次の理解を参照した。テキストはダンテ「新曲」。

「地獄・煉獄・天国のそれぞれは、大ざっぱに言って、ラカンのいうリアル/イマジナリー/シンボリック(現実界/想像界/象徴界)の三つの審級、より正確に言えばそのヘーゲル的な解釈に対応するような気がするんです。地獄というのは、リアルなものが露呈しており、物になった記号が散乱している世界である。煉獄まで行くと、そこはイマジナリーな世界で、いろいろ体験するうちに心の中でイメージが揺れ動く。天国まで行くと、シンボリックな超越的シニフィアンの世界、ラカンの言う『文字の審級』に到達する」(浅田彰/島田雅彦「天使が通る・P.32」新潮文庫)

BGM

老後二〇〇〇万円問題と《不意打ち》

2019年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ステレオタイプと「老後二〇〇〇万円問題」ならびに「過労死問題」について「不意打ち」という戦略から述べてみたい。

「コードは破壊できず、ただその《裏をかく》ことしかできない」(バルト「作者の死」『物語の構造分析・P.83』みすず書房)

それがいわゆる《不意打ち》という戦略だ。あらかじめ特定のコードに則って連続していくであろう意味の鎖列に抗し、予期された意味と意図とを裏切るあるいは頓挫させてしまうという実践的態度。そこに亀裂が走り、切断と沈黙とがもたらされる。ところがそうするためにはどうすればいいのか。ただ単に「NO!」というだけでは足りないのである。

何か違和感を覚えないだろうか。覚えたとしたら、その違和感はいつどこからどのように到来していたのか、知りたいとおもわないだろうか。人々はそれを知りたいとおもう。知ろうと意志する。認識しようとつとめる。たいていの場合、より深く認識するために専門書や言論書やインターネットの画面に向かうだろう。ところが多くの場合、そこに書かれていることは、後になって湧き出てくるであろう異論や反論をあらかじめ想定して封じ込めてしまうような書き方によって覆い隠されているに過ぎないものでしかない。どういうことか。

「見える場のなかの見えないものは、理論展開のなかで、この場によって定義される見えるものにとって外的で疎遠であれば《何でもいいもの》ではない。見えないものはつねに見えるものによって、《それの》見えないもの、《それの》見ることの禁止として定義される。だから見えないものは、空間的隠喩をもう一度使って言えば、見えるものの外部、排除の外的な暗闇ではなくて、見えるものによって定義されるがゆえに見えるもの自体に内在する《排除の内的な暗闇》なのである。言い換えると、地盤、地平、したがって所与の理論的な問いの構造によって定義される見える場の境界といった魅惑的な隠喩は、空間的隠喩を額面通りにとってこの場を《それの外部にあるもうひとつの空間によって》定義される場として考えるなら、この場の性質について思い違いをさせかねない。このもうひとつの空間なるものは、それを自分の否認として含む最初の空間のなかにある。このもうひとつの空間は、まるごと最初の空間なのであって、最初の空間は、それ自身の境界線に排除するものの否認によってのみ定義される。最初の空間には《内部の》境界しかないし、それはその外部を自己の内部にかかえていると言っていい。このように理論的場の逆説は、あえて空間的隠喩を使って言えば、《限定される》がゆえに《無限な》空間、すなわち、それをなにものかから分かつ《外的な》限界や境界をもたない空間であるという点にある。なぜかといえば、それは自分の内部で定義され限定され、自分でないものを排除することで自分の本来の存在を作り出す、定義の有限性を自分の内部にもっているからである」(アルチュセール「資本論を読む・上・P.45~46」ちくま学芸文庫)

アルチュセールはここで再認の構造について述べている。何か重要な概念について知りたいとおもい或る説明文に目を通すとき。その概念について、概念を説明する説明文の空間の外部や暗闇へ排除してしまうという露骨な方法によって行なわれる操作ではない。説明文の中で見ようとしているのになぜか《見えないもの》にされてしまっているのは、その概念が始めから説明文の内部にすっかり取り込まれており、さらに、そこに書かれている文章がほかでもない文章そのものであることによって《見えないもの》にされてしまっているという文章の構造に問題があるのだ。イデオロギー的次元を問題とするアルチュセールの文章については次の機会に述べよう。ここでは簡単な問題、「見える場のなかの見えないもの」について実例をあげて触れておきたい。

「古典派経済学は、日常生活からこれという批判もなしに『労働の価格』という範疇を借りてきて、それからあとで、どのようにしてこの価格が規定されるか?と問題にした。やがて古典派経済学は、需要供給の関係の変動は、労働の価格についても、他のすべての商品の価格についてと同様に、この価格の変動のほかには、すなわち市場価格が一定の大きさの上下に振動するということのほかには、なにも説明するものではないということを認めた。需要と供給とが一致すれば、ほかの事情が変わらないかぎり、価格の振動はなくなる。しかし、そのときは、需要供給もまたなにごとかを説明することをやめる。労働の価格は、需要と供給とが一致していれば、需要供給関係にはかかわりなく規定される労働の価格である。すなわち、労働の自然価格である。そして、これが本来分析されなければならない対象として見出されたのである。あるいはまた、市場価格のなかり長い変動期間、たとえば一年をとって見たとき、その上がり下がりが相殺されて一つの中位の平均量に、一つの不変量になるということが見いだされた。この不変量は、もちろん、それ自身から互いに相殺される諸偏差とは別に規定されなければならなかった。このような、労働の偶然的な市場価格を支配し規制する価格、労働の『必要価格』(重農学派)または『自然価格』(アダム・スミス)は、他の商品の場合と同じに、ただ、貨幣で表現された労働の価値でしかありえない。このようにして、経済学は、労働の偶然的な価格をつうじて労働の価値に到達しようと思った。他の諸商品の場合と同じに、この価値も次にはさらに生産費によって規定された。だが、生産費ーーー労働者の生産費、すなわち、労働者そのものを生産または再生産するための費用とはなにか?この問題は、経済学にとって、無意識のあいだに最初の問題にとって代わった。経済学は、労働そのものの生産費を問題にしていてはぐるぐる回りするだけで少しも前進しなかったからである。だから、経済学が労働の価値と呼ぶものは、実は労働力の価値なのであり、この労働力は、労働者の一身のなかに存在するものであって、それがその機能と別ものであることは、ちょうど機械とその作業とが別ものであるようなのものである。人々は、労働の市場価格といわゆる労働の価値との相違や、この価値の利潤率にたいする関係や、また労働によって生産される商品価値にたいする関係などにかかわっていたので、分析の進行が、労働の市場価格から労働の価値に達しただけではなく、この労働の価値そのものをさらに労働力の価値に帰着させるに至ったということを、ついに発見しなかったのである。このような自分自身の分析の成果を意識していなかったということ、『労働の価値』とか『労働の自然価格』とかいう範疇を問題の価値関係の最後の十全な表現として無批判に採用したということは、あとで見るように、古典派経済学を解決のできない混乱や矛盾に巻き込んだのであるが、それがまた俗流経済学には、原則としてただ外観だけに忠実なその浅薄さのための確実な作戦基地を提供したのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.58~60」国民文庫)

こうある。

「経済学が労働の価値と呼ぶものは、実は労働力の価値なのであり、この労働力は、労働者の一身のなかに存在するものであって、それがその機能と別ものであることは、ちょうど機械とその作業とが別ものであるようなのものである」

古典経済学でいう「労働の価値」という用語を何の批判的態度もなしに安易にそのまま受け取っていたのではけっして見抜くことができなかったに違いない。実をいうと「経済学が労働の価値と呼ぶものは、実は労働力の価値なの」だ。したがってアルチュセールが指摘するように、説明する文章そのものがあらかじめ固定観念(ドクサ)に囚われている限り、古典経済学はそこから一歩も進展することができずに同じところをぐるぐると強迫的に反復するほかなかったのである。そのような文章の中では「見える場のなかの見えないもの」は、いつまでも《見えないもの》として隠蔽されるほかないのだ。空間的に排除されるわけではない。空間的にはまさしくその同じ空間において書かれている。しかし書かれた文章は文字通り丸見えになって掲載されているにもかかわらず、あえて丸見えという形式を取ることで、「見える場のなかの見えないもの」という構造をあっけなく構築してしまうのである。「労働の価値」があるのではなく「労働《力》の価値」があるのだというマルクスの発見は、それまで「自明」とされてきた古典経済学とその俗流経済学者にとってまさしく《不意打ち》として機能することとなった。それは認識対象の「自明性」を揺るがす事件であったが、ただ単に認識対象に揺さぶりをかけることになっただけでなく、認識構造を成立せしめている文法的次元への決定的疑惑を呼び起こすことに繋がっていく。認識対象に対する疑惑という次元ではデリダが実践してみせたように言語そのものを疑うという態度として現われた。脱構築がそれである。しかしそれだけでもまだ足りないものがあった。デリダの脱構築は厳密になればなるほど言語は裏切るものだということを証明してみせた。けれども、「神」としての文法に対して最低限の依存性は確保されている。そうでなければテクストの複数性は実現できない。ところがドゥルーズ&ガタリでは個々の単語や語彙ではなく、文脈ですらなく、文法を文法たらしめている「be動詞」そのものに揺さぶりをかけることで、デリダによる脱構築をも無効化してしまう。そうしてようやく「神」として君臨してきた「文法に対する死の宣告」を実際化することができたし、「be動詞」に対する疑義申立てによって実際に「神としての文法」を解体したのだ。

「リゾームには始まりも終わりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ。樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、もっぱら同盟に属する。樹木は動詞『である』を押しつけるが、リゾームは接続詞『とーーーとーーーとーーー』を生地としている。この接続詞には動詞『である』をゆさぶり根こぎにする十分な力がある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.60」河出文庫)

G20によって隠されてしまった形の「老後二〇〇〇万円問題」と「過労死問題」とについて少し述べておこう。高度化したテクノロジーによって職場がなくなる分野では状況はすでに十九世紀の欧州に等しい。

「作業機が、原料の加工に必要なすべての運動を人間の助力なしで行なうようになり、ただ人間の付き添いを必要とするだけになるとき、そこに機械の自動体系が現われる。といっても、細部では絶えず改良を求める余地のあるものではあるが。たとえば、たった一本の糸が切れても紡績機をひとりでに止める装置や、梭(ひ)の糸巻きの横糸がなくなればすぐに改良蒸気織機を止めてしまう自動停止器は、まったく近代的な発明である」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫)

というわけだ。この形態にはAI技術の萌芽がすでに見られる。まだ十代から二〇代の若年層もうかうかしていることはできない。さらに、高度なテクノロジーを身に付けた比較的若年層に属する労働者にとっては、予断を許さないまま次のことがなおさら重みをもって当てはまってくる。

「技術学は、使用される用具はどんなに多様でも人体の生産的行動はすべて必ずそれによって行なわれるという少数の大きな基本的な運動形態を発見したのであるが、それは、ちょうど、機械がどんなに複雑でも、機械学がそれにだまされて簡単な機械的な力の不断の反復を見誤ったりはしないのと同じことである。近代工業は、一つの生産過程の現在の形態をけっして最終的なものとは見ないし、またそのようなものとしては取り扱わない。それだからこそ、近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである。機械や化学的行程やその他の方法によって、近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってまた、それは社会のなかでの分業をも絶えず変革し、大量の資本と労働者の大群とを一つの生産部門から他の生産部門へと絶えまなく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本性は、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的可動性を必然的にする。他面では、大工業は、その資本主義的形態において、古い分業をその骨化した分枝をつけたままで再生産する。われわれはすでに、どのようにこの絶対的矛盾が労働者の生活状態のいっさいの静穏と固定性と確実性をなくしてしまうか、そして彼の手から労働手段とともに絶えず生活手段をもたたき落とそうとし、彼の部分機能とともに彼自身をもよけいなものにしようとするか、を見た。また、どのようにこの矛盾が労働者階級の不断の犠牲と労働力の無際限な乱費と社会的無政府の荒廃とのなかであばれ回るか、を見た。これは消極面である。しかし、いまや労働の転換が、ただ圧倒的な自然法則としてのみ、また、至るところで障害にぶつかる自然法則の盲目的な破壊作用を伴ってのみ、実現されるとすれば、大工業は、いろいろな労働の転換、したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常な実現に諸関係を適合させることを、大工業の破局そのものをつうじて、生死の問題にする。大工業は、変転する資本の搾取欲求のために予備として保有され自由に利用されるみじめな労働者人口という奇怪事の代わりに、変転する労働要求のための人間の絶対的な利用可能性をもってくることを、すなわち、一つの社会的細部機能の担い手でしかない部分個人の代わりに、いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式としてかわるがわる行なうような全体的に発達した個人をもってくることを、一つの生死の問題にする」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.435~436」国民文庫)

要するに人間は実にますます器用に何でもこなす部分-機械としてしか、基本的人権に定められた文化的生活を送っていくことはできなくなるというほかない。また「老後資金二〇〇〇万円問題」について。それが国家から漏らされたという事実に注目しなければならない。

「国家とは、すべての冷ややかな怪物のうち、もっとも冷ややかなものである。それはまた冷ややかに虚言を吐く。

国家は善と悪とについてのあらゆることばを使って嘘(うそ)をつく。国家が何を語ろうと、それは嘘だ。ーーー国家が何をもっていようと、それは盗んできたものだ。

善い者たちも悪い者たちも、すべての者が毒を飲むところ、それをわたしは国家と呼ぶ。善い者たちも悪い者たちも、すべての者がおのれを失うところ、万人の緩慢な自殺がーーー『生』と呼ばれているところ、それが国家だ。

これらの余計な者どもを見るがいい。かれらは発明者の諸作品と賢者たちの数々の宝を盗んで、それをわがものとし、その窃盗(せっとう)を教養と名づけている。ーーーしかもそれらの一切が、かれらの病気となり、わざわいとなるのだ。

この余計な者どもを見るがいい。かれらは富を獲得し、そのためにますます貧しくなる。かれらは権力を欲する。そしてまず、権力の鉄梃(かなてこ)である多額の金銭を欲するーーーこの無能力者どもは。かれらがよじ登るさまを見るがいい。このすばやい猿どものありさまを。かれらは互いの頭を飛び越えてよじ登り、そうしながら互いに他を泥(どろ)と谷のなかへ引きずりこもうとする。

王座へ上ること、かれらのすべてがこれを欲する。かれらの狂気はーーーあたかも幸福が王座の上にあるかのように思いこんでいることだ。だが王座の上にあるものは、しばしばただ泥だけである。またしばしば王座が泥の上に乗っている。わたしから見れば、かれらはみな狂人であり、木登りする猿であり、熱にうかされた者である。かれらの偶像、この冷血の怪獣は悪臭を放つ。これらの偶像崇拝者も、ひとり残らず悪臭を放つ、わたしの嗅覚にとっては。

わたしの兄弟たちよ。君たちは、かれらの口と欲念の発する毒気のなかで、窒息したいのか。それよりはむしろ窓を打ち破って、大気へおどり出よ。

この悪臭のそとに出よ。無用の者たちの偶像崇拝から遠ざかれ。

この悪臭のそとに出よ。これらの人身御供(ひとみごくう)から立ちのぼる濛気(もうき)から遠ざかれ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・新しい偶像・P.77~78」中公文庫)

それを踏まえてドゥルーズ&ガタリはこう述べる。

「資本主義《国家》は、資本の公理系の中で捉えられる限り、こうしたものとして、脱コード化した種々の流れの調整者である」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302」河出書房新社)

資本主義は常に脱コード化しつつ、もう一方の手で、脱コード化していく欲望を公理系化する。資本主義という脱コード化の運動によって欲望の世界的増殖が実現すると同時に、公理系はその働きによって逆に欲望の抑制を欲望させたりもする。公理系とはいわば「整流器」のようなものだ。様々な公理系の付加による加速的自己肯定によって資本主義は国境を軽々と越えてすべての欲望-機械を支配する欲望する諸機械でありつづける。

BGM

「神の死」と過労死

2019年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ニーチェは十九世紀末に「神の死」を宣告した。それはただ単に宗教的な次元の神だけでなく、政治的、経済的、文化的な、社会的単位での広範囲におよぶ様々な《道徳・真理》の死でもあった。実際、神々は木っ端みじんに散乱した。散乱したのであって「死んだ」とはいえない。というのは、今や神々は大変お安く手に入れることができるからだ。昨今ではもっぱら、企業道徳、企業倫理、企業風土が、世界の覇権を握って闘い合っていることは言うまでもない。時を同じくして、それまで特権的な位置を占めることができていた文化的分野での作者もまた死んだ。「作者の死」についてバルトはこういっている。

「《作者》というのは、おそらくわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である」(バルト「作者の死」『物語の構造分析・P.80』みすず書房)

それは「制度」と化して硬直しきっていた「小説」というものから絶対的な「神」を追放したことになる。

「ひとたび『作者』が遠ざけられると、テクストを《解読する》という意図は、まったく無用になる。あるテクストにある『作者』をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。このような考え方は、批評にとって実に好都合である。そこで、批評は、作品の背後に『作者』(または、それと三位一体のもの、つまり社会、歴史、心理、自由)を発見することを重要な任務としたがる。『作者』が見出されれば、《テクスト》は説明され、批評家は勝ったことになるのだ。したがって、『作者』の支配する時代が、歴史的に、『批評』の支配する時代でもあったことは少しも驚くにあたらないが、しかしまた批評が(たとえ新しい批評であっても)、今日、『作者』とともにゆさぶられていても少しも驚くにあたらない。実際、多元的なエクリチュールにあっては、すべては《解きほぐす》べきであって、《解読する》ものは何もないのだ。その構造は、あらゆる折りかえし、あらゆる層を通じて連続し、(靴下の目がほつれるとき言うように)《伝線する》ことはあっても、突き当りはない。エクリチュールの空間は巡回すべきであって、突き抜けるべき空間ではないのだ。エクリチュールはたえず意味を提出するが、それは常にその意味を蒸発させるためである。エクリチュールは、意味の組織的免除をおこなう。まさにそのことによって、文学(というよりも、これからは《エクリチュール》と呼ぶほうがよいであろう)は、テクスト(およびテクストとしての世界)に、ある《秘密》、つまり、ある究極的意味を与えることを拒否し、反神学的とでも呼べそうな、まさしく革命的な活動を惹きおこすのである。というのも、意味を固定することを拒否することは、要するに、『神』や『神』の三位一体のもの、理性、知識、法を拒否することだからである」(バルト「作者の死」『物語の構造分析・P.87~88』みすず書房)

絶対的な制度としての「作者」を追っ払ったことでようやく「テクスト」することが可能になった。日本では八〇年代後半がこの運動のピークだった。しかし実際に「作者」が「死んだ」といえるのはネット普及以後、それもパソコンの普及だけでは不十分であって、スマートフォンが普及したとき、その前後に「作者」は群れをなしてばたばたと「死んだ」といえるだろう。解体作業には手間暇がかかったのである。理念の革命と同時に実際の革命が進行するとは限らない。むしろ実現したのは理念の発明より二〇年は経っていただろうとおもう。そのよい見本だった。

ところが神は、「死ぬ」というより、本当は「仮面」を取り換えて「居場所」を移した、姿かたちを整形手術した上で引っ越したに過ぎない、というべきだろう。今やインターネットがその居場所というわけだ。心地よさそうではある。しかし「神」は「神」である以上、資本として自己目的を捨てることはけっしてないのだ。作品にとって特権的な立場にいた作者を殺害したのは誰か。ほかでもない、資本主義である。作者は作者の座から引きずり降ろされ、特定の個人でなくても構わない置き換え可能な兼業者となり、小説は文学であることを中止されてただ単なる消費対象へと置き換えられた。制度としての文学は死んだが、小説は新しい消費財として流通することになった。だから資本化可能性が高ければ高いほど、文学としてではなく、価値の高い商品として承認される可能性もまた高くなったということができる。作品の内容=意味が問われることはほとんどない。予想可能な売り上げに関するデータベースがものをいう。この事情は文化にとってあるいは文化として良いことなのか良くないことなのか、またはどちらでもよいことなのかといった問いすら思考停止に追い込むほど絶大な権能を世界的規模で思うがままに振るっている。

しかし、かつて文化というものはその中にテクノロジーを含むものであり、テクノロジーはそれが所属する社会の文化程度を測る指標となっていたが、今では立場を逆転させた。文化はテクノロジーの部分機械あるいはテクノロジーの部分装置としてテクノロジーに属しており、テクノロジーの側がその社会の文化を創設しつつあり創造しつつある。技術機械が文化機械を吸収したのだ。そういうところでは、しかし、主にエリートが携わってきた職業において、職場のみならず休日や通勤途中で「過労死」する人々が続出するようにもなる。それは資本主義社会だけの問題でなく、自称-社会主義国家もまた同様にたどる必然的過程でもある。

ところで「モンタージュ」とは何のことをいうのだろうか。ごく一般的には「合体/合成/組立」などと訳される。資本主義の特徴あるいはポイントについて少し触れておこう。「機械」「自動」「装置」「機構」「合体/合成/組立」など。次に断片的だが幾つか文章を引こう。

「機械の体系は、織布におけるように同種の作業機の単なる協業にもとづくものであろうと、紡績におけるように異種の作業機の組み合わせにもとづくものであろうと、それが一つの自動的な原動機によって運転されるようになれば、それ自体として一つの大きな自動装置をなすようになる」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫)

「労働の社会的生産力の発展は大規模な協業を前提し、ただこの前提のもとでのみ労働の分割と結合とを組織することができ、生産手段を大量的集積によって節約することができ、素材から見ても共同的にしか使用されえない労働手段、たとえば機械体系などを生みだすことができ、巨大な自然力に生産への奉仕を強制することができ、生産過程を科学の技術的応用に転化させることができる」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・二十三章・P.207」国民文庫)

「全生産物がここでは機械という同じ形態で存在する(もし彼がいくつもの種類を生産するとすれば、各種類が別々に計算される)。全商品生産物は、一年間に機械製造に支出された労働の生産物であり、同じ種類の具体的労働と同じ生産手段との結合物である」(マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二〇章・P.286」国民文庫)

「自然発生的な運動のすべてのこれらのいろいろに違う契機がただ経験によって人の注目するところになりさえすれば、信用制度の機械的な補助手段にも、現にある貸付可能な資本の現実の釣り出しにも、計画的にきっかけが与えられるようになる」(マルクス「資本論・第二部・第三篇・第二〇章・P.364」国民文庫)

「それは資本として支出されるのである。自分自身にたいする関係、ーーー資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば資本はこういう関係として現われるのであり、またこの関係のなかでは資本は貨幣を生む貨幣として現われるのであるが、このような関係がここでは媒介的中間運動なしに単に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体される」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.56」国民文庫)

「労賃に投ぜられた資本の現実の素材は労働そのものであり、活動している、価値を創造する労働力であり、生きている労働であって、これを資本家は死んでいる対象化された労働と交換して自分の資本に合体した」(マルクス「資本論・第二部・第二篇・第十一章・P.359」国民文庫)

「より高度な経済的社会構成体」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十六章・P.268」国民文庫)

「資本主義的生産の基礎の上では、直接生産者の大衆にたいして、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第五十一章・P.436」国民文庫)

以上のことから次のようにいうことができるだろう。

「いずれのケースでも、内部と外部の通俗的な区別は消失しているし、同じく目に見える無秩序に対立させられていた現象の『内的な』絆も消失している。われわれの目の前にあるのは、現象的な主観性と本質的な内面性の経験主義的二律背反から決定的に解放された別のイメージ、新しい準概念である。それは《組立》と《機械装置》の法則によって、この概念の明確化によって最も具体的な諸規定に即して規制されるひとつのシステムである」(アルチュセール「資本論を読む・中・P.264」ちくま学芸文庫)

アルチュセールによるこの発見は容易に論駁しがたい。「内部/外部」の対立が解消されており、要するに「資本論」におけるマルクスからは「物自体」概念を抹消して考えることが可能になるわけだから。そのようなシステムのもとで発生してくる過労死というものはどういうものであろうか。

「機械労働は神経系統を極度に疲らせると同時に、筋肉の多面的な働きを抑圧し、心身のいっさいの自由な活動を封じてしまう。労働の緩和でさえも責め苦の手段になる。なぜならば、機械は労働者を労働から解放するのではなく、彼の労働を内容から解放するのだからである。資本主義的生産様式がただ労働過程であるだけではなく同時に資本の価値増殖過程でもあるかぎり、どんな資本主義的生産にも労働者が労働条件を使うのではなく逆に労働条件が労働者を使うのだということは共通であるが、しかし、この転倒は機械によってはじめて技術的に明瞭な現実性を受け取るのである。一つの自動装置に転化することによって、労働手段は労働過程そのもののなかでは資本として、生きている労働力を支配し吸い尽くす死んでいる労働として、労働者に相対するのである」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.331~332」国民文庫)

というわけだ。さらに、このような労働環境はグローバル化しているので容易に逃亡することができない。それは逃亡資金を持っていてもできない相談なのだ。《金は金を呼ぶ。あるいは金のありかを告げる》。なぜなら、あらゆる情報通信機器の発達のおかげで、いつどこで誰がどれくらいの金銭をどのように動かしたかが、ただちにわかる社会になったからである。絶対的一神教の神は確かに死んだ。ニーチェはそういった。しかしニーチェは、神の死の後に訪れるであろう様々な「《道徳》への意志」あるいは「《真理》への意志」は、その時その時で居場所を移動させながら、同時にいろいろな新種を発生させながら、脈々と現われ出でては消え、また現われ出でては消えを、繰り返していくだろうとも述べている。

エリートになればなるほど仕事が増えて給料が減る。少なくともふつうの会社員や公務員にはすでに或る程度当てはまる。しかしそうでないエリートはなぜ過労死しないのだろうか。過労死するエリートと過労死しないエリートとがいるのか。あるいはその中間が。ところがそういうわけではない。「神は死んだ」という言葉の中にはただ単に死んだのは「神々だけ」だ、などと言われていただろうか。そうではなく、「神の死」と同時に、もちろん、楚々として「神々」に付き従っていた「エリートもまた死んだ」といわなければならなかったばかりか、世界の実状はその通りに押し進められているといわなければならない。比較的高収入の労働者でも、労働者である以上、休憩時間や休日を消費に回して返していかなければ企業倫理が許してくれない。労働はサービスへ置き換えられたからである。一般的大企業での《エリート》女性社員のパンプス着用がそうであるように。給料は債務へと変わった。だから社会人女性はエロティックに見せなければ許されない。与えられた分は必ず返却=賠償しなければならない。《道徳・倫理》というものは新たな「神」となったグローバル資本によってきっちり維持されているどころか巨大化してすらいる。したがってこうもいえるに違いない。あらゆる欲望はすでに機械化されている、そしてそれは社会機械あるいは国家機械の側から、その部分として合体された個別的な身体-機械へ直接的かつ間接的に常に既に接続されていると。

「カフカの『流刑地にて』にでてくるあの機械は、たんに技術機械であるばかりではなくて社会機械でもあり、また欲望に欲望自身の抑制を欲望させるような機械であるが、この作品の中の士官が指摘していることは、こうした機械への強力なる強度的リビドー備給といったものがいかなるものでありうるのか、ということである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.412」河出書房新社)

グローバル資本主義の中では生死にかかわる次元で人間の自動機械的マゾヒスト化が進行する。逃走するに限る、とおもうわけだが、それもまた別の何かへの接続になってしまいかねないかもしれない様相を呈している。そのようなわけで、いまの日本で「流刑地」でないところなど一体どこにあるというのだろうか。その諦めに似た認識ーーー認識すればするほど諦めるしかなくなるかのような深く鋭い現実認識がーーーなおさら国民をニヒリズムへ追い込んでいくわけでもある。国民はより深く鋭く認識すればするほど、より一層もっと深く鋭い認識へと意志するようにならざるを得ない。現に置かれた状況がそうさせる。とはいえ処方箋ならなくもない。なぜなら資本主義はいつでも別の仕方で起動することを心得ている自動機械だからである。それは資本主義というものが、絶えず或る種の《実験》を繰り返していなければいずれ動かなくなる、という条件を自己目的として含むからなのだが。

BGM

ステレオタイプとパンプス着用

2019年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム
名門といわれる多くの職場で女性はパンプス着用義務を課せられている。なぜだろうか。それは二十一世紀の今なお力強く生き延びている「神話」が脈々と物を言っているからにほかならない。

「Aは私に打ち明ける。母親の淫蕩には我慢できないだろうね。父親のには平気だろうが。そして、つけ加える。妙だね、これは。ーーー彼の驚きを鎮めるには、一つの名前を挙げるだけで十分だろう。《オイディプス》!Aはテクストによく似ているように思える。なぜなら、テクストは《名前を与えない》ーーーあるいは、すでにある名前を取り去るからである。テクストは名前をいわない(何か《怪しげな》意図があってか)。マルクス主義とか、ブレヒト主義とか、資本主義とか、観念論とか、禅とか、等々。《『名前』は口にのぼらない》。それは寸断されて、実践の中に、『名前』でない単語の中に散らばる。科学と混同されることを欲しない言語活動の《マテジス》(秩序化するもの)の中で、語ることの限界にまで進み、テクストは命名行為を解体する。そして、テクストを悦楽に近づけるのはこの解体なのである」(バルト「テクストの快楽・P.84~85」みすず書房)

企業社会あるいは企業風土は快楽(満足、形式化、立法の自由、快感の自由、コントロールの支配、偶然性の排除、同一性の再生産)を追い求める。悦楽(失神、忘我、エクスタシー、解体の自由、ノーコントロール、偶然性、多様性)を追い求めない。むしろ悦楽することを厳重に禁止する。悦楽への意志を快楽への意志(「やりがい搾取」含む)へと置き換える。人々は悦楽を追放して快楽を追求する企業社会あるいは企業風土のもとで生み育てられる。社会の倫理は悦楽の追求を堰き止めて方向転換させ、快楽の追求のみを《道徳》として押し付けて止まない。消えていないのは何か。それは《道徳への意志》だ。《道徳への意志》という点では科学技術もまた《マテジス》(秩序化するもの)として機能する。この機能は企業社会あるいは企業風土に加担するほかない。年齢性別国籍など関係なくグローバル資本主義に加担していることには何らの違いもないのである。歴史の発生以来様々な道徳が出現しては消滅することを繰り返してきた。いまや科学が、テクノロジーが「神」として崇拝され、テクノロジーへの意志が《道徳への意志》の最先端に位置している。快楽するのはよいことだ。企業倫理あるいは企業風土の範囲内で快楽するという意味では、誰一人として拘束されてなどいない。しかし企業倫理あるいは企業風土=《道徳・真理》への意志という点では今なお《真理への意志》が最大限、隠れもしない《信仰箇条》として物を言っている。

「なるほど彼らはどの点においても格別に拘束されてはいない。だが、真理に対する信仰という一点においては、彼らほど強く絶対的に拘束されている者は他に誰もいない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.193」岩波文庫)

その意味では相変わらず「パパ-ママ-ボク」のオイディプス三角形が資本主義を支配している。同族家族主義的でナショナリズムの温床でもあるオイディプス三角形が。それはまず何より先に言語から始まる。

「互いに理解し合うためには、同じ言葉を用いるだけではなお十分でない。同じ種類の内的体験に対しても同じ言葉を用いなければならない。結局、互いに《共通の》体験をもたなければならない」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.285」岩波文庫)

そのような事情があり、その必迫によって次のように展開したに違いない。さらにニーチェは、同一言語使用によって「卑俗化」された人間の進展に対して、その方向性=ベクトルの与え直しを提唱する。

「必迫のみが以前から類似の記号によって類似の要求、類似の体験を支唆しえたような人間を互いに接近させてきたものであるとすれば、そこからして一般に明らかになるのは、必迫を容易に《伝達しうること》が、換言すれば、窮極において月並みな《平俗な》体験こそが、人間をこれまで左右して来たすべての威力のうちで最も力強いものであったに違いない、ということである。より似通った、より通常な人々は常に有利な立場にいたし、またいまもそうである。選(え)り抜きの人々、より洗煉された人々、より稀有(けう)な人々、より理解しがたい人々はともすれば孤立的であり、別々に存在しているから不慮の災厄に逢会し、繁殖することが滅多(めった)にない。この自然的な、余りにも自然的な、《似たものへの前進》を、類似なもの、通常なもの、月並みのもの、畜群的なものへのーーー《卑俗なもの》への!ーーー人間の進展を遮(さえぎ)るためには、巨怪な対抗力を喚(よ)び起こさなければならない」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.286」岩波文庫)

ニーチェは高度化するテクノロジーを否定するわけではない。ただ、テクノロジーの高度化がもたらす社会の変化について慎重に述べているだけだ。それをどう読み解くかは読者次第なのである。したがってニーチェの場合、高度化する情報流通産業の発展過程で人間が「《卑俗なもの》へ」進展していくとすれば、それに抗して、「巨怪な対抗力を喚(よ)び起こさなければならない」と考える立場をとる。間違っても左翼だとか右翼だとか、馬鹿げた区別を立てることはしない。そもそも技術=テクノロジーは政治的左右を知らないからだ。そのあたりの込み入った事情についてはハイデガーの技術論がいまなお妥当するだろう。

ちなみに日本のネット社会。先日、精神科医の香山リカが「左の論客」として取り扱われているのを見た。驚いた。香山が「左」なわけがどこにあろうというのか。ふだんから主に欧米の言論界を注視しつつものを考えている立場からすると余りといえば余りにも粗末な区別だといわざるをえない。香山は言論界に登場してきたとき以来あくまで一貫して「リベラル左派」という位置付けであり、いまなお「リベラル左派」で何ら構わないしむしろ「左翼」でもなければ「新左翼」でもない。かといって「右派」でないことは確かだけれども。いずれにしろ、日本の「右派」は欧米の右派とはまた違っている。どちらかといえば社会主義「右派」なのであって、その実践はいわゆる「ばらまき」なので、結局のところ、「リベラル左派」をも同時に利することになる。徹底的に根絶してしまったりしない。そのことによって暗黙のうちに左右のバランスを重視する。というのも、日本では、日本の福祉制度のおかげでようやく右翼活動に奉仕している人々が幾らもいるからだ。それに比して欧米の右派はほんとうに危険であり、実際に拳銃など持ち歩いていて発砲もするし、実に物騒極まりない連中が少なくない。何より「言論無用」という立場がごろごろしていて、それはもう左右に区別できるような人々ではなくなってしまっているのだ。昨今のアメリカで問題視されてきたいわゆる「貧乏白人」とその密集地域というのは、ほとんどマフィア化しており、移民や他民族などの他者ばかりか、同胞の白人すらも階級的上下関係に解消されてしまっているため、白人といえども安易に受け付けたりしないし話もしないという徹底ぶりなのである。セクト主義化とマフィア化とが同時進行している。たとえば個々人の人格の尊重という定義が民主主義にはあるけれども、個々人の人格を尊重するような民主主義なら右派であろうが左派であろうが構わずとっとと撲滅してしまえというのが欧米の右派の主張である。人格の尊重は生活保障と直接的につながる。金がかかる。ところが「貧乏白人」たちもまた生活保障を必要としている。しかしそれは行き届いているとはけっして言いがたい。それなら経済的性格的に乗りと気の合う「貧乏白人」同士でゲットーを作り、武装して何一つ受け付けずマフィア化するほうが手っ取り早い商売というものがあるのだ。他者とのつながりを断ち切ってしまってもなお、彼ら彼女らは最低でも同族結婚で増殖することができるし、実際そうしている。血のつながりによる純血主義と過激なナショナリズムというおぞましい結果を再生産させつつ「絶望病」の何たるかをアメリカ全土で大いに見せつけているといえよう。しかし日本の「右派」は「右派」とはいっても日本の警察以上の力を持つわけではないので、勢力を拡大できたとしてもどこか一定の時点で保守に回収されうる。だが欧米の右派は基本的にすでに保守とたもとを分かっており、あるいはもともと保守から分岐したわけではない自然発生的グループやネオ・ナチ系セクトも多く見られ、したがって保守系の政治家をも容易に射殺したりする。

そんなわけで、「香山リカ=左の論客」説という珍妙な一件で思い出したのが、いまさらながら「言葉の大切さ」である。

「表面上の意味とは、マラルメの一節を正当化するものであろう。彼は、言語活動の通常の用法を、表も裏も、もはや擦りへった表面しか持たぬものなのに、それを《黙って》手渡しし合っているような貨幣の交換にたとえている。この隠喩がわれわれに想い起こさせるのは、言葉は、それが極限まで擦りへらされても、その受け渡し札としての価値は保持しているということである」(ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領野」『エクリ1・P.343』弘文堂)

そしてまた、言語の流通可能性が機能しないところでは貨幣もまた機能しないということを、この際よく心得ておく必要性があるだろう。しかし周回遅れの日本より世界はもっと加速的に速いので、「貧乏白人」問題が突きつける課題は数年もすれば他人事でなくなる。アメリカの「貧乏白人」密集地帯では銀行の信用は通用しない。手形やカードは通用しない。そこで通用するのは唯一「現金」のみだ。しかしそのことはアメリカの人口問題と資本主義的格差社会抜きに考えることはできない。だからこそ「貧乏白人」密集地帯ではアメリカでも最も激しく資本主義打倒と民主主義撲滅とが叫ばれるのだろう。考えないといけないのは、グローバル資本主義のもとでバース・コントロールとデス・コントロールの場(欧米中)が本格的に機動している現実を細かく見据えていく柔軟な視座の獲得という態度である。おそらく日本だけでは人手がたりないだけでなく、事情があまりぴんと来ていないに違いない。ところでしかし、こうなってくると《現実》とは一体何のことをいうのか、を考え直さないわけにはいかなくなってくるのだ。

「現実的なものの規定は、《それに等しい複製の生産が可能なもの》ということだ。この規定は、ある過程が一定の条件のもとで正確に再生産できるとする近代科学や、事物の等価性の普遍的システムを提起する産業的合理性と同時代のものである(古典的表象行為は等価性の原則に基づいていない。それは、オリジナルの書き換えであり、説明であり、注釈である)。この複製過程では、現実は、単に複製可能なものではなく、《いつもすでに複製されてしまったもの》、つまり、ハイパー現実なのだ。

それでは、現実と芸術はお互いに完全に吸収しあって、姿を消してしまうのだろうか。そうではない。ハイパー・リアリズムは、現実と芸術を、シミュラークル(見せかけ)のレベルーーーそれらを成り立たせている特権と偏見のレベルーーーで、とりかえることによって、その頂点にまで高めることになる。ハイパー現実は、シミュレーション過程にどっぷりとつかっているからこそ、表象行為を乗り越えているのだ。それがもたらす表象作用の回転式ショーケース化は、気違いじみたものだ。だがこの種の内部で爆発する狂気は、芸術の中心からはずれているどころか、中心に流し目を送り、その深部ではみずからが反復されることを願っている。夢のなかで、これは夢を見ているのだなと気づくのに似ているが、この場合は、検閲作用と夢の状態の持続性の働きにすぎない。ところが、ハイパー・リアリズムは、それが持続させるコード化された現実(この現実を、ハイパー・リアリズムはなにひとつ変えようとしない)の不可欠な一部分なのである。

したがって、ハイパー・リアリズムの定義は逆転されねばならない。《ハイパー現実となったのは、今日では現実そのものの方だ》。すでに、シュルレアリスムの秘密は、もっとも平凡な現実が超現実となりうることのうちにあったのだが、そういうことが起こるのは、まだ芸術と想像力の領域に属している特権的な瞬間に限られていた。ところが、現在では、政治的、社会的、歴史的、経済的等々の日常的現実のすべてが、ハイパー・リアリズムのシミュラークル(見せかけ)の領域にすでに組みこまれてしまった。われわれは、いたるところで、現実の『美的』幻覚にとりかこまれて暮らしている。『事実は小説よりも奇なり』という古い格言は、生活の審美化のシュルレアリスム的段階に対応するもので、今では乗り越えられてしまった。生活がたちむかえるような(そして勝利をおさめられるような)虚構は、もはや存在しないーーー今や現実全体が、現実のゲームとなり、クールでサイバネティックス的な段階の根源的な幻滅が、ホットで幻覚的な段階にとってかわったのである」(ボードリヤール「象徴交換と死・P.175~177」ちくま学芸文庫)

なお、翻訳を見ると「シミュラークル」はそのままカタカナ表記か「シミュラークル(模倣)」となっている。ここではボードリヤールの消費社会論とその文脈とを考え合わせた上で、「言語」と「貨幣」にも妥当させて用いられていると十分おもわれるため、さらにドゥルーズ&ガタリを意識していることをも含め、あえて「シミュラークル(見せかけ)」と付した。「シミュレーション」はそのまま「複製」でいいかと考える。

さて、パンプス着用は礼儀かどうか、という問いは問い自体が間違っている。たとえば女子高生の場合。靴下着用は義務とされている。そして売買春のケースでは、女子高生は制服に靴下着用でなければ、ほとんどの場合「売れ残る」という事実が上げられよう。しかし性風俗店で男性客がOLを指名した場合、女性はパンプス着用が義務でありなおかつ礼儀であり道徳でさえあるとされる。逆にOL指名の場合の靴下着用は男性客の指示がない限り認められないし、パンプス着用は世間でのOL定義上、企業倫理=企業風土と同じく《真理・道徳》ですらあるのだ。

ところが、「信仰」にまで達した《真理》とは一体何だろうか。

「真理とは、何なのであろうか?それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的諸関係の総体であって、それが、詩的、修辞的に高揚され、転用され、飾られ、そして永い間の使用の後に、一民族にとって、確固たる、規準的な、拘束力のあるものと思われるに到ったところのものである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)

「真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚である。それは、使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである。それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)

要するに《真理》とは時間をかけて捏造された上に、《狂気を狂気と感ぜられなくなったもう一つの狂気》が生み出した産物である。しかしなぜ「捏造」は可能なのか。

「意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序において毫(ごう)も変る事がない。するとこの一種の関係に対して吾人は因果の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則というものを捏造(ねつぞう)するのであります。捏造というと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない」(夏目漱石「文芸の哲学的基礎」『漱石文芸論集・P.48』岩波文庫)

ここで問われるべきは相関主義の「自明性」であろう。

「なぜなら、相関主義は、まさしく理由律に従い《続けている》がゆえに、信仰主義的な《全き他者》の信念と共犯関係にあると示せるのだから。実際、相関主義の強いモデルは宗教的言説を一般に正当化するものだ。なぜならそれは、隠された理由があるという可能性、私たちの世界の起源にははかり知れない構想があるという可能性を不当化しないからである。その理由なるものは思考不可能にされているのだが、思考不可能なもの《として》維持されていたのであり、このあり方は、その価値が超越的に啓示されるかもしれないことを正当化するに十分なのだ。究極の《理由》へのこの信念が、強い相関主義の本性を明らかにするーーーつまり、強い相関主義は、決して理由律の放棄ではなく、理由律の不合理なまでの信仰を弁護している」(メイヤスー「有限性の後で・P.109」人文書院)

またカント読むの?とおもってうんざりする人々がまだ日本にいるとしたら、日本はもう少し世界の中にいることができるだろう。猶予を得ることができるだろう。

「我々はいま純粋悟性の国を遍く巡り歩いて、この国のあらゆる地方を仔細に観察してきたばかりでなく、国中を端から端まで踏査して、この国土に存する一切のものにそれぞれ然るべき位置を規定した。しかしこの国は一つの島である。そして自然そのものによって一定不変の限界をめぐらされている。この国土は真理の国(いかにも魅惑的な名称だ)であり、波立ちさわぐ渺茫たる海に囲まれている、そしてこの大洋こそ仮象の誠の棲処なのである。ここには霧堤と呼ばれる濃霧の厚い層と、忽ち溶け去る数多の氷山とがあって、望み見る人をして新らたな陸地と思い誤らしめ、また発見を求めて群れつどう船人達を絶えず徒らな希望をもって欺きつつ彼等を冒険の淵に巻き込む、しかも船人達は彼等の希望を捨て去ることもできず、さりとてまたこれを成就することもできないのである。ところで我々はこの大洋を隈なく捜索して、そこに何ものかを見出す望みがあるかどうかを確かめるために海上へ乗り出そうとしているのであるが、しかしそれに先きだち、今や立ち去ろうとするこの国の地図に一瞥を与えて、次の問題を考察しておくことは有益であると思う。その第一は、もし我々の定住し得るような土地がこの国以外にはまったく存在しないとしたら、我々はこの国土にあるところのものをもってとにかく満足できるかどうか、或は止むを得ず満足せねばならぬかどうか、ーーーまた第二は、いったい我々はどんな権原があってこの土地を我々自身のものであると主張するのか、また我々に対して提起される一切の敵視的な要求をしりぞけて、我々の身の安全をどうして保ち得るのか、という問題である」(カント「純粋理性批判・上・P.319~320」岩波文庫)

「悟性」がわかりにくいなら「知性」でもいいとおもう。それにしても日本人とは一体何なのだろうか。カフカの短編によれば「雑種」というに等しいわけだが。もっとも、カフカの場合、彼ら彼女らはかつてヨーロッパで「ユダヤ人」と呼ばれ大量虐殺されているけれども。

BGM