工藤庸子「文学ノート・大江健三郎(第六回)」(『群像・2023・09・P.253~277』講談社 二〇二三年)から。
肉体の言葉とその畸型性あるいは狂気、とでも呼べそうな気がする。小説を書き進める際に大江がしばしば感じる身体への嗜虐性について、七月号にこう引用されていた。
「僕は子供の時分に、避難してきた戦争罹災者の一家族の世話をしたことがあった。悲鳴をあげるかわりに眉根をひそめるだけの、おそろしく蒼ざめた少年の火傷を母親が治療しようとしていた。片腕の繃帯を剥がすと、石膏をかためたようになった、膿と血潮まみれの木綿に、ほとんどバリ、バリと音をたてるようにして肱から腕頸までの皮膚と脂肪とが残ったーーー僕が、自分のいま書いたばかりの数ページに感じるのは、そこに自分の肉体と意識とが膿と血潮まみれで貼りついている、という感覚である。それをむりやり引き剥がし、小説の数ページを客観的に、外在化させようとすると、頭の奥のほうで、バリ、バリとひきさかれる音が聞えるような苦痛がある」(工藤庸子「文学ノート・大江健三郎(第五回)」『群像・2023・07・P.179』講談社 二〇二三年)
工藤庸子は九月号では蓮実重彦「表層批評宣言」から引く。
「『批評』とは、『理性』の衰微にともない相対的な畸型性をまとう『狂気』ではなく、絶対的な畸型としてある『狂気』にほかならない。そして『作品』もまた、その絶対的な『狂気』、すなわち絶対的な『白痴』いがいの何ものでもない」(蓮実重彦「表層批評宣言・P.52」ちくま文庫 一九八五年)
大江作品に目を通していると、ある一つの文章が、一つに見えていたにもかかわらず、何かどんどん逸脱し、つぎはぎされてでもいくかのような事態に遭遇して驚くことがたびたびある。しかしその逸脱は世界の至るところに張り巡らされた二元的対立の罠にまんまと嵌まり込むことを回避させるよう働く。蓮実重彦はいう。
「『人間』とは、『排除と発見のディスクール』によって途方もない非在郷に送りこまれ、そこで《近代的自我の発見》といった思考の欠如と遊び呆けぬ限り、死という還元不可能な《事件》をはらみ続けることで、『制度』からの逸脱を生きうるもののはずである。というより、その消滅への無二の資質が、『人間』の生の有限性を虚構化することでなりたっている諸『制度』の不可視の機能様態を、かりに一瞬であるにせよ、鮮明な輪郭のもとに浮きあがらせるのだというべきであろうか。いずれにしても、『人間』は、透明と混濁、秩序と無秩序、真理と誤謬といった対立項に従って展開される『排除』の手続きで『発見』されることのない具体的実在にほかならぬ」(蓮実重彦「表層批評宣言・P.72」ちくま文庫 一九八五年)
だがそもそも「表層」とはなんであり、なぜ「表層」なのか。
(1)「いま、ここに読まれようとしているのは、ある名付けがたい『不自由』をめぐる書物である。その名付けがたい『不自由』とは、《読むこと》、そして《書くこと》、さらには《思考すること》を介して誰もがごく日常的に体験している具体的な『不自由』である。だが、人は、一般に、それを『不自由』とは意識せず、むしろ『自由』に近い経験のように信じこんでいる。従ってこの書物の主題は、『自由』と『不自由』とのとり違えにあるといいうるかもしれない。普遍化された錯覚の物語。その物語の説話論的な持続を担う言葉たちは、だから、むしろ積極的に『不自由』を模倣することになるだろう。ここに繰り拡げられようとしている文章は、それ故、ある種の読みにくさにおさまるほかはあるまい。この《読みにくさ》は、選ばれた主題に忠実であろうとする言葉たちの運動から導きだされるものにほかならず、いささかも修辞学的な饒辞を気取るものではない」(蓮実重彦「表層批評宣言・P.5」ちくま文庫 一九八五年)
(2)「『批評』とは、存在が過剰なる何ものかと荒唐無稽な遭遇を演じる徹底して表層的な体験にほかならない」(蓮実重彦「表層批評宣言・P.8」ちくま文庫 一九八五年)
活字の背後にはなにやら重大な秘密が隠されている、読者はそれを見つけ出さねばならない、という命題はまるきり嘘だ。近代のでっち上げに過ぎない。むしろ表層への差し向けはドゥルーズが「不思議の国のアリス」、「鏡の国のアリス」をテキストにして早くも述べていた。
(1)「出来事は、結晶のようであって、縁を横切って、縁の上でだけ、生成し拡大する。まさにここに、吃音と左利きの最初の秘密がある。すなわち、もはや沈み込むことではなく、古き深層が表面の逆方向に還元されて何ものでもなくなる仕方で、横へ横へと滑走することである。滑走のおかげで、反対側〔鏡の国〕に移行するだろう。というのも、反対側は逆方法のことにすぎないからである。そして、幕の背後には何も見るべきものがないのは、すべての可視的なもの、あるいはむしろ、すべての可能な学問知識は、幕に沿ってあるからであり、そして、幕の表裏を逆にするためには、また、左右を逆にするためには、幕に近寄り幕の表面に沿って辿って行けば十分であるからである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.30」河出文庫 二〇〇七年)
(2)「『鏡の国のアリス』に対して、以上のことはもっと当てはまる。この作品では、事物と根元的に異なる出来事が、深層において探し求められることはまったくない。そうではなくて、出来事は、表面で、物体から漏れ出る非物体的な薄い霧の中で、物体を取り囲む体積のないない薄皮の中で、物体を映し出す鏡の中で、物体を平らに並べるチェスボードの中で探し求められる。アリスはもう落ち込むことはありえない。アリスは自分の非物体的な複製〔=分身〕を解放する。《境界を辿り表面に沿うことによってこそ、物体から非物体的なものへ移行するのである》。ポール・ヴァレリーには深遠な一言があった。最も深いもの、それは皮膚である、と」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.30~31」河出文庫 二〇〇七年)
文学は近代が打ち立てた制度の一つである。だから反制度に立てばそれだけでいいのか。そうではない。反制度もまた制度化すればたちまち「不自由」を出現させるばかりだ。
「『自由』と錯覚されることで希薄に共有される『不自由』、希薄さにみあった執拗さで普遍化される『不自由』。これをここでは、『制度』と名づけることにしよう。読まれるとおり、その『制度』は、『装置』とも『物語』とも『風景』とも綴りなおすことが可能なものだ。だが、名付けがたい『不自由』としての『制度』は、それが『制度』であるという理由で否定されるべきだと主張されているのではない。『制度』は悪だと述べられているのでもない。『装置』として、『物語』として、『風景』として不断に機能している『制度』を、人が充分に怖れるに至っていないという事実だけが、何度も繰り返し反復されているだけである。人が『制度』を充分に怖れようとはしないのは、『制度』が、『自由』と『不自由』との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう」(蓮実重彦「表層批評宣言・P.6~7」ちくま文庫 一九八五年)
制度にしろ反制度にしろ、ほどよく収まりきってしまって何らの違和感も覚えなくなってしまうような全体主義的「錯覚」から身をかわし続けること。「夏目漱石論」冒頭部にもあった言葉だが簡単なようで意外と難しい。というより昨今この種の困難さは飛躍的に加速したようにおもえる。