白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ108

2023年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月三十一日(木)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昨夜就寝前に爪切り。思いのほか伸びていて後ろ足の爪先で引っ掻かれてしまった。飼い主のふくらはぎに直径約8センチの傷。流血したためゲンタシンをすり込む。それにしても血の色の傷跡はふくらはぎの肉のふくらみに上手く沿ったきれいな流線型を描いている。

 

さて今日も夕食後はテーブルの椅子でちゅぱちゅぱ。していたかと思うとくうくう寝ている。この様子だと午後九時頃にもう一度目を覚ますだろう。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて530

2023年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は四国化工機「にがり充てん」。1パックの三分の二を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはナスの糠漬け。

 

(1)タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたナスの漬物を二片取り出す。(2)水洗いして手でよく絞り塩分を落とす。(3)皮を剥く。(4)俎板の上に置き包丁で六等分。十二片に切り分ける。(5)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。(6)温めた粥の下に置き入れて粥の熱で少し温める。今朝は十二個とも完食。

 

昨日の夕食は前日と続いてしまうがエテカレイの焼いたの。無理なく食べられるものをゆっくり食べればいいと思う。食欲はほんの少しばかり回復してきた。とはいえ体重測定してみると36キロ台へ減少したまま。ほとんど変わらず。

 

問い合わせていた葬儀会社から新しいパンフレットが届く。低価格帯で選択できる幾つかのコースから置き換え可能と思われるオプションを組み合わせた形をとりあえず考えておく。

 

今朝の音楽はショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第十一番」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・「もっともらしさ」あるいは「錯覚」への駆け込み

2023年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

印象。それを言葉へ「翻訳」しようとするや、「最初の印象から直截に出てくるはずの発言と合致するよう矯正するのは容易ではな」くなる。

 

さらに二つ。

 

(1)「愛する相手にわれわれが装う無関心」。

 

(2)「われわれ自身のつく嘘となんら変わらぬ相手のごく自然な嘘」。

 

そこでどうするのか。

 

「心にほんとうに感じたことからかけ離れたこれらすべてのことばを真実へとひき戻すには、われわれ自身がいちばん執着していたものを破壊すること、つまり、われわれが自分自身と差し向かいで、どんな手紙を書いたりどんな手立てを講じたりすべきかと熱に浮かされたように計画を立てつつ熱心に自身と交わしていた対話を破壊するしかない」。

 

破壊してしまえるということ。なかったことにできるということ。一度捏造したものを今度はなかったことへ捏造する。

 

「ところで、われわれがたとえば自尊心ゆえに不正確なことばを口にした場合、そうした内心の歪んだ発言を(それは最初の核心的な印象からどんどん離れてゆく)、最初の印象から直截に出てくるはずの発言と合致するよう矯正するのは容易ではなく、われわれは怠慢ゆえにそのような矯正には不満顔をするが、たとえば恋心が原因となる場合のように、同様の矯正が辛いものとなる例はほかにも存在する。愛する相手にわれわれが装う無関心といい、われわれ自身のつく嘘となんら変わらぬ相手のごく自然な嘘にたいする憤慨といい、要するにわれわれが不幸であったり裏切られたりするたびに、愛する相手に向かって言うだけでなく、その相手に会うまでのあいだ自分自身に向かってさえ、ときには自室の静寂を乱すほどの大声でたえず『冗談じゃない、まったく赦しがたい仕打ちだ』とか『最後に一度だけ会いたかったんだ、会えば辛い想いをするとしても』」とか言いつづけたことばといい、心にほんとうに感じたことからかけ離れたこれらすべてのことばを真実へとひき戻すには、われわれ自身がいちばん執着していたものを破壊すること、つまり、われわれが自分自身と差し向かいで、どんな手紙を書いたりどんな手立てを講じたりすべきかと熱に浮かされたように計画を立てつつ熱心に自身と交わしていた対話を破壊するしかない。芸術的な歓びを求めるのは、その歓びが与えてくれる印象のためであるにもかかわらず、われわれはその正体を言いあらわしえないものとして当の印象そのものについてはできるだけ早々に考えないようにし、その印象の楽しみを深く突きつめずとも味わうことができるもの、つまりその楽しみをほかの愛好家にも会って伝えることができると思わせてくれるものに執着する。なぜそうなるかというと、われわれが愛好家たちに話すことは、愛好家にとってもわれわれにとっても同じことがらだからであり、われわれ自身がいだいた印象の個人的根源は抹消されているからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.480~481」岩波文庫 二〇一八年)

 

印象。「われわれはその正体を言いあらわしえない」。それは不断に推移更新することしかしらない。ゆえに、「われわれは」実にしばしばあらぬことをしでかす。

 

「その印象の楽しみを深く突きつめずとも味わうことができるもの、つまりその楽しみをほかの愛好家にも会って伝えることができると思わせてくれるものに執着する」。

 

ただ単なる一般論へ還元して安心する。「もっともらしさ」あるいは「錯覚」への意志。懲りもせず再びステレオタイプ(紋切型)と同一化しようとする。言い換えれば、「われわれ自身がいだいた印象」の「抹消」へ大急ぎで駆け込む。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ107

2023年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年八月三十日(水)。

 

深夜(午前三時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食後テーブルの椅子のクッションでひさしぶりにちゅぱちゅぱ始める。ひと月ほど前は一度始めると長くて三十分くらいやっていた。今日は五分ほど。

 

何を思ったのかすぐ母の椅子へ飛び移り今度は心地よさそうに毛繕いを始める。そこへ母がやってきた。タマは不思議そうに母を見上げる。二代目タマを譲り受けた時はまだ目が開いておらず、わずかに開いている側の目も目やにでほとんど塞がっていたため抗生剤やステロイド剤をしばらく用いているうちにだんだん見えるようになった。だから生まれて初めて目にした生き物は猫でなく人間ばかり。人間を猫の親兄弟と勘違いしたままじゃれ合い育ったような感じである。


Blog21・大江健三郎の肉体と「表層批評宣言」

2023年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

工藤庸子「文学ノート・大江健三郎(第六回)」(『群像・2023・09・P.253~277』講談社 二〇二三年)から。

 

肉体の言葉とその畸型性あるいは狂気、とでも呼べそうな気がする。小説を書き進める際に大江がしばしば感じる身体への嗜虐性について、七月号にこう引用されていた。

 

「僕は子供の時分に、避難してきた戦争罹災者の一家族の世話をしたことがあった。悲鳴をあげるかわりに眉根をひそめるだけの、おそろしく蒼ざめた少年の火傷を母親が治療しようとしていた。片腕の繃帯を剥がすと、石膏をかためたようになった、膿と血潮まみれの木綿に、ほとんどバリ、バリと音をたてるようにして肱から腕頸までの皮膚と脂肪とが残ったーーー僕が、自分のいま書いたばかりの数ページに感じるのは、そこに自分の肉体と意識とが膿と血潮まみれで貼りついている、という感覚である。それをむりやり引き剥がし、小説の数ページを客観的に、外在化させようとすると、頭の奥のほうで、バリ、バリとひきさかれる音が聞えるような苦痛がある」(工藤庸子「文学ノート・大江健三郎(第五回)」『群像・2023・07・P.179』講談社 二〇二三年)

 

工藤庸子は九月号では蓮実重彦「表層批評宣言」から引く。

 

「『批評』とは、『理性』の衰微にともない相対的な畸型性をまとう『狂気』ではなく、絶対的な畸型としてある『狂気』にほかならない。そして『作品』もまた、その絶対的な『狂気』、すなわち絶対的な『白痴』いがいの何ものでもない」(蓮実重彦「表層批評宣言・P.52」ちくま文庫 一九八五年)

 

大江作品に目を通していると、ある一つの文章が、一つに見えていたにもかかわらず、何かどんどん逸脱し、つぎはぎされてでもいくかのような事態に遭遇して驚くことがたびたびある。しかしその逸脱は世界の至るところに張り巡らされた二元的対立の罠にまんまと嵌まり込むことを回避させるよう働く。蓮実重彦はいう。

 

「『人間』とは、『排除と発見のディスクール』によって途方もない非在郷に送りこまれ、そこで《近代的自我の発見》といった思考の欠如と遊び呆けぬ限り、死という還元不可能な《事件》をはらみ続けることで、『制度』からの逸脱を生きうるもののはずである。というより、その消滅への無二の資質が、『人間』の生の有限性を虚構化することでなりたっている諸『制度』の不可視の機能様態を、かりに一瞬であるにせよ、鮮明な輪郭のもとに浮きあがらせるのだというべきであろうか。いずれにしても、『人間』は、透明と混濁、秩序と無秩序、真理と誤謬といった対立項に従って展開される『排除』の手続きで『発見』されることのない具体的実在にほかならぬ」(蓮実重彦「表層批評宣言・P.72」ちくま文庫 一九八五年)

 

だがそもそも「表層」とはなんであり、なぜ「表層」なのか。

 

(1)「いま、ここに読まれようとしているのは、ある名付けがたい『不自由』をめぐる書物である。その名付けがたい『不自由』とは、《読むこと》、そして《書くこと》、さらには《思考すること》を介して誰もがごく日常的に体験している具体的な『不自由』である。だが、人は、一般に、それを『不自由』とは意識せず、むしろ『自由』に近い経験のように信じこんでいる。従ってこの書物の主題は、『自由』と『不自由』とのとり違えにあるといいうるかもしれない。普遍化された錯覚の物語。その物語の説話論的な持続を担う言葉たちは、だから、むしろ積極的に『不自由』を模倣することになるだろう。ここに繰り拡げられようとしている文章は、それ故、ある種の読みにくさにおさまるほかはあるまい。この《読みにくさ》は、選ばれた主題に忠実であろうとする言葉たちの運動から導きだされるものにほかならず、いささかも修辞学的な饒辞を気取るものではない」(蓮実重彦「表層批評宣言・P.5」ちくま文庫 一九八五年)

 

(2)「『批評』とは、存在が過剰なる何ものかと荒唐無稽な遭遇を演じる徹底して表層的な体験にほかならない」(蓮実重彦「表層批評宣言・P.8」ちくま文庫 一九八五年)

 

活字の背後にはなにやら重大な秘密が隠されている、読者はそれを見つけ出さねばならない、という命題はまるきり嘘だ。近代のでっち上げに過ぎない。むしろ表層への差し向けはドゥルーズが「不思議の国のアリス」、「鏡の国のアリス」をテキストにして早くも述べていた。

 

(1)「出来事は、結晶のようであって、縁を横切って、縁の上でだけ、生成し拡大する。まさにここに、吃音と左利きの最初の秘密がある。すなわち、もはや沈み込むことではなく、古き深層が表面の逆方向に還元されて何ものでもなくなる仕方で、横へ横へと滑走することである。滑走のおかげで、反対側〔鏡の国〕に移行するだろう。というのも、反対側は逆方法のことにすぎないからである。そして、幕の背後には何も見るべきものがないのは、すべての可視的なもの、あるいはむしろ、すべての可能な学問知識は、幕に沿ってあるからであり、そして、幕の表裏を逆にするためには、また、左右を逆にするためには、幕に近寄り幕の表面に沿って辿って行けば十分であるからである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.30」河出文庫 二〇〇七年)

 

(2)「『鏡の国のアリス』に対して、以上のことはもっと当てはまる。この作品では、事物と根元的に異なる出来事が、深層において探し求められることはまったくない。そうではなくて、出来事は、表面で、物体から漏れ出る非物体的な薄い霧の中で、物体を取り囲む体積のないない薄皮の中で、物体を映し出す鏡の中で、物体を平らに並べるチェスボードの中で探し求められる。アリスはもう落ち込むことはありえない。アリスは自分の非物体的な複製〔=分身〕を解放する。《境界を辿り表面に沿うことによってこそ、物体から非物体的なものへ移行するのである》。ポール・ヴァレリーには深遠な一言があった。最も深いもの、それは皮膚である、と」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.30~31」河出文庫 二〇〇七年)

 

文学は近代が打ち立てた制度の一つである。だから反制度に立てばそれだけでいいのか。そうではない。反制度もまた制度化すればたちまち「不自由」を出現させるばかりだ。

 

「『自由』と錯覚されることで希薄に共有される『不自由』、希薄さにみあった執拗さで普遍化される『不自由』。これをここでは、『制度』と名づけることにしよう。読まれるとおり、その『制度』は、『装置』とも『物語』とも『風景』とも綴りなおすことが可能なものだ。だが、名付けがたい『不自由』としての『制度』は、それが『制度』であるという理由で否定されるべきだと主張されているのではない。『制度』は悪だと述べられているのでもない。『装置』として、『物語』として、『風景』として不断に機能している『制度』を、人が充分に怖れるに至っていないという事実だけが、何度も繰り返し反復されているだけである。人が『制度』を充分に怖れようとはしないのは、『制度』が、『自由』と『不自由』との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう」(蓮実重彦「表層批評宣言・P.6~7」ちくま文庫 一九八五年)

 

制度にしろ反制度にしろ、ほどよく収まりきってしまって何らの違和感も覚えなくなってしまうような全体主義的「錯覚」から身をかわし続けること。「夏目漱石論」冒頭部にもあった言葉だが簡単なようで意外と難しい。というより昨今この種の困難さは飛躍的に加速したようにおもえる。