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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ367

2024年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十月三十一日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

早起きが定着してきたタマ。

 

いつ寝ているのか。

 

お昼寝なんだなあ。

 

飼い主が自室から出るとドアのすぐそばで寝て待っているのが当たり前になってきた。

 

二階で昼寝する時もぬいぐるみは忘れず顔の近くに置いてある。

 

タマさん、寝てる時もぬいぐるみのことは忘れないんだね。

 

そうだよ、タマが物心ついた時からそばに置いてあったし長い付き合いなんだ。

 

初代タマを譲り受けた時からのおもちゃだからもうかれこれ十五年以上になるかな。

 

じゃあタマより長生きなんだね、このぬいぐるみさん。

 

もしタマが寿命をまっとうしたらぬいぐるみは三十歳ってところかな。

 

タマがいなくなってもぬいぐるみさんは生き残るのか~。でもタマの匂いは一杯つけてあるよ、毎日噛み付いてるし。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。モスキート。テイラー・デュプリーのアンビエント作品は以前から好きだったのだがele-king評を見るとそのデュプリーがマスタリングを手がけているらしい。だからというわけではないが聴いてみると今作のモスキートはある意味懐かしい音響で脳内を満たす。過去への遡及が同時に未来を朧げに照射しつつずっと聴いていたくなるような感覚をもたらしてくれる。


Blog21・資本主義ハロウィンと祝祭

2024年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム

特に近年のアメリカではハロウィンの時期に銃撃事件が起こるようになった。

 

ワイドショーを見ているといわゆる専門家は「治安の乱れ、青少年の乱れ、道徳観念の乱れ」などを口にする。

 

けれどもちょっと立ち止まって次の引用を読み返してみた。

 

「真に力強い儀礼の契機とは、集団的カオス、沸騰、リミナリティ、あるいは創造的な遊びであり、そこからあたらしい社会形態も生まれてくる可能性があるというのである。

 

それからまた、数世紀にわたって交わされてきた、率直にいってえるところの乏しい論争もある。すなわち、一見して転覆的である大衆的祝祭が、本当に見かけ通り転覆的なものなのか、それとも本当は保守的なものであり、日常的な服従の習慣に復帰する前に、庶民にちょっとしたガス抜きをさせて、その高貴ならざる本能を発散させる機会を与えているにすぎないのかといった論争である。しかし、この論争全体がそもそもまったく的を外している。

 

このような祝祭で本当に重要な点は、政治的自己意識の古くからの火種がそこで保持されていたことにある。そうした祝祭は、[既存のそれとは]異なる社会の組織法が実現可能であること、社会総体ですらいまとは異なる組織法が可能であることを人に想起させていた。というのもそれは、カーニヴァルが殻をぶち破ってあらたなる現実と化すと空想することをいつでも人に可能にしたのだから」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.132」光文社 二〇二三年)

 

思うのだが「治安の乱れ、青少年の乱れ、道徳観念の乱れ」などを口にする専門家の多くは逆に「治安の乱れ、青少年の乱れ、道徳観念の乱れ」を縦横無尽に張り巡らせる資本制社会、銃撃事件が起きればそれをすぐさまニュース商品として流通させ消費しお金に換金して儲ける社会をせっせと作り上げる役割を担ってきた人々である。

 

なんでだろうね。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて961

2024年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

ギターのエクササイズ。ジャズのフレージング/アドリブを活用する。

 

(1)チャーリー・パーカー「THRIVING ON A RIFF」から0:55~1:04付近。さほど力まかせではないのだが入りはスウィープとスキッピングを使って最速でこなす。パーカーはフレーズの頭でいきなりこういうメリハリをさりげなく付けることが多い。続く3小節ほどはふつうっぽいフレーズ。ところがギターでやると小指を多用しないわけにはいかないフィンガリングが求められるのでそれがエクササイズになる。後半も突如として速いフレーズが飛び出す。スウィープ&スキップで乗りきるしかないかな。

 

(2)チャーリー・パーカー「THRIVING ON A RIFF」から1:20~1:28付近。ジャズでは聴き慣れたフレンドリーなまでの二つのフレーズの間の2小節でスクリューのようにいきなり瞬速フレーズが挟み込まれる箇所。しかしこれがないとただ単なるムーディー・ジャズで終わってしまいエクササイズにならない。ロックやブルースでは出てこないフレージングゆえに体で叩き込みここという時のためにストックしておくと自信にもなる。

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。


Blog21・二代目タマ’s ライフ366

2024年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年十月三十日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝早くから飼い主の枕元へやって来て遊んでほしがるタマ。

 

時計の針を見るとまだ午前三時。二時間半しか寝ていない。

 

少し早いが早朝のご飯を盛ってやる。

 

よく食べる。食べ終えると今度はぬいぐるみを持って飼い主の枕元までやって来る。

 

タマさん、折り紙の手裏剣は?

 

どっか行っちゃった。

 

どっかって、どこ?

 

たぶんソファの下。

 

探ってみたら出てきた。酷使したからか大分萎びてきている。新しく作ってやらないと。

 

作ってくれるって第2号なの?

 

ん~、家具の下に入らない形にしないとね。埃っぽくなるし。でもあんまり大きな紙だと手裏剣じゃなくなってしまう。どうしよう。どんなのがいい?

 

どんなのがあるの?

 

形は手裏剣に見えるけど中は手毬ってのはどう?

 

思い浮かばないや。

 

明日は忙しいから明後日に試してみよう。

 

よくわかんないけど待ってる。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。モスキート。テイラー・デュプリーのアンビエント作品は以前から好きだったのだがele-king評を見るとそのデュプリーがマスタリングを手がけているらしい。だからというわけではないが聴いてみると今作のモスキートはある意味懐かしい音響で脳内を満たす。過去への遡及が同時に未来を朧げに照射しつつずっと聴いていたくなるような感覚をもたらしてくれる。


Blog21・柳田國男が指摘する「欺瞞的な神道政策」

2024年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム

柳田國男「祭礼と世間」は一九一九(大正八)年五月「東京新聞」に掲載された。長﨑健吾はこう述べる。

 

「『有識階級』を批判して国民に対する《同情》の必要を説く柳田の主張は、単なる道義的な観点からの非難ではない。明治以降の国家のありかたへの彼の根本的な批判、『今日に至るまで、ろくにこれぞという調査を遂げ、計画を立ててみた者がなかった』(『農村雑記』)という設定と、一体になった主張なのである。

 

『祭礼と世間』の末尾に、彼は次のように記している。

 

酒は前申すごとく尊い薬水ではあるが、尚古派の自分等でも、夙(つと)にこれを家庭に入れぬことにしている。濫用の危険が無限にあって、今の新しい生活と調和せぬためである。そうして代りにシトロン(注 炭酸水にレモン果汁などを加えた清涼飲料水)などを飲んでいる。神輿に弊害ありとする有識者のごときも、いたずらに『これ弊害というべきものにあらず』などと論ずることを努めずに、何かこのシトロン様(よう)の物を工夫してはどうか。その代りまた一方には、神社中心の地方統一などという策を、案出する資格はないということを、自覚してかからねばなるまい。かつて神霊の存在を信ぜざる者の祭文沙汰くらい、苦々しいものは世の中にたんとないと思う。

 

全編極めてまわりくどい論の末尾にいたってようやく、柳田が絶えず念頭に置いていた批判対象があきらかにされる。それは彼の眼前で進められていた『神霊の存在を信ぜざる者の祭文沙汰』、国民の多数者と《信仰》を共有しない国家指導層による、欺瞞的な神道政策である」(長﨑健吾「計画する先祖たちの神話(3)」『群像・11・P.363』講談社 二〇二四年)

 

「国民の多数者と《信仰》を共有しない国家指導層による、欺瞞的な神道政策」

 

とある。

 

今や「神道政策」もずいぶん様変わりしたように思える。

 

日本の最大政治政党と統一教会と軍事産業界とが用いる政治暴力と出どころのはっきりしない金の力とによって天皇制が支えられているのか、それとも日本の最大政治政党と統一教会と軍事産業界が用いる政治暴力と出どころのはっきりしない金の力とを支えるために天皇制が政治利用されているのか境界線はあいまいになるばかりである。

 

常にアメリカの厳重な監視下に置かれている天皇家が単独でそこまで勝手なことができるだろうか。米英仏中露などの大国は天皇家の行事とその演出から注意をそらすことは決してないだろうしそれを意識して宮内庁も動くだろう。

 

さらにアメリカは東西冷戦時に堂々と利用した経緯があるためやや消極的ながらフランスからはカルト指定され中国では「邪教」とされイギリスでは「ジャニーズ問題」とほぼ同一視されている統一教会と浅からぬ接点のある政治家が今回の衆院選でも複数当選している。地方議会になるとどれほどの数にのぼるかわかったものではない。多分公表できないだろう。今世紀も四分の一が過ぎようとしているにもかかわらずなお問題解決はほど遠いどころか二世三世問題はますます増殖深刻化する一方である。

 

ところで長﨑健吾は従来の柳田論に付き纏ってきた「同情」という用語の取り扱いについて「付記」としてこう付け加えている。

 

「付記 従来の柳田論は《同情》という用語の彼独特の意味を取り逃がし、共感のニュアンスによって理解し過ぎていたように思われる。こうした傾向は近代知識階級の一員としての彼の立場をあいまいにしてきたことに関わるだろう。国民の多数者と自己のあいだに横たわる差異を自覚するからこそ《同情》という修養が必要とされる。学問が進み《同情》が精緻になればなるほど、差異の乗り越えがたさが明瞭になっていく。こうした彼のありかたが露呈した場面として、思想史家の家永三郎との対談『日本歴史閑談』におけるやりとりを引いておきたい。文字に記されない民間信仰から探り出した『宗教的人生観』は、都会で育った人間の安心立命にどれほど役立つのか。そう家永に問われた柳田は、次のように答えている。

 

それはできない。それは私らのように同情して田舎者の信仰を見ているものすら、自分は仲間に入れない。情けないことに、それはできない」(長﨑健吾「計画する先祖たちの神話(3)」『群像・11・P.363~364』講談社 二〇二四年)

 

自分自身を含む当時の「有識階級」(知識人)に対する柳田の考え方は今のマス-コミ御用コメンテーターより遥かに真摯であり決して悪のりせず民主主義と向き合った点は評価されていいと思える。もっとも今のマス-コミ御用コメンテーターの言動があまりにも殺人的過ぎるゆえそう見えるのかも知れないが。