吐け口を求めて集結した労働者の群れ。ジュネはその「増大する力の感じ」に圧倒される。フランス労働運動の中に明確な「うねり」があった頃のエピソードだ。それは既成の秩序に根底から揺さぶりをかける。もっともその動きは、政府当局から見れば「犯罪」に映って見える。そのことが犯罪者ジュネにとってはたまらなくうれしく美しいものに感じられる。歌が生まれるからである。さてしかし、歌が生まれるといえるのはなぜなのか。群れ集った肉体のうねりはいつどこでどのように歌へと変化するのか。それを見極める方法はどこにあるのか。ジュネはいう。
「その抑揚は、街の流行歌において生じるのがわかるときには私はそう思っているが、いまにも気づかれないままそれらの表現から移行しようとしている。だが彼らの肉体が波打ち、あるいは引き攣るのを見ると、これらの表現がちゃんとその抑揚を捉えたことを、そして彼らの存在全体がその関係の刻印を残していることを私は識別する」(ジュネ「花のノートルダム・P.237」河出文庫)
ところでディヴィーヌは少年時代に始めて味わった獄中の思い出に浸っている。他の不良少年らとはやや違い、比較的裕福な家庭で育った軟弱なキュラフロワにしてみれば辛い思いなしには回想できない、幾らかは苦い思い出でもある。問題になるのは更生院あるいは感化院でもまた身振り仕ぐさだ。
「刑余更生院では、他の小さなチンピラたちがお里の知れたいたずら小僧の役割をとても巧みに受け持った。彼らの言葉遣いは呪いの文句を含んで暗かったし、彼らの身振りは、裏通りや、暗がりや、城壁や、攀じ登った塀を思い起こさせると同時に、半獣神めいて、山男のようだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.242」河出文庫)
ちなみにフランス国内にはこれといった山岳地帯はない。登山といえば他国の山岳地帯が冒険の場だ。たとえばアルプス山脈が代表的だが、他にも「泥棒日記」にあるようにジュネの場合、東はスペインとモロッコにまたがるジブラルタル海峡から西はドイツを抜けていく。旧ユーゴのセルビア人もうろちょろしている。セルビアの隣国ルーマニアにはトランシルバニア山脈がさらに冒険を用意している。アルプス山脈は山男の産地だったが、トランシルバニア山脈は吸血鬼伝説の聖地だった。それらのエピソードが錯綜して少年たちの身振り仕ぐさを「半獣神」めいたものにまで上昇させるのである。百頁ほど前に描かれたキュラフロワの想像の世界の中の描写にこうある。
「革のズボンもはじけさせんばかりの腫れた短い腿をした大人の山の住人たち」(ジュネ「花のノートルダム・P.143」河出文庫)
この「大人の山の住人たち」に少しばかり注意しておこう。ヨーロッパはアジア大陸のほんの一部に過ぎないが、その社会的階層をなしている諸要素は実に幅広かった。「山の住人たち」は登山者のことではない。文字通り「山の住人」であり、日本でいう「マタギ」に相当する。さらにヨーロッパ各地を回遊しながら時に「山の住人」であり時に平野部に降りてきて或る種の職業を営む移動民もいた。ロマ(ジプシー)と混同されているけれども、おそらく彼らは戦後日本にもまだ少数ながら残っていた「サンカ」に分類可能な人々であろう。しかしサンカはどこへ行ったか。回遊民としてのサンカは消えた。高度成長期の資本主義とともに回遊を止めて平野部へ降りてきた。そして消えた。どこへ消えたかというより、都市部へ溶け込んだと考えるのが妥当だろう。山岳地帯をフィールドワークしても伝説ばかりが残っており肝心のサンカが見あたらないのは当然のことである。蓑や竹の技術者としてのサンカ伝説や芸能者としてのサンカ伝説はなるほど各地に残っている。だが毎年台風に見舞われる日本でいつまでも河川敷に小屋掛けして暮らしていくわけにはいかない。産業構造も大きく変化した。今は夏のキャンプ場やバーベキューの場として人気のある山中の河川敷だが、かつては移動民サンカが小屋掛けして暮らしていたところだということを知っている人々もほとんどいないのではないだろうか。ところで感化院でのキュラフロワは周囲の不良少年らが繰り広げる「半獣神」めいたエネルギッシュな行為を思わせる身振り仕ぐさの一つ一つからたちまち「グロテスクなバレエの台本」を創作してしまわずにはいられない。
「この小さな世界の間では、そしてその世界のうちには淫らな冷笑しかないようにちょうどうまい具合にそれを調整しながら、膨れ上がったスカートの上のバレリーナのように支えられた格好で、修道女たちが通り過ぎるのだった。すぐさまキュラフロワは彼女たちのためのグロテスクなバレエの台本を書いた」(ジュネ「花のノートルダム・P.242」河出文庫)
キュラフロワによるバレエ創作にあたって、そのシナリオにはジュネ特有の叙述が見られる。というのはいつものように少年時代にキリスト教会で見習い覚えた種々の舞台装置を動員するだけでたちどころに展開される眩暈(めまい)のような壮麗な光景だからだ。
「シナリオにょれば、彼女たち全員が隔離された中庭に出てくると、極北の夜を守護する『灰色の尼僧』である彼女たちは、あたかもシャンペンで酔っ払ったかのようにうずくまると、腕を上げ、首を振るのだった。黙ったまま。それから彼女たちは輪になると、ロンドを踊る小学生たちのようにくるくると回り、最後には、死ぬほど笑い転げて、くるくる回るイスラムの修道僧のように倒れるまでつま先だって回転していた、その間、施設付きの司祭は聖体顕示台を持って、彼女たちのまんなかを通り過ぎるのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.242~243」河出文庫)
要約して言えば、夜を徹して行われる「ダンス」である。しかしそれは「冒瀆」なのだ。正式な日曜礼拝の場ではなく感化院に収容された不良たちによって行われたという理由だけで。
「ダンスによる冒瀆ーーーそれを想像したことによる冒瀆ーーーはキュラフロワを動揺させていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.243」河出文庫)
歴史的な時系列でいえばルネサンスを境にキリスト教は近代的なダンスを許可する。社交界が誕生したからだ。それがどこほど高慢ちきこの上ない性質のものであっても。キリスト教はただ単なる貨幣によってだけでは動かされないが、製造業や外国貿易によって生じる資本へ転化する貨幣には太刀打ちできないのだ。むしろ資本を支援するし支援してきた。教会へ募金を与える人々の層に変化が生じた。それまでの王室や帝室を遥かに超えて多額の募金額を教会へもたらす人々の層が資本家へ置き換わったからである。なお、中世以降、近代資本主義勃興期に発生したこの種のダンスは、古代の諸民族間で行われていた巫女や踊り子によるダンスとは別物である。
ーーーーー
さて、アルトー。ヨーロッパ人の頑固さと迷妄と思い上がりが弾劾される。差し当たりアルトーはヨーロッパとアジアとに区別して述べているわけだが、アジアもまた欧米の後を追ったという事実においては似たようなものだ。だから次の文章は近代世界と原始的共同体との対立として読まれるべきではない。そうではなく、原始的共同体などもはやとっくの昔に博物館入りしてしまっている今、現代社会の人間の感じ方は心身ともに転倒しているものだという指摘として読まれるべきが妥当だろう。
「決してヨーロッパ人は、次のようなことを考えようとはしないだろう。彼が自分の身体において感じたこと、知覚したこと、彼を揺さぶった感動、彼が経験したばかりの、彼をその美しさによってうっとりさせた新奇な観念、これらが自分のものではないということ、ある他者が彼自身の身体においてこうしたことすべてを感じ生きたということを。もしそんなことを認めれば彼は自分を狂っていると思うだろうし、人は彼のことを狂人になったと言いたくなるだろう」(アルトー『タラウマラ・P.18』河出文庫)
ペヨトルの抽出物の作用を用いた少数民族タラウマラ族の儀式は、時のメキシコ政府によって取り締まり対象とされた。時のメキシコ政府というのはフランス政府の傀儡政権だった。アルトーがメキシコでタラウマラの儀式に参加したのは一九三〇年代。メキシコだけでなく中南米全土がアメリカを始めとする欧米列強によって植民地化された後のことだ。メキシコはフランスによって植民地化された。もっとも、傀儡とはいえメキシコの山岳地帯はまだまだ少数民族の土地であって、白人よりインディアンのほうが多いため、メキシコ政府内部には「親インディアン」の感情が残されていた。アルトーは「混血政府」と述べているが。だからといって、タラウマラ族もまたフランスの傀儡政権となっていたメキシコ政府の許可がなければ年に一度のタラウマラ族の祝祭を開催する許可を得ることができないほど追い詰められていたことは事実である。メキシコ政府軍は山岳地帯でのペヨトル栽培を禁止しペヨトル畑を破壊していた。前回引用したベイトソンの報告にあるようにLSDは意識変容を促す。ペヨトル抽出物は何を促すのだろうか。
「反対にタラウマラ族は一貫して、自分が考え感じ、そして生み出すことすべてにおいて、自分から発生するものと<他者>から発生するものを一貫して区別する。しかし狂人と彼との違いは、要するに彼の個人的意識がこの分割の、そして内的配分の作業において増大したということ、ペヨトルが彼をこの作業に導き、そして彼の意志を強化するということである」(アルトー『タラウマラ・P.18』河出文庫)
欧米列強は少数民族が儀式に用いる独自の薬物を取り上げて代わりにアルコールを与えた。アメリカの植民地では原住民にウイスキーが与えられたように。そうして少数民族を徹底的に堕落させていくことになる。ところが今やアメリカは、そしてフランスもまた、マリファナの主成分であるテトラヒドロカンナビノールの濃縮物や濃縮液を闇ルートで販売するネットワークを世界的規模で作り上げた。さらに無数の労働現場の実際の惨状が上げられる。大企業であれ中小であれ、下請けではなおさら、コカインやエナジードリンクや大量のビタミン剤なしに日々の仕事をこなしていくことができないような職業が圧倒的に増えた。たとえばアメリカのニューヨークを中心とする大都市では、コカインだけを取って見ても、一九九〇年代すでに「サラリーマンドラッグ」として大量の需要があったことが判明している。アメリカ政府の法律やフランス政府の法律は犯罪者を裁くけれどもただ単に裁くだけのことであって、元の社会へ復帰させることにはほとんど一向に関心がない。放置同然である。その意味でもはや国境を超えた闇ルートの出現は必然的現象であり、そもそもアメリカやフランスが自分で作り上げたと十分に言えるのである。資本主義の公理系を無視して暴走する新自由主義の場合、経営戦略を民間に丸投げしてしまうと自然にそうなるのだ。さらにデザイナードラッグの蔓延は東欧やロシア、南米各地を含め世界化している。ドラッグの世界においてもヴァレリーの言葉はなぜか正しい。
「長い間ヨーロッパに有利に傾いているようにみられていたバランスが、《ヨーロッパ自らが招いた結果として》、徐々に反対側へ傾き始めたことを、私は指摘した」(ヴァレリー「精神の危機」『精神の危機・P.25』岩波文庫)
ところで今の世界では自由という言葉が大流行していると同時に疑惑の目でじろじろ見られている。自由という言葉の濫用はとりわけアメリカでその価値をとことん下落させている。だがこのような現象は何も今が始めてでは何らない。かつても何度かあった。だから特に注意したいのはアメリカではなく、なぜ「価値」という言葉が妥当なのかということを知ることでなければならない。ヴァレリーはフランス国家の側に立って述べているにもかかわらず、マルクス「資本論」について高く評価しているのは周知の通りだ。その上で「価値」という言葉を「経済学から借りてきた」と断った上で次のように述べている。
「私の話の骨子は、我々の眼前で我々の生活の諸価値が低下し、暴落してしまったことについてである。そしてこの《価値》という言葉で、私は物質的な価値と精神的な価値を、同じ表現の中、同じ記号の下に包括したのである。私は《価値》という言葉を使った。私の関心はまさにそれである。諸氏の注意を引きたい最も重要な点である。
今日、我々は(ニーチェの卓抜な表現を援用すれば)、真に巨大な価値の転換期に遭遇している。そしてこの講演を『精神の自由』と銘打ったことで、私は、今、物質的価値と同じ運命をたどっているように見える主要な価値の一つを俎上に載せたのである。かくして私は《価値》と言い、《精神》と銘打たれた価値が、《石油》、《小麦》あるいは《金》の価値と同様に存在することを指摘した。私は《価値》と言った、なぜなら、そこには評価、重要度の判断が存在し、《精神》という価値に対して人が支払う用意のある対価もまた存在するからである。この価値(株)に投資することも可能である。そして、株式市場で人々が言うように、価値(株価)の変動を《追跡する》こともできる。私には分からない相場で値動きを観察することもできる。相場とはその価値についての世間一般の意見である。毎日新聞の株式欄一杯に書かれている相場を見れば、その価値が他の価値とあちこちで競合していることが見て取れる。ということは競合する価値があるということだ。それは例えば《政治力》である。政治力は必ずしも精神-価値や《社会保障》株や《国家組織》株と調和しない。これらの諸価値はすべて上がったり、下がったりして、人間事象の一大市場を構成する。そうした事象の中で、憐れなる《精神》-価値は下がる一方である。
《精神》-価値の推移を観察すると、すべての価値と同様、その価値にかけた信頼度によって、人間が二種類に分けられる。この価値にすべてをかける人々がいる、彼らの持てる希望、人生・心・信念の一切をかけるのである。この価値にはあまり期待しない人々もいる。彼らにとって、投資として大きな関心の対象にはならず、価値の変動に対してもほとんど関心がない。さらにはこの価値にはまったく関心を示さない人々もいる。彼らはこの価値に大事なお金をかけることはない。そして、はっきり言えば、この価値をできるかぎり低下させようとする人々もいるのである。私が株式取引所の用語を借りて話していることはお分かりだろう。精神的な事象に関して使うのは奇妙に思われるかもしれない。しかし、他によりよい言葉がないし、多分、この種の関係を表現するのに、捜しても他に適当な言葉はなさそうである。というのは、精神の経済も物質の経済も、人がそれを考えるとき、単純な《価値評価》のせめぎあいとして考えるのが最も分かり易いからである。かくして、私はしばしば、とくにそうしようと思ったわけではまったくないのに、精神生活とその現象および経済生活とその現象の間に類似性が見て取れることに感銘を受けるのであった。
一度その類似性に気づくと、それをとことん追求しないではいられなくなる。経済生活・精神生活のいずれにおいても、すぐに見て取れることは、ともに同じ《生産》と《消費》という概念が見出されることである。精神生活における生産者とは作家、芸術家、哲学者、学者といった人々であり、消費者とは読者、聴取者、観客である。さきほど話題にした価値という概念も、同じく、欠かせないものとして、経済・精神双方の生活に見出される。さらに、交換の概念、需要と供給の概念も同様である。こうしたことは単純であり、簡単に説明がつく。以上の概念は内的世界の市場(そこでは各精神が他の諸々の精神と競合し、交渉し、あるいは、和解する)においても、物質的利害の世界においても、意味を持つものである。さらには、二つの世界のどちら側からも、労働と資本という考え方が有効である。《文明とは一つの資本である》。その増大のために数世紀にわたる努力が必要なのは、ある種の資本を増大させるのと同様で、複利法で増資していくのである。
こうした類似性は考えると意外に思われるかもしれない。しかし類似性はごく自然なものである。私としてはほとんどそこにある種の同一性を見ることにやぶさかではない。理由はこうである。最初に、すでに述べた通り、そこには有機的に同型のものが生産と受容という名の下に介入していること、ーーー生産と受容は交換と切り離せない関係にあるが、そればかりではなく、あらゆる社会的なものはすべからく多くの個人の間で取り結ぶ関係から、生き・考える(多少なりとも考える)人々が織り成す広大なシステム内で起こる出来事から結果するものだからである。システム内部の各人は互いに連繋していると同時に、対立してもいる、ーーー個人としては唯一無二の存在であっても、多数の中にあっては識別されず、あたかも存在しないかのごとくである。そこが肝心な点である。個人は実践的にも、精神的にも、観察され、実証される。一方には個があり、他方には個別化されない数量と事物がある。したがって、こうした関係性の一般的な形は、精神に対する製品の生産、交換、消費にせよ、物質生活における製品の生産、交換、消費にせよ、大差はないのである。
大差がなくて当然ではないだろうか?ーーー同じ問題が見出されるのだから。《個人と個別化されない個人の集合》、集合の中の個人同士は直接的あるいは間接的な関係にある。間接的な関係にあるほうが普通だろう、なぜなら、大抵の場合、経済的にも、精神的にも、我々が外部の圧力を感じるのは間接的な形においてであり、またその反対には、我々が我々の外的行為の影響を不特定多数の聴衆や観衆に及ぼす場合も同様である。
かくして、ある種の二重関係が確立される。一方に交換があり、他方に欲求の多様性、人間の多様性があるとき、個人の特殊性、伝達不能な好悪の感情とか、個々の人間が持っているノーハウとか、技能とか、才能とか、個人的なイデオロギーとかが一つの市場で対立するとき、そうした個人的な価値の対立による競争が流動的均衡を作り出すのである。それはある瞬間の《諸価値》が、その瞬間だけに有効なものとして作り出す均衡である。ある商品が今日、ある時間内で、ある価格で取引されるように、そしてその商品は突然の価格変動に曝されたり、あるいは、緩慢ではあるが持続的な変動に委ねられたりするのと同様に、好みや教条、様式や理想等に関する諸価値も変動する。ただ精神の経済は定義するのがより困難な現象を我々に提示する。というのは精神経済の現象は一般に計測不能であり、器官や特別に作られた制度などで確認できないからである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.224~230』岩波文庫)
さらに今の日本のように、日本政府の政治的責任者である首相の言葉があてにならない今回のケースのような場合、次の文章を改めて読み直してみなくてはならない。
「言語なくして、市場も交換もない。あらゆる交易の第一の道具は言語である。ここでは、かの有名な言葉をあらためて引用することも可能である(ただしその言葉にかなり違った意味付けをすることになるが)。すなわち『はじめに《言葉》ありき』である。『言葉』が交易に先立たなければならなかったのである。
しかし言葉とは私が《精神》と呼んだものを表す厳密な名前の一つに過ぎない。精神と言葉は多くの用例においてはほぼ同義語である。ラテン語訳聖書で『ヴェルブ』と訳されている語は、ギリシア語の《ロゴス》であり、それは同時に《計算》、《推論》、《言葉》、《言説》、《知識》などを意味する語であり、表現という意味もある。
したがって、言葉(ヴェルブ)が精神と同一だと言っても、特段おかしいことを言ったことにはならないと思われる、ーーー言語学的に言っても。
それに、少しでも考えてみれば、あらゆる交流において、まずは会話を始める何かが存在し、交換したい物を指し示し、欲しいものを明示できることが必要である。したがって、感覚と同時に知的理解にも訴える力を持った何かが必要なのだ。そして、その何かこそ、私が一般的な形で《言葉》と呼んだものである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.231~232』岩波文庫)
マスコミに出没する御用学者では対応のしようもないに違いない。
ーーーーー
なお、新型ウイルス問題についてさらに。日本政府、とりわけ首相のリーダーシップを疑問視する声が上がっているけれども、問題はリーダーシップではまったくない。前回述べたように戦後長いあいだ常にパンデミックの危機は指摘されてきた。にもかかわらずこの種の危機対応について有効で柔軟な対応策を作ってこなかったのは戦後すべての歴代首相に当てはまる事情であり今さら首相のリーダーシップを疑問視しても何らの解決にならないのは自明である。とはいえ、首相は首相としての責任を回避することはできないこともまた自明である。パンデミックの危機に対する国際的対応の必要性について見て見ぬふりで放置してきた事実は動かないからである。さらにアメリカでは銃による死者数が年間三万人を下回っていない状態が続いている。現状の新型ウイルスは目に見えない危機であるとしても、目に見える危機である銃による死者の減少さえ実現できていない。アメリカ国家の価値は新型ウイルス問題だけでなく、銃による死者数が一向に現象しないという、そのような傾向に従っても信用下落している点が忘れ去られてはならない。だからドルの価値が脅かされつつあるのはアメリカがアメリカ自身で作り上げた「銃社会」が行き着く理論的帰結の一つに過ぎないといえる。そしてまた日米ともに高級官僚や社会的に重要な地位にある人物の発言が列をなして支離滅裂になっている点にも注目すべきだろう。ところがそれはもう五〇年ほど前から指摘されてきた事実の反復でしかない。次のように。
「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.294~295」河出書房新社)
ところがネット社会実現以降の新自由主義は資本主義が東西冷戦という苦悶と葛藤の末に生み出した「公理系」を甘く考えるようになった。資本主義は「ロシア革命」を「消化する」ことによって延命することができたにもかかわらず、開き直り居直り、かつての成果を自分で廃棄する傾向を露骨に行使するようになった。「ロシア革命」を「消化する」ことができたのは社会主義的福祉政策を充実させることで一般大衆が持っており常に下から湧き起こる可能性のある革命運動のエネルギーを分散させることに成功したからである。ところが新自由主義の果てしない欲望は逆に、経営コンサルタントと化した企業経営者の思うがままに社会福祉部門の切り捨てならびに主に中小企業での低賃金重労働化を加速させてしまった。新しい機械の導入は人員整理を促すけれども残された従業員にはそのぶん新しい機械が要請する過酷な労働の器用な実践を制限時間いっぱいまで強いるからである。露骨な欲望は露骨な格差社会を欲望するようになった。すると当然、社会全体が創成期の資本主義社会に舞い戻ってしまい自己破壊的に作用することになる。さらにネット社会の実現によって資本による目に見える暴力は消えていくが、そのぶん、目に見えない暴力的作用は狡猾に残り社会全体に蔓延するのである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「その抑揚は、街の流行歌において生じるのがわかるときには私はそう思っているが、いまにも気づかれないままそれらの表現から移行しようとしている。だが彼らの肉体が波打ち、あるいは引き攣るのを見ると、これらの表現がちゃんとその抑揚を捉えたことを、そして彼らの存在全体がその関係の刻印を残していることを私は識別する」(ジュネ「花のノートルダム・P.237」河出文庫)
ところでディヴィーヌは少年時代に始めて味わった獄中の思い出に浸っている。他の不良少年らとはやや違い、比較的裕福な家庭で育った軟弱なキュラフロワにしてみれば辛い思いなしには回想できない、幾らかは苦い思い出でもある。問題になるのは更生院あるいは感化院でもまた身振り仕ぐさだ。
「刑余更生院では、他の小さなチンピラたちがお里の知れたいたずら小僧の役割をとても巧みに受け持った。彼らの言葉遣いは呪いの文句を含んで暗かったし、彼らの身振りは、裏通りや、暗がりや、城壁や、攀じ登った塀を思い起こさせると同時に、半獣神めいて、山男のようだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.242」河出文庫)
ちなみにフランス国内にはこれといった山岳地帯はない。登山といえば他国の山岳地帯が冒険の場だ。たとえばアルプス山脈が代表的だが、他にも「泥棒日記」にあるようにジュネの場合、東はスペインとモロッコにまたがるジブラルタル海峡から西はドイツを抜けていく。旧ユーゴのセルビア人もうろちょろしている。セルビアの隣国ルーマニアにはトランシルバニア山脈がさらに冒険を用意している。アルプス山脈は山男の産地だったが、トランシルバニア山脈は吸血鬼伝説の聖地だった。それらのエピソードが錯綜して少年たちの身振り仕ぐさを「半獣神」めいたものにまで上昇させるのである。百頁ほど前に描かれたキュラフロワの想像の世界の中の描写にこうある。
「革のズボンもはじけさせんばかりの腫れた短い腿をした大人の山の住人たち」(ジュネ「花のノートルダム・P.143」河出文庫)
この「大人の山の住人たち」に少しばかり注意しておこう。ヨーロッパはアジア大陸のほんの一部に過ぎないが、その社会的階層をなしている諸要素は実に幅広かった。「山の住人たち」は登山者のことではない。文字通り「山の住人」であり、日本でいう「マタギ」に相当する。さらにヨーロッパ各地を回遊しながら時に「山の住人」であり時に平野部に降りてきて或る種の職業を営む移動民もいた。ロマ(ジプシー)と混同されているけれども、おそらく彼らは戦後日本にもまだ少数ながら残っていた「サンカ」に分類可能な人々であろう。しかしサンカはどこへ行ったか。回遊民としてのサンカは消えた。高度成長期の資本主義とともに回遊を止めて平野部へ降りてきた。そして消えた。どこへ消えたかというより、都市部へ溶け込んだと考えるのが妥当だろう。山岳地帯をフィールドワークしても伝説ばかりが残っており肝心のサンカが見あたらないのは当然のことである。蓑や竹の技術者としてのサンカ伝説や芸能者としてのサンカ伝説はなるほど各地に残っている。だが毎年台風に見舞われる日本でいつまでも河川敷に小屋掛けして暮らしていくわけにはいかない。産業構造も大きく変化した。今は夏のキャンプ場やバーベキューの場として人気のある山中の河川敷だが、かつては移動民サンカが小屋掛けして暮らしていたところだということを知っている人々もほとんどいないのではないだろうか。ところで感化院でのキュラフロワは周囲の不良少年らが繰り広げる「半獣神」めいたエネルギッシュな行為を思わせる身振り仕ぐさの一つ一つからたちまち「グロテスクなバレエの台本」を創作してしまわずにはいられない。
「この小さな世界の間では、そしてその世界のうちには淫らな冷笑しかないようにちょうどうまい具合にそれを調整しながら、膨れ上がったスカートの上のバレリーナのように支えられた格好で、修道女たちが通り過ぎるのだった。すぐさまキュラフロワは彼女たちのためのグロテスクなバレエの台本を書いた」(ジュネ「花のノートルダム・P.242」河出文庫)
キュラフロワによるバレエ創作にあたって、そのシナリオにはジュネ特有の叙述が見られる。というのはいつものように少年時代にキリスト教会で見習い覚えた種々の舞台装置を動員するだけでたちどころに展開される眩暈(めまい)のような壮麗な光景だからだ。
「シナリオにょれば、彼女たち全員が隔離された中庭に出てくると、極北の夜を守護する『灰色の尼僧』である彼女たちは、あたかもシャンペンで酔っ払ったかのようにうずくまると、腕を上げ、首を振るのだった。黙ったまま。それから彼女たちは輪になると、ロンドを踊る小学生たちのようにくるくると回り、最後には、死ぬほど笑い転げて、くるくる回るイスラムの修道僧のように倒れるまでつま先だって回転していた、その間、施設付きの司祭は聖体顕示台を持って、彼女たちのまんなかを通り過ぎるのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.242~243」河出文庫)
要約して言えば、夜を徹して行われる「ダンス」である。しかしそれは「冒瀆」なのだ。正式な日曜礼拝の場ではなく感化院に収容された不良たちによって行われたという理由だけで。
「ダンスによる冒瀆ーーーそれを想像したことによる冒瀆ーーーはキュラフロワを動揺させていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.243」河出文庫)
歴史的な時系列でいえばルネサンスを境にキリスト教は近代的なダンスを許可する。社交界が誕生したからだ。それがどこほど高慢ちきこの上ない性質のものであっても。キリスト教はただ単なる貨幣によってだけでは動かされないが、製造業や外国貿易によって生じる資本へ転化する貨幣には太刀打ちできないのだ。むしろ資本を支援するし支援してきた。教会へ募金を与える人々の層に変化が生じた。それまでの王室や帝室を遥かに超えて多額の募金額を教会へもたらす人々の層が資本家へ置き換わったからである。なお、中世以降、近代資本主義勃興期に発生したこの種のダンスは、古代の諸民族間で行われていた巫女や踊り子によるダンスとは別物である。
ーーーーー
さて、アルトー。ヨーロッパ人の頑固さと迷妄と思い上がりが弾劾される。差し当たりアルトーはヨーロッパとアジアとに区別して述べているわけだが、アジアもまた欧米の後を追ったという事実においては似たようなものだ。だから次の文章は近代世界と原始的共同体との対立として読まれるべきではない。そうではなく、原始的共同体などもはやとっくの昔に博物館入りしてしまっている今、現代社会の人間の感じ方は心身ともに転倒しているものだという指摘として読まれるべきが妥当だろう。
「決してヨーロッパ人は、次のようなことを考えようとはしないだろう。彼が自分の身体において感じたこと、知覚したこと、彼を揺さぶった感動、彼が経験したばかりの、彼をその美しさによってうっとりさせた新奇な観念、これらが自分のものではないということ、ある他者が彼自身の身体においてこうしたことすべてを感じ生きたということを。もしそんなことを認めれば彼は自分を狂っていると思うだろうし、人は彼のことを狂人になったと言いたくなるだろう」(アルトー『タラウマラ・P.18』河出文庫)
ペヨトルの抽出物の作用を用いた少数民族タラウマラ族の儀式は、時のメキシコ政府によって取り締まり対象とされた。時のメキシコ政府というのはフランス政府の傀儡政権だった。アルトーがメキシコでタラウマラの儀式に参加したのは一九三〇年代。メキシコだけでなく中南米全土がアメリカを始めとする欧米列強によって植民地化された後のことだ。メキシコはフランスによって植民地化された。もっとも、傀儡とはいえメキシコの山岳地帯はまだまだ少数民族の土地であって、白人よりインディアンのほうが多いため、メキシコ政府内部には「親インディアン」の感情が残されていた。アルトーは「混血政府」と述べているが。だからといって、タラウマラ族もまたフランスの傀儡政権となっていたメキシコ政府の許可がなければ年に一度のタラウマラ族の祝祭を開催する許可を得ることができないほど追い詰められていたことは事実である。メキシコ政府軍は山岳地帯でのペヨトル栽培を禁止しペヨトル畑を破壊していた。前回引用したベイトソンの報告にあるようにLSDは意識変容を促す。ペヨトル抽出物は何を促すのだろうか。
「反対にタラウマラ族は一貫して、自分が考え感じ、そして生み出すことすべてにおいて、自分から発生するものと<他者>から発生するものを一貫して区別する。しかし狂人と彼との違いは、要するに彼の個人的意識がこの分割の、そして内的配分の作業において増大したということ、ペヨトルが彼をこの作業に導き、そして彼の意志を強化するということである」(アルトー『タラウマラ・P.18』河出文庫)
欧米列強は少数民族が儀式に用いる独自の薬物を取り上げて代わりにアルコールを与えた。アメリカの植民地では原住民にウイスキーが与えられたように。そうして少数民族を徹底的に堕落させていくことになる。ところが今やアメリカは、そしてフランスもまた、マリファナの主成分であるテトラヒドロカンナビノールの濃縮物や濃縮液を闇ルートで販売するネットワークを世界的規模で作り上げた。さらに無数の労働現場の実際の惨状が上げられる。大企業であれ中小であれ、下請けではなおさら、コカインやエナジードリンクや大量のビタミン剤なしに日々の仕事をこなしていくことができないような職業が圧倒的に増えた。たとえばアメリカのニューヨークを中心とする大都市では、コカインだけを取って見ても、一九九〇年代すでに「サラリーマンドラッグ」として大量の需要があったことが判明している。アメリカ政府の法律やフランス政府の法律は犯罪者を裁くけれどもただ単に裁くだけのことであって、元の社会へ復帰させることにはほとんど一向に関心がない。放置同然である。その意味でもはや国境を超えた闇ルートの出現は必然的現象であり、そもそもアメリカやフランスが自分で作り上げたと十分に言えるのである。資本主義の公理系を無視して暴走する新自由主義の場合、経営戦略を民間に丸投げしてしまうと自然にそうなるのだ。さらにデザイナードラッグの蔓延は東欧やロシア、南米各地を含め世界化している。ドラッグの世界においてもヴァレリーの言葉はなぜか正しい。
「長い間ヨーロッパに有利に傾いているようにみられていたバランスが、《ヨーロッパ自らが招いた結果として》、徐々に反対側へ傾き始めたことを、私は指摘した」(ヴァレリー「精神の危機」『精神の危機・P.25』岩波文庫)
ところで今の世界では自由という言葉が大流行していると同時に疑惑の目でじろじろ見られている。自由という言葉の濫用はとりわけアメリカでその価値をとことん下落させている。だがこのような現象は何も今が始めてでは何らない。かつても何度かあった。だから特に注意したいのはアメリカではなく、なぜ「価値」という言葉が妥当なのかということを知ることでなければならない。ヴァレリーはフランス国家の側に立って述べているにもかかわらず、マルクス「資本論」について高く評価しているのは周知の通りだ。その上で「価値」という言葉を「経済学から借りてきた」と断った上で次のように述べている。
「私の話の骨子は、我々の眼前で我々の生活の諸価値が低下し、暴落してしまったことについてである。そしてこの《価値》という言葉で、私は物質的な価値と精神的な価値を、同じ表現の中、同じ記号の下に包括したのである。私は《価値》という言葉を使った。私の関心はまさにそれである。諸氏の注意を引きたい最も重要な点である。
今日、我々は(ニーチェの卓抜な表現を援用すれば)、真に巨大な価値の転換期に遭遇している。そしてこの講演を『精神の自由』と銘打ったことで、私は、今、物質的価値と同じ運命をたどっているように見える主要な価値の一つを俎上に載せたのである。かくして私は《価値》と言い、《精神》と銘打たれた価値が、《石油》、《小麦》あるいは《金》の価値と同様に存在することを指摘した。私は《価値》と言った、なぜなら、そこには評価、重要度の判断が存在し、《精神》という価値に対して人が支払う用意のある対価もまた存在するからである。この価値(株)に投資することも可能である。そして、株式市場で人々が言うように、価値(株価)の変動を《追跡する》こともできる。私には分からない相場で値動きを観察することもできる。相場とはその価値についての世間一般の意見である。毎日新聞の株式欄一杯に書かれている相場を見れば、その価値が他の価値とあちこちで競合していることが見て取れる。ということは競合する価値があるということだ。それは例えば《政治力》である。政治力は必ずしも精神-価値や《社会保障》株や《国家組織》株と調和しない。これらの諸価値はすべて上がったり、下がったりして、人間事象の一大市場を構成する。そうした事象の中で、憐れなる《精神》-価値は下がる一方である。
《精神》-価値の推移を観察すると、すべての価値と同様、その価値にかけた信頼度によって、人間が二種類に分けられる。この価値にすべてをかける人々がいる、彼らの持てる希望、人生・心・信念の一切をかけるのである。この価値にはあまり期待しない人々もいる。彼らにとって、投資として大きな関心の対象にはならず、価値の変動に対してもほとんど関心がない。さらにはこの価値にはまったく関心を示さない人々もいる。彼らはこの価値に大事なお金をかけることはない。そして、はっきり言えば、この価値をできるかぎり低下させようとする人々もいるのである。私が株式取引所の用語を借りて話していることはお分かりだろう。精神的な事象に関して使うのは奇妙に思われるかもしれない。しかし、他によりよい言葉がないし、多分、この種の関係を表現するのに、捜しても他に適当な言葉はなさそうである。というのは、精神の経済も物質の経済も、人がそれを考えるとき、単純な《価値評価》のせめぎあいとして考えるのが最も分かり易いからである。かくして、私はしばしば、とくにそうしようと思ったわけではまったくないのに、精神生活とその現象および経済生活とその現象の間に類似性が見て取れることに感銘を受けるのであった。
一度その類似性に気づくと、それをとことん追求しないではいられなくなる。経済生活・精神生活のいずれにおいても、すぐに見て取れることは、ともに同じ《生産》と《消費》という概念が見出されることである。精神生活における生産者とは作家、芸術家、哲学者、学者といった人々であり、消費者とは読者、聴取者、観客である。さきほど話題にした価値という概念も、同じく、欠かせないものとして、経済・精神双方の生活に見出される。さらに、交換の概念、需要と供給の概念も同様である。こうしたことは単純であり、簡単に説明がつく。以上の概念は内的世界の市場(そこでは各精神が他の諸々の精神と競合し、交渉し、あるいは、和解する)においても、物質的利害の世界においても、意味を持つものである。さらには、二つの世界のどちら側からも、労働と資本という考え方が有効である。《文明とは一つの資本である》。その増大のために数世紀にわたる努力が必要なのは、ある種の資本を増大させるのと同様で、複利法で増資していくのである。
こうした類似性は考えると意外に思われるかもしれない。しかし類似性はごく自然なものである。私としてはほとんどそこにある種の同一性を見ることにやぶさかではない。理由はこうである。最初に、すでに述べた通り、そこには有機的に同型のものが生産と受容という名の下に介入していること、ーーー生産と受容は交換と切り離せない関係にあるが、そればかりではなく、あらゆる社会的なものはすべからく多くの個人の間で取り結ぶ関係から、生き・考える(多少なりとも考える)人々が織り成す広大なシステム内で起こる出来事から結果するものだからである。システム内部の各人は互いに連繋していると同時に、対立してもいる、ーーー個人としては唯一無二の存在であっても、多数の中にあっては識別されず、あたかも存在しないかのごとくである。そこが肝心な点である。個人は実践的にも、精神的にも、観察され、実証される。一方には個があり、他方には個別化されない数量と事物がある。したがって、こうした関係性の一般的な形は、精神に対する製品の生産、交換、消費にせよ、物質生活における製品の生産、交換、消費にせよ、大差はないのである。
大差がなくて当然ではないだろうか?ーーー同じ問題が見出されるのだから。《個人と個別化されない個人の集合》、集合の中の個人同士は直接的あるいは間接的な関係にある。間接的な関係にあるほうが普通だろう、なぜなら、大抵の場合、経済的にも、精神的にも、我々が外部の圧力を感じるのは間接的な形においてであり、またその反対には、我々が我々の外的行為の影響を不特定多数の聴衆や観衆に及ぼす場合も同様である。
かくして、ある種の二重関係が確立される。一方に交換があり、他方に欲求の多様性、人間の多様性があるとき、個人の特殊性、伝達不能な好悪の感情とか、個々の人間が持っているノーハウとか、技能とか、才能とか、個人的なイデオロギーとかが一つの市場で対立するとき、そうした個人的な価値の対立による競争が流動的均衡を作り出すのである。それはある瞬間の《諸価値》が、その瞬間だけに有効なものとして作り出す均衡である。ある商品が今日、ある時間内で、ある価格で取引されるように、そしてその商品は突然の価格変動に曝されたり、あるいは、緩慢ではあるが持続的な変動に委ねられたりするのと同様に、好みや教条、様式や理想等に関する諸価値も変動する。ただ精神の経済は定義するのがより困難な現象を我々に提示する。というのは精神経済の現象は一般に計測不能であり、器官や特別に作られた制度などで確認できないからである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.224~230』岩波文庫)
さらに今の日本のように、日本政府の政治的責任者である首相の言葉があてにならない今回のケースのような場合、次の文章を改めて読み直してみなくてはならない。
「言語なくして、市場も交換もない。あらゆる交易の第一の道具は言語である。ここでは、かの有名な言葉をあらためて引用することも可能である(ただしその言葉にかなり違った意味付けをすることになるが)。すなわち『はじめに《言葉》ありき』である。『言葉』が交易に先立たなければならなかったのである。
しかし言葉とは私が《精神》と呼んだものを表す厳密な名前の一つに過ぎない。精神と言葉は多くの用例においてはほぼ同義語である。ラテン語訳聖書で『ヴェルブ』と訳されている語は、ギリシア語の《ロゴス》であり、それは同時に《計算》、《推論》、《言葉》、《言説》、《知識》などを意味する語であり、表現という意味もある。
したがって、言葉(ヴェルブ)が精神と同一だと言っても、特段おかしいことを言ったことにはならないと思われる、ーーー言語学的に言っても。
それに、少しでも考えてみれば、あらゆる交流において、まずは会話を始める何かが存在し、交換したい物を指し示し、欲しいものを明示できることが必要である。したがって、感覚と同時に知的理解にも訴える力を持った何かが必要なのだ。そして、その何かこそ、私が一般的な形で《言葉》と呼んだものである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.231~232』岩波文庫)
マスコミに出没する御用学者では対応のしようもないに違いない。
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なお、新型ウイルス問題についてさらに。日本政府、とりわけ首相のリーダーシップを疑問視する声が上がっているけれども、問題はリーダーシップではまったくない。前回述べたように戦後長いあいだ常にパンデミックの危機は指摘されてきた。にもかかわらずこの種の危機対応について有効で柔軟な対応策を作ってこなかったのは戦後すべての歴代首相に当てはまる事情であり今さら首相のリーダーシップを疑問視しても何らの解決にならないのは自明である。とはいえ、首相は首相としての責任を回避することはできないこともまた自明である。パンデミックの危機に対する国際的対応の必要性について見て見ぬふりで放置してきた事実は動かないからである。さらにアメリカでは銃による死者数が年間三万人を下回っていない状態が続いている。現状の新型ウイルスは目に見えない危機であるとしても、目に見える危機である銃による死者の減少さえ実現できていない。アメリカ国家の価値は新型ウイルス問題だけでなく、銃による死者数が一向に現象しないという、そのような傾向に従っても信用下落している点が忘れ去られてはならない。だからドルの価値が脅かされつつあるのはアメリカがアメリカ自身で作り上げた「銃社会」が行き着く理論的帰結の一つに過ぎないといえる。そしてまた日米ともに高級官僚や社会的に重要な地位にある人物の発言が列をなして支離滅裂になっている点にも注目すべきだろう。ところがそれはもう五〇年ほど前から指摘されてきた事実の反復でしかない。次のように。
「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.294~295」河出書房新社)
ところがネット社会実現以降の新自由主義は資本主義が東西冷戦という苦悶と葛藤の末に生み出した「公理系」を甘く考えるようになった。資本主義は「ロシア革命」を「消化する」ことによって延命することができたにもかかわらず、開き直り居直り、かつての成果を自分で廃棄する傾向を露骨に行使するようになった。「ロシア革命」を「消化する」ことができたのは社会主義的福祉政策を充実させることで一般大衆が持っており常に下から湧き起こる可能性のある革命運動のエネルギーを分散させることに成功したからである。ところが新自由主義の果てしない欲望は逆に、経営コンサルタントと化した企業経営者の思うがままに社会福祉部門の切り捨てならびに主に中小企業での低賃金重労働化を加速させてしまった。新しい機械の導入は人員整理を促すけれども残された従業員にはそのぶん新しい機械が要請する過酷な労働の器用な実践を制限時間いっぱいまで強いるからである。露骨な欲望は露骨な格差社会を欲望するようになった。すると当然、社会全体が創成期の資本主義社会に舞い戻ってしまい自己破壊的に作用することになる。さらにネット社会の実現によって資本による目に見える暴力は消えていくが、そのぶん、目に見えない暴力的作用は狡猾に残り社会全体に蔓延するのである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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