白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21への序章5

2021年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
シャーマニズムが古代祭祀の核心を成していた時代。しかしそれは思想・信仰として残されるとともに実質的には徐々に衰退していく。続けてみていこう。まず、トランス状態の中で「魂」が「天に登る」という記述。仲介するのは「夢」である。

「昔余夢登天兮 魂中道而無杭

(書き下し)昔(むかし) 余(われ) 夢(ゆめ)に天(てん)に登(のぼ)る 魂(たましい) 中道(ちゅうどう)にして杭(こう)する無(な)し

(現代語訳)以前、わたしは夢の中で天に登ろうとしたことがあったが その途中で登るための手掛りがなくなり、魂は行き惑った」(「楚辞・九章 第四・P.259~260」岩波文庫)

これまでのような万能感は急速に薄れている。逆に魂は行き場を見失っている。だがどうしてそのような状態に傾斜していったのか。いつまでも神仙思想ばかりを追いかけている場合ではないと考えるのがごく普通なのかもしれない。しかしそれだけでは説明にならない。今のヨーロッパや中国はもとより日本でも神道や仏教では幾らでも吉凶を占い様々な神仏を崇拝する思想は依然として根強く残っているからである。では一体何が起こったのか。単なる権力闘争、というより嫉妬にまみれた劣等感(ルサンチマン)を原動力とする陰湿な臣下らによる「讒言(ざんげん)」の横行である。

「故衆口其鑠金兮 初若是而逢殆

(書き下し)故(もと)より衆口(しゅうこう)は其(そ)れ金(きん)をも鑠(と)かす 初(はじ)め是(かく)の若(ごと)くにして殆(わざわ)いに逢(あ)う

(現代語訳)元来、人々の言葉には金属をも溶かす力があり、たとえおまえが金属であったとしても、〔讒言(ざんげん)をこうむり〕危険な目にあうことになろう」(「楚辞・九章 第四・P.259~260」岩波文庫)

この「衆口其鑠金」は「史記列伝」の中ではもう教訓の一つとしてステレオタイプ(常套句)と化していた。注釈にこうある。

「積羽(せきう)は舟を沈め、群軽は軸を折り、衆口は金を鑠(とか)す」(「張儀列伝 第十」『史記列伝1・P.165』岩波文庫)

意味は、注釈によれば、「鳥の羽もつもれば船を沈没させ、軽い物でもたくさんのせれば車のしんぼうを折り、人の口もたびかさなれば金属をもとかす」、とのこと。さらに少し気になる点。

「張儀は出かけていって楚のようすをさぐった」(「張儀列伝 第十」『史記列伝1・P.166』岩波文庫)

「往相楚」の「相」は「視」。「時を相(み)て動く」。張儀は敵国の動向を探りに行く、という意味。「春秋左氏伝」では次の箇所。

「自分の力に応じて事を行ない、時の変化に応じた対策をとって、子孫に累(るい)を残さない」(「春秋左氏伝・上・隠公十一年・P.57」岩波文庫)

夏目漱石に言わせるとこうなる。

「作家は身辺の状況と天下の形勢に応じて時々その立場を変えなければならん。評家もまた眼界を広くして必要の場合には作物に対するごとにその見地を改めねば活(い)きた批評は出来まい」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.173』岩波文庫)

マルクス=エンゲルスもいっている。

「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの《状態》、それに則って現実が正されるべき一つの《理想》ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、<実践的な>現在の状態を止揚する《現実的な》運動だ。<僕らは単に次のことを記述するだけにしなければならない>この運動の諸条件は<眼前の現実そのものに従って判定されるべき>今日現存する前提から生じる」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.71」岩波文庫)

また「楚辞・九章 第四」は屈原が楚から追放され、その屈辱とか悲哀とか絶望とかが入り混じった詩歌でいっぱい。有能な忠臣であるにもかかわらずその有能さゆえ、周囲の馬鹿馬鹿しい二流三流の謀臣の讒言(ざんげん)と国王の無知によって自殺に追い込まれた「伍子胥(ごししょ)」。その政治的不遇を詠んだ部分が何度か出てくる。伍子胥については有名で以前にも取り上げた。最初は楚から追放されて呉に重用され、楚を撃破した。

「以前に伍員(ごうん)と申包胥(しんほうしょ)はしたしい友であった。伍員が亡命するとき、申包胥に『おれはきっと楚をひっくりかえしてやる』と語ったが、包胥は『おれはきっと国をつづかせてみせる』と言ったことがあった。いよいよ呉の軍隊が郢(えい)に入城したとき、伍子胥は昭王のありかをさがしたが、見つからなかった。そこで楚の平王の墓をあばき、死骸を掘り出し、三百ぺん鞭で打つまでやめなかった」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.64~65』岩波文庫)

にもかかわらず今度は呉の謀臣の讒言(ざんげん)によって自殺を命じられて死んだ。

「伍子胥は天をあおいで大息をつき、『さてもさても。讒臣(ざんしん)嚭(ひ)が乱をなしおったのを、王さまは、あべこべにわしを殺されるとは、わしはきさまの父に覇業を成させた。きさまが王にならぬまえ、公子たちが位を争った。わしは命にかえて先王さまをいさめたが、とても立てられぬところであった。きさまが位についたあと、呉の国を分けてやろうと言ったが、わしはそれを望もうともしなかった。それが今はへつらい者の言葉を信じ、善意の者を殺すのか』と言い、それからけらいに言いつけた、『わしの墓には、梓(あずさ)の木を必ずうえろ。〔木が大きくなったら、呉王の〕棺桶にできるだろう。そしてわしの目だまをえぐり出して、呉の都の東門の上におけ。越(えつ)の敵がはいって呉を滅ぼすのをながめるのだ』。こうして自ら首をはねて死んだ」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.69』岩波文庫)

とはいえ神仙思想が滅びたわけではない。それはただ単なる占術とか妖術とかではなく、実践的軍事行動についての緻密な政治戦略と並行して執り行われるのが通例だった。

「魂一夕而九逝 曾不知路之曲直兮 南指月與列星 願徑逝而不得兮 魂識路之營營

(書き下し)魂(たましい) 一夕(いっせき)にして九逝(きゅうせい)す 曾(かつ)て路(みち)の曲直(きょくちょく)を知(し)らず 南(みなみ)のかた月(つき)と列星(れっせい)とを指(さ)す 徑逝(けいせい)せんと願(ねが)うも得ず 魂(たましい)路(みち)を識(し)りて 之(こ)れ営営たり

(現代語訳)魂は一晩のうちに九たびもその道を行き来しようとする 〔その魂にも〕道の曲がり目と直線とについて、詳細な様子がわからないので 南方に照る月と星々とを見ておおよその方向を定めてゆく ご主君のもとにまっすぐ駆けつけたいと願っても、それは許されていない 魂だけが道を知っていて、〔夢の中で〕その道を苦労してたどってゆく」(「楚辞・九章 第四・P.302~304」岩波文庫)

魂は飛翔する。しかしもはや以前のような勢いは一向に感じられない。

「眴兮杳杳 孔靜幽默

(書き下し)眴(み)るに杳杳(ようよう)たり、孔(はなは)だ静(しず)かにして幽黙(ゆうもく)なり

(現代語訳)目に映る風景は、暗く閉ざされ、静まりかえっている」(「楚辞・九章 第四・P.309」岩波文庫)

シャーマンは周囲の自然環境・地理的諸条件をよく「視(みる)=観(みる)」ことが重要だからだ。実によく見えるわけだが、しかし今やその「目に映る風景は、暗く閉ざされ、静まりかえっている」。行くあてを失った一向の漂泊と絶望とが滲み出る。

「高辛之靈盛兮 遭玄鳥而致詒

(書き下し)高辛(こうしん)の霊盛(れいせい)なる、玄鳥(げんちょう)に遭(あ)いて詒(い)を致(いた)す

(現代語訳)むかし、高辛氏(こうしんし)は盛んな霊力を発揮し、ツバメを見つけ、思う女性に贈り物をとどけさせた」(「楚辞・九章 第四・P.321~322」岩波文庫)

そういえば「高辛氏(こうしんし)は盛んな霊力を発揮し、ツバメを見つけ、思う女性に贈り物をとどけさせた」という。けれどもそれは今となっては「むかし」の話でしかない。

「寤從容以周流兮 聊逍遙以自恃

(書き下し)寤(さ)めて従容(しょうよう)として以(も)って周流(しゅうりゅう)し、聊(いささ)か逍遥(しょうよう)して以(も)って自(みずか)ら恃(たの)む

(現代語訳)目覚めて、気持ちを和らげ、旅立ち、いささか逍遥して、みずからを慰めようとする」(「楚辞・九章 第四・P.353~355」岩波文庫)

また天を周流する「天上遊行」を試みる。そうするのは意気揚々とモチベーションを上げるためではなく、逆に「いささか逍遥して、みずからを慰めようとする」ためであり、ややもすると近現代人が直面している「癒し」にも似る。

「折若木以蔽光兮 隋飄風之所仍 存髣髴而不見兮 心踊躍其若湯

(書き下し)若木(じゃくぼく)を折(お)りて以(も)って光(ひか)りを蔽(おお)い、飄風(ひょうふう)の仍(よ)る所(ところ)に随(したが)う 存(そん)するも髣髴(ほうふつ)として見(み)えず、心(こころ)、踊躍(ようやく)して其(そ)れ湯(ゆ)の若(ごと)し

(現代語訳)若木(じゃくぼく)の枝を折り取って太陽の輝きを遮り、飄風(ひょうふう)が行き着く先まで追ってゆく 思いを凝らしてもなにも見えない、心は跳ね上がって熱湯が沸騰するようだ」(「楚辞・九章 第四・P.353~355」岩波文庫)

ともあれ「周流」=「天上遊行」には心を躍らせるものがあるのは確かだ。「九歌」のように天上の音楽とともにあることもなくはないから。精神は灼熱する。ここでもまた「飄風(ひょうふう)」とあり、飄々たる「風」は天上世界の「乗り物」そのものである。世界中どこでも遙か古代に発達したのは(1)山岳信仰、(2)漂泊遊行信仰。その経緯はそんなところに理由があるのかもしれない。山岳地帯ではその頂上や巨石が、漂泊遊行の場合は泉・オアシス・巨木などが聖地とされ、そこに棲息する動物が「神・神の使い」とされたりした。

「登石巒以遠望兮 路眇眇之默默 入景響之無應兮 聞省想而不可得

(書き下し)石巒(せきらん)に登(のぼ)りて以(も)って遠望(えんぼう)すれば、路(みち) 眇眇(びょうびょう)として之(こ)れ黙黙(もくもく)たり 景響(けいきょう)の応(おう)無(な)きに入(い)り、聞(ぶん) 省想(しょうそう)するも得可(うべ)からず

(現代語訳)岩峰に登って遠望すれば、行く先の路は遥かに、この世界は静まりかえっている 光りも声も反応しない領域に入って、聴覚の反応を求めるが、それも得られない」(「楚辞・九章 第四・P.357~359」岩波文庫)

そして「周流」=「天上遊行」のうちに気を紛らわせたりこの先どこへ行くべきかと遥か遠くへ想念を振り向けるけれども、「世界は静まりかえっている」ばかりか「光りも声も反応しない領域に入って、聴覚の反応を求めるが、それも得られない」。詩人あるいは主人公たちは憂鬱極まりない心情に陥っていく。

「上高巖之峭岸兮 處雌蜺之標顚 據⾭冥而攄虹兮 遂儵忽而捫天

(書き下し)高巌(こうがん)の峭岸(しょうがん)たるに上(のぼ)り、雌蜺(しげい)の標顚(ひょうてん)たるに処(お)る 青冥(せいめい)に拠(よ)り虹(にじ)を攄(ちょ)し、遂(つい)に儵忽(しゅくこつ)として天(てん)を捫(な)ず

(現代語訳)そびえ立つ高い岩峰に登り立ち、天を摩(ま)する雌蜺(めすにじ)とともにある 青冥(てんくう)の中に身を置き、虹をよじ登り、そのまま、あっという間に、天と接触した」(「楚辞・九章 第四・P.360~362」岩波文庫)

何度も繰り返し反復される遊行。シャーマニズムにおける神とのコミュニケーション。「高巖(こうがん)」は実在の山を指すのではなく、神話の上で天界へ赴くためのミステリアスな宇宙的山岳地帯。例えば「鳳凰(ほうおう)」が飛翔して見せる絵画は全世界に何万とあるだろうけれども、その背後に描かれている山々は実際どの山を指すかと問われてもそれこそ「高巖(こうがん)」としか言えない。

「依風穴以自息兮 忽傾寤以嬋媛

(書き下し)風穴(ふうけつ)に依(よ)りて以(も)って自息(じそく)し、忽(たちま)ち傾寤(けいご)して以(も)って嬋媛(せんえん)たり

(現代語訳)風穴(ふうけつ)に身を寄せてしばし休息すると、たちまち視界が広がり、思いは果てしない」(「楚辞・九章 第四・P.361~362」岩波文庫)

どこか知らないところに風が通り抜けていく穴がある。神話的な風穴。それが「風穴(ふうけつ)」。さらに「穴(あな)」について、日本の説話でも巨木の根本の辺りに出来た大きな穴に寄りかかって寝ている夜に暗闇の中から神々(道祖神など)の声がしたといった類話は多い。

「觀炎氣之相仍兮 窺煙液之所積

(書き下し)炎気(えんき)の相(あ)い仍(よ)るを観(み)、煙液(えんえき)の積(つ)む所(ところ)を窺(うかが)う

(現代語訳)炎熱の気が集まっている様子を観察し、液体が深く積み重なった場所をうかがう」(「楚辞・九章 第四・P.361~363」岩波文庫)

この箇所はおそらく「陰陽思想」を前提に述べられた部分。「炎氣」は「火」、「煙液」は「水」。

そうして急速に息苦しい戦国時代も末期症状に入っていく。とはいえ、面白い動物たちはなぜか依然として健在。

「駕⾭虬兮驂白螭

(書き下し)⾭虬(せいきゅう)に駕(が)し、白螭(はくち)を驂(さん)とし

(現代語訳)青い虬(きゅう)に馬車を牽かせ、白い螭(ち)を副(そ)え馬として」(「楚辞・九章 第四・P.267~268」岩波文庫)

ここに見える「虬(きゅう)」も「螭(ち)」も「ミズチ」=「角のない龍」のこと。「離騒」に登場する「蛟龍(こうりょう)」と同じ動物らしい。

「麾蛟龍以梁津兮

(書き下し)蛟龍(こうりょう)を麾(さしまね)きて以(も)って梁津(りょうしん)たらしめ

(現代語訳)蛟龍(こうりょう)たちを指揮して、渡し場の橋とならせ」(「楚辞・離騒 第一・P.98~99」岩波文庫)

これら「⾭虬(せいきゅう)」と「白螭(はくち)」とに関し、龍ではあるもののいずれも「角がない」という。「山海経」から候補を挙げると二つ。第一に。

「さらに西へ六十里、太華(たいか)の山(西嶽)といい、(山は)削(けず)りあげたようで四角、その高さは五千仞(じん)、その広さは十里、鳥獣住むことなし。蛇がいる、名は肥遺(ひい)、六つの足、四つの翼(つばさ)、これが現(あらわ)れると天下おおいに旱(ひでり)する」(「山海経・第二・西山経・P.28」平凡社ライブラリー)

第二に。

「東海の中に流波山あり、海につきでること七千里、頂上に獣がいる、状は牛の如く、身(からだ)は蒼(あお)くて角がなく、足は一つ。これが水に出入するときは必ず風雨をともない、その光は日月の如く、その声は雷のよう。その名は夔(き)。黄帝はこれをとらえてその皮で太鼓をつくり、雷獣の骨でたたいた。するとその声(ひびき)は五百里のかなたまで聞こえて、天下を驚かせたという」(「山海経・第十四・大荒東経・P.152~153」平凡社ライブラリー)

この「夔(き)」について。「虁鳳文(きほうもん)」といって古代神話上の怪獣の文様が青銅器などに残されている。なるほど角がなく尻尾があり「蜥蜴(とかげ)」に似ている。「虁竜(きりょう)」とも書く。だがもし蜥蜴だとすれば足は一本でない。ちなみに南方熊楠は「鱷(がく・わに)」に注目している。

「今一つ竜なる想像動物の根本たりしは鱷で、これは従前蜥蜴群の一区としたが、研究の結果今は蜥蜴より高等な爬虫の一群と学者は見る。現存する鱷群が六属十七種あって、東西半球の熱地と亜熱地に生ず。インドに三種、支那の南部と揚子江に各一種あり、古エジプトや今のインドで鱷を神とし崇拝するは誰も知るところで、以前は人牲を供えた。近時も西アフリカのボンニ地方や、セレベス、ブトン、ルソン諸島民は専ら鱷を神とし、音楽しながらその棲(すみか)に行き餌と烟草を献(たてまつ)った。セレベスとブトンでは、これを家に飼って崇拝した。アフリカの黒人も鱷家近くに棲むを吉兆として懼(おそ)れず(シュルツェ著『フェチシスムス』五章六段)」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.185~186』岩波文庫)

生息地域では崇拝対象とされている場合があると。その力と形態との「過剰=逸脱」によって神格化されたケースだろう。

「これらいずれも大河に住んでよほど大きな爬虫らしいから鱷の事であろう。支那の鱷は只今アリガトル・シネンシスとクロコジルス・ポロロスと二種知れいるが、地方により、多少の変種もあるべく、また古(いにしえ)ありて今絶えたもあろう。それを〔ダ〕竜(だりょう)、蛟竜また鱷と別ちて名づけたを、追々種数も減少して今は古ほどしばしば見ずなり、したがって本来奇怪だった竜や蛟の話がますます誇大かつ混雑に及んだなるべし」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.189』岩波文庫)

古代中国を流れる大河なら幾つもある。とりわけ南部は熱帯・亜熱帯に近い地域が少なくない。古代神話といえども、その成立過程で周辺の生態系が大きく関与する。同じく現代なら現代の生態系が任意の国家の歴史を一変させてしまうことさえあるように。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21への序章4

2021年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム
シャーマニズムが信じられていた古代世界。世界中の事例を網羅したエリアーデの著作・「世界宗教史」は有名で邦訳もされているが、エリアーデの場合、古代中国に関して述べた箇所はほんの僅か。しかし日本神話(古事記・日本書紀)を読もうとすると、仏教定着以前の古代中国で盛んに行われていたシャーマニズム関連祭祀に関する多大な影響を見逃すことは不可能。そこで紀元前三世紀から紀元前三年頃成立と考えられる「楚辞」の中に見られる古代中国のシャーマニズム的「啓示」はどのような形態で出現したか、その点を少しばかり見ておきたいと思う。

古代ギリシア・中央アジア・北方アジア・南北アメリカの先住民の間で受け継がれてきた祭祀に伴うトランス状態の中で出現する《神の来臨》並びに「恐怖と啓示」。「楚辞」の時代の古代中国も例外ではない。

「跪敷衽以陳辭兮 耿吾既得此中正

(書き下し)跪(ひざまず)きて衽(じん)を敷(し)き以(も)って辞(じ)を陳(の)ぶれば 耿(こう)として吾(われ) 既(すで)に此(こ)の中正(ちゅうせい)を得(え)たり」

(現代語訳)ひざまずき、深く身をかがめて、舜帝(しゅんてい)への言葉を申し上げると 〔舜帝の神意として〕はっきりと、わたしが正しいとする確信が得られた」(「楚辞・離騒 第一・P.60」岩波文庫)

ここで「耿吾既得此中正」=「〔舜帝の神意として〕はっきりと、わたしが正しいとする確信が得られた」といったような瞬間。トランス状態というよりエクスタシー体験に近いというべきか。

「百神翳其備降兮 九嶷繽其竝迎 皇剡剡其揚靈兮 告余以吉故

(書き下し)百神(ひゃくしん)翳(おお)いて其(そ)れ備(とも)に降(くだ)り 九嶷(きゅうぎ)繽として其(そ)れ並(なら)び迎(むか)う 皇剡剡(こうえんえん)として其(そ)れ霊(れい)を揚(あ)げ 余(われ)を告(つ)ぐるに吉故(きつこ)を以(も)ってす

(現代語訳)〔巫咸に従う〕多くの神々が、空を覆わんばかりにして、そろって降下し九嶷山(きゅうぎさん)の神々は、みんなして、それを迎えた 〔巫咸は〕きらきらと輝きつつ、その霊能を発揮すると わたしに、新しい出発が吉であると告げた」(「楚辞・離騒 第一・P.83~84」岩波文庫)

何か瞬時に脳裏に「閃く」ものを感じた場合、「皇剡剡其揚靈」=「皇剡剡(こうえんえん)として其(そ)れ霊(れい)を揚(あ)げ」=「〔巫咸は〕きらきらと輝きつつ、その霊能を発揮する」となる。それが難解に思えるのは多分「揚靈」=「霊(れい)を揚(あ)げ」るというのはどういう状態を意味しているのかということだろう。簡単に書けば「!」といった感じ。もっと俗世間でよくある事例を用いるとすれば、或る日の夜に夫が帰宅したのを見た妻が「今日は遅かったわね?」と何気なく聞いただけであるにもかかわらず夫の態度に常とは明らかに異なる反応が見られた場合、<ーーー浮気?!>と直感的なものが脳裏をかすめるようなケースと似た確信を伴う感覚。

「靈偃蹇兮姣服 芳菲菲兮滿堂

(書き下し)霊(れい) 偃蹇(えんけん)として姣服(こうふく)し 芳(かお)り 菲菲(ひひ)として堂(どう)に満(み)つ

(現代語訳)神が憑依した巫女は、気高くも、身に着けた服飾をきらきらと輝かせ 芳香が建物いっぱいに広がる」(「楚辞・九歌 第二・P.111~112」岩波文庫)

ポピュラーなパターンの一つ。「靈偃蹇兮姣服」=「神が憑依した巫女は、気高くも、身に着けた服飾をきらきらと輝かせ」。また「芳菲菲兮滿堂」=「芳香が建物いっぱいに広がる」は、古代のみならず今なお世界各地で、なおかつ文章の見た目は異なるけれども実際は無数の宗教で採用されているステレオタイプ(常套句)表現。

「望涔陽兮極浦 横大江兮揚靈

(書き下し)涔陽(しんよう)の極浦(きょくほ)を望(のぞ)み 大江(たいこう)に横(よこた)わりて霊(れい)を揚(あ)ぐ

(現代語訳)涔陽(しんよう)の岸辺をはるかに望みやる位置で 〔男巫は〕大江の中央に舟を留めて、霊(れい)を揚げた」(「楚辞・九歌 第二・P.120~123」岩波文庫)

ここでも「揚靈」=「霊(れい)を揚げた」との字句が見える。瞬時の「閃き」に等しい。しばしば失神状態を伴う。ドストエフスキーは「てんかん」を患っていたが、その時の様子を文章に書き留めている。

「彼はさまざまな物思いにふけるうちに、こんなことを考えてみたのであった。すなわち、自分の癲癇(てんかん)に近い精神状態には一つの段階があり(もっとも、それは意識のさめているときに発作がおこった場合にかぎっていたが)、それは発作のほとんど直前で、憂鬱と精神的暗黒と胸苦(むなぐる)しさの最中に、ふいに脳髄がぱっと炎でも上げるように燃えあがり、ありとあらゆる彼の生活力が一時にものすごい勢いで緊張するのである。自分が生きているという感覚や自意識が稲妻のように一瞬間だけ、ほとんど十倍にも増大するのだ。その間、知恵と感情はこの世のものとも思えぬ光によって照らしだされ、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、まるで一時にしずまったようになり、調和にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な境地へ、解放されてしまうのだ。しかし、この数秒は、この光輝は、発作がはじまる最後の一秒(決して一秒より長くない)の予感にすぎず、この一秒は、むろん、耐えがたいものであった。彼は健康な状態に戻ってから、この一瞬のことをいろいろと考えてみて、よくひとり言を言うのであった。この尊い自覚と自意識の、つまり、《至高の実在》の稲妻とひらめきは、要するに一種の病気であり、正常な状態の破壊にすぎないのではなかろうか。もしそうであるならば、これは決して至高な実在どころではなく、かえって最も低劣なものに数えられるべきものではなかろうか。彼はそう考えながらも、やはり最後には、きわめて逆説的な結論に到達したのであった。《これが病気だとしても、それがどうしたというのだ?》とうとう彼はこんなふうに断定した。《もしこれが異常な精神の緊張であろうとも、それがいったいどうしたというのだ?もし結果そのものが、健全なときに思いだされ、仔細(しさい)に点検してみても、その感覚の一瞬が依然として至高の調和であり、美であることが判明し、しかもいままで耳にすることも想像することもなかったような充実、リズム、融和、および最高の生の総合の高められた祈りの気持に似た法悦を与えてくれるならば、そんなことは問題外である!》この漠然(ばくぜん)とした表現は、まだあまりにも弱いものであったが、彼自身にはまったく明らかなものに思われた。いずれにしても、それが真に《美であり祈りである》ことを、また《至高なる生の総合》であるということについては、彼もまったく疑うことができなかった」(ドストエフスキー「白痴・上・第二編・P.419~420」新潮文庫)

「それにつづいて突然、何かしらあるものが彼の眼の前に展開したみたいだった。並々ならぬ《内なる》光が彼の魂を照らしだしたのであった。こうした瞬間が、おそらく、半秒くらいもつづいたであろうか。しかし、彼は胸の底から自然にほとばしり出て、いかなる力をもってしてもおさえることのできない恐ろしい悲鳴の最初のひびきを、はっきりと意識的に覚えていた。つづいて彼の意識は一瞬にして消え、まったくの暗闇(くらやみ)が襲ってきたのであった。もうかなり長いことなかった癲癇(てんかん)の発作がおこったのである。癲癇の発作というものは、とくに《ひきつけ》癲癇の場合は、周知のように、その瞬間には急に顔面が、とりわけ眼つきがものすごくゆがんでしまう。痙攣(けいれん)とひきつけが全身と顔面の筋肉を支配して、恐ろしい、想像もつかない、なんともたとえようもない悲鳴が、胸の底からほとばしり出る。この悲鳴のなかにすべての人間らしさがすっかり消えうせて、そばで見ている者にとっても、これが当の同じ人間の叫び声だと想像することも、また考えることもまったく不可能である。いや、少なくとも非常に困難である。まるでその人間の内部には誰か別の人間がいて、その人が叫んでいる声のようにさえ思われる。少なくとも大多数の人は、このように自分の印象を説明している」(ドストエフスキー「白痴・上・第二編・P.435」新潮文庫)

「ある数秒間がある、ーーーそれは一度にせいぜい五秒か六秒しかつづかないが、そのときだしぬけに、完全に自分のものとなった永久調和の訪れが実感されるんだよ。これは地上のものじゃない。といって、なにも天上のものだと言うのじゃなくて、地上の姿のままの人間には耐えきれないという意味なんだ。肉体的に変化するか、でなければ死んでしまうしかない。これは明晰(めいせき)で、争う余地のない感覚なんだ。ふいに全自然界が実感されて、思わず、『しかし、そは正し』と口をついて出てくる。神は、天地の創造にあたって、その創造の一日が終るごとに、『しかり、そは善(よ)し』と言った。これはーーー感激というのではなくて、なんというか、おのずからなる喜びなんだね。人は何を赦すこともしない、というのはもう赦すべきものが何もないからだ。人は愛するのでもない、おおーーーそれはもう愛以上だ!何より恐ろしいのは、それがすさまじいばかり明晰で、すばらしい喜びであることなんだ。もし五秒以上もつづいたらーーー魂がもちきれなくて、消滅しなければならないだろう。この五秒間にぼくは一つの生を生きるんだ。この五秒間のためになら、ぼくは全人生を投げ出しても惜しくはない、それだけの値打ちがあるんだよ。十秒間もちこたえるためには、肉体的な変化が必要だ」(ドストエフスキー「悪霊・下・第三部・第五章・5・P.395」新潮文庫)

日本では精神科医の木村敏がドストエフスキーを取り上げて論じているように「てんかん」患者特有のものとして記述されているが、木村敏自身、このような状態に陥る人々は何も「てんかん」患者にのみ見られる事例に限られたものではなく、「てんかん」患者以外の人々の間でも時折り見受けられる症状だということを前提に述べている傾向がある。実際のところ、或る種の統合失調者の場合にはよくある。例えば長期間に渡る不眠の後、目の前で強烈な光が炸裂したと思って朝起きてみると、「自分は神になった」といって家族らの前で語り始めるようなケース。しかしその種の神には患者が生まれ育った地域性や社会環境が色濃く反映される。キリスト教圏ではイエス・キリストが圧倒的に多い。さらに歴史的有名人はざらに出てくる。昨今では人気漫画・シリーズものの映画の登場人物など。

「洞庭波兮木葉下

(書き下し)洞庭(どうてい) 波(なみ)だちて、木葉(もくよう) 下(くだ)る

(現代語訳)洞庭湖(どうていこ)は波立って、木々は盛んに落葉する」(「楚辞・九歌 第二・P.129~132」岩波文庫)

洞庭湖(どうていこ)は有名な観光地だが、特に洞庭湖でなくてはならないという意味ではなく、注目すべきは「波(なみ)だちて」の部分。これといって強風が吹き荒れているわけでもなく、これから強風や暴風雨がやって来るわけでもないのに、なぜか「波立って」いる様子。さらに「風」は古代人の世界観に「神」と通じるための根拠として捉えられていた様子が伺える。例えば古代インド。

「1 長髪者(ケーシン)は火を、長髪者は毒を、長髪者は天地両界を担う。長髪者は万有を〔担う〕、〔そが〕太陽を見んがために。長髪者はこの光明と称せらる。
2 風を帯びとする(無帯すなわち裸体の)苦行者(ムニ)たちは、褐色にして垢を〔衣服として〕纏(まと)う。彼らは風の疾風に従いて行く、神々が彼らの中に入りたるとき。
3 (苦行者の言葉)苦行者たることにより忘我の境に達し、われらは風に乗りたり(風を乗物とする)。汝ら人間はわれらの形骸のみを眺む。
4 彼(苦行者)は空界を通りて飛ぶ、一切の形態を見おろしつつ。苦行者はおのおのの神の愛すべき友なり、善き行為〔の遂行〕のために。
5 風の乗馬にして(風と共に走る)、ヴァーユ(風神)の友、しかして苦行者は神々により派遣せらる。彼は両洋に住む、東なる〔海〕と西なる〔海〕とに(神通力)。
6 アプサラスたち(水の精女)、ガンダルヴァたち(その配偶)、野獣の足跡を歩みつつ、長髪者は〔彼らの〕意図を知り、甘美にして最も魅力ある友なり。
7 ヴァーユは彼(苦行者)のため〔薬〕を攪拌(こうはん)せり。クナンナマーは〔そを〕粉末にせり。長髪者がルドラと共に毒の皿より飲みたるとき」(「リグ・ヴェーダ讃歌・10-136・P.336」岩波文庫)

「九嶷繽兮竝迎 靈之來兮如雲

(書き下し)九嶷(きゅうぎ) 繽(ひん)として並(なら)び迎(むか)え 霊(れい)の来(き)たること雲(くも)の如(ごと)し

(現代語訳)九嶷(きゅうぎ)の山から、神々が入り乱れて、湘夫人を迎えにやって来て 神々が群がり来るさまは、あたかも雲がわだかまるようだ」(「楚辞・九歌 第二・P.131~135」岩波文庫)

この箇所は「靈之來兮如雲」とあるように、「神々が群がり来るさま」とは一体どのような様子なのかを説明するため、雲が黒々とした層を成して見る見るうちに湧き上がってくる時の様相に喩えた。

「與女遊兮九河 衝風至兮水揚波

(書き下し)女(なんじ)と九河(きゅうか)に遊べば 衝風(しょうふう) 至(いた)りて、水(みず) 波(なみ)を揚(あ)ぐ

(現代語訳)おまえ(少司命がいとおしむ女神)といっしょに九河(きゅうか)に来てみると 強い風がやって来て、川面は波立つ」(「楚辞・九歌 第二・P.146~148」岩波文庫)

衝風(しょうふう)は強風。風は乗り物でもある。風に乗って天に昇るという世界観はまさしくシャーマニズム的といえよう。

「羌聲色兮娛人 觀者憺兮忘歸

(書き下し)羌(ああ) 声色(せいしょく)の人(ひと)を娯(たの)しましむ 観(み)る者(もの) 憺(たん)として帰(かえ)るを忘(わす)る

(現代語訳)ああ、音楽と美人たちの舞いとが人の心を魅了することよ それを観る者たちは、時間を忘失し、帰ることを忘れてしまう」(「楚辞・九歌 第二・P.151~153」岩波文庫)

トランス状態の特徴の一つに「忘我」が上げられる。だからこの箇所では「觀者憺兮忘歸」=「時間を忘失し、帰ることを忘れてしまう」というエクスタシー体験が神とのコミュニケーションの顕現と見なされている。また「花・香」だけでなく「聲」=「音楽」の出現も忘れてはならないだろう。

「留靈脩兮憺忘歸

(書き下し)霊脩(れいしゅう)を留(とど)めて、憺(たん)として帰(かえ)るを忘(わす)れしめん

(現代語訳)霊脩(れいしゅう)=あの方を引き留めて満足させ、帰ることを忘れさせるつもり」(「楚辞・九歌 第二・P.162~164」岩波文庫)

これも「憺忘歸」が「忘我」の状態を意味している。けれどももう一つ大事な点として「霊脩(れいしゅう)」とあること。文脈に従う限り、「霊脩(れいしゅう)」は「神・天帝・主君」といった天空の神=シャーマン的支配者を意味する言葉として用いられている。「離騒 第一」に出てくる「字余曰靈均」の「靈均(れいきん)」も同様。漢文学では「霊子(れいし)」と書いてシャーマンを指す。

「啓棘賓商 九辯九歌

(書き下し)啓(けい) 商〔帝(てい)〕に棘(しば)しば賓(ひん)し、九辯(きゅうべん)と九歌(きゅうか)あり

(現代語訳)啓は、天帝のもとにしばしば招かれ、天上で九辯(きゅうべん)と九歌(きゅうか)との楽曲を手に入れた」(「楚辞・天問 第三・P.200」岩波文庫)

商〔帝(てい)〕としてあるのは「啓棘賓商」に「商」とあるけれども、それはおそらく書き損じであり、ここでは「帝」=「天帝」が正解としか考えられないためだろう。啓は天帝の招きを受けて「九辯九歌」を手に入れたという説話。「山海経」にも同じ文面が見られる。

「名は夏后開(啓)。開は三人の女官を天帝にたてまつり、九弁と九歌(楽名)を手に入れて(天から)かえった」(「山海経・第十六・大荒西経・P.165」平凡社ライブラリー)

ちなみに「山鬼(さんき)」について。山鬼(さんき)は「神・天帝」ではないが、ギリシア神話でいう「ニンフ」。河・泉・山・谷・樹木などの「精霊」。ここではその中でも若い女性だろう。霊脩(れいしゅう)に心を寄せ、馬車で駆けつける場面がある。

「乗赤豹兮從文狸 辛夷車兮結桂旗

(書き下し)赤豹(せきひょう)に乗(の)り、文狸(ぶんり)を従(したが)え 辛夷(しんい)の車(くるま)に桂旗(けいき)を結(むす)ぶ

(現代語訳)赤毛の豹に牽かせた車に乗り、まだら紋様の山猫を従え 辛夷(こぶし)の馬車には、桂(かつら)の枝を旗として結びつける」(「楚辞・九歌 第二・P.161~164」岩波文庫)

赤い豹が牽引する車に乗っている。ところで若い女性の「山鬼(さんき)」=「ニンフ・精霊」の従者として一緒に駆けてくるのが何と「猫」。漢文に「狸」とあるだけなので当り前のように狸(たぬき)だとばかり思っていたが、脚注によれば、狸は山猫のことらしい。古くは狸の一類に猫が編入されていたとのこと。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21への序章3

2021年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
南方熊楠は豊臣秀吉が築いた「耳塚(みみづか)」に関し、柳田國男を批判してこう述べている。

「『郷土研究』三巻に、柳田國男氏、耳塚の由来を論じ、人間の耳は容易に截り取り、はるばると輸送もできまじければ、耳塚というものは多くは人の耳を埋めたでなかろうということで、奥羽地方の伝説に獅子舞同士出会い争闘して耳を切られたというから、京都大仏の耳塚も獅子舞の喧嘩で取られた獅子頭の耳か、祭に神に献じた獣畜の耳を埋めたのを、後年太閤征韓に府会したのであろう、太閤は敵の耳や鼻を取って来いと命ずるような残忍な人ではない、諸方に存する鼻塚も人の鼻を取って埋めたでなく、花塚または突き出た端(ハナ)塚の意味であろう、というように言われた。これは実にはなはだしい牽強で、養子やその妻妾を殺して畜生塚を築き、武田を殺してその妻を妾とし、旧友だった佐々の娘九歳なるを磔殺にしたほどの人が、たといときとして慈仁の念を催すことなきにあらざりしにせよ、敵を殺しもしくは殺す代りにその耳鼻を取らしむるくらいのことは躊躇すべきや」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.251~252』河出文庫)

秀吉なら当然やるだろうと。戦国時代の武将らの間で「截耳割鼻」など日常茶飯事。秀吉ばかりが例外であろうはずがない。

「純友が藤原子高を捕え、截耳割鼻、その妻を奪い将り去り、平時忠が院使花方の頬に烙印し鼻を殺ぎ、これは法皇をかくし奉るという意を洩らせるなど、敵を耳刂劓(じぎ)することむかしよりあったので、戦国に至っては戦場で鼻切ること、すごぶる盛んなりしあまり、何の高名にもならぬ場合多かりしよう、『北条五代記』巻三に見え、信長、長島城を攻めし時、大鳥居累を陥れ斬首二千人、その耳鼻を城中へ贈り、斎藤道三はその臣下に討たれて鼻を殺がれた」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.252~253』河出文庫)

だが熊楠は秀吉が作った「耳塚」についてだけは、「耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあった」、と極めて微妙な論考を付け加えている。

「秀吉も時節なみに敵民を耳刂劓するを武道に取って尋常事と心得、諸将に命じて左様させたが、その耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあったと判る」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.254』河出文庫)

熊楠のいう「慈心」は「慈悲心」とはまた別種の性質のものであって、近現代のヒューマニズム思想とはまるで違う。なぜか。そもそも秀吉は「神」を恐れ敬う傾向が強かった。「神事」を蔑ろにすることを極端に怖がっていた。「耳塚」造営は秀吉の奇妙な信仰から来た「神事」の一つなのではと思われる。「日本書紀」にあるように新羅(しらき=神の坐す白い国)侵攻で有名な「神功皇后伝説」。秀吉は朝鮮侵攻の後、なぜわざわざ「耳塚」造営に当たらせたのか。むしろその企図は「神功皇后伝説」の秀吉による反復として捉えることができる。

造船技術を始め様々な点で新羅国(しらきのくに)が倭国を凌駕していた神話時代。素戔嗚尊(すさのをのみこと)はどのように振る舞ったか。「埴土(はに)を以て舟(ふね)に作(つく)りて、乗(の)りて東(ひむがしのかた)に渡(わた)り」。「埴土(はに)を以て舟(ふね)に作(つく)り」では工夫したとしても縄文土器を繋ぎ合わせて船を作っているようなもので航海するには危険極まりなかったろうと思う。

「一書に曰はく、素戔嗚尊の所行(しわざ)無状(あづき)し。故(かれ)、諸(もろもろ)の神(かみたち)、科(おほ)するに千座置戸(ちくらおきと)を以てし、遂(つひ)に逐(やら)ふ。是(こ)の時に、素戔嗚尊、其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)をを帥(ひき)ゐて、新羅国(しらきのくに)に降到(あまくだ)りまして、曾尸茂梨(そしもり)の処(ところ)に居(ま)します。乃ち興言(ことあげ)して曰(のたま)はく、『此の地(くに)は吾(われ)居(を)らまく欲(ほり)せじ』とのたまひて、遂に埴土(はに)を以て舟(ふね)に作(つく)りて、乗(の)りて東(ひむがしのかた)に渡(わた)りて、出雲国(いづものくに)の簸(ひ)の川上(かはかみ)に所在(あ)る、鳥上(とりかみ)の峯(たけ)に到(いた)る。時に彼処(そこ)に人(ひと)を呑(の)む大蛇(をろち)有り。素戔嗚尊(すさのをのみこと)、乃ち天蠅斫剣(あめのははきりのつるぎ)を以て、彼(そ)の大蛇を斬りたまふ。時に、蛇(をろち)の尾を斬りて刃(は)欠(か)けぬ。即ち擘(さ)きて視(みそなは)せば、尾の中(なか)に一(ひとつ)の神(あや)しき剣有り。素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『此(こ)は以て吾(わ)が私(わたくし)に用ゐるべからず』とのたまひて、乃ち五世(いつよ)の孫天之葺根神(みまあまのふきねのかみ)を遣(まだ)して、天(あめ)に上奉(たてまつりあ)ぐ。此(これ)今、所謂(いはゆる)草薙剣(くさなぎのつるぎ)なり。初(はじ)め五十猛神(いたけるのかみ)、天降(あまくだ)ります時に、多(さは)に樹種(こだね)を将(も)ちて下(くだ)る。然(しか)れども韓地(からくに)に殖(う)ゑずして、尽(ことごとく)に持(も)ち帰(かへ)る。遂に筑紫(つくし)より始(はじ)めて、凡(すべ)て大八洲国(おほやしまのくに)の内(うち)に、播殖(まきおほ)して青山(あをやま)に成(な)さずといふこと莫(な)し。所以(このゆゑ)に、五十猛命(いたけるのみこと)を称(なづ)けて、有功(いさをし)の神とす。即ち紀伊国(きのくに)に所坐(ましま)す大神(おほかみ)是(これ)なり」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.98~100」岩波文庫)

一方、新羅国はすでに木材を用いる造船技術が発達していた。さらに金銀財宝、少なくともその採掘技術も倭国の先を行っていたと思われる。素戔嗚尊がそれらを倭国にもたらした経緯についてこう見える。

「一書に曰はく、素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『韓郷(からくに)の嶋(しま)には、是(これ)金銀(こがねしろかね)有り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国(くに)に、浮宝(うくたから)有(あ)らずは、未(いま)だ佳(よ)からじ』とのたまひて、乃ち鬚髯(ひげ)を抜(ぬ)きて散(あか)つ。即(すなは)ち杉(すぎのき)に成(な)る。又(また)、胸(むね)の毛(け)を抜き散つ。是(これ)、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是柀(まき)に成る。眉(まゆ)の毛は是櫲樟(くす)に成る。已(すで)にして其(そ)の用ゐるべきものを定(さだ)む。乃ち称(ことあげ)して曰(のたま)はく、『杉及(およ)び櫲樟、此(こ)の両(ふたつ)の樹(き)は、以(も)て浮宝(うくたから)とすべし。檜(ひのき)は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材(き)にすべし。柀(まき)は以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへ)に将(も)ち臥(ふ)さむ具(そなへ)にすべし。夫(そ)の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆(みな)能(よ)く播(ほどこ)し生(う)う』とのたまふ。時に、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の子(みこ)を、号(なづ)けて五十猛命(いたけるのみこと)と曰(まう)す。妹(いろも)大屋津姫命(おほやつひめのみこと)。次(つぎ)に柧津姫命(つまつひめのみこと)。凡(すべ)て此の三(みはしら)の神(かみ)、亦(また)能(よ)く木種(こだね)を分布(まきほどこ)す。即ち紀伊国(きのくに)に渡(わた)し奉(まつ)る。然(しかう)して後(のち)に、素戔嗚尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居(い)まして、遂(つひ)に根国(ねのくに)に入(い)りましき」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.100~102」岩波文庫)

次に「神功皇后新羅侵攻」について、その「神事性」が全面的に描かれている点に注目したいとおもう。なぜ「神事性」に重点が置かれて見えるのか。「日本書紀」では帰国後の「ミソギ」に関する記述に重点が置かれているためより一層「神事」へのこだわりが謎めいて見えるわけだが。

第一に「鎮石伝説」。後の応神天皇を身籠った時に海上を航行中に行われた行為。

「時に、適(たまたま)皇后(きさき)の開胎(うむがつき)に当(あた)れり。皇后、則ち石(いし)を取(と)りて腰(みこし)に挿(さしはさ)みて、祈(いの)りたまひて曰(まう)したまはく、『事(こと)竟(を)へて還(かえ)らむ日に、茲土(ここ)に産(あ)れたまへ』ともうしたまふ。其の石は、今(いま)伊覩県(いとのあがた)の道(みち)の辺(ほとり)に在(あ)り。既(すで)にして則ち荒魂(あらみたま)を撝(を)ぎたまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)とし、和魂(にぎみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎮(しずめ)としたまふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.146~148」岩波文庫)

第二に「紀伊国(きのくに)」への「ミソギ」行。戦場で血を浴びることが「穢(けが)れ」とされた古代。血そのものも身体の外へ流れ出ると「穢(けが)れ」とされただけでなく、女性の場合、生理の期間中は「対屋(たいや)」といっていつもと向き合って造られた建物で七日間、物忌みとして中に籠っていなければならなかった。ゆえに女性は身体自体がそもそも「穢(けが)れている」とされ信じて疑われていなかった。そこでミソギの聖地とされた紀伊国=熊野へ直行することになる。

「時(とき)に皇后(きさき)、忍熊王師(おしくまのみこいくさ)を起(おこ)して待(ま)てりと聞(きこ)しめして、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことおほ)せて、皇子(みこ)を懐(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)に泊(とま)らしむ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.158~160」岩波文庫)

さらに「日高(ひたか)・小竹宮(しののみや)」と紀州周辺をうろうろする。

「皇后、南(みなみのかた)紀伊国(きのくに)に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ)に日高(ひたか)に会(あ)ひぬ。群臣(まへつきみ)と議及(はか)りて、遂(つひ)に忍熊王を攻(せ)めむとして、更(さら)に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)ります」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.160」岩波文庫)

そして始めて都入りが許された。秀吉が「耳塚」を築かせたわけは、柳田が後に差し障りのない穏当な解釈へ置き換えたものではなく、既に熊楠が見抜いていたように、神に対する底知れない「畏怖」があったと思われる。だから他の戦国武将らが勝利した時にしょっちゅうやっていた単純な「截耳割鼻」とはまた意味の異なる「神事」あるいは「祭祀」として色濃く映るに違いない。

ところで、勝利した側が敗北した敵軍の屍骸を集めて「大きな塚」を造り戦勝記念とする風習の発生はずいぶん古くから見られる。古代中国で楚が晋を破った時、楚子の臣下・潘党が「京観(けいかん)」=「巨大な塚」を造ってはどうかと進言している。

「晋軍の屍骸を集めて、〔戦勝記念の〕京観(けいかん=大きな築山)を築き、標識を立てられてはいかがですか。敵を撃破したときは、子孫に記念を残して、武功を忘れぬようにする、と臣(わたくし)は聞いております」(「春秋左氏伝・上・宣公十二年・P.453」岩波文庫)

楚子はその提案を退けたとする。軍事の終わりは戦勝記念碑の建立にあるのではなく、むしろそんなことをすれば敵だった国の民を治めていくのに逆効果だというのがその理由。そしていう。

「その昔、聖明なる王は不敬の国を攻め、その首魁を捕えるや、上に塚を盛り上げて処刑を果された。この時以来、不敬の輩(やから)を懲(こ)らしめるための京観(大きな築山)が始まったのである」(「春秋左氏伝・上・宣公十二年・P.455」岩波文庫)

しかしこの「聖明なる王」が誰を指すのかわからない。「宣公十二年」は紀元前五九七年。百済(くだら)の聖王(紀元後六世紀前半)とは無関係。ともかく、「耳塚・鼻塚」以前はもっと巨大な「首塚・死骸塚」が先行していたようだ。そしてもし「神事」あるいは「祭祀」としてであればそれにともなって巨大な光明の出現が見られるのが古代説話の常なのだが。「今昔物語・巻第六・震旦道珍(しんだんのだうちん)、始読阿弥陀経語(はじめてあみだきやうをよめること)・第四十話」でこうあったように。

「遂(つひに)道珍命終(みやうじう)ノ時ニ臨(のぞみ)テ、山ノ頂ニ数千(すせん)ノ火ヲ燃(とも)シタルガ如クニ光明(くわうみやう)有(あり)。異香(いきやう)寺ノ内ニ満(みち)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第四十・P.80」岩波書店)

さらに「山海経」にこう見える。

「吉神(めでたきかみ)・泰逢(たいほう)これを司る。その状(すがた)は人の如くで虎の尾、ーーー出入りするときは光を放つ」(「山海経・第五・中山経・P.86」平凡社ライブラリー)

一方、これほど神と光明とが崇拝された理由は言うまでもなく、人々の日常生活全体が巨大な暗闇に包み込まれて出口の見えない苦悩の日々の連続だったからに違いない。秀吉が築かせた「耳塚」の場合はどうだったのだろう。例えば秀吉は大規模な花見を好んだ。しかしそれがただ単なる年中行事だったのかそれとも「神事」あるいは「祭祀」として挙行されたものだったのか。今となっては藪の中というほかない。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21への序章2

2021年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
古代中国の地理書を見ると、鳥類の中に一羽でオスとメスとの機能を兼ね備えて自家受精する種類がいたらしい。「山海経」にこうある。

「鳥がいる。その状は烏のごとく、五彩にして赤い文あり、名は<きよ>、これは自家生殖する」(「山海経・第三・北山経・P.50」平凡社ライブラリー)

<きよ>の<き>は奇に鳥、<よ>は余に鳥と書く。いずれの文字ももはやパソコンでは出てこない。不便な世の中になったものだ。

また同じく鳥類とされている「象蛇(ぞうだ)」。

「鳥がいる、その状は雌(めす)の雉の如く、五彩でもって文(あや)どり、自家生殖する、名は象蛇(ぞうだ)」(「山海経・第三・北山経・P.60」平凡社ライブラリー)

鳥の名前になぜ「象」と「蛇」とが当てられたのかわからない。ちなみに蛇の中に象を食べる蛇がいたらしい。「巴蛇」。

「巴蛇は象を食い、三年にしてその骨を排出した」(「山海経・第十・海内南経・P.135」平凡社ライブラリー)

本当だろうか。「楚辞」にこうある。

「靈蛇呑象 厥大何如

(書き下し)靈蛇(れいだ)の象(ぞう)を呑(の)む、厥(そ)の大(だい)は何如(いかん)

(現代語訳)神秘な蛇が象を呑むというが、その蛇の大きさはどれほどなのか」(「楚辞・天問 第三・P.195」岩波文庫)

ところで、南方熊楠と柳田國男との間で最後まで決着が付かなかった「山人(さんじん)論争」。一連の議論の中で熊楠はただ単に似ているからといって「山男(やまおとこ)」とはまったく異なるものの一つに関し、「山海経」に言及しつつ「狒々(ひひ)」を上げている。

「《青(衍文)》獣がいる、人面、名は猩猩(しょうじょう)。西南に巴国がある。大皞は咸(かん)鳥を生み、咸鳥は乗釐(じょうり)を生み、乗釐は後照を生んだ。後照は巴の人の先祖である。国がある、名は流黄辛(りゅうこうしん)氏、この国の広さ方三百里、塵(ほこり)が立つにぎわいである。巴遂(はすい)山あり、澠(じょう)水がここより流れる。また朱巻(しゅけん)の国あり。黒い蛇あり、青い首、象を食う。南方に贛(かん)巨の国の人あり、人面で長い〔臂〕唇、黒い身(からだ)で毛あり、踵(かがと)は反(そ)りかえり、人の笑うを見るとかれもまた笑う」(「山海経・第十八・海内経・P.174」平凡社ライブラリー)

一方、柳田は「狒々(ひひ)」について「妖怪談義」の中で論じている。「狒々」がただちに妖怪だというわけではなく、古くから「狒々」と見なされてきた類種は、「猴神(さるがみ)」伝説に至るまで実は恐ろしく広い範囲に渡って収集された目撃談や噂話までを含んでおり、そう一概に単純化して結論付けるわけにはいかないという意味を込めて述べている。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21への序章1

2021年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
遷延性鬱病並びにアルコール依存症治療とそのリハビリのため、これまで洋の東西を問わずほとんどの場合、主に古典文学を取り上げ論じてきた。もっと続けていきたい思いはあるのだが、一方、原文からの引用に関して広告収入などまるで得ていないにもかかわらず『著作権』との絡みがあるらしいとしばしば一部のマスコミで報道される。リハビリは毎日続けないと意味がない。だから引用する場合もその出典を明確にしてきたしそもそもほぼすべてのケースで古典しか取り上げていない。にもかかわらず何を考え出したのか今になって『著作権』がどうのこうのと一部マスコミが言い始めた。しかしリハビリとしての古典文学読解に当たりなぜブログに上げるのかという理由はそれこそリハビリのためである。

ハッシュタグを付けるわけでもなくブログが上位に上がってくるようわざわざブログ運営責任者の企画に参加するわけでもない。もしそうすればブログが上位に上がるか逆に下がるかはわからないけれども、知りたいのはそういうことではまったくなく、実質どれくらいの数の人々がブログに関心を示してくれたかということが問題だからである。それがリハビリにとっては大変重要。ブログに上げてみて、さてどれくらいの人々の目に止まったかがリハビリにとってフィードバック装置として機能する。一部マスコミ関係者が、広告収入を取ってなおかつ引用元未記載のブログを問題視するというのならわかりはしようものの、逆に広告収入を取らずなおかつ引用元記載のブログを問題視するような一方的かつ恫喝的態度の蔓延。精神医学・精神障害の基礎一つ知りもしないような、あるいは本音のところでは精神医療のことなどまるで知りたいとも思っていないような一部マスコミによる極めて理解に乏しい社会の中に身を置いていてはせっかく数十年をかけてきた一連の治療が無駄になってしまいかねない。

従って今後は、別の形態を模索しつつ出来る限りリハビリに資するよう、さらに新しいコンセプトを兼ね備えたブログをつくっていければと思っている。ようやく毎日上げることができるようになってきたブログではあるものの、一部マスコミ(日本での代表的番組はNHK)の利権主義的恫喝報道の煽りのため、またしても途切れ途切れのブログから始め直すほかなくなってしまった。このありさまでは遷延性鬱病に伴う低血圧状態が十年以上改善しないのも仕方ないと諦めざるを得ないというべきなのだが、それでもブログばかりは何とか毎日上げることができるようになってきた矢先だった。実に残念というほかない。これまで付き合って頂いた読者の皆さんには大変申し訳ありませんがご了承願いたいと思っています。

差し当たり種々の裁判で今なお顕著に見られる債権・債務関係への疑問。

「《刑量の決定における恣意性》。ーーーたいていの犯罪者には、ちょうど女たちに子供が与えられるような仕方で刑が与えられる。彼らは、それが悪い結果を招くなどとは夢おもずに、何十回、何百回と同じ行為をつづけてきたのであり、そして突然露顕のときがやってきて、そのあとに罰がくるというわけだ。しかし習慣性というものは、犯罪者が処罰される原因となる行為の罰を、それが習慣的でなかった場合よりも容赦できるものに思わせるはずのものだろう。そこには、抵抗しがたい性癖というものができてしまっているからである。しかし実際には反対に、犯罪者が常習犯の嫌疑をかけられるときは、そうでないときよりも過酷な刑を科せられ、習慣性は一切の情状酌量に対する反対事由と見なされてしまう。これとは逆に、ふだんは模範的な生活を送っている者が、それだけいっそうこれとおそろしい対照をなす犯罪を行なったときには、彼の有罪性はいっそう顕著に見えるはずであろう!しかし実際には、この場合かえって刑が緩和されるのが普通である。かくして、すべては犯罪者を基準に量られるのではなく、社会と社会のうける危害を基準に計られるのだ。そして、或る人間の過去における有益な行状が彼の一回の有害な行状とひきかえに計算され、過去の有害な行状が現在露顕した有害な行状に加算され、これによって計量は最高に計算されるのである。しかし、こうして或る人間の過去が同時に罰せられたりあるいは同時に報いられ(報いられる、といってもこれは罰せられるときのことで、つまり刑の軽減が報償となる場合である)たりするのであれば、もっとさかのぼって、あれやこれやの過去の原因を罰したり報いたりすべきではなかろうか。わたしが考えているのは、両親や教育者や社会などである。そうすれば、多くの場合《裁判官》自身も何らかの仕方で罪にあずかっているさまが見られることだろう。過去を罰すると言いながら犯罪者の過去だけしか問題にしないのは、恣意的である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二八・P.292~293」ちくま学芸文庫)

さらに日本国内でこのところ酷く少ない時間のうちに酷く多くの法律が国民の間に周知されないまま立ちどころに成立している件について。

「或るシナ人が言った、国家が没落にひんするとき、多くの法律がしかれるということを聞いたことがあると」(ニーチェ「権力への意志・下巻・七四五・P.262」ちくま学芸文庫)

BGM1

BGM2

BGM3