シャーマニズムが古代祭祀の核心を成していた時代。しかしそれは思想・信仰として残されるとともに実質的には徐々に衰退していく。続けてみていこう。まず、トランス状態の中で「魂」が「天に登る」という記述。仲介するのは「夢」である。
「昔余夢登天兮 魂中道而無杭
(書き下し)昔(むかし) 余(われ) 夢(ゆめ)に天(てん)に登(のぼ)る 魂(たましい) 中道(ちゅうどう)にして杭(こう)する無(な)し
(現代語訳)以前、わたしは夢の中で天に登ろうとしたことがあったが その途中で登るための手掛りがなくなり、魂は行き惑った」(「楚辞・九章 第四・P.259~260」岩波文庫)
これまでのような万能感は急速に薄れている。逆に魂は行き場を見失っている。だがどうしてそのような状態に傾斜していったのか。いつまでも神仙思想ばかりを追いかけている場合ではないと考えるのがごく普通なのかもしれない。しかしそれだけでは説明にならない。今のヨーロッパや中国はもとより日本でも神道や仏教では幾らでも吉凶を占い様々な神仏を崇拝する思想は依然として根強く残っているからである。では一体何が起こったのか。単なる権力闘争、というより嫉妬にまみれた劣等感(ルサンチマン)を原動力とする陰湿な臣下らによる「讒言(ざんげん)」の横行である。
「故衆口其鑠金兮 初若是而逢殆
(書き下し)故(もと)より衆口(しゅうこう)は其(そ)れ金(きん)をも鑠(と)かす 初(はじ)め是(かく)の若(ごと)くにして殆(わざわ)いに逢(あ)う
(現代語訳)元来、人々の言葉には金属をも溶かす力があり、たとえおまえが金属であったとしても、〔讒言(ざんげん)をこうむり〕危険な目にあうことになろう」(「楚辞・九章 第四・P.259~260」岩波文庫)
この「衆口其鑠金」は「史記列伝」の中ではもう教訓の一つとしてステレオタイプ(常套句)と化していた。注釈にこうある。
「積羽(せきう)は舟を沈め、群軽は軸を折り、衆口は金を鑠(とか)す」(「張儀列伝 第十」『史記列伝1・P.165』岩波文庫)
意味は、注釈によれば、「鳥の羽もつもれば船を沈没させ、軽い物でもたくさんのせれば車のしんぼうを折り、人の口もたびかさなれば金属をもとかす」、とのこと。さらに少し気になる点。
「張儀は出かけていって楚のようすをさぐった」(「張儀列伝 第十」『史記列伝1・P.166』岩波文庫)
「往相楚」の「相」は「視」。「時を相(み)て動く」。張儀は敵国の動向を探りに行く、という意味。「春秋左氏伝」では次の箇所。
「自分の力に応じて事を行ない、時の変化に応じた対策をとって、子孫に累(るい)を残さない」(「春秋左氏伝・上・隠公十一年・P.57」岩波文庫)
夏目漱石に言わせるとこうなる。
「作家は身辺の状況と天下の形勢に応じて時々その立場を変えなければならん。評家もまた眼界を広くして必要の場合には作物に対するごとにその見地を改めねば活(い)きた批評は出来まい」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.173』岩波文庫)
マルクス=エンゲルスもいっている。
「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの《状態》、それに則って現実が正されるべき一つの《理想》ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、<実践的な>現在の状態を止揚する《現実的な》運動だ。<僕らは単に次のことを記述するだけにしなければならない>この運動の諸条件は<眼前の現実そのものに従って判定されるべき>今日現存する前提から生じる」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.71」岩波文庫)
また「楚辞・九章 第四」は屈原が楚から追放され、その屈辱とか悲哀とか絶望とかが入り混じった詩歌でいっぱい。有能な忠臣であるにもかかわらずその有能さゆえ、周囲の馬鹿馬鹿しい二流三流の謀臣の讒言(ざんげん)と国王の無知によって自殺に追い込まれた「伍子胥(ごししょ)」。その政治的不遇を詠んだ部分が何度か出てくる。伍子胥については有名で以前にも取り上げた。最初は楚から追放されて呉に重用され、楚を撃破した。
「以前に伍員(ごうん)と申包胥(しんほうしょ)はしたしい友であった。伍員が亡命するとき、申包胥に『おれはきっと楚をひっくりかえしてやる』と語ったが、包胥は『おれはきっと国をつづかせてみせる』と言ったことがあった。いよいよ呉の軍隊が郢(えい)に入城したとき、伍子胥は昭王のありかをさがしたが、見つからなかった。そこで楚の平王の墓をあばき、死骸を掘り出し、三百ぺん鞭で打つまでやめなかった」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.64~65』岩波文庫)
にもかかわらず今度は呉の謀臣の讒言(ざんげん)によって自殺を命じられて死んだ。
「伍子胥は天をあおいで大息をつき、『さてもさても。讒臣(ざんしん)嚭(ひ)が乱をなしおったのを、王さまは、あべこべにわしを殺されるとは、わしはきさまの父に覇業を成させた。きさまが王にならぬまえ、公子たちが位を争った。わしは命にかえて先王さまをいさめたが、とても立てられぬところであった。きさまが位についたあと、呉の国を分けてやろうと言ったが、わしはそれを望もうともしなかった。それが今はへつらい者の言葉を信じ、善意の者を殺すのか』と言い、それからけらいに言いつけた、『わしの墓には、梓(あずさ)の木を必ずうえろ。〔木が大きくなったら、呉王の〕棺桶にできるだろう。そしてわしの目だまをえぐり出して、呉の都の東門の上におけ。越(えつ)の敵がはいって呉を滅ぼすのをながめるのだ』。こうして自ら首をはねて死んだ」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.69』岩波文庫)
とはいえ神仙思想が滅びたわけではない。それはただ単なる占術とか妖術とかではなく、実践的軍事行動についての緻密な政治戦略と並行して執り行われるのが通例だった。
「魂一夕而九逝 曾不知路之曲直兮 南指月與列星 願徑逝而不得兮 魂識路之營營
(書き下し)魂(たましい) 一夕(いっせき)にして九逝(きゅうせい)す 曾(かつ)て路(みち)の曲直(きょくちょく)を知(し)らず 南(みなみ)のかた月(つき)と列星(れっせい)とを指(さ)す 徑逝(けいせい)せんと願(ねが)うも得ず 魂(たましい)路(みち)を識(し)りて 之(こ)れ営営たり
(現代語訳)魂は一晩のうちに九たびもその道を行き来しようとする 〔その魂にも〕道の曲がり目と直線とについて、詳細な様子がわからないので 南方に照る月と星々とを見ておおよその方向を定めてゆく ご主君のもとにまっすぐ駆けつけたいと願っても、それは許されていない 魂だけが道を知っていて、〔夢の中で〕その道を苦労してたどってゆく」(「楚辞・九章 第四・P.302~304」岩波文庫)
魂は飛翔する。しかしもはや以前のような勢いは一向に感じられない。
「眴兮杳杳 孔靜幽默
(書き下し)眴(み)るに杳杳(ようよう)たり、孔(はなは)だ静(しず)かにして幽黙(ゆうもく)なり
(現代語訳)目に映る風景は、暗く閉ざされ、静まりかえっている」(「楚辞・九章 第四・P.309」岩波文庫)
シャーマンは周囲の自然環境・地理的諸条件をよく「視(みる)=観(みる)」ことが重要だからだ。実によく見えるわけだが、しかし今やその「目に映る風景は、暗く閉ざされ、静まりかえっている」。行くあてを失った一向の漂泊と絶望とが滲み出る。
「高辛之靈盛兮 遭玄鳥而致詒
(書き下し)高辛(こうしん)の霊盛(れいせい)なる、玄鳥(げんちょう)に遭(あ)いて詒(い)を致(いた)す
(現代語訳)むかし、高辛氏(こうしんし)は盛んな霊力を発揮し、ツバメを見つけ、思う女性に贈り物をとどけさせた」(「楚辞・九章 第四・P.321~322」岩波文庫)
そういえば「高辛氏(こうしんし)は盛んな霊力を発揮し、ツバメを見つけ、思う女性に贈り物をとどけさせた」という。けれどもそれは今となっては「むかし」の話でしかない。
「寤從容以周流兮 聊逍遙以自恃
(書き下し)寤(さ)めて従容(しょうよう)として以(も)って周流(しゅうりゅう)し、聊(いささ)か逍遥(しょうよう)して以(も)って自(みずか)ら恃(たの)む
(現代語訳)目覚めて、気持ちを和らげ、旅立ち、いささか逍遥して、みずからを慰めようとする」(「楚辞・九章 第四・P.353~355」岩波文庫)
また天を周流する「天上遊行」を試みる。そうするのは意気揚々とモチベーションを上げるためではなく、逆に「いささか逍遥して、みずからを慰めようとする」ためであり、ややもすると近現代人が直面している「癒し」にも似る。
「折若木以蔽光兮 隋飄風之所仍 存髣髴而不見兮 心踊躍其若湯
(書き下し)若木(じゃくぼく)を折(お)りて以(も)って光(ひか)りを蔽(おお)い、飄風(ひょうふう)の仍(よ)る所(ところ)に随(したが)う 存(そん)するも髣髴(ほうふつ)として見(み)えず、心(こころ)、踊躍(ようやく)して其(そ)れ湯(ゆ)の若(ごと)し
(現代語訳)若木(じゃくぼく)の枝を折り取って太陽の輝きを遮り、飄風(ひょうふう)が行き着く先まで追ってゆく 思いを凝らしてもなにも見えない、心は跳ね上がって熱湯が沸騰するようだ」(「楚辞・九章 第四・P.353~355」岩波文庫)
ともあれ「周流」=「天上遊行」には心を躍らせるものがあるのは確かだ。「九歌」のように天上の音楽とともにあることもなくはないから。精神は灼熱する。ここでもまた「飄風(ひょうふう)」とあり、飄々たる「風」は天上世界の「乗り物」そのものである。世界中どこでも遙か古代に発達したのは(1)山岳信仰、(2)漂泊遊行信仰。その経緯はそんなところに理由があるのかもしれない。山岳地帯ではその頂上や巨石が、漂泊遊行の場合は泉・オアシス・巨木などが聖地とされ、そこに棲息する動物が「神・神の使い」とされたりした。
「登石巒以遠望兮 路眇眇之默默 入景響之無應兮 聞省想而不可得
(書き下し)石巒(せきらん)に登(のぼ)りて以(も)って遠望(えんぼう)すれば、路(みち) 眇眇(びょうびょう)として之(こ)れ黙黙(もくもく)たり 景響(けいきょう)の応(おう)無(な)きに入(い)り、聞(ぶん) 省想(しょうそう)するも得可(うべ)からず
(現代語訳)岩峰に登って遠望すれば、行く先の路は遥かに、この世界は静まりかえっている 光りも声も反応しない領域に入って、聴覚の反応を求めるが、それも得られない」(「楚辞・九章 第四・P.357~359」岩波文庫)
そして「周流」=「天上遊行」のうちに気を紛らわせたりこの先どこへ行くべきかと遥か遠くへ想念を振り向けるけれども、「世界は静まりかえっている」ばかりか「光りも声も反応しない領域に入って、聴覚の反応を求めるが、それも得られない」。詩人あるいは主人公たちは憂鬱極まりない心情に陥っていく。
「上高巖之峭岸兮 處雌蜺之標顚 據⾭冥而攄虹兮 遂儵忽而捫天
(書き下し)高巌(こうがん)の峭岸(しょうがん)たるに上(のぼ)り、雌蜺(しげい)の標顚(ひょうてん)たるに処(お)る 青冥(せいめい)に拠(よ)り虹(にじ)を攄(ちょ)し、遂(つい)に儵忽(しゅくこつ)として天(てん)を捫(な)ず
(現代語訳)そびえ立つ高い岩峰に登り立ち、天を摩(ま)する雌蜺(めすにじ)とともにある 青冥(てんくう)の中に身を置き、虹をよじ登り、そのまま、あっという間に、天と接触した」(「楚辞・九章 第四・P.360~362」岩波文庫)
何度も繰り返し反復される遊行。シャーマニズムにおける神とのコミュニケーション。「高巖(こうがん)」は実在の山を指すのではなく、神話の上で天界へ赴くためのミステリアスな宇宙的山岳地帯。例えば「鳳凰(ほうおう)」が飛翔して見せる絵画は全世界に何万とあるだろうけれども、その背後に描かれている山々は実際どの山を指すかと問われてもそれこそ「高巖(こうがん)」としか言えない。
「依風穴以自息兮 忽傾寤以嬋媛
(書き下し)風穴(ふうけつ)に依(よ)りて以(も)って自息(じそく)し、忽(たちま)ち傾寤(けいご)して以(も)って嬋媛(せんえん)たり
(現代語訳)風穴(ふうけつ)に身を寄せてしばし休息すると、たちまち視界が広がり、思いは果てしない」(「楚辞・九章 第四・P.361~362」岩波文庫)
どこか知らないところに風が通り抜けていく穴がある。神話的な風穴。それが「風穴(ふうけつ)」。さらに「穴(あな)」について、日本の説話でも巨木の根本の辺りに出来た大きな穴に寄りかかって寝ている夜に暗闇の中から神々(道祖神など)の声がしたといった類話は多い。
「觀炎氣之相仍兮 窺煙液之所積
(書き下し)炎気(えんき)の相(あ)い仍(よ)るを観(み)、煙液(えんえき)の積(つ)む所(ところ)を窺(うかが)う
(現代語訳)炎熱の気が集まっている様子を観察し、液体が深く積み重なった場所をうかがう」(「楚辞・九章 第四・P.361~363」岩波文庫)
この箇所はおそらく「陰陽思想」を前提に述べられた部分。「炎氣」は「火」、「煙液」は「水」。
そうして急速に息苦しい戦国時代も末期症状に入っていく。とはいえ、面白い動物たちはなぜか依然として健在。
「駕⾭虬兮驂白螭
(書き下し)⾭虬(せいきゅう)に駕(が)し、白螭(はくち)を驂(さん)とし
(現代語訳)青い虬(きゅう)に馬車を牽かせ、白い螭(ち)を副(そ)え馬として」(「楚辞・九章 第四・P.267~268」岩波文庫)
ここに見える「虬(きゅう)」も「螭(ち)」も「ミズチ」=「角のない龍」のこと。「離騒」に登場する「蛟龍(こうりょう)」と同じ動物らしい。
「麾蛟龍以梁津兮
(書き下し)蛟龍(こうりょう)を麾(さしまね)きて以(も)って梁津(りょうしん)たらしめ
(現代語訳)蛟龍(こうりょう)たちを指揮して、渡し場の橋とならせ」(「楚辞・離騒 第一・P.98~99」岩波文庫)
これら「⾭虬(せいきゅう)」と「白螭(はくち)」とに関し、龍ではあるもののいずれも「角がない」という。「山海経」から候補を挙げると二つ。第一に。
「さらに西へ六十里、太華(たいか)の山(西嶽)といい、(山は)削(けず)りあげたようで四角、その高さは五千仞(じん)、その広さは十里、鳥獣住むことなし。蛇がいる、名は肥遺(ひい)、六つの足、四つの翼(つばさ)、これが現(あらわ)れると天下おおいに旱(ひでり)する」(「山海経・第二・西山経・P.28」平凡社ライブラリー)
第二に。
「東海の中に流波山あり、海につきでること七千里、頂上に獣がいる、状は牛の如く、身(からだ)は蒼(あお)くて角がなく、足は一つ。これが水に出入するときは必ず風雨をともない、その光は日月の如く、その声は雷のよう。その名は夔(き)。黄帝はこれをとらえてその皮で太鼓をつくり、雷獣の骨でたたいた。するとその声(ひびき)は五百里のかなたまで聞こえて、天下を驚かせたという」(「山海経・第十四・大荒東経・P.152~153」平凡社ライブラリー)
この「夔(き)」について。「虁鳳文(きほうもん)」といって古代神話上の怪獣の文様が青銅器などに残されている。なるほど角がなく尻尾があり「蜥蜴(とかげ)」に似ている。「虁竜(きりょう)」とも書く。だがもし蜥蜴だとすれば足は一本でない。ちなみに南方熊楠は「鱷(がく・わに)」に注目している。
「今一つ竜なる想像動物の根本たりしは鱷で、これは従前蜥蜴群の一区としたが、研究の結果今は蜥蜴より高等な爬虫の一群と学者は見る。現存する鱷群が六属十七種あって、東西半球の熱地と亜熱地に生ず。インドに三種、支那の南部と揚子江に各一種あり、古エジプトや今のインドで鱷を神とし崇拝するは誰も知るところで、以前は人牲を供えた。近時も西アフリカのボンニ地方や、セレベス、ブトン、ルソン諸島民は専ら鱷を神とし、音楽しながらその棲(すみか)に行き餌と烟草を献(たてまつ)った。セレベスとブトンでは、これを家に飼って崇拝した。アフリカの黒人も鱷家近くに棲むを吉兆として懼(おそ)れず(シュルツェ著『フェチシスムス』五章六段)」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.185~186』岩波文庫)
生息地域では崇拝対象とされている場合があると。その力と形態との「過剰=逸脱」によって神格化されたケースだろう。
「これらいずれも大河に住んでよほど大きな爬虫らしいから鱷の事であろう。支那の鱷は只今アリガトル・シネンシスとクロコジルス・ポロロスと二種知れいるが、地方により、多少の変種もあるべく、また古(いにしえ)ありて今絶えたもあろう。それを〔ダ〕竜(だりょう)、蛟竜また鱷と別ちて名づけたを、追々種数も減少して今は古ほどしばしば見ずなり、したがって本来奇怪だった竜や蛟の話がますます誇大かつ混雑に及んだなるべし」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.189』岩波文庫)
古代中国を流れる大河なら幾つもある。とりわけ南部は熱帯・亜熱帯に近い地域が少なくない。古代神話といえども、その成立過程で周辺の生態系が大きく関与する。同じく現代なら現代の生態系が任意の国家の歴史を一変させてしまうことさえあるように。
BGM1
BGM2
BGM3
「昔余夢登天兮 魂中道而無杭
(書き下し)昔(むかし) 余(われ) 夢(ゆめ)に天(てん)に登(のぼ)る 魂(たましい) 中道(ちゅうどう)にして杭(こう)する無(な)し
(現代語訳)以前、わたしは夢の中で天に登ろうとしたことがあったが その途中で登るための手掛りがなくなり、魂は行き惑った」(「楚辞・九章 第四・P.259~260」岩波文庫)
これまでのような万能感は急速に薄れている。逆に魂は行き場を見失っている。だがどうしてそのような状態に傾斜していったのか。いつまでも神仙思想ばかりを追いかけている場合ではないと考えるのがごく普通なのかもしれない。しかしそれだけでは説明にならない。今のヨーロッパや中国はもとより日本でも神道や仏教では幾らでも吉凶を占い様々な神仏を崇拝する思想は依然として根強く残っているからである。では一体何が起こったのか。単なる権力闘争、というより嫉妬にまみれた劣等感(ルサンチマン)を原動力とする陰湿な臣下らによる「讒言(ざんげん)」の横行である。
「故衆口其鑠金兮 初若是而逢殆
(書き下し)故(もと)より衆口(しゅうこう)は其(そ)れ金(きん)をも鑠(と)かす 初(はじ)め是(かく)の若(ごと)くにして殆(わざわ)いに逢(あ)う
(現代語訳)元来、人々の言葉には金属をも溶かす力があり、たとえおまえが金属であったとしても、〔讒言(ざんげん)をこうむり〕危険な目にあうことになろう」(「楚辞・九章 第四・P.259~260」岩波文庫)
この「衆口其鑠金」は「史記列伝」の中ではもう教訓の一つとしてステレオタイプ(常套句)と化していた。注釈にこうある。
「積羽(せきう)は舟を沈め、群軽は軸を折り、衆口は金を鑠(とか)す」(「張儀列伝 第十」『史記列伝1・P.165』岩波文庫)
意味は、注釈によれば、「鳥の羽もつもれば船を沈没させ、軽い物でもたくさんのせれば車のしんぼうを折り、人の口もたびかさなれば金属をもとかす」、とのこと。さらに少し気になる点。
「張儀は出かけていって楚のようすをさぐった」(「張儀列伝 第十」『史記列伝1・P.166』岩波文庫)
「往相楚」の「相」は「視」。「時を相(み)て動く」。張儀は敵国の動向を探りに行く、という意味。「春秋左氏伝」では次の箇所。
「自分の力に応じて事を行ない、時の変化に応じた対策をとって、子孫に累(るい)を残さない」(「春秋左氏伝・上・隠公十一年・P.57」岩波文庫)
夏目漱石に言わせるとこうなる。
「作家は身辺の状況と天下の形勢に応じて時々その立場を変えなければならん。評家もまた眼界を広くして必要の場合には作物に対するごとにその見地を改めねば活(い)きた批評は出来まい」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.173』岩波文庫)
マルクス=エンゲルスもいっている。
「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの《状態》、それに則って現実が正されるべき一つの《理想》ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、<実践的な>現在の状態を止揚する《現実的な》運動だ。<僕らは単に次のことを記述するだけにしなければならない>この運動の諸条件は<眼前の現実そのものに従って判定されるべき>今日現存する前提から生じる」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.71」岩波文庫)
また「楚辞・九章 第四」は屈原が楚から追放され、その屈辱とか悲哀とか絶望とかが入り混じった詩歌でいっぱい。有能な忠臣であるにもかかわらずその有能さゆえ、周囲の馬鹿馬鹿しい二流三流の謀臣の讒言(ざんげん)と国王の無知によって自殺に追い込まれた「伍子胥(ごししょ)」。その政治的不遇を詠んだ部分が何度か出てくる。伍子胥については有名で以前にも取り上げた。最初は楚から追放されて呉に重用され、楚を撃破した。
「以前に伍員(ごうん)と申包胥(しんほうしょ)はしたしい友であった。伍員が亡命するとき、申包胥に『おれはきっと楚をひっくりかえしてやる』と語ったが、包胥は『おれはきっと国をつづかせてみせる』と言ったことがあった。いよいよ呉の軍隊が郢(えい)に入城したとき、伍子胥は昭王のありかをさがしたが、見つからなかった。そこで楚の平王の墓をあばき、死骸を掘り出し、三百ぺん鞭で打つまでやめなかった」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.64~65』岩波文庫)
にもかかわらず今度は呉の謀臣の讒言(ざんげん)によって自殺を命じられて死んだ。
「伍子胥は天をあおいで大息をつき、『さてもさても。讒臣(ざんしん)嚭(ひ)が乱をなしおったのを、王さまは、あべこべにわしを殺されるとは、わしはきさまの父に覇業を成させた。きさまが王にならぬまえ、公子たちが位を争った。わしは命にかえて先王さまをいさめたが、とても立てられぬところであった。きさまが位についたあと、呉の国を分けてやろうと言ったが、わしはそれを望もうともしなかった。それが今はへつらい者の言葉を信じ、善意の者を殺すのか』と言い、それからけらいに言いつけた、『わしの墓には、梓(あずさ)の木を必ずうえろ。〔木が大きくなったら、呉王の〕棺桶にできるだろう。そしてわしの目だまをえぐり出して、呉の都の東門の上におけ。越(えつ)の敵がはいって呉を滅ぼすのをながめるのだ』。こうして自ら首をはねて死んだ」(「伍子胥列伝 第六」『史記列伝1・P.69』岩波文庫)
とはいえ神仙思想が滅びたわけではない。それはただ単なる占術とか妖術とかではなく、実践的軍事行動についての緻密な政治戦略と並行して執り行われるのが通例だった。
「魂一夕而九逝 曾不知路之曲直兮 南指月與列星 願徑逝而不得兮 魂識路之營營
(書き下し)魂(たましい) 一夕(いっせき)にして九逝(きゅうせい)す 曾(かつ)て路(みち)の曲直(きょくちょく)を知(し)らず 南(みなみ)のかた月(つき)と列星(れっせい)とを指(さ)す 徑逝(けいせい)せんと願(ねが)うも得ず 魂(たましい)路(みち)を識(し)りて 之(こ)れ営営たり
(現代語訳)魂は一晩のうちに九たびもその道を行き来しようとする 〔その魂にも〕道の曲がり目と直線とについて、詳細な様子がわからないので 南方に照る月と星々とを見ておおよその方向を定めてゆく ご主君のもとにまっすぐ駆けつけたいと願っても、それは許されていない 魂だけが道を知っていて、〔夢の中で〕その道を苦労してたどってゆく」(「楚辞・九章 第四・P.302~304」岩波文庫)
魂は飛翔する。しかしもはや以前のような勢いは一向に感じられない。
「眴兮杳杳 孔靜幽默
(書き下し)眴(み)るに杳杳(ようよう)たり、孔(はなは)だ静(しず)かにして幽黙(ゆうもく)なり
(現代語訳)目に映る風景は、暗く閉ざされ、静まりかえっている」(「楚辞・九章 第四・P.309」岩波文庫)
シャーマンは周囲の自然環境・地理的諸条件をよく「視(みる)=観(みる)」ことが重要だからだ。実によく見えるわけだが、しかし今やその「目に映る風景は、暗く閉ざされ、静まりかえっている」。行くあてを失った一向の漂泊と絶望とが滲み出る。
「高辛之靈盛兮 遭玄鳥而致詒
(書き下し)高辛(こうしん)の霊盛(れいせい)なる、玄鳥(げんちょう)に遭(あ)いて詒(い)を致(いた)す
(現代語訳)むかし、高辛氏(こうしんし)は盛んな霊力を発揮し、ツバメを見つけ、思う女性に贈り物をとどけさせた」(「楚辞・九章 第四・P.321~322」岩波文庫)
そういえば「高辛氏(こうしんし)は盛んな霊力を発揮し、ツバメを見つけ、思う女性に贈り物をとどけさせた」という。けれどもそれは今となっては「むかし」の話でしかない。
「寤從容以周流兮 聊逍遙以自恃
(書き下し)寤(さ)めて従容(しょうよう)として以(も)って周流(しゅうりゅう)し、聊(いささ)か逍遥(しょうよう)して以(も)って自(みずか)ら恃(たの)む
(現代語訳)目覚めて、気持ちを和らげ、旅立ち、いささか逍遥して、みずからを慰めようとする」(「楚辞・九章 第四・P.353~355」岩波文庫)
また天を周流する「天上遊行」を試みる。そうするのは意気揚々とモチベーションを上げるためではなく、逆に「いささか逍遥して、みずからを慰めようとする」ためであり、ややもすると近現代人が直面している「癒し」にも似る。
「折若木以蔽光兮 隋飄風之所仍 存髣髴而不見兮 心踊躍其若湯
(書き下し)若木(じゃくぼく)を折(お)りて以(も)って光(ひか)りを蔽(おお)い、飄風(ひょうふう)の仍(よ)る所(ところ)に随(したが)う 存(そん)するも髣髴(ほうふつ)として見(み)えず、心(こころ)、踊躍(ようやく)して其(そ)れ湯(ゆ)の若(ごと)し
(現代語訳)若木(じゃくぼく)の枝を折り取って太陽の輝きを遮り、飄風(ひょうふう)が行き着く先まで追ってゆく 思いを凝らしてもなにも見えない、心は跳ね上がって熱湯が沸騰するようだ」(「楚辞・九章 第四・P.353~355」岩波文庫)
ともあれ「周流」=「天上遊行」には心を躍らせるものがあるのは確かだ。「九歌」のように天上の音楽とともにあることもなくはないから。精神は灼熱する。ここでもまた「飄風(ひょうふう)」とあり、飄々たる「風」は天上世界の「乗り物」そのものである。世界中どこでも遙か古代に発達したのは(1)山岳信仰、(2)漂泊遊行信仰。その経緯はそんなところに理由があるのかもしれない。山岳地帯ではその頂上や巨石が、漂泊遊行の場合は泉・オアシス・巨木などが聖地とされ、そこに棲息する動物が「神・神の使い」とされたりした。
「登石巒以遠望兮 路眇眇之默默 入景響之無應兮 聞省想而不可得
(書き下し)石巒(せきらん)に登(のぼ)りて以(も)って遠望(えんぼう)すれば、路(みち) 眇眇(びょうびょう)として之(こ)れ黙黙(もくもく)たり 景響(けいきょう)の応(おう)無(な)きに入(い)り、聞(ぶん) 省想(しょうそう)するも得可(うべ)からず
(現代語訳)岩峰に登って遠望すれば、行く先の路は遥かに、この世界は静まりかえっている 光りも声も反応しない領域に入って、聴覚の反応を求めるが、それも得られない」(「楚辞・九章 第四・P.357~359」岩波文庫)
そして「周流」=「天上遊行」のうちに気を紛らわせたりこの先どこへ行くべきかと遥か遠くへ想念を振り向けるけれども、「世界は静まりかえっている」ばかりか「光りも声も反応しない領域に入って、聴覚の反応を求めるが、それも得られない」。詩人あるいは主人公たちは憂鬱極まりない心情に陥っていく。
「上高巖之峭岸兮 處雌蜺之標顚 據⾭冥而攄虹兮 遂儵忽而捫天
(書き下し)高巌(こうがん)の峭岸(しょうがん)たるに上(のぼ)り、雌蜺(しげい)の標顚(ひょうてん)たるに処(お)る 青冥(せいめい)に拠(よ)り虹(にじ)を攄(ちょ)し、遂(つい)に儵忽(しゅくこつ)として天(てん)を捫(な)ず
(現代語訳)そびえ立つ高い岩峰に登り立ち、天を摩(ま)する雌蜺(めすにじ)とともにある 青冥(てんくう)の中に身を置き、虹をよじ登り、そのまま、あっという間に、天と接触した」(「楚辞・九章 第四・P.360~362」岩波文庫)
何度も繰り返し反復される遊行。シャーマニズムにおける神とのコミュニケーション。「高巖(こうがん)」は実在の山を指すのではなく、神話の上で天界へ赴くためのミステリアスな宇宙的山岳地帯。例えば「鳳凰(ほうおう)」が飛翔して見せる絵画は全世界に何万とあるだろうけれども、その背後に描かれている山々は実際どの山を指すかと問われてもそれこそ「高巖(こうがん)」としか言えない。
「依風穴以自息兮 忽傾寤以嬋媛
(書き下し)風穴(ふうけつ)に依(よ)りて以(も)って自息(じそく)し、忽(たちま)ち傾寤(けいご)して以(も)って嬋媛(せんえん)たり
(現代語訳)風穴(ふうけつ)に身を寄せてしばし休息すると、たちまち視界が広がり、思いは果てしない」(「楚辞・九章 第四・P.361~362」岩波文庫)
どこか知らないところに風が通り抜けていく穴がある。神話的な風穴。それが「風穴(ふうけつ)」。さらに「穴(あな)」について、日本の説話でも巨木の根本の辺りに出来た大きな穴に寄りかかって寝ている夜に暗闇の中から神々(道祖神など)の声がしたといった類話は多い。
「觀炎氣之相仍兮 窺煙液之所積
(書き下し)炎気(えんき)の相(あ)い仍(よ)るを観(み)、煙液(えんえき)の積(つ)む所(ところ)を窺(うかが)う
(現代語訳)炎熱の気が集まっている様子を観察し、液体が深く積み重なった場所をうかがう」(「楚辞・九章 第四・P.361~363」岩波文庫)
この箇所はおそらく「陰陽思想」を前提に述べられた部分。「炎氣」は「火」、「煙液」は「水」。
そうして急速に息苦しい戦国時代も末期症状に入っていく。とはいえ、面白い動物たちはなぜか依然として健在。
「駕⾭虬兮驂白螭
(書き下し)⾭虬(せいきゅう)に駕(が)し、白螭(はくち)を驂(さん)とし
(現代語訳)青い虬(きゅう)に馬車を牽かせ、白い螭(ち)を副(そ)え馬として」(「楚辞・九章 第四・P.267~268」岩波文庫)
ここに見える「虬(きゅう)」も「螭(ち)」も「ミズチ」=「角のない龍」のこと。「離騒」に登場する「蛟龍(こうりょう)」と同じ動物らしい。
「麾蛟龍以梁津兮
(書き下し)蛟龍(こうりょう)を麾(さしまね)きて以(も)って梁津(りょうしん)たらしめ
(現代語訳)蛟龍(こうりょう)たちを指揮して、渡し場の橋とならせ」(「楚辞・離騒 第一・P.98~99」岩波文庫)
これら「⾭虬(せいきゅう)」と「白螭(はくち)」とに関し、龍ではあるもののいずれも「角がない」という。「山海経」から候補を挙げると二つ。第一に。
「さらに西へ六十里、太華(たいか)の山(西嶽)といい、(山は)削(けず)りあげたようで四角、その高さは五千仞(じん)、その広さは十里、鳥獣住むことなし。蛇がいる、名は肥遺(ひい)、六つの足、四つの翼(つばさ)、これが現(あらわ)れると天下おおいに旱(ひでり)する」(「山海経・第二・西山経・P.28」平凡社ライブラリー)
第二に。
「東海の中に流波山あり、海につきでること七千里、頂上に獣がいる、状は牛の如く、身(からだ)は蒼(あお)くて角がなく、足は一つ。これが水に出入するときは必ず風雨をともない、その光は日月の如く、その声は雷のよう。その名は夔(き)。黄帝はこれをとらえてその皮で太鼓をつくり、雷獣の骨でたたいた。するとその声(ひびき)は五百里のかなたまで聞こえて、天下を驚かせたという」(「山海経・第十四・大荒東経・P.152~153」平凡社ライブラリー)
この「夔(き)」について。「虁鳳文(きほうもん)」といって古代神話上の怪獣の文様が青銅器などに残されている。なるほど角がなく尻尾があり「蜥蜴(とかげ)」に似ている。「虁竜(きりょう)」とも書く。だがもし蜥蜴だとすれば足は一本でない。ちなみに南方熊楠は「鱷(がく・わに)」に注目している。
「今一つ竜なる想像動物の根本たりしは鱷で、これは従前蜥蜴群の一区としたが、研究の結果今は蜥蜴より高等な爬虫の一群と学者は見る。現存する鱷群が六属十七種あって、東西半球の熱地と亜熱地に生ず。インドに三種、支那の南部と揚子江に各一種あり、古エジプトや今のインドで鱷を神とし崇拝するは誰も知るところで、以前は人牲を供えた。近時も西アフリカのボンニ地方や、セレベス、ブトン、ルソン諸島民は専ら鱷を神とし、音楽しながらその棲(すみか)に行き餌と烟草を献(たてまつ)った。セレベスとブトンでは、これを家に飼って崇拝した。アフリカの黒人も鱷家近くに棲むを吉兆として懼(おそ)れず(シュルツェ著『フェチシスムス』五章六段)」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.185~186』岩波文庫)
生息地域では崇拝対象とされている場合があると。その力と形態との「過剰=逸脱」によって神格化されたケースだろう。
「これらいずれも大河に住んでよほど大きな爬虫らしいから鱷の事であろう。支那の鱷は只今アリガトル・シネンシスとクロコジルス・ポロロスと二種知れいるが、地方により、多少の変種もあるべく、また古(いにしえ)ありて今絶えたもあろう。それを〔ダ〕竜(だりょう)、蛟竜また鱷と別ちて名づけたを、追々種数も減少して今は古ほどしばしば見ずなり、したがって本来奇怪だった竜や蛟の話がますます誇大かつ混雑に及んだなるべし」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.189』岩波文庫)
古代中国を流れる大河なら幾つもある。とりわけ南部は熱帯・亜熱帯に近い地域が少なくない。古代神話といえども、その成立過程で周辺の生態系が大きく関与する。同じく現代なら現代の生態系が任意の国家の歴史を一変させてしまうことさえあるように。
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