「彼女について私が知っている二、三の事柄」についてゴダールはいう。
「私はよく、言葉とか言語とかといったものを、あまりに安易なやり方でつかいます。もっとも私には、これらのものをうまくつかえないでいた時期もありました。そして私は、映画の世界に入って十五年ないし二十年たった今になってやっと、自分がしようとしているのは、すべてを表現することができるようになるために、文学とか語られた言葉とか、ふつうつかわれる意味での《意味》とかを厄介払いすることだということを理解しはじめたところです。ある人に言わせれば、なにかを言うということは、声を通してなにかを提示し、ついで、《ぼくはそう思う》といった言葉をつけ加えることになるでしょう。それに対して私には、言葉を、その意味を少しずつ逸脱させながらつかい、ついにはその意味を破壊したり、もっぱら声だけでなにかを言おうとしたりすることがよくあるのです」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.543~544」ちくま学芸文庫 二〇一二年)
とても関心をそそられる。
「文学とか語られた言葉とか、ふつうつかわれる意味での《意味》とかを厄介払いする」ために「声を通してなにかを提示し、ついで、《ぼくはそう思う》といった言葉をつけ加える」のではなく「言葉を、その意味を少しずつ逸脱させながらつかい、ついにはその意味を破壊したり、もっぱら声だけでなにかを言おうとしたりする」
それができればいいと思うと同時にいつも「そうなってしまう」のはどうしてなのだろうとも思うのである。
さらに。
「でもコーヒーカップのカットは、かなりうまくいったと思います。テクストはいくらか文学的ですが、でもきわめて映画的なカットです。あのカットを撮ったときのことはよくおぼえています。私ははじめは漠然とした考えしかもっていなかったのですが、コーヒーをスプーンでかきまぜたあと、コーヒーの泡がまわるのをじっと見つめているとーーーみんなもそれぞれ自分のコーヒーをかきまぜなから、それをじっと見ていましたーーー、その動きが星雲の動きのようなものに見えてきたのです。その泡と形と動きが、さまざまものものを想像させてくれたのです。そこで私は自分に、《あとでこのカットに、この印象を明確に表わすようなテクストをつけることにしよう》と言い聞かせたのですが、でもあとで私がそのカットにつけたテクストは、自分で書いたり、だれかの文章(だれの文章だったかはもうおぼえていませんが、大して重要なことじゃありません)からとってきたりしたテクストでした。私は本当には、映像に助けられなかったわけです。あのテクストは本当は、映像から引き出されたものじゃないのです」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.544~545」ちくま学芸文庫 二〇一二年)
すでにどこかで見たこと聞いたことのある言葉ばかりしか到来してこない。もどかしいとも言えるし失敗だとも思えるし何か違うとも感じるだろう。こうも続けている。
「言葉ですべてを言い表わすというのは難しいことです。それにしばしば、テクストがこんなふうに〔ゴダールが仕種で示したと思われる〕やってきて、主題を提示しようとしているところがあります。そしてそうしたテクストは、いくらかしゃべりすぎたり、またときには、主題から離れてしゃべったりしています。それにまた、強引に、この二つのことを同時にしようとしているところもあります。だから、人々はそこにはなんらかの意味があると思いこむのですが、でも実際にはどんな意味もありません。示されるはずの意味以上のものが示されてしまっているわけです。事実、どのカットも、アプサントからできているのではなく、ただ単にコーヒーからできているのですーーー過ぎ去る時間といったものからできているのです。それにしても、ここにはあまりに多くの言葉がもちこまれています。そしてそれは、かりに過ぎ去る時間といったものしかもちこもうとしなければ、人々が退屈してしまうからです。ヒッチコックの『鳥』の場合と同様、いくらかのドラマが必要です。
フィクションに復帰しようとしているあのドキュメンタリーのなかでーーーあのコーヒーカップのカットのなかで私が好きだったのはーーーというか、あのカットを確認したときのことはよくおぼえています。われわれはコーヒーカップの前にカメラを置き、私がスプーンでコーヒーをかきまぜました。クタールは〔ファインダーをのぞきながら〕《ぼくにはなにも見えないーーーなにも見えやしない。なにもおこってやしない》と言っていたのですが、それでも、コーヒーをかきまぜてからコーヒーの泡の動きが止まるまでの十分間、ずっとカメラをまわしつづけました。私があのカットを好きなのは、コーヒーの泡の動きを通して、ひとつの世界が崩壊したり、別の世界が創造されたり、その世界が突然動きを止めたりするのを見ることができたからです。あそこではなにかがおこっていたのです。あらゆるものが興味深いのはこのためです。〔コーヒーの泡の動きのような〕ごく小さなものをつかって一本の映画をつくることもできます。ごく小さなものを通してすべてを提示することもできるのです」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.548~549」ちくま学芸文庫 二〇一二年)
この辺りの語りで「彼女について私が知っている二、三の事柄」から「ヒア&ゼア・こことよそ」に接近しつつこんなふうに触れる。
「ドキュメンタリーとフィクションということについて言えば、私がしようとしていたのは、同時に内部と外部とをもったなにかを提示するということです」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.547」ちくま学芸文庫 二〇一二年)
この箇所について訳註にこうある。
「ゴダールは『彼女について私が知っている二、三の事柄』の演出意図(『ゴダールの全体像』所収)のなかでこう述べている。『ここで問題になるのは、ジュリエットとジュリエットが属している出来事とを同時に描写すること、つまり、ひとつの《全体(アンサンブル)》を描写することである。/この《全体》とその部分〔ーーー〕を、同時に客体(オブジェ)であり主体(シュジェ)であるものとして描写し、語らなければならない。つまり、あらゆる事物は同時に内部と外部とから存在しているという事実を避けて通ることはできないのである』」(ゴダール「ゴダール映画史<全>/P.592~593」ちくま学芸文庫 二〇一二年)
ドキュメンタリー「と」フィクション。
「私」と「社会」との関係は曖昧なものである。この曖昧さ。そして「とーーとーーーとーーー」という離接の運動。ドゥルーズはいう。
「リゾームには始まりも終わりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ。樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、もっぱら同盟に属する。樹木は動詞『である』を押しつけるが、リゾームは接続詞『とーーーとーーーとーーー』を生地としている。この接続詞には動詞『である』をゆさぶり根こぎにする十分な力がある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.60」河出文庫 二〇一〇年)
といってまとめてしまうのは安易、というところへ回帰してくる気がしなくもない。