林啓一(小児科・アレルギー科等)はある意味「おせっかいな成分」と呼んでいる。不必要な場合があるからかもしれない。特に女性向け生理痛薬(市販薬)に配合されていることが多い。
アリルイソプロピルアセチル尿素。商品名:新セデス錠、イブA錠などに含まれる。
聞き慣れない見慣れないのは頭痛・生理痛・腰痛などの苦悶を知らない幸せな人々なのだろう。新型コロナワクチン接種後の痛み止めとして始めて知ったケースがなかにはあるかもしれない。商品箱にはしっかり成分表示されているがイブプロフェン等薬物の後に表示されているため、そこまで見ない、忙しい、という消費者は案外多いのかもしれない。
一九九〇年代後半のこと。アリルイソプロピルアセチル尿素配合市販薬乱用の重症例がある。死体発見のあとに聞かされた。場所は家の自室。死亡したのはひとり暮らしの女性(四十代)。発見されたとき死体の周りを一匹の犬が半狂乱で走り回っていた。
アルコールを受け付けない体質。生理痛が始まると同時に激しいいらいらが昂じてくる。パートに出ていたようだが帰宅しても体をゆっくり休めることが難しい日々が数年続いた。職場環境のどこかに何らかの問題があったかまではわからないが仕事は結構好きなほうで、むしろ不況の長期化が見えてきた時期にあたっており、そのことを考えると将来の不安が頭をもたげないでもない。さらに生理痛でないときも頭痛や腰痛に襲われたときにはアリルイソプロピルアセチル尿素配合剤を服用してしのいでおれば仕事に支障が出ることもなく順調に思える。
一方、アリルイソプロピルアセチル尿素には眠気をもよおす作用がある。いらいらを抑える鎮静作用として働く。いらいらから解放されている時間はさほど神経をぴりぴり尖らせている必要もなく体も思いのほか順調に動いてくれる。生理痛の痛みがひどい時は増量したりした。
生理痛の痛みがひどい時の増量は頭痛や腰痛がひどい時の増量と時期的に打ち重なってくる。頭痛だけとか腰痛だけとかいった際も同じ配合剤を服用する。繰り返すうちに生理痛といらいらの時期だけでなく頭痛や腰痛の時期にも同じ配合剤を服用していることになる。結果的にアリルイソプロピルアセチル尿素配合剤ばかり年がら年じゅう服用しているのと変わらない。何年くらいで連用・依存に陥ったのかはよくわからないが、連用すればするほど耐性がつくのも早い薬剤であるため、買い置きしておく量もだんだん増してきた。一度の服用量は次第に以前の二倍三倍になっていく。二倍三倍の摂取量に慣れてくると今度は減らすことができなくなる。減らすと痛みを強く感じるということもあるがとにかくいらいらが激しい。薬を飲むとふしぎに落ち着いた。
家では犬を一匹飼っていた。部屋にも上げてやる。仕事から帰ってきてアリルイソプロピルアセチル尿素のもたらす眠気にひとりで浸り込む日が続いていたが、女性はその錠剤をスプーンで細かく砕いて水に溶かし、犬の餌に混ぜ込んで与えていた。女性だけでなく犬もまたアリルイソプロピルアセチル尿素依存症を患う。それが一体何年続いたのだろう。四十歳を過ぎた頃には三度の飯よりまず薬でなければ生きていけないような不安な気持ちが常に湧き起こってくるような状態に陥っていた。だからといって薬を止める気はしない。病院を受診するつもりもない。病院を受診すればただちにアリルイソプロピルアセチル尿素配合剤をやめるよう指導されるだろう。だから病院受診を避けつづけた。
来る日も来る日も夕食代わり夜食のおやつ代わりにとアリルイソプロピルアセチル尿素配合剤を少量の水で飲み干す。砕いて粉末状にしたものを犬に与える。
最後はあっけなかった。吐瀉物で喉を詰まらせ窒息して死んだ。アリルイソプロピルアセチル尿素に限らず、薬物大量摂取時にしばしば起こる。
何日経過したか、はっきりとはしらない。ある日、家からまったく出てこず連絡ひとつないのが気になった近くの知人が女性の家を訪れた。異変に気づいた知人は警察へ連絡。ドアが開錠されたところ、人間の死体がひとつ、さらに死体の周囲を半狂乱でぐるぐる回っている一匹の飼い犬が発見された。犬はアリルイソプロピルアセチル尿素の離脱症状で錯乱しながらも、死んでしまった飼い主の死体の周囲をただひたすらぐるぐるぐるぐる回りながらときどき聞き慣れない鳴き声を低く漏らしていたようだ。
このエピソードを聞かされて関心を持ったのはアルコール病棟で治療中のことだ。アルコール病棟入院患者で同時に薬物乱用者でもあるケースというのは珍しくない。たまたま相部屋になった患者(男性)のひとりになぜかバッグの中にトリアゾラム(商品名:ハルシオン)とアリルイソプロピルアセチル尿素配合剤(商品名:新セデス錠)とを合わせて百個分ほど持ち込んできた患者がいた。入院時に持ち物検査があるのだが、検査時のバッグはもちろん空っぽ。アルコールを抜いて一ヶ月後に出る帰宅許可を利用して自宅のどこかに家族にもわからずしまい込んでいたものを持ち出してきたらしい。そういう患者もときどき見かけた。
しかし死んだ女性の場合。犬は錯乱していてもなお生きていたはずなのだ。生きていて飼い主の死体のまわりをぐるぐるぐるぐると、誰かが止めるまで走り回っていたらしいのである。あれからどこへ運び込まれたのだろう。どこかへ運び込まれたとして、その後どうなったのだろう。