短歌が思いもよらぬ誹謗中傷へ移動することはしばしば見かける。選者はともなく作者にとって予想を越えた意味を帯びて人の手から手へリレーしていくケース。「しまった」、「困った」、と後になってダメージの大きさを悔やむことになる。そうならないために何か気を付けることができる注意点はないだろうか。ある。
文学というのはたいへん幅広い。けれども特に短歌に限って「思いもよらぬ誹謗中傷」の発生元になりやすい構造を持つのには理由がある。少なくとも日本では義務教育課程で必修なのだが、いわゆる「古典」で用いる「助動詞/助詞」の運用方法がその種の誤解を生むことが多い。
文字(シニフィアン)と意味内容(シニフィエ)とはそもそも別々に切り離されていて、文字(シニフィアン)は同じでも意味内容(シニフィエ)は社会的構造変化にともなって変容していくのが常だ。短歌の言葉の使用法で難しい点は、社会的構造変化とともに意味内容(シニフィエ)が変わった場合と逆に依然として変わらない場合があるところから生じてくる。言い換えれば、変容「した意味」と変容して「いない意味」とが重点的意味の変容なしにそのまま残されており、どちらとも取れる状態が現在において混在しているところから困難はやってくる。
助動詞。べし、じ、まじ、なり、たり、ごとし。
接続助詞。ば、とも、ど・ども、が、に、を。
係助詞。は、も、ぞ・なむ、や、か、こそ。
副助詞。だに、すら、さへ、のみ、ばかり、など、まで、し。
終助詞。な、そ、ばや、なむ、か、かな、が・がな、な、かし。
間投助詞、や、よ、を。
だいたいこれらの言葉をどのように選択するかしないかで短歌の意味は大きく変わる。現代短歌作者でもプロの場合、ほとんど意味変容なしに不用意に用いらることの多いこれらの「助動詞/助詞」を選択することはまずない。現在において過去の意味をも同時に想起させる言語構造について極度に慎重である。もっとも、川柳ではあえて用いることで諧謔味あるいは笑いを取るのに利用する。ところがアマチュア短歌作者は不注意にも実にしばしば無自覚にこの地雷的舞台を踏んでしまう。
紫式部。源氏物語の作者。歌集を見るとただ単なる恋愛より職場の事情や独身生活のことなどなかなか読みが鋭く筆さばきが細かい。
(1)みづうみに/友よぶ千鳥/ことならば/八十の湊に/声絶えなせそ
(2)亡き人に/かごとをかけて/わづらふも/おのが心の/鬼にやはあらぬ
(3)かへりては/思ひしりぬや/岩かどに/浮きて寄りける/岸のあだ波
(4)忘るるは/うき世のつねと/思ふにも/身をやるかたの/なきぞわびぬる
(5)たれか世に/ながらへて見む/書きとめし/跡は消えせぬ/形見なれども
(6)あらためて/今日しもものの/かなしきは/身のうさやまた/さまかはりぬる
(7)よこめにも/ゆめといひしは/誰なれや/秋の月にも/いかでかは見し
(8)人にまだ/をられぬものを/誰かこの/すきものぞとは/口ならしけむ
(1)わたしに向かって「二心はない」といつも言っている男がそばにいるわけだが、しかし琵琶湖辺りに着任している役人の娘にも実は声をかけているらしい。そんなことならいっそ日本全土の港街にいるすべての女へ絶やさず声かけしてみてはどうか。という意味。(2)死んだ先妻の物の怪が今の若妻に取り憑いたとおろおろしているあなた。しかしそれ、あなた自身の心の暗闇に巣食う鬼の姿なのでは?と。(3)しつこく扉をノックしていた男がようやく帰って行った。わたしの夫が死んだと聞くや言い寄ってはみたものの、そう簡単な女ではないとわかったでしょう。という意味。(4)人のことなら忘れてしまうのは簡単でそれこそ世の中の常なのかもしれません。だからといって忘れ去られる側の気持ちというのは、もう身の置きどころもなく切ない想いで一杯なのです、との意味。立場の違いが身を引き裂くほどのダメージを与えることもしばしばあると詠んだ。(5)今後誰か見ることがあるだろうか、この手紙を。この手紙の言葉だけが消去できないあのひとの形見として残っていくのでしょうけれどと、直訳すればそうなるだろう。紫式部にとって亡くした親友(女性)の形見はまさしく言葉(記録)としてのみ置き換えられ残るのである。(6)夫に先立たれはしたが喪中も過ぎて職場へ復帰することになった。一方、実家を空けている時間は長くなるばかりで家の中はまるで塵屋敷になっていく。夫の死の憂鬱は去っていくが今度は家のことを何かと配慮しなくてはいけない新しい憂鬱がのしかかってきたというのである。今でいう「共働き」や「シングル」に対する無理解から生じる気苦労に似ている。(7)よその女へ目移りするなどあるわけがないと言っていたのはあなたでしょう。ところがわたしがひとりで月を眺めていたその翌朝、あなたは昨晩ここに来れなかった言い訳をわざわざ並べ立ててらした。では一体昨夜、あなたはどこでどんなふうに月を見たと言えるの?とこれまた名探偵のように鋭い。(8)源氏物語の作者として知れ渡った後のこと。よほどの「男好き」に見られたらしい。紫式部はいう。他人から口説かれたことひとつない私なのに誰がわたしのことを「すきもの」=「浮気者」だとあちこちで言いふらしているのでしょう。
永福門院。京極派のひとり。中世に入り没落していく貴族の女の恋情が時として激しい怨恨と入り混じる。
(9)あひ思はで/うたて散ゆく/花にしも/何あぢきなく/心そむらん
(10)峰つづき/くれて吹たつ山風に/さかぬ野べまで/花ぞ散しく
(11)明がたき/秋の寝覚も/かくやありし/草の庵の/よはの春雨
(12)五月雨の/ふる屋の軒の/糸水の/くる人もなき/暮ぞ寂しき
(13)夕暮の/庭すさまじき/秋風に/桐の葉おちて/村雨ぞふる
(14)小夜ふかき/軒ばの峯に/月は入りて/暗き檜ばらに/嵐をぞ聞く
(15)寒き雨は/かれ野の原に/降しめて/山松風の/音だにもせず
(16)かはさずて/夜比かさなる/から衣/かへすがへすも/身をぞうらむる
(17)限ぞと/命をかけて/かこてども/厭ふひとには/其かひもなし
(18)昔とは/遠きをのみは/何かいはん/近き昨日も/けふはむかしを
(9)互いにすれ違っていくばかりのむなしい間柄はまるで散る花のようだ。なのになぜうっかり花に心を寄せてしまうのだろうと永福門院はいう。単なる詠嘆調ではない味わいを見せる。(10)「花ぞ散しく」の「ぞ」。現実離れした大げささがある。しかし作者の狙いはそこにある。(11)秋の夜は長い。というのもひとりだからで男がいないとますます長く感じてしまって仕方がない。しかも家は零落していて夜中ずっと降りつづける春雨の音がいよいよ胸を締めつけてやまない。(12)わたしはひとり身。こんなおんぼろ家屋へやって来てくれる男なんてひとりもいやしない。雨が降り止まないままもう日が暮れていくのを見ているのは寂しすぎる。(13)京極派の歌人は「夕暮/村雨/稲妻」などを盛り込みたがる特徴があるがそのひとつ。風は一段と冷え秋雨は一向に止む気配がない。日が落ちるのも速くなった。窓の外は急速に翳っていく。それを見ている私は今夜もひとりで過ごすのだろう。(14)ほんのりさやけさを残していた月も山陰にすっかり落ちて今日も暗闇がおとずれる。檜の林の間をふいに嵐が吹きつける不気味な音に身を奪われる。(15)冬の部の一首。雪ならまだ穏やかな気もするが冬の雨というのはなぜか身にこたえるほど凍てる。それが世情というものでもあるのだろう。静まりかえった風の野原にひたすら冷たいばかりの冬の雨音がわたしの胸に沁みてくる。(16)肌のぬくもり以前。衣を重ね合わせることもない日が打ち重なっていく。このむなしさ。何度も繰り返し考えてしまう。そんな自分が憎いとさえおもう。今の日本社会なら「自罰行為」を繰り返して「問題児」扱いされているかもしれない。(17)今夜相手が来なかったら、もうこれを限りと命を賭けた愛欲。前後関係から考えてもはや怨恨に近い。にもかかわらず相手は永福門院のことなどこれっぽっちも相手にしていないわけで、そういうことならただただむなしいばかりなのだ。(18)何十年も前のことだけを昔というのだろうか。つい昨日のことでも今日にはもう昔と呼ばれたりするというのに。作者は単なる詠嘆調に耽溺するのではなく現実をあくまでリアルにとらえる。「挙げ足取り」的な短絡的屁理屈と捉えるべきではない。