プルースト作品の<ゾンビ性>。その一部がまた出てくる。「ときに嫉妬はひとつまたひとつとよみがえる」。また<私>はこう思う。「どの女性も怪しい」。後者は女性の<有罪性>がまだ問われていることの証左である。
「とはいえ私のあらゆる嫉妬が消滅してゆくからとってーーーときに嫉妬はひとつまたひとつとよみがえるのだーーー、それはひとつひとつの嫉妬がなんらかの予感された真実に対応していないことを意味するわけではなく、嫉妬の対象となる女性たちについても、私はだれひとり怪しい者はいないと考えるべきではなく、どの女性も怪しいと考えるべきなのであろう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.376」岩波文庫 二〇一七年)
後者の<有罪性>という問い。それはもっと後の「第七篇・見出された時」で盛大に論じられることになる。今の段階で追っていくべきは<ゾンビ性>なのであって、<有罪性>についてはまだまだなのだ。
それはそれとして。日銀総裁の交代が発表された。けれども、黒田総裁が選択した方法を当面は維持するという。黒田体制でさえあと一ヶ月も続くというのに。
日本の観光地、今回は京都府と滋賀県とに限って書くことにするが、そこを訪れる外国人観光客は富裕層だけとは限らない。もっと遥かに上、超富裕層という人々がいる。二十三年に入りパンデミック収束の兆しが伝えられるなか、超富裕層に属する人々のうちほんの僅かだが、「二泊三日で京都滋賀観光」可能かどうか、問い合わせてくる人々が増えてきた。
どんな人々か。まずそれから言っておきたい。京都や滋賀には陶器一個で四〇〇万円という商品が幾らもある。超富裕層というのはいつも、少なくとも二、三個は買っていく。二個としても八〇〇万円。食事はどうか。「食べログ」を利用することはまるでなくそもそも見向き一つしない。さらにコネとかカネとかで星を買うことができる「ミシュラン」も信用しない。現地の生の情報だけを当てにする。メールとかスマートフォンとかは誰に覗かれているかわかったものではないので基本的に使わない。だから手紙で照会してくる。
八年くらい前。大津市で歴史ウォーキングのガイドを務めたことがあったからかもしれないが、世界の超富裕層から石山なら石山、坂本なら坂本、京都市内なら京都市内、とその周辺の見どころはどこかと訪ねられることがある。言葉は英語だけでなく中国語、韓国語、東南アジア諸国語と多岐にわたる。宗教ではキリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒もいる。それぞれに戒律次第で食事制限がある。その上で、「食べログ」も「ミシュラン」も当てにしない人々のために「隠れ超高級料理」を出してくれる場所(店とは限らない)を紹介しなくてはならない。京都はもともと生まれ育ったところなので、病気療養中だとはいえ、それくらいはできる。
陶器二個で八〇〇万円。食事は「食べログ」なし「ミシュラン」なしで九〇〇万円。合わせて一七〇〇万円。その家族を除くとしてもたった二人で三四〇〇万円。その他の買い物を入れると四〇〇〇万円前後。嘘を伝えるわけにはいかない立場としてありのままを伝える。すると、残念ながらキャンセルしたいとのこと。なぜか。
滋賀県の場合。長いあいだ統一教会と深い関係にあった選挙候補者の看板が観光コースのほぼ真ん中に置かれているため流れ弾に当たるのは御免だ、危険過ぎるということ。
京都府の場合はもっとひどい。東京都は別として、西日本の中でも有名大学が多い土地柄。統一教会二世三世問題だけでなく統一教会の「被害者二世三世」になるともう恐ろしいくらい大量にうじゃうじゃしていて、とてもではないが、流れ弾に巻き込まれるのは御免こうむりたいと。万が一、何かあれば、アメリカ、フランス、ドイツ、中国、韓国、東南アジア諸国大使館から懇切丁寧な説明と謝罪とが求められる。
これではたった二日で一戸建て住宅二個くらいの大金を落としていってくれる超富裕層に対して、みすみす排除する、できれば来ないでほしい、もし来たりしたら身の危険の保証は一切ない。そう言っているに等しい。しかしなぜ、そういう主旨のことを世界中、少なくとも「国際社会に向けて」発信しているのだろう。さらにその種の候補者が議員が返り咲けば問題含みの看板はそのまま堂々と置かれ続けることになるに違いない。
日本政府は、実を言えば、外貨を獲得したくないという思惑が透けて見えるようだ。「透けて見える」。例えばテレビ放送で「透けて見える」と発言するのは男性アナウンサーではなく、主にわざわざ女性アナウンサー。卑猥だ。男性後期高齢者の目の色が変わる。舐め回すようにじろじろ見入る。
古くから指摘されてきた問題なのだが、テレビは連日連夜、何度も繰り返し平日の通勤風景を映し出す。なかでもよく流れるのが東京駅から丸の内オフィス街への通勤風景。それがなぜか下半身映像ばかり。女性の足とスカートとがちらちら映り込むまでテレビカメラは決して移動しようとしない。