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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ138

2023年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年九月三十日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

生まれて初めて中秋の月を見たタマ。前日から合わせて三日目。これで宵宮、本宮、残り福と見たことになるのだろうか。


Blog21・全体主義をお膳立てするコメンテーター

2023年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム

政府にもマス-コミにも御用達のコメンテーターというものが生息している。「当意即妙」というステレオタイプ(紋切型)の言葉をぺらぺらと並べ立てて賃金を得ている。マス-コミ御用達のコメンテーターは今の政府の代弁者を兼ねている点で政府御用達のコメンテーターでもあると十分にいえる。政府単独で押し通すにはいかにも無理がありそうな場合、政府はマス-コミ御用達のコメンテーターを通して世論をたちまち全体主義化してしまう。それにしてもマス-コミ御用達のコメンテーターはなぜあのように時に饒舌、時に神妙、しかしほぼ必ずといっていいほど「当意即妙」というステレオタイプ(紋切型)の言葉をぺらぺらと並べ立てることができるのか。ある問いについてほぼ必ずといっていいほど「当意即妙」というステレオタイプ(紋切型)の言葉をぺらぺらと並べ立てることができるのか。アルチュセールから二箇所。

 

(1)「見えないものを定義され排除されたものとして定義し構造化するのは問いの構造の場である。この見えないものは、問いの構造の場の存在と固有の構造によって、可視性の場から《排除され》、排除されたものとして《定義される》。それは、場がその対象に反照すること、すなわち問いの構造がその対象に必然的にかつ内在的に関係することを、禁止し抑圧するものとして定義される。ーーー新しい対象と問題は必然的に現存の理論的場のなかでは《見えない》。なぜなら、それらはこの理論の対象ではなく、《禁止されたもの》であるからだーーーそれらは、この問いの構造によって定義された、見えるものの場との必然的関係を必然的にもたない対象であり問題なのである。それらは、権利上、見えるものの場の外に排斥され抑圧されるから、見えないのである。まさにそのゆえに、それらがその場のなかに現実に現前している事実は、(非常に特殊な徴候的状況のなかで)それが到来するときにも《気づかれないでしまう》し、文字通りに感知されざる不在になる。それというのも、そもそも場の機能というものは、それらの対象や問題を見ないこと、それらを見ることを禁止することにあるからだ。ここでもまた、見えないものは、見えるものと同じく、もはや主体の《視覚の機能》ではない。見えないものとは、理論的な問いの構造が自分の非=対象を見ないことであり、見えないものは暗闇であり、理論的な問いの構造が自己へと反照するときのめしいた目である。その問いの構造は、その非=対象や非=問題を《熟視しないために》、それらを見ないで通りぬけていく。ーーー見える場のなかの見えないものは、理論展開のなかで、この場によって定義される見えるものにとって外的で疎遠であれば《何でもいいもの》ではない。見えないものはつねに見えるものによって、《それの》見えないもの、《それの》見ることの禁止として定義される。だから見えないものは、空間的隠喩をもう一度使って言えば、見えるものの外部、排除の外的な暗闇ではなくて、見えるものによって定義されるがゆえに見えるもの自体に内在する《排除の内的な暗闇》なのである。言い換えると、地盤、地平、したがって所与の理論的な問いの構造によって定義される見える場の境界といった魅惑的な隠喩は、空間的隠喩を額面通りにとってこの場を《それの外部にあるもうひとつの空間によって》定義される場として考えるなら、この場の性質について思い違いをさせかねない。このもうひとつの空間なるものは、それを自分の否認として含む最初の空間のなかにある。このもうひとつの空間は、まるごと最初の空間なのであって、最初の空間は、それ自身の境界線に排除するものの否認によってのみ定義される。最初の空間には《内部の》境界しかないし、それはその外部を自己の内部にかかえていると言っていい。このように理論的場の逆説は、あえて空間的隠喩を使って言えば、《限定される》がゆえに《無限な》空間、すなわち、それをなにものかから分かつ《外的な》限界や境界をもたない空間であるという点にある。なぜかといえば、それは自分の内部で定義され限定され、自分でないものを排除することで自分の本来の存在を作り出す、定義の有限性を自分の内部にもっているからである」(アルチュセール「資本論を読む・上・序文・P.43~46」ちくま学芸文庫 一九九六年)

 

(2)「私はここで問題になっているのはイデオロギー的《哲学》だと言う。それというのも、『認識の問題』のイデオロギー的定立こそが、西欧の観念論的哲学と一体になった伝統(デカルトからカントとヘーゲルを経てフッサールにいたるまでの伝統)を定義するからである。私がこのような認識の『定立』は《イデオロギー的》であると言うのは、この問題が『答え』から出発して、答えの正確な《反射》として定式化されているからである。すなわち、それは本当の問題としてではなく、自分が与えたいと思う《イデオロギー的な》解答がたしかにこの問題の解答であるかのように定立されなくてはならなかった問題として定式化されたのである。ーーーこの論点はイデオロギーの本質をイデオロギー的形式で定義し、イデオロギー的認識(とりわけ、イデオロギーが語る認識)を原理上は《再認》の現象に還元する。イデオロギーの理論的生産様式においては(この関連では科学の理論的生産様式とはまったく違って)、問題の定式化は、認識過程の外部ですでに生産されている《解答》ーーー外部でというのは、理論外的審級や要求(宗教的、道徳的、政治的その他の)によって押しつけられるのだからーーーが、理論的鏡としても実践的正当化にも役立つように作られた人為的問題のなかに《自己を再認できる》諸条件の理論的表現でしかないからだ。このように、『認識の問題』によって支配される近代西欧哲学のすべては事実上、この《鏡のなかの再認》から期待される理論的=実践的効果を可能にするように《生産された》(あるひとたちには自覚的に、あるひとたちには無自覚的にーーーしかしここではどちらでもかまわない)用語でもって、またそのように生産された理論的土台に基づいて提起される『問題』の定式化によって支配されている。西欧哲学の歴史のすべては『認識問題』によってではなく、この『問題』が受け取る《べき》イデオロギー的解答によって支配されていると言ってもいいくらいだ。ここでイデオロギー的だと言うのは、認識の現実に無縁な実践的、宗教的、道徳的、政治的な『利害感心』によってあらかじめ解答が押しつけられるからである。マルクスが『ドイツ・イデオロギー』のときからかなり深みのある言葉で言うように、『《答えのなかばかりでなく、問いそのもののなかにも、ごまかしがあった》』。ーーーここでわれわれはもっとやっかいな難題に出会う。なぜなら、われわれは、まちがった答えの《反復》だけでなく、とりわけ《まちがった問い》の《反復》が多くのひとびとのなかで生み出してきた数世紀来の『自明さ』に対して、この企てにおいてはほとんど一人だけで抵抗しなくてはならないからである。われわれはこのイデオロギー的問いによって定義されるイデオロギー的空間、この《必然的に閉じた》空間から脱出しなくてはならない(閉じた空間だと言うのは、イデオロギーの理論的生産様式を特徴づける《再認》構造の本質的結果のひとつは閉じているからである。この不可避的に閉じた円環を、ラカンは別の文脈で、また別の目的から、『《双対の鏡像関係》』と呼んだ)。そうすることでわれわれは、別の場所で新しい空間を開くべきであるーーーこの空間は、《解答について予断を下すことのない、問題の正当な定立》が要求する空間である。『認識問題』のこの空間が閉じた空間すなわち悪循環(イデオロギー的再認の鏡的関係の悪循環そのもの)であること、まさにこの事実を西欧哲学における『認識理論』の歴史は、有名な『デカルト的円環』からヘーゲル的あるいはフッサール的理性の目的論の円環に至るまで、はっきりと《見させて》くれる。この円環の必然的存在を理論的に引き受ける、すなわちそれを自分のイデオロギー的企てにとって本質的であると考えようと決意する哲学(フッサール)が最高度の自覚と誠実さに達したとしても、この《円環》から《抜け出す》ことはできなかったし、イデオロギー的な囚われから《抜け出す》ことはできなかったーーー同様に、この『閉鎖性』の絶対的可能性の条件を、『開放性』(外見的には閉鎖性のイデオロギー的非=閉鎖性でしかない)のなかで考えようとした人、つまりハイデガーもまたこの円環から抜け出すことができなかった。外部であれ深さであれ、単なる《外》に身を置くことでは閉じた空間から出ることはできない。この外またはこの深さが《その》外または《その》深さにとどまるかぎりは、それらはまだ《この》円環、《この》閉じた空間に属しているーーーちょうど円環がそれとは別の《それの》他者のなかで『反復する』ように。この円環から首尾よく免れるのは、この空間の反復によるのではなくて、それの非=反復によってであるーーー理論的に根拠のある《逃走》だけがそれを可能にする。この逃走は、正しくは、逃げだす相手につねに縛られている《逃走》ではなくて、新しい空間、新しい問いの構造の根本からの創設であり、それのおかげではじめて、イデオロギー的な問題定立の再認の構造のなかで否認された現実の《問題》を立てることができる」(アルチュセール「資本論を読む・上・序文・P.98~101」ちくま学芸文庫 一九九六年)

 

さらにコメンテーターのうさん臭さというものがどれほど臭いかについて。蓮實重彦が上げている次のようなケースはコメンテーターが心得ている「自然さを捏造する不自然さ」についての批評としても読むことができる。

 

「たとえば、フランス人の旧友と午後のひとときを過すような場合、こうして成立した自然さに埋没した結果、ついいましがた読んだばかりの週刊誌で目にした流行語とか、大学という環境の中でのみ流通しうる俗語の幾つかを思わず口にしてしまうときがある。すると相手は、全く別の文脈の中にそれに相応するより由緒正しい語彙をさりげなくまぎれこませ、その種の流行語や俗語を使って《自然》さを捏造しようとする外国人の《不自然》さを、いかにも《自然に》指摘してくれるのだ。勿論、あらゆるフランス人が、あらゆる外国人に対して、この種の自然さで接しているというのではない。だがそれは、日本人同士の日々の生活にあっても同じことだろう。要は、他なるものへの全的な合一でも他なるものの全的な容認でもない。そして、そんな話はごく自然のことだと抽象的には理解できても、ひとたび外国語と呼ばれるものが介在するとあっさり忘れられて、流暢さという《不自然》のみが夢みられてしまうのだ。日本語を話そうとする妻を戸惑わせるものが、この不自然さへの恐れであることはいうまでもない。日本という風土にはこの不自然さを蔓延させるものが絶えず漂っている。そしてとりわけ強調しておきたいのは、日本に住む外国人のかなりの数の人間が、この風土にすっかり浸りきっているかにみえる点だ」(蓮実重彦「反=日本語論・P.58」ちくま文庫 二〇〇七年)

 

コメンテーターは媒介する。せっせと媒介して賃金を手にする。地震の余地など誰にも決して不可能だというのに。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて562

2023年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は男前豆腐店「濃厚ケンちゃん」。1パックの二分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずはキュウリの糠漬け

 

(1)糠を落とし塩分を抜くため一度水で揉み洗い。(2)漬物といっても両端5ミリほどは固いので包丁で切り落とす。(3)皮を剥く。(4)一本の半分のままの細長い状態で縦に三等分する。(5)三等分した細長いキュウリを今度は5ミリ程度の間隔で横に切り分けていく。(6)その上にティッシュを乗せてさらに沁み込んでいる塩分を水とともに吸い上げる。今朝はそのうち十八個程度を粥と一緒に食する。

 

昨日夕食はたまねぎの天ぷら。一枚の半分。体重減少。35.1キロ。

 

今朝の音楽はマイルス・デイビス「FLAMENCO SKETCHES」。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・「笑いを買う肯定」と「顰蹙を買う否定」

2023年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム

過去の容貌と現在の容貌とがあまりにもかけ離れてしまっているような場合。「名」の一致は何の役にも立たないか。そんなことはない。むしろ名の一致がもたらす驚嘆すべき別人への変貌ぶりが逆に新しい身振りとしてその人物を「驚くべきパントマイム俳優」へ仕立て上げる。

 

時間の作用によって「変身があまりにも完璧におこなわれた」場合。「記憶のなかの忌まわしい道楽者と目の前の年老いた修道士とがーーー同一人物であるとは思いも寄らず、そんな想像を絶する変身が想わせるのは、俳優の芸をも超えるもの、むしろフレゴリをその典型とする驚くべきパントマイム俳優の芸であった」。ある「年老いた婦人は」と語り手は続ける。「自分の魅力であったいわく言いがたいメランコリックな微笑みが、老いのせいで張りつけられた石膏の仮面の表面にもはや浮かぶことがないのを悟って、泣きだしたくなった。それから突然、他人に気に入られようとする気力を失った婦人は、あきらめることこそ気が利いていると思い、その仮面をまるで芝居の仮面のように使って人を笑わせた!」。

 

「もちろん何人かの婦人たちは、顔がいまなおすぐその人だとわかるほどに昔とほとんど変わらず、まるで季節にふさわしい調和を醸し出すかのように、おのが秋の装いと言うべき白髪まじりの髪を頭にのせていた。しかしほかの婦人たちの場合、男たちの場合もそうだが、変身があまりにも完璧におこなわれたために両者がーーーたとえば記憶のなかの忌まわしい道楽者と目の前の年老いた修道士とがーーー同一人物であるとは思いも寄らず、そんな想像を絶する変身が想わせるのは、俳優の芸をも超えるもの、むしろフレゴリをその典型とする驚くべきパントマイム俳優の芸であった。年老いた婦人は、自分の魅力であったいわく言いがたいメランコリックな微笑みが、老いのせいで張りつけられた石膏の仮面の表面にもはや浮かぶことがないのを悟って、泣きだしたくなった。それから突然、他人に気に入られようとする気力を失った婦人は、あきらめることこそ気が利いていると思い、その仮面をまるで芝居の仮面のように使って人を笑わせた!」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.79」岩波文庫 二〇一九年)

 

かつて「メランコリックな微笑み」を売りとしていた婦人。今は「老いのせいで張りつけられた石膏の仮面」が売りである。パーティー参加者は皆それを買いとして承認する。かつて披露していた「メランコリックな微笑み」も売りなら「老いのせいで張りつけられた石膏の仮面」も売りだ。旧友たちがかつても今も買い手として現われている事実を否定する材料はどこにもない。ただ、この「パントマイム」が売りとして流通するには条件がある。間違いなく同一人物であることを保証する「名」の一致がそれだ。「名」の一致というはなはだ心細いかぎりの条件を唯一の根拠として過去と現在とが共鳴した瞬間、旧友たちを「笑い」の買い手へ置き換える手品のような動きが出現する。さらにこの場合、「笑い」を媒介するのは貨幣ではなく「名」であり言葉だというところに、通常の商品売買とは異なる時間の作用の一側面を垣間見ることができる。貨幣交換されると同時に価値が実現される商品売買ではなしに、ある顔と別の顔との間に「同じ名」が置かれるやいなやそこで「笑い」という価値が始めて生じるのである。いずれの場合も時間の延長による剰余が必要不可欠である点では変わりないにせよ、貨幣と言葉とがまったく同様の効果をもたらすとは必ずしもいえない。

 

また語り手が読者に向けていつも忘れないよう指示してくる課題に事物の間歇性がある。時間の作用はブラックボックスに似ている。かつてのマス-コミ左派が今もマス-コミでありつつなお変わらぬ左派だとはまるで根も葉もない思い込みでしかないように。「名」が今も一致しているからといって実際はどうか。何十年間かの間歇、<あいだ>の存在は、「名」の一致によって過去と現在とを繋ぎ合わせて笑いを生じさせることもあるにはある。と同時にこの作業がのっぴきならぬ歴史の再現であるという意味ではすみやかに忘却させてしまいたい一つの暴露であり、ただちに廃棄されねばならない否定を意味してもいる。とりわけ「歴史の再現(検証)」が「ただちに廃棄されねばならない否定」でもあるという多少なりとも混み入った事情は日本政府と北朝鮮政府とで今なお齟齬のある拉致問題を思い起こさせぬでもない。もっとも、一般の情報消費者にとってはことによるといずれの見解も「パントマイム」に過ぎないのでは、というふうに見えてしまっては身も蓋もなくなってしまうだろうけれども。

 

例えば、どの情報提供者に丹念に真偽のほどを確かめてみて回ったとしても「ゴメスの名はゴメス」としか答えが返ってこないようなベトナム戦争末期の状況。大嘘つきたちの集まりを信じ込んだ各国マス-コミは現在の東アジアで日常生活を営む何の罪もない大量の人々をともすれば危険きわまりない経済恐慌の渦中へ放り込んでしまう泥沼の縁へ導いているように思えてならない。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ137

2023年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年九月二十九日(金)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

そうだった。二代目タマにとっては生まれて初めて見る中秋の名月。