シュルジ夫人の二人の美貌の息子に近づくためシュルジ夫人と出来るだけ長く話し込み、可能な限り懇意にしておく必要性を感じていたシャルリュス。だがしゃべり出すと止まらない悪癖ゆえ話題はシュルジ夫人が出席するつもりでいたサン=トゥーヴェルト夫人主催のパーティーのみならずサン=トゥーヴェルト夫人自身に対する侮辱・酷評へ及ぶ。一見どうでもいいようでその実どうでもよくないシャルリュスの大騒ぎ。なぜどうでもよくないのか。侮辱・酷評のために用いられている言葉が韻を踏む詩作の技術=洒落を用いてどんどん連結されていく点、むしろそれが侮辱・酷評の特徴を成している点で、目を逸らしてはならないとプルースト自身が警告しているかのようだ。サン=トゥーヴェルトの名に引っかけて、「神聖な(サン)」、「卑猥な(ヴェルト)」、「尻軽」、「嗅覚」、「便槽」、「お口」、と連射される。
「たしか百歳のお祝いをしていたはず。そうはいっても、あの人以上におもしろい話を聞かせてくれる人がおりますかな?第一帝政と王政復古の時代の、みずから目撃し、かつ体験した歴史的な想い出はもとより、内輪の話だってどんどん出てくるでしょう。きっとその内輪話はちっとも『神聖な(サン)』ものではなく、きわめて『卑猥な(ヴェルト)』ものでしょうな、なにしろその尊敬すべきお転婆さんは尻軽だったわけですから。そんなわくわくする時代のことを訊きたくてもできないのは、私の嗅覚が敏感なせいでしょう。そのご婦人がそばにいらっしゃるだけで充分でしてね、突然『うへっ!こりゃ、わしの使った便槽をこわしたのか』と思うが、なんのことはない、侯爵夫人が招待かなにかの目的でお口を開かれただけなんです」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.232」岩波文庫 二〇一五年)
<冒瀆>がプルーストの三大テーマの一つだったことを嫌でも思い起こさせる。そしてこの場面では是が非でも「卑猥な(ヴェルト)」次元を通り抜けなければならない。「口」から「尻」へ、言い換えれば入口から出口へ、さらには排出物を待ち受ける「便槽」へ、シャルリュスの言葉は「嗅覚」を駆け抜けさせる。さらに、「金婚式(ジュビレ)」、「大喜び(ジュビラシオン)」、「若かりし(ヴェルト)」、「下水道散策」、「糞(くそ)だらけ」、と立板に水の<冒瀆>の身振り・言語が際立つ。
「これで、おわかりでしょう、もし不幸にして私が夫人のところへ出かけるはめになれば、便槽はみるみる増殖して恐ろしい汲み取りタンクになってしまう。しかし夫人がお持ちの神秘的な名前を聞くと、金婚式(ジュビレ)などとっくにすぎた人なのに、私はいつも大喜び(ジュビラシオン)であの『退廃的』と称するばかげた詩句を想い出すんです。『いやはや、若かりし(ヴェルト)、若かりし(ヴェルト)、その日のわが魂はーーー』。しかし私が必要としているのは、もっと清潔な本来の若さです。うわさでは、あの疲れを知らぬ健脚女は『ガーデン・パーティー』とやらを何度も聞いているようですが、まあ私に言わせれば『下水道散策へのお誘い』ですな。あなたはあそこへ糞(くそ)だらけになりにいらっしゃるんですか?」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.232~233」岩波文庫 二〇一五年)
しかし何がそれほど「神聖な(サン)」なのか。古代の神の両義性を思い出そう。部族共同体を一撃で壊滅させる大災害をもたらすと同時に食物連鎖の中に共同体を溶け込ませてくれる大自然でもある。例えば日本のように山地が多くを占める地域では最初は祠ではなく「森」自体が神とされて「森の思想」が生まれるとともに森の中の巨木や巨石や出入口に祠が祀られるようになったケース。また古代エジプトやメソポタミアのように比較的大きな河が生命の源とされるとともにしばしば洪水を起こすせいで、古代人の心情に偉大さと恐怖との両者を打ち込んだケース。いずれにせよ神であるにもかかわらず極端に両義的なのではなく、極端に両義的であるがゆえに神として、また畏怖せざるを得ない古代人の身体とともに出現したのだ。
シャルリュスによるこの上なく下もない<冒瀆>の身振り。そしてその言語はどれも極めて性的な次元の語彙と絡み合っている。さらに「清潔な本来の若さ」とシャルリュスが口にする時、それは「ソドムとゴモラ」における「ソドミー」(肛門性交)を上流社交界の真ん中を誇らしげに流通させる<合言葉>以外の何ものだというのか。プルーストは「ソドムとゴモラ」だけでなく異性愛もトランス性愛的な横断的両性愛もひっくるめて、前に引用したように「自然が無意識のうちにおこなう感嘆すべき努力のあらわれ」だといっているのである。プルーストがシャルリュスに無数の語彙とその組み換え・組み合わせの権利とを与えたのは理由のないことではまるでない。シャルリュスの侮辱・酷評は、その演説自体が人間の身体と生存の自然循環というテーマを浮上させる装置として機能している点を直視しなければならない。「下水道散策」は多少なりとも紆余曲折を経ながら、いずれ海へ到達するほかない。古代ローマ皇帝ヘリオガバルスの死体が溝(水路)にぶちこまれつつ回帰の約束を指し示しているように。そして再び海から陸へと回帰してくる。このように人間の身体とその生存は永遠回帰の条件を得る。
だが、ただ単なる同一性だけでは回帰しないし回帰することはできない。循環・環流の条件は「ずれ(差異)」の側にあって同一性の側にはないからである。ニーチェはずいぶん早い時期にいっていた。「《数多性や無秩序》が異議を唱える」と。
「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)
ところで、シャルリュスの<冒瀆>はなるほどシュルジ夫人との社交辞令を通して言語化されてはいる。けれども<冒瀆>の主旨として出現してくる偉大な<自然循環>への言及はもっと早い段階で「独特の臭気」とともに登場している。疲労困憊の果てに死相をあらわにしたスワンの登場がそうだ。
「スワンは、その病人の身体が、さまざまな化学反応の観察されるレトルトとしか思えないほど、疲労の極に達していた。その顔は、プルシアンブルーの小さな斑点がいくつも出て、もはや生者の世界のものとは思われず、高等中学校(リセ)で『実験』後の『理科』の教室に残るのがいやになるあの臭(にお)いと同様の、独特の臭気を放っていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.229~230」岩波文庫 二〇一五年)
シャルリュスによる過剰な侮辱・酷評、プルーストによる<冒瀆への意志>。しかし読者はむずかしいことを考える必要など何一つない。書籍を用いて活字化された文面=表層に目を通してみるだけで、そっくりそのまま<自然循環>の永遠回帰性とその条件について述べられていることに気づくのである。
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「たしか百歳のお祝いをしていたはず。そうはいっても、あの人以上におもしろい話を聞かせてくれる人がおりますかな?第一帝政と王政復古の時代の、みずから目撃し、かつ体験した歴史的な想い出はもとより、内輪の話だってどんどん出てくるでしょう。きっとその内輪話はちっとも『神聖な(サン)』ものではなく、きわめて『卑猥な(ヴェルト)』ものでしょうな、なにしろその尊敬すべきお転婆さんは尻軽だったわけですから。そんなわくわくする時代のことを訊きたくてもできないのは、私の嗅覚が敏感なせいでしょう。そのご婦人がそばにいらっしゃるだけで充分でしてね、突然『うへっ!こりゃ、わしの使った便槽をこわしたのか』と思うが、なんのことはない、侯爵夫人が招待かなにかの目的でお口を開かれただけなんです」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.232」岩波文庫 二〇一五年)
<冒瀆>がプルーストの三大テーマの一つだったことを嫌でも思い起こさせる。そしてこの場面では是が非でも「卑猥な(ヴェルト)」次元を通り抜けなければならない。「口」から「尻」へ、言い換えれば入口から出口へ、さらには排出物を待ち受ける「便槽」へ、シャルリュスの言葉は「嗅覚」を駆け抜けさせる。さらに、「金婚式(ジュビレ)」、「大喜び(ジュビラシオン)」、「若かりし(ヴェルト)」、「下水道散策」、「糞(くそ)だらけ」、と立板に水の<冒瀆>の身振り・言語が際立つ。
「これで、おわかりでしょう、もし不幸にして私が夫人のところへ出かけるはめになれば、便槽はみるみる増殖して恐ろしい汲み取りタンクになってしまう。しかし夫人がお持ちの神秘的な名前を聞くと、金婚式(ジュビレ)などとっくにすぎた人なのに、私はいつも大喜び(ジュビラシオン)であの『退廃的』と称するばかげた詩句を想い出すんです。『いやはや、若かりし(ヴェルト)、若かりし(ヴェルト)、その日のわが魂はーーー』。しかし私が必要としているのは、もっと清潔な本来の若さです。うわさでは、あの疲れを知らぬ健脚女は『ガーデン・パーティー』とやらを何度も聞いているようですが、まあ私に言わせれば『下水道散策へのお誘い』ですな。あなたはあそこへ糞(くそ)だらけになりにいらっしゃるんですか?」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.232~233」岩波文庫 二〇一五年)
しかし何がそれほど「神聖な(サン)」なのか。古代の神の両義性を思い出そう。部族共同体を一撃で壊滅させる大災害をもたらすと同時に食物連鎖の中に共同体を溶け込ませてくれる大自然でもある。例えば日本のように山地が多くを占める地域では最初は祠ではなく「森」自体が神とされて「森の思想」が生まれるとともに森の中の巨木や巨石や出入口に祠が祀られるようになったケース。また古代エジプトやメソポタミアのように比較的大きな河が生命の源とされるとともにしばしば洪水を起こすせいで、古代人の心情に偉大さと恐怖との両者を打ち込んだケース。いずれにせよ神であるにもかかわらず極端に両義的なのではなく、極端に両義的であるがゆえに神として、また畏怖せざるを得ない古代人の身体とともに出現したのだ。
シャルリュスによるこの上なく下もない<冒瀆>の身振り。そしてその言語はどれも極めて性的な次元の語彙と絡み合っている。さらに「清潔な本来の若さ」とシャルリュスが口にする時、それは「ソドムとゴモラ」における「ソドミー」(肛門性交)を上流社交界の真ん中を誇らしげに流通させる<合言葉>以外の何ものだというのか。プルーストは「ソドムとゴモラ」だけでなく異性愛もトランス性愛的な横断的両性愛もひっくるめて、前に引用したように「自然が無意識のうちにおこなう感嘆すべき努力のあらわれ」だといっているのである。プルーストがシャルリュスに無数の語彙とその組み換え・組み合わせの権利とを与えたのは理由のないことではまるでない。シャルリュスの侮辱・酷評は、その演説自体が人間の身体と生存の自然循環というテーマを浮上させる装置として機能している点を直視しなければならない。「下水道散策」は多少なりとも紆余曲折を経ながら、いずれ海へ到達するほかない。古代ローマ皇帝ヘリオガバルスの死体が溝(水路)にぶちこまれつつ回帰の約束を指し示しているように。そして再び海から陸へと回帰してくる。このように人間の身体とその生存は永遠回帰の条件を得る。
だが、ただ単なる同一性だけでは回帰しないし回帰することはできない。循環・環流の条件は「ずれ(差異)」の側にあって同一性の側にはないからである。ニーチェはずいぶん早い時期にいっていた。「《数多性や無秩序》が異議を唱える」と。
「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)
ところで、シャルリュスの<冒瀆>はなるほどシュルジ夫人との社交辞令を通して言語化されてはいる。けれども<冒瀆>の主旨として出現してくる偉大な<自然循環>への言及はもっと早い段階で「独特の臭気」とともに登場している。疲労困憊の果てに死相をあらわにしたスワンの登場がそうだ。
「スワンは、その病人の身体が、さまざまな化学反応の観察されるレトルトとしか思えないほど、疲労の極に達していた。その顔は、プルシアンブルーの小さな斑点がいくつも出て、もはや生者の世界のものとは思われず、高等中学校(リセ)で『実験』後の『理科』の教室に残るのがいやになるあの臭(にお)いと同様の、独特の臭気を放っていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.229~230」岩波文庫 二〇一五年)
シャルリュスによる過剰な侮辱・酷評、プルーストによる<冒瀆への意志>。しかし読者はむずかしいことを考える必要など何一つない。書籍を用いて活字化された文面=表層に目を通してみるだけで、そっくりそのまま<自然循環>の永遠回帰性とその条件について述べられていることに気づくのである。
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