白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・シャルリュスによる<冒瀆>/偉大なる<自然循環>

2022年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
シュルジ夫人の二人の美貌の息子に近づくためシュルジ夫人と出来るだけ長く話し込み、可能な限り懇意にしておく必要性を感じていたシャルリュス。だがしゃべり出すと止まらない悪癖ゆえ話題はシュルジ夫人が出席するつもりでいたサン=トゥーヴェルト夫人主催のパーティーのみならずサン=トゥーヴェルト夫人自身に対する侮辱・酷評へ及ぶ。一見どうでもいいようでその実どうでもよくないシャルリュスの大騒ぎ。なぜどうでもよくないのか。侮辱・酷評のために用いられている言葉が韻を踏む詩作の技術=洒落を用いてどんどん連結されていく点、むしろそれが侮辱・酷評の特徴を成している点で、目を逸らしてはならないとプルースト自身が警告しているかのようだ。サン=トゥーヴェルトの名に引っかけて、「神聖な(サン)」、「卑猥な(ヴェルト)」、「尻軽」、「嗅覚」、「便槽」、「お口」、と連射される。

「たしか百歳のお祝いをしていたはず。そうはいっても、あの人以上におもしろい話を聞かせてくれる人がおりますかな?第一帝政と王政復古の時代の、みずから目撃し、かつ体験した歴史的な想い出はもとより、内輪の話だってどんどん出てくるでしょう。きっとその内輪話はちっとも『神聖な(サン)』ものではなく、きわめて『卑猥な(ヴェルト)』ものでしょうな、なにしろその尊敬すべきお転婆さんは尻軽だったわけですから。そんなわくわくする時代のことを訊きたくてもできないのは、私の嗅覚が敏感なせいでしょう。そのご婦人がそばにいらっしゃるだけで充分でしてね、突然『うへっ!こりゃ、わしの使った便槽をこわしたのか』と思うが、なんのことはない、侯爵夫人が招待かなにかの目的でお口を開かれただけなんです」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.232」岩波文庫 二〇一五年)

<冒瀆>がプルーストの三大テーマの一つだったことを嫌でも思い起こさせる。そしてこの場面では是が非でも「卑猥な(ヴェルト)」次元を通り抜けなければならない。「口」から「尻」へ、言い換えれば入口から出口へ、さらには排出物を待ち受ける「便槽」へ、シャルリュスの言葉は「嗅覚」を駆け抜けさせる。さらに、「金婚式(ジュビレ)」、「大喜び(ジュビラシオン)」、「若かりし(ヴェルト)」、「下水道散策」、「糞(くそ)だらけ」、と立板に水の<冒瀆>の身振り・言語が際立つ。

「これで、おわかりでしょう、もし不幸にして私が夫人のところへ出かけるはめになれば、便槽はみるみる増殖して恐ろしい汲み取りタンクになってしまう。しかし夫人がお持ちの神秘的な名前を聞くと、金婚式(ジュビレ)などとっくにすぎた人なのに、私はいつも大喜び(ジュビラシオン)であの『退廃的』と称するばかげた詩句を想い出すんです。『いやはや、若かりし(ヴェルト)、若かりし(ヴェルト)、その日のわが魂はーーー』。しかし私が必要としているのは、もっと清潔な本来の若さです。うわさでは、あの疲れを知らぬ健脚女は『ガーデン・パーティー』とやらを何度も聞いているようですが、まあ私に言わせれば『下水道散策へのお誘い』ですな。あなたはあそこへ糞(くそ)だらけになりにいらっしゃるんですか?」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.232~233」岩波文庫 二〇一五年)

しかし何がそれほど「神聖な(サン)」なのか。古代の神の両義性を思い出そう。部族共同体を一撃で壊滅させる大災害をもたらすと同時に食物連鎖の中に共同体を溶け込ませてくれる大自然でもある。例えば日本のように山地が多くを占める地域では最初は祠ではなく「森」自体が神とされて「森の思想」が生まれるとともに森の中の巨木や巨石や出入口に祠が祀られるようになったケース。また古代エジプトやメソポタミアのように比較的大きな河が生命の源とされるとともにしばしば洪水を起こすせいで、古代人の心情に偉大さと恐怖との両者を打ち込んだケース。いずれにせよ神であるにもかかわらず極端に両義的なのではなく、極端に両義的であるがゆえに神として、また畏怖せざるを得ない古代人の身体とともに出現したのだ。

シャルリュスによるこの上なく下もない<冒瀆>の身振り。そしてその言語はどれも極めて性的な次元の語彙と絡み合っている。さらに「清潔な本来の若さ」とシャルリュスが口にする時、それは「ソドムとゴモラ」における「ソドミー」(肛門性交)を上流社交界の真ん中を誇らしげに流通させる<合言葉>以外の何ものだというのか。プルーストは「ソドムとゴモラ」だけでなく異性愛もトランス性愛的な横断的両性愛もひっくるめて、前に引用したように「自然が無意識のうちにおこなう感嘆すべき努力のあらわれ」だといっているのである。プルーストがシャルリュスに無数の語彙とその組み換え・組み合わせの権利とを与えたのは理由のないことではまるでない。シャルリュスの侮辱・酷評は、その演説自体が人間の身体と生存の自然循環というテーマを浮上させる装置として機能している点を直視しなければならない。「下水道散策」は多少なりとも紆余曲折を経ながら、いずれ海へ到達するほかない。古代ローマ皇帝ヘリオガバルスの死体が溝(水路)にぶちこまれつつ回帰の約束を指し示しているように。そして再び海から陸へと回帰してくる。このように人間の身体とその生存は永遠回帰の条件を得る。

だが、ただ単なる同一性だけでは回帰しないし回帰することはできない。循環・環流の条件は「ずれ(差異)」の側にあって同一性の側にはないからである。ニーチェはずいぶん早い時期にいっていた。「《数多性や無秩序》が異議を唱える」と。

「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫 一九九四年)

ところで、シャルリュスの<冒瀆>はなるほどシュルジ夫人との社交辞令を通して言語化されてはいる。けれども<冒瀆>の主旨として出現してくる偉大な<自然循環>への言及はもっと早い段階で「独特の臭気」とともに登場している。疲労困憊の果てに死相をあらわにしたスワンの登場がそうだ。

「スワンは、その病人の身体が、さまざまな化学反応の観察されるレトルトとしか思えないほど、疲労の極に達していた。その顔は、プルシアンブルーの小さな斑点がいくつも出て、もはや生者の世界のものとは思われず、高等中学校(リセ)で『実験』後の『理科』の教室に残るのがいやになるあの臭(にお)いと同様の、独特の臭気を放っていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.229~230」岩波文庫 二〇一五年)

シャルリュスによる過剰な侮辱・酷評、プルーストによる<冒瀆への意志>。しかし読者はむずかしいことを考える必要など何一つない。書籍を用いて活字化された文面=表層に目を通してみるだけで、そっくりそのまま<自然循環>の永遠回帰性とその条件について述べられていることに気づくのである。

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Blog21・シャルリュスの<まなざし>からプルーストの言語への遡行

2022年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
シュルジ夫人はゲルマント公爵の現在の愛人である。元愛人はアルパジョン夫人。百頁ほど前の箇所で<私>が声をかけられた時、とっさに名前を思い出せなかったのは後者のアルパジョン夫人。ゲルマント公爵の現在の愛人の名は思い出すまでもなくすんなり出てくるのに元愛人の名を忘却し去っていた点は大変興味のあるエピソードではあるものの、名前も言語である以上、いつもは子音や母音などアルファベットの一つ一つにまで解体されていることは以前述べた。

「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321図5~322」岩波文庫 二〇一五年)

ベルクソンのいう逆円錐の点Sと断面ABの間で無数に反復を繰り返しながら接続・切断・再接続されているわけだが、「現在の行動に有効なかたちで」断面ABという表層にのぼってきて始めて因果関係は出現し意識されるに至る。意識された途端、言語はまるで貨幣のようにそれまでの過程を覆い隠す。だから因果関係はいつもその時その時で自分に最も有効な形で出現する「でっち上げ」に過ぎず、ただ単に或る種の指標でしかないとニーチェはいう。

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

遊戯室に戻ってきたシャルリュスにとって最大の関心はゲルマント公爵の現在の愛人シュルジ夫人である。男性同性愛者シャルリュスの目当てはシュルジ夫人ではまるでなく、その美貌が誰の目にも明らかな二人の息子ゆえ、先に母親のシュルジ夫人を丸め込んでおこうとする。さらにギュスターヴ・ジャケの描いたシュルジ夫人の肖像画はシャルリュスに官能的歓びを与える。なぜだろう。「息子たちの魅力が母親のなかに寄せ集められているのを再発見する歓びで、それ自体はまるで肖像画のようになんら欲望をそそらなくても、肖像画にいだく美的賞讃の念が、肖像画に呼び醒まされた欲望に糧(かて)を与えてくれる」からだ。

「というのも、だれもがシュルジ夫人の目と威風堂々たる物腰とを息子たちのなかに認め、それを好んで賞讃したのにたいして、男爵は、それとは逆向きの、だが同じように強烈な歓びを味わうことができたからである。つまり、息子たちの魅力が母親のなかに寄せ集められているのを再発見する歓びで、それ自体はまるで肖像画のようになんら欲望をそそらなくても、肖像画にいだく美的賞讃の念が、肖像画に呼び醒まされた欲望に糧(かて)を与えてくれるのだ。その欲望が、ジャケの描いた肖像画にあとから官能的魅力を付与してくれたので、男爵はこの瞬間、シュルジ家のふたりの息子の系譜を研究するためにその肖像画を手に入れたいと思ったにちがいない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.218~219」岩波文庫 二〇一五年)

ここでプルーストは再びシャルリュス(叔父)とサン=ルー(甥)の関係を持ち出してこう述べる。いずれサン=ルーのシャルリュス化(同性愛者化)を見ることになるだろうという予言的文章である。

「遺伝する習性は、たいてい遅かれ早かれ叔父を媒介にして伝わるからだ。それゆえドイツの喜劇『叔父と甥』にタイトルを借りた肖像画集をつくれば、そこでは叔父が、最終的には自分に似てくる甥を、たとえ意識せずとも細心の注意をこめて見守るすがたが見られるだろう。さらに私は、甥の妻の叔父といった実際には血のつながりのない叔父たちもそこに加えるのでなければ、この肖像画集も画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くと言いたい。実際、多くのシャルリュス氏の同類は、自分だけがよき夫であり、さらに女を嫉妬させない唯一の夫であると確信しているので、自分の姪を愛する気持から、たいていその姪も一人のシャルリュスと結婚させるからだ。これがさまざまな類似のもつれをいっそう錯綜させる。そして姪を愛する気持は、ときには姪の婚約者にたいする愛情と一体化することもある。このような結婚はなんら珍しいものではなく、しばしば幸せな結婚と呼ばれている」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.220」岩波文庫 二〇一五年)

しかし作品中の予言者はいつもシャルリュスであり、その点でシャルリュスについて再考する必要がある。シュルジ夫人の鈍感さについては次のように軽く流している。

(1)「『あれは私の息子たちです』とシュルジ夫人は言って顔を赤らめたが、夫人がもっと利口で、もっと身持ちの悪い女であったなら、赤面することもなかったであろう。その場合には、シャルリュス氏が若い男に示す完全な無関心や嘲笑の構えが本心から出たものではなく、それと同じく氏が女性に示すうわべの賞讃もまた真の本性ではないことを悟ったはずである。シャルリュス氏から最大級のお世辞をえんえんと聞かされた夫人は、こうして話しながら氏が後ほど気づかなかったふりをする青年にじっと注いでいたまなざしに、嫉妬を感じることもできたはずである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.224」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「そのまなざしは、シャルリュス氏が女性たちに向けるまなざしとはまるで異なるものであったからだ。心の奥底から出てくる特殊なまなざしで、服の仕立屋が他人の着ている服にまっさきに注ぐまなざしでその職業をあらわにするのにも似て、夜会のときでもおのずと若い男へと向かわずにはいられないまなざしである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.224」岩波文庫 二〇一五年)

シャルリュスに関する再考。それは同時に同性愛に関する考察であり、その身振り言動、社会的に置かれた位置、思想信条に触れることになる。だが考察対象がシャルリュスであるがゆえに、主として男性同性愛者のそれ(プライバシー)に偏ることは避けられない。またプルーストは、同性愛者の生態について「呪われた不幸にとり憑かれ、嘘をつき、偽りのない誓いを立てて生きてゆかざるをえない種族」、「罰せられる恥ずべきもの」、「倒錯者は殺人を犯すもの」、「不治の病い」など色々な書き方をしているが、どれも否定的な言葉で彩られている。というのは「失われた時を求めて」が書かれた一九〇〇年前後、そう表現されるのが常だったことと、現代社会の人権感覚に照らし合わせて用語の置き換えを行うとかえって当時の社会風潮がかき消され、読者にはなんのことだかまるで伝わらなくなってしまう事態を危惧した様子が窺えるからである。五箇所引いておこう。ただし五点目は男性同性愛にのみ限った事情ではなく、アルベルチーヌたちに見られるような女性の同性愛とその自由自在なトランス性愛(異性愛者かつ同性愛者という横断的な性愛)がどれほど活気的な性愛の形であるか、プルーストが気づいていたことを物語る。

(1)「呪われた不幸にとり憑かれ、嘘をつき、偽りのない誓いを立てて生きてゆかざるをえない種族なのだ。なぜなら、あらゆる人間にとって生きる最大の楽しみである自分の欲望が、罰せられる恥ずべきもの、とうてい人には言えぬものとみなされていることを承知しているからである。この種族は、自分の神をも否認せざるをえない。なぜなら、たとえキリスト教徒であっても、被告として法廷の証言台に立つときには、キリストの前でキリストの名において、まるで誹謗中傷から身を守るように、おのが生命にほかならぬものを否認しなければならないからである。母なき息子でもある。臨終の母の目を閉じてやるときでさえ、母に嘘をつかざるをえないからである。友情なき友でもある。自分の魅力をしばしば認めてくれる相手からどんなに友情を捧げられ、また往々にして優しくなる心ゆえ相手にどれほど友情をいだいても、嘘に頼ることでしか育たぬつき合い、ついつい信頼と真情のあふれる想いを打ち明けると相手から嫌われ追い返されてしまうつき合いを、はたして友情と呼べるだろうか?ただし相手が偏見を持たぬ、思いやりのある人であれば話はべつであるが、その場合でも相手は、そんな種族にたいする旧態依然の心理に惑わされて、告白された悪徳とはまるで無縁の愛情でさえその悪徳から生じたものだと考えるだろう。判事によっては、原罪なり人種の宿命なりを根拠として、倒錯者は殺人を犯すもの、ユダヤ人は裏切りをするものと想定し、それを普通よりも大目にみる場合があるのと似ている」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.50~51」岩波文庫 二〇一五年)

身も蓋もないような文章。ユダヤ人迫害と並べて述べられている。そのためユダヤ人迫害との違いが際立たないところが残念でもある。旧約聖書によると、ユダヤ教徒は自ら進んで「選ばれた民」と呼ぶわけだがそれゆえ迫害されることは避けられない、という論理が浮上する。自ら優れていればいるほど他者から迫害を受ける。迫害されるのは他者の低劣な嫉妬ゆえであり、迫害されればされるほどむしろ逆に自らが優越的民族であることの根拠とされる。ところが同性愛者の場合、自ら優越的種族だと考える材料を一つも持たない。ただひたすら誹謗中傷に晒されるばかりであって、その点でユダヤ人との並列は短絡的過ぎるというほかない。

(2)「同類の者の共感からもーーーときには同類の社会からさえーーー排除されている人たちで、同類の者に、鏡に映されたように自分のすがたを直視する嫌悪感を与える。この鏡は、そんな同類を実物以上に見せることはなく、自分自身のうちに認めるのを避けてきたあらゆる欠陥を際立たせ、自分たちが愛と呼んでいるものが(この同類たちは、愛ということばに広い意味をもたせ、社会の常識に合わせて詩や絵画や音楽や騎士道や禁欲などが愛につけ加えてきたあらゆるものを自分たちの愛にもつけ加えていた)、みずから選んだ美の理想から出てきたものではなく、不治の病いから生じたものと悟らせるのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.52」岩波文庫 二〇一五年)

鏡像の効果。マルクスがヘーゲルから借りてきた形式では次のようになる。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫 一九七二年)

だがマルクスのいう鏡像の構造は「みずから選んだ美の理想」へ押し進めることはできても、ア・プリオリなものとしての「不治の病い」の根拠にはなり得ない。ア・プリオリなのはむしろカントがヒュームから学び、カントを始めて哲学と呼ぶに値する思考へと導いた、ただならぬ事情である。

「ヒュームは、形而上学だけにある唯一の、しかしこの学にとって重要な概念ーーーすなわち《原因と結果との必然的連結》という概念(従ってまたそれから生じる力及び作用の概念等)を、彼の考察の主たる出発点とした。そして彼は、この〔因果的連結の〕概念を自分自身のうちから産出したと称する理性に対して弁明を要求した、つまり理性は、何か或るもの〔原因〕が設定されるとそれによってまた何か他の或るもの〔結果〕が必然的に設定されると言うが、しかし理性はいかなる権利をもって、最初の何か或るものがこのような性質をもち得ると思いなすのか、と問うのである、なぜならーーーこれがすなわち原因の概念だからである。ヒュームの証明はこうである、ーーー概念だけからアプリオリにかかる〔因果的〕結合を考え出すことは、理性にはまったく不可能である、この結合は必然性を含むからである、とにかく何か或るものが存在するからといって、何か他の或るものまでが存在せねばならぬという理由や、それだからまたかかる必然的連結の概念がアプリオリに導入せられるという理由は、まったく理解できないことである。ヒュームのこの証明は、反論の余地のないものであった。ついでヒュームは、このことから次のように推論した、ーーー理性は、〔必然的連結という〕この概念をもって、みずから欺いているのだ、かかる概念は想像力の産んだ私生児にすぎないのに、理性はこれを誤って摘出子と認めているのである、或る種の表象の連想の法則を適用し、そこから生じる主観的必然性すなわち習慣を、〔アプリオリな〕洞察にもとづく客観的必然性とすり換えたのである、と。更にまたヒュームは、こうも推論したのである、ーーー理性は、このような必然的連結を、一般的にすら考える能力をまったく持合わせていないのである、そうだとしたら、かかる事柄に関する理性の概念なるものは、単なる仮構にすぎないであろう。そして理性がアプリオリに存立する認識と称するものは、けっきょく偽印(にせいん)を捺(お)した普通の経験でしかないだろう、と。彼のこの推論はーーーおよそ形而上学なるものは存在しない、またいかなる形而上学も存在し得るものではない、と言うに等しい」(カント「プロレゴメナ・P.14~15」岩波文庫 一九七七年)

ヒュームは、ア・プリオリな次元では何もかもがばらばらに解体されているのが本来的状態であって、因果的連結はあくまで習慣に則る形で事後的に繋ぎ合わされるものに過ぎないという。もっともな理論であり、むしろそうでなければ一つの因果的連結が絶対化していることになり、ほかにどんな組み換えも組み合わせも不可能になってしまう。ところが事実はどうか。例えば裁判所では。幾つかの材料が提出され考えられる限りの因果関係を出現させたかと思えば再び解体して今度は新しい因果関係を出現させたりしている。裁判自体がもてあそばれているように見える。子供がおもちゃのブロックを用いて家を作ったり蛇を作ったりして無邪気かつ夢中で遊んでいるかのようだ。しかし一体なぜ、そうするのか。

(a)「《永遠の子供》。ーーーわれわれは、お伽噺や遊戯は小児時代に属するものと思っている、われら近視眼の者たちは!われわれは、まるで(いつか)どこかの年齢でお伽噺や遊戯なしに生きることを願っているみたいなのだ!もちろんわれわれは、事物の(子供とは)別な呼び方、感じ方をしてはいる。だがまさにこのことこそがかえって、それが同じものであることの証拠である、ーーーなぜなら、子供もまた、遊戯を自分の仕事、お伽噺を自分の真理と感じているからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二七〇・P.192」ちくま学芸文庫 一九九四年)

(b)「少年のときの遊び方と、大人になってからの働き方とは似ているものだ、学校での或る出来事は、或る政治的な大事件で行動するすべての人物をすでに判然と認識させうるのである」(ニーチェ「生成の無垢・上・四九〇・P.328」ちくま学芸文庫 一九九四年)

(3)「同類の者とのつき合いが(正反対の種族にも溶けこんで同化し、見かけはとても倒錯者とは思えぬ者が、なおも倒錯者らしさをとどめる者に浴びせるあらゆる嘲笑にもかかわらず)息抜きになり、また同類との暮らしが支えにさえなり、自分たちがひとつの種族であることを否定しながらも(その種族の名を言われるのは最大の侮辱になる)、その種族であることを隠しおおせた者がいると、好んでその仮面を剥ごうとする。その者を傷つけるためというよりもーーーそれも嫌いではないがーーーむしろ自己弁護のためで、まるで医者が虫垂炎を探りだすように歴史のなかにまで倒錯を探し求め、イスラエルの民がイエスもユダヤ人だったと言うのと同じで、得々としてソクラテスも倒錯者のひとりだったと指摘するが、しかし同性愛が正常な状態であったときには異常な者は存在しなかったこと、キリスト以前には反キリスト教徒など存在しなかったこと、恥辱のみが犯罪をつくることには想い至らない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.53~54」岩波文庫 二〇一五年)

ここでわかりにくいのは「恥辱のみが犯罪をつくる」というフレーズだろうと思われる。この事情の構造についてニーチェはいう。

(a)「わたしはかつて、最大の人間と最小の人間の裸身を見た。その二つはあまりにも似かよっていたーーー最大の人間さえ、あまりにも人間的だった。最大の人間も、あまりに小さい。ーーーこれが人間に対するわたしの倦怠だった。そして最小のものも永遠に回帰することーーーこれが生存に対するわたしの倦怠だった。ああ、嘔気(はきけ)、嘔気、嘔気!ーーーそうツァラトゥストラは言って、嘆息し、戦慄(せんりつ)した」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・快癒しつつある者・P.354」中公文庫 一九七三年)

(b)「君が有害なものに接して戦慄を感じたときに、君は言った、『これは悪だ』と。だが君が吐きけを感じたときに、『劣悪なもの』が成立した」(ニーチェ「生成の無垢・下・四六六・P.276」ちくま学芸文庫 一九九四年)

(c)「悪は、それが低劣で吐きけを催させるものと取り違えられるときに初めて、不評を招く。そのときまでは悪は心をひきつけて、模倣するよう刺激する」(ニーチェ「生成の無垢・下・四六七・P.276~277」ちくま学芸文庫 一九九四年)

だがしかし徐々にではあるものの、次の箇所からプルーストは男性同性愛にのみ限らない事情、なおかつ今でいうLGBTいずれにも当てはまるであろう点に気づいていることを明確化している。「世間が不適切にも悪徳と呼ぶもの」と。

(4)「それまでは連中も、自分の暮らしを隠したり、じっと見つめたいところから視線をそらしたり、目をそらしたいところをじっと見つめたり、自分の使うことばでは多くの形容詞の性を変えたりせざるをえないが、そうした社会的な拘束といえども、自分の悪徳ないし世間が不適切にも悪徳と呼ぶものが、他人にたいしてではなく自分自身にたいして、自分の目には悪徳とは見えない形で強制する内心の拘束と比べれば、いずれも大したことはないのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.56」岩波文庫 二〇一五年)

さらにプルーストは述べる。性というものがどのような形態を取ろうと「それは、自然が無意識のうちにおこなう感嘆すべき努力のあらわれにほかならない」と。

(5)「われわれはこの男の顔のなかに、心を打つさまざまな気遣い、ほかの男たちには見られぬ気品ある自然な愛想のよさを見出して感嘆するのだから、この青年が求めているのはボクサーだと知ってどうして嘆くことがあろう?これらは同じひとつの現実の、相異なる局面なのだ。さらに言えば、これらの局面のうちわれわれに嫌悪の情をいだかせる局面こそ、いちばん心を打つ局面であり、どんなに繊細な心遣いよりも感動的なのである。というのもそれは、自然が無意識のうちにおこなう感嘆すべき努力のあらわれにほかならないからだ。性をめぐるさまざまな欺瞞にもかかわらずこうして性がみずから企てる自己認識は、社会の当初の誤謬のせいで遠くに追いやられていたものへと忍び寄ろうとする密かな企てに見える」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.66」岩波文庫 二〇一五年)

シャルリュスの大声と策略が響き渡る中、一度に百八十頁ほどもさかのぼらなければ見えるものも見えてこない。プルーストを擁護するわけではなくシャルリュスの言説の側に立つわけでもなく、活字化された作品という表層の運動が否応なしにそうさせるのである。

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Blog21・プルースト文学と<別の価値体系>の多数性並びにその生産

2022年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
会場に入ることが許されなかったのかもしれないと思っていたスワンがやって来た時、<私>は思わず安堵を覚える。だが安堵のうちに或る種の「悲しみも混じっていた」。スワンの病気は思いのほか重篤化していた。「ほかの招待客たちは」スワンの急激な変貌ぶりを見て「間近に迫った死の、俗にいう顔にあらわれた死相の、想いも寄らぬ特異な形にいわば魅入られていた」。午後に見たときは以前と変わらぬスワンだった。ほんの数時間しか経っていない。にもかかわらずその顔面はもう変わり果てていた。そして「間近に迫った死」は周囲の人々たちから言葉を奪い、人々の関心を一身に引き寄せる。

「私がようやく喜んだのは、スワンが部屋にはいってきたからである。ただ部屋が非常に広いせいで、最初スワンは私に気がつかなかった。私の喜びには悲しみも混じっていたが、ほかの招待客たちは、もしかすると私と同様の悲しみを感じることはなく、むしろ間近に迫った死の、俗にいう顔にあらわれた死相の、想いも寄らぬ特異な形にいわば魅入られていたのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.208~209」岩波文庫 二〇一五年)

スワンはドレフェス事件に首を突っ込みすぎたと言える。とはいえスワンがユダヤ支持にせよ反ユダヤにせよドレフェス事件についていずれの陣営に立つのか表明する義務はまるでない。だが大貴族主催の上流社交界に出入りすることを許されていたスワンは社交の場で話題性が最も高いドレフェス事件について無関心を決め込むわけにはいかないと思い込んでいた。ほかの参加者はドレフェス事件そのものにではなくあくまでその話題性に乗っかってあれこれ話のたねにしていたに過ぎないが、スワンは自分がユダヤ人であるだけに身を入れて話題を義務化し立場を表明してしまう。同じユダヤ人にしてもブロックのように「二重基準」を設定し、その場その場を上手くしのいで生きていくという器用な態度を取ることができない。むしろオデットに対する愛と嫉妬で苦痛を延々と延長させて体を痛めつけているように、ドレフェス事件についてもそれと並行して自ら進んでダブルバインド(板挟み)へと突き進む。

この態度はプルースト自身と大変似ている。しかしプルーストはスワンとは逆に反ドレフェスの立場を表明していた。プルーストは「ユダヤ系・上流社交界人士・同性愛者の疑い」という三点セットを身に引き受けていたため世間から誹謗中傷の暴風雨に晒されていたが、作品と作者とは別々であり作品に語らせるという思想信条を持っていたがゆえ、作品の外で発生する場外乱闘はまた位置の異なる問題として対処した。

<私>がスワンに話を聞きにいこうとした時、たまたまそばにいたサン=ルーに呼びかけられた。サン=ルーの話を聞いているとその叔父にあたるシャルリュスとの比較は避けられない。そこで次の命題が出現する。

「遺伝や血筋による類似だけが原因だとしても、説教をする叔父が、頼まれて叱責する対象である甥とほとんど同じ欠点を備えているのは避けられないことである。ただし叔父はその説教になにも偽善をまじえているのではなく、新たな状況が生じるたびにこれは『べつの問題』だと想いこむ人間の能力にだまされているにすぎない。この能力のおかげで人間は、芸術や政治などに関するさまざまな誤謬を正しいものとして受け入れ、それが十年前、自分が糾弾していたべつの流派の絵画や、憎んで当然と信じていたべつの政治の問題などについて、そのときは真実だと想いこんでいたのと同じたぐいの誤謬であるとは気づかず、以前の誤謬は捨て去っているのに、こんどは新たな仮装ゆえにそれが類似の誤謬だとは認識できずに共鳴してしまうのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.213~214」岩波文庫 二〇一五年)

何らかの問題についてその内容は本来的に同一のまま変わっていないにもかかわらず「新たな状況が生じるたびにこれは『べつの問題』だと想いこむ人間の能力」。誤謬しないわけにはいかない人間。ニーチェ流にいえば<誤謬への意志>としての人間。「十年前、自分が糾弾していたべつの流派の絵画や、憎んで当然と信じていたべつの政治の問題などについて、そのときは真実だと想いこんでいたのと同じたぐいの誤謬であるとは気づかず、以前の誤謬は捨て去っているのに、こんどは新たな仮装ゆえにそれが類似の誤謬だとは認識できずに共鳴してしまう」どころか、その間、多くは言葉の暴力によってまったくの他人を何人も自殺へ追い込んでおいて平気のへいさな人間。状況は常に変化するものだが、しかし「新たな状況」はいつどこで始まるのか。「新たな仮装(仮面)」として出現するがゆえ、そのたび人間は我先にと<誤謬への意志>を発動させ誤謬と「共鳴して」安心しようとする。そこで、何度か引用してきたが他の様々なプルースト論でも多用されている例を今後も引用しなければならない。

画家ルノワールの代表作のほとんどは十九世紀後半に描かれているが、世間では「十八世紀の大画家だと言」われていた。百年の違いがある。ルノワールによる「創造されたばかりの新たな世界」は同時代人の遠近法的倒錯によって百年前の画家へ押しやられてしまう。人間はややもすればそれくらい徹底的に誤謬の側を愛する。

「ある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)

ゴッホより早く生まれゴッホより長く生きた。第一次世界大戦終結の一九一九年まで生きている。そんなルノワールのことを指してなぜ人間はいとも短絡的に「十八世紀の大画家」だと百年分もの誤謬で置き換えることができるのか。ニーチェはいう。

「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫 一九九四年)

もっと驚くべきは、人間と人間社会は今なおこの種の短絡的かつ欺瞞的操作を大々的に行なっていないかどうかの検証作業から、たびたび逃亡していないとは言い切れないことだろう。しかし誰一人何一つ見当がつかないわけでもない。社会的規模で行われる短絡的かつ欺瞞的操作、わけても政治的操作の場合、際立って目立つという特徴がある。目立つにもかかわらず人間特有の<誤謬への意志>を利用することで出現する諸条件の上にあぐらをかくという余りにも横着な身振りゆえ、その横着さがさらなる横着さを呼び込み、副作用として破竹の勢いでテロリスト育成の地盤を提供することになる。

ニーチェがいうように、本来なら、残酷さの源泉たる官能的欲望を芸術へ置き換えて「醜い原理」に抵抗させ回避させることに希望を求めることができていたし、今なお十分有効性を発揮している。なのになぜ再び三たび、人間の弱点たる<誤謬への意志>を利用して短絡的かつ欺瞞的操作に手を染めようとする人々が後を絶たないのか。

「《宗教上の》悲惨は、現実的な悲惨の《表現》でもあるし、現実的な悲惨にたいする《抗議》でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の《阿片》である。民衆の《幻想的な》幸福である宗教を揚棄することは、民衆の《現実的な》幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、《それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求すること》である。したがって、宗教の批判は、宗教を《後光》とするこの《涙の谷[現世]への批判の萌し》をはらんでいる」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.72~73』岩波文庫 一九七四年)

そうマルクスのいうように現実社会の根本的改革がなされない限り、正解を目指して誤謬へ陥るほかないといういつもの病気を何度も繰り返し反復せずにはおかない条件が揃っている。その意味でプルーストの文学は<唯一の価値>という神話を解体し、<別の価値体系>の多数性を見せつけるばかりか生産もしていくことで、重要な「ずれ」(差異)の存在を常に指し示してやまない。

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Blog21・シトリ侯爵夫人とゲルマント公爵夫人との<残忍性>の違い、両者の官能の消息

2022年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
シトリ侯爵夫人が<私>に近づいてきた。少し離れたところにいるゲルマント公爵夫人を指差して「あきれるしかありませんわねえ、こんな生活が送れるとは」といった。プルーストはなぜシトリ夫人が露骨にそんなことを言うのか、第一、第二と、珍しく理由を列挙している。「ゲルマント夫人の『送っている生活』はシトリ夫人の生活と(憤慨をべつにすれば)ほとんど違わない」。にもかかわらずと、シトリ侯爵夫人とゲルマント公爵夫人との性格の違いを述べているように見えるわけだが。

「第一、ゲルマント夫人の『送っている生活』はシトリ夫人の生活と(憤慨をべつにすれば)ほとんど違わない。シトリ夫人は、公爵夫人がマリー=ジルベールの夜会に出席するという退屈きわまりない犠牲を払うことができるのを見て唖然としたという。ただし断っておかねばならないが、この場合シトリ夫人は、実際に親切を尽くしてくれる大公妃が大好きで、その夜会に出てくれば大公妃が大喜びすることを知っていた。それゆえ夫人は、天賦の才があると見込んだ女性ダンサーからロシアの振付の秘訣を教えてもらう約束を断って、このパーティーに出席したのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.204」岩波文庫 二〇一五年)

読者はそこではたと思う。「ソドムとゴモラ」以前からソドム(男性同性愛)についてはしばしば描かれているのになぜゴモラ(女性同性愛)についてはヴァントゥイユ嬢とその女友だちとの性愛の場面を除けば、「ソドムとゴモラ」篇に入ってなおまったく描かれていないのか。しかし性行為の場面が描かれていなければ作品は性愛について何一つ描いていないことになるのか。そうではない。プルーストはシャルリュスのケースのようにソドム(男性同性愛)がしばしば乱雑に露呈されるのに対してゴモラ(女性同性愛)は極めて微妙で慎重な形態を取るほかないため、注意深く目を通すよう読者にそれとなく徴候のみを示唆するに留めている。それを思えばこの箇所で一度に「シトリ侯爵夫人・ゲルマント大公妃・女性ダンサー」と詰め込まれている点で、なるほどと気づくわけである。シャルリュスは典型的な両義性(医薬かつ毒薬)として登場しているのでその大声が他の人々の性愛の諸形態を覆い隠してしまうのだ。

次にゲルマント公爵夫人の「症状」=極端なサディズムについてほんの少しばかり言及される。

「オリヤーヌが招待客たちにあれこれ挨拶するのを見てシトリ夫人が感じた強烈な憤慨はまともにとり合うべきものではないと考えられる第二の理由は、ゲルマント夫人にも、症状はずっと軽いとはいえ、シトリ夫人をむしばむ病いの徴候があらわれていた点にある。ゲルマント夫人が生まれつきその病いの萌芽を宿していたことは、そもそもすでに指摘した」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.204」岩波文庫 二〇一五年)

ゲルマント公爵夫人は「幼いときから馬を乗りまわし、ネコをいじめたりウサギの目玉をくり抜いたりしていた」。そのサディズムが「その後は貞淑のかがみとなったものの、何年も前の変わらぬエレガンス」を保っている。逆にシトリ侯爵夫人の場合、社交界のありとあらゆる事物に対して悪意丸出しで攻撃せずにはいられないというわけだ。

「夫人の精神は私の精神よりはるか以前に形成されていたが、私にとっては海辺を闊歩する娘たちの小さな集団が示してくれたものに等しかった。ゲルマント夫人は、周囲への愛想のよさや精神的価値の尊重を学んで、野生味を失って抑制的になってはいたものの、コンブレー近郊の貴族の娘らしい残忍でおてんばな活力と魅力とを私に見せつけていた。この女性は、幼いときから馬を乗りまわし、ネコをいじめたりウサギの目玉をくり抜いたりしていたはずで、その後は貞淑のかがみとなったものの、何年も前の変わらぬエレガンスからすれば、サガン大公のもっとも華やかな愛人になっていてもなんら不思議ではない存在であった」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.350」岩波文庫 二〇一四年)

ところがゲルマント公爵夫人の破壊欲望は消滅してしまったのかといえば全然そうではない。今でも多くの人々が思春期の過程で見せるようにその種の<力への意志>を別の方向へ転移・置き換えたに過ぎない。ゲルマント夫人に関していえば上流社交界の中で「統辞法をさまざまな形で(翻訳家のように)巧みに駆使する才気」を見せつけることが、ほかの何にも増して官能を満たす方法になったという次第である。シトリ夫人はそれに失敗し、社交界に入れば入ったでただ単に社交界に対する言葉だけの破壊欲望をぶちまけるに終わっている。

「詰まるところシトリ夫人よりも聡明なゲルマント夫人は、すべての価値(単に社交上の価値だけに限らない)を否定するようなこのようなニヒリズムをシトリ夫人以上にいだいてもなんら不思議ではない。ところがある種の美点は、隣人の欠点を批判してその人を苦しめるよりも、その欠点を我慢する助けになることも事実である。優れた才能の持主なら、愚か者とは違って、ふだん他人の愚行など気にもとめないだろう。公爵夫人の才気がどのようなものであるかは長々と描いてきたから、それが高度な知性とはなんら共通点を持たないとしても、それでもやはり才気であり、統辞法をさまざまな形で(翻訳家のように)巧みに駆使する才気であることは納得していただけるだろう」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.204~205」岩波文庫 二〇一五年)

破壊欲望はプルーストにとっても極めて重要なテーマである。実生活での両親との先鋭な対立はよく知られているのだが、それがいつも同時に両価性(愛と憎悪)を取ってでしか現わしえない困難な二重性であることはスワンの身振りを通して描かれている。二箇所上げよう。いずれの場合も、「責め苦を増大させることになるのを承知していた」、「苦痛を想い出したうえで、それを永続化した」、とあるように苦痛の解消ではなく無意識的に苦痛の永続化が目指されている。

(1)「ところが恋心に寄りそう影ともいうべき嫉妬心は、ただちにこの想い出と表裏一体をなす分身をつくりだす。その夜、オデットが投げかけてくれた新たな微笑みには、いまや反対の、スワンを嘲笑しつつべつの男への恋心を秘めた微笑みがつけ加わり、あの傾けた顔には、べつの唇へと傾けられた顔が加わり、スワンに示してくれたあらゆる愛情のしるしには、べつの男に献げられた愛情のしるしが加わる。かくしてオデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつは、室内装飾家の提案する下絵や『設計図』と同じような役割を演じることになり、そのおかげでスワンは、女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるようになった。あげくにスワンは、オデットのそばで味わった快楽のひとつひとつ、ふたりで編み出したとはいえ不用意にもその快さを女に教えてしまった愛撫のひとつひとつ、女のうちに発見した魅惑のひとつひとつを後悔するにいたった。いっときするとそうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.209」岩波文庫 二〇一一年)

(2)「スワンは郵便局から家に戻ったが、この一通だけは出さずに持ち帰った。ロウソクに火をつけ、封筒を近づけた。開けてみる勇気はなかったのである。最初はなにも読めなかったが、なかの固いカード状用箋を封筒の薄い紙に押しつけると、最後の数語が透けて読めた。きわめて冷淡な結びのことばである。今のようにフォルシュヴィル宛ての手紙を自分が見るのではなく、かりに自分宛ての手紙をやつが読んだら、はるかに愛情あふれる言葉がやつの目に入ったことだろう!スワンは、大きすぎる封筒のなかで揺れる用箋を動かないように押さえ、それからなかの用箋を親指でずらして、書いてある行を順ぐりに封筒の二重になっていない部分にもってきた。そこなら透けて読めたのである。それでも、はっきりとは判読できなかった。もっともきちんと読めなくても差しつかえなかった。書いてあるのは重要でない些末なことで、ふたりの恋愛関係をうかがわせることは一切ないのがわかったからである。オデットの叔父のことが書いてあるようだ。行のはじめに『あたしは、そうしてよかったのです』と書いてあるのが読めたが、どうしたのがよかったのかスワンは理解できなかった。が、突然、当初は判読できなかった一語があらわれ、文全体の意味が明らかになった。『あたしは、そうしてよかったのです、ドアを開けた相手は叔父でしたから』というのだ。開けた、だって。すると今日の午後、俺が呼び鈴を鳴らしたとき、フォルシュヴィルが来ていたのだ。あわてたオデットがやつを帰らせたために、あんな物音がしたのだ。そこでスワンは、手紙を端から端まで読んだ。オデットは最後に、あのように失礼な対応になったことをフォルシュヴィルに詫びたうえで、タバコを忘れてお帰りになった、と書いている。スワンが最初にオデットの家に寄ったときに書いて寄こしたのと同じ文面である。だが俺には『この中にあなたのお心もお忘れでしたら、お返ししませんでしたのに』と書きそえていた。フォルシュヴィルには、そんなことはいっさい書いていない。ふたりの関係は暗示する文言はなにひとつ出てこない。それにどうやらこの内容からすると、オデットはやつに手紙を書いて訪ねてきたのは叔父だと信じこませようとしているのだから、そもそもフォルシュヴィルは俺以上に騙されていることになる。要するにオデットが重視していたのは俺のほうで、その俺のために相手を追い払ったのだ。それにしてもオデットとフォルシュヴィルのあいだに何もないのなら、なぜすぐにドアを開けなかったのだろう。なぜ『あたしは、そうしてもよかったのです、ドアを開けたのは叔父でしたから』などと書いたのだろう。そのときオデットになんらやましいところがなかったのなら、ドアを開けなくてもよかったのにと、どうしてフォルシュヴィルが考えるだろうか。オデットがなんの危惧もいだかず託してくれたこの封筒を前にしたとき、スワンは申し訳ないと恐縮したが、それでも幸せな気分だった。自分のデリカシーに全幅の信頼を置いてくれたと感じられたからである。ところがその手紙の透明な窓を通して、けっして窺えないと思っていた事件の秘密とともに、未知の人の生身に小さく明るい切り口が開いたかのようにオデットの生活の一部があらわになったのだ。おまけにスワンの嫉妬も、この事態を歓迎した。嫉妬には、たとえスワン本人を犠牲にしてでも、おのが養分になるものを貪欲にむさぼり食らう利己的な独立した生命があると言わんばかりである。いまや嫉妬が糧(かて)を得たからには、かならずスワンは毎日、オデットが五時ごろだれの訪問を受けたかが心配になり、その時刻にフォルシュヴィルがどこにいたかを知ろうとするにちがいない。というのもスワンの愛情は、オデットの日課に無知であると同時に、怠惰な頭脳ゆえに無知を想像力で補うことができないという当初に規定された同じ性格をあいかわらず保持していたからである。スワンが最初に嫉妬を感じた対象は、オデットのすべての生活ではなく、間違って解釈された可能性のある状況にもとづきオデットがほかの男と通じていると想定される瞬間だけだった。その嫉妬心は、執念深い人がタコの足のように最初のもやい網を投げいれると、ついで第二の、さらに第三のもやい網を投じるのと同じで、まずは夕方の五時という瞬間に食らいつき、ついでべつの瞬間に、さらにもうひとつべつの瞬間にとり憑くのである。とはいえスワンは、つぎからつぎへと自分の苦痛を編み出したわけではない。それら一連の苦痛は、スワンの外から到来したひとつの苦痛を想い出したうえで、それを永続化したものにほかならなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.220~223」岩波文庫 二〇一一年)

だからスワンの苦痛は延々引き延ばされていくしかない。しかも苦痛ばかりもたらす関係を清算・決済せず逆にだらだら引き延ばしているのはスワン自身である。スワンの方法は株式仲買に携わっていた経験からか、まるっきり「満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通」する「信用制度・手形流通」と瓜二つに見える。この世界では決済を延々と引き延ばしていきながら、実質的な自転車操業の永続化ばかりが進展する。

「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)

さらに外に向かって放出される残忍性というテーマ。二つの方向があり、一方は破格のエレガンスへ形態を置き換えたケースとしてゲルマント公爵夫人に割り振られ、もう一方、内向して自己破壊へ向かったケースとしてスワンの生涯が割り振られている。どちらにしてもニーチェのいう「祝祭的なもの」でなければ上手く機能しない。

「《残忍》ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆どすべての彼らの歓びに混入せられているか、他方また、彼らの残忍に対する欲求がいかに天真爛漫に現われているか、『私心なき悪意』(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》)すらもがいかに根本的に人間の《正常な》性質に属するものと見られーーー、従って良心が心から《然り》を言うものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖(もと)っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。『善悪の彼岸』一九四節において(それ以前すでに『曙光』一八、七七、一一三節において)、高次の文化の全歴史を貫いている(そして、ある重大な意味においては、それを構成してさえもいる)残忍性が次第に精神化し、『神化』しつつあるという事実を、私は控え目に指摘しておいた。ーーー残忍なくして祝祭なし。人間の最も古く、かつ最も長い歴史はそう教えているーーーそして、刑罰もまたあんなに多くの《祝祭的なもの》が含まれているのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.74~75」岩波文庫 一九四〇年)

ニーチェは差し当たり「『善悪の彼岸』一九四節において」具体例を述べたと言っている。そこで見ておきたいのは<私>がなぜアルベルチーヌを<幽閉・監禁・監視>するに至ったかという極めてプルースト的なテーマについてである。

「人間の差異は、単に彼らの財産目録の差異に示されているのみではない。すなわち、彼らがそれぞれ異なる財を追求するに値すると考え、また共通に承認する財の価値の多少、その順位について互いに意見を異にする、という点に見られるのみではない。ーーー人間の差異は更にむしろ、何が彼らにとって財の真の《所有》であり《占有》であると見なされるか、ということにおいて示される。例えば、女について言えば、比較的に控え目な者は、肉体を自由にし、性的享楽を味わうだけですでに、その所有・占有の十分な満足すべき徴(しるし)と認める。他の者はもっと邪推深く、もっと要求が多い占有欲をもっていて、そうした所有は『疑問符』を伴うもの、単に外見上のものであると見て、一層精細な試験をしようとし、わけても、女が彼に身を任(まか)せるだけではなく、更に彼女の持っているものや持ちたがっているものをも彼のために手放すかどうかを知ろうとする。ーーーそのようにして始めて、彼は女を『占有した』と認めるのである。しかし、それだけではまだ彼の不信と所有欲に結末をつけない者もある。彼は自ら女が一切を彼のために棄てても、言ってみれば彼の幻影のためにそうしているのではなかろうか、と疑う。彼はおよそ愛されうるためには、まず徹底的な、いな、どん底までよく知られたいものだと望む。彼は敢えて自分の正体を覗(のぞ)かせるのだ。ーーー彼女がもはや彼について錯覚をもたず、彼の親切や忍耐や聡明のためにと全く同じく、彼の魔性や秘(ひそ)かな貪婪(どんらん)のためにも彼を愛するとき、始めて彼は愛人を完全に自分が占有したと感じる。また、或る者は国民を占有したいと思う。そして、その目的のためには、あらゆるカリョストロ的、カティリーナ的な術策を弄してもよい、と彼には思われる。更に他の者は、もっと繊細な占有欲をもっていて、『所有せんと欲すれば、欺くべからず』と自分に言って聞かせる。ーーー彼は自分の仮面が民衆の心を支配しているのだと考え、そのため苛立(いらだ)って耐(た)え切れなくなり、『故にわれを知ら《しめ》ざるべからず。かつまた、まずもって、われ自らを知らざるべからず!』と思う。世話好きな慈善家の間には、彼らが助けてやるはずの者をまずもって支度してかかるといったあの愚かしい奸智が見いだされるのが殆ど通例である。例えば、あたかもその者が助けられるに『値し』ており、まさしく《彼らの》助けを求めていて、すべての助力に対して彼らに深い感謝と帰服と恭順を示すかの如く思ってそうするのだ。ーーーこのような自惚(うぬぼ)れをもって、彼らは困窮者を所有物を処理するが如くに取り扱う。彼らは所有物に対する欲求からして一般に慈善的で世話好きな人間だからである。彼らは助力が妨げられたり、出し抜かれたりすると嫉妬する。両親は識らず知らずに子供を自分たちに似たものにするーーー彼らはこれを『教育』と名づける。ーーー子供を産んで一つの所有物を産んだのだと心の底で信じない母親は一人もいないし、子供を《自分の》概念や評価に従わせる権利があることを疑う父親は一人もいない。それどころか、以前には新しく生れた子供の生殺の権を思うがままに揮(ふる)うことが(古代のドイツ人の間でそうであったように)、父親たちには当然のことと思われていた。そして、父親がそうであったように、今日でもなお教師・階級・僧職・君主などがあらゆる新しい人間において、躊躇なく新しい占有への機会を見るのである」(ニーチェ「善悪の彼岸・一九四・P.144~146」岩波文庫 一九七〇年)

さてシトリ侯爵夫人の攻撃的言動だが、いったん音楽の会へ出かけることで落ち着いたかのように見えたのも束の間、今度は「ベートーヴェン、ワーグナー、フランク、ドビュッシー」といった錚々たる面々を罵倒し出した。しかし面白いのはそのフレーズが駄洒落を用いて構成されている点だ。

「夜会をやめて音楽の会に出かけるようになると、夫人はこんなことを言い出す。『こんなものを聴くのがお好きなの、音楽なんてものが?ああ!まったく!それも時によりけりね。それにしても退屈ったらないわ!あら!ベートーヴェン、もううんざり(ラ・バルブ)!』。ワーグナーには、さらにフランクやドビュッシーには、『もううんざり(ラ・バルブ)』と言うのさえ面倒なのか、夫人は理髪師(バルビエ)のように顔に手をあてがうだけにした。やがて、なにもかもが退屈になった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.205」岩波文庫 二〇一五年)

駄洒落の活用を持ち込んだのは作者プルースト以外の誰でもない。さらにそこでからかわれているのはプルースト自身が最も愛したベートーヴェンやドビュッシーをはじめ、ワーグナーやフランクも加えれば、ヴァントゥイユのモデルとされる音楽家たちの名を列挙したことになる。そしてシトリ侯爵夫人はひとしきり罵倒し終えると「なにもかもが退屈になった」。シトリ夫人の容貌については少し前に言及がある。「いまだに美しい婦人」。読者は思うに違いない。この種の「美しい婦人」ならそこらじゅうで「いまだに」見かけることができると。また、「なにもかもが退屈」だという心情について。シトリ夫人だけがそう考えているわけではない。サン=トゥーヴェルト夫人のパーティーに出席するのかしないのか訊ねにやって来たフロベルヴィルとの会話の最中、ゲルマント夫人自身「死ぬほど退屈」だと感じる。

「ゲルマント夫人は、その好意を汲んで片目と口端(くちは)でフロベルヴィル氏に微笑みはしたが、それでもあいかわらず死ぬほど退屈に感じられて、とうとう氏のそばを離れることに決めた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.197」岩波文庫 二〇一五年)

上流社交界について「虚無の王国」だと述べたプルーストは<私>を通してその虚無性を次々と<暴露>していく。プルーストのアンチノミー(二律背反)は<私>を通してどんどん増殖・共鳴・共振していく。とりわけ「ソドムとゴモラ」では<私>の<覗き>を通して語らせるという混み入った形式を取る。だから見どころは男性同性愛でも女性同性愛でもなく、なぜ<覗き>でなくてはならなかったのかという問いかけとともにでないと、逆にますますこんがらがってくるほかない。プルーストの三大テーマ<暴露><覗き><冒瀆>はそれらを横断的に読むことからしか始めることはできない。

なお、日本のマスコミは元首相狙撃事件について、狙撃犯とカルト団体と元首相とを三分割することに懸命の様子。元首相を狙ったのは「狙撃犯による論理の後付け」だとか「狙撃犯の論理には論理の飛躍がある」だとかいった種類のもの。視聴者として違和感を覚えるのは「論理の飛躍がある」という点。逆にそれこそ異様としか言いようのない「論理の飛躍」に思える。元首相とその一族はもう何十年も前からそのカルト団体と大変懇意にしていることは日本弁護士会を始めカルト被害者救済に携わっている人々にとって明白な事実である。今になって突如として強引に切り離す必要性が一体どこから出てくるのか。マスコミに対する疑惑はますます深まるばかり。カルト団体の資金獲得のために日本全土と日本国民自身をカルト団体に差し出し生贄に提供する形を取り続けてきた日本の元首相とその一族。その点で狙撃犯とカルト団体と元首相とは論理的に極めて接近しているにもかかわらず「論理の飛躍がある」というマスコミは、そのスポンサーとの関係を含めて強烈な違和感を覚えさせずにはおかない。

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Blog21・<プルースト><坂口安吾><マルクス>、それぞれの共通性

2022年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>はブイヨン公爵に会ったことがある。だがこのパーティーの日の午後に目にした時、それがブイヨン公爵だとは全然気づかなかった。ゲルマント侯爵の話を聞いていて始めて思い当たったのだった。忘れ去った人物ではまるでなく習慣・因襲に従って気を抜いている間、「てっきりコンブレーのプチ・ブルジョワかと思った」きり、打ち捨てておいてしまっただけのことで、「よく考えてみると、ヴィルパリジ夫人に瓜ふたつだったことに気づいた」。とともに、「ランブルサック公爵夫人の消え入りそうなお辞儀」《と》「祖母の女友だちのお辞儀が似ていることは、すでに私の関心を惹きはじめていた」。

「それは私がてっきりコンブレーのプチ・ブルジョワかと思った人であったが、よく考えてみると、ヴィルパリジ夫人に瓜ふたつだったことに気づいた。ランブルサック公爵夫人の消え入りそうなお辞儀と祖母の女友だちのお辞儀が似ていることは、すでに私の関心を惹きはじめていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.192」岩波文庫 二〇一五年)

登場人物が「大貴族であれプチ・ブルジョワであれ」、身振り・作法といったものは、その人々が生きている時代に身に付けたものであり、目に見えていて耳に聞こえもする表層である。例えば「アルランクール子爵やロイザ・ピュジュの時代の教育がどのようなものであったか」を「考古学者のように発見させてくれる」のは考古学者がやるように表層(身振り・筆跡・作法・服装・模様など)の読解であって、何か意味不明な深層のようなものが隠されているわけではなく、逆に目の前にまともに露出している表層と向き合うことで判断する。

「大貴族であれプチ・ブルジョワであれ、閉ざされた狭い社会に暮らす人たちには古い作法がそのまま残存していることを私に教えてくれたからで、そんな作法は、アルランクール子爵やロイザ・ピュジュの時代の教育がどのようなものであったか、その教育に反映している精神がいかなるものであったかを、考古学者のように発見させてくれる」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.192」岩波文庫 二〇一五年)

その意味で作家としてのプルーストは文学の分野における考古学者の立場に身を置いているといえる。画家や音楽家が習慣・因襲とは<別の価値体系>に立つことで、それまで誰にも見えていず聴こえてもいなかったものを始めて世の中へ向けて可視化して示すように、プルーストは文学という方法に依拠し、「読者が自分自身のうちに見ることができないものを認識できるよう、提供する一種の光学機械」たることに努めた。

「作家の書いた本は、それなくしては読者が自分自身のうちに見ることができないものを認識できるよう、提供する一種の光学機械にほかならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.521~522」岩波文庫 二〇一八年)

しかしプルーストやカフカだけがそのような特権的方法を身に付けていたわけではない。日本の作家にもいた。坂口安吾はいう。

「国史以前に、コクリ、クダラ、シラギ等の三韓や大陸南洋方面から絶え間なく氏族的な移住が行われ、すでに奥州の辺土や伊豆七島に至るまで土着を見、まだ日本という国名も統一もない時だから、何国人でもなくただの部落民もしくは氏族として多くの種族が入りまじって生存していたろうと思う。そのうちに彼らの中から有力な豪族が現れたり、海外から有力な氏族の来着があったりして、次第に中央政権が争わるるように至ったと思うが、特に目と鼻の三韓からの移住土着者が豪族を代表する主要なものであったに相違なく、彼らはコクリ、クダラ、シラギ等の母国と結んだり、または母国の政争の影響をうけて日本に政変があったりしたこともあったであろう」(坂口安吾「道鏡童子」『坂口安吾全集17・P.385』ちくま文庫 一九九〇年)

今でこそ当り前の通説になっているけれども、当時、そのような状況が見えていたのはまったく異色というほかない。「日本の中の朝鮮文化」を書いた金達寿はこう述べている。

「私に『古代史家としての坂口安吾』という一文がありますが、私はどの歴史学者、あるいは歴史家よりも、この坂口安吾から多くのものを学びました」(金達寿「日本古代史と朝鮮・P.298」講談社学術文庫 一九八五年)

坂口安吾が参照したのは日本書紀・古事記が中心であって、そのほかはほとんど資料がない。しかも書籍ばかりなのでそこに載っている活字という表層と徹底的に向き合うことからしか出発できないし、そうでなければ「道鏡童子」の一節にあるようなまったく新しい歴史の暗部を可視化することなど到底できない。ではなぜ坂口安吾にはそれができたのか。周囲の社会的習慣・因襲とはまた<別の価値体系>に身を置くことで始めてそれが可能になったと言わねばならない。

プルーストは続ける。社会階層がまるで異なる人々同士であるにもかかわらず、なぜ身振りが一致してくるのか。「以前にも私は、ある銀板写真を見て、サン=ルーの母方の祖父であるラ・ロシュフーコー公爵が、衣装といい、風貌といい、物腰といい、私の祖父と瓜ふたつであることに驚いた」。

「この類似にも増して、ブイヨン公爵と同年配のコンブレーのプチ・ブルジョワとの外見の完全な一致がいまや一層はっきりと私に想い出させてくれたのは(以前にも私は、ある銀板写真を見て、サン=ルーの母方の祖父であるラ・ロシュフーコー公爵が、衣装といい、風貌といい、物腰といい、私の祖父と瓜ふたつであることに驚いたものだ)、社会階層の相違など、いや、個人の相違さえ、遠く離れて見れば、ある時代の均一性のなかに埋没してしまうことである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.192~193」岩波文庫 二〇一五年)

プルーストのいう「ある時代の均一性」はニーチェのいう「言語・貨幣」を介した交換社会が出現すると同時に発生する。具体的には資本主義がヨーロッパ全域を加速的に飲み込み始めた頃にあたる。

「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫 一九九三年)

さらに「個人」という言葉には注意を要する。類としての人類ならそれこそノアの方舟以前から存在した。一人一人誰もが違っているという点でいえば、日本の場合、江戸時代の町人が一人一人違っているのと何ら変わらない。ところが近代になってやおら出現した「個人」というのは、個人主義とか個性とかいうのと同時代の発明であって、「人間」という概念が出来てから事後的に発生した「まったく最近の被造物にすぎない」。フーコーはいう。

「十八世紀末以前に、《人間》というものは実在しなかったのである。生命の力も、労働の多産性も、言語(ランガージュ)の歴史的厚みもまた同様だった。《人間》こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物にすぎない」(フーコー「言葉と物・第九章・P.328」新潮社 一九七四年)

すると次のような事態が起こってくる。「ルイ=フィリップの時代の大貴族が、ルイ十五世の時代の大貴族よりもむしろルイ=フィリップの時代のブルジョワに似ていることに気づく」。時間的には百年ほどの間が空いているのだが。

「じつをいえば衣装の類似や風貌などに反映する時代精神は、ひとりの人間のなかでその階級よりもずっと重要な地位を占めている。階級が重要な地位を占めるのは当人の自尊心と他人の想像力のなかにすぎず、ルイ=フィリップの時代の大貴族が、ルイ十五世の時代の大貴族よりもむしろルイ=フィリップの時代のブルジョワに似ていることに気づくには、ルーヴル美術館の部屋をあれこれ見てまわる必要などないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.193」岩波文庫 二〇一五年)

このような事態はプルーストやその読者の錯覚ではない。記憶が錯誤を起こしているわけでもない。ただ、<時間の作用>というのは、<別の価値体系>に身を置いた画家や音楽家や文学者たちの<発見>において始めて明らかにされるという事情を物語るものだ。

「ある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)

或る時代と次にやって来た時代とは直接繋がっているわけではない。両者のあいだで「地殻の大変動」が起こっており、そこには思想的な断層が刻み込まれている。そこで「考古学」という喩えも出てくる。作品「失われた時を求めて」の終盤でプルーストはこう述べている。

「実際、すぎ去った時の長さを計るうえで、困難が伴うのは最初だけである。最初はそれほど膨大な時がすぎ去ったことを想い描くのにずいぶん苦労するが、つぎにはそれほど時がすぎ去ったわけではないことを想い描くのに相当の困難を覚える。最初は十三世紀がそれほど遠い昔だとはとうてい考えられなかったのに、つぎには十三世紀の教会がなおも残存しうること、現にフランスにそれが数えきれないほど存在することが容易に信じられなくなる」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.53~54」岩波文庫 二〇一九年)

ほかの作家には思いも寄らなかった事情がプルーストに見えたのは<別の価値体系>から見る方法を知っていたからだ。

「作家にとって印象は、科学者にとっての実験に相当するが、ただし科学者にあっては知性の仕事が先に立つのにたいして、作家にあってはそれが後まわしになるという違いがある」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458~459」岩波文庫 二〇一八年)

異なる立場に身を置いてみて始めて見えてくるもの。なおかつそのための作業は「あとから始まるのであり」、「事後的」にしか知ることができない。マルクスはこういった。

「人間生活の諸形態の考察、したがってまたその科学的分析は、一般に、現実の発展とは反対の道をたどるものである。それは、あとから始まるのであり、したがって発展過程の既成の諸結果から始まるのである。労働生産物に商品という極印を押す、したがって商品流通に前提されている諸形態は、人間たちが、自分たちにはむしろすでに不変なものと考えられるこの諸形態の歴史的な性格についてではなくこの諸形態の内実について解明を与えようとする前に、すでに社会的生活の自然形態の固定性をもっているのである。このようにして、価値量の規定に導いたものは商品価値の分析にほかならなかったのであり、商品の価値性格の確定に導いたものは諸商品の共通な貨幣表現にほかならなかったのである。ところが、まさに商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.140~141」国民文庫 一九七二年)

人間社会は自分たちが生み出した<言語・貨幣>によっていつも両義的(可能かつ不可能・良質かつ悪質)な二重性を利用しているし、だからといって利用しないわけにもいかない。

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