元弘三年(一三三三年)の千早赤坂城攻め。紛らわしい名前が色々出てくる。その一人が「長崎四郎左衞門(ながさきしろうざえもん)。「太平記」では始めに「長崎孫四郎左衛門尉泰光(ながさきまごしろうざえもんのじょうやすみつ)」として登場するため、後になって誰のことだかわからなくなってくる。第一に鎌倉幕府から謀反人逮捕の命令を受けて京へ向かい六波羅探題で日野俊基(ひのとしもと)・日野資朝(ひのすけとも)を捕らえる場面。
「東使(とうし)、長崎孫四郎左衛門尉泰光(ながさきまごしろうざえもんのじょうやすみつ)、南条次郎左衛門尉宗直(なんじょうじろうざえもんのじょうなむねなお)」(「太平記1・第一巻・十・P.64」岩波文庫 二〇一四年)
しかしこの時、俊基・資朝を逮捕したのは、史実では「工藤右衞門二郎」と「諏訪三郎兵衞」との二人。
第二に千早赤坂城落城後、鎌倉から多摩川を越えて入間川へ向かおうとする場面。
「長崎次郎(ながさきじろう)、同じき孫四郎左衛門(まごしろうざえもん)」(「太平記2・第十巻・四・P.108」岩波文庫 二〇一四年)
この「孫四郎左衛門(まごしろうざえもん)」が先に出てきた「長崎孫四郎左衛門尉泰光(ながさきまごしろうざえもんのじょうやすみつ)」であり、従って長く鎌倉幕府に仕えた「長崎泰光(ながさきやすみつ)」を指す。だから赤坂城攻めの指揮官として登場する「長崎四郎左衞門(ながさきしろうざえもん)」はまた別人と考えられる。「太平記」では後者の名前で通しているが。ともあれ重要なのは赤坂城攻めの時、戦術として兵糧攻めが採用されたわけだが、幕府軍側は暇を持て余して「花下(はなのもと)の連歌師(れんがし)どもを呼び下(くだ)し、一万句の連歌をぞ始めたりける」とある部分。
「長崎四郎左衞門(ながさきしろうざえもん)、この城の有様を了簡(りょうけん)するに、『力攻(ちからぜ)めにする事は、人のみ討たるるばかりにて、その功なり難(がた)し。ただ取り巻いて、食攻(じきぜ)めにせよ』と下知(げじ)して、軍(いくさ)を止(や)めければ、徒然(とぜん)に堪へかねて、花下(はなのもと)の連歌師(れんがし)どもを呼び下(くだ)し、一万句の連歌をぞ始めたりける」(「太平記1・第七巻・三・P.338」岩波文庫 二〇一四年)
専門の連歌師たちを呼び集め、盛大な連歌会を始めた。「花下(はなのもと)」は春の桜の季節に合わせて寺社の境内で連歌会を興行するのが常だったためそう呼ばれた。ちなみに茶の湯で有名な宗易(千利休)の師・武野紹鷗(たけのじょうおう)も三十歳までは連歌師をやっていた。
それにしても兵糧攻めはよほど退屈だったらしい。「将碁、双六(すごろく)」はもとより、「百服(ひゃっぷく)の茶」も行われた。百種類の茶を飲んで本茶(栂尾産・宇治産の茶)と非茶(それ以外の産地の茶)を言い当てる闘茶(賭博)。さらに歌合であれこれ批評し合って時間を過ごす。
「大将の下知に随つて、軍勢、軍(いくさ)を止(とど)めければ、慰(なぐさ)む方やなかりけん、或いは将碁、双六(すごろく)を芸(う)つて日を過ごし、或いは百服(ひゃっぷく)の茶、褒貶(ほうへん)の歌合(うたあわせ)などを翫(もてあそ)びて、夜を明かし日を暮らす」(「太平記1・第七巻・三・P.338~339」岩波文庫 二〇一四年)
他にやることもなく退屈しているうちに、淀川水運の要衝だった「江口(えぐち)、神崎(かんざき)」から遊女を呼び寄せて思いつく限りの遊びに耽った。遊女らを侍らせて双六(すごろく)に熱中していた伯父と甥の関係にある二人の大将は、双六の「賽(さい)の目(め)」をめぐって口論となり遂に二人とも差し違えて死ぬということも起こった。
「軍(いくさ)もなくて、そぞろに向かひ居たるつれづれに、諸大将の陣々には、江口(えぐち)、神崎(かんざき)の傾城(けいせい)どもを呼び寄せて、様々(さまざま)の遊びをぞせられける。名越遠江入道(なごやとおとうみのにゅうどう)と、同じき兵庫助(ひょうごのすけ)とは、伯父(おじ)、甥(おい)にておはしけるが、ともに一方の大将にて、攻め口近く陣を取り、役所を並べてぞおはしける。或る時、遊君(ゆうくん)の前にて双六(すごろく)を打たれけるが、賽(さい)の目(め)を論じて、聊(いささ)か言(ことば)の違(ちが)ひけるにや、伯父、甥二人突き違(ちが)へてぞ死なれける」(「太平記1・第七巻・三・P.341」岩波文庫 二〇一四年)
また、軍事行動に伴って「野伏(のぶし)」の活躍が描かれている点は中世の特徴だろう。「聖(ひじり)・山伏(やまぶし)・熊野比丘尼(びくに)」、さらに連歌師のみならず茶会の準備や茶器の制作に携わる「同朋衆(どうぼうしゅう)」の活躍はより一層大きな広がりと専門性を見せるとともに洗練された芸能空間・壮麗な祝祭空間を演じる社会的存在感を急速に帯びていくのである。
「さる程に、吉野(よしの)、十津川(とつがわ)、宇多(うだ)、内郡(うちのこおり)の野伏(のぶし)ども、大塔宮(おおとうのみや)の命(めい)を含んで相集まること七千余人、ここの嶺(みね)、かしこの谷に立ち隠れて、武士往来の路(みち)を差(さ)し塞(ふさ)ぐ。これによつて、寄手(よせて)の兵粮(ひょうろう)忽(たちま)ちに尽(つ)きて、人馬ともに疲れて転漕(てんそう)にこらへかねて、百騎、二百騎帰る処を、案内者(あんないしゃ)の野伏ども、所々(しょしょ)のつまりつまりに待(ま)ち請(う)けて、討(う)ち留(と)めける間、日々夜々(ひびよよ)に、討たるる者数を知らず」(「太平記1・第七巻・三・P.343」岩波文庫 二〇一四年)
ところで一方、「無礼講・下克上」の世の中にあったからこそ逆に、鎌倉仏教という新しい思想運動が芽生えたことを忘れるわけにはいかない。
「見ずや、竹の声に道(みち)を悟り、桃の花に心(こころ)を明(あきら)めし」(日本古典文学全集「正法眼蔵随聞記・五ノ四」『方丈記/徒然草/正法眼蔵随聞記/歎異抄・P.435』小学館 一九七一年)
仏教では「悟り」と呼ばれるが、一般的には「気づき」と言ったほうがいいかも知れない。
「香厳(きやうげん)の智閑(しかん)禅師は、大潙(だいゐ)に耕道(だう)せしとき、一句を道得(だうて)せんとするに数番(すばん)つひに道不得(だうふて)なり。これをかなしみて、書籍(しよじやく)を火にやきて、行粥飯僧(あんしゆくはんぞう)となりて年月を経歴(きやうりやく)しき。のちに武当山(ぶたうざん)にいりて、大証(だいしよう)の旧跡(きうせき)をたづねて結草為庵(けつさうゐあん)し、放下幽棲(ほうげいうせい)す。一日わづかに道路を併浄(ひんじん)するに、礫(かはら)のほとばしりて竹にあたりて声をなすによりて、忽然(こつねん)として悟道(ごどう)す」(「正法眼蔵1・第十六・行持上・P.334」岩波文庫 一九九〇年)
その現代語訳。「忽然と覚った」のであって、いつもそうだとは限らない。
「香厳山(きょうげんさん)の智閑(しかん)禅師は、大潙に参じて仏道を学んでいたとき、経典によらずに言葉にしきれた一句を得ようとして、数度となく試みたがついに得られなかった。彼は絶望して、書籍を火に焼き捨て、禅院の食事の給仕係となって年月を経た。のちに武当山に入り、大証国師南陽慧忠がむかし営んだ庵の跡をたずねて、草を結び庵として、すべてを捨て放って幽棲した。ある日のこと道路を浄めていたとき、小石が跳ねて、竹に当たって戛然(かつぜん)と音をたてたことから、忽然と覚ったのだ」(〔現代文訳〕正法眼蔵1・第十六・行持上・P.298」河出文庫 二〇〇四年)
また道元はこうもいう。
「霊雲志勤(しきん)禅師は三十年の辦道なり。あるとき遊山(ゆさん)するに、山脚(さんきやく)に休息(きうそく)して、はるかに人里(にんり)を望見(まうけん)す。ときに春なり。桃花(たうか)のさかりなるをみて、忽然(こつねん)として悟道す」(「正法眼蔵2・第二十五・渓声山色・P.113」岩波文庫 一九九〇年)
現代語訳にこうある。春に桃の花が咲いている。それは当たり前のことだろうか。いつもそうだと勘違いして気にも止めていないのではないだろうか。自明だと思われていることにもそれはそれで理(ことわり)というものがある。そのことに気づくのが大事だと。
「霊雲志勤(れいうんしきん)禅師は、修行三十年の人である。あるとき遊山に出かけた折りに、山の麓で休息をとりながら遥かに人里を眺めていた。時は春である。桃の花が美しく咲いているのを見て、忽然として悟りを得た」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十五・渓声山色・P.158」河出文庫 二〇〇四年)
さらに「如」とは何か。道元は「相似を如と道取するにあらず、如は是なり」といっている。
「諸月の円成(ゑんじやう)すること、前三々(ぜんさんざん)のみならず、後三々(さんざん)のみにあらず。円成の諸月なる、前三々のみにあらず。このゆゑに、釈迦牟尼(しやかむに)仏言(ぶつごん)『仏真法身(ぶつしんほつしん)、猶若虚空(いうにやくこくう)。応物現形(おうもつげんぎやう)、如水中月(にょすいちゆうげつ)<仏の真法身は、猶(あお)し虚空の若(ごと)し。物に応じて形を現はす、水中の月の如し>』。いはゆる『如水中月』の如々は水月なるべし。水如、月如、如中、中如なるべし。相似を如と道取するにあらず、如は是なり。『仏真法身』は『虚空』の『猶若(いうにやく)』なり。この『虚空』は、『猶若』の『仏真法身』なり。仏真法身なるがゆゑに、尽地尽界、尽法尽現、みづから虚空なり。現成せる百草万象(ひゃくさうばんぞう)の『猶若(いうにやく)』なる、しかしながら『仏真法身』なり、『如水中月』なり」(「正法眼蔵2・第二十三・都機(つき)・P.87~88」岩波文庫 一九九〇年)
現代語訳では「互いに似ていることを如と云うのではない。如は是であり、自ずから然りである、そのものである」となる。
「諸々の月が次第に十全の円となって現われる姿は、過去の時を超越し、未来の時をも超越している。満月が欠けて行く諸々の月の姿も、過去の時を超越し、未来の時をも超越している。こうしたことから、釈迦牟尼仏は云う、『仏の真なる法身は、猶(なお)虚空の如し、物に応じて形を現わすこと、水中の月の如し』と。ここに云われる『猶水中の如し』の如々(にょにょ)とは、月を宿した水であり水に宿った月であろう。水月そのものであろう。水の如、月の如、如そのもの、そのものの如であろう。互いに似ていることを如と云うのではない。如は是であり、自ずから然りである、そのものである。また『仏の真なる法身』とは『真に理法と同一化した身相』であり、『虚空』そのものの身相である、『猶若(ゆうにょ)』である。如々である。ここに云われる『虚空』はそのまま如々であり、自ずから然りである、『真に理法と同一化した身相』である。その身相は虚空そのものであることによって、全大地全宇宙、全現象全存在そのものであり、自らが虚空である。いま存在している森羅万象そのままである、そしてまた真に理法と同一化しそれを体現した身相である、それは水に宿る月のようである、また虚空である」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十三・都機(つき)・P.129~130」河出文庫 二〇〇四年)
何かのようなという意味で「如」と用いているのではない。「如(にょ)、即(すなわ)ち、是(これ)」でなくてはならない。そこで始めて次の文面も見えてくるに違いない。
「如如不動
(書き下し)如如にして不動なり」(「金剛般若経」『般若心経・金剛般若経・P.126』岩波文庫 一九六〇年)
「金剛般若経」の一節だが、ほぼ最後の辺りに置かれている。例えば、「茶」と「禅」とは別々のものではない。「茶」と「禅」とは同じものだというわけでもない。「茶、即、禅」なのであり、その限りで始めて「茶禅一味」というのであると。
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「東使(とうし)、長崎孫四郎左衛門尉泰光(ながさきまごしろうざえもんのじょうやすみつ)、南条次郎左衛門尉宗直(なんじょうじろうざえもんのじょうなむねなお)」(「太平記1・第一巻・十・P.64」岩波文庫 二〇一四年)
しかしこの時、俊基・資朝を逮捕したのは、史実では「工藤右衞門二郎」と「諏訪三郎兵衞」との二人。
第二に千早赤坂城落城後、鎌倉から多摩川を越えて入間川へ向かおうとする場面。
「長崎次郎(ながさきじろう)、同じき孫四郎左衛門(まごしろうざえもん)」(「太平記2・第十巻・四・P.108」岩波文庫 二〇一四年)
この「孫四郎左衛門(まごしろうざえもん)」が先に出てきた「長崎孫四郎左衛門尉泰光(ながさきまごしろうざえもんのじょうやすみつ)」であり、従って長く鎌倉幕府に仕えた「長崎泰光(ながさきやすみつ)」を指す。だから赤坂城攻めの指揮官として登場する「長崎四郎左衞門(ながさきしろうざえもん)」はまた別人と考えられる。「太平記」では後者の名前で通しているが。ともあれ重要なのは赤坂城攻めの時、戦術として兵糧攻めが採用されたわけだが、幕府軍側は暇を持て余して「花下(はなのもと)の連歌師(れんがし)どもを呼び下(くだ)し、一万句の連歌をぞ始めたりける」とある部分。
「長崎四郎左衞門(ながさきしろうざえもん)、この城の有様を了簡(りょうけん)するに、『力攻(ちからぜ)めにする事は、人のみ討たるるばかりにて、その功なり難(がた)し。ただ取り巻いて、食攻(じきぜ)めにせよ』と下知(げじ)して、軍(いくさ)を止(や)めければ、徒然(とぜん)に堪へかねて、花下(はなのもと)の連歌師(れんがし)どもを呼び下(くだ)し、一万句の連歌をぞ始めたりける」(「太平記1・第七巻・三・P.338」岩波文庫 二〇一四年)
専門の連歌師たちを呼び集め、盛大な連歌会を始めた。「花下(はなのもと)」は春の桜の季節に合わせて寺社の境内で連歌会を興行するのが常だったためそう呼ばれた。ちなみに茶の湯で有名な宗易(千利休)の師・武野紹鷗(たけのじょうおう)も三十歳までは連歌師をやっていた。
それにしても兵糧攻めはよほど退屈だったらしい。「将碁、双六(すごろく)」はもとより、「百服(ひゃっぷく)の茶」も行われた。百種類の茶を飲んで本茶(栂尾産・宇治産の茶)と非茶(それ以外の産地の茶)を言い当てる闘茶(賭博)。さらに歌合であれこれ批評し合って時間を過ごす。
「大将の下知に随つて、軍勢、軍(いくさ)を止(とど)めければ、慰(なぐさ)む方やなかりけん、或いは将碁、双六(すごろく)を芸(う)つて日を過ごし、或いは百服(ひゃっぷく)の茶、褒貶(ほうへん)の歌合(うたあわせ)などを翫(もてあそ)びて、夜を明かし日を暮らす」(「太平記1・第七巻・三・P.338~339」岩波文庫 二〇一四年)
他にやることもなく退屈しているうちに、淀川水運の要衝だった「江口(えぐち)、神崎(かんざき)」から遊女を呼び寄せて思いつく限りの遊びに耽った。遊女らを侍らせて双六(すごろく)に熱中していた伯父と甥の関係にある二人の大将は、双六の「賽(さい)の目(め)」をめぐって口論となり遂に二人とも差し違えて死ぬということも起こった。
「軍(いくさ)もなくて、そぞろに向かひ居たるつれづれに、諸大将の陣々には、江口(えぐち)、神崎(かんざき)の傾城(けいせい)どもを呼び寄せて、様々(さまざま)の遊びをぞせられける。名越遠江入道(なごやとおとうみのにゅうどう)と、同じき兵庫助(ひょうごのすけ)とは、伯父(おじ)、甥(おい)にておはしけるが、ともに一方の大将にて、攻め口近く陣を取り、役所を並べてぞおはしける。或る時、遊君(ゆうくん)の前にて双六(すごろく)を打たれけるが、賽(さい)の目(め)を論じて、聊(いささ)か言(ことば)の違(ちが)ひけるにや、伯父、甥二人突き違(ちが)へてぞ死なれける」(「太平記1・第七巻・三・P.341」岩波文庫 二〇一四年)
また、軍事行動に伴って「野伏(のぶし)」の活躍が描かれている点は中世の特徴だろう。「聖(ひじり)・山伏(やまぶし)・熊野比丘尼(びくに)」、さらに連歌師のみならず茶会の準備や茶器の制作に携わる「同朋衆(どうぼうしゅう)」の活躍はより一層大きな広がりと専門性を見せるとともに洗練された芸能空間・壮麗な祝祭空間を演じる社会的存在感を急速に帯びていくのである。
「さる程に、吉野(よしの)、十津川(とつがわ)、宇多(うだ)、内郡(うちのこおり)の野伏(のぶし)ども、大塔宮(おおとうのみや)の命(めい)を含んで相集まること七千余人、ここの嶺(みね)、かしこの谷に立ち隠れて、武士往来の路(みち)を差(さ)し塞(ふさ)ぐ。これによつて、寄手(よせて)の兵粮(ひょうろう)忽(たちま)ちに尽(つ)きて、人馬ともに疲れて転漕(てんそう)にこらへかねて、百騎、二百騎帰る処を、案内者(あんないしゃ)の野伏ども、所々(しょしょ)のつまりつまりに待(ま)ち請(う)けて、討(う)ち留(と)めける間、日々夜々(ひびよよ)に、討たるる者数を知らず」(「太平記1・第七巻・三・P.343」岩波文庫 二〇一四年)
ところで一方、「無礼講・下克上」の世の中にあったからこそ逆に、鎌倉仏教という新しい思想運動が芽生えたことを忘れるわけにはいかない。
「見ずや、竹の声に道(みち)を悟り、桃の花に心(こころ)を明(あきら)めし」(日本古典文学全集「正法眼蔵随聞記・五ノ四」『方丈記/徒然草/正法眼蔵随聞記/歎異抄・P.435』小学館 一九七一年)
仏教では「悟り」と呼ばれるが、一般的には「気づき」と言ったほうがいいかも知れない。
「香厳(きやうげん)の智閑(しかん)禅師は、大潙(だいゐ)に耕道(だう)せしとき、一句を道得(だうて)せんとするに数番(すばん)つひに道不得(だうふて)なり。これをかなしみて、書籍(しよじやく)を火にやきて、行粥飯僧(あんしゆくはんぞう)となりて年月を経歴(きやうりやく)しき。のちに武当山(ぶたうざん)にいりて、大証(だいしよう)の旧跡(きうせき)をたづねて結草為庵(けつさうゐあん)し、放下幽棲(ほうげいうせい)す。一日わづかに道路を併浄(ひんじん)するに、礫(かはら)のほとばしりて竹にあたりて声をなすによりて、忽然(こつねん)として悟道(ごどう)す」(「正法眼蔵1・第十六・行持上・P.334」岩波文庫 一九九〇年)
その現代語訳。「忽然と覚った」のであって、いつもそうだとは限らない。
「香厳山(きょうげんさん)の智閑(しかん)禅師は、大潙に参じて仏道を学んでいたとき、経典によらずに言葉にしきれた一句を得ようとして、数度となく試みたがついに得られなかった。彼は絶望して、書籍を火に焼き捨て、禅院の食事の給仕係となって年月を経た。のちに武当山に入り、大証国師南陽慧忠がむかし営んだ庵の跡をたずねて、草を結び庵として、すべてを捨て放って幽棲した。ある日のこと道路を浄めていたとき、小石が跳ねて、竹に当たって戛然(かつぜん)と音をたてたことから、忽然と覚ったのだ」(〔現代文訳〕正法眼蔵1・第十六・行持上・P.298」河出文庫 二〇〇四年)
また道元はこうもいう。
「霊雲志勤(しきん)禅師は三十年の辦道なり。あるとき遊山(ゆさん)するに、山脚(さんきやく)に休息(きうそく)して、はるかに人里(にんり)を望見(まうけん)す。ときに春なり。桃花(たうか)のさかりなるをみて、忽然(こつねん)として悟道す」(「正法眼蔵2・第二十五・渓声山色・P.113」岩波文庫 一九九〇年)
現代語訳にこうある。春に桃の花が咲いている。それは当たり前のことだろうか。いつもそうだと勘違いして気にも止めていないのではないだろうか。自明だと思われていることにもそれはそれで理(ことわり)というものがある。そのことに気づくのが大事だと。
「霊雲志勤(れいうんしきん)禅師は、修行三十年の人である。あるとき遊山に出かけた折りに、山の麓で休息をとりながら遥かに人里を眺めていた。時は春である。桃の花が美しく咲いているのを見て、忽然として悟りを得た」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十五・渓声山色・P.158」河出文庫 二〇〇四年)
さらに「如」とは何か。道元は「相似を如と道取するにあらず、如は是なり」といっている。
「諸月の円成(ゑんじやう)すること、前三々(ぜんさんざん)のみならず、後三々(さんざん)のみにあらず。円成の諸月なる、前三々のみにあらず。このゆゑに、釈迦牟尼(しやかむに)仏言(ぶつごん)『仏真法身(ぶつしんほつしん)、猶若虚空(いうにやくこくう)。応物現形(おうもつげんぎやう)、如水中月(にょすいちゆうげつ)<仏の真法身は、猶(あお)し虚空の若(ごと)し。物に応じて形を現はす、水中の月の如し>』。いはゆる『如水中月』の如々は水月なるべし。水如、月如、如中、中如なるべし。相似を如と道取するにあらず、如は是なり。『仏真法身』は『虚空』の『猶若(いうにやく)』なり。この『虚空』は、『猶若』の『仏真法身』なり。仏真法身なるがゆゑに、尽地尽界、尽法尽現、みづから虚空なり。現成せる百草万象(ひゃくさうばんぞう)の『猶若(いうにやく)』なる、しかしながら『仏真法身』なり、『如水中月』なり」(「正法眼蔵2・第二十三・都機(つき)・P.87~88」岩波文庫 一九九〇年)
現代語訳では「互いに似ていることを如と云うのではない。如は是であり、自ずから然りである、そのものである」となる。
「諸々の月が次第に十全の円となって現われる姿は、過去の時を超越し、未来の時をも超越している。満月が欠けて行く諸々の月の姿も、過去の時を超越し、未来の時をも超越している。こうしたことから、釈迦牟尼仏は云う、『仏の真なる法身は、猶(なお)虚空の如し、物に応じて形を現わすこと、水中の月の如し』と。ここに云われる『猶水中の如し』の如々(にょにょ)とは、月を宿した水であり水に宿った月であろう。水月そのものであろう。水の如、月の如、如そのもの、そのものの如であろう。互いに似ていることを如と云うのではない。如は是であり、自ずから然りである、そのものである。また『仏の真なる法身』とは『真に理法と同一化した身相』であり、『虚空』そのものの身相である、『猶若(ゆうにょ)』である。如々である。ここに云われる『虚空』はそのまま如々であり、自ずから然りである、『真に理法と同一化した身相』である。その身相は虚空そのものであることによって、全大地全宇宙、全現象全存在そのものであり、自らが虚空である。いま存在している森羅万象そのままである、そしてまた真に理法と同一化しそれを体現した身相である、それは水に宿る月のようである、また虚空である」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十三・都機(つき)・P.129~130」河出文庫 二〇〇四年)
何かのようなという意味で「如」と用いているのではない。「如(にょ)、即(すなわ)ち、是(これ)」でなくてはならない。そこで始めて次の文面も見えてくるに違いない。
「如如不動
(書き下し)如如にして不動なり」(「金剛般若経」『般若心経・金剛般若経・P.126』岩波文庫 一九六〇年)
「金剛般若経」の一節だが、ほぼ最後の辺りに置かれている。例えば、「茶」と「禅」とは別々のものではない。「茶」と「禅」とは同じものだというわけでもない。「茶、即、禅」なのであり、その限りで始めて「茶禅一味」というのであると。
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