白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・千早赤坂城攻防戦と連歌・闘茶・双六・遊女

2021年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
元弘三年(一三三三年)の千早赤坂城攻め。紛らわしい名前が色々出てくる。その一人が「長崎四郎左衞門(ながさきしろうざえもん)。「太平記」では始めに「長崎孫四郎左衛門尉泰光(ながさきまごしろうざえもんのじょうやすみつ)」として登場するため、後になって誰のことだかわからなくなってくる。第一に鎌倉幕府から謀反人逮捕の命令を受けて京へ向かい六波羅探題で日野俊基(ひのとしもと)・日野資朝(ひのすけとも)を捕らえる場面。

「東使(とうし)、長崎孫四郎左衛門尉泰光(ながさきまごしろうざえもんのじょうやすみつ)、南条次郎左衛門尉宗直(なんじょうじろうざえもんのじょうなむねなお)」(「太平記1・第一巻・十・P.64」岩波文庫 二〇一四年)

しかしこの時、俊基・資朝を逮捕したのは、史実では「工藤右衞門二郎」と「諏訪三郎兵衞」との二人。

第二に千早赤坂城落城後、鎌倉から多摩川を越えて入間川へ向かおうとする場面。

「長崎次郎(ながさきじろう)、同じき孫四郎左衛門(まごしろうざえもん)」(「太平記2・第十巻・四・P.108」岩波文庫 二〇一四年)

この「孫四郎左衛門(まごしろうざえもん)」が先に出てきた「長崎孫四郎左衛門尉泰光(ながさきまごしろうざえもんのじょうやすみつ)」であり、従って長く鎌倉幕府に仕えた「長崎泰光(ながさきやすみつ)」を指す。だから赤坂城攻めの指揮官として登場する「長崎四郎左衞門(ながさきしろうざえもん)」はまた別人と考えられる。「太平記」では後者の名前で通しているが。ともあれ重要なのは赤坂城攻めの時、戦術として兵糧攻めが採用されたわけだが、幕府軍側は暇を持て余して「花下(はなのもと)の連歌師(れんがし)どもを呼び下(くだ)し、一万句の連歌をぞ始めたりける」とある部分。

「長崎四郎左衞門(ながさきしろうざえもん)、この城の有様を了簡(りょうけん)するに、『力攻(ちからぜ)めにする事は、人のみ討たるるばかりにて、その功なり難(がた)し。ただ取り巻いて、食攻(じきぜ)めにせよ』と下知(げじ)して、軍(いくさ)を止(や)めければ、徒然(とぜん)に堪へかねて、花下(はなのもと)の連歌師(れんがし)どもを呼び下(くだ)し、一万句の連歌をぞ始めたりける」(「太平記1・第七巻・三・P.338」岩波文庫 二〇一四年)

専門の連歌師たちを呼び集め、盛大な連歌会を始めた。「花下(はなのもと)」は春の桜の季節に合わせて寺社の境内で連歌会を興行するのが常だったためそう呼ばれた。ちなみに茶の湯で有名な宗易(千利休)の師・武野紹鷗(たけのじょうおう)も三十歳までは連歌師をやっていた。

それにしても兵糧攻めはよほど退屈だったらしい。「将碁、双六(すごろく)」はもとより、「百服(ひゃっぷく)の茶」も行われた。百種類の茶を飲んで本茶(栂尾産・宇治産の茶)と非茶(それ以外の産地の茶)を言い当てる闘茶(賭博)。さらに歌合であれこれ批評し合って時間を過ごす。

「大将の下知に随つて、軍勢、軍(いくさ)を止(とど)めければ、慰(なぐさ)む方やなかりけん、或いは将碁、双六(すごろく)を芸(う)つて日を過ごし、或いは百服(ひゃっぷく)の茶、褒貶(ほうへん)の歌合(うたあわせ)などを翫(もてあそ)びて、夜を明かし日を暮らす」(「太平記1・第七巻・三・P.338~339」岩波文庫 二〇一四年)

他にやることもなく退屈しているうちに、淀川水運の要衝だった「江口(えぐち)、神崎(かんざき)」から遊女を呼び寄せて思いつく限りの遊びに耽った。遊女らを侍らせて双六(すごろく)に熱中していた伯父と甥の関係にある二人の大将は、双六の「賽(さい)の目(め)」をめぐって口論となり遂に二人とも差し違えて死ぬということも起こった。

「軍(いくさ)もなくて、そぞろに向かひ居たるつれづれに、諸大将の陣々には、江口(えぐち)、神崎(かんざき)の傾城(けいせい)どもを呼び寄せて、様々(さまざま)の遊びをぞせられける。名越遠江入道(なごやとおとうみのにゅうどう)と、同じき兵庫助(ひょうごのすけ)とは、伯父(おじ)、甥(おい)にておはしけるが、ともに一方の大将にて、攻め口近く陣を取り、役所を並べてぞおはしける。或る時、遊君(ゆうくん)の前にて双六(すごろく)を打たれけるが、賽(さい)の目(め)を論じて、聊(いささ)か言(ことば)の違(ちが)ひけるにや、伯父、甥二人突き違(ちが)へてぞ死なれける」(「太平記1・第七巻・三・P.341」岩波文庫 二〇一四年)

また、軍事行動に伴って「野伏(のぶし)」の活躍が描かれている点は中世の特徴だろう。「聖(ひじり)・山伏(やまぶし)・熊野比丘尼(びくに)」、さらに連歌師のみならず茶会の準備や茶器の制作に携わる「同朋衆(どうぼうしゅう)」の活躍はより一層大きな広がりと専門性を見せるとともに洗練された芸能空間・壮麗な祝祭空間を演じる社会的存在感を急速に帯びていくのである。

「さる程に、吉野(よしの)、十津川(とつがわ)、宇多(うだ)、内郡(うちのこおり)の野伏(のぶし)ども、大塔宮(おおとうのみや)の命(めい)を含んで相集まること七千余人、ここの嶺(みね)、かしこの谷に立ち隠れて、武士往来の路(みち)を差(さ)し塞(ふさ)ぐ。これによつて、寄手(よせて)の兵粮(ひょうろう)忽(たちま)ちに尽(つ)きて、人馬ともに疲れて転漕(てんそう)にこらへかねて、百騎、二百騎帰る処を、案内者(あんないしゃ)の野伏ども、所々(しょしょ)のつまりつまりに待(ま)ち請(う)けて、討(う)ち留(と)めける間、日々夜々(ひびよよ)に、討たるる者数を知らず」(「太平記1・第七巻・三・P.343」岩波文庫 二〇一四年)

ところで一方、「無礼講・下克上」の世の中にあったからこそ逆に、鎌倉仏教という新しい思想運動が芽生えたことを忘れるわけにはいかない。

「見ずや、竹の声に道(みち)を悟り、桃の花に心(こころ)を明(あきら)めし」(日本古典文学全集「正法眼蔵随聞記・五ノ四」『方丈記/徒然草/正法眼蔵随聞記/歎異抄・P.435』小学館 一九七一年)

仏教では「悟り」と呼ばれるが、一般的には「気づき」と言ったほうがいいかも知れない。

「香厳(きやうげん)の智閑(しかん)禅師は、大潙(だいゐ)に耕道(だう)せしとき、一句を道得(だうて)せんとするに数番(すばん)つひに道不得(だうふて)なり。これをかなしみて、書籍(しよじやく)を火にやきて、行粥飯僧(あんしゆくはんぞう)となりて年月を経歴(きやうりやく)しき。のちに武当山(ぶたうざん)にいりて、大証(だいしよう)の旧跡(きうせき)をたづねて結草為庵(けつさうゐあん)し、放下幽棲(ほうげいうせい)す。一日わづかに道路を併浄(ひんじん)するに、礫(かはら)のほとばしりて竹にあたりて声をなすによりて、忽然(こつねん)として悟道(ごどう)す」(「正法眼蔵1・第十六・行持上・P.334」岩波文庫 一九九〇年)

その現代語訳。「忽然と覚った」のであって、いつもそうだとは限らない。

「香厳山(きょうげんさん)の智閑(しかん)禅師は、大潙に参じて仏道を学んでいたとき、経典によらずに言葉にしきれた一句を得ようとして、数度となく試みたがついに得られなかった。彼は絶望して、書籍を火に焼き捨て、禅院の食事の給仕係となって年月を経た。のちに武当山に入り、大証国師南陽慧忠がむかし営んだ庵の跡をたずねて、草を結び庵として、すべてを捨て放って幽棲した。ある日のこと道路を浄めていたとき、小石が跳ねて、竹に当たって戛然(かつぜん)と音をたてたことから、忽然と覚ったのだ」(〔現代文訳〕正法眼蔵1・第十六・行持上・P.298」河出文庫 二〇〇四年)

また道元はこうもいう。

「霊雲志勤(しきん)禅師は三十年の辦道なり。あるとき遊山(ゆさん)するに、山脚(さんきやく)に休息(きうそく)して、はるかに人里(にんり)を望見(まうけん)す。ときに春なり。桃花(たうか)のさかりなるをみて、忽然(こつねん)として悟道す」(「正法眼蔵2・第二十五・渓声山色・P.113」岩波文庫 一九九〇年)

現代語訳にこうある。春に桃の花が咲いている。それは当たり前のことだろうか。いつもそうだと勘違いして気にも止めていないのではないだろうか。自明だと思われていることにもそれはそれで理(ことわり)というものがある。そのことに気づくのが大事だと。

「霊雲志勤(れいうんしきん)禅師は、修行三十年の人である。あるとき遊山に出かけた折りに、山の麓で休息をとりながら遥かに人里を眺めていた。時は春である。桃の花が美しく咲いているのを見て、忽然として悟りを得た」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十五・渓声山色・P.158」河出文庫 二〇〇四年)

さらに「如」とは何か。道元は「相似を如と道取するにあらず、如は是なり」といっている。

「諸月の円成(ゑんじやう)すること、前三々(ぜんさんざん)のみならず、後三々(さんざん)のみにあらず。円成の諸月なる、前三々のみにあらず。このゆゑに、釈迦牟尼(しやかむに)仏言(ぶつごん)『仏真法身(ぶつしんほつしん)、猶若虚空(いうにやくこくう)。応物現形(おうもつげんぎやう)、如水中月(にょすいちゆうげつ)<仏の真法身は、猶(あお)し虚空の若(ごと)し。物に応じて形を現はす、水中の月の如し>』。いはゆる『如水中月』の如々は水月なるべし。水如、月如、如中、中如なるべし。相似を如と道取するにあらず、如は是なり。『仏真法身』は『虚空』の『猶若(いうにやく)』なり。この『虚空』は、『猶若』の『仏真法身』なり。仏真法身なるがゆゑに、尽地尽界、尽法尽現、みづから虚空なり。現成せる百草万象(ひゃくさうばんぞう)の『猶若(いうにやく)』なる、しかしながら『仏真法身』なり、『如水中月』なり」(「正法眼蔵2・第二十三・都機(つき)・P.87~88」岩波文庫 一九九〇年)

現代語訳では「互いに似ていることを如と云うのではない。如は是であり、自ずから然りである、そのものである」となる。

「諸々の月が次第に十全の円となって現われる姿は、過去の時を超越し、未来の時をも超越している。満月が欠けて行く諸々の月の姿も、過去の時を超越し、未来の時をも超越している。こうしたことから、釈迦牟尼仏は云う、『仏の真なる法身は、猶(なお)虚空の如し、物に応じて形を現わすこと、水中の月の如し』と。ここに云われる『猶水中の如し』の如々(にょにょ)とは、月を宿した水であり水に宿った月であろう。水月そのものであろう。水の如、月の如、如そのもの、そのものの如であろう。互いに似ていることを如と云うのではない。如は是であり、自ずから然りである、そのものである。また『仏の真なる法身』とは『真に理法と同一化した身相』であり、『虚空』そのものの身相である、『猶若(ゆうにょ)』である。如々である。ここに云われる『虚空』はそのまま如々であり、自ずから然りである、『真に理法と同一化した身相』である。その身相は虚空そのものであることによって、全大地全宇宙、全現象全存在そのものであり、自らが虚空である。いま存在している森羅万象そのままである、そしてまた真に理法と同一化しそれを体現した身相である、それは水に宿る月のようである、また虚空である」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十三・都機(つき)・P.129~130」河出文庫 二〇〇四年)

何かのようなという意味で「如」と用いているのではない。「如(にょ)、即(すなわ)ち、是(これ)」でなくてはならない。そこで始めて次の文面も見えてくるに違いない。

「如如不動

(書き下し)如如にして不動なり」(「金剛般若経」『般若心経・金剛般若経・P.126』岩波文庫 一九六〇年)

「金剛般若経」の一節だが、ほぼ最後の辺りに置かれている。例えば、「茶」と「禅」とは別々のものではない。「茶」と「禅」とは同じものだというわけでもない。「茶、即、禅」なのであり、その限りで始めて「茶禅一味」というのであると。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・文観のリアリズム/過剰な引用の織物

2021年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
平穏な時代には刑罰のための鞭も朽ち果て、君主を諫める太鼓も使われずに苔すら生えてくる。

「刑鞭(けいべん)も朽ちはて、諫鼓(かんこ)も打つ人なかりけり」(「太平記1・第一巻・一・P.39」岩波文庫 二〇一四年)

そうある箇所は「和漢朗詠集」からの引用である。

「刑鞭蒲朽螢空去 諫鼓苔深鳥不驚

(書き下し)刑鞭(けいへん)蒲(かま)朽(く)ちて螢(ほたる)空(むな)しく去(さ)んぬ 諫鼓(かんこ)苔(こけ)深(ふか)うして鳥驚(おどろ)かず」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・帝王・六六三・国風・P.249」新潮社 一九八三年)

元亨(げんこう)二年(一三二二年)、中宮(後京極院禧子<きし>)「御懐妊(ごかいにん)の御祈り」と称して「法勝寺(ほっしょうじ)の円観上人(えんかんしょうにん)、小野(おの)の文観僧正(もんかんしょうにん)」を中心に皇居に祈祷のための壇を設けて密教修法が始まった。護摩の煙は宮中に満ち、僧らの振る鈴の音は後宮へも鳴り響いた。そして三年経つまで中宮の懐妊の兆しはなかった。後で判明したのは、中宮の懐妊にかこつけて実は鎌倉幕府軍調伏を狙った呪いの祈祷だったという。

「元亨(げんこう)二年の春の比(ころ)より、中宮(ちゅうぐう)御懐妊(ごかいにん)の御祈りとて、諸寺諸山の貴僧、高僧を召され、様々(さまざま)の大法(だいほう)、秘法(ひほう)を行はせらる、中にも、法勝寺(ほっしょうじ)の円観上人(えんかんしょうにん)、小野(おの)の文観僧正(もんかんしょうにん)二人(ににん)は、別して勅(ちょく)を承りて、金闕(きんけつ)に壇(だん)を構へ、玉体(ぎょくたい)に近づき奉りて、肝胆(かんたん)を砕(くだ)いてぞ祈られける。仏眼(ぶつげん)、金輪(こんりん)、五壇(ごだん)の法、一宿五返孔雀経(いっしゅくごへんくじゃくきょう)、七仏薬師(しちぶつやくし)、烏瑟娑摩変成男子(うすさまへんじょうなんし)の法、五大虚空蔵(ごだいこくうぞう)、六観音(ろくかんのん)、六字訶梨帝母(ろくじかりていも)、八字文殊(はちじもんじゅ)、普賢延命(ふげんえんみょう)、金剛童子(こんごうどうじ)の法なり。護摩(ごま)の煙(けぶり)は内苑(ないえん)に満ち、振鈴(しんれい)の声は掖殿(えきでん)に響(ひび)き、いかなる悪魔(あくま)、怨霊(おんりょう)なりとも、障碍(しょうげ)なし難(がた)しとぞ見えたりける。かやうに功を積み、日を重ねて、御祈りの精誠(せいぜい)を尽(つ)くされけれども、三年(みとせ)まで御産の御事(おんこと)はなかりけり。後(のち)に子細(しさい)を尋ぬれば、関東調伏(かんとうちょうぶく)のために、事を中宮(ちゅうぐう)の御産に寄せて、かやうに秘法を修(しゅ)せられけるとなり」(「太平記1・第一巻・四・P.45~46」岩波文庫 二〇一四年)

同じ頃、公務に忙しい日々を送っていた日野俊基(ひのとしもと)は、或る漢字を読み間違って周囲から笑い者にされ恥をかいたことを理由に、いきなり「籠居(ろうきょ)す」と宣言し、実は半年ばかり全国の社会事情を見聞し、諸国の財政・軍事を観察して廻っていた。

「恥辱(ちじょく)に逢うて籠居(ろうきょ)すと披露(ひろう)して、半年ばかり出仕(しゅっし)を止(とど)め、山伏(やまぶし)の形に身を易(か)へて、大和(やまと)、河内(かわち)に行きて、城になるべき所々(しょしょ)を見置き、東国(とうごく)、西国(さいごく)に下(くだ)つて、国の風俗(ふうぞく)、人の分限(ぶんげん)をぞ伺(うかが)ひ見(み)られける」(「太平記1・第一巻・五・P.47~48」岩波文庫 二〇一四年)

日野俊基(としもと)にそのような隠密行動が可能だったのは「山伏(やまぶし)の形に身を易(か)へて」いたからである。大塔宮(おおとうのみや)熊野落ちの条でも「田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)」に扮している限りで、不可能な行動を可能にしている。

「宮を始め奉つて、御共の者ども、皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて、頭巾(ときん)眉半(まゆなか)ばに責めて、その中の年(とし)長ぜるを先達(せんだち)に造り立てて、田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)にぞ見せたりける」(「太平記1・第五巻・八・P.251」岩波文庫 二〇一四年)

さらに護良(もりよし)親王はその時の天台座主であるにもかかわらず、学問修行はそっちのけで武術に明け暮れる毎日になっていた。それらの動きは鎌倉幕府へ筒抜けになっており、謀反の企ては明白と見られ加速的に警戒され出す。

「大塔の二品親王(にほんしんのう)は、時の貫首(かんじゅ)にておはせしかども、今は行学(ぎょうがく)ともに捨てはてさせ給ひて、明け暮れは、ただ武勇の御嗜(おんたしな)みの外(ほか)は他事たじ)なし。御好みある験(しるし)にや、早業(はやわざ)は、江都(こうと)の巧み、軽捷(けいしょう)にも超えたれば、七尺(しちせき)の屏風(びょうぶ)必ずしも高しとせず」(「太平記1・第二巻・一・P.75」岩波文庫 二〇一四年)

なお「江都(こうと)の巧み、軽捷(けいしょう)にも超えたれば、七尺(しちせき)の屏風(びょうぶ)必ずしも高しとせず」の一節もまた「和漢朗詠集」から引っ張って書かれたもの。

「江都之好勁捷也 七尺屏風其徒高 淮南之求神仙也 一旦乗雲而何益

(書き下し)江都(かうと)が勁捷(けいせふ)を好(この)んし 七尺(しつせき)の屏風(へいふ)それ徒(いたづら)に高し 淮南(くわいなん)の神仙(しんせん)を求(もと)めし 一旦(いったん)雲に乗(の)て何(なん)の益(えき)かある」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・親王・六六八・源順・P.251」新潮社 一九八三年)

日本史上長く「妖僧・怪僧」の異名を取ってきた文観僧正(もんかんそうじょう)。なるほどそう見れば見える。しかし若くから様々な社会事業を成功させてきた極めて本格的な僧侶の一人でもある。だからこそ京の醍醐寺・東寺といった大寺院のトップを歴任することができた点は認めないといけない。

「文観僧正(もんかんそうじょう)と申すは、播磨国(はりまのくに)法花寺(ほっけじ)の住侶(じゅうりょ)なりしが、壮年の比(ころ)より、醍醐寺(だいごじ)に移住して、真言(しんごん)の大阿闍梨(だいあじゃり)なりしかば、東寺(とうじ)の長者(ちょうじゃ)、醍醐の座主(ざす)に補(ふ)せられて、四種三密(ししゅさんみつ)の棟梁(とうりょう)たり」(「太平記1・第二巻・三・P.80」岩波文庫 二〇一四年)

後醍醐天皇と最も密接な関係を持った黒幕というイメージは、どこか伝奇SF的な魔人伝説を七百年ほどものあいだ生きながらえさせてきた。それは「太平記」に描かれた文観像である。しかし同じ「太平記」の文観は「妖僧・怪僧」というよりもずっと遥かに現実的な政治的・軍事的戦略家の頭脳を持っていたと考えざるを得ない。円観や忠円とともに謀議を企てる妖僧のイメージは或る種の演じられたパフォーマンスであり、政治に関わる僧としては相当計算高いものだったに違いない。六波羅探題で逮捕され鎌倉へ護送された文観は過酷な拷問を受ける。しばらくは耐えていたが遂に口を割り、三年間に渡った中宮懐妊の祈祷も実は、後醍醐天皇の勅命に従って関東武士団壊滅を祈る呪詛のための祈祷だったと白状した。

「文観僧正を問ひければ、暫(しばら)くが程は落ち給はざりけれども、水問(すいもん)度重(たびかさ)なりければ、『勅定(ちょくじょう)によつて、調伏の法行ひたりし条、子細なし』と白状(はくじょう)せられけり」(「太平記1・第二巻・三・P.82」岩波文庫 二〇一四年)

後醍醐帝の側近であり重鎮だった三人の僧の処遇はいずれも「遠流(おんる)・左遷(させん)」と決定・実行された。鎌倉幕府は常に京に目を光らせており、僅かな動きであっても何らかの不穏さが垣間見えればただちに処置が下された。拷問は言語に絶するものばかり。文観の場合は徹底的な水責めの末の自白である。

「同じき七月十三日、三人の僧達、遠流(おんる)の在所(ざいしょ)定まつて、文観僧正(もんかんそうじょう)は硫黄島(いおうがしま)、忠円僧正(ちゅうえんそうじょう)は、越後国(えちごのくに)へ流さる。円観上人(えんかんしょうにん)ばかりは、遠流(おんる)一等を宥(なだ)め、結城上野入道(ゆうきこうずけのにゅうどう)に預けられければ、奥州(おうしゅう)へ具足(ぐそく)し奉つて、長途(ちょうど)の旅にさそらひ給ふ。左遷(させん)、遠流と云はぬばかりなり」(「太平記1・第二巻・三・P.84」岩波文庫 二〇一四年)

ほとんど冒頭部分で出てきた「左遷(させん)・遠流(おんる)」という言葉。その後の雲行きを予言するに十分な効果を発揮している。後醍醐天皇の側近らが比叡山の学問修行僧・玄恵僧都(げんえそうず)を呼んで「韓昌黎(かんしょうれい)=韓愈(かんゆ)」文集の講義を行わせていたところ、「配流」の条に至った時、玄恵僧都は韓愈が流刑地に赴く際に詠んだ詩を朗読した。もとより玄恵は自分が記録者として呼ばれた「無礼講」の催しが、後々日本全国を揺るがすことになる謀反の企ての場になっているとは夢にも思っていない。玄恵は韓愈について、「杜子美(としみ)、李太白(りたいはく)に肩を較(なら)べる傑出した文章家です」、と改めて紹介した。「李太白(りたいはく)」は「李白(りはく)」。誰でもわかる。「杜子美(としみ)」は「杜甫(とほ)」を指す。ちなみに杜甫の家系は取り立てて文章に秀でた名門というわけではさらさらない。しかしその中に僅かながら杜甫が尊敬して止まない人物が二人いる。一人は祖父・杜審言(としんげん)。初唐の頃、初めて五言律詩形式を確立した詩人で「唐詩選」にも幾つか載っている。さらに杜甫の十三代前の祖先に杜預(どよ)がいる。古代中国の歴史書「春秋」の解釈書で有名なものは三つあり合わせて「春秋三伝」とよばれる。「春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝」。杜預はその中の「春秋左氏伝」に注目し、注釈書「春秋経伝集解(しゅんじゅうけいでんしっかい)」を完成させた。

ところで玄恵僧都が読み上げた韓兪の左遷の歌とはどのような歌だったか。

「左遷至藍關 示姪孫湘 一封朝奏九重天 夕貶潮州路八千 欲爲聖明除弊事 肯將衰朽惜殘年 雲横秦嶺家何在 雪擁藍關馬不前 知汝遠来應有意 好収吾骨瘴江邊

(書き下し)左遷(させん)されて藍関(らんかん)に至(いた)り 姪孫湘(てつそんしょう)に示(しめ)す 一封(いっぽう) 朝(あした)に奏(そう)す 九重(きゅうちょう)の天(てん) 夕(ゆう)べに潮州(ちょうしゅう)に貶(へん)せらる 路八千(みちはっせん) 聖明(せいめい)の為(ため)に弊事(へいじ)を除(のぞ)かんと欲(ほ)っす 肯(あ)えて衰朽(すいきゅう)を将()も」って残年(ざんねん)を惜(お)しまんや 雲(くも)は秦嶺(しんれい)に横(よこ)たわって家(いえ)何(いず)くにか在(あ)ある 雪(ゆき)は藍関(らんかん)を擁(よう)して馬(うま)前(すす)まず 知(し)んぬ汝(なんじ)が遠(とお)く来(き)たる 応(まさ)に意(い)有(あ)るべし 好(よ)し 吾(わ)が骨(ほね)を瘴江(しょうこう)の辺(ほとり)に収(おさ)めよ

(現代語訳)朝に上奏文を一通おく深い天子さまの宮居にたてまつった。と夕べには八千里も路程のある潮州に流されることになった。聖明な天子さまのために悪弊を除きたいと思えばこそで、衰えはてた身なのに今さら老いぼれの年を惜しもうとは思わぬ。雲は秦嶺山脈にたなびきわたしの家はどこにあるか分からぬ、雪は藍田関をうずめつくしてわたしの馬は進まない。おまえがはるばるやって来たのはきっと何かのつもりがあってのことだとわたしには分かる、それならわたしの骨を瘴気たちこめる大川のほとりでとり収めてくれるがよい」(「左遷至藍關 示姪孫湘」『中國詩人選集11・韓兪・P.114~115』岩波書店 一九五八年)

ゆえに、知らないながらも玄恵はもうそこまで来ている南北朝の戦乱の預言者として登場してきた、と言えるかもしれない。文観は流刑地の「硫黄島(いおうがしま)」(今の鹿児島県内)から京へ帰って後、再び東寺を治める。次の一説は「太平記」という軍記物に見られる誇張もあるだろう。しかし政治と軍事、さらに仏教教学・仏教美術への意志は一貫して強靭なものがあったに違いない。この文章は生涯を通して見えてくる文観の逞しい精力・意欲と何ら矛盾しないどころかむしろその証の一端なのではないだろうか。

「これは、せめて俗人なれば、云ふに足らず。文観僧正の振る舞いを伝へ聞くこそ、不思議なれ。たまたま一旦、名利(みょうり)の境界を離れて、三密瑜伽(さんみつゆが)の道場に入(い)り給ひし甲斐(かい)もなく、ただ利欲名聞(りよくみょうもん)にのみ趍(はし)って、更に観念定座禅(かんねんじょうざぜん)の勤めを忘れたるに似たり。何の用ともなきに、財宝を倉に積んで、貧窮(びんぐう)を扶(たす)けず、武具を傍(かたわら)に集め、并(なら)びに士卒を逞(たくま)しうす。頻(しき)りに媚(こ)びをなし、交はりを結ぶ輩(ともがら)には、忠なきに賞を申し与へられける間、文観僧正の手の者と号して、党を立て、臂(ひじ)を張る者、洛中に充満して、五、六百人に及べり。されば、程遠からぬ参内(さんだい)の時も、輿(こし)の前後に数百騎の兵どもを打ち囲んで、路次(ろし)を横行しければ、法衣(ほうえ)忽(たちま)ちに馬蹄(ばてい)の塵(ちり)に汚(けが)れ、律儀(りつぎ)空しく人口の譏(そし)りに落つ」(「太平記2・第十二巻・五・P.63」岩波文庫 二〇一四年)

それにしても「太平記」は語りの文章にしても登場人物の会話にしてもあちこちから引いてきた引用の織物というべきパッチワークで埋め尽くされている。武蔵国(むさしのくに)幡羅(はら)郡人見(ひとみ)は今の埼玉県深谷市。相模国(さがみのくに)愛甲郡依智(えち)は今の神奈川県厚木市。相模国の本間九郎(ほんまくろう)との一騎打ちで武蔵国の人見四郎入道恩阿(ひとみしろうにゅうどうおんあ)はこう名乗る。

「御方(みかた)の軍勢、雲霞(うんか)の如くなれば、敵の城を攻め落とさんずる事は疑ひなし。但し、事の様(よう)を案ずるに、関東天下の権を取つて、すでに七代に余れり。天満てるを欠く理(ことわ)り、遁(のが)るる所なし。その上、臣として君を流し奉りし積悪(しゃくあく)、豈(あ)にはたしてその身を滅(ほろ)ぼさざらんや。恩阿、不肖(ふしょう)の身なりと云へども、武恩(ぶおん)を蒙(こうぶ)つて、齢(よわい)すでに七十三になりぬ。今より後(のち)さしたる思(おも)ひ出(で)もなき身の、そぞろに長活(ながい)きして、武運(ぶうん)の傾(かたぶ)かんを見んも、老後の恨み、臨終(りんじゅう)の障(さわ)りともなりぬべければ、明日の合戦に先懸(さきが)けして、一番に討死(うちじに)して、その名を末代(まつだい)に残さんと存ずるなり」(「太平記1・第六巻・九・P.303」岩波文庫 二〇一四年)

注目したいのはこの饒舌さの中に見える過剰なほどの古典の力である。「天満てるを欠く理(ことわ)り」は通例の指摘通り「易経」からの引用である。内容が似ているので二箇所拾っておこう。第一に。

「日中則呉、月盈則食

(書き下し)日中(ちゅう)すればすなわち呉(かたむ)き、月盈(み)つればすなわち食(か)く。

(現代語訳)日は中天まで昇ればやがて傾き、つきも盈ちればやがて欠ける」(「易経・下・豐(ほう)・P.154~155」岩波文庫 一九六九年)

第二に。

「天道虧盈而益謙

(書き下し)天道は盈(えい)を虧(か)きて謙に益(ま)し

(現代語訳)天の道は盈ちたものを虧(か)いて謙(足らざるもの)を益し」(「易経・上・謙(けん)・P.177~178」岩波文庫 一九六九年)

ところで「太平記」に描かれた戦闘行為についてはまだ何一つ述べたわけではない。戦場でさえなお「茶と歌と」を介した「婆娑羅・風流」はより一層種々の洗練と専門領域化への可能性を発散しながら圧倒的存在感を放っている。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・佐々木道誉と楠正儀/婆娑羅から幽玄へ

2021年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
康安一年(一三六一年)の七夕(たなばた)で佐々木道誉は足利義詮を自邸の茶会へ招き、前々から義詮と約束していた歌会を反故にされた細川清氏(きようじ)。道誉と清氏とは幾つかの所領を巡って以前から対立していたことと重なった上に将軍義詮からも疑惑の目を向けられて南朝方へ寝返った。第四次入京を果たした南朝方の武士団は清氏と楠正儀(くすのきまさのり)とが先頭に立った。この時の入京では一度も戦闘が行われていないので幕府方の道誉の宿舎も、道誉の代わりにそのまま別の武士と入れ換わるだけに過ぎない形式的なものだ。

道誉は思う。おそらくこの宿所にはそれなりの大将クラスが入れ換わりに入って来るに違いない。都落ちする側になったからといって乱暴狼藉の限りを尽くしたまま放置して逃げるのではなく、逆に立派に整え置いて見せるのが礼儀だろうと考えた。といっても道誉の場合、他の大名らが頭の中に思い描く「立派」とは、言葉が同じだというばかりであって、その内容はまるで違っている。間口六間の会所(かいしょ)はいつも茶会・連歌会が催される豪華な座敷。それが六部屋。そのすべての内装に「本尊(ほんぞん)=中央に掛ける絵画」とその「両脇に置く脇絵」を掲げ、「花瓶」、「香炉」、「鑵子(かんす=茶釜)」、「建盞(けんさん=天目茶碗)」という茶会仕様に加え、書院には「王羲之(おうぎし)」や「韓愈(かんゆ)」の書を描け、「宿直(とのい)」向けに沈丁花から取れる香料を詰めた枕や貴重な絹織物で仕立てた寝具を用意、離れた所に設置される武士らの詰所には「鳥、兎(うさぎ)、雉(きじ)、白鳥(くぐい)」と「三棹(みさお=食用の鳥類を並べ架けた三本の棹)」を設え、「三石(さんごく)ばかりなる大筒(おおづつ)」に満々の酒を湛えて準備した。屋敷には「遁世者(とんせいしゃ)二人(ににん)」を留め置いて「誰が来たとしても邸宅に入る者には酒一献を差し上げるように」と申し付けて邸宅を後にした。

「佐渡判官入道道誉(さどのほうがんにゅうどうどうよ)は、都を落ちける時、わが宿所(しゅくしょ)へは、定めてさもとあるある大将ぞ入り替はらんずらん、尋常(じんじょう)に取りしたためて見すべしとて、六間(むま)の会所(かいしょ)六所(ろくしょ)に、大文(だいもん)の畳を敷き並べ、本尊(ほんぞん)、脇絵(わきのえ)、花瓶(かびん)、香炉(こうろ)、鑵子(かんす)、建盞(けんさん)に至るまで、一様(いちよう)に皆置(お)き調(ととの)へて、書院には、羲之(ぎし)が草書(そうしょ)の碣(けつ)、韓愈(かんゆ)が文集(ぶんしゅう)、眠蔵(めんぞう)には、沈(じん)の枕に緞子(どんす)の宿直物(とのいえもの)、十二間(けん)の遠侍(とおさぶらい)には、鳥、兎(うさぎ)、雉(きじ)、白鳥(くぐい)、三棹(みさお)懸け並べ、三石(さんごく)ばかりなる大筒(おおづつ)に酒を湛(たた)へ、遁世者(とんせいしゃ)二人(ににん)留(とど)め置(お)きて、『誰(たて)にても、この宿所へ入らんずる人に、一献(いっこん)勧めよ』と、申し置きたる」(「太平記5・第三十六・十六・P.466」岩波文庫 二〇一六年)

「三石(さんごく)」は一石が約百八〇リットルだから合計約五四〇リットル。一升瓶にして三百本ばかりになる。「大筒(おおづつ)」は太い竹筒。また「遁世者(とんせいしゃ)」は同朋衆(どうぼうしゅう)のこと。時宗の徒や能の道阿弥・世阿弥のように諸芸諸道を生業として生きる芸能民。天竜寺の作庭に当たったのは夢窓疎石だが、実際に石を運び草木を配置する作業に当たった山水もその道専門の芸能民。また「竹筒」=「竹細工」はそもそもそういった職業的芸能民が手がける代表的なもの。蓑・笠・魞(えり)などもそうだ。

「巫女(みこ)・傀儡(くぐつ)・白拍子(しらびょうし)」らも「公界(くがい)」が「苦界(くがい)」化するまでは堂々と殿上人の邸宅で歌舞音曲を披露している。「梁塵秘抄」から。

「ほとけは常にいませども うつつならぬぞあはれなる 人のおとせぬあかつきに ほのかに夢にみえたまふ」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・二六・P.26」新潮社 一九七九年)

「嵯峨野(さがの)の饗宴(きょうえん)は 鵜舟(うぶね) 筏師(いかだし) 流れ紅葉(もみぢ) 山陰(やまかげ)ひびかす箏(しょう)の琴(こと) 浄土の遊びに異(こと)ならず」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三〇九・P.131」新潮社 一九七九年)

「熊野出(い)でて 切目(きりめ)の山の梛(なぎ)の葉し 万(よろづ)の人のうはきなりけり」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・五四七・P.215」新潮社 一九七九年)

また、書院に王羲之や韓愈の掛け物を掛けておくのは、利休の茶道が成立する遥かに以前に道誉が茶会に取り入れていた趣向。その精神は利休が仮託した茶書「南方録」に受け継がれた。こうある。

「掛物ほど第一の道具はなし。客・亭主共に茶の湯三昧(ざんまい)の一心得道の物(心得をえるに大切な物)也」(「南方録」『日本の茶書1・P.389』東洋文庫 一九七一年)

とはいえ細川清氏にとって道誉は許し難い敵。だがその宿所に入った楠正儀(くすのきまさのり)は道誉がしつらえておいた風流なしつらえに痛く感銘を受ける。その後、南朝方が引き上げて再び足利方が入京してくることになった時、屋敷に戻ってくる道誉の心づかいを忘れず、正儀は以前にも増して「六所の飾り」に気を配り「秘蔵の鎧に白太刀(しろたち)一振(ひとふり)」を添えて交代した。

「道誉は、相模守(さがみのかみ)が当敵(とうてき)なれば、この宿所をば、こぼち焼くべしと憤(いきどお)りけれども、楠、この情けを感じて、その儀を止めしかば、泉水(せんずい)の木の一本をも損ぜず、畳の一帖(じょう)も取り散らさで、その後(のち)、幾程(いくほど)なくして楠また落ちし時も、六所の飾り、遠侍の酒肴(さけさかな)、先のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀(しろたち)一振(ひとふり)置いて、郎等(ろうどう)二人留め置き、判官入道道誉に交替してぞ帰りける」(「太平記5・第三十六・十六・P.466~467」岩波文庫 二〇一六年)

京の街路では道誉の振る舞いについて「情け深く風情(ふぜい)あり」とする人々がいる一方、「古博奕打(ふるばくちう)ち〔道誉〕に出し抜かれて、楠、鎧と太刀とを取られた」と正儀を嘲笑する人々もいた。

「道誉がこの振る舞ひ、情け深く風情(ふぜい)ありと、感ずる人もあり、例の古博奕打(ふるばくちう)ちに出し抜かれて、楠、鎧と太刀とを取られたりと、笑ふ族(やから)も多かりける」(「太平記5・第三十六・十六・P.467」岩波文庫 二〇一六年)

風流と感じる人々もいるしただ単に道誉の老練な政治手腕にまんまとやられたと捉える人々もいる。どちらも幾らかの事実を物語ってはいるだろう。しかし風流とだけ言ってしまえば朦朧としてわかりにくくなるのだが、この時に楠正儀の心を打った感覚を「幽玄」という言葉へ置き換えるとまた違って思えてくるはず。正儀は後に足利義満の臣下に取り立てられるわけだが、同時に義満の庇護のもとで一世風靡した世阿弥は能楽論「花鏡」の中で「幽玄」という言葉こそ使っていない箇所ではあるものの、「無心の能」、「無文の能」、「さびさびとしたる中(うち)に、何(なに)とやらん感心のある所あり。是(これ)を、冷(ひえ)たる曲とも申(まうす)也」と述べている。

「心(しん)より出来(いでく)る能とは、無上の上手の申楽(さるがく)に、物数(ものかず)の後、二曲も物まねも儀理(ぎり)もさしてなき能の、さびさびとしたる中(うち)に、何(なに)とやらん感心のある所あり。是(これ)を、冷(ひえ)たる曲とも申(まうす)也。ーーー是は只(ただ)、無上の上手(じやうず)の得たる瑞風(ずゐふう)かと覚(おぼ)えたり。これを、心(しん)より出来(いでく)る能とも云(いひ)、無心の能とも、又は無文の能とも申(まうす)也」(日本古典文学大系「花鏡」『歌論集/能楽論集・P.431~432」岩波書店 一六六一年)

中世になると一方に「花の歌人」・西行が出てきた。しかし西行人気の影に「月の歌人・明恵」がいたことを忘れてはならない。元仁元年(一二二四年)の冬の歌。幼くして両親を亡くした明恵は孤独な夜の座禅の合間に月の光が自分に寄り添ってくれていると感じる。明恵は山中に響く狼の咆哮にすら怖さを感じなくなる。さらに冬の月に向かい、風が身にしみないか、雪は冷たくないかと思いやる。

「元仁元年十二月十二日ノヨル、天クモリ月クラキニ花宮殿ニ入(いり)テ坐禅ス。ヤウヤウ中夜ニイタリテ出観ノノチ、峰ノ房ヲイデテ下房ヘカヘル時、月雲(くも)マヨリイデテ光雪(ゆき)ニカカヤク。狼ノ谷ニホユルモ、月ヲトモトシテイトオソロシカラズ。下房ニ入(いり)テノチ又タチイデタレバ、月又クモリニケリ。カクシツツ後夜ノカネノオトキコユレバ、又峰ノ房ヘノボルニ、月モ又雲ヨリイデテ道(みち)ヲオクル。峰ニイタリテ禅堂ニ入ラムトスル時、月又雲ヲオヒキテ向(むかひ)ノ峰ニカクレナムトスルヨソオヒ、人シレズ月ノ我ニトモナフカト見(み)ユレバ、二首、

雲ヲイデテ我ニトモナフ冬ノ月風ヤ身(み)ニシム雪ヤツメタキ」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・一〇〇」『中世和歌集・鎌倉編・P.246』岩波書店 一九九一年)

また、座禅の合間にそろそろ夜明けを迎えようとしていた時、明恵自身はもう峰の僧房に入るから月もまた山の端に入ってしまうがいい。こうした毎夜、わたしとそなた(月)とは友として生きていこうと月に親しむのである。

「山ノハニカタブクヲ見(み)オキテ、ミネノ禅堂ニイタル時、

山ノハニワレモイリナム月モイレヨナヨナゴトニマタ友(とも)トセム」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・一〇一」『中世和歌集・鎌倉編・P.246~247』岩波書店 一九九一年)

さらに座禅の合間に外へ出てみると、暁方の月がみえる。その皓々たる光は既に月の光が明恵を照らし出しているのではなく逆に明恵が月の光となって月を照らし上げているのではないか、或いは明恵と月の光とはもう渾然一体となって溶け合っているに違いないという一点の曇りもない心境に没入して平穏を得ている。

「コノアカツキ禅堂ノ中ニイル。禅観ノヒマニマナコヲヒラケバ、アリアケノ月ノヒカリ、マドノマヘニサシタリ。ワガ身(み)ハクラキトコロニテ見(み)ヤリタレバ、スメルココロ月ノヒカリニマギルルココチスレバ、

クマモナクスメルココロノカカヤケバワガ光(ひかり)トヤ月オモフラム」(新日本古典文学体系「明恵上人歌集・一〇八」『中世和歌集・鎌倉編・P.249~250』岩波書店 一九九一年)

道誉と楠正儀とは金蘭の織りなす華麗な芸能の世界と数えきれない屍体で埋まっている洛中で、おそらく何か同じものを見たのである。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・道誉/一休/存在論的アナーキー

2021年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
暦応一年(一三三八年)の秋、佐々木道誉一党は紅葉狩りの帰路、門跡寺院・妙法院に火を放ち全焼させた。暦応三(一三四〇年)年十月、道誉の上総国(かずさのくに)山辺郡(やまのべのこおり)への流罪が決定した。上総国(かずさのくに)山辺郡(やまのべのこおり)は今の千葉県山武郡。道中、道誉の見送りに臣下ら若党(わかとう)三百余騎が前後に付き従った。近江の国分寺付近を通過していく時の様子が描かれている。

若党らは武士が身につける武具に「猿の皮」を張り、腰の後ろに当てる毛皮にも「猿の皮」を使っている。というのも、常から妙法院の守護に当たっており、庭園に入り込んだ道誉の部下を袋叩きにして放り出しのが比叡山から派遣されていた屈強な僧たちであり、さらに比叡山の麓の守護神として祀られているのが日吉山王社の猿だからである。道誉の一向は流罪で流されていく道中でなお相手を皮肉って見せたわけだ。ところどころで酒宴を開き、遊女らを舞い踊らせながら、だらだらと下向していった。しかし「太平記」はその様子に苦々(にがにが)しさを込めつつも、一方で「美々(びび)しく見えたりける」と、これまで見たことのない祝祭空間の移動を文章で中継するのである。

「道誉、近江(おうみ)の国分寺(こくぶんじ)に着きける時、若党(わかとう)三百余騎、打ち送りのためとて、前後に相順(あいしたが)ふ。その輩(ともがら)、悉(ことごと)く猿の皮の靱(うつぼ)に、猿の皮の腰当(こしあて)をして、手ごとに鶯(うぐいす)の籠を持たせたり。道々に、酒肴(さけさかな)を儲(もう)け、傾城(けいせい)を弄(もてあそ)びて、事(こと)の体(てい)、尋常(よのつね)の流人には替はつて、美々(びび)しく見えたりける」(「太平記3・第二十一巻・二・P.411」岩波文庫 二〇一五年)

延文四年(一三五九年)十一月、畠山道誓(はたけやまどうせい)率いる東国軍入京シーン。山科・四宮(しのみや)辺りから東山を東海道沿いに進み鴨川東側の粟田口(あわたぐち)まで「桟敷(さじき)を打ち続け、車馬(しゃば)を立て並べ、見物の衆群(ぐん)」が沿道を埋め尽くした。どの武士団も風流を凝らした衣裳で続々登場。なかでも注目されたのは「河越弾正少弼(かわごえだんじょうのしょうひつ)」。馬の鞍は銀飾りの「白鞍(しろくら)」。太刀も銀細工でかざられた「白太刀(しろたち)」。鞘は虎皮仕様。さらに馬の毛を「濃紫(こむらさき)、薄紅(うすくれない)、萌黄(もよぎ)、水色(みずいろ)、豹文(ひょうもん)」などに染め分けて行列させる。入城行進というよりもはやパフォーマンス。

「路次(ろし)に二十日余りの逗留(とうりゅう)あつて、京着(きょうちゃく)は、十一月二十八日の午刻(うまのこく)と聞こえしかば、摂政関白(せっしょうかんぱく)、月卿雲客(げっけいうんかく)を始めとして、公家武家の貴賤上下(きせんじょうげ)、四宮河原(しのみやがわら)より粟田口(あわたぐち)まで、桟敷(さじき)を打ち続け、車馬(しゃば)を立て並べ、見物の衆群(ぐん)をなす。げにも聞きしに違(たが)はず、天下久しく武家一統(ぶけいっとう)となつて、富貴(ふき)に誇りし武士どもが、これを晴(はれ)と出で立つたれば、馬、物具(もののぐ)、衣裳(いしょう)、太刀、刀、金銀を延べ、綾羅(りょうら)を飾らずと云ふ事なし。中にも、河越弾正少弼(かわごえだんじょうのしょうひつ)は、余りに風情(ふぜい)を好んで、引き馬三十疋、白鞍(しろくら)置いて引かせけるに、濃紫(こむらさき)、薄紅(うすくれない)、萌黄(もよぎ)、水色(みずいろ)、豹文(ひょうもん)、色々に馬の毛を染めて、皆舎人(とねり)八人に引かせたり。その外(ほか)の大名ども、一勢一勢(いちぜいいちぜい)引き分けて、或いは同じ毛の鎧着て、五百騎、千騎打つもあり、或いは五尺、六尺の白太刀(しろたち)に、虎皮(とらがわ)の尻鞘(しりざや)引(ひ)つ籠(こ)み、一様(いちよう)に二振(ふたふり)帯(は)き副(そ)へて、百騎、二百騎打つもあり。ただ、孟嘗君(もうしょうくん)が客(きゃく)悉(ことごと)く珠(たま)の履(くつ)を帯(お)びて、春信(しゅんしん)が富をあざむきしも、かくやと覚えて目を驚かす」(「太平記5・第三十四・二・P.284~285」岩波文庫 二〇一六年)

ちなみに「孟嘗君(もうしょうくん)」とあるのは「春申君(しゅんしんくん)」の誤り。「史記列伝」にこうある。趙の平原君(へいげんくん)が楚を脅かしてやろうと派手に着飾った使者を送り込んだところ、成り行きを読んでいた楚の春申君(しゅんしんくん)は三〇〇〇人ばかりの客人に真珠をあしらった履(くつ)を履かせて出迎えたため、逆に趙の使者は恥をかくことになったというエピソード。

「このころになると、楚の勢いはまた強くなった。趙の平原君(へいげんくん)から使者が来たことがあった。春申君はは特別の宿舎に使者を泊めた。趙の使者は楚の国に見せびらかそうと、瑇瑁(たいまい)のかんざしをさし、刀のさやに真珠をちりばめていたが、春申君の客分たちを招待した。かれの客分たちは三千余人。その上位の人々はすべて真珠をかざりにした靴をはいて面会に来、趙の使者は面目を失った」(「春申君列伝 第十八」『史記列伝1・P.302』岩波文庫 一九七五年)

一方、破戒僧として有名な一休。それは一休なりの逆説に満ちた方法なのだが、女色だけでなく男色も旺盛だったようだ。列挙してみよう。

「同居(どうご)する牛馬、犬(いぬ)は雞(けい)を兼(か)ぬ、白昼(はくちゅう)の婚姻(こんいん)、十字街。人道(じんどう)は、悉(ことごと)く是れ畜生道にして、月は落つ、長安、半夜の西。

(現代語訳)男女が同居して、牛馬や犬のように、雞姦(男色)をまじえて、まっ昼間から、街角でつるみあう。人の世が、すべて畜生世界となって、月が長安の西におちる、半夜までつづくのだ」(一休「狂雲集・二七五」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.155』中央公論社 一九八七年)

「痛飲、誰家(たれ)が、楼上(ろうじょう)の謳(うた)ぞ、少年の一曲、心頭(しんとう)を乱す。

(現代語訳)大酒をのんで、楼上で歌っているのは、何処の誰か、男色の一ふしが、心をかきみだすのである」(一休「狂雲集・三五〇」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.192』中央公論社 一九八七年)

「淫乱(いんらん)、天然(てんねん)、少年を愛す、風流の清宴、花前に対す。肥(こ)えたるは玉環(ぎょっかん)に似(に)、痩(や)せたるは飛燕(ひえん)、交りを絶つ、臨済正伝(しょうでん)の禅。

(現代語訳)生まれつきの色好みが高じて、男色を楽しむようになり、生命花やぐ宴席では、いつも花のような(君たちが)相手。ふとった男の子は、玉環とよばれた楊貴妃、細っそりした男の子は、漢の孝成帝に仕えた飛燕そっくりで、(君たちと遊んでいる限り)臨済禅の正室など、ぷっつり縁が切れている」(一休「狂雲集・四三三」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.233』中央公論社 一九八七年)

「臨済大人(りんざいたいじん)の禅に参じて従(よ)り、元字脚頭(げんじきやくとう)、心念の前。即今(そつこん)若し我が門の客と作(な)らば、野老(やろう)の風流、美少年。

(現代語訳)臨済大先生の禅を学んでからというもの、文字の根になる心のことが、いつも気になって仕方がない。今ごろ、ボクのところに入門するものは、田夫野人の花やぎか、男色の少年といった連中だ」(一休「狂雲集・四六一」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.248』中央公論社 一九八七年)

「臨済の門派、誰か正伝なる、風流、愛す可し、少年の前。濁醪(だくろう)一盞(いっさん)、詩千首、自ら笑う、禅僧は禅を知らず。

(現代語訳)臨済禅の末流のうち、いったい誰が正統派かと、生命花やぐ美少年を相手に、(あるときふと)考えたのである。にごり酒を一杯のむたびに、詩が千首もできあがって、禅坊主が禅を知らぬのも、当然のことと笑いこけた」(一休「狂雲集・四六六」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.251』中央公論社 一九八七年)

「貪(むさぼ)り看(み)る、少年の風流、風流は是れ我が好仇(こうきゆう)なり。

(現代語訳)生命花やぐ少年を、飽くことなしに眺めていると、色好みこそボクの、よきつれあいと知る」(一休「狂雲集・五〇三」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.270』中央公論社 一九八七年)

「風流年少の境に貪著(とんじゃく)して、自然(じねん)に一点の漚和(おうわ)無し。

(現代語訳)生命花やぐ少年を相手に、愛欲の限りを尽しても、自然にもはや、ただの一つも方便というものはない」(一休「狂雲集・五三五」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.287~288』中央公論社 一九八七年)

ただし、詩作にしても春夏秋冬を歌うにしても禅に没頭するにしても、社会的地位や名誉獲得のためであってはけっしてならないという。とりわけ禅と金銭的利益とはまったく相入れないと述べる。後々、いろんな茶書の中に一休の名が出てくるのはそんな茶禅一如の精神が受け継がれたからかもしれない。

「売弄(まいろう)して深く蔵(ぞう)す、貪欲の心、心中密々に、黄金を要(もと)む。私情、禅味、風流の誉れ、秋思、春愁、雲雨(うんう)の吟(ぎん)。

(現代語訳)どんなに表をつくろっても、心の奥深くでは、利益を得ようとし、心の中でこっそりと、金銭を求めている。詩を愛し、禅をよろこび、名誉に花やぎ、秋の紅葉を思い、春の花を悲しみ、雲や雨を歌うのも」(一休「狂雲集・三八六」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.210』中央公論社 一九八七年)

道誉にせよ一休にせよ両者はまったく違った方向で活躍したように見える。しかし二人に共有する揺るぎない一貫性という点では、道元のいう次の存在論が当てはまるように思われるのである。

「いはくの今時は、人々(にんにん)の而今(しきん)なり。令我念過去未来現在(りやうがねんくわこみらいげんざい)<我をして過去、未来、現在を念ぜしむ>いく千万なりとも、今時なり、而今なり。人々の分上は、かならず今時なり」(「正法眼蔵1・第十・大悟・P.217~218」岩波文庫 一九九〇年)

「ここに云われる今時とは、人々の今である。人の心は過去未来現在のすべてにわたっているとしても、過去未来は現在である、今の今である。人々の身の上は、かならず現在である」(〔現代文訳〕正法眼蔵1・第十・大悟・P.183~184」河出文庫 二〇〇四年)

さらに存在論の点から次の引用を補っておこう。

「いはゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき、われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。時もし去来(こらい)の相にあらずは、上山の時は有時(いうじ)の而今(しきん)なり。時もし去来の相(そう)を保任(ほうにん)せば、われに有時の而今(しきん)ある、これ有時なり。ーーー要をとりていはば、尽界にあらゆる尽界は、つらなりながら時々なり。有時なるによりて吾有時(ごいうじ)なり」(「正法眼蔵2・第二十・有時・P.49~50」岩波文庫 一九九〇年)

「いうところの山をのぼり河をわたった時、その時に自分が存在していたのだから、その時の自分にはその時があったはずである。自分がその時に存在したのだから、その存在からその時は離れることがないはずである。時というものが去来するものでないとして、山に登った時は有時の今である、時というものが去来するものであるとして、自分に有時の今がある、即ちそれぞれに有時である。有時は去来とは関係がない、有時には間断がない。これが有時である。ーーー要をとって云えば、全世界にあるところの全存在は、連なりながら時である。時は即ち存在であり存在はすべて時であることによって我が実存は時である、吾有時(ごうじ)である」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十・有時(うじ)・P.87~89」河出文庫 二〇〇四年)

道誉も一休もいずれにせよ過剰=逸脱という点で溢れ出るアナーキー性を体現している。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・日本中世芸能の胎動

2021年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
康安一年(一三六一年)、将軍足利義詮は七夕(たなばた)の日に細川相模守清氏(ほそかわさがみのかみきようじ)の館で七十番歌合の会に参加する約束だった。清氏はそれに相応しい宴遊の準備を整えていた。諸々の珍膳を用意し、歌詠みに秀でた風流人らも呼び集め、各所に案内も出していた。ところがその同じ七夕の日、佐々木道誉が足利義詮を自分の宿所に招いて「七所の粧(かざ)り」で盛大な祝祭を催した。「七所(しちしょ)」は七夕の「七」に掛けたもの。会所や書院などそれぞれ七箇所の建物を飾り立てた。将軍足利義詮は道誉の誘いに乗ってしまい、以前から細川清氏と約束していた歌合の会への出席は、またの機会にでも出来ると考えて反故にしてしまう。準備万端整えて待っていた清氏は無視された格好になり、ますます道誉に憎悪を抱く。

「今年七夕(たなばた)の夜は、新将軍、相模守が館(たち)へおはして、七十番の歌合(うたあわせ)をして遊ぶべき由(よし)、かねて仰せられければ、相模守、誠(まこと)に興(きょう)じ思(おも)ひて、様々(さまざま)の珍膳(ちんぜん)をこしらへ、歌読みども数十人誘引(ゆういん)して、すでに案内を申しける処(ところ)、道誉また、この日、わが宿所を七所(しちしょ)飾りて、七番菜(しちばんさい)を調(ととの)へ、七百種の課物(かけもの)を積んで、七十服の本非(ほんぴ)の茶を飲むべき由申して、将軍を招請(しょうしょう)し奉りける間、歌の会は、よしや後日(ごじつ)にもありなん、七所の粧(かざ)りは珍しき遊びなるべしとて、兼日(けんじつ)の約束を引き違へ、道誉が方(かた)へおはしければ、相模守(さがみのかみ)が用意調子それて、数寄(すき)の人も空(むな)しく帰りにけり」(「太平記5・第三十六・九・P.437~438」岩波文庫 二〇一六年)

ここでもメインは茶会。「七番菜(しちばんさい)」は闘茶で七番に渡って出される御菜(おかず)の膳。「課物(かけもの)」は「賭物」で、闘茶の際の賭博の景品。それが「七百種」積まれたとある。「本非(ほんぴ)」は栂尾(とがのお)・宇治(うじ)を「本場の茶」、それ以外の産地のものを「非茶」として、両者を言い当てる賭け。それに用意された茶が七十回分。飾り付けは次のように「喫茶往来」で紹介されているタイプのものに七夕ならではの趣向を織り込んだものだったと思われる。

「爰(ここ)に奇殿有り。桟敷(さじき)二階に崎(そばだ)って、眺望は四方に排(ひら)く。是れ則ち喫茶の亭、対月の砌(みぎり=場所)なり。左は、思恭の彩色の釈迦(しゃか)、霊山説化の粧(よそおい)巍々(ぎぎ)たり。右は、牧谿(もっけい)の墨画(すみえ)の観音、普陀(ふだ)示現(じげん)の姿蕩々(とうとう)たり。普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)脇絵を為し、寒山(かんざん)・拾得(じっとく)面餝(めんぼう=おもてかざり)を為す。前は重陽(陰暦九月九日の節句、この場合は菊の異称)、後は対月(明月に向かう)。言わざるは丹果の脣(くちびる=仏の顔かたちの一つをいう)吻々たり。瞬(またたき)無し青蓮の眸(ひとみ=仏の目)妖々たり。卓には金襴(きんらん)を懸(か)け、胡銅の花瓶(かびん)を置く。机には錦繍を敷き、鍮石(ちゅうじゃく=しんちゅう)の香匙(こうし=香道具の一つ、こうさじ)・火箸(こじ)を立て、嬋娟(せんけん=あでやか)たる瓶外の花飛び、呉山の千葉(沢山の木の葉)の粧(よそおい)を凝(こら)す。芬郁(ふんいく=香りのよい)たる炉中の香は、海岸の三銖(さんしゅ=かすかな)の煙と誤つ。客位の胡床(こしょう=いす)には豹(ひょう)皮を敷き、主位の竹倚(竹のいす)は金沙(美しい砂)に臨む。之に加えて、処々の障子に於ては、種々の唐絵を餝(かざ)り、四皓(しこう)は世を商山の月に遁(のが)れ、七賢は身を竹林の雲に隠す。竜は水を得て昇り、虎は山に靠(よ)って眠る。白鷺は蓼(たで)花の下に戯(たわむ)れ、紫鴛(おしどり)は柳絮(りゅうじょ)の上に遊ぶ。皆日域(日本)の後素(絵画)に非ず。悉(ことごと)く以て漢朝の丹青(彩色画)。香台は、並(なら)びに(ならんで)衝(つい=堆)朱(しゅ)・衝紅(ついこう)の香箱。茶壺は各(おのおの)栂尾(とがのお)・高尾(たかお)の茶袋。西廂(せいしょう=西側の座敷)の前には一対の餝棚(かざりだな)を置き、而して種々の珍菓を積む。北壁の下には、一双の屏風を建て、而して色々の懸物(かけもの)を構(かま)う。中に鑵子(かんす=ちゃがま)を立てて湯を練り、廻りに飲物を並べて巾(ふきん)を覆(おお)う」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.122~123』東洋文庫 一九七一年)

義詮に裏切られた清氏はさらに、これまで道誉との間で所領を巡る争いがこじれて解消できていないために鬱積した怨念もあった。そしてまた清氏はもともと傲慢な性格だったようで、二人の子の名付け親になったのだが、兄に八幡六郎(はちまんろくろう)、弟に八幡八郎(はちまんはちろう)と名付けた。ところがそれは将軍義詮からすれば、かつて源頼義が八幡神・賀茂明神・新羅明神にあやかって三人の子に八幡太郎(はちまんたろう)、賀茂次郎(かもじろう)、新羅三郎(しんらさぶろう)と名付けて天下取りを狙った歴史を思い起こさせないではおれない。義詮は清氏を警戒して清氏の言動を不愉快に思うようになった。清氏がそんな名付けを本当にやるとは思ってもいなかった道誉から見ればこれは面白いことになったと心の中で独り笑っていた。清氏は抑えきれない怒りを抱えてこれまた南朝方へ寝返ってしまう。しかしそんな道誉の婆娑羅(ばさら)ぶりを見聞きしていた幼い世阿弥は、後々の芸能発展の祖として道誉の名を記録に残すことになる。

「一忠(いつちゆう)<でんがく>・清次(きよつぐ=観阿)・犬王(いぬわう=道阿)・亀阿(きあ)、是(これ)、当道(たうだう)の先祖といふべし。彼(かの)一忠を、観阿は、わが風體(ふうてい)の師也と申されける也。道阿(だうあ)又一忠が弟子(でし)也。一忠をば世子(ぜし)は見ず。京極(きやうごく)の道與(だうよ)、海老名(ゑびな)の南阿彌陀佛(なあみだぶつ)など物語(ものがたり)せられしにて推量(すいりやう)す」(「申楽談儀」『日本古典文学大系・歌論集/能楽論集・P.486」岩波書店 一九六一年)

中世芸能は戦乱の中から戦乱とともに出現したわけだが、その形成過程で思想的支柱として禅の哲学からも浄土信仰からも取り入れる価値のあるものはたっぷり吸収している。道元「正法眼蔵」に次の箇所がある。

「しるべし、この『東山水上行』は仏祖の骨髄なり。諸水は東山の脚下(きやくか)を現成(げんじやう)せり。このゆゑに、諸山くもにのり、天をあゆむ。諸水の頂寧(ちんにん)は諸山なり、向上(かうじやう)直下(ちよくか)の行歩(ぎやうぶ)、ともに水上なり。諸山(しょせん)の脚尖(きやくせん)よく諸水を行歩し、諸水を趯出(ちつしゆつ)せしむるゆゑに、運歩七縦(じゆう)八横(わう)なり、修証即不無(しゆしようそくふむ)なり」(「正法眼蔵2・第二十九・山水経・P.191」岩波文庫 一九九〇年)

世阿弥はどこまで行っても芸能者であり決して僧侶になろうとしたわけではない。それでもなお禅でいう「山水一如」の思想は能を通して世阿弥によって出現したといえるのである。石井恭二による現代語訳は次のとおり。

「知るべきである、この『東山水上行』は、覚者の覚りの真髄を語るものである。諸々の水は東山の足元に現成していると云うのだ。そうであるから、諸々の山は雲に乗り、天を歩むのだ。諸々の水の真骨頂を現わすのは諸々の山である。山水とは山と水ではない、山水一如である。上に向いて歩むのも直下に向いて歩むのも、ともに水上を歩むのだ。諸々の山の脚先は諸々の水を歩み、そこから諸々の水を踊出せしめることによって、その運歩は自由自在となり、礙(さまた)げるものはない」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十九・山水経・P.226」河出文庫 二〇〇四年)

また、詩人・蘇軾(そしょく)が渓流の音を聴いて悟りを得たエピソードも興味深い。蘇軾は僧ではないし、悟りを得た後も僧ではなく詩人だった。

「この居士の悟道せし夜は、そのさきのひ、総禅師と無情説法話を参問せしなり。禅師の言下(ごんか)に翻身(ほんしん)の儀いまだしといへども、渓声のきこゆるところは、逆水(ぎやくすい)の波浪(はらう)たかく天をうつものなり。しかあれば、いま渓声の居士をおどろかす、渓声なりとやせん、照覚の流瀉(りうしや)なりとやせん。うたがふらくは照覚の無情説法話、ひびきいまだやまず、ひそかに渓流のよるの声にみだれいる。たれかこれ一升なりと辦肯(はんけん)せん、一海なりと朝宗(てうそう)せん。畢竟(ひつきやう)じていはば、居士の悟道するか、山水の悟道するか。たれの明眼(みやうがん)あらんか、長舌相(ちやうぜつそう)、清浄身を急著眼(きふぢやげん)せざらん」(「正法眼蔵2・第二十五・渓声山色・P.110」岩波文庫 一九九〇年)

重要なのは「たれかこれ一升なりと辦肯(はんけん)せん、一海なりと朝宗(てうそう)せん」であって、現代語訳で「誰がこの谷水の量が一升であるなどと考えるだろうか、一つ海が彼に流れ入ったと考えようか」とあるところ。「渓声山色」において自然とは何かを知るとはどういうことか。今の言葉に変換すれば、近現代資本主義が常に行わずにはいられないあらゆるものの「数値化」の欲望と、自然生態系の全運動とはそもそも相容れないということを知るということになろう。自然生態系の中に溶け込んで生きている限り、必ず生じてくるありとあらゆる「剰余=数値化不可能なもの」として森羅万象は理解されるのである。

「蘇軾が、悟りを得た夜は、そのさきの日に、彼は総禅師に無情ということの法話を聞いていたのである。禅師の言下に直ちに悟り得たのではなかったのだが、渓流の音を聞いて、禅師の言葉は、逆巻く波浪が高く天をうつように彼に理解されたのである。そうであるから、渓流の音は蘇軾をはっとさせた、渓流の音、それとともに禅師の言葉が流れそそいだのであろう。総禅師の無情ということの法話の響きは、いまだ鳴り止まず、渓流の音にまぎれて彼に乱れ入ったのだ。誰がこの谷水の量が一升であるなどと考えるだろうか、一つ海が彼に流れ入ったと考えようか。窮まるところ『渓声山色』の無情は無情の透脱である、有情の透脱である。情そのものである。蘇軾が情の透脱を得たか、蘇軾のうちなる山水が情を透脱したか。誰か明眼の人があれば、この偈の長舌相、清浄身の語句を直下に了解しないことがあろう」(〔現代文訳〕正法眼蔵2・第二十五・渓声山色・P.154~155」河出文庫 二〇〇四年)

道元の思想は森羅万象に溶け込んでいながら同時に自然を対象化するという離れ業を演じている。透徹した目を持っている。見るための目ではなく観ずるという意味で視るのである。それはほとんど死に直面しつつなお眼前の事態に向き合うことができる目である。例えば、一休が大徳寺にいた時、修行僧の一人が自殺した。冤罪に問われそうになった一休は山中に逃れて自殺した。未遂に終わったが。

「文安丁卯(ぶんあんていぼう)の秋、大徳精舎に一僧有り、故(ゆえ)無(な)うして自殺す。事を好むの徒、遂に之(これ)を官に譖(しん)して、其の余殃(よおう)に繋(かか)って囚禁(しゅうきん)に居する者、七、五輩。吾が門の大乱と為(す)るに足る。時の人、喧(かまびすし)く伝う。予、之を聞いて、即日、迹(あと)を山中に晦(くら)ます。其の意、蓋(けだ)し忍びざるに出ざる耳(のみ)。

(現代語訳)文安丁卯(一四四七年)の秋、大徳寺の伽藍で、ある僧が理由なしに自殺した。ものずきの連中が、すぐに役所に密告した。まきぞえをくって、五、六人の仲間が牢に入れられた。宗門の乱れだとばかりに、世間がさわぎたてた。ボクはそれをきくと、すぐに山中に身をかくした。そうするよりほか、なかったのである」(一休「狂雲集・九四」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.57』中央公論社 一九八七年)

そういう人は或る種独特の透徹した目を獲得するに至ることがある。芥川龍之介は死んでしまったが、死の直前までそのような目を持っていた。有名な言葉として取り上げられてから、何か気の利いたキャッチ・コピーのようになってしまったため、もはや使われなくなっているが、次に見えるように「末期(まつご)の目」と呼ばれる。

「我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂(いはゆる)生活力と云ふものは実は動物力の異名(いみやう)に過ぎない。僕も亦(また)人間獣の一匹である。しかし食色(しよくしよく)にも倦(あ)いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ『生きる為に生きてゐる』我々人間の哀れさを感じた。若(も)しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾(むじゆん)を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期(まつご)の目に映るからである」(芥川龍之介「或旧友へ送る手記」『ザ.龍之介・P.263』第三書館 一九八五年)

「太平記」を見ていると夢窓疎石が天竜寺の庭を作庭したエピソードが出てくる。

「この開山和尚(かいざんおしょう)、天性泉水(せんずい)に好(す)かれたりしかば、水に傍(そ)ひ山に倚(よ)つて、十境(じっきょう)の山川(さんせん)を作られたり。大士応化(だいしおうげ)の普明閣(ふみょうかく)、天心(てんしん)秋を浸(ひた)す曹源池(そうげんち)、金鱗(こんりん)尾を焦がす三級巌(さんきゅうがん)、これに対する龍門亭(りゅうもんてい)、三壺(さんこ)を擎(ささ)ぐる亀頂塔(きちょうとう)、雲半間(くもはんかん)の万松洞(ばんしょうとう)、言(ものいわ)ずして咲(え)みを開ける拈花嶺(ねんげれい)、無声(むしょう)に声を聴く絶唱渓(ぜっしょうけい)、銀漢(ぎんかん)に登る渡月橋(とげつきょう)、塵々和光(じんじんわこう)の霊庇廟(れいひびょう)。石を集めては煙嶂(えんしょう)の色を仮り、樹を栽(う)ゑては風濤(ふうとう)の声を移す」(「太平記4・第二十四巻・二・P.121~122」岩波文庫)

天竜寺の庭は夢窓疎石が何から何まで始めて作ったのではなく、もともと亀山殿のあったところに疎石が手を加えたと考えられる。広々とした平安時代の庭園の跡地に孤独な禅僧が石を持ち込んだ。この時の疎石は極めて微妙な政治的立場の間で板挟みになって苦悩していたため、天竜寺の作庭は疎石にとってまたとない「癒し」となったに違いない。政治的苦悩は次のようなどちらとも取れる言葉になって洩らされている。

「山水を好むは、定めて悪事ともいふべからず。定めて善事とも申しがたし。山水に得失なし。得失は人の心にあり」(夢窓国師「夢中問答集・中・P.164」講談社学術文庫 二〇〇〇年)

夢窓疎石の場合、透徹した「末期(まつご)の目」は、ただ単に広々と明るい平安時代初期の庭園ではなく、ごつごつした厳(いか)つい石ばかりで仕立てた上げた枯山水でもなく、社会的に厳しい立場に立たされた禅僧が自分に課せられた苦痛をなぐさめるに十分な価値を持つ作庭に向かっていったのだった。

BGM1

BGM2

BGM3