阿部ブログ

日々思うこと

霊厳寺と霊岸島

2015年09月19日 | 雑感
霊巌寺は、浄土宗総本山知恩院 第32世 雄誉霊巌上人の開山。今は深川白河にあるが、最初の創建は今の新川二丁目。霊厳島保存会によれば…

『霊厳島の由来 当地区は、今から三百七、八年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。
寛永元年(1624)に、雄誉霊厳上人が霊厳寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同十一年(1635)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、二万七千坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
邸の北、西、南三面に船入堀が掘られて後に越前堀の地名の起こる原因となった。
明暦三年(1657)の江戸の大火で、霊厳寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町町が、替地として集団的に移ってきた。
明治大正年間には富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊岸島町、銀町、東港町、新船松町、越前掘、南新堀の十三町に分かれ、多額納税者も多数居住て検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯としても下町商業の中心であった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和六年七月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川一丁目、二丁目・霊岸島一、二丁目・越前堀一、二、三丁目と改称され、更に昭和四十六年住居表示制度の実施により新川一丁目、二丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐かしい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
昭和五十二年三月  霊岸島保存会』
                            
霊厳寺保存会が書いているように、沼地葦原だったが、この地は向井将監忠勝の下屋敷があった所を拝領して霊巌寺を建立している。
霊巌寺は、浄土宗の関東十八檀林の一で多くの修行僧が修行していたが、明暦の大火で焼失してしまい、万治元年に深川の地に替地を拝領し移転している。今では霊厳寺は『霊岸島』に変わっている。ここは今、中央区新川二丁目。
                  
霊厳寺には、江戸六地蔵や松平定信公の墓所などがある。また信者が寄進した仏さまがいらっしゃる。お地蔵さま、勢至菩薩、弥勒菩薩か素人なので判然としないが、信心深く人情味あふれる深川の地に相応しい。
                           
霊厳寺の裏手にある墓地を拝見していると粋な、瀟洒な建物があるではないか。
  
これは清澄白河駅の近くにある『清澄寮』と言う集合住宅だ。昭和8年に建てられたので御年82歳。戦災も見事に凌いで現在に至っている。地下鉄の駅に近く人気物件のようだが、メンテナンスもきちんとされていて居住性に問題は無い。今度、深川に行くときには『清澄寮』を観に行こう。