吉沢厚文氏。現在は、原燃輸送株式会社の代表取締役社長。
吉沢氏は、3.11当時の東京電力・福島第一原子力発電所の5・6号のユニット長であった。
以下に吉沢氏の講演ないようを徒然なるままに記する。
3.11事故に際してIAEAが視察に訪れた。代表はイギリスのウェイトン氏。
彼らの開口一番の質問は、
「軍隊は何処にいる?」
「いや軍隊はここにはいない。我々だけだ。」
「なんで君たちはそんなに冷静でいられるんだ?」
「いや冷静でいるわけではない・・・」
IAEAは、アラームメーターを持参してきたが、視察に出た直後にアラームが鳴り始めたため、引き返さざるおえなかった。しかし、視察はしなくてはならない。
そこでアラームメーターの設定を変えて、再度外に出たが、やなりアラームが鳴った。
吉田調書にある通り、現場の我々は一切躊躇はしていない。免震重要棟自体が原子炉容器と同じ放射線レベルであった時期もあった。現場の中には頭の毛を刈られた人もいた程。
流石に3週間、4週間と時間が経つにつれて、倒れる人が増えた。本店もこれはマズイと思ったようで、我々にも一時帰宅が許される事となった。
一時帰宅する場合には、福島第一原発から東京駅までバスで移動した。放射線に汚染されているので、1ヶ月はき続けたパンツ以外は、全部廃棄となった。
会社(東電)が準備したジャージなどの着替えてパスに乗った。移動中は、過労からひたすら眠り続けた人が多かった。
そして東京駅に着いた。東京駅界隈の光景はまさに別世界。余りの異次元世界に驚きを隠せなかった。これじゃ、東京にいる東電幹部や政府関係者が、福島第一原発の状況など理解できるわけがないと悟った。
会社が準備したバスを降りた我々は、東京駅からそれぞれ電車で移動するが、1ヶ月以上、風呂に入っていないこともあり、余りの異臭に車輌にた人たちは全て他の車輌に移動した。電車で帰宅した人たちは、同じような状況だったようだ。
9.11に遭遇した軍人と話をする機会があったが、あの熱風と爆風、それと匂いは、今でも忘れなれないし、現場にいなかった人間にあの時の状況を説明することは無理だという話を聞いた。同じ経験を自分たちがしたわけだ。
3.11発生で、福島第一原発と外界との通信手段は電話しかなくなった。東京の本店は、報道され写真ある免震重要棟の画面しか観ていない。これじゃ、現場の実態などわかる訳がない。
この写真にある通り電話の受話器はテープで固定している。
この電話はホットラインだが、震災で不通になったので使う事はなかった。しかし、余震で電話が机から落ちると「ピーピーピー」と音をたてる。この音を吉田は嫌った、「止めろ!」
吉田の命令で、電話の受話器は本体とビニール・テープで固定されることとなった。単純に写真を見るとわからないが・・・つまり、写真のサイズが小さいとこのような細かなことはわからない。
5・6号機の周辺の写真を観て欲しい。海水系だが、これでは現場に行けないことがわかるだろう。消防車のホースは布製なので、瓦礫で直ぐに穴があくし、放水の圧力でホースは暴れる。
しかし、消防車がここに入る以前に、瓦礫除去が必要だった。これは過剰被爆しながら、人手で瓦礫を除去した人たちがいた。彼らの作業がなければ、そもそも消防車は敷地に侵入できない。これも写真からはわからないことだ。
ここには自衛隊さんの水運搬車がいるし、この消防車のこの部分は、1号機、3号機の水素爆発の瓦礫でへっこんでいる。
中央制御室(中操)と免震重要棟は、100メートルも離れていない距離。しかし、現場からは遠かった。免震重要棟にいても現場が遠いと感じているのに、東京にいては現場のことがわかるわけがない。
私がユニット長を務めていた5・6号機と福島第二原子力発電所の中操向け直流電源は生きていた。1号機~4号機の中操は交流電源と直流電源の両方が死んでいたので、真っ暗な中での作業だった。これは大きな違いだ。
5・6号機は直流電源が生きていたので、中操は照明で明るかったし、メーターが読めるので炉心の状況を把握できた。それに比べて1号機から4号機の中操は真っ暗だったので、その中での作業は人間の心理に大きな影響を与えたと考えている。これは事故対応に大きな影響を与えることとなった。
ユニット長としては、事故対応と作業者の人身安全確保が任務となるが、福島第一原発の事故のような事態はまさに想定外で事故対応のマニュアルも一切役に立たなかった。このような状況で一番の鍵となるのが人。人が鍵。
中操の作業員はこう言った。
「なんでも命令してくれ、なんでもやる。原子炉に突っ込んでもいい!最後に運転員の意地をみせる!」
運転員が中操から退避するのは原子炉制御を諦めたとき。運転員だけではない、東芝の所長や日立の責任者の方も現場に残って事故対応してくださった。会社からは撤退しろと命令されていた筈だが、彼らは最後まで残ってくれた。
実際にうまく処理された事故対応は顕在化せずに語られることもない。吉田調書の場合には吉田は質問に答えているだで、聞かれたことに答えているだけ。この後、事例を二つ紹介したい。
震災当時、福島第一原発には重油を満載したタンカーが停泊していた。しかも実際に原油をタンクに送油している最中だった。送油する前に、タンカーと原発側の作業員同士で緊急事態に遭遇した際の手順を確認した後に、作業に入っているが、これが功を奏した。尋常ではない規模の地震に遭遇し、陸側の責任者は津波襲来を予見。タンカー側に連絡して、直ちに送油を中止。タンカーの周りに張ってあったオイルフェンスを切断。陸側のパイプも切断し、タンカーは速やかに離岸した。オイルフェンスやパイプの切断は、緊急マニュアルにはない手順だ。これは現場の判断。この判断がなかったら、タンカーは津波に流されて原発敷地内に入り込み施設を破壊しただろうし、重油に引火した原発事故対応はできなかっただろうし、今以上の惨状となっただろう。勿論、5・6号機も重大な事故に陥ることとなったことは間違いない。この緊急事態に際して下された決断と実行が、最悪の状態を回避させることとなった。
重要な決断をくだした陸側の責任者は、元船長であった。
緊急事態における対応としては、5.6号機の建屋にベントホールを穿孔した事例がある。
1号機、3号機が立て続けに水素爆発し、建屋が損傷した。これを5・6号機では防がなくてはならない。緊急に建屋内の水素を抜かなくてはならない。そこで建屋に重機で穴をあけて水素を逃すことにした。
早速ゼネコンさんに機材提供をお願いした。しかし機材は提供するが作業員は派遣できないとの回答だった。それは当然だ。ゼネコンは機材を敷地に置いて退去した。
東電社員が作業することになるが、そんなスキルもっている社員はいない。
そん中、ある東電社員がJビレッジで、ある工務店の社長さんと一緒になり「実は水素を抜きたいが・・・重機はあるが扱える人間がいない」と話をした。
工務店の社長さんは「今まで福島第一と東電には大変世話になった。これも恩返しだ、よし俺がやる!」
この東電社員と工務店の社長さんの出会いは、所謂「セレンディピティー」だ。この幸運な出会いがなければ、5・6号機も水素爆発の恐れがあった。
組織メモリーを形式知化し、活用できる状況にすることが重要。
日本航空では、御巣鷹山に墜落したJAL123便事故を知っている社員は10%に満たないと聞いた。
福島事故に関して、外国記者から質問を受けた。
「あなたは、会社と死ぬまで働くという契約をしているのか?」
「家族はなんと?」
「日本には、今もカミカゼがいるのか?」
危機に際しての臨機応変の対応が、仮に失敗した場合、処罰されるのか? 逆に褒められるのか? この場合、褒められるべきで、これが次の組織をつくる。
成功と失敗は紙一重。田老町の津波防波堤は、1960年のチリ地震を見事に防いだ。その後、津波防波堤は拡大した。田老町には視察が絶えなかったし、町民も安全だと確信していた。
しかし、3.11では無力だった。
最後に、福島第一原発事故で亡くなった2名の方と、吉田所長のご冥福をお祈りいたします。