信仰年月の浅いご夫人に、「お母様はご健在なのですか?」とお尋ねしたら
「数年前に、84歳で天に召されました」と答えられたので、
「あら、クリスチャンだったのですね」と言った。
すると、
「母は違ったけど、おじい様が福音的なクリスチャンだったから、きっとお迎えに来てくれたと思うのよ」
と答えられた。
「ちょっと違うな、でも、そのように思ったら慰められるのだろうな」 と思った。
信仰年月の浅いご夫人に、「お母様はご健在なのですか?」とお尋ねしたら
「数年前に、84歳で天に召されました」と答えられたので、
「あら、クリスチャンだったのですね」と言った。
すると、
「母は違ったけど、おじい様が福音的なクリスチャンだったから、きっとお迎えに来てくれたと思うのよ」
と答えられた。
「ちょっと違うな、でも、そのように思ったら慰められるのだろうな」 と思った。
クリスマスには、神の子であるイエス・キリストが私たちを滅びから救うために天から地に下ってくださったことを感謝し喜ぶ。それを初臨という。初めて地上に臨在してくださったから。
しかし、私たちがもっと喜ぶのは、イエス・キリストの再臨、もう一度来られる時です。
もし、あと30年以降に再臨があるのなら、私はすでに死んで眠っていて、ラッパの音を聞いてよみがえらされて、イエス・キリストのもとに行くことになる。なんて素晴らしいのでしょう。
もし、まだ私が生きている間に再臨があったら、先に死んだ人たち(死んだ夫も)が、先によみがえらされて、一緒に雲の中に一挙に引き上げられて、空中で主とお会いする。そして永遠に主とともに本物の天国に住まうことになります。なんて喜ばしいことでしょう。
一瞬のうちとは、まばたきするくらいの、ごくごく短い時だそうですから、その時になってまだ救われていない子供たちや、親族をあわてて救おうとしても、もはや間に合わない。
自分自身も、「インマヌエル」主とともに、いつも主の近くにいないといけない。神から離れてしまっていることに気づいたら、すぐに立ち返らなくては危ない。
クリスマスを祝うこの時、初臨のイエスと、再臨のイエスのことを思い巡らして、福音を伝えて、救いに招く主の働きに用いていただきたいと思う。
Ⅰコリント15章51.52節から
〇元々罪人で親切な者、でも優しい者でもない私たちは、自分の力で自分を変えることはできない。
キリストによって変えられて、神が命令しておられるように、お互いに対して、親切で、心の優しい人となって行かなくてはならない。これは神の命令です。
どのようにその命令に従えるのか。それにはまず、神が私たちに親切にしてくださったこと、私たちを心優しくあわれんでくださったことを、深く知らないといけない。
同じ神から、神のあわれみを受けた者同士であるとわかったら、私達は互いにあわれみ深い者となって行けることでしょう。
〇互いに赦し合いなさい。これも命令です。
どのようにその命令に従えるのか。それはまず、神がキリストの贖いを信じる私たちの罪を、その信仰によって恵みとあわれみによって赦してくださったことを深く知らなくてはいけない。
私たちが、同じ神から、赦された者同士であることを深くわかったら、私達は互いに赦し合うようになって行けることでしょう。
ここで注意するべきは、これはこの世の人同士の関係ではなく、救われて神の子とされた者同士の間での話です。「互いに」と書かれています。教会生活の中に適用しましょう。
クリスマスが近づいている今、私はキリスト者としてふさわしく、父なる神にイエス・キリストの名を通して、感謝し、讃美する者へと、さらに変えられることを祈り願いします。
教会での奉仕の一つ一つに対する姿勢が、義務のようなもの、人の評価を得るためのものになっていたことを悔い改めます。そして、互いに助け合い、仕え合って、神に喜ばれ、受け入れられる働きとなっていくように、その動機のところから神に整えていただきましょう
奉仕をした時、まるで自分の手柄のように感じていたことを悔い改めます。
聖霊による促しと導きがあります。
たくさんの兄弟姉妹方の祈り、具体的な協力、励ましをいただいているからかそ奉仕が出来ていることを思い起こして、感謝します
夫が、尿が出なくなって、このままでは死ぬということで、腎臓から直接、尿を排出するための管を通す手術が必要になりました。それは夜中の1時頃のこと。自宅で休んでいるドクターを呼び出して、車で駆け付けてもらうのを待つこと1時間以上。その間、いつ来られるか、何時に手術が始まるのか、とても不安でした。しかし、夫はもっと不安でしょうから、互いに不安な気持ちを言い合っても、解決はどこにもないなと思いました。
そこで、讃美の本を取り出して、次々と歌い続けました。夫は黙って聞いていました。すべてを神様にお任せすれば良いという、落ち着いた平安な気持ちで待つことができました。それは不思議な感覚でした。
やっとドクターが到着して手術が始まった。私は手術室の前の、誰もいない暗い廊下で、また讃美をしていました。神様がともにおられるというのは何と心強いことだろうと、暗い窓の外を見ながら思ったのでした。
そして、このような試練も、夫がイエス様を受け入れるためにと備えてくださっていた経験の一つとなっていたのだと、後になって気づいたのでした。
早朝に来た看護師と、看取ってくれた看護師が夫のからだが着るものを整えてくださっている間、ガラスの障子で仕切られたダイニングで、私と子供たちはお葬式の相談と協力を依頼しました。
息子はアンチキリストなのですが、感情的になることなく、何とか話は進めることができました。
教会からすでに前日に、私は葬儀屋さんに来てもらって打合せが済んでいたのでスムーズに進めることができました。
教会のある街から私達の住む田舎まで車で3時間程の距離があるのですが、田舎にはキリスト教式のお葬式をしてくれる業者を捜せなかったこともあり、教会の近くの葬儀屋さんに依頼をしていたのでした。
そこまで、何もかもすっきり進んでいたのですが、一つだけ気になっていたことがありました。
それはドクターを呼ぶのが少し遅かったし、孫の到着を待つ間苦しい思いをさせたかなということでした。
私が夫に「ごめんね。麻薬の薬が口の中で解けていなかったから苦しかったでしょう。もう少し早くドクターを呼ぶべきだったね。ごめんね」と言ったら、夫はうなずいたのでした。
だから「最後の判断が遅かった」と叱られたのだと思ったことでした。
そのことが葬儀会社の人が来たときも、夫の兄弟が来た時も、ずっと心にひっかかっていました。
でも、夜になってふと気づきました。夫がうなずいたのは、私の「ごめんね」という言葉にうなずいてくれたのだと。
赦すこと、赦されることを夫から教えられました。夫は少し前に、痛い? 苦しい?と心配する私に、夫は「十字架上のイエス様の苦しみほどではない」と言ったことがあったのでした。
私は今、このノートを大学病院の待合室で書いています。今度は私が治療を受ける番です。神様は一歩一歩従う者に、さらに一歩一歩導いてくださることを確信して喜んでいます。8月20日