ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

福音も、福音のための困難も、恥とはしない理由

2022-05-23 | 旧約聖書

パウロは、福音を恥と思わない。福音のために困難があることも恥とはしない。

むしろ誇りと思っている。

それには理由がある、根拠がある

 

Rom1:16 私は福音を恥とは思いません。(なぜなら) 福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

2テモテTi1:12 そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。 1:13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。 1:14 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。

 

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福音を恥とするなら・・・・・

2022-05-23 | 旧約聖書

 

福音を恥とすることは、さばきにつながる

 

Mar8:38 このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

Luk9:26 もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします

Rom6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。

 

福音を恥として、あかしするべき時に知らないというなら、さばきにつながる

マタ 10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

 

 

 

私の親戚にはお寺に関係している人が多い。私の父のお姉さんは3人も寺にお嫁入した。檀家代表をしている人もいる。
信仰を始めた当初は、キリスト信仰について話すと、鼻で笑われるような体験をしたものでした。


しかし、年数がたち、夫も救われ、親族との義理の関係より、教会との愛のある関係が目に見えるようにはっきりして来てからは、だれも表立って言って来ることはなくなりました。

 

 

パウロのローマでの宣教は、容易ではないと想像されます。ローマはギリシャ文化の中心で、ギリシャ語を使わない人は未開人と言うような文化があった。田舎のガリラヤの僻地から発生したキリストの福音は、ローマ人には愚かなものに見えたことでしょう。

実際に、アテネでは、
使17:32 死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。

コリントでは、
Ⅰコリ2:3 あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。

しかし、パウロは恥とすることはなく、むしろ誇りと思っているのです。

 

 

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神の/恵みによるコーリングに応答する者は

2022-05-23 | 旧約聖書

Mat22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

コーリングされてそれに応答した者が選ばれる者 招待されても応答しなければ選ばれた者にはならない

 

Rom1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されにたキリスト・イエスのしもべパウロ、

聖別された者の中から、さらにコールリングされてそれに応答した者に、しもべとしての使命が与えられる

 

Rom1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、──このパウロから、

私自身も、イエス・キリストによってコーリングされた者です

 

Rom1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

神に愛されているという大きな前提がある。召されて答えて自ら聖別される方向に向かっている者と言えます。謹んでみこころを求めます。恵みだな、平安だなという確信と喜びがあります

 

Rom8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

神に愛され、神を愛する、神の愛の中に入れられていることが大きな前提。自分の思いではなく神のご計画に委ね従っている人々のために、神は、万事を働かせて益とされる。自分の思いや都合に合わせて益としてくださる神ではない。思い違いをしてはいけない

 

1Co1:1 神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、

召されるのは神のみこころによる。神に仕えようとする際には神のみこころに敏感であるべき

 

1Co1:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。

周囲に置かれている、主イエス・キリストの御名を呼び求めている人に霊的な目を向ける必要がある。

 

1Co1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

召されてキリストの者となかった者には、キリストにより、神の力、神の知恵が与えられる。謙遜に求めよう。

 

Jud1:1 イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。

父なる神に愛されている。イエス・キリストのみこころを行なうために、サタンの攻撃から特別の守りが与えられたてる、平安である

 

Rev17:14 この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」

召され、選ばれた恵みと使命に、最後まで忠実に仕えた者は、最後の審判で勝利を得る

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書き直しました

2022-05-07 | 日ごとの生活

  教会堂と●●●●は、私の部屋のすぐ目の前です。
周りが暗い時には、教会堂から十字架のステンドグラス越しに外にあふれ出ている光が、私を集会に招きます。
夜、頭を枕に沈めて窓の外を見上げると、教会堂の屋根の十字架が白く輝いていて、主にある平安な感謝の祈りに導かれます。


この部屋に私が住み始めたのは2014年10月。
ちょうどその頃、新会堂に続いて●●●●、それに●●●を借りるようになり、それまで教会学校などで使用していた喜
一の部屋が空いたのでした。
そこで、私に引っ越して来て住んではどうかという思いがけない提案をいただき、思い切って●●●●の家を処分して出てきたのでした。


それまでの1年近くは、夫の癌末期の看護のために教会まで通うことはできずに、病院や家からネット礼拝をしていました。
その間、教会からたくさんの兄弟姉妹が訪れて来てくださり、おかげて、夫は罪を告白して救われて、受洗に導かれ、弟子訓練も受けることができました。
そして、夫が召された4カ月後、神様は最善のタイミングで、私を教会堂の近くに呼び戻してくださったのです。


それからは、私と教会との関係が変えられたように思います。●●●●では「我が家が教会になるように」と祈っていましたが、今は「教会が我が家であるように」と願っています。
●●●●で与えられた兄弟姉妹との豊かな交わりを通して、教会とは建物ではなく、救われた者の群であることを実感したからです。

それで、今、父なる神を愛し、救い主イエス・キリストをますます愛し、肉の家族よりも霊の家族を愛して、心から仕え続けたいと願うようになっています。
祈りとみことばと教会生活の中、教会堂で奉仕をして整えられる恵みにあずかっていることを、喜び感謝しています。

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新会堂での10年を振り返って

2022-05-05 | 日ごとの生活

新会堂に移った2012年当時、私はM市から礼拝に通う生活をすでに7年間続けていました。

朝6時半過ぎに家を出て来るのですから、毎回が小旅行のようなもので、その目的地が旧会堂から新会堂に移っても、私には大きな違いはありませんでした。

ただ、新会堂には宿泊できる場所がなかったので、台風でM市駅の手前の山中で列車が運行停止になった時には、K兄姉のお宅に泊めていただける恵みに何度もあずかることができました。

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2013年11月頃、いよいよ夫の癌も末期症状になり、2014年8月に召されるまでの10か月程は、会堂礼拝はできなくて、ネット礼拝になりました。

入院中は、病室にパソコンを持ち込んで、退院後は、O兄に作ってもらったコロコロ台を枕元の近くに移動させてその上にパソコンを置いて一緒にネット礼拝をささげました。

 

この間、教会とは建物ではなく、「呼び出された者の群れ」であることを体感しました。

何人もの兄弟姉妹が、何度も何度も、病院に、家庭に訪問してくださいました。

温かい交わりの中で、夫は信仰に導かれ、弟子訓練も受けることができました。

受洗試問会・洗礼式・聖餐式の日には2人の訪問介護の方を含めて、25人もの兄弟姉妹が集まり、「我が家が教会になるように祈る会」の結晶のような一日が与えられました。

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夫が召されて3カ月後の2014年10月に、教会のある街に引っ越して来ました。

当時、新会堂に加えて隣の一軒家。そしてまた隣のマンションの2室が借りられるようになり、それまで教会学校のために借りていたアパートの一室が空いたので私が入居できたのでした。

これは、まさしく神のタイミング、神の恵みの時でした。

 

今や、「教会が我が家に」といえるような、霊の家族、主にある兄弟姉妹が集う新会堂の近くで生活することがゆるされていることを感謝して、ますます熱心にキリストのからだである教会の働きに仕え続けたいと願っています。

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