ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

34 相続地の境界線

2021-08-06 | 民数記

カナンの地は部族ごとに境界線のある地を、公正になるようにくじで分けることを決めた。

新約時代を考えると
相続てきるものは、土地ではなく神の国

相続できる人は、イスラエル部族ではなく、主イエス・キリストによって贖われて約束の聖霊を受けたすべての人々。イスラエル人も異邦人も。

 

κληρο-νομέω 引き継ぐ、相続する  くじで割り当てることばから来た語

★私たちは何を相続すると言われているのか。
   永遠いのち、神の国、救い、朽ちないもの、祝福

Mat19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのち受け継ぎます。

Heb1:14 御使いはみな、仕える霊であって、救い相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

1Pe3:9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

 

★どんな人は相続できないと言われているのか

1Co6:9 あなたがたは、正しくない者は神の国相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、1Co6:10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国相続することができません。

Co15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません

 

主の一方的なあわれみにより、イエス・キリストを救い主として受け入れて、永遠のいのち、神の国を相続する者としていただきました。
イエスの霊、聖霊によって、そのことがわかるようになりました。
この偉大な神、主を讃美します。身に余る光栄を喜び、感謝します。

 

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31.32 本当にこれで良かったのか??

2021-07-29 | 民数記

31章でモーセは死の直前のミデヤン人との戦いで勝利した後、分捕った家畜や金、戦利品、そして人に至るまで、どのように分けてどれだけみつぎものとするか等、細かく主はモーセに命じた。モーセに命じられたと5回も書かれています。

ところが、

32章では、ルベン族とガド族は、ヨルダン川の手前の地区に住むことを申し出た。非常に多くの家畜を持っているし、その土地が放牧に適しているからという理由だった。

もともと、主は民をカナンの地に導き入れるようにとモーセを用いて導いて来たはずなのに、モーにも、セルベン族、ガド族にも主は語っておらず、彼らも主にお伺いを立てる場面があません。

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この世の商談のような手順で、土地の分割という大きな問題の解決を進めていることが気になります。

黙って見ていて、「なすがままにさせる」という種類の裁きもあります。すでにカナンの地に入れずに召されることになっているモーセには、最後の大仕事をこれが主のみこころであるという確信をもっていて欲しかった気がします。

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現在、教会の中で、コロナ感染対策のことで、教会を二分するような問題があります。小さいことなのですが、主のみこころに聞き従って、それを計画し進めているのか。それとも個人的人間的な思いからのものであるのか、微妙だと思われます。

どちらも宣教の思いへの熱心からの発想であることは事実です。牧師も役員たちも黙って見ています。

私自身も、教会は主のものであり、主が臨在して導いておられるので、主にお任せして、はっきりしないまま発言をして無用な波風を立てないように、このことに関しては沈黙していようと思いました。

すでに一度は彼に疑問を投げかけましたが、彼は反対意見があるのも承知の上で、暖かく見守って欲しいと言って、姿勢は変わりません。神が暖かく見守り導いてくださっているのか、私が心配なのはそこなのですが・・・彼には通じていません。

 

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30 「はい」は「はい」 「知りません」

2021-07-28 | 民数記

モーセの時代は、神に誓いをする時や、約束をする時、判子やサインではなく、口頭で誓ったらそれで効力があって、必ず言ったことは実行しなくては裁かれたようです。

人間は、たといその時は熱心に誓っても、しばらく後にはそれを否定したり、取り消そうとしたりする罪性があります。
しかし、神は言われたことは必ずそのとおりになり、神の約束は成就します。

新約聖書では誓わないようにと言っています。

マタイ 5:37 だから、あなたがたは、はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
ヤコブ 5:12 私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。

 

ところが、ペテロが「のろうをかけることと誓うことを始めた」という言葉は、「誓わないようにしなさい」と言われたのと同じ言葉でした。マタ 26:74 すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた

ペテロがのろいをかけて誓ってさばかれることのないように、イエス様は鶏の鳴き声でペテロを引き戻された。その経験は、ペテロにとって、また同じ性質を持つ私達にも、必要なまた重要なものだったのだと気づいた。

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ここで朝のデボーションは時間切れで教会に行った。
ある姉妹が「ここで言ってもいいかどうかわからないけど」と、何人かいる中で、私の顔を見ながら、他の姉妹の微妙な問題を話し出そうとされたので、私はすかさずはっきり言った。「私は知りません
すると彼女は「この問題を知らないの?」と言われたので、もう一度短く言いました。「今ここで話していいのか、話さない方がいいのか私にはわかりません」すると彼女は口を閉ざしてくださいました。

朝のデボーションで、神の約束は必ずなる。神が教会を守り導く」と確信を得ていた私に、神様が短い言葉を私の口に置いてくださって、知っている人も知らない人もいる何人かの中に走った動揺を神様は解いてくださいました。

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28・29 私が神にささげるものは

2021-07-20 | 民数記

民数記28章29章には、定められた時に様々なささげ物をささげるようにとたくさんの命令が書かれています。

定められた時とは、毎日、安息日、第一の月の14日・過越しの祭りの日、その他、カレンダーがささげ物をする日でいっぱいになるくらいです。

新約聖書のギリシャ語で「ささげる」ということばを検索したところ、προσ・φέρω が、47回出てきました。①連れて来る・持って来る・差し出す ②(賜物・献物を、また祈祷・礼拝を)捧げる・備える

Heb10:11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。Heb10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
 10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
 10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

 民数記28章、29章に書かれているすべてのささげ物を、今や私達は全くやる必要はなくなりました。イエス・キリストがご自身を永遠の完全ないけにえとしてささげて十字架にかかって死なれて、復活し昇天されたからです。
 旧約時代の歴史の中で、どれほどの牛や羊がいけにえになったことか。その数は数え切れないほどに多いことを思うと、イエス・キリストの一度の死の意味の重みがひしひしと感じられます。
 イエス・キリストは一度で成し遂げてくだり、それを信じた私達は罪が赦され、神との関係が和解して、聖霊が内に住んで満ちてくだるようになりました。

💓💚💛私達は、神と主イエス・キリストに讃美と感謝をささげます。
神が一番喜ばれる私達のささげ物は何だろうかと、προσφέρω が出て来る個所を調べたところ、悪霊につかれた者、病気の者、目の見えない者、また子供達を、イエス様の身元に連れて来た時に、同じこの言葉 προσφέρω が使われていました。

 そこで私が神様にささげる一番のものは
サタンの支配の中で苦しんでいる人を、イエス様のもとに連れて来ること。、神の救いのみわざのために自分自身をささげることだと思いました。

 そのためには、まず自らの救いを喜び感謝し讃美の声を神にささげて、人々に証しをすること。
与えられている賜物、時間、持ち物やお金をささげて委ねて、用いていただくように明け渡すこと。

★主日の午後に伝道イベントで会った女性から、ライン連絡が次々と入って来て、返事をするの疲れるな。大変だなと、避けたくなるような気持ちになっていたことを悔い改めました。

次の主日に初めて礼拝に出席されるので、まずはその日まで丁寧にフォローをして、主日に会ったらまた、それからどう進めて行けばよいのか祈り聞き、従います。

★夏休みの子供のための特別イベントに、お孫さんを連れて来るおばあちゃまがおられるからと、出席を求められた。イエスのみもとにお連れする思いで仕えます。

 

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27 牧師の後継者をどうするか

2021-07-19 | 民数記

牧師が高齢になり病気になった。牧師が退職して無牧になった。週替わりで他の教会から説教をしに来てもらっている。まるで飼う者のいない羊の群れのようになっていると何人かから聞きます。

民数記27章から考えます。

ヨシュアがモーセに代わって民を率いるようになったけど、モーセの時とは少し違いがある。モーセの持っていた権威の一部を祭司エルアザルに分け与えた。それで、ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、祭司エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、入らなければならなくなった。

ヨシュアは、それまでモーセに付き従って、民を牧するやり方を見て学んで来たので、ヨシュアが引き続きモーセと同じ立場に立てても良かったように思える。しかし、そうしなかったのは、神のイスラエルの民への配慮だったのではないかと思われる。ヨシュアの死後、民が羊飼いを失うようなことにならないようにと。

 

神様は私達の教会をも長期的に牧会してくださっているので、その神のみこころに従って、教会の後継者のことについて祈ります。

  • 教会の中で、牧師は、複数人数の副牧師または教会員に、万人祭司であることを教え小牧者としての訓練もやり続ける。
  • いよいよの時には教会員全員の前で次の牧師を任命することになる。
  • 同時に新任牧師を支えて一緒に牧会していくサポートチームも立ち上がっていることになる。

私は現在の牧師が、霊肉ともに守られて、副牧師訓練、教会員の弟子訓練ができるように祈り、また将来の次の世代の牧師と牧会者チームのために祈ります。

 

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