ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

へブル12章から悔い改めたこと

2021-08-13 | へブル人への手紙

自分に与えられた競争を走り抜くために、身軽になろう。

自分に絡みついて来る罪を捨てるべき。私にとって、肉的に楽しんでいるうちに、いつのまにか、信仰を鈍らせているもの。それは一年ほど前からよく見ているユーチューブ。

好きなピアニストの動画だけでなく、関連して他の音楽家の動画も見ることで時間をかなり使っています。音楽を楽しむことが罪ではなく、その間、神様を締め出して神様との関係の外に自分を置いていることが罪なので、悔い改めます。続けて応援したい一人の方意外の人の登録を削除することを決心した。

以前にも、ユーチューブを見るのを制限しようといくつか削除したことがあったのに、また同じことをやってしまっていました。

 

イエスから目を離さないようにしよう

私は自分の確かさ、プライドを、夫を導いたこと、家を売却して教会の近くに来たこと、続けている奉仕にプライドを感じて握りしめていた。

悔い改めて、そんな思いを手放します。ただイエス・キリスト、はずかしめをものともせずに十字架を忍んで、神の御座の右に着座された方とともに走ることを考えよう。
イエスのくびきを負って、導かれて走り続けよう。寝る前に、罪を告白して赦された確信と喜びをもって休むことを忘れて、神の目からすり抜けて、なんとかやり過ごせると思っていたことを悔い改めます。

 

本気で愛して、子として訓練してくださっている神に従おう

訓練を積み重ねているうちに、罪を早く気付いて、神の側に瞬時に移動できるように神様が整えていってくださっている。

神と和解した関係の中でやすらいで、神の前で委縮することなく大胆にますます神に近づける者となっていく。この先何があっても神は必ず良くしてくださるから心配することはない。大丈夫と平安でいられる。

罪を持ったまま、やりすごそうとすると、神の前でも、人のまえでもこざかしい生き方になってしまう。まっすぐ、純粋に、みことばをそのまま受け入れよう。

弱さを認めて、助けを求めて助けられて一歩、また助けと導きを求めて与えられて一歩。自分のこざかしい考え方ではなく、神に聞き従う生活をする信仰から信仰への生活は、平安から平安に進む道を進めます。

 

 

 

 

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見えないものから造られ支えられている

2021-07-29 | へブル人への手紙

へブル書11章を読んだ。

 11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

信仰とは1--待ち望まれている事がらの 保証、実質、実体、本質   である。
信仰とは2--目で見られない   事がらの  確信、明るみに出す、証拠、である。


私達もへブル人たちと同じように、困難や問題の中でも、後に来るすばらしいもの、再臨を待ち望んでいます。主の約束は必ず成就することを確信しています。今、目に見えて起こっているコロナやこれに関連する事実だけに目を向注いで平安と喜びを失いかけていたことに気付き、悔い改めました。

 11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

昔の人々・旧約時代の聖徒たちは、キリストの贖いのひな型を見て、来臨と再臨を旧約の時代の聖徒たちは、贖い主のひな型だけを見て、本体を知らずに初臨を信じ、再臨を信じ待ち望んでいた。そんな信仰が神に称賛されたのです。

私達は聖書のみことばの、半分ほどの事がらがに成就したことを知っている。残りの半分ほどの事がらも、これから必ず成就するのだと信じるなら、昔の人々と同じようにその信仰が称賛されることになります。
私自身、これから神の約束の内容を細かく学んで希望を持つなら、神を喜び、神に喜ばれる人生となっていくことができることを感謝します。

 11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

私達は悟ります
世が、理路整然と造られ完了していることを、神のことばレーマによって
見えるものが、生じたこと、        現れていないものから

天地の創造主は、無から有を生じさせた。それも見えない神のことばによって。私の回りに置かれているものすべてが、時間も空間も超えた創造主によって造られたものです。それらによって私は支えられ生きています。起こっていること、これから起こることのすべてが、神の大きなご計画の中のことであることです。その神を讃美し礼拝します。

♪♬♪♬♪♬
主の前にひざまずき 心から讃美ささげる
あなたはとこしえに わたしの神

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恵みによって祈る その1 恵み

2020-12-01 | へブル人への手紙
へブル人への手紙13章24-25節 最後の締めくくりです。
13:24 すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。
 13:25 恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。

4つの段落でお話します
Ⅰ恵み Ⅱ頌栄と祝祷 Ⅲ指導者と聖徒たち Ⅳまとめ・応答

Ⅰ 恵み
恵みが、あなたがたとともに(ありますように)で締めくくられています。
恵みとはカリス155回 動詞カリゾマイ23回
へブル書の中に6回 この25節がそのうちの最後のもの。
それぞれの個所から「恵みが、あなたがたとともに(ありますように)」という意味を調べます。
二つの側面があります 
A恵みを喜び感謝する 
B恵みを失うことへの警告
A-1ヘブル 2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
神であるイエス・キリストが人々の罪の贖いために十字架にかかって死ぬために、この世にご降誕くださいました。それは神の一方的な愛によるものでした。イエスのご降誕から十字架上の死に至るまでの苦しみは、神の恵みの現われでした。
ヨハ3:16。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
  • アドベントのこのシーズンにイエス・キリストの苦しみの生涯を黙想し、神の恵みを深く覚える時としましょう。


A-2 ②Heb4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
  1. 私達は神のあわれみと恵みによって神と和解し、助け主聖霊を受けています。
  2. 天には審判の御座ではなく恵みの御座があり、イエス・キリストは、父なる神におりにかなった助けを送るようにと執り成してくださっています。自分で自分の信仰を強くすることのできない私達は、恵みによって大祭司であるキリストを通して、大胆に神に近づくことができ、神に近づこうとする者に神はさらに近づいてくださいます。恐れて引き下がる者には聖霊は与えられません。
  3. もっと大胆に祈っても良いのだ。その求めを神は喜んでくださいます。そして聖霊の語りかけに応答して神との交わりを深めて生きましょう。


B-1③Heb10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
1)自分の罪のために十字架についた神の子をあがめないで踏みにじる
2)十字架上の血は、自分達の罪をきよめるためのハギオスの血であるのに、一般のコノイニヤの人の血と同じようにみなした。
3)神の恩恵を理解させる聖霊を軽視して正しくしっかり聞かない
このような三重の罪を犯している者の罪は重い。さらに、一度クリスチャンになったユダヤ人がユダヤ教に戻るなら、この世に調子を合わせて世に戻って行くなら、最悪であって、再び立ち返る道はない。
6:6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
  • 聖霊により語られたみことばの聞き方を点検しよう。聞くことを怠ったり軽んじて自己中心になった時にはすぐに悔い改めて立ち帰らなくては危ないのです。

B-2④Heb12:15 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、
「神の恵み」「キリストによる救い」を全うするためには、すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求め 聖められる人生を歩まなくてはならない。そのためには、人はそのための注意深さを失い方向を誤ると、救いからこぼれ落ちることになる。そしてそれは、その人だけでなく兄弟姉妹までもが悪影響を与えることとなります。
  • 信仰から落ちこぼれないよう監督してくださっている牧師、リーダーに感謝し、兄弟姉妹でも、互いに謙遜に注意し合うことができますように。

A-3⑤Heb13:9 さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。
神の恵みによって生きることを理解せずに、食物=肉の満足、律法的 自分の忠実さ、頑張り、金者禁煙、責任を果たす、このようなことで自分の心を強めようとするならば、マルタのように、他の人をさばいたり、腹が立ったり、嫉妬したりするようになります。
礼拝行為、教会奉仕、あかし・伝道、献金 すべての行ないの動機の源が、神の恵みから出て来るものでないなら益とはなりません。
益となるものと、益とならないもの
ヘブル 4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
ヘブル 12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
ヘブル 13:9 さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。
ヘブル 13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。
  • 自分のすべての行ないの動機の源を点検して、それは益となることなのかを考えて、神の恵みを喜び、みこころに従う生き方を選び取って行けますように

A=B ⑥Heb13:25 恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。(アーメン)
  • 祝福だけではなくと注意・警告も含んでいることに注意したい。

原典によっては、最後にアーメンとあります。これは、礼拝でいうと祝祷にあたります。
 

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恵みによって祈る その2 頌栄と祝祷

2020-11-30 | へブル人への手紙
ヘブル
13:24 すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。
13:25 恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。



一つ前の段落を見ると、アーメンとあって、希求法での祈りが書かれています。
Ⅱ頌栄と祝祷 
13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、
13:21 イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなく(ありますように)。アーメン。
21節でアーメンと祈った後、5節文章が続いて、アーメンと言ったらもうおしまいではなかったのです。

アーメンで締めくくる祈りについて考えます

1個人的にアーメンと祈る時はどんな時でしょう。
賛美、感謝、告白、とりなし、自分の必要と祈り、神様にみんな聞いてもらえたと満足をして、最後に「イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と、はい、これでお祈りは! という定番の言葉のようであったことを悔い改めました。神との霊的交わりはずっと続くのですから。

2主日礼拝でアーメンと、どんな時に祈りますか?
途中で  最後に3回祈っています
1---礼拝の途中でのアーメン
招詞を聞いたり、他の人のお祈りを聞いたりして、ああその通りだなと思える時
2-A頌栄のアーメン
これは、礼拝讃美で、神に栄光と感謝と賛美を主に帰して、献身の思いを込めて高らかに歌う歌詞の最後はアーメンです。
  • 父・御子・御霊の大御神に とこしえ変わらず御栄えあれ 御栄えあれ アーメン
  • 栄えあれや 父と御子と御霊の 昔も今も変わらぬ神に ときわにアーメンアーメン
  • すべての恵みのもとなる神を 造られし者いざたたえまつれ アーメン

書簡の最後がアーメンという祈りで終っている書は多くあり、その内容が讃美の歌詞になっているようです。へブル書だけは特別に20、21と二節に渡って長いですが、それも頌栄にあたります。

2-Bb祝祷の後のアーメン
祝祷では、派遣の意味を込めてなされる祝福の祈りがなされます。それは、教会から、この世に三位一体の神とともに派遣されて行く祝福の約束に「アーメン」と言って祈っているのです。へブル書でいうなら、最後の25節の
「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように」にあたります。
  • 「仰ぎこい願わくは、我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神のご愛、聖霊の親しき御交わり 御前に集う一同とともに、今もとこしえまでも、豊かにあらんことを アーメン」
ただ恵みがあるだけではなく、その恵みをあかしし、伝道しに遣わされ、拡大していく意味を持っていると言えます。

3-C オルガンの後奏のあと
祝祷で終わらず、オルガンによる短い演奏を聞いて礼拝は終わることになります。牧師はオルガンの後もアーメンと言われます。
いっさいを神に委ねて、神の恵みと祝福を感じ、献身して遣わされることを自覚する大切な時だと言えます。

★祈って、アーメンと言ったら、すっと立ち上がって自分のことを考えていたことを悔い改めました。祈りの後の余韻も大切にしたいと思いました。

★聖書をone sittingで読んだ後も、デボーションの後も、読めた!、終わり! と立ち上がらずに、恵みによって与えられた内容を深く理解し、生活に適用し、献身して仕えよう。三位一体の神がともなって派遣してくださる恵みをかみしめる。そんな余韻をもって神のことばである聖書を綴じるようにと示されました。

★ このように、祈りは礼拝と同じであると、体験的に気付かせてくださったのは牧師でした。久しぶりに祈祷会で牧師と祈りのペアになった時、私が「イエスの御名によつて祈ります。アーメン」と言い終わってから頭を上げたら、牧師はその後少しの間をおいてから頭を上げられたので、あれっと感じたので、気になっていたのですが、その意味が今回の学びで解けました。霊性が浅い自分を自覚しました。
 

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恵みのよって祈る その3指導者たちと聖徒たち

2020-11-28 | へブル人への手紙
Ⅲ 指導者と聖徒たち

指導者達
13:24 すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。
どうしても挨拶をするように命じた対象が、指導者と聖徒と二種類に分かれて書かれているのでしょうか。考えてみました。指導者という言葉は、13章には2回出ています。

 13:7 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
 尊敬し見習うべき指導者とは、権威や地位で指導するのではなく、みことばを語って、納得説得して聖徒たちを指導する者。当座の、またその場限りの信仰ではなく、いつもどんな場所でもその信仰を貫いている指導者。そんな指導者を敬って、見習おうとしている聖徒たちは、一致して神の働きをして行くべきもものですから、よろしくと挨拶をする。

 聖徒たちはもちろん、指導者たちもその信仰・働きを全うしなくてはならないのは同じです。私達の教会の指導者が、働きの途中で嫌になってどこかに行ってしまうことなく、現在もこれからも、この言葉どおりであることを信じ、感謝します

 13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。
★聖徒たちの中には指導者聞き従わず、迫害を恐れて信仰につまずき教会を去った人がいた。ヨハネ16章に書かれているとおりであった。
★指導者は信徒以上の迫害や村八分を受けていたはずです。「しもべはその主人にまさらない」
指導者の役割は、
  • 将来神に弁明をする
  • 現在はたましいの見張りをしている 羊飼いのように寝ずの番
  • それを喜んでする場合と、嘆いている場合とがある。
  • 聖徒たちに益となることを願っている
益となることを調べる
1)みことばが、それを聞いた人たちに信仰によって結びつけられるように4:2
2)霊の父がご自分の聖さにあずからせようとして与える懲らしめを恵みとして受け取るように10:10
3)べ物やその他この世にことに気を取られることなく、主イエス・キリストから目を離さないように13:9


聖徒たち
 聖なる者、聖め分かたれた者、クリスチャン、兄弟と同義語。キリストの贖いによって世、罪と死の律法から分離され聖別された者。イエス・キリストの血によってきよめられ、その血に免じて罪がないとみなされ、神の御用に用いられるために世から選び出された者です。

 何人がユダヤ教に戻ろうと教会を去った後も、残って指導者達と一緒にこの手紙を聞いている人たち。 聖められ続けている人たちのこと。
このような人達に挨拶を送っています。
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