ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

寄せ植えづくりは、神の栄光を現わそうとして

2020-09-30 | 喜び
ヨハネ15章7-8節より
教えられた真理
イエスにとどまっている者と、イエスにとどまっていないで離れてしまう者がいる。
イエスにとどまっていない者は実を結ばず、取り除かれる。投げ捨てられ枯れる。火に投げ込まれ燃えてしまう。
イエスにとどまっている者には、より多くの実を結ぶために刈り込みがなされる。どちらにしても、鋏が入ることになる。
イエス様が望んでおられるのは、父が栄光を受けること。私達が多くの実を結び、イエスの弟子となること。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことば(レーマ)があなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。


明かされた霊的状態
イエス様がグレートコミッションで、弟子達に向かって、弟子をつくれと命じられた。弟子が弟子をつくって、その弟子が弟子づくりをして、はじめてこの命令に従ったことになる。弟子となったことになる。

私は、娘と夫を弟子としたが、夫はすぐに召され、娘は二人の子供と一緒に教会生活をしているが、遠隔地に住んでいるので、ほとんど弟子づくりはできていない。
多くの実を結んで行けるようになるのか不安に感じました

神様への応答・実践
私はロゴスとレーマを求めます。
15章7節の「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。」が、そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられますと未来形で約束されています。
私の欲しいものは何でしょう
①私は、キリストにつながって、キリストのみことばロゴスを聞き、覚え、思い巡らして、キリストにとどまり続けることを祈り求めます。
②聖霊が働いてくださって、みことばがレーマとなって、父なる神様がイエス様を通して、私に個人的に語りかけてくださることを祈り求めます。
求めるなら与えられることに信頼します。

恵みとあかし
今日の祈祷会の信徒説教で、へブル13章18節が語られました。神様は時にかなってみことばを実際に与えてくださることを体験しました。
私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。
祈りなさいという命令から始まる節でした.自分のために祈れというのではなく指導者であるパウロたちのために祈れと。
さらに私個人には、信徒の悔い改めを促す説教をしっかり語る牧師のためにも祈るように語られた。
祈りに力があるのだから、祈って確信するだけで終わらず、祈りから正しい行動に押し出されるようにと祈れと言われた。

教会の記念の祝会日に向けて、祝いの花を献品しようと、ホームセンターに行って、土や鉢、苗をたくさん買って来て、寄せ植えを作りました。園芸の上手な先輩、車の運転をして運んでくださる婦人会長と、ともに実際に働けたことを感謝します。さらに、この花も伝道に用いられ、主の栄光が現されることを求めます。





ひたすら求めよ 今も主は 誓いの御霊を与えたもう
  今も主は変わりなき 御手もて世人を救いたもう

努めよ救霊 今も主は 迷いし羊を求めたもう
  今も主は変わりなき 御手もて世人を救いたもう

疲れたる者に 今も主は 望みと力を与えたもう
  今も主は変わりなき 御手もて世人を救いたもう

御旨を行なえ 今も主は 栄光の冠を約したもう
  今も主は変わりなき 御手もて世人を救いたもう

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奥まった所で祈りなさい

2020-09-28 | 喜び
また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。マタイ6:5
  偽善者とは人前で演技する者。彼らはすでにその演技に対する報い、賃金、労賃をこの世で受け取っている。天国での報いはない。


あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。6:6
  祈ろうとするとき、自分の奥の部屋の中に入って行って、自ら父なる神の御前に出て父に祈れと命令されています。ある人は家が狭くてトイレで祈るとか。祈る時は妨げとなるもの、携帯などは手元に置かないで祈ろう。
  父なる神に見られている祈りは、すぐにかなわないかも知れないが、報いてくださいますと未来形で書かれて約束されているので、希望が持てる。


また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。マタイ6:7
 日本では、お経を何度も唱えたり、商売繁盛、家内安全などと決まり文句で祈っているようだが、それを誰が聞いているのかも知らず、それが聞かれるとは思ってもいない。


だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからですマタイ6:8
 時に祈祷課題が冊子となって配られる。それぞれ担当者が既に祈った結果、神様が示してくださった課題が書かれたものです。ですから、同じことを繰り返さないで、次のステップとして、私はどう考え、どうするべきかを、考えながら、祈り求めて、聞きます。
そうすれば、ともにいてくださっている神様は応えて語りかけてくださいます。奥まった部屋で神様と個人的な交わりを持つことができます。個人的な祈りの場所は「私の宝の部屋」です。

警告もあります。奥まったひそかな所をご覧になる主は、自分では隠しているつもりの心の奥底の不信仰、二心、疑いを知っておられる。いつまでも隠しおおせるものではなく、やがて明らかになり裁かれることになる。悔い改めて、告白するなら赦され、きよめられる。



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神の側にいる者の幸い

2020-09-26 | 喜び
 「掘り出された穴を見よ」と言われた言葉が心に残り、聖書を調べたら、イザヤ書51章に書かれていて、アブラハムとサラを指していました。アブラハムは神の選びによる祝福の約束のことばに従って故郷を出てカナンの地に向かった。後を振り返ることなく信仰によってひたすら前に、神に聞き従って歩んだ。

 私達が過去の「切り出された岩、掘り出された穴」どんなところから救い出されたのかを見ると、どんなに空しいところにいたことかと思わされます。社会的に文化的に善いとされることを努力してやっても虚しさを覚えるものでした。人の言葉や、自分自身の心に振り回されて平安がありませんでした。

 救われてから振り返ると、神を知らず、神に敵対していた者であって、滅びの人生であった。神にしか埋めることのできない空洞を心の中に抱えたまま生きていたのでした。そしてそのようなことを全く自覚していませんでした。そんな惨めな生活に戻ろうとは思いません。

 今、神のあわれみにより、神を知り、自分の罪を知り、イエス・キリストの十字架による贖いによって罪が赦されたことを信じ、罪の裁きから救われました。
神の側に立っています。
聖霊が私達の上に臨んで力を与えてくださいます。
どんな問題があっても御子イエス・キリストのみことばにより頼むならば乗り越えることができます。
遺伝的性質をも神は変えることができ、罪の力から解放されます。
神にとって不可能なことは一つもありません。

こうして、すでに赦された者ですが、まだ罪の性質が残っています。罪を自覚する時、悔い改めて主に委ねて祈ります。キリストのからだである教会では、みことばを学び、ともに喜び、讃美し、感謝して礼拝します。

今日9月26日の祈祷会の讃美の歌詞から、神の側にいる者、ぶどうの木にとどまっている枝の、神との豊かな交わりがある祝福を思い巡らせています。

一度死にし我をも イエスは生かしたまえり
咎と罪の代わりに 新たなるいのちあり
時の間をも惜しみて 君は我と語ろう
君は我を放たず 我はまた主にぞつく

流れ落つる涙も 肩に担う荷物も
君は知りてあわれみ 愛の御手伸べたもう
時の間をも惜しみて 君は我と語ろう
君は我を放たず 我はまた主にぞつく

うめき叫ぶ夜はなし 罪とえにし断ちし身
御座に近く安らい 天つ歌常に聴く
時の間をも惜しみて 君は我と語ろう
君は我を放たず 我はまた主にぞつく

病める我に手を置き 弱きところ強くし
まがに幸に励ます 主イエスこそ神にます
時の間をも惜しみて 君は我と語ろう
君は我を放たず 我はまた主にぞつく

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聖霊が臨まれると、力が

2020-09-25 | 喜び
教えられた真理
 ルカ 1:35 御使いは答えて言った。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます
 旧約の時代から長い間待って、とうとう時が来て、聖霊がマリヤの上に臨むことになった。その後、マリヤは「神にとって不可能なことは一つもありません。」「あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」と言って、生まれる日を待った。その子が聖なる者、神の子と呼ばれるまでは、さらに待たなくてはならなかった。

 神の救いの十字架の後三日目に復活なされ、40日間使徒たちに現れてご自分が生きていることを示された。昇天される前に、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と言われた。そして言われた
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

 エルサレムの屋上の間で五旬節の日まで10日間、使徒や婦人たちとみな心を合わせ、祈りに専念した後で、聖霊降臨が実際に起こった。その後、聖霊が臨んで力を得たものがキリストの証人となるという日々は現在までも続いています。

 このことから聖霊が神の選びの者の上に臨まれることの前と後には、待たねばならない時があることを知りました。 



明かされた自分の霊的状態
 私はこれまで「聖霊に満たされる」という言葉を軽く用いていたことを悔い改めました。神の力が臨むのですから、大きなみわざが起これることをもっと期待して祈り求めたら良い。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」ルカ 11:13 と言われたことばに正しく理解していませんでした。
 そして、証人として用いられることも、そうであったらいいなぁという程度に受け止めていました。聖霊降臨は、旧約時代と新約時代をつなぐ大きな節目となっているなあと思いました。

神様への応答、実践
 今、教会では、リバイバルを求めて10日間の特別祈祷週間をもっていて、朝に夜にと、会堂で、またzoomで信徒メッセージが語られ、祈りの課題に従って祈っています。毎回の原典から連続講解されるメッセージから、みことばを学び、丁寧に祈る時を持つようにします。ただ出席すれば良いのではなく、みことばから整えられ、心を合わせて祈ることにします。「神にとって不可能なことは一つもありません。」「あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」

恵みとあかし
 特別祈祷集会のプログラムをよく見直してみました。主日礼拝、定例祈祷会、連続講解メッセージ、自由箇所メッセージ、山上に登っての祈り会と、参加しやすいように組まれていることがわかました。
 自分の都合でその時々に、出席するとか、zoomにするとか、休むなどと決めるという姿勢であったことを悔い改めて、全体を見た上で、賜物に応じて、精一杯都合をつけて出席することにしました。祈りの姿勢が整えられ、聖霊の満たしとその結果の現われを待ち望む思いになれ、望んだことは必ずそうなると信じられることは神の力による奇蹟のようなことです。
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主からの警告と導き

2020-09-24 | 礼拝説教
教えられた真理
出エジプトのとき、イスラエルの民は
みなが雲の下におり、
みなが海を渡った。
みながモーセにつくバプテスマを受け、
みなが同じ御霊の食べ物を食べ、
みなが同じ御霊の飲み物を飲んだ。
ところが、大部分のものは神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされた。
現在の私達も、神のみこころにかなう生活をしていないと信仰を全うできなくなる。
ただ、みなと同じように真似をして喜んで楽しく教会生活をしているだけであるなら、はたして信仰を全うすることができるだろうか。
神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知っていく必要がある。


明かされた自分の霊的状態
 教会で奉仕するを際に、その仕事の意味、目的を神に喜ばれる動機と姿勢でやっているのかの点検をしていなかった。祈って神に聞くことを怠っていた。
 記念集会の日に、教会の玄関に寄せ植えを飾ることを自主的にやろうとしていたが、どうもスムーズに進まなかった。理由を考えたら、その方法が神に喜ばれるプロセスを踏むことに不十分で、自分の思いを押し通そうとしていた。自己満足を求めていたことに気づいた。


神様への応答、実践
自分の思い(田舎で庭づくりを楽しんでいたのが懐かしい。園芸の上手な彼女の前で私にもできることを見せたい。献品するのだから好きなようにしても良いでしょう)
これらの思いを主に委ねてしまいました。
★自分なりのやり方で植物を栽培していただけで、実はよくわかっていないことを認め、園芸の上手な人に、弟子にしてくださいとお願いした。
★下働きを積極的にした。植木鉢を洗う。古い土を捨てた。
★記念日の玄関の植物についての教会全体の企画があるかどうかを副牧師に確認した。
★土や苗の買い物は、車の運転ができる人に頼み、園芸の上手な人に同行してもらって、苗を選ぶのを手伝ってもらう
自分に死んだことにより、神様はこのように導いてくださいました。
自分が頑張ろうと思って委ねていなかったら、きっと疲れていたことだぅ。


恵みとあかし
高慢になって滅びることがないように具体的に戒めを与えてくださった。
御霊の岩からほとばしり出た水は川となって豊かにイスラエルの多くの人々を潤した。私は避難所での給水車から流れ出る水ぐらいを何となく想像していた。私の考える聖霊の満たしが、小さすぎました。
神が源でイエスが岩。水は聖霊を現わすのだろうか。謙遜に低くなり祈り求めるなら、日々みことばは応えて導き続けてくださっています。
第一コリント10章1-5節より


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