ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

今年に与えられているテーマの数々

2019-12-28 | 礼拝説教


私は、年末年始に、自らを振り返り、これまで自己満足に終始して、悔改めの祈りが足りていなかったことがチクチクと示された

さて、これから主がどう導いてくださるかと、考えることができる。一歩一歩、みことばに従順に導かれて行きたい

  1. 私自身、伝道が掛け声だけで、進んでいない。
  2. 与えられた学ぶ機会を、安易に聞き流して、生活に生かしていない
  3. 主幹牧師と副牧師以外に、訓練された信徒の中から副牧師化している兄姉がいるが、組織化されていない
  4. 新しい信徒が訓練され成長して、次々とリーダーとなっていく。そこで先輩信徒のあり方は
  5. 教会の高齢化を避けるために、若いお母さんたちをどう教会に招いて、伝道の時を持つか
  6. 受洗した姉妹の成長のための、個人的なサポートが数年間必要。弟子訓練プログラムの中で、どう進めるか


私は、社会に出て仕事やボランティアなどをするのではなく、キリストのからだにつながって、キリストの声を聞きながら、まず兄弟姉妹に、そして生涯キリストに仕えようと、具体的には何の働きもできないのに、思いだけはすっかり献身者のつもりになっています。

 

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牧師が急に召されても喜べるか

2019-12-28 | 喜び

主日メッセージの直後に、牧師が倒れた。
心臓の血管が詰まって、もしかしたらその夜に召されるかも知れないという
うろたえた。心配した。
前にも同じような事があり、ステントを入れて生還したので、今回もそうであって欲しいと願い祈った

幸いにも奇蹟的に助かって退院できて安心した。今年の春のことだった。

 

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです
第一テサロニケ5:16-18

 

喜べることを喜ぶことはいつでもできるが
「いつも」「すべての事について」喜び感謝することは、簡単にはできないことがある
しかし、喜んでいることも、感謝することも、神からの命令であると、クリスチャンは受け止めなくてはならない。

 

もし、私の教会の牧師が、また心臓が悪くなって、今度は急逝することになっても、泣き崩れて取り乱すことのないように
この年末に、このみことばに従えるように、祈って、備えることにする
いつも喜んでいなさい。」と 「すべての事について感謝しなさい」の間に、「絶えず祈りなさい。」があるから。

 

牧師にも、私達教会員も、死後は寝て目が覚めたら再臨の時。復活のからだが与えられて、天でキリストにお会いできる
これまで、彼のまわりに雲のように取り囲んで応援してくださっていた彼の信仰の先輩方にもお会いできる
書斎の中で、著書を通して霊的に教えられていた先生方と、天国でお会いできる(ロイドジョンズ・マシューヘンリ・・・等々
牧師にも、私達にも、神はいつもともにいて、いつまでも、どこまでも、導いてくださっている

牧師は40年の間、神の臨在の元、多くの人々を救いに招き入れて、弟子づくりをして来た。天国での報いはどれほどのものか
牧師の亡きあと、教会員は失望する必要はない。問題・困難も神からの訓練だと受け止めれば、成長する時となる
それまで牧師から与えられた教材などを、さらに深め、また拡大させて、次世代に継承していく課題が与えられる
教会はキリストのからだなので、牧師を失っても、それぞれの賜物が有機的に働いて、健全に成長していくことだろう

 

数年前に夫が召された時は、準備期間も十分にあったので、悲しい思いよりも、無事に天国に見送れたという喜びが大きかったことを思い出した

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創世記16章 ハガル。どこから来て、どこに

2019-12-28 | 通読・創世記

信仰の父アブラムの家庭には、罪、問題がたくさんあった。

二人して励ましあって、主が与えると言われた子供が生まれるのを待てなかったサライ。自分で判断しないで、サライの言うことを聞き入れたアブラム。

このアブラムとサライは、アダムとエバが罪を犯した時とよく似ている。神に聞かずに自分勝手に判断する罪をどちらも犯している。
しかし、神は約束のとおりに二人を祝福している。

 

 

ローマ章8章28節神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています

 

 

ハガルにも、神は祝福した。主はどうして、どの時点で祝福したのだろう。アブラムの子をみごもっていたからだったのだろうか?
そうではなく、ハガルは神と個人的に交わりを持ったからではないか思う。

み使いが「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこに行くのか」と尋ねられてこと。それに応答したことによる。
また、「女主人のもとに帰りなさい」という言葉に聞き従ったから、それで、彼女の子孫がふえることを約束を聞けた。

 

ハガルはアブラムのそばにいた時から、神について聞いていたから、み使いの声を聞き分けることができたのだろう。
また、ハガルはエジプトから連れ出された時から、すでに神のご計画によって召し出さりていたのだろう。

 

 

 

★伝道する際に、「あなたはどこから来て、どこに行くのか」と尋ねてみてはどうだろう。そして会話が続いたら、神のもとに帰りなさい」と言おう。

★アブラムも、サライも、ハガルも、間違いや失敗が多い。しかし、主からの祝福を約束された者として、赦されて祝福されている。
私も、神の計画より先走って考えたり、動いたり、口に出してしまうことが多いが、赦されて、それも益とされていく。感謝なことである 

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創世記15章 旧約最初の「恐れるな」と「主よ」

2019-12-28 | 通読・創世記

「アブラムよ。恐れるな。」と、アブラムは言ってもらって、
本当に恐れないで「神、主よ」と、大胆に、質問したりも自分の思いを語りかけている。


さらに、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるのでしょう。」
まるで、主に文句を言っているような言葉を発している。


その後で天を見上げ星を見て、「あなたの子孫はこのようになる」と約束をしてくださった。


彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 

そして、「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、かルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」また約束の言葉が与えられた。

 

その後、信じて義と認められたアブラムなのに、また文句を言うような口調で言っている。
「神、主よ。それが私の所有であることをどのようにして知ることができましょうか」

とすると主は、私達には不思議なやり方ですが、目に見ることのできる方法を示して、アブラムと契約を結んだのだ。

 

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ベタニヤのマルタを思い起こします
主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 10:41主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 10:42しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

マルタは主イエスから、名前を二回も読んで、たしなめ、教えておられる。マルタはそんな主のことばを聞いて、成長していったと思う。

私も、強がったり、無理をすることなく、「主よ。・・・・」と、大胆に訴えたり、嘆いたりしても良いのだと思った。


なぜなら、すでに、私は主の十字架と復活を信じて、救われて、義と認められているのですから。
主が聖霊で満たして、一歩一歩導いてくだっているのだから

今から、年末年始に実家に帰って、お父さん、お祖母ちゃんに、伝道しようとしている若い姉妹を励まして祈る会に、行ってきます。
彼女の上にも、恐れない大胆な祈りと求めを主が聞いてくださるように。

 

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創世記14章 いと高き神

2019-12-27 | 通読・創世記

へブル書5章と7章で出てきた、謎の大祭司メルキゼデクが、創世記14章に出てきている
ここには「いと高き神」が4回も出てきて、強調されているようです

 

彼(メルキゼデク)はいと高き神の祭司であった

「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造らた方、いと高き神より。神の側に立つ仲介者

あなた(アブラム)の手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ」 人の側に立つ仲介者

アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。」いと高き神を主と呼んでいる

 

メルキゼデクはいと高き神の祭司であった。

イエス・キリストは、いと高き神の側と、私達罪人の側の 両方に立ってくださる大祭司です

 

へブル4:15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。 4:16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 


さて、一人で食べる今夜の夕食は何にしようかと、暗くなった道を歩いていくと
おしゃれなフランス料理店の明るい店内が、半分垂れ下がったレースのカーテン越しに見える
ワイングラスや、大きなお皿を前に、カップルや家族連れが、豊かが時間を過ごしているよう。

 

いいなあ、美味しいお料理を食べたいな。リッチな雰囲気の中に私も・・・・・と思ってしまう
いやいや。気をつけないと、貪欲になったら、ロトのように身を滅ぼす
いつまでも過去を振り返っていたら、ロトの妻のように塩になってしまう

 

私が求めるは永遠のいのち、食べるのは神のみことば
着きたいのは、レストランの椅子ではなくて、神の恵みの御座
自分の弱さを認めると、大祭司であるイエス・キリストから慰めを受けます

 

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