ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

アモス書

2023-01-31 | 旧約聖書

アモス書

アモスは羊飼いであり イチジクを育てる農夫で、北イスラエルと南ユダの国境近くに住んでいました。北王国というのは第一列王記12 章にあるように、それより約150年前に独立しましたが、この時は軍事的指導にたけたヤロブアム2世が統治していました。彼はたくさんの戦いに勝利を収め領地を増やし富を蓄えました。しかし預言者から見ると彼は最悪の王の一人でした。豊かになった王は神への関心を失いカナンの偶像を拝むことを許し、その結果国には不正がはびこり弱者がないがしろにされたのです。アモスはそれに耐えきれなくなっていました。神の呼びかけに応じてアモスは北に向かい 大きな神殿のある大都市ベテルに行くと そこで神の言葉を伝え始めました。

アモス書は彼の数年にわたる説教 と詩と幻をまとめたものです。これらは 北王国に対する神のメッセージを神の民に伝えるために後年 まとめられたものですが、今日の私たちにも必要なメッセージ です。

 

この書の構成は明快です 1章と2章は国々とイスラエルに対するメッセージ
3章から6章はイスラエルとその指導者に対するアモスのメッセージが込められた詩集です
7章から9章はアモスが見た幻で、その内容はイスラエルに降りかかろうとしている神の裁きです

1-2国々とイスラエルに対するメッセージ

それでは詳しく見ていきましょう まずイスラエルの近隣諸国の暴力と不正を糾弾する短い詩が収められています。しかし奇妙なことに冒頭でアモスはイスラエルに向けて語ると言って いたのです。これはどういうことでしょうか。

アモスが名を挙げている近隣諸国の位置を地図で確認すると 円を描いていることがわかります。つまりイスラエルはその円の中心にあって、ぴたりと狙いを定められているかのようなのです。そのイスラエルに対してアモスは、ほかの国より3倍も長く厳しい調子の詩で非難しています。

彼はイスラエルの金持ちが弱い人々をないがしろにし 国が不正にまみれるのを気に留めず、
特に貧しい人を借金のかたに奴隷として売った上彼らの訴えに耳を貸さないことを糾弾しました。
これがかつてエジプトで不正に苦しみ 奴隷にされていた状態から神に救われた民族のすることだろうか、
とアモスは嘆きます。もう充分でしょう神の忍耐もここまでです

 

3-6 イスラエルとその指導者に対するメッセージ

次のセクションはその理由の説明から始まります。私は地上のあらゆる民族の中からイスラエルを選んだ と神は言います。これは創世記12章の 神がアブラハムの家系を国々への祝福のために選んだという箇所を指しています。そしてだからこそ私はお前の罪 を罰すると神は言うのです。イスラエルはすばらしい召しを 受けましたがそれには大きな責任が伴いました。だから彼らの罪と反逆は重大な結果を招くのです。

このセクションにはアモスの詩がたくさん収められていますが そこにはいくつかのテーマが繰り返し登場します。
まずアモスは何度もイスラエルの富裕層と指導者たちの 宗教的偽善を暴いています。
彼らは宗教行事には熱心で 捧げものや犠牲の供え物を携えてくるのですが 貧しい人や社会不正には気にも留めないのです こんな礼拝はごまかしにすぎず、神はそれを忌み嫌う とアモスは言います。
彼らの人に対する態度が礼拝とは まるで結びつかないからです。
もし本当に神との関係が築けているなら、人との関係も変わるはずだと神は言っています。

真の礼拝とは 公正が川のように流れ、が絶えない谷川のように流れることだとア モスは言いました。この二つの言葉はアモスにとって またすべての預言者にとって非常に重要なキーワードです。

ヘブル語のツェダカーとは社会的地位に左右されない正しく公平で平等な人間関係のことです。
公正すなわちヘブル語のミシュ パットとは不正を正し義を生み出すためにとる具体的な行動のことです。
この二つは干からびた川を急流が満たすように、神の契約の民に浸透するべきです。

 

アモスが繰り返し糾弾しているもう一つのテーマは イスラエルの偶像礼拝です。
北王国は南ユダ王国から分裂した時、ソロモンの建てたエルサレム神殿に対抗するため神殿を2つ建てました。金の子牛を設置した神殿を2つ建てまし。 これは第一列王記12章に記されています。
それ以来イスラエルは性の神、天候の神、戦いの神などに対する偶像礼拝を重ねてきました。預言者に言わせれば、イスラエルがこれらの偶像を拝むとそれは必ず不正に繋がるのです。というのも、これらの神々はイスラエルの神のように公正や義を求めないどころか、その神々自体が不道徳な存在だったからです。

しかしイスラエルの神は違います。イスラエルの神は私を求めて生きよと言い続けて、悪ではなく善を求めて生きよと言っています。創造者であるイスラエルの神を礼拝することと 惜しみなく与え正義をもって善を行うこととは同じことなのです。

そしてこのセクションの最後のテーマは、イスラエルとその王が アモスと他の預言者たちを拒絶したため 神は主の日をもたらすだろうということです。
これはイスラエルに下る大いなる恐ろしい裁きです。アモスは強い国が攻めてきてイスラエルの街を征服し 虐殺し、民を捕囚として連れ去るだろうとはっきり言いました。そしてそれが実現したことは周知の事実です。約40年後攻め寄せてきたアッシリア帝国が アモスが語ったとおりのことをしました

7-9 アモスの幻

アモス書はアモスが見たいくつかの幻で終わっていますが その内容は主の日を象徴するものです
アモスは、イスラエルがまずはイナゴ、
次に焼き尽くすによって滅ぼされる幻を見ました。
さらに熟れた果物のように飲み込まれる幻も見ました。
そして最後の幻でアモスは 神がベテルにあるイスラエルの巨大な偶像の神殿の柱を打ち 建物が崩れ落ちるのを見ました。これは イスラエルの指導者と偶像の上に下る神の裁きを表しています ついに終わりの時が来たのです。

 

最後に希望のしるし

ところが最後の段落まで来ると 突然一筋の希望の光が差し込みます。イスラエルは崩壊した建物にたとえられていますが 神はその廃墟からいつの日かダビデの家を再建すると言います。
つまり将来ダビデの家系からメシアなる王が現れ その王が神の民の家を建て直し、驚くことに その家族にはすべての国の人々が含まれるのです。 イスラエルの罪とそれに対する神の裁きによって引き起こされた荒廃は、その日一転して様相を変えるのです。

この最後の段落こそ重要です これが裁きの別の面にある唯一の希望のしるしだからです。 そしてこのことを通してアモス書が神の義とあわれみについて 教えてくれる書だということもわかります。神が善なる方であるならば、神はイスラエルや他の国々の悪を裁き対処しなければなりません。しかし神の最終的な目的は、世界を回復し新しい契約の家族を作ることなのです。

アモスの言葉を通して今の時代 を生きる私たちもイスラエルの偽善とそれが招いた 災難から学び、神に真の礼拝を捧げる様にと招かれています。その真の礼拝とは公正と義と隣人 愛に結び付くものです。これがアモス書です

 

(10) アモス書 Amos【概観】 - YouTube

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ヨエル書

2023-01-30 | 旧約聖書

ヨエル書の特徴

預言的な詩を集めたこの書は短くも力強く謎に満ちています。ヨエル書には他の預言書とは違う特徴がいくつかあります

  • まず書かれた時期がはっきりしていません。エルサレムとその神殿についての記述がありながら、そこに王がいない様子から捕囚から帰還したあとのエズラ・ネヘミヤの時代ではないかと考えられます
  • もう一つの特徴はヨエルが聖書に精通していた点です。彼はイザヤ書、アモス書、ゼパニヤ書、ナホム書、オバデヤ書、エゼキエル書、マラキ書、出エジプト記から引用しています。
  • このことはもう一つの特徴にもつながってくるのですが、ヨエルはイスラエルを非難しながら その罪を特定していないのです。他の預言者と同じように、彼もイスラエルの罪に神の裁きが下ることを告げ知らせますが どの罪のためとは言いません。まるでヨエルと同じように読者もすでにほかの預言書を読んでいて、イスラエルの反抗について知っているという前提に立っているかのようです。

この3つの特徴はヨエル書を理解するのに役立ちます。つまりヨエルは自分の時代より前に書かれた聖書を熟知していて その知識を通して現在の悲劇を理解し 同時に将来への希望も持っていたということです。ではこの書を詳しく見ていきましょう

1章と2章でヨエルは主の日に焦点を当てています。これは預言書のキーワードで神が民を救うために、あるいは悪と対決するために 力強く現れた過去の出来事を言っています。たとえば出エジプトの十の災いのように 預言者たちはこれらのことを神がまた イスラエルそして近隣諸国の罪に立ち向かい 全世界に救いをもたらす未来の出来事を指し示すものと考えていました。

この1章と2章で彼はこのテーマ について語る2つの類似した詩を並べています。

1-過去の「主の日」

1章は過去の主の日について語ります。 イナゴの群れによる災害がイスラエルを襲いましたが これはエジプトに対する主の日である 十の災いの8番目をなぞるようにして書いています。 ただし今回イナゴが差し向けられたのはイスラエルです。

そこでヨエルは、その民を悔い改めと祈りに導くよう長老や祭司たちに呼びかけ、自分も彼らと一緒に悔い改めます

2a-未来の「主の日」

続く2章も同じ構造で同じメッセージを伝えます。別の主の日について書かれていますが、 今度は過去ではなく未来の主の日で エルサレムに災いが訪れようとしているのです。
またイナゴの災害のようですが、ヨエルはそれを とてつもなく大きな軍隊が攻めてくるイメージとして書いています。イナゴは騎兵隊のような神の軍隊で その通る道のすべてを食いつくしていくのです。 太陽は暗くなり地は震え恐ろしい主の日を 誰が耐えられるだろうかとヨエルは言います
そして再び人々に祈り悔い改めるよう促し 衣ではなく心を引き裂き神に立ち返れと呼びかけます。
つまりヨエルは人々が表面的な悔い改めで ごまかそうとしていることを知っていたのです 彼は神が求めるのは民の本当の改心で 彼らが自己中心と悪を手放すことだと言います ヨエルは神は情け深く憐れみ深く怒るのに遅く 愛に満ちているから、イスラエルは悔い改めるべきだと言いました これは出エジプト記34章でイスラエルの民が金の子牛を作った 後の箇所を引用しています。ヨエルは神の憐れみと愛は 神の怒りと裁きより強いことを知っていました だからこそ彼は祭司たちに悔い改めて祈り 民を救ってくださるよう願えと促したのです

 

2b-神の応答

 この2つの詩のあとに場面は変わり、ヨエルと民の悔い改めに対する 神の応答が紹介されます。
神はご自分の地を愛し、ご自分の民をあわれまれたと、そして神は主の日の破壊をあがない 裁きを救いに変えると言ったのです。
神はまずイナゴの様な恐ろしい侵略者を打ち負かし 破滅へと追いやります。それから荒れた地を癒して命を与え潤し、ついには神がその民の間に臨在するのです。

これらの詩を通してヨエルはイスラエルに、彼らの罪が破滅と神の裁きを招いていること、しかしそこに神のあわれみと希望もあることを示してきました。ヨエルは過去の出来事を来るべき主の日に重ねて見ています

 

2c-3-来たるべき「主の日」

なので最後のセクションでは 神の3つの応答に応じる3つの詩を書き 他の預言書からのイメージも織り込みながら 全世界の希望を表す幻に仕上げているのです。

① まず民の間に現わされる神の臨在の希望が いつの日か神の命溢れる臨在である聖霊が神殿のみならず 神の民全体を満たすという約束に拡大されています。 そしてヨエルはここで神の霊が神の民を造り変え力で満たし 真心から神を愛して従えるようにするという約束を イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書から引用しています。

 

②ヨエルは次に、神がやがてイスラエルを脅かす侵略者に立ち向かうという約束を取り上げ、ここに出てくるイナゴに、彼の時代のイスラエルを侵略する 暴力的な国々を重ねています。そのためイザヤ書、ゼパニヤ書、エゼキエル書にある将来の主の日の約束 すなわち神が国々の悪に立ち向かい彼らの暴力を彼らの頭上に返し すべての悪を正して正義をもたらすという 約束を引き合いに出してい③ まるで新しいエデンの様に神の臨在が川のようにエルサレム から流れ出しすべてが造り変えられるという 約束を引用しているのです。

 

③そして最後に回復された国土のイメージを語るヨエルは そこに新しくされた世界の希望を見ます イザヤ書、エゼキエル書、ゼカリヤ書から 最後の正義の日のあとに全世界が回復され まるで新しいエデンの様に神の臨在が川のようにエルサレム から流れ出しすべてが造り変えられるという 約束を引用しているのです。

 

こうしてヨエルの詩は神の赦しとあわれみが、新しい創造を呼び覚ますところで 終わります。ヨエル書というこの短い書は 人間の罪と過ちがこの世界にどんな荒廃と破滅を引き起こしたか また自分の罪を認め告白した人々に対し 神がどれほどあわれみを示そうとしているかについて 深く考察しています。そしてこれらのことは神がいつ の日か世界の悪と私たちの中に宿る罪を打ち負かし 癒し、すべてを新しくしてくれるという 希望を示しているのです

これがヨエル書です

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ホセア書

2023-01-30 | 旧約聖書

ホセアはイスラエルと 南ユダ王国に分裂した約200年後のイスラエル北王国に 住んでいました。彼は北王国のことをエフライム またはヤコブと呼ぶこともありました。

ホセアはイスラエル史上最悪の王の一人ヤロブアム2世の時代に 神からのことばを語るように任命されました。その頃北王国は混乱を極めていて紀元前722年になると 恐ろしい巨大帝国アッシリアがイスラエルに攻め込んできて 国を破壊しました。ホセアはその悲劇が迫りくるの を見ていたのです。

ホセア書はそんな時代の25年間 にホセアが語ったこと、書いたことを集めたものでほとんどが詩の形式です。3つのセクションに分かれていますが、それぞれを詳しく見ていきましょう

1-3章ホセアとゴメルとの結婚

まず冒頭はホセアと不貞を働いた妻ゴメルの結婚が破綻した話から始まります。ゴメルがほかの男性たちと関係を持ったのが結婚前からなのか結婚後なのかはわかりません。

ただホセアと彼女の間には3人の子供がいて その家庭は崩壊してしまいました。

しかしここでゴメルの不誠実にも かかわらず神はホセアに彼女を探しに行き彼女の恋人たちへの借金を払い、もう一度愛と誠実をささげよと 言ったのです。そして破綻し修復された結婚子どもたちなどはすべて、神とイスラエルの関係を語るための 預言的な象徴だと言いました。

神はイスラエルに対して誠実な 夫のようでした。奴隷だった彼らを救い出し シナイ山まで連れてきて契約を結んだのです。そしてイスラエルにも自分に対して誠実であるように願いました。しかし約束の地に導かれたイスラエルは そこで神からの贈り物をたくさん受け取っておきながら カナンの偶像バアルに捧げたのです。ですから神にはイスラエルとの契約を破棄し 離婚するもっともな理由がありましたし、そうすることも出来ました。しかし実際にはそうする代わりにイスラエルを改めて愛し 契約を新しくすることにしたのです。なぜでしょうか それは彼の愛とあわれみと誠実さのゆえです。

ホセアはこのことについて詳しく説明しています。神に反逆したイスラエルには他国に侵略され捕囚にされるという報いが迫っていました。けれども将来回復されるという希望もあったのです。いつの日かイスラエルは悔い改め、神を礼拝するために戻ってくるでしょう。そして神は彼らの上にダビデの血筋のメシアなる王を立て、王は民に祝福をもたらすとホセアは言いました。

つまりこの最初のセクションで この書全体のテーマが紹介されているのです。イスラエルは反抗しそれに対して神は厳しい裁きを下すが 神の契約の愛とあわれみはイスラエルの罪に打ち勝つということです。

 

4-11イスラエルに対する非難と警告

続くセクションではホセアは詩を用いてこのテーマをさらに深く掘り下げ ていきます。イスラエルに対するホセアの非難と警告は、二つのセクションで語られていますが、そのどちらも神のあわれみと 未來への希望に満ちた詩で締めくくられています

4章から10章では、ホセアはイスラエルの不誠実さの原因とその結果について述べています。まずイスラエルには神に対する知識と理解が欠けていると繰り返し言っています。ヘブル語では知ることをヤダア と言いますが、これは単に知識として知っている ということではなく、個人的な関係において知っているという意味です。誰かについてただ知っているだけではなく、その人柄を深く知っているということです。神はイスラエルに ご自分のことをそのように知ってほしいと願っていました。神との個人的な関係の中で神の愛を体験し 心と生き方を変えるような知識を身に付け 自分のほうからも神を愛するようになってほしかったのです。

だからこそホセアはイスラエルの偽善的な礼拝を何度も非難しました。彼らが十戒を破り深刻な社会的不正を見逃しながら聖なる神殿におもむき 何も問題ないといった態度で犠牲をささげることを繰り返し指摘したのです。しかし実は問題だらけでした。彼らは偽善的だっただけではなく偶像礼拝もしていたのです。ホセアはベテルとギルガルにあるバアル の祭壇について何度も言及しています。

また彼らが偶像礼拝だけではなく、政治的同盟国のエジプトや アッシリアにも忠誠を誓っていたことを繰り返し責めています。イスラエルは神の守りを信頼する代わりに、他の国々のように軍事力だけを頼みとしたかったのです。 そこで神は、もうすぐそれがすべて自分に降りかかってくると言いました。というのも、アッシリアは間もなくイスラエルに牙をむき、その国土を略奪するからです。

 

12-14更なる非難と警告

 警告を与えるもう一つのセクションの中で ホセアはイスラエルの歴史を引き合いに出して 彼らがいかに初めから不誠実だったかを示しています。たとえば創世記27章と28章にあるヤコブの嘘と裏切り。民数記にあるイスラエルの荒野での反抗。サムエル記第一にある民を罪と災難に導いた 堕落したサウル王の話を例に挙げ、この民族に脈々と受け継がれる 罪を指摘しました。

 

それでは彼はどんな希望をもって いたのでしょうか。3章を見ると神はご自分の民を救い、回復するために何かをするとあり それはこの2つの結びの章の中で明らかにされます

11-未来の希望

 11章は感動的ですこの詩の中で神は息子イスラエルを育て すべてを与えた父親として描かれていますが 大人になった息子は父に反抗し、父の寛大さにつけこみました。そのためこの詩に描かれる神の心はかき乱されています。ある時は怒りに燃え当然のことながら裁きを下すと言います。しかし次の瞬間神の心は引き裂かれ 慈悲とあわれみの気持ちでいっぱいになり 愛する息子を赦そうとするのです。

神は8節でエフライムを引き渡すことなどできない、あわれみで胸が熱くなると言って います。つまり神はイスラエルが罪の報いとしてアッシリアに征服されることを許しはしましたが、それで終わりではなく、まだ希望が残っているのです。

 

14未来の希望

最後の章はそれについて述べています。ホセアはイスラエルに 悔い改めて神に立ち返るように呼びかけますが 彼らがそうしても長続きしないと知っています 今までもそうでしたから。神はいつの日か、彼らの頑なな心を癒し、思う存分彼らを愛すると言いました。そして癒されたイスラエルをしっかりと根が下ろされ 枝は広がり青々と茂り涼しい木陰と果実を国々へ提供する木にたとえています。

これは神がアブラハムに約束したことの象徴で、イスラエルがすべての国々に祝福を もたらすことを表しています。そして神はこれが実現するためには 神の恵みと癒しの力が必要だと言っています それによって堕落したイスラエルの民の罪深い自己中心が癒され 神の愛を受け取り、神を愛することができるようになるからです。これが神の約束なのです

 

この詩の後に付け足しのような 最後の言葉が記されています。これはおそらくホセアの詩を集めた著者が読者に言いたかったことなのでしょう。
知恵がありこれらを悟る者はだれか。これらとはホセアの詩のことです。
主の道は平らだ。正しい者はこれを 歩み、背く者はこれにつまずく。つまり著者はホセアが北イスラエルに向けて書いた詩の内容は 過去に限ったものではないと言いたいのです。これは神の性質と目的、そして人間の性質についての深い真理なのです。そして神は人間の罪を義をもって 裁きますが、究極の目的はご自分の民を癒やして救うことです。これがホセア書です

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奉仕が与えられている幸せ

2023-01-12 | 旧約聖書

エペソ人への手紙
 6:5 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。 

聖霊に満たされなさいという命令に続いて、妻たちよ、夫たちよ、子供たちよ、に続いて奴隷たちよと言われている言葉です。
私は、キリストのからだである教会で奉仕する時、キリストの「しもべ」となった気持ちで、奉仕しなくてはならない。
キリストは、全知全能の神の子であり、救い主であり、また裁き主でもあります。
私は、恐れおののいて従う姿勢で聞き従う真摯な姿勢ではなかったことを悔い改めます。


6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。

人に見られるところでは熱心に働き、人からの評価が良いと喜んでいて、隠れたところで見ておられる主を忘れています。私の心、たましいを聖霊で満たしていただいて、神のみこころをはっきり意識して、人ではなく神に喜ばれる姿勢で働こう。
具体的に、手抜きをしていた仕事が明らかにされて、フォローができて感謝でした。


 6:8 良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。

奉仕の前に静まって祈ることで、いわゆる世の中で言われる善行ではなくて、みこころにかなった、その時に私に求められている良い奉仕を見極めて、一つ一つを忠実に働きます。地味な仕事であっても、忍耐が必要な仕事であっても、一度にたくさんが与えられても、段取り良く、着実に。報いは天国まで待たなくても思って、案外すぐに、それも想像をはるかに越えて豊かに与えられることを体験的に知っています

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声を上げて、心を注ぎ出して祈ること

2023-01-11 | 旧約聖書

クリスチャンになってからは、怒りや悲しみで、神にも人にも、泣いて訴えたことがない気がする。夫が召された時も、悲しかったけど神様には感謝の祈りをした。人を恨むことがあっても赦すように命じられているし、裁きは神がなさるので私は委ねることにしている。最悪、悲惨に状況に陥っても、ともにおられる神が万事を益としてくださる。命を落とすことになっても行先は天国であるいう、ノーテンキでいる。混乱状態に陥りたくない。これ以上の悲しみや苦しみはない!!という状況下にいる人には、馬鹿にされるだろうか。

 

バイブルプロジェクト 哀歌の文字起こしから

 

哀歌この書は5つの詩からなる旧約聖書 の独特な書です。著者の名前はわかりませんが エルサレムの陥落を生き延びた人物です 詩の内容はバビロンに包囲され陥落した都と民が捕囚にされる 様子を描いています。この出来事は第二列王記に記されています エルサレムの陥落と民の捕囚はそれまでのイスラエルの歴史の中で 最も恐ろしい大惨事でした。

 

神はアブラハムに新しい土地を 約束していました。そしてイスラエルの首都エルサレム を建てるためにダビデに勝利を与えたのです ダビデの子孫は代々王となってきました 神は神殿に臨在して祭司たちはその神殿でイスラエル の礼拝に伴う儀式を行ってきました。この500年に及ぶ歴史の末に紀元前 587年の夏その都がバビロンによって陥落 させられたのです。すべてが滅ぼされ街は廃墟になりました 哀歌はその悲惨な記憶とこの破滅のあとのイスラエル人の 混乱を記しています

 

嘆きを歌った詩は聖書の中で珍しくなく詩篇にはたくさんあります。そして聖書の嘆きの詩にはいく つかの意味があります。それはある種の抗議の詩であり この世界で起きている見過ごすことのできないひどいことに人々や神が目を向けるよう訴えるものです。また感情を整理する手段でもあります 人の罪のせいで起こる悲惨な出来事への怒りや動揺を こういった詩の中で発散させているのです また混乱を表現する方法にもなっています

苦しみは神のご性質や約束に対する疑問を生じさせますが 聖書はそれらの疑問を軽視するどころか大事なこととして扱います 嘆きの詩は人の苦しみに敬意を表し尊厳を与えていま こうして神に向かって嘆く人間の言葉が 今やご自分の民に対する神の御言葉となっているのです

 

5つの詩の構成は非常に意図的でそれ自体がこの書のメッセージ の一部になっています1章から4章はアクロスティック と呼ばれ行の最初の文字が22字からなるヘブル語のアルファベット で始まっています。このしっかりと整った構成が 苦痛に満ちた嘆きの詩の混乱した内容と対照的で あたかもイスラエルの苦しみがaからzまで進んでも語り尽くせ ず表現できないことを表現しようとして いるかのようです

 

1章と2章は 一つの字につき一つの節という同じ構成でありながら テーマは全く異なります。1章はシオンと呼ばれる女性の嘆きと恥に焦点を当てています。詩の中でエルサレムは擬人化されて 未亡人あるいは娘シオンと呼ばれ一人 寂しく座っています。彼女は愛する者を奪われ 打ちひしがれていますが慰めてくれる人はいません これは強烈な隠喩です。そしてシオンは主に向かって声 を上げ、自分の境遇に目を向けてください と訴えます。このたとえを通してこの詩は エルサレムの壊滅によってイスラエル人が受けた心の傷は 愛する者の死と葬儀を体験するのに匹敵することを示している のです

2章はエルサレム陥落に焦点を当て それがイスラエル人の罪の結果であり 神の怒りがもたらしたものであることを描き 怒りがこの詩のキーワードになっています。ここで重要なのは聖書における 神の怒りとは、理由もなく気まぐれに発せられる ものではないということです。聖書の中の詩や預言書は この言葉を神の正義という意味で使います イスラエルは神と契約を結びました。しかし何世紀にもわたってほかの 神々を拝んだり弱者を抑圧して不正を働いたり してこの契約を破り続けてきたのです 神は怒るのに遅い方ですが最後にはこの人間の罪に正義をもって 怒りを燃やし罰というかたちでそれを表します エルサレムの場合はそれがバビロンに街を征服されるという 形でやってきました。この詩は神の怒りを正当なもの として描いています。その上で詩人はこの悲劇を嘆き 神にもう一度あわれんでくださいと願っているのです

 

3章は1章と2章とは違って1字につき3節あるので この書の中で最も長い詩になっています。自分の苦しみを嘆く孤独な男性 が語っていますが、これは民全体の声を代表したもの です。そして興味深いことにこの章は 旧約聖書の別の書からの引用で満ちています ヨブの嘆きの詩、詩篇の中の有名な嘆きの詩、 またイザヤ書の苦難のしもべの詩もあります そしてこの詩は彼の苦しみを2章で言っている通り神の裁きの ゆえだと見なしているのです。逆説的なようですがそのことが 著者に希望を与えこの書の中で唯一の希望の言葉 を語らせているのです。

主の契約の愛のため私たちは滅び なかった。主のあわれみは尽きず朝ごとに 新しい。神よあなたの真実は偉大である 私のたましいは言う。主こそ私の割り当て。それゆえ私は 彼に希望をおく。

この詩は神が預言された裁きを 間違いなく実行する方なら最終的には悪に勝利するという 約束もまた間違いなく果たされるだろうと結論付けています だからこの詩における神の裁きは未来の希望の苗床なのです

 

4章は1章と2章と同じ1字につき1節のスタイルに戻り 2年間のエルサレム包囲について生々しく心がかき乱されるような 描写をしています。そして過去のエルサレムの様子 と包囲されてからの悲惨さを比べ ています。
以前は道端で遊び笑い声をあげ ていた子供たちが今は食べ物を乞いごちそうを食べて いた。
金持ちはほこりまみれのものでも食べられる ものはすべて食べます。
まばゆい身なりの高貴な人たち は飢えに苦しみ汚れはて誰だか見 わけもつきません。
そしてダビデの子孫である油注 がれた王は捕らえられ連れ去られました
これらの対比がイスラエルが自ら招いた苦しみの深さをえぐりだし この詩にすごみを与えているのです。

 

最後の詩はこれまでのパターンを崩す独自のものです ほかの章と同様22節ありますがアクロスティックにはなってお らず、まるでもはや整った形を保てず 嘆きがほとばしり出て乱れてしまったようです。この詩は神のあわれみを乞うイスラエル 全体の祈りなのです。イスラエルは自分たちの苦しみ を無視したり見捨てたりしないでほしいと神 に懇願しています。この詩には都の陥落によって打ち のめされたあらゆる種類の人々が挙げられて います。彼らは他の人々のために嘆き彼ら の苦しみのために声を上げ、彼らを忘れないでくださいと神 に願っています。この書においては黙って苦しむ ことは美徳ではありません。神の民は感情を押さえつけるの ではなく声を上げて訴え神の前にすべて注ぎ出すように 勧められているのです。

 

哀歌は逆説的な終わり方をしています 神は永遠に世界の王であることを認めつつ この悲惨な状況はイスラエルに神などどこにもいないかのように 感じさせると言っているのです。結びの言葉はこの矛盾を残したまま あなたが本当に私たちを退けたのでなければと締めくくります 心地よくすっきりと終わらないこのエンディングは 私たちのリアルな痛みと苦しみのようです 聖書のストーリーはこれで終わりではありません しかしこの書は嘆きと祈りがこの損なわれた世界を生きる信仰 の旅路にとって重要なものであることを示しています これが哀歌です

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